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●アジア

アカ族(ハニ族・イコー)
 元は中国雲南省に居住していたが、現在はそのほかビルマ・ラオス・タイ・ヴェトナムに分布する、海抜800m以上の土地に住む山岳民族。女性の銀細工が鮮やかな帽子というより兜の着衣や、ブランコを用いた儀式、きめ細やかな刺繍で有名。「ハニ族」は中国での名称で、「イコー」はタイでのアカ族の蔑称。独自のアカ語を持ち、文字はなかったが、現在はアルファベットを用いた表記が定着している。アミニズム信仰から水の精霊を畏れ、からだをめったに洗わない。一方、キリスト教の信仰も広まっているが、これは文字の伝達と同時にやってきたとも、双子や障害を持った子が生まれると殺してその家を焼くという風習から逃れるためであるともいう。儀式として犬を食するが、自身の先祖を犬だと考えているため、飽食はしない。日本の鳥居としめ縄によく似た門を作る。

ASEAN(東南アジア諸国連合)
 タイ・インドネシア・シンガポール・フィリピン・マレーシアの5ヶ国により、1967年に発足した地域協力機構。1984年にはブルネイが、1990年代にはヴェトナム・ラオス・ミャンマー(ビルマ)・カンボジアが相次いで加入し、現在は10ヶ国の加盟となっている。政治介入をできるかぎり行わない協調主義が特徴。

インドシナ戦争
 第1次インドシナ戦争は、第2次世界大戦終了後に日本軍が引き揚げ、ホーチミンがハノイにヴェトナム民主共和国を立ち上げたことを認めず、南ヴェトナムにコーチシナ共和国を開いて軍を進めたことに始まり、ディエンビエンフーでの戦闘で惨敗した結果、北緯17度線で二つの国家が分断された形で固定される形となった。第2次インドシナ戦争では、ドミノ理論(冷戦下で共産主義の蔓延を危惧したアメリカの理論)のためにフランスの傀儡国家であった南ヴェトナムを引き継ぐ形でアメリカが北ヴェトナムのゲリラとの戦闘に入り、撤退を考えたケネディ大統領の暗殺を経て泥沼化し、空中戦・地上戦を繰り広げて枯葉剤の散布やゲリラ部隊殲滅のための一般民への暴行・虐殺などを引き起こした。1973年にアメリカ軍が撤退、1975年にとうとうサイゴンが陥落して終結となった。俗にいう「ヴェトナム戦争」のことだが、この戦争は南北ヴェトナムのみならず、ラオスやカンボジアへの相当量の爆撃が含まれているため、この表記を採用した。実際、ラオスに投下された爆薬は北爆(北ヴェトナムに対する爆撃)の2〜3倍の投下量になると言われている。また、この戦争でのヴェトナムとアメリカの対立構造はこののち、カンボジアで人民の大虐殺を行ったクメール・ルージュ(ポル・ポト派)を駆逐したヴェトナムの傀儡政権としてスタートしたヘン・サムリン政府を認めないアメリカがポル・ポト派を含む4派を中国などとともに支援するという、カンボジアにとって実に不幸な構図を作った。当然、我らが日本はアメリカに追随したという愚を犯している。

エア・アジア
 マレーシアの航空会社。機内サーヴィスなどを切り離し、チケット販売を旅行代理店ではなく直接販売をすることなどによって格安の販売をしていることで知られ、東南アジアを中心として人気を博している。

乾季(寒気)
 東南アジアにおける3つの季節の一つ。スコールが多い雨期明けの11月あたりから乾季に入り、2月に暑季に入るまでをいう。その名のとおり降水がほとんどなく、気候も穏やかである。北部では冷え込むため、寒気と紹介されることもある。旅行ではこの時期がハイ・シーズンとなる。

シャンティ国際ボランティア会(SVA)
 アジアの教育・文化支援を行うNGO。1980年に曹洞宗ボランティア会として、タイのカンボジア難民キャンプに絵本を届けることから活動開始。現在ではタイのほか、カンボジア・ラオス・ミャンマー・アフガニスタンに活動を広げている。

タイ・ヤイ語(シャン語・ラーンナー語・カム=ムアン)
 タイ・ヤイ族(シャン族)の使用している言語は、文字の造型的にはビルマ語からの影響が感じられるが、音声や文法的にはタイ語(特に北タイ方言)・ラオ語(ラオスの国語)との関連性が高く、共通する言葉も多い。

タイ・ヤイ族(タイ族・シャン族・パイ=イ[白夷]族・タイ・ルワン族・タイ・ロン族・ギアォ族)
 主にビルマのシャン州とカチン州・タイのチェンラーイ県とチェンマイ県・中国のシップソン・パンナー(シーサンパンナ・西双版納)に居住する民族。インドのアッサム地方に住むアホム族もタイ・ヤイ皇族の末裔である。広義には現在タイ王国の多数民族であるタイ族と同じ民族であり、ともに6〜7世紀に中国南部から南下移住したとされている。「タイ(tai)」(タイ王国やその民族を表す「タイ(thai)」とは発音と声調が違う)はタイ・ヤイ族自身による名称で、「タイ・ヤイ」はタイ人から、「シャン」(タイ王国の旧称「シャム」と同義)はビルマ人からの呼称であり、「パイ=イ(白夷)」は中国人から、「ギアォ」はタイ・ユワン族からの蔑称である。「ヤイ」は「大きい」という意味で、「タイ・ヤイ」は「大きなタイ族」という訳になる。これと対照になるのが「タイ・ノイ」で「少ないタイ人」と呼ばれていたが、中国方面からの民族移動で別の経路を辿ってシャン州に落ち着いたといわれるサルウィン川を隔てたおのおののタイ・ヤイ族の、西岸居住組をタイ・ヤイ、東岸居住組をタイ・ノイと呼んだとされる。また、現在のタイ王国の多数民族であるタイ(thai)人は、このタイ・ノイの子孫ではないかという説もある。ビルマ語に似た独自の文字を持つが、言語的にはタイ語・ラオ語(ラオスの国語)に類似している。人口約200万人で、ビルマ国内では2番目に多く、人口の9%を占める(ビルマ族は68%)。イギリス統治時までは州にサオ・パ(一般的には「チャオ・ファー」、ビルマ語では「ソーボア」)と呼ばれる国王が地域ごとに存在したが、パンロン会議体制の崩壊とともに公式な自治権を失った。その一方、ケシの栽培などを資金源に私兵を組織し、1980年代まではビルマのシャン州・タイの最北部・ラオスの西部一帯の「ゴールデン・トライアングル」と呼ばれている地域は、各政府の力の及ばない治外法権区域であった。中でも民族解放軍リーダーであり麻薬王と呼ばれたクン・サ(クンサー)が有名である(クン・サの父親は中国国民党軍残党の一人であり、母親はタイ・ヤイ族)。現在、タイとラオスでは他地域とまったく変わらない行政区となり、ビルマではミャンマー政府軍との間に停戦が成立しているが、強圧的なミャンマー政府の姿勢と、頻発する暴行事件・強制労働・搾取などから、SSA-Northなどの私兵は政府軍と散発的に衝突している。このため、ビルマ国内のタイ・ヤイ族はタイや中国への移住を望む者が多い。2010年に、22年半ぶりに行われた選挙での組閣で、サイ・マォ・カム(多くの日本の記表記では「サイマウカン」と記されている)が医師出身の民間人として第2副大統領に選出されている。

チャイ
 インドで飲まれている甘口のミルク・ティー。大阪にはこのチャイを飲ませる店が多い。クミン・カルダモン・シナモンなどのハーブが加えられたりもする。

トナゥ(トゥア・ナゥ)
 いわゆる納豆のことで、ビルマのシャン州・北ラオス・北タイでよく見られる。日本とは違い、豆をすりつぶして使い、流通しているのは主に、それを乾燥させて薄焼きせんべい状にした円形のもの。特にタイ・ヤイ族(シャン族)はトナゥを自分たちの民族の代表的な調味料であると捉えている(日本ではさしずめ醤油の位置づけ)。

バイク・タクシー
 アジア諸国に見られるオートバイを用いたタクシー。物品の宅配も業務として取り扱っているし、渋滞のすり抜けもなんのそのであるが、雨が降るとお手上げであるほか、運転が危険なものも多く、値段が交渉制なのでぼられる可能性もある。タイではモータサイ、カンボジアではモトーと呼ばれている。

ハラール(ハラル)
 イスラム教信者に許された食材・食事のこと。イスラム教では豚・犬・虎・キツツキ・ロバ・ラバなどを食べることを禁じているほか、その他の肉も基準に沿った処理がなされていないと口にすることができない。その過程を経たものはハラールとなる。

ポイ・サンロン
 7〜8歳以上の少年たちの出家を祝うタイ・ヤイ族の得度の儀式。色とりどりの民族衣装を着てコン・モン(複数セットになった音階付きの銅鑼)、コン(バタ・ドラムに似た手打ち太鼓)、セーン(手打ちシンバル)の3ピースでリズムが打ち出され、それに合わせて踊り、3〜4日間祝われる。出家する少年たちはまず終えらで剃髪し、美しい衣装に着替える。食事は大人たちがスプーンで与え、建物の外の地面を踏んではいけないという決まり事から、大人たちが少年を背負って綺麗な傘をさしてもらいながら家々を訪問し、祝福を受け、功徳を与える。夜には主催者が舞台にミュージシャンや劇団を呼んだりカラオケ大会が始まったりして、大人たちは朝まで酒宴が続く。まとまった出費が必要となるため、ビルマ内の村では毎年開催されるわけではないが、タイ国内では盛大なメー・ホーン・ソーンのワット・パーン・ローやワット・バーン・ムー、ワット・チョーン・カムなど様々な寺院のほか、チェンマイのワット・パパオやパーイのワット・トゥンヤォなどで行われることで知られ、タイ政府観光局の後援を受けて毎年行われている。

ミズオオトカゲ
 インドからフィリピンにかけて生息し、水辺で生活するオオトカゲ。大きいものでは体長2メートル半、体重25キロに達する。バンコクではルンピニー公園の池が有名。

メコン
 僕は子供の頃、社会科の時間に「メコン川」と習ったが、この川はタイ語で「メー・ナーム・コーン」と言い、最初の「メー・ナーム」の部分が川を意味するので、つまり、本当のところ川の名は「コーン川」と表記するのが正しい(ただHPでは、こうした名称で記したところで知名度がないので、「メコン」という表記を使用した)。チベット高原を源とし、中国雲南省ビルマ、ラオス、タイ、カンボジアを抜けてヴェトナムのメコン・デルタから太平洋に通じる世界的大河。

モン族
 ビルマ・タイなど東南アジアに定住する少数民族。かつてはスワンナプーム王国・ハリプンチャイ王国・ペグー朝などを建てた。独自のモン文字を持つ。タイではビルマ国境付近に多く、大がかりな難民キャンプも設置されているほか、バンコクではノンタブリー、プラプラデーンに居住区が見られる。鮮やかな刺繍を用いた衣装や鞄作りなどでも有名である。インドシナ戦争時、ラオスの共産化を恐れた米軍がモン族を利用して兵士に仕立て上げたが、局面が悪化すると彼らを置き去りにして戦争を終結させたため、ラオスでは虐殺を含む迫害を受け、難民としてタイやアメリカに脱出したことは、看過できない国際問題となっている。

ランナー王国
 北タイのチェン・マイとチェン・ラーイ、北東ビルマのチャイ・ントーン(ケン・トゥン)、中国のチェン・ルン(景洪)、ラオスのチェン・トォーン(ルアンパバーン)などの城郭都市を持つ山岳地帯にあった王国。マンラーイ王のもと、1259年に成立し、タイ族を中心に繁栄したが、1558年にビルマの支配を受けたのち、タイのチャクリー王朝の中央集権のもとに組み入れられて消滅した。



●インドネシア

コモド・ドラゴン
 フローレス島とスンバワ島の間にあるコモド島にすむ世界最大のオオトカゲ。体長3m、体重100kgにも達し、鹿や水牛・豚・馬などの大型動物を主食とすることから、人間も襲われることがある。



●韓国

チヂミ
 薄っぺらいお好み焼き状の食べ物。ニラがきいている。

チマチョゴリ
 韓国の女性衣装。胸元から下がスカートになっているのが大きな特徴。女学生用のセーラー服にも採用されているが、それ以外では原色のきらびやかなものが多い。



●カンボジア

アンコール・ワット
 かつてのクメール帝国の王都に建つ壮大な石造りの寺院であり、東南アジアを代表する世界遺産。フランス植民地下で森に眠るアンコール・ワットが「再発見」されて多くの人間に知られるところとなった。かつて、日本人カメラマンの一ノ瀬泰造がクメール・ルージュの「解放区」となっていたアンコール・ワット撮影に挑み、再び戻ってくることはなかった。シェムリアップが最寄の町となっていて、ここで宿泊してアクセスするのが一般的。

キリング・フィールド
 カンボジア各地にみられる、クメール・ルージュが国民の大量粛清を行った跡地。プノンペン郊外にあるものが有名で、観光名所となっている。発掘された頭骸骨、掘り返した痕の穴、実際に子供たちの頭をぶつけて殺害したという木の瘤などが見られる。

クメール
 カンボジアを意味する。「カンボジア」は比較的新しい名称だが、クメールは昔からのカンボジア国、カンボジア人、カンボジア語を差す語。

クメール・ルージュ
 ポル・ポトがカンボジアに開いた社会主義政党。内線の勝利により、1975年から79年までカンボジアを牛耳って極端な独裁政治を行い、粛清の名の下に国民の3分の1にあたる120〜170万人を殺害したとされる。政権を失ってから後もヴェトナム主導政権への脅威から中国などの後押しを受けて主要4派の一つとなり、長らく国土の数分の一の実効支配を行うほか、ゲリラ活動も行っていた。現フン・セン首相の恩赦政策により多数の主要メンバーが投降してから急激に支配力を弱め、ポル・ポト病死(※)後には最後の砦アンロンベンも明渡すに至った。日本では「ポル・ポト派」の名で知られている。
 ※ 実際は病死ではなく、ポル・ポトが国際法廷に引き出されるのを恐れた内部粛清での死去ではないかという見解が強い。

チャム・イェム
 カンボジアとタイをつなぐタイ湾沿岸国境のカンボジア側の地名。国境以外に殆ど何もなく、旅行者の殆どはここを通過して、橋を渡るタクシーやバイクタクシーで15分程度で着くココンに移動する。

トゥール・スレーン刑務所
 もともと学校だった建物を利用し、クメール・ルージュがかつて「S21」という名で尋問所・処刑場として利用した施設。プノンペン市街にあり、写真や実際に使用された拷問器具などを展示し、現在では観光名所となっている。

プレア・ヴィヘア
 カンボジア領にあるクメール寺院の遺跡。断崖絶壁に臨んだロケーションにあることで人気が高いが、そ立地条件のため、現在はタイ国境を越えてのアクセスでないと訪れることができない。たびたびタイとの国境問題の火種となっており、幾度となく国境ゲートの閉鎖と開放を繰り返している。この問題はタイ側が1962年に国際司法裁判所から出されたカンボジアの領有権を認めており、2008年7月のカンボジア政府からの世界遺産認定申請をタイ政府も認めていたが、野党・市民団体の猛反発に遭い、一時期は両国から警備兵が集められて衝突する事態にまで陥っていた。一般への開放は1992年より。

フン・セン
 現カンボジア首相。元はクメール・ルージュに属していたが、ヴェトナムに逃亡。1979年のカンボジアへのヴェトナム軍進駐に乗じ、その後政権を手にする。カンボジア初の国民投票では彼の民主党は第2党となり、第1党フンシンペック党の党首ラナリット氏が第一首相、彼が第二首相の座に就いたが、クーデターにより唯一の首相としてその座をものにした。

ポル・ポト
 かつてのクメール・ルージュ党首。カンプチア民主共和国の首相(1075〜78年)。パリ留学時に知り合った同士とクメール・ルージュを結成し、アメリカに依存したロン・ノル政権を打倒。政権奪取後、極端なファシズムによる統治で未曾有の国民粛清やあまりに急激な毛沢東主義による農業化を推し進めた。ヴェトナムの進駐によるヘン・サムリン政権に首都を奪われてからはタイ側国境周辺に実効勢力を持つカンボジア主要4派の一つとなったが、徐々に勢力は減退し、ポル・ポト自身は世紀末に死亡した。その死自体も粛清であったと囁かれている。同時に、クメール・ルージュも実質上瓦解。



●シンガポール
ホーカーズ
 街道での屋台が廃止されたシンガポールでは、その代替飲食所として街角のいたるところに雑居食堂を用意した。それがホーカーズである。大小さまざまあるが、おおむね麺ものや粥の店、ビールやドリンクを売る屋台風キッチンが並んでいて、中華料理、マレー料理、インド料理が同じ場所に居並んでいたりする。

リー・クァンユー
 シンガポールの近代化の父である元首相。マレーシアから分離独立したものの、淡路島くらいの大きさしかない東南アジアの小国家であったシンガポールをNIES国のひとつとして、飛躍的に経済化させた。港湾や外資導入の自由化を徹底する一方、金銭にシビアである中華系の多い国民構成を逆手に取り、ガムを道に捨てたり横断歩道が側にあるのに使用しないことで課金するような厳しい罰金制度で国民マナーを見違えるように向上させた。シンガポールは現在、アジアのネット基地としての地位を築いている。



●タイ

アープナーム
 水浴びのこと。一年を通してほとんどの期間が30℃を蒸し暑いタイでは、アープナームが欠かせない。一日に一度の入浴が常識となっている日本とは異なり、タイ人は帰宅したとき、出かける前、汗を多くかいたとき、就寝前、寝起き、機会があるごとにアープナームするので、家に帰っても寝る前まで入浴しなかったり、人と会う前にアープナームしないことをタイ人は不思議に思っている。

アソーク(通り)
 スクンヴィット通りソイ21の通称。北と南でラチャダー・ピセーク通りと名を変える。ソイとはいっても道幅は広く、交通の要所である大動脈。地下鉄がその下を走っており、スクンヴィット通りとの交差点ではBTSとも連絡している(BTSの駅名は「アソーク」だが、地下鉄の駅名は「スクンヴィット」)。周辺の再開発が目下進行中である。

アヌサワリー
 バンコクで有名なのはラーチャティーウィー通りとパホンヨーティン通り・パヤタイ通りが交差するアヌサワリー・チャイサモラプーム(戦争記念塔)で、BTSの駅もあり、普通バンコクで「アヌサワリー」というとここを差すが、カオサン通り近くのラーチャダムヌン・クラン通りにある民主記念塔の名称も「アヌサワリー・プラチャティーパタイ」という。ラオスのヴィエンチャンにも旧宗主国であるパリの凱旋門を模したアヌサワリーがある。

アヌポン・パオチンダー
 2006年軍部クーデターのリーダーとなったソンティ・ブンヤラットカリンの後任として、2007年に陸軍司令官となる。バンコクの第1管区の司令官という立場で同クーデターに参加したほか、2010年のUDDデモ鎮圧の総責任者に任命された。軍事暫定政権時のスラユット元首相からの信頼が篤いと目されている。

イサーン
 タイ東北部の地域を指す。作物の育ちにくい赤土(ラテライト)の土地が広がり、タイ国民の中にも貧しい地域だというイメージがある。実際、バンコクでタクシーやトゥクトゥク運転手・土木作業者・娼婦・スラム居住者などにはイサーン出身者が多い。ただ、一概にイサーンといっても広大な地域なので、それぞれに地域性がある。コーンケーンやウドーン・ターニーなど、コラートから北に向かう地域は比較的華やいだ印象があるが、ブリーラム、スリン、スリ・サケット、ウボン・ラーチャターニーといったカンボジアに国境を接する南部イサーンは地味な印象で、より貧乏県であるといわれる(ここにヤソートーン、ローイエット、マハー・サーラカムなどを加えて考えてもらってもよいと思う)。ちなみに、イサーンといえばカォ・ニャオ(もち米)を連想するが、カンボジア国境に近い地域ではカォ・スァイ(一般の米)を主食とする。

ウィエン・ティエン
 マーカブーチャーなどの仏教行事がある夜、線香や蝋燭を持ってお寺の本堂の周りを3周する習わし。願い事が叶い、徳が積まれるという。

ヴィラ・マーケット(ヴィラ・スーパー)
 1974年創業のスーパー・マーケット。高級志向で、ワインやハムなどの品揃えが充実している。正式には「ヴィラ・マーケット」で、看板にもそのように記載されているが、なぜか日本人からは「ヴィラ・スーパー」の名で親しまれている。

ウォーキング・ストリート
 パタヤーの南にある遊歩道。パタヤー・サーイ・ヌン通りがパタヤー・タイ通りと交差する先に延びている。シーフードをはじめとするレストラン(各国料理店が居並ぶのもパタヤーならでは)やオープン・バー(ムエタイ・ショーが見られるリングを構える店もある)、土産物屋、コンビニエンス・ストア、ホテル、ゴーゴー・バーなどが軒を連ねている、パタヤーきっての繁華街。南に抜けると、桟橋に出る(この桟橋は、かつては北に抜けた位置にあった)。このさらに南は岬をはさんでジョムティエン・ビーチになっている。

ウォンウィエン・イーシップソーン・カラカダー(7月22日ロータリー)
 第1次世界大戦参戦記念として開通したイーシップソーン・カラカダー通り(7月22日通り)に接して作られたロータリー。周囲は雑然とした雰囲気で、いくつかの旅社では夜になると娼婦が戸口に立っている。以前はこのロータリー自体もうらぶれた雰囲気だったが、リニューアルされた。沈没型バック・パッカーに人気のジュライ・ホテルはこのロータリーに面したところにあったが、1995年10月30日に閉鎖されている。また、同じく安宿として人気のあった台北旅社や、谷恒生の小説で名を知られていたが2005年に閉鎖となった楽宮旅社もすぐ近くにある。

ウォンウィエン・ヤイ(駅)
 タイ語で「ウォンウィエン」とはロータリー、「ヤイ」は大きいことを意味する。文字どおり、タークシン大王の記念碑が建った大きなロータリーのことである。この周辺は、すでにバンコク都内よりはずっと庶民的な雰囲気を漂わせた地域となっているが、BTSの延伸による開発が進むと変化してしまうかもしれない。ウォンウィエン・ヤイ駅はロータリーから少しだけタークシン通りに入った東側にあり、ここは駅舎もほとんど存在していない。道路から単線のレールの上にすぐ入れるようになっており、片側しかないプラットホームには売店や屋台が並んで、非常に駅らしくないのが面白い。この路線はマハーチャイ駅までの約1時間を走るタイ国鉄のローカル線である。マハーチャイから先、渡し船で川を越えた向こうのバーン・レーム駅からメー・クローンまで行ける。

運河ボート
 東洋のベニスと謳われたバンコクには、フェリーやボート、手漕ぎの小舟など、さまざまな形で川や運河をゆく水上交通形態が残されているが、公共交通機関の運河ボートとして知られているのは、セーン・セープ運河〜マハナーク運河のそれぞれ一部を走るもの。ミンブリーのワット・シー・ブンルアンから、マハカーン砦のたもとであるパンファー橋までを結んでいる。正式な名は不明。渋滞知らずで料金も安いが、運河の悪臭や、乗船時のアクシデントで運河に落ちる危険性、そして増水時には運休もあるという欠点もある。

エアポート・リンク
 パヤタイ駅からスワンナプーム空港までを結ぶ高架鉄道。各駅停車のシティ・ラインと、空港からマッカサン駅までノン・ストップのエキスプレスとがある。マッカサン駅では将来飛行機のチェック・インができるようになる予定。駅は西からパヤタイ、ラーチャプラロップ、マッカサン、ラームカムヘーン、フアマーク、バーン・タップチャーン、ラート・クラバン、スワンナプーム。2010年8月23日に正式開業している。

エカマイ
 スクンヴィット通りソイ63の別称。ソイでありながら、北側がペッブリー・タット・マイやラマ9生通りと交差しており、その先はエカマイ=ラームイントラ通りと名を変えて北上している主要幹線である。また、南端向かいにはエカマイ・バス・ターミナルがあり、主に東部方面への長距離バス発着所となっていて、このそばにBTSエカマイ駅がある。2004年ごろから徐々にクラブなどのお洒落スポットが増加し、渋滞の名所にさらなる追い討ちをかけるようになった。2009年1月1日の火事で消失した人気クラブ「サンティカ」はエカマイ沿いにあった。

エンポリアム(・デパート
 1997年にスクンヴィット・ソイ24の入り口に開業した高級百貨店。タイ2番手のデパート・グループであるザ・モールの経営で、サイアム・パラゴンと同系列となる。その立地から日本人客も多く、店内放送も日本語が聞かれ、出店も日本のものが多い。しかし、なぜか紀伊国屋は洋書専門店として営業している。ベンチャシリ公園に隣接している。

オリエンタル・ホテル(マンダリン・オリエンタル・バンコク)
 バンコク初の西洋風ホテルとして1887年、チャオプラヤー河畔にオープン。サマセット・モーム、ジョゼフ・コンラッド、ノエル・カワード、ジェームス・ミッチナーの逗留で知られ、現在スイート・ルームにその名が冠されている。ほか、タイ・シルク王として知られるジム・トンプソンも贔屓にした、バンコクで最もその名を知られたホテルである。1974年、香港のマンダリン・グループが買収し、2008年からは「マンダリン」の名を加えている。きめ細かなスタッフの対応に定評がある一方、ドレス・コードに厳しく常連と一見客との扱いの差が激し過ぎるという非難もある。バンコクを訪れた観光客はアフタヌーン・ティーや食事、スパ、ショッピングなどのために、宿泊しなくても訪れることが多いようだが、ホテル文化は自身の趣味に合わないので、噂はすべて聞き書きでしかないので、あしからず。

ソイ・オンヌット(スクンヴィット・ソイ77)/タノン・オンヌット
 スクンヴィット通りの大動脈ソイの一つで、東に延び、スリ・ナカリン通りから先はタノン(通り)・オンヌットと名を変えて、途中からラート・クラバン通りとなってスワンナプーム国際空港の北に出る(そののち、ルアン・ペーン通り、テパラート=ラート・クラバン通りとなってバーン・パコン川の近くまで続く)。以前から渋滞のひどい道だったが、スワンナプーム空港までのアクセス路の一つとなってからは、さらに拍車がかかっている。スリ・ナカリン通り沿いのシーコン・スクエア、パラダイス・パークといった大型ショッピング・コンプレックスがオンヌットとの十字路に近い位置にあることもその原因の一つである。また、スクンヴィット側のパーク・ソイにはカールフールが、そこはらほど近いBTSオンヌット駅前にはロータスがある。この記述どおり、BTSオンヌット駅はソイ・オンヌット(スクンヴィット・ソイ77)には近いが、接してはいない。2000年開通のBTS終着駅だが、2011年8月にはこのスクンヴィット線がベーリンまで延長予定。

カイ・ヤーン
 カイは鶏、ヤーンは炙り焼きを意味する、文字通りタイの焼き鳥。日本のそれやマレーシアのサテーのように一口大の肉を串に刺すのではなく、タンドリー・チキンと同じく腿、手羽先、胸などパーツごとに大きくカットしている。炭火での焼きたては当然のように涎モノだが、冷めても美味しいのが素晴らしい。イサーンの主だったバス停では売り子をよく見かけるが、それも当然であろう。ブロイラーではないことも含めて、日本人には概ね喜ばれる味であろう。よく「ガイ・ヤーン」という表記を見かけるが、発音は濁音より清音に近い。

カオサン(通り)
 サナーム・ルアン(王宮広場)に近い、バンコクの安宿街。現在もバック・パッカーの聖地となってはいるが、2002年頃から急激にタイの若者がこの周辺のしゃれたパブやクラブに集まるようになり、華やかで健全なナイト・スポットに変身した。また、これに乗じてもはやゲストハウスとは呼べない価格設定のホテルが立ち並び、もう数年すれば「安宿街」という形容もできなくなるものと思われる。

カォ・ソーイ
 タイで呼ぶ場合には、北タイ名物の麺料理を指す。炒め玉ねぎの香りがきいたカレー風味の汁に、ゆでた麺と、カリカリにフライした麺の2種類を入れるのが特徴。ラオスやビルマのシャン州では唐辛子が効いた肉味噌入り平麺のクウィティアウのことを「カォ・ソーイ」と呼び、両者はまったく別の料理。

カォ・トム
 お粥。エビ・イカ・白身魚・カキ・チキン・ポークなどの具を入れるのが一般的。「ルアム・タレー」と言えば、シーフードということで、海の幸をあれこれ入れてくれる。また、同じお粥でも米粒が形をなくすくらいに煮込まれた重湯に近いものは「チョーク」と呼ばれて区別される。

カォ・パンサー
 日本語では入安居と呼ばれるらしい。仏門につかえる僧たちがこの日から一斉に寺の外への外出を控え始める。それが解けるオーク・パンサー(出安居)までには数ヶ月ある。その期間内、僧侶は寺の中での修業にいそしむ。

カォ・プラ・ヴィハーン
 カンボジア領にあるクメール寺院の遺跡。断崖絶壁に臨んだロケーションにあることで人気が高いが、その立地条件のため、現在はタイ国境を越えてのアクセスでないと訪れることができない。たびたびタイとの国境問題の火種となっており、幾度となく国境ゲートの閉鎖と開放を繰り返している。この問題はタイ側が1962年に国際司法裁判所から出されたカンボジアの領有権を認めており、2008年7月のカンボジア政府からの世界遺産認定申請をタイ政府も認めていたが、野党・市民団体の猛反発に遭い、一時期は両国から警備兵が集められて衝突する事態にまで陥っていた。一般への開放は1992年より。

カォ・マン・カイ
 いわゆるチキン・ライス。中華系の料理だが、タイには広く浸透している。

カォ・ニャオ
 もち米。日本では食する機会が少ないが、タイでは殊にイサーンで主食とされている。バンコクでもイサーン料理店・屋台に必ずある。また、甘味ものとあわせてデザートとして食べられることも多い。塩焼きにしたものがビールのつまみとしても屋台に見られる。

カォ・ニャオ・マムアン
 熟れたマンゴーと、ココナツミルクで炊いたもち米のデザート。甘いものコンビだが、もち米のちょっとした塩味とココナツミルクの南国風みな甘さと、マンゴーの上品で控えめな甘さとの連携プレーは素晴らしい。

カッド・スアン・ケーォ
 チェンマイ初の一大ショッピング・コンプレックス。2008年ごろまでチェンマイで最も大きかったが、チェンマイ空港に近いセントラル・エアポートの拡張リニューアルによってその座を譲り、出店に空きが目立つようになった。

カントン(廣東生鍋麺食)
 スキー(いわゆるタイスキ)のレストラン。これまでサイアム・スクエアの南東ブロックに2店舗のほか、シーコン・スクエアにも支店をもっていたが、現在ではどちらも閉店となっている。個人的に最も好きなタイスキの店だっただけに、すわ廃業かと焦ったが、バンコク側からプラ・ラーム8橋を渡ってすぐのところに新店をオープンしていたのでほっとしている。名前からもおわかりのとおり、著名なタイスキ店の中では最も中華風で、スープの出汁がよくとれており、タレは甘め。具材がどこよりも豊富なのが嬉しい。ここのルークチン・プラームック(イカ団子)は一度試してみる価値があると思う。新店の場所は次のとおり。New Canton Suki & Noodle, 1858/1 Suwannin Place 1st Fl, Charansanitwong 40, Bangyeekan, Bangplad, BKK 10700 Tel:02-883-5691-2

キー・キアット
 タイ語で「ものぐさ」「怠け者」の意。タイ人は時間に遅れたり、何事か面倒くさがったりする言い訳にこの言葉をよく使うが、悪気はない。

金行
 タイで金を扱う店。赤字に金文字がトレード・マーク。タイ国内では中華系がこの職業を100パーセント独占しており、加工費を除けば、どこでも重さあたりの適正統一レートで売買されている。銀行貯蓄より金による蓄財への信用が高かったことから、タイでは女性が金をアクセサリーとすることを非常に好む傾向がある。

クウィティアウ(クイッティオ)
 小麦粉で作るバミー(中華そば麺)とは違い、米で作られた麺。太さによってセン・ヤイ(きしめんを太くした感じ・生麺)、セン・レック(薄い葛きりくらいの太さ・乾麺)、セン・ミー(そうめんよりも細い・乾麺)に分けられ、どの店でも好みによって種類を選べる。

クーカム(メナムの残照)
 第二次世界大戦前後のトンブリーが舞台となっている、日本人将校のコボリとタイ人女性のアンスマリンの悲恋物語。タイ人女流作家トムヤンティの原作で、「メナムの残照」と題され、日本でも訳書が発売されている。何度も映画化・ドラマ化され、チンタラー・スカパープやバード(トンチャイ・メーキンタイ)といった国民的スターによるヴァージョンは特に有名で、放映時間帯にバンコクの渋滞が緩和されたという。一時期、日本人を見かけるとタイ人が「コボリ」と声をかけたそうだ。バンコク・ノーイ駅舎の傍らに碑があったが、現在この周辺はシリラート病院拡張工事で再開発中であり、碑が残されるかどうか気になる。

クラティン・デーン
 オーストラリアが本社である「レッド・ブル」の、タイでの商品名。二頭の牛が角を突き立てあっている姿のトレードマークで有名。M-150が販売されるまでは、タイの栄養ドリンクの代表格だった。その成分は本社のものと違うようである。

クラトーン(カトーン)
 バナナの葉で作られた、パイのような円盤形の籠。11月に行われるローイ・クラトーンの際に、花で飾り、火のついたろうそくと線香を立て、切った自分の爪と髪の毛を入れて水辺に流す。最近のクラトーンは、環境への影響を考え、バナナの葉の代わりに乾パンを用いたものも増えている。

クルンテープ
 首都バンコクのタイ呼称。「天使の都」という意味を持ち、実際は「クルンテープ・マハーナコーン・アモーン・ラッタナーコーシン・マヒンタラー・ユッタヤー・マハー・ディロッカポップ・ノップララッタナー・ラーチャターニー・ブリーロム・ウドム・ラーチャニウェート・マハーサターン・アモーンラピマーン・アワターン・サティット・サッカタッティヤ・ウィッサヌカム・プラシット」といい、世界一長い首府名となっている。デュオ歌手の大御所であるアサニー・ワサンがこの長い呼び名を歌にしてヒットさせた。R音を用いる場合にほとんど舌を巻かない癖を持つ一般タイ人の話し言葉では「クンテープ」と聞こえ、日本語としてもこのような表記をしている場合もある。

クルン・トンブリー通り
 バンコク市街地側からタークシン橋で結ばれており、BTSの高架が建設されている大通り。2001年頃まではタークシン通りまでしか伸びていなかったが、ラーチャプルアック通り・カンラパプルアック通りと結ばれており、交通の大動脈となっている。

クレット島
 バンコクに隣接したノンタブリー県にある、チャオプラヤー川の中洲になっている島。もともとはチャオプラヤー川の蛇行が見られる岸であったが、1721年に蛇行部を繋ぐ形でラートクレット運河を掘削したために、親指の先を横から見たような形でクレット島ができた。現王朝であるラッタナーコーシン朝が始まると、ビルマから移住していたモン族が集められ、この地で陶器作りや菓子作りを始め、現在では島を訪れる観光客に人気のお土産となっている。政府からの開発制限があり、島内には緑がふんだんに残され、最も大きな島内環状路でも歩幅にして4歩程度しかないため、自動車は走っていない。

クローン・タン
 安売りの家電街で知られるプラカノンから続くソイ・プリディ・パノムヨン(スクンヴィット通り・ソイ71のことで、旧称ソイ・プラカノン)の北端に位置し、ラームカムヘーン通りやペッブリー(タット・マイ)通り、パタナカーン通り、ラマ9世通りにも続き、まさに交通の要所。ボートの走る運河もここで交差しており、そもそも「クローン・タン」ももとはと言えば運河の名前である(「クローン」は運河の意味なので、正確には「タン運河」という意味)。周辺は庶民的な雰囲気がある。

クロントゥーイ
 バンコクの行政区のひとつであるが、プラ・ラーム4通りの南・プラ・ラーム3通りの東・プラカノン運河の西・チャオプラヤー川の北あたりの一帯を指すことが多い。シーラチャーに近いレーム・チャバーン港が開かれるまでは、バンコクの船の荷揚げ港として知られた。現在でもその機能の一部を果たしており、この辺り一帯は港湾地区である。また、アジアで2番目に大きなスラムとしても知られており、簡素な造りの家が軒を連ね、細い路地しかない場所が多く、消防車が入れないために大きな火災に見舞われることがしばしばある。こうした状況の改善のため、プラテープ財団や日本のSVA、そして最近では政府が様々な取り組みをしている。北西の一角にあるクロントゥーイ市場はバンコク随一の仕入れ市場で、一般客を含めて常に賑わう。チャオプラヤー川対岸はプラプラデーン。

クンチェー・ナンプラー
 タイにしては珍しい生エビの料理。尾以外の殻をむいたエビに野菜の千切り・ゴーヤーの輪切り・生ニンニクなどを添え、ナンプラーを敷いた一品である。酸味と辛味の効いたタレがついている。ちなみに、「クンチェー」はタイ語で鍵のことである。おそらくエビを鍵に見立てたのであろうが、食べ物らしくない名前である。

KFC
 ケンタッキー・フライド・チキンのことを、タイでは頭文字でこう呼んでいる。「かつてケンタッキーおじさんが開発した11種のスパイスを世界各国のケンタッキー・チェーン店で使用しており、その調合はほんの一握りの人しか知らない」というエピソードをどこかで読んだが、タイのケンタッキー・フライド・チキンの味は日本のそれとずいぶん違う。また、ころもも日本が竜田揚げ風であるのに対し、タイでは「唐揚げ」そのものである。

ゴー・ゴー・バー
 タイやフィリピンに存在するバーで、店内では大音響の中、ステージ上でダンサーが水着姿などで踊っており、指名すれば同席できるというシステムを取っている。ダンサーとは交渉次第で店外デートができることから、基本的にゴー・ゴー・バーは風俗店である。インドシナ戦争によって米軍基地がタイに展開していたことから、この形式のバーが誕生したと言われる。

コム・ローイ
 チェンマイのイーペン祭り(現在はローイ・クラトーンと同じ時期に開催されている、北タイのラーンナー王国時代からの祭り)で用いられる小さな熱気球。白い布袋の口に固形燃料の火を入れ、そっと手を離すとふわっと夜空に浮かんでゆく。コム・ローイがいくつも上がると非常に幻想的な雰囲気を醸し出すが、航空運輸の妨げになることも含め、禁止される危険もある。また、同じタイ族であるビルマのシャン族は、大きな熱気球に花火を仕掛けておいて、ある程度の高さになった頃に花火が飛び出す仕掛けをして新年を祝う風習があり、タイでもたまにコム・ローイに花火を取りつけている人もいる。

サーラー
 屋根のある休息所。通常、木の床か長椅子も用意されているが、四方の壁はない。日本語訳として「東屋」を充てられている。地方ではバス停がサーラーになっていることが多く、バイク・タクシーの運転手たちがバスを降りた客に声をかけるための待合所となっていることがしばしば。

サイアム
 もともと「サイアム」の名称は、タイの旧国名である「シャム」と同じ言葉であり、カタカナ表記が異なるだけである。しかし、現在はバンコクで最も栄えている繁華街であるBTSサイアム駅周辺の地域を指す。プラ・ラーム1通りを挟んで、北側にはサイアム・センター、サイアム・ディスカヴァリー・センター、サイアム・パラゴンといったショッピング・モールが並び、南側一帯はサイアム・スクエアというバンコクの流行発信地となっている。また、その西にはパヤタイ通りを挟んで、タイで最大の動員数を誇るマーブンクローン・センターがあり、周辺は祝祭日でなくとも常に賑わいをみせている。

サイアム・スクエア(サイヤーム・サクウェー)
 チュラロンコーン大学の北端、プラ・ラーム1世通りに面した一帯を大学が貸与して生まれた再開発地域だったが、現在のバンコクでは誰もが「こここそバンコクの中心である」と思い描くに値する、タイ随一の繁華街となった。ここで展開されている、台湾でもソウルでも強く感じた所謂「エネルギッシュなアジア」の共通したムードは、他の繁華街にはない、汎アジア的な熱気を持っている。その一方でDJサイアムなど、音楽の情報発信基地であったりバンコク最先端モードの牽引所でもあったりと、多面的な顔を持つ。マーブンクローン・センターと西で、サイヤーム・センターやサイヤーム・ディスカヴァリー・センター、サイアム・パラゴンと北で隣接し、もうひとつのバンコクの特大ショッピング・ゾーンであるラーップラソーン交差点周辺との距離は、BTS一駅分もない。サイヤーム・サクウェーはタイ語での発音。

サイアム・センター
 1973年にオープンした、サイアム地区北のショッピング・センター。タイのデパート業界では2番手となるザ・モール・グループに属する。個人出店の多いサイアム・スクエアや庶民的なマーブンクローン・センターに比して高級感がある路線を牽引してきたが、近年はその地位をサイアム・ディスカヴァリー・センターやサイアム・パラゴンに譲って中道路線に定着している。1995年には火災で全面改装。長らく野暮ったい緑と白のタイルをあしらった壁だったが、2005年のサイアム・パラゴンのオープンに合わせて全面リノベーションを実施し、ガラス張りの近代的な風貌に生まれ変わっている。BTSサイアム駅とは直通。また、サイアム・パラゴンとの間にテラスが誕生し、イヴェントが連日繰り広げられている。

サイアム・ディスカヴァリー・センター
 1997年開業の、サイアム地区北側に位置するショッピング・センター。それまでサイアム地区の高級路線を担ってきたサイアム・センターに代わって、ハイソを狙った展開である。ザ・モール・グループの系列店である他のサイアム・センター、サイアム・パラゴンに比べて敷地面積が狭い。日本からLOFTが入店しているが、品揃えは異なる展開。4階にはサイアム・センターとの連絡通路があるほか、1階の広場ではイヴェントが催されることも多い。

サイアム・パラゴン
 2005年、サイアム・インターコンチネンタル・ホテル跡に誕生したショッピング・センター。タイで最もハイソな雰囲気をもち、ザ・モール・グループの基幹店となっている。地下にはガラス・トンネル方式の水族館「サイアム・オーシャン・ワールド」がある。日系レストランの出店も多い。BTSサイアム駅と直通している。また、サイアム・センターとの間の噴水テラスではイヴェントが連日繰り広げられている。

サナーム・ルアン(王宮広場)
 王宮寺院であるワット・プラ・ケーォの北に隣接した広大な広場。以前は「王族火葬広場」と呼ばれていたが、モンクット王(プラ・ラーム4)が「サナーム・ルアン」と改称した。現在でも王族の葬儀に使用され、1998年のシーナカリン王母(現国王であるプーミポン国王の母親)、2008年のガラヤニ王女(同実姉)の場合にもここで執り行われている。また、1982年にバンコク200周年記念祭が開催される際にチャトゥチャックへ移動するまで、ここでウィークエンド・マーケットが開かれていた。政治集会にもたびたび利用されており、歴史の舞台となってきた。

サムロー
 「サムロー」はタイ語を直訳的にとらえれば「3輪車」のことだが、乗客を運ぶ人力車が3輪であるため、主にこれのことを指す。また、3輪自動車タクシーであるであるトゥクトゥクも3輪であるため「サムロー」と呼ばれる。

シー・プラヤー通り
 在タイ日本人にも納骨で有名なワット・ホアランポーン(ホアランポーン寺)から、船着き場のあるチャオプラヤー河畔までを結ぶ道。南にあるスリウォン通りと並走している。現在バンコクで営業を続けている中では最も息の長い日本料理店「花屋」がある。

シーロー
 「シーロー」とは「4輪車」の意味。しかし、自動車にあっては4輪が当たり前なので、バンコクではこの言葉は、料金交渉制の軽トラックタクシーを意味する。荷台に座席が取り付けられており、コンドミニアムやマンションの前などでよく待機していて、主に近距離を走る。クーラーも利かず雨が吹き込み、排気ガスをもろに吸い込むことになるこのシーローが、どうして日本人の奥さん方によく利用されるのかが長い間理解できなかったが、乗車すると密室状態に近くなるタクシーに比べ、シーローは運転席と完全に分離されていて、非常時に叫べば人が聴きつけることも容易で、しかも同じ顔ぶれが一定のマンション前で待機しているため、安全の面で信頼がおけることがその理由であるようだ。

シーロム通り
 バンコク随一のオフィス街を走る通りであり、BTSもサラデーン駅からチョーン・ノンシー駅手前まではここを高架で走っている(通りの半分くらいの長さに値する)。幹線道路であるプラ・ラーム4通りとチャルンクルン通りを繋いでおり、すぐ北のスリウォン通り、南のサートーン通りと並走している。銀行一つをとってみても、タイ最大のバンコク銀行の本店があるほか、日系銀行の三井住友銀行とみずほ銀行はともにシーロム通りにある(もう一行の三菱東京UFJ銀行はサートーン通りに位置している)。また、ホテル密集地域であるため、観光客が喜びそうな物の多くはこの周辺で手に入る。夜の繁華街として名高いパッポン通りはシーロム通りとスリウォン通りを結んでおり、シーロム・ソイ2がゲイの出会いの場となっているなど、夜間のドーナツ化現象もない地域となっている。

シャングリラ・ホテル(シャングリ・ラ・ホテル・バンコク)
 シャングリラ・グループは香港に本部を構え、1971年、シンガポールに初のホテルをオープンさせた大手ホテル・グループ。バンコクでは1986年に開業されており、チャオプラヤー川沿いでありながら、この界隈ではBTSに最も近いというロケーションに位置している。2棟のうち1棟の一部はチャオプラヤー川に面していない客室がある。バンコクの最高級ホテルの一つ。

ジュライ・ホテル
 エイジアン・パッカー伝説を、ショービズにしてテーマパークに堕したのがカオサン一帯であれば、本当の伝説として記憶だけの中に消え去ったのがジュライ・ホテルだ。日本人パッカーが殆どの客となっていたこの宿泊所(とても「ホテル」とはいえないものだった)には、多くの「沈没者」がいた。タクシン政権になって急速に近代国家の体裁を急ぎだしたタイが失った、沈没者を多く生み出す底なし沼のような魅力は、ちょうどジュライがなくなってしまった時期に端を発したといわれる。

ジョムティエン(ビーチ)
 パタヤーの南に突き出た岬を越えたところにある、家族旅行向けの、若干落ち着いたたたずまいのビーチ。海水浴をしている人の数はパタヤー・ビーチより多い。パタヤー・サーイ・ソーン通りとパタヤー・タイ通りとの交差点からソン・テウが発着している。散歩にはもってこいの遊歩道がある。

シリラート病院
 バンコク・ノーイ地区にある、タイきっての国立総合病院。その広さには舌を巻くが、廃駅となったバンコク・ノーイ駅跡地に新館をさらに増築中である。タイ王族もこの病院を利用する。館内にはガイドブックでも紹介されるシーウィー博物館(これは通称で、正式には「シリラート法医学博物館」)があり、こちらでは「人肉を食べると精神的にも肉体的にも強くなる」と聞かされて6人の子どもを殺して臓器を食べた中国人、シーウィーの蝋漬けミイラや、水頭症の子ども・シャム双生児・弾丸のめり込んだ男性頭部を切断したものなど、とんでもないホルマリン漬け標本などが紹介されている。

スキー(タイスキ)
 日本のすき焼きの名がタイに伝わってこの名称ができたという説のある、タイの鍋料理。その名がつけられているわりには、すき焼きよりも水炊きに近い。大鍋にだし汁をはり、魚介類・肉類・野菜・春雨・玉子・練りものなどを煮て、辛いタレにつけて食べる。チェーン店ではMKが圧倒的になっており、甘めのタレが人気を博しているようだ。テキサスはこれと反対に、辛めのタレを用いている。以前から日本にも出店しているコカは老舗。ルアン・ペット(金島)は、中国の火鍋にルーツがあることを仄めかしたような風情で興味深い。個人的にはサイアム・スクエア南東にあった中華風味の残るスキー店のカントンを贔屓にしていたが、再開発のために更地になってしまった。シーコン・スクエアにあっ支店もそれ以前に姿を消しているため、リニューアル・オープンして健在ぶりを示してほしいと願うばかりである。

スクムヴィット(通り)
 BTS(バンコク市内高架鉄道)プルンチット駅とナナ駅の中間地点あたりから始まって、カンボジア国境まで続くタイの主要幹線道路。ただ、「スクムヴィット」とだけ聞くと多くの人はナナからプラカノンあたりまでの、外国人が多く住む地域のイメージを持つ。ソイ3周辺がアラブ・インド人街、ソイ15周辺が韓国人街、ソイ23から63までが日本人街としての性格が濃い。

スチンダー・クラープラユーン
 元タイ王国軍最高司令官であり、元首相。1991年の軍部によるチャチャイ内閣に対してのクーデターは、アナン暫定首相を経てナロン首相を誕生させるが、麻薬密売容疑からアメリカがこれを嫌って、政治に乗り出さないと公約していたスチンダー将軍が言を翻す形で首相に任命された。これが1992年5月のスチンダー退陣デモに参加していたバンコク市民への実弾発砲につながり、300名以上の死者を生む結果に。民主化を掲げた市民デモのリーダーの一人であるチャムロン・シームアンとスチンダーはプーミポン国王の諭しにより和解し、平和解決のためにスチンダーは首相を47日目にして離れた。

スリウォン・ブックセンター
 チェンマイにある老舗の書籍店で、内容の充実度はチェンマイ1との呼び声も高い。ラーンナー関係書籍が充実している。

スリ・ナカリン(シーナカリン)通り
 バーン・カピからパーク・ナーム近くでスクンヴィット通りと交差するまで、バンコク郊外をほぼ南北に走る道路。途中、プラ・ラーム9通り・パタナーカーン通り・オンヌット通りなどと交わり、バンコク市街地とスワンナプーム国際空港とのほぼ中間点にあることから、今後、大規模な開発が見込まれている。巨大ショッピング・コンプレックスのシーコン・スクエア、パラダイス・パーク(旧セーリー・センター)がこの通り沿いにあり、また、大きな公園であるスアン・ルアン(ラマ9世公園)も近い。前タイ国王のマヒドン国王(ラーマ8世)、及び現タイ国王であるプミポン国王(ラーマ9世)の母であるシーナカリン王太后から、その名が採られている。

スワンナプーム空港
 2005年9月28日にオープンした、バンコクの新国際空港。建設中にはその土地の名から「ノーン・グー・ハオ空港」と呼ばれていたが、これが「コブラ池空港」という意味だったので、在位60周年だったプーミポン国王が「黄金の土地」を表す「スワンナプーム」と命名。前タクシン首相の鳴り物入りだったプロジェクトだったが、開港直前の9月19日に無血軍部クーデターが発生。暫定政府のもとで予定通りの開港となった。熱を遮断するガラス張りで光を取り込むというコンセプトはわかるが、最近開港する国際空港はやたらとどこも同じような造りで、正直なところあまり面白みがない。クーラーの効きすぎのうえ、灰色のスチール椅子で震え上がるという大きな欠点を何とかしてほしい。2008年11月にはPADの占拠を受け、9日間その機能を停止させられた。

セーン・セープ運河
 ノーン・チョーク郊外からミンブリー、ラームカムヘーン、ペッブリー沿いを経て、ブン・ロート・トーン通り近くでマハナーク運河などに分流するまで続く長ーい運河。この運河のバンコク市内での一部に運河ボートが今も運行されており、渋滞しない公共交通機関としては、BTSや地下鉄が開通するまでは唯一の存在だった。バンコクのどの運河にも共通することだが、生活排水が今も流されているうえ、ゼロメートル地帯ゆえに水の流れがほとんど感じられず、悪臭を放っている。一方、運河沿いから眺める街並みは古き良き時代のバンコクを感じさせ、ひと時のタイム・スリップでもある。以前は蚊が大量発生していたことからその名がついたという。

セントラル(・デパート)
 タイを代表する百貨店グループ。1号店はインド人街に近いワンブラパ店で、1956年の開業である。現在はチッドロムに本店があるほか、シーロム、ラート・プラオ、バンナー、ラーム・イントラ、ピンクラオなどに店舗を持つ。2006年にはバンコク中心街に破格の敷地面積を誇るワールド・トレード・センターを買収して「セントラル・ワールド」の名で営業している。

セントラル・ワールド・チッドロム
 バンコク中心街にあって広大な敷地面積を誇るショッピング・コンプレックス。北側には伊勢丹が、南側にはタイ資本のゼンがそれぞれ百貨店として構えており、中間部が専門店街となっている。サイアム・パラゴンが高級志向、マーブンクローン・センター(MBK)が庶民志向であるその中間的な存在であろう。旧称「ワールド・トレード・センター」。1996年にタイ百貨店大手のセントラル・グループが買収したため、名称が変わった。2010年のUDD騒動での放火によって南側一帯が全焼した。

SODA
 タイきってのエイジアン・ブランド。レディースが主だが、メンズとしてSODA GUYSもある。また、SODA POPはよりストリート・カジュアル系になってはいるが、基本路線はクラブに着ていくためのウェアといったところに落ち着くだろう。

ソイ
 大通りから枝分かれした路地のことで、「シーロム・ソイ6」ならシーロム通りの6番目の路地、ということになる。東西幹線からのソイなら北側が奇数、南側が偶数ソイとなり、南北幹線なら西側が奇数、東側が偶数ソイとなっている。ソイとはいっても、アソーク(スクンヴィット・ソイ21)やエカマイ(スクンヴィット・ソイ63)のように、道幅も広く交通の大動脈となっているところも多い。

ソンクラーン
 4月13日〜15日にあたるタイ正月。暑季のさなかであることから、道行く人々に水を掛け合う習わしがあることで有名。かつては僧侶が少量の水を振りかけてくれるという慎ましい儀式であったようだが、今ではだれかれ問わずバケツやホースでびしゃびしゃにやられてしまう。また、西洋人には特に、自国から大型水鉄砲を持参してはしゃいでいる姿を多く見かけるようになった。正月であるため、バンコクは平素の渋滞天国が嘘のような状態になり、それに伴って人もすくなるため、水かけの被害はまだずいぶんとましで、また、「勘弁してください」というポーズを見せればやめてくれたり手加減してくれたりするが、地方都市ではカメラを持っていようと容赦ないことを覚悟したほうがいい。バンコクであっても、バック・パッカーの聖地といわれるカオサン通りでは、例年激しい水かけが行われることで知られる。地方都市では、チェンマイの水かけの激しさはつとに有名。

ソン・テウ
 小型トラックの荷台に椅子と屋根を取り付けた形が主流の乗合バス。パタヤーで繁華街を流しているのがそれ。スクンヴィット通りではソイ・オンヌット(スクムヴィット・ソイ77)からシーナカリン通りで大活躍している。

タークシン王
 アユタヤー王朝を滅ぼしたコンバウン朝期ビルマの軍勢に追われ、チャンタブリーまで避難したタークシン将軍一派は、機会を窺って派兵し、アユタヤー奪還に成功した。徹底的な破壊による王都アユタヤーの荒廃ぶりに、タークシンは王となってバンコク対岸のトンブリーに遷都。1代15年限りのトンブリー王朝を開いた。その後、北タイ・ラオス・カンボジア方面を平定している。潮州系中国人の血を引いているが、アユタヤー王朝家の血を引いていないことを気に病み、僧侶に自身への崇拝を強要するというタイ仏教界からは常識外れの行動をとって精神錯乱とされ、部下であったチャクリー将軍(のちのラーマ1世)に処刑された。

タークシン橋(サパーン・タークシン)
 バンコクで7番目である1982年に開通した、チャオプラヤー川の橋。バンコクと対岸のトンブリーを結んでおり、チャオプラヤー・エキスプレスの始発となる船着き場やBTSの駅もある、一大交通要所となっている。バンコク川の橋のすぐ下にはチャルンクルン通りが走っており、歴史を感じさせる庶民的な雰囲気の街並みに、この一帯の一流ホテル環境客を対象としたゴージャスなアンティーク・ショップも居並び、一風変わった景観を持っている。2009年、BTSがタークシン橋と並行してチャオプラヤー川を越えたトンブリー側のウォンウイエン・ヤイまで延伸された。

タイ愛国党(タイ・ラック・タイ)
 タクシン・チナワット元首相が1998年に設立した政党。2001年から2006年まで与党となり、殊に2005年の総選挙では圧倒的支持によってタイ初の単独政権を実現した。2006年クーデターでのタクシン失脚後もしばらく活動したが、2007年、裁判所は同党の選挙活動に不正があったとして解党命令を決定。党員は人民の力党(ピープル・パワー党・PPP)に流入して親タクシン政権を作った。

タイ国鉄
 バンコクを中心に、チェンマイと結ぶ北線・ノーン・カーイやウボン・ラーチャターニーと結ぶ東北線、ハジャイの先でマレーシア国内に結ばれてシンガポールまでの国際列車も運行する南線を主要幹線とするタイ国営鉄道。改革に遅れてひどい赤字が続いているため、政府は民営化をすすめているが、従業員の猛烈な反対に遭って進展は思わしくない。また、長距離バス網の発達で、便数はこちらの方が一般的に多いうえ、乗車時間も少なく済む。ただ、寝台列車を利用しての移動はからだが楽で、気分転換に車内を移動することもできる。寝台に限らず人気は高い。

タクシン・チナワット
 2001年から2006年までを務めたタイの元首相。警察では中佐にまで昇進したが、その傍らでシルク販売と移動映画事業で成功。不動産業とパソコンレンタル業で失敗と浮沈を経験し、携帯電話ネットのAISをきっかけに巨万の富を築いて、タイでナンバー・ワンの富豪となった。1994年にチャムロン・シームアンを党首とするパランタム党に入って政治家としてのスタートを切ったのち、同党の党首を引き継ぐも、内部崩壊から辞任。2年の準備期間を経てタイ愛国党を設立し、2001年に政権を獲得。OTOP(一村一品運動)や30バーツ医療など、これまで鑑みられる機会の少なかったバンコク以外の地方に対する活性・援助政策で、特に自身の出身地である北部やイサーン(東北部)の人気を確立した。その一方で、南部イスラム問題では強硬策を取って過激派を刺激し、多くの犠牲者を出して失敗したほか、麻薬掃討作戦に銃の大幅な発砲許可と報奨金制度によって無罪の人々が相当数殺され、国連からの声明にも噛みつくなど、強権的政治が目についた。巨額の脱税容疑や政府専用機の私物化、マスコミ統制などを告発されるようになってから、主にバンコクで徐々に世論が変動し、2006年の軍事クーデターにより失脚。タイ愛国党も裁判所から解党命令を受けた。海外で事実上亡命生活を続けるタクシンは政治活動からの引退を表明したものの、暫定軍事政権後の総選挙では親タクシン派政権が続き、さらに支持者団体のUDDの活動が活発化すると、これらへの支援を続けている。2011年には実妹のインラック・チナワットが属するプア・タイ党が選挙で勝利した。

タックロー
 セパ・タクローの名で知られる球技。基本的には、バレー・ボールと似たゲームで、ザボン程度の大きさのボールを蹴ったりヘディングしたりして、相手コートに着地させることで点数を競う。「セパ・タクロー」の名は、「セパ」がマレー語で、「タクロー」がタイ語でそれぞれこの球技の名を表し、それを繋ぎあわせたものである。

タニヤ通り
 日本人を対象とした歓楽街となっている短い通り。北にスリウォン通り、南にシーロム通りと接している。多くの店は、指名した女性と同席するカラオケ店である。そのため、夜遅くまで店を開けている日本料理店も多い。

タマサート大学
 チュラロンコーン大学に続く、タイで2番目に入試の難易度の高い大学で、かつては1976年の民主化闘争(血の水曜日事件)の先頭に立ち、学生運動のリーダーを排出したことで、「タイの京都大学」と評されることがある。サナーム・ルアンそばのター・プラチャンのほか、ランシット、パタヤー、ランパーンに校舎を構えている。

タム・ブン
 タイ仏教で徳を積むための喜捨のこと。僧侶に金銭や食料などを直接喜捨するほか、寺院参拝の際にお供えの花や蝋燭・線香・金箔などを境内で求める際にも、定価があるわけではなく、ここが喜捨したいだけの額を納める。また、料金を払って籠や桶に囚われの身になっている小鳥や魚・亀などを受け取り、自然界に返すというタム・ブンもある(こちらは当の動物たちにとっては至極迷惑な話ではあるが)。タイの上座部仏教では徳を積めば積むほど来世に幸福が多くなると考えられているため、タイ人コミュニティーでは知人同士でタム・ブンを集める習慣もある。

タラート
 タイ語で市場のこと。日本の卸売市場の雰囲気に近いが、近所のおばちゃんたちもわんさか買い物にやってくる。周囲は旧市街地になっていることが多いので、散策にいい。

タリンチャン
 バンコク西部の、ホアランポーン駅行きとトンブリー駅行きの鉄路が二手に分かれるあたりの地域。水上マーケットがある。

チェディ
 タイに最も多い仏塔で、@鐘のように丸いフォルムを持つものや、A台座が角ばっているもの、B仏塔自体も角錐になっているものに大別される。@はスリランカから伝わったもので、残る二つはシュリーヴィジャヤ様式と呼ばれ、タイで独自の発展を遂げた形である。@はタイで最も大きな仏塔であるナコーン・パトムのプラ・パトム・チェディーやアユタヤーのワット・プラ・スリ・サンペットのチェディー、Aはアユタヤーのワット・ヤイ・チャイモンコーンのチェディー、Bはバンコクのワット・ポーやチェンマイのドイ・ステープのチェディーに見られる。どちらにも仏塔内には仏舎利(お釈迦様の骨)や経典が安置されている。

チェンマイ・アーケード
 日本人の僕たちからすれば商店街のような名前だが、チェンマイ・アーケードはチェンマイ最大のバス・ターミナル。バンコクをはじめとしたタイの各街からのバスと、チェンラーイ〜メー・サーイ、チェンコーン、パヤオ、パーイ〜メー・ホーン・ソーンなど北タイの町を繋ぐ一大集積地となっている。2011年4月に見たところでは、グリーン・バスという会社がチケット売り場の客を独占していた。北タイを近〜中距離で結ぶ路線の一部と、チェンマイ郊外行きのソン・テウはチャーンプアック・バス・ターミナルからの発着となっているほか、2010年にはアーケード近くに第3バス・ターミナルの建設計画がスタートしている。

チャオプラヤー・エキスプレス
 チャオプラヤー川をボートで結ぶ客運路線。急行・準急も存在するので、ボートについている旗の色で、どの船着き場に停船するのか乗車前に確認しておいた方がよい(黄旗が急行で、赤旗が準急)。

チャオプラヤー川
 バンコクを流れる大河。日本では「メナム川」の呼び名でも知られるが、タイ語では「メー・ナーム」はただ広義的に「川」を意味するだけの言葉なので、この呼称は誤りである。三島由紀夫の執筆でも知られる「暁の寺」ワット・アルンはチャオプラヤー河畔にあるほか、タイを代表する寺院であるワット・プラケオ(王宮寺院、エメラルド寺院)、ワット・ポーも川からすぐそばにある。ピン川とナン川が合流した地点から、川の名がチャオプラヤーとなり、途中、ター・チン川と分流して並走し、マハーチャイにて海へと流れ込んでいる。

チャトゥチャック市場
 バンコクきっての大きなウイークエンド・マーケット。露天商が広大なスペースに居並んでおり、しかもバンコク中心部で買い求める値段より随分安いとくれば、単なるショッピング客や観光客だけではなく、仕入れや買い付けに来る人々でごったがえすのも当然。若手のショップ・オーナーがここで趣味の良さを活かした店を構えたり、同じく若手のクラフト職人やアーティストたちが紹介されたりして、やがては広く知られるようになるという図式もある。また、2002年頃からJJモールなどのショッピング・ビルも完成し、敷地を広げている。

チャムロン・シームアン
 元陸軍少将であり、そののちにパランタム党(道義党)の党首となる。新興仏派であるサンティアソーク派の熱烈な支持者で、清廉潔白を信条とし、バンコク都知事を6年務めた。1992年5月のスチンダー首相退陣デモの中で最も影響力の大きいリーダーとなり、軍が市民への無差別発砲をするころになって逮捕されている。国王に呼ばれてスチンダー首相と和解したシーンは広く国際的に放映されて大きな反響を呼んだ。非暴力・不服従を貫こうとする姿勢から「アジアのノーベル平和賞」との呼び声高いマグサイサイ賞を受賞したが、タイ人にはこの5月流血事件を「チャムロンの権力への執着」と見る向きが多く、事件後にチャムロンは党首の座を降りる。このとき党首のポストを禅譲されたのがタクシン・チナワットで、同党の支持率低下から引責辞任後、自身の政党であるタイ愛国党を率いて2001年に首相の座を手に入れると、景気回復やOTOP(一村一品運動)など画期的なCEO的政策を成した。その半面、強権的かつ金策的な政治家としての方向性に、かつての師匠であるチャムロンはこれを非難し、軍部クーデター後の総選挙でタクシン一派が政権を奪回すると、市民デモPADを率いるようになった。2008年の首相府やスワンナプーム国際空港などの占拠にもチャムロンの影響があったと言われる。

チャルン・クルン(通り)
 「西洋人が馬車で走れる道を」との掛け声によって、タイで初めて計画整備された道路。それゆえ、「ニュー・ロード」という英語名が開通時からついているものの、今ではまったくの旧街道だ。排ガスに煤けた街並みの鄙びた佇まいには哀歓が漂っている。中華街からスタートし、オフィスの多いシーロム通りと交差し、ラマ3世通りを越えたすぐ先のタノン・トクで終わっている。かつてはここまで路面電車が走っていた。

チュム・チム
 イサーン風タイスキ。小さめの土鍋が炭火にかけられた状態で供され、出汁がしっかりしたスープの中に玉子や肉、魚介類、野菜、春雨などを入れ、辛いタレで食べる。屋台も多い。

チュラローク王(プラ・ラーム1/ラーマ1世)
 現タイ王室であるチャクリー王朝の始祖となる国王。滅ぼされたアユタヤー王朝の血族で、母親は中国人。同王朝や、その後タークシン王が興したトンブリー王朝に仕え、様々な戦果をあげた。しかし、タークシン王の精神錯乱・拘束を受けて遠征からバンコクに戻り、同王を処刑して自ら王となった。都をトンブリーの対岸、バンコクに移し、チャクリー王朝を開くと、ここに王室寺院としてワット・プラ・ケーォを建立し、ヴィエンチャンから戦利品として持ち帰ったエメラルド仏を安置した。そのほか、外的との優れた攻防戦や、各種制度の整備、ラーマキエン物語などの再編集に尽力した。

チュラロンコーン王(プラ・ラーム5/ラーマ5世)
 名君の誉れ高いタイのかつての国王。西欧視察後、一連のチャクリー改革によってシャム国を大きく発展させた。奴隷売買の禁止・諸侯を抑えた中央集権化・官僚制の導入・議会の設置・国軍の近代化・学校教育制度の開設・電話業務の開始・鉄道路線の開通・郵便や道路の整備などに尽力し、フランスにカンボジア・ラオスを、イギリスにマレー半島の一部を割譲したものの、近代化をにらみ合わせて両国からの植民地化を逃れた。在位時期からも改革の内容からも、日本の明治天皇と比較されることが多い。側室を含めた妻の数160人以上、子の数が77人と、まさに王様らしい王であった。

チュラロンコーン大学
 1917年に創立されたタイで最高学位を誇る国立大学。北にプラ・ラーム1通り、南にプラ・ラーム4通り、東にアンリ・デュナン通り、西にパヤタイ通りという、バンコクの一等地に位置する。最寄駅はBTSサイアム駅。バンコクの流行発信源であるサイアム・スクエアの敷地はチュラロンコーン大学が貸与している形となっている。

テスコ・ロータス
 1998年に創業した、タイ及び中国に出店しているイギリス資本の大型スーパー・マーケット。電化製品や工事用具などまで、幅広い品揃えで大型店舗を構えている。当初は24時間営業をしていた。

ワット・ドイ・ステープ
 ドイ・ステープ(ステープ山)にある、名高い寺。長い階段を上った場所にあることで有名。境内からチェンマイ市内が見下ろせる。

ドゥアン・プラティープ財団
 元上院議員であるプラティープ・ウンソンタム・秦が1978年に設立した、スラムの環境改善を推進する非営利組織。その源は1968年に始められた1日1バーツ学校で、教育の機会のないバンコクのクロントゥーイ地区に暮らすスラムの子供たちにその機会を与えた。この活動により、プラティープはアジアのノーベル賞とも言われるマグサイサイ賞を受賞。この賞金を元に、ドゥアン・プラテープ財団を発足した。同財団理事長には当時の首相であったクリアンサック・チャマナンが就任。

トゥクトゥク
 東南アジア・南アジア名物ともなっているオート三輪車。タイの場合は、トゥクトゥクとして製造されたものと、オートバイで荷台を引っ張るものとがある。どっちみち排気量が少なく、エンジンが音を上げるため、その音を模してこの名がついたという。「サーム・ロー」という呼び名もあるが、こちらは「三輪車」という意味なので、人力でこぐものも指す。タイ各地で車体が違い、それが旅情を盛り上げてくれる。

トップス・マーケット
 タイ最大の百貨店グループであるセントラル・グループの傘下にあり、スーパー・マーケットとしてもタイ最大規模を誇る。1996年創業。

トム・ヤム
 タイ料理の中では最も知られる一品で、具材にエビを用いた「トム・ヤム・クン」が有名である。さわやかな辛さと酸っぱさが特徴で、紫小玉ねぎ、レモングラス、生姜、香菜の根、唐辛子、コブミカンの葉、ナンプラーがベースとなり、ここに魚介類やフクロ茸などを入れ、酢橘と香菜を加える。ココナツ・ミルクが入ったものは、甘みとコクが加味される。世界三大スープのひとつとされる(他の2つには諸説あり、ブイヤベース、ボルシチ、ふかひれスープのいずれかが入っている)。

トンチャイ・メーキンタイ(バード)
 流行サイクルの目まぐるしいタイにあって、長らくビッグ・スターの座を保持し続ける永遠のアイドル。1958年生まれ。1985年のアルバム・デビュー以来ヒット曲を連発し、1990年のドラマ・1996年の映画ともに「クーカム」にて日本人将校「コボリ」役を演じて圧倒的な人気を博した。その人気の秘密は、彼がゲイであることだと囁かれることが多い。タイ音楽会社の最大手グラミー社の重役に就任している。

トンブリー
 チャオプラヤー川を挟んでバンコク中心部の向かいにある地域。時のタークシン大王がビルマ軍に徹底的に破壊された旧都アユタヤーに見切りをつけた1767年から、チャクリー王朝が開かれてバンコクに遷都されるまでの1782年までの15年間、首都とした。1972年にはバンコク都に組み入れられ、トンブリー区となった。トンブリーは金の都という意味である。現在は比較的イスラム教徒の多い地域で、庶民的な雰囲気の強い一帯となっている。

トンブリー駅
 チャオプラヤー川を隔てたバンコクの対岸、トンブリーのチャラン・サニットウォン通り近くにある駅。数は多くないが、カンチャナブリー方面へ行く列車が運行されている。特に、カンチャナブリーから先、クウェー川鉄橋を越えてナム・トクに至る泰緬鉄道への乗り入れ列車は、土曜・日曜にこの駅からしか発車しない。以前はチャオプラヤー川に面したバンコク・ノーイ駅が存在したが、利用客減少のためか、あるいは川を使った貨物の必要性が減ったのか、2000年に廃駅となり、跡地には隣接するシリラート病院が増築中である。バンコク・ノーイ駅は風格のある立派な駅舎だったが、トンブリー駅はすぐその存在に気づかないようなささやかな駅である。

ドンムアン空港
 2006年までバンコク国際空港として親しまれてきたが、アジアのハブ空港としては手狭になったため、スワンナプーム空港にその座を譲って役目を終えた……はずだった。が、新空港に莫大な敷地を使ったはずなのに、スワンナプーム空港では離発着の限界がすぐに訪れ、わずか半年で国内便用の第2空港として再開港した。こちらのほうがタイらしい空気があって、個人的には好きな空港だ。しかしもちろん国際空港だった頃の華やぎは、もう思い出のアルバムの中。今では地方空港の趣で、チェック・イン後のショッピング・ゾーンがないため、水の持ち込みが難しい現在、使い勝手が悪いところを、ぜひ改善してほしい。発着用の2本の滑走路の間に空軍経営のゴルフ場があるのが珍しい。2008年にはPADによる封鎖を受けた。

(ソイ・)トンロー
 スクンヴィット通りのソイ55は「トンロー」と称し、「ソイ」という割には片道3車線もある通りとなっている。かねてからバンコクでもファッショナブルな地域だとされてきたが、2004年8月、トンロー・ソイ15にJアヴェニューというショッピング・コンプレックスが出店してから、周辺の様子が拍車をかけて変貌し、若者が集う一大拠点となっている。これが飛び火して、古さの中に置き去りにされたような隣のソイ・エカマイ(スクンヴィット・ソイ63)も、すっかりバンコクっ子たちのナイト・スポットに変身した。

ナクルア(通り)
 パタヤー・ヌア(北パタヤー)通りをさらに北に入った地域。街の雰囲気はぐっと落ち着く。最近はハングル文字の看板をこの地域でよく目にするようになった。

ナンプラー
 タイ料理に欠かせない調味料で、日本では醤油がこの位置にあたるだろう。魚を漬け込んだ汁でできており、料理に塩気を加えつつ、ダシの働きもこなす。発音としては「ナム・プラー」に近いが、日本では「ナンプラー」という表記で通っている。ラオスのナン・パー、ヴェトナムのニョク・マム(ヌォック・マム)、カンボジアのトゥック・トレイ、ビルマのガン・ピャーイェー、フィリピンのパティス、インドネシアのケチャップ・イカン、中国の魚醤はすべてタイのナンプラーと同じもの。日本ではしょっつる、いしる、きびなご醤油などが同様の製品として知られている。

パーク・ソイ(パク・ソイ)
 ソイ(小道)の入り口という意味で、大通りからソイに入る一帯を指す。市場があることも多く、見ているだけで楽しい。

パーク・ナーム
 バンコクの南に隣接するサムット・プラカーン県の旧称だが、タイでは県の呼び名としては新しい呼称を用いても、県の中心となる街のことを旧称で呼ぶケースが多く、僕もHP上で使用する場合はこれに倣っている。「パーク・ナーム」はタイ語で河口を意味し、文字どおりチャオプラヤー川の河口にほぼ位置している。新鮮な海産物が安いことで知られているほか、サムット・プラカーンにはクロコダイル・ファーム、ムアン・ボラーン(アンシエント・サイアム)、ローズ・ガーデンなど、観光客の定番となっている施設がある。

ハート・レック
 タイとカンボジアをつなぐタイ湾沿岸国境のタイ側の地名。ちょっとした村になっているが、宿泊施設はない。商店にカンボジアでしか発売されていないアンコール・ビールも売られている。クローン・ヤイからソンテウで、トラートからロット・トゥーで結ばれている。

ハーン・ヤーォ
 「長い尾」という意味のタイ語だが、ロング・テイル・ボートのことでもある。文字どおり、長い構造を持った木造船で、海から運河まで、タイのあらゆる水辺で活躍している。

パォ
 食材を焼くこと。クン(海老)・パォだと焼きエビ、というように、料理名としてよく登場する。

パタヤー・サーイ・ヌン(ビーチ・ロード)
 パタヤーの浜辺に沿った道路。西側は砂浜に面していて、東側には店が軒を連ねている。南行きの一方通行になっており、ここを通るソン・テウはこの東にあるパタヤー・サーイ・ソーン(南半分が北行き一方通行)を抜けてまた元に戻ってくる循環乗合タクシーとなっている。パタヤー随一の繁華街で、連日人で賑わう。

パット・ミー
 タイ風焼きそば。いわゆる日本の焼きそばとけっこう似ている。ただし、「ミー」は細麺を意味し、麺の細さは素麺程度である。

パッポン通り
 インドシナ戦争時に、米兵に対する客商売としてゴー・ゴー・バーなどの女性接客店が軒を連ねるようになった短い通り。北はスリウォン通り、南はシーロム通りと接している。近年では土産物屋台が軒を連ね、女性客も多く訪れる場所となっている。

パトゥムタニー
 首都バンコクと古都アユタヤーに挟まれたタイの県。都市圏の拡大によって、バンコクのベッドタウンの一つとなっている。南部にニュー・タウンとして建設された「インパクト」は、大型コンサート・ホールなどで有名だが、バブル崩壊によって買い手が去り、長期に渡って一部がゴースト・タウンと化していた。しかし、タイでは廃墟ビルがそのままリノベーションされて使用されることが多く、タイの経済回復に従って、現在では立派な復活を遂げている。

パノム・ルン
 ブリーラムの南に位置するクメール遺跡。長らく崩壊した状態だったが、1988年に修復が完成している。

パフラット市場
 バンコクにあるインド人街の市場。デパートであるインディアン・エンポリアムの開店により、一帯は一時期の停滞を破り、活性化している。

パランタム党(仏法の力党・PDP)
 禁欲的なタイ仏教の新派であるサンティアソーク派のポーティラックが開いた政党で、元陸軍少将・元バンコク都知事であり、のちにPADのリーダーとなるチャムロン・シームアン党首の活躍で知られるが、のちに首相となるタクシン・チナワットが党首を譲り受けたのち、1997年に内部崩壊した。そのタクシンがパランタム党を出たのちに率いて、タイ初の巨大政党となったタイ愛国党は、このパランタム党の議員を譲り受けるような形で発足していると言われる。

ハリプンチャイ王国
 タイ族が現在の地に確たる力を築く以前の11〜13世紀ごろに、ランプーンを都として栄えたと言われるモン族の王国。13世紀にはタイ族に呑み込まれて消滅したとされる。独自の美術様式を遺した。

バンコク伊勢丹
 セントラル・ワールド・チッドロム北ゾーンに入居している日系百貨店。同ショッピング・コンプレックスがワールド・トレード・センターの名で開業と同時に、1992年オープン。在タイ者・旅行者ともに、紀伊國屋書店の人気が高い。2010年UDD騒動による放火でセントラル・ワールド南部が焼失し、解体後の再建築が必要であるとされているため、存亡が心配されたが、見事にいち早く再オープンを果たした。

バンコク銀行
 1944年に創立されたタイ最大の銀行(東南アジアではナンバー5)。当然、バンコクだけではなく、地方に支店が多い。

バンコク・ノーイ駅
 バンコク・ノーイ運河の入口に存在したタイ国鉄始発駅の一つ。チュラロンコーン王(ラーマ5世)の治世である1900年にオープンし、かつては西行き・南行き列車の始発駅として賑わったが、1927年に鉄道橋であるラマ6世橋が完成して、鉄路がチャオプラヤー川を越えホアランポーン駅と結ばれ、存在価値が低くなる。100周年記念となるはずの2000年に、西側のチャラン・サニットウォン通り近くにトンブリー駅が開設され、廃駅となった。再開発地区の指定のあった敷地にはシリラート病院が増築中で、第二次世界大戦で破損したところを改修したという風格のある旧駅舎は残されて博物館になる予定。また、駅に接する「ロット・ファイ船着き場」にも、チャオプラヤー・エキスプレス(チャオプラヤー川を往復する乗合ボート)は停船せず、渡し船が発着するのみとなっている。

バンコク楽宮ホテル
 ウォンウィン・イープソーン・カラカダー(7月22日ロータリー)からほど近い、サンティパープ通りにある薄暗い中国旅社の名。ここを舞台として怪しげな日本人たちが蠢く様を谷恒生は小説化、アジア沈没モノの古典となっている。残念ながら2004年頃に廃業してしまった。

パンティップ・プラザ
 プラトゥー・ナームにある、IT関係のショップがぎっしり詰まったビル。この1棟のビルだけでバンコクの秋葉原と言われる。なぜかプラ・クルアンの販売も見かける。オーナーはタイ・アルコール業界の最大手タイ・ビバレッジのチャルーン・シリワッタナーパクディー。

バンナー=トラート(通り)
 文字通り、バンコク郊外の新興都市バンナーとカンボジアに隣接するトラートを結ぶ主要幹線だが、有料ハイウェイを合計すると両側16車線に及ぶ大動脈部はまだ、バンナーからチョンブリー手前までの区間にとどまっている。2000年にプラ・ラーム9通りに直結するモーターウェイが完成したため、ウィークエンドのリゾート・ラッシュ緩和がいくぶん緩和された。

反タクシン政権クーデター(2006年タイ軍事クーデター)
 2006年9月19日にバンコクで起きた無血クーデター。タクシン首相の強権的・金権的な政治体制に軍部が反発し、首相の外遊中にソンティ・ブンヤラットカリン陸軍司令官が戒厳令を敷き、国王への忠誠を伴う形で政府機関・テレビ局などを一気に掌握した。すでに中進国になっていたタイが、21世紀に入って軍事クーデターを起こしたことに、国際社会は驚いた。1992年のスチンダー首相退陣デモ衝突時の軍部の汚名から軍が政治介入しないと声明を出しており、また、兵士にも市民にソフトな対応を求めていたので、バンコクではクーデター後も出動している軍人や戦車とともに記念写真を撮る市民が続出するようなウエルカム状態であった。軍部からなる民主改革評議会に推挙されたスラユット・チュラーノンが首相に任命され、総選挙後にサマック内閣が発足する2008年まで職を務めた。

反独裁民主同盟(UDD・DAAD・赤シャツ派)
 2006年にタクシン首相が失脚すると、暫定軍事政権に対抗する団体として発足。タイにおける民主主義の確立を掲げて、タクシン政権以前まで顧みられることの少なかった北部・イサーン(東北部)の地方出身者の支持を集めて活動している。タクシンが党首を務めたタイ愛国党の解党が裁判で決定されるとデモが活発化したが、親タクシン政権である国民の力党(ピープル・パワー党/サマック政権)の登場により鎮静した。これとは反対にPAD(民主主義市民連合・黄シャツ派=反タクシン主義)が抗議活動を繰り広げたので、対立が起こった(死者1人・負傷者40名)。そのあとを受けたタクシンの義弟ソムチャーイ政権が倒れて民主党のアピシット・ウェーチャチワが首相となると、バンコクで首相府包囲や道路封鎖・デモ・集会などを活発化させ、2009年4月にはパタヤーで開催されていたアセアン+3などの会議に乱入してヘリコプターを使った緊急避難騒ぎを起こしたり、バンコクでバスを燃やすなどしたが、軍の強制排除を受け、UDD幹部のデモ解散演説により鎮静化。しかし、2010年1月に国外逃亡中のタクシンの私財の6割を没収する裁判所での判決が出ると、3月14日からデモが再発。国会包囲のほか、アピシット首相自宅やプレム枢密院議長別宅にデモ参加者の採血を撒いたり、バンコク市内で大規模なデモ行進を繰り返したりした。4月10日の強制排除での抗争でロイター通信の村本博之が死亡している。15日には拠点をバンコク中心部のラーチャプラソン交差点周辺に集結させる。民主党の発表したロード・マップが合意に達したが、白紙に戻ってしまい、さらに元軍人ながら親タクシンであるセーデーンことカティヤ陸軍少将が狙撃されて事態は深刻化。本格的な内紛状態が始まった。5月19日の朝から本格的な強制排除が起こって、数日で治安はほぼ回復されたが、セントラル・ワールド・チッドロムやサイアム・スクエアの映画館などが放火にあうなど、都内300か所に被害を残した。

パンファー橋
 マハカーン砦のたもとにあり、マハナーク運河に架かっている橋。1992年5月のスチンダー首相退陣要求デモにおいて、市民団体のデモ行進が混乱をきたした場所。デモなど、政治活動の舞台にたびたび名の登場する場所である。ミンブリーのワット・シー・ブンルアンまでを結ぶ運河ボートの始発・終着乗船所がある。

ビア・シン
 欧米や日本では「シンハー・ビール」と呼ばれる、タイを代表するビール。アルコール度数が若干高いのはグラスに氷を入れて飲むことを想定しての濃度で、そのとおり氷で割ると、きめの細かい泡が爽やかなコクを伝えてくれる。

ビア・チャーン
 値段の安さでそれまでビア・シンの独断場だったタイのビール界に躍り出て、一時期国内消費量トップのシェアを奪取したビール。大衆酒らしく少し苦味がきついが、ビア・シンと同じくこちらも氷で割ると程よい感じになる。タイ最大のアルコール飲料販売を誇るタイ・ビバレッジ社の発売。

BTS(ロット・ファイ・ファー)
 バンコク市内を結ぶ高架鉄道。1999年の開通以前、バンコク市内大量輸送交通システムは実質、市バスしか存在しなかった。モーチット〜オンヌットを結ぶスクムヴィット線とサナーム・キーラー・ヘーン・チャート(国立競技場)〜ウォンウイエン・ヤイを結ぶシーロム線が現在運行中。また、スクムヴィット線はオンヌットからバンナーを経てベーリン(サムローン方面)への延伸を着工している。

ビッグC
 タイ最大の百貨店グループであるセントラル系列の大型スーパー・マーケット。カールフールの撤退により、これを買収。ヴェトナムにも出店している。2010年に起こったUDDデモでは、旗艦店であるチッドロム店が5月19日に暴徒の焼き討ちに遭った。

ファラン
 タイ語で西洋人全体のことをこのように総称する。ファランとはもともと「フランス」をあらわすタイ語「ファランセート」のことで、このあたりにインドシナ戦争(ヴェトナム戦争)の爪あとを感じる。また、2005年頃から"I love farang"と記載されたタクシーが走るようになったが、これは無線交信で英語を訳してくれるシステムを完備している車であることを示しているが、そのアピールとして「ファラン」と書いても、このタイ語を知っているフォーリナーにしか理解できないのではないか?

プー・カォ・トーン
 アユタヤーにあるビルマ様式の仏塔プー・カォ・トーンを模してバンコクに作られた、人工盛土の小山(丘?)とその上にある仏塔。ワット・サケット内にある。100メートルほどの高さがあり、登ればバンコクを見渡すことができる。

プーミポン・アデヤート国王(ラーマ9世)
 タイの現国王であり、歴代9人目の国王となる。これまでの中で最も在任歴が長く、一度失墜しかけた王室への信頼を回復した名君である。国軍や首相と民主化運動の対立・クーデターなどを鶴の一声で収め、王室プロジェクトを推進しながら王室直営企業であるサイアム・セメントなどのCEOをもこなし、タイ仏教の頂点をなし、国民からこの上なく敬愛されている。2005年頃から国王の誕生曜日である月曜日には、タイでは月曜の色とされる黄色のポロシャツを着る人が爆発的に増え、公務制服と見なされるようになった(2008年前後から国王派を名乗るPADが黄色い服を着用し始めたため、この傾向は一気に下火になった)。2007年には国王在位60周年記念式典が、2008年には80歳の祝賀記念式典が執り行われた。後継国王問題からも、さらなる長寿が望まれている。

フューチャー・パーク
 バンコク近郊のランシットとバンケーの2ヶ所に展開する総合ショッピング・コンプレックス。特にバンコクの北に隣接するフューチャー・パーク・ランシットはセントラル、ロビンソン、ビッグC、トップスといった百貨店・スーパーが入居するほか、映画館のEGV、ホーム・センターのホームワークなど900店を誇り、テナント数ではバンコク最大規模を誇る。バンケーにはかつてヤオハンがキー・テナントとして入っていた。

プラー・ニン
 プラーはタイ語で魚のこと。「ニン」は種類としての名だが、この「ニン」は日本の今上天皇の名「昭仁」の「仁」から採られている。それというのも、この魚は1964年に、天皇がタイのプーミポン国王から「タイの山岳民族、モン族の食事に栄養の偏りがある」と聞き、贈呈したものだからである。日本での名称は「テラピア」。

プラーン
 タイの仏塔様式の一つ。バラモン教・ヒンズー教からの影響が色濃く、パターン化された細密な塑像や模様を多様し、登頂部以外には角ばったフォルムを持つ。バラモン教・ヒンドゥー教の神々が祀られているという性格上、王室寺院によく見受けられるほか、クメール帝国もインドからの影響が強かったため、カンボジアはもちろん、タイに残るクメール様式の寺院にも数多い。ワット・アルンのプラーンが最も有名。他の仏塔同様、仏舎利(仏陀の遺骨)や経典などが収められている。

プラ・クルアン
 仏様の入ったペンダント。寺院のほか、一般商店でも販売されており、御利益を信じているタイ人は多い。そのため、信じられないような値段で取り引されているものもある。

プラトゥー・ナーム
 タイ語では「水門」の意味だが、バンコク中心部の地域名として知られる。この一帯は一大繊維街となっており、プラトゥー・ナーム市場と呼ばれている。現在バンコクで最も高いビルであるバイヨーク2や、それ以前まで最も高いビルであったバイヨーク・タワー、IT関係のビルとして著名なパンティップ・プラザもこのエリア内にある。

プラティープ・ウンソンタム・秦
 アジア有数のスラムであるバンコクのクロントゥーイ・スラムに生まれ、就学の機会が少ない同スラムの状況を改善するべく、1968年に1日1バーツ学校をスタートさせた。1978年にアジアのノーベル賞と称されるマグサイサイ賞を受賞し、その賞金を元手に、スラムの教育環境やコミュニティー環境改善を図るドゥアン・プラテープ財団を創設した。1980年にはロックフェラー財団の青年賞を受賞。再びその資金を用いて、託児事業を行うスラム・チャイルド・ケア財団を発足させた。1992年の反スチンダー・デモでは市民側に立ち、リーダーの一人となる。2000年には上院議員に選出された。2010年のUDDデモではUDD側に立ち、ポスター作製やラーマ4世通りの封鎖明け渡しの拒絶などを行った。夫はシャンティ国際ボランティア会(SVA・旧曹洞宗ボランティア会)の秦辰也理事。

プラプラデーン
 チャオプラヤー川の蛇行によってできた半島。巾着袋のような形をしており、最短部(袋でいう縛り口)では500mしかない。ラーマ2世王がビルマのモン族を強制移住させて港の開発を行ったことから、現在でもその末裔が多く、モン族の伝統に則った、タイ式とは違った水かけ祭りで知られる。元の名は「ナコーン・クアンカン」で、その名は半島先端部に付近にある公園に遺されている。政府による開発制限があり、プラプラデーン半島には背の高い建物がなく、緑もたっぷり残されており、対岸が喧騒に包まれた大都会のバンコクであるとはにわかに信じがたい。

プラ・ラーム4(通り)
 モンクット王ことプラ・ラーム4世は、映画「王様と私」のユル・ブリンナーでも知られる、タイ近代化の扉を開いた国王。その名を関したこの通りは、バンコク中央駅であるホアランポーンからのび、ビジネス街のシーロム通り、市民の憩いの場ルンピニー公園、幹線であるサートーン通りとウィッタユ通り、ムエタイの殿堂ルンピニー・スタジアム、ものすごい活気のクロントゥーイ市場からプラカノン郵便局前でスクンヴィットに合流する。渋滞の激しい一級の主要幹線だが、沿道の雰囲気は廃れてしまっている。ただ、2000年を越えてから大手スーパーマーケットのロータスとカールフールが道をはさんでオープンしたのと、陸軍の用地を開放してチャトゥチャックを模したルンピニー・ナイト・バザールが完成して、利用価値がますます上がった。2004年7月、ホアランポーンからバンスーまでを結ぶBMTA(地下鉄)が開通したが、始発のホアランポーンからクロントゥーイ駅までの5駅はプラ・ラーム4通りの地下を通っている。

プラ・ラーム9通り
 プラ・ラーム9とはラーマ9世であるプーミポン国王のことであり、同王が開発を命じたことからこの名がついている。バンコク中心部のやや北側に位置し、東西をつなぐ幅の広い道路で、東は空港やパタヤー方面を繋ぐモーターウェイに、西はアヌサワリーやウィパワディー・ランシット通りへとつながるディンデーン通りにそれぞれ接続している。道の中央には高速道路が通るほか、一般道にも立体交差が多く配置されている。

ペッブリー通り
 パヤタイ通りからラーチャダムリ通りを経て、ラームカムヘーン通りとの交差点まで東西を結ぶ道。タイ国鉄やエアポート・リンクとほぼ並走している。正確にはラーチャダムリ通りから東は比較的新しく造られた道で、ペッブリー・タット・マイという。渋滞の名所の一つで、その解消目的で北にプラ・ラーム9通りが拓かれている。

ホアランポーン(駅)
 バンコク中央駅と紹介されることもあり、タイ国鉄の中心となる駅。バンコクの中華街近くに位置し、鉄道主要幹線へのほとんどの列車がここから発車する。また、周辺は渋滞の名所ばかりだが、2004年に地下鉄が開通してアクセスがよくなった。駅舎を正面から入ると、切符窓口右側手前にインフォメーションがあり、行きたい方面を申し出れば無料で時刻表をくれる。また、左手側には出入り口があり、ここからタクシーやトゥクトゥクに乗れる。構内はすべて禁煙になっているので注意が必要。ここの駅前にガイドが多く立っていて、騙されることを恐れた日本人が彼らを無視して通り過ぎる姿がよく見られるが、経験的には偽ガイドに当たったためしがないので、けっこう信用できるようである。

ホイ・クレーン
 小ぶりの赤貝(だいたい栗より一回り小さいくらい)。食材としては、日本人からは考えられないくらいに安く、タイでは焼くか湯がくかして食べる。熱を加えても貝殻が開かないので、指で開けようとすると熱くて困る。少しドブ臭い場合がある。

ホイ・マレーン・プー
 ミドリイ貝。ムール貝(ムラサキイ貝)とそっくりだが、殻が薄く、縁が青緑色になっている。タイではよく食べられており、鉄鍋で香草・玉ねぎなどとともに蒸されたホイ・マレーン・プー・モー・ディンは、下味があっさりしていて日本人好み。

ボーベー市場
 衣服を中心とした卸売市場街。安さで有名。一般人でも購入可能である。

マーブンクローン・センター
 バンコクのショッピング・センターというと、ここに止めを刺す。新しい物好きで、2年前に賑わっていたパブ街がもう廃れているようなバンコクにあって、1985年開業の老舗でありながら格別の支持を集め続けており、来客数は1日平均10万5千人に上るという。内部には個人商店も多く、整頓されきっていない混沌がいかにもタイらしい磁力を放っている。7階建ての一角には東急百貨店が入っているのだが、こちらももはや日系デパートの感覚からは遠い不思議な雑居感が頼もしく感じられる。7階の映画館とレストラン街、6階の一大フード・コート、5階の携帯、オーディオ・アクセサリーのフロア、2階・1階のウェア店やカフェは魅力的だ。BTSサナーム・キーラー・ヘーンチャート(国立競技場)駅に接し、サイアム・スクエア、サイアム・ディスカヴァリー・センターとも難なく行き来できるようになっている。開業当時はアジアで最も大きいショッピング・センターだった。マーさん・ブンクローンさん夫婦が創立者であるためこの名がついたらしいが、大改装に伴い、現在名称を”MBK”としている。だが、その名で呼んでいるタイ人を僕はまだ知らない。

マムアン
 マンゴーのこと。タイでは一般的なフルーツで、ココナツミルクで茹でたカオニャオとともに食べるカオニャオ・マムアンの店はよく見かける。また、パパイヤと同じく熟れる前の青いものをサラダに使ったりする(ソムタムのマムアン・ヴァージョンもある)。ただ、皮をむくときの汁で手がかぶれやすいせいか、移動式屋台のカット・フルーツ屋ではお目にかかれない。

マレーシア・ホテル
 プラ・ラーム4通りやサートーン通りから奥に入ったソイ・ンガム・デュプリーにある、かつての格安ホテル。年とともに値段もそれなりに上昇したが、カオサンのゲストハウスやチャイナタウンの旅社にバック・パッカーが集まる以前は、貧乏旅行者の間では定番だったらしい。ときどき周辺を怪しげなオカマが闊歩している。

民主主義市民連合(PAD・黄シャツ派)
 タクシン首相の不正蓄財疑惑や政府の私用化を訴えた、ジャーナリストのソンティ・リムトーングンが発足した市民団体。元はタクシン政権と結びつきの強かったソンティが、担当するニュース番組でタクシン首相を辛辣に非難する報道をしたため解雇され、その後、ルンピニー公園で聴衆を集めて連日の演説を繰り広げながら、インターネットやケーブルテレビなどのメディアを用いて賛同者を増やし、これがPADとなっていった。チャムロン・シームアン元バンコク都知事もこれに賛同し、この頃から大きな力を持つようになる。タクシン失脚によって目標を達成したが、総選挙でタクシン派であるサマック政権(国民の力党)が勝利したため、2008年5月に活動を再開。8月には首相府やテレビ局などを4か月にわたって占拠したが、強制排除となった。11月になるとふたたび首相府を占領したのち、ドンムアン空港、スワンナプーム国際空港などを次々に封鎖し、サマック後のソムチャーイ首相退陣とともにデモを終了。2010年にはUDD(反独裁民主同盟=タクシン派)がラーチャプラソン交差点やルンピニー公園を占拠した頃から対立した立場からの発言が見られた。国王への忠誠をモットーに、その誕生曜日カラーである黄色いシャツを着て、これを目印としている。

ムァイ・タイ(ムエタイ
 キック・ボクシング形式の打撃立ち競技。相手の首を抱える「首相撲」も認められる。タイでは場内での賭けが認められているため、2ラウンドあたりまでは様子見に徹するほか、試合全体を通してもKO決着は少ない。バンコクで行われているものは、ラーチャダムヌン・スタジアム開催の王室系とルンピニー・スタジアムの陸軍系が主流。

ムーカター
 モンゴル鍋(盛り上がった鉄板で焼きものをしながら、縁の溝に湯を沸かして煮ることもできる調理器具)を用いた食べ放題の店。値段も高くないので、2004年頃からタイ人に大人気。一度取ったものを食べ残すと追徴金がでる。

村本博之
 ロイターに所属していた日本人カメラマン。バンコクでUDD騒動を取材中の2010年4月10日、銃弾に倒れた。犯人は不明。ただ、それまでタイ国軍は威嚇射撃やゴム弾発射など、殺傷を目的としない方法に訴えていたが、この日の衝突では水平射撃を行ったことを認めている。

メリーキング・デパート
 バンコクの百貨店だが、店舗はすべて古色蒼然としており、タイの地方都市のデパートを彷彿させる。ヤワラート通り西端のほか、ウォンウイェン・ヤイ、ピンクラオに出店している。ランシットにも店舗があったが、閉店してしまった。

モーターサイ(バイク・タクシー)
 主にソイの中で人や物を運んでくれるオートバイを使ったタクシー。タイ語で「モーターサイクル」を発音するとこう聞こえる。

モーチット
 バンコク北部の地名で、タイ各処への最大のバス・ターミナルがあることで知られる。BTSスクンヴィット線の始発となっているほか、地下鉄とも連絡している。ここには広大なウイークエンド・マーケットとして有名なチャトゥチャック市場があるが、その場所は大きなチャトゥチャック公園の一部でもある。

モー・ディン
 鍋料理のこと。土鍋の場合にも鉄鍋の場合にも用いられる。

モラーム
 タイ東北部のイサーン地方の伝統音楽。タイの演歌ともたとえられるルークトゥンに比べてテンポが速くて軽快。祭りごとの好きなイサーン人に合わせたように、まさしく踊るのにぴったりだ。「ラーム」という言葉で「モラームを歌う/踊る」という意味になる。タイの国民的スターであるバードことトンチャイと「マー・タムマイ」をデュエットしたチンタラー・プンラーップが有名。

ヤーモー(タオ・スラナリ)
 タイの国土を守ったとされる英雄的女性。コラートにあるヤーモー像は多くのタイ人の信仰を集めている。

ヤム・ヌア
 タイ風辛味牛肉サラダ。各種野菜と炒め肉を、マナーォ(すだち)とプリック(唐辛子)で和えたもの。北タイで食べるとなぜかおいしい。

ヤム・ルアムミット
 タイ風辛味ミックス・サラダ。イカ、エビ、ミドリイ貝、小さい赤貝、干しエビ、白キクラゲ、キクラゲ、空芯菜、春雨などをマナオ、ナムプラー、唐辛子、砂糖などで軽く和えて揉んだもの。唐辛子の量に気をつけないと、一般的には辛く仕上げられてしまうので注意が必要。

ヤワラート(通り)
 バンコクの旧市街の一角に位置し、通り沿いには漢字の大看板がひしめく中華街となっている。他の都市の多くのチャイナタウンが整然とした観光名所化している今日、古きを偲ばせるのにうってつけのヤワラート通りの存在は貴重だといえる。また、他国の中国人がその血を守りながら自分たちの文化を崩さないのに対して、中華系タイ人はかなりタイと同化しており、その意味ではタイの中でも稀有な場所だともいえよう。

ラーチャプラソン交差点
 バンコクきっての繁華街を形成する中心部にある主要十字路。北西に広大なセントラル・ワールド・チッドロム(旧ワールド・トレード・センター)、北東に高級ブランド目白押しのゲイソン・プラザ、南東に旧そごう店舗であったエラワン、アマリンの2棟の商業ビルが構えられている。2010年のUDD騒動では拠点となって2か月以上にわたって占拠されたうえ、セントラル・ワールド・チッドロムは放火されて南部が倒壊した。

ラート・プラーォ通り(ラーップラーォ通り)
 バンコク北部の幹線道路。パホンヨーティン通りとウィパワディー・ランシット通りの交差点からバーン・カピまで、北西から南東へと通じており、一帯は庶民的な雰囲気がある。

ラームカムヘーン通り
 クローン・タン交差点からミンブリーまで続く、バンコクの主要な通り。大型競技場のフアマーク・スタジアムやザ・モールなどの百貨店、シネマ・コンプレックスなどのほか、3万人の生徒登録を有するラームカムヘーン大学が通り沿いにあり、学生の姿が多く、アパートにも彼ら・彼女らの入居が目立つ。渋滞の名所でもある。「ラームカムヘーン」はスコータイ王朝時代のタイ国王の名称である。

ラチャダー・ピセーク(通り)
 一般的にはペッブリー通りからウィパワディー・ランシット通りを結ぶ道路を指すが、地図などでも確認できるとおり、ソイ・アソークやラマ3世通り、チャラン・サニットウォン通り、ウォンサワン通りを含めた環状線(ウォンウィエン・ロープ・ナイ)になっている。ロータス・デパートのあるフォーチューンから、映画館兼複合施設のエスプラネード、ジャスコ、カールフール、ロビンソン・デパートなどが並び、地下鉄プラ・ラーム9駅からスーン・ワッタナータム・ヘーン・プラテート・タイ駅(タイ文化センター駅)間は一大繁華街となっている。その北のファイクワーン駅西側は深夜まで営業している店の多い一帯で、露店が所狭しと詰め込まれており、人通りが絶えない。かつてはこの地域に東急百貨店が進出したが、時期が早すぎて撤退。また、当時世界第2位の敷地面積を誇ったナム・ナック・タイや、大きな海鮮料理店ポー・クン・パォなどもあったが、いずれも姿を消して再開発されている。

ラッタナーコーシン島
 チャオプラヤー川とバンランプー運河・オンアーン運河に囲まれた地域を指す。本来は島ではなかったが、都となったバンコクの防衛のために後者の2運河を掘削してできたため、実際は島ではなく、バンコク旧中心地の地名である。現チャクリー王朝の別称も「ラッタナーコーシン王朝」。市の柱「ラク・ムアン」や旧王宮、王室寺院である「ワット・プラ・ケーォ」などもすべてこのエリア内にある。

ラマ3世公園
 ワット・ラチャナダーやマハカーン砦に接した公園。

ランシット
 バンコク北部にある地域。バンコク最大のショッピング・コンプレックスである「フューチャー・ランシット」や、タイ北部へのバス乗り換え地点として有名。周辺には日系の工場も多い。

立憲革命
 1932年6月24日に発生した革命のことで、タイはここから絶対王政から立憲君主制に移行した。ワチラーウット王(ラーマ6世)以来の王室の財政難により国家存亡の危機に立ち、プラチャーティーポック王(ラーマ7世)は官僚の大規模リストラや給与削減を命じ、欽定憲法策定に動いたが、1932年6月24日、国王がホアヒンでの休暇を取っている間に人民党がクーデターを敢行。国王がこれを了承して、タイ初のプラヤー内閣が誕生した。

ルークトゥン
 タイの演歌的な位置づけにある歌曲の一種。かつてはスロー・テンポな曲が多かったが、近年になるにしたがってアップ・テンポなものが増えた。同様に、以前はバンド形式のみのバッキングであったが、現在ではキーボードに付属したチープな音での伴奏も多く聞かれる。地方出身者の中高年がファンの中心層だが、祭のときには若者にも親しみを持って歌ったり踊ったりもされている。自らの楽団を率いて大活躍したたスラポン・ソムバットチャルーン(1930〜1968年)がルークトゥンの王様、天才としか言いようのないタイ随一の歌唱を誇るプンプワン・ドゥワンチャン(1961〜1992年)がルークトゥンの女王と呼ばれている。イサーンの伝統音楽であるモラームとの楽曲的な境界線が曖昧になりつつある。

ルンピニー公園(スワン・ルンピニー/スワン・ルム)
 バンコクのラマ4世(プラ・ラーム・スィー)通りとラーチャダムリ通り、サラシン通り、ウイッタユ通りに囲まれた公園。一等地にあり、旅行者にも親しまれているほか、池にオオトカゲが生息していることでも知られる。入口にはラーマ1世(現チャクリー王朝の始祖)の銅像がそびえている。朝には中華系タイ人の老人たちの太極拳があちこちで見られて面白い。

ロイヤル・オーキッド・シェラトン
 1982年に開業したバンコクの最高級ホテルの一つ。チャオプラヤー川沿いだが、オリエンタル・ホテルやシャングリラ・ホテルからは少し北に位置し、周辺は庶民的な住宅街となっている。アンティーク販売で知られる高級土産物店のリバー・シティーに隣接。シェラトンはスターウッド・ホテル・グループのフラッグシップで、1937年、アメリカで創業している。

ローイ・クラトーン(ロイ・カトーン)
 タイ陰暦での12月の満月の日にタイで行われる灯篭流し。発祥の地であるスコータイが有名だが、タイ正月であるソンクラーンに並んで、全国的に催される。バナナの葉で作られた、パイに似た円盤形のクラトーン(籠)を川に流す。このクラトーンは花で飾られ、ろうそく・線香が立てられ、自分の爪や髪の毛を入れる習わしになっている。普段水を飲み、水に汚れを流している許しを乞うほかに、インドの川にある仏足跡を拝むこと、不幸を吹き飛ばすことといった意味があるとされている。チェンマイ周辺ではイーペン祭りと呼ばれ、ちょっとした袋くらいの大きさの熱気球コム・ローイを空に浮かべる(ローイ・クラトーンとイーペンはそれぞれ時期にも差のある別の祭りだったが、いつの間にか時期も重なって同じ祭りになったようである)。コム・ローイはここ数年、タイ全土に広がりつつある。近頃では、恋人どうしにとってはお互いの愛を確かめあう行事ともなっている。

ロット・トゥー
 バン・タイプの乗合タクシー。定時はあるが、客が満員になるまで待っているかノロノロ運転をするのが特徴。9人の定員に12人も乗せたりするが、客が満員になってからはけっこうとばす。

ロット・ファイ・タイ・ディン(バンコク地下鉄・MRT)
 2004年7月に開通した、バンコクで2番目となる都市型公共鉄道(1番目はBTS)。現在はともに国鉄駅でもあるホアランポーン〜バンスーを結んでおり、途中のスクンヴィット駅がBTSアソーク駅と、シーロム駅がBTSサラデーン駅と連絡している。

ロビンソン(・デパート)
 タイに数多くの店舗を構えるデパート・チェーン店。百貨店の「セントラル」、スーパーマーケットの「トップス」とは同系会社であり、ロビンソンはこの中間程度の規模の出店をしている。元は別会社だったが、1997年のバーツ通貨危機でセントラル傘下に入った。ちなみに、スピッツの名曲「ロビンソン」は、ヴォーカルの草野マサムネがタイを旅行していたときにたまたま目にしたこのデパートの名前を仮題として曲を作ったところ、この曲名のまま発表したといういきさつがあるらしい。

ワイ(ワーイ・合掌)
 タイ人のものまねといえば必ず飛び出す、タイの挨拶。とはいえ、一般的な生活の場では、買い物をしたとき以外にあまり見ることはない。目上の人や位の高い人などに対しての挨拶で、ワイをされた人は必ずワイを返す。このとき低位者から深くワイをし、高位者は軽くワイを返している。仏教とも結びついているいワイはタイ社会で特別な意味を持っており、日本人ほどは気軽に使われない。

ワット・アルン(暁の寺)
 チャオプラヤー河畔のトンブリー側(西岸)にある有名な寺院。三島由紀夫の「豊饒の海」で「暁の寺」として紹介されていることでも知られる。川からもはっきりと眺められる巨大な石造りのプラーン(仏塔)が特に有名。このプラーンには上ることができて、風が心地よい。この寺の境内には観光客から不愉快な方法でお金をせびる輩が多いので、注意したい。

ワット・パパオ
 チェンマイのチャーンプアック門を東に進んだ位置にある、古くからあるタイ・ヤイ族の寺院。ここでの子の出家を祝うポイ・サンロン祭りは、1994年からタイ政府観光局が後援している。周辺はタイ・ヤイ族のコミュニティーとなっており、寺院の裏手にはタイ・ヤイ族のための商店と食堂が3軒ほど並んでいる。

ワット・プラ・ケーォ(エメラルド寺院)
 現タイ王室であるチャクリー王朝の開祖であるプラ・ラーム1(ラーマ1世)がバンコクの王宮の隣に建立した王室寺院。「エメラルド寺院」の別称の源となる本尊の「エメラルド仏」は、実際には翡翠で作られており、戦利品としてヴィエンチャンから持ち帰ったものである。タイで最も権威のある寺院として知られているほか、バンコクを訪れる観光客にもよく認知されている。また、宝石詐欺など、トゥクトゥク運転手によるトラブルは、このワット・プラ・ケーォ周辺にたむろするドライヴァーによるものが多い。

ワット・ポー
 ワット・プラ・ケーォの南隣りにある大寺院。大きな寝釈迦とマッサージ・スクールで有名。いにしえのタイでは寺が学びの場であったが、健康を研究するマッサージ技法がここで試行錯誤を繰り返したといわれる。また、チェディー(仏塔)が美しく、夜にはライト・アップされる。

ワット・ラチャナダー
 ラマ3世が建立した寺院。尖塔型の黒い屋根を持つビルマ様式の一風変わったローハー・プラサートという納骨堂があることで知られている。境内には猫が多く、和んだ雰囲気を醸し出している。ラマ3世公園に接した位置にある。



台湾

意麺(イー・ミェン)
 日本で喩えるなら塩ラーメンに相当する、あっさり味のラーメン。

サオ族
 もともとはツオウ族と同一視されていたが、文化の差異が認められ、別種族と認定された。水力発電のため日月潭に水没した土地で農耕をおこなっていたが、新たに湖のほとりとなった徳化社に集められ、そこで暮らしている。近くにできた九族文化村に観光客をとられたが、今でも民族舞踊を公開している。

小北夜市(シャオ・ペイ・イェ・スー、府城臨時攤販市場)
 台南の西門路にある一大屋台街。台南各地に散らばっていた屋台を寄せ集めてできた。うまいもの尽くしの台南では、決してはずすことのできないスポットのひとつ。

坦坦麺(タンタンミェン)
 辛味噌を絡ませたミンチ肉を汁にかけたラーメン。

坦仔麺(タン・ツー・ミェン)
 基本的には坦坦麺と同じだと思うのだが、識者の方にご指南いただきたい。

度小月(トゥ・シャオ・ユィ)
 台南は中山路にある老舗の麺店。同じ名を使用している店が台湾各地に存在するのが何より人気の証。名にたがわず、かなりうまい。

ビンロウ
 ビンロウ樹の実を嗜好品としたもの。噛むと高揚作用がある。台湾のみならず、アジア各地に利用者はいるが、年配の低所得者層が多い。台湾の道が赤く汚れていることが多いのは、このビンロウを噛んで出てきた赤い汁が吐き捨てられているため。



●中国
G2000
 香港発のエイジアン・ブランド・ショップ。U2はここのカジュアル・ラインで、G2000はトラッド路線を狙っている。


●日本

アメ村
 「アメリカ村」の略語。大阪市西心斎橋の一帯を指す。この地域は1970年代にサーファーや趣味人たちが集まりだしたことに端を発し、今でも大阪随一のティーンエイジャー密集地となっている。今でも趣味のよい店は多いが、強引な客引きをするような店も増え、当時の「わかる人にだけはわかる」ような感覚は消えた。

エイサー

 沖縄各地で開かれる祭り。

オリオンビール
 沖縄の地ビール。あっさりしていてキレがよい。

小沢健二
 元フリッパーズ・ギターのギタリスト。初ソロ作でプレスから高い評を受け、セカンド・アルバムの"Life"で大ブレイクし、収録曲「ラヴリー」はレコード大賞を受賞。当時の気の利いた女の子の好きなアーティストの名に必ず上る名前だった。渋谷系の元祖としての面目躍如といったところだったが、その後シーンからまったく姿を消した。2004年に新作を発表。

ゴーヤー
 苦瓜(にがうり)の沖縄方言。

さよならアメリカ、さよならニッポン
 はっぴいえんどのサード・アルバム"Happy End"所収のアルバム・ラスト曲。ウエスト・コーストに赴き、リトル・フィートの絶頂期を支えていた時期のヴァン・ダイク・パークスがこの曲をミックス。彼の初ソロ作"Song Cycle"を髣髴とさせるぶっ飛び曲となった。

三線
 沖縄版の三味線で、サンシンと読む。胴に蛇の皮を張っているのが特徴。時々これを蛇皮線(じゃびせん)と呼ぶ人がいるが、失礼に当たるのでやめよう。

シーサー
 沖縄で守り神とされている獅子。沖縄では家々の門扉に鎮座している。

島ラッキョウ
 沖縄で食べられているラッキョウ。日本の他地域で食べられているものより小ぶりで、ネギの根っこのような部分を食する。酢漬けではなく、生や一夜漬け、塩漬けにしたものを食べる。鰹節と醤油をかけて食べると素晴らしくうまい。新しいものはニンニクやネギを思わせる辛みがありつつしゃきしゃきした歯ごたえで、少し日をおくと甘味が出てきて口当たり柔らかく、しんなりしてくる。個人的な大好物の一つだが、バンコクの沖縄料理店では1皿300バーツ(約900円)だった。手が出ない。

鈴木英人
 80年代に活躍したイラストレーター。中学校の教科書として広く採用されていた"New Horizon"表紙のほか、"Fm Station"や「ポパイ」などの雑誌カバーを手がけ、時代の寵児となっていた。アメリカン・テイストな原色のベタ塗り、風の流れを表現するための流線的な幾何学フォルムの描き込みが当時の特徴。

通天閣
 大阪で開催された勧業博覧会のシンボルとして建設された塔。大阪観光名所のひとつだが、近年はちと影が薄い。

永井博
 80年代に活躍したイラストレーター。湯村輝彦に師事し、大瀧詠一の"A Long Vacation"や"Each Time"などのアルバム・ジャケットを手がけた。写真を段階的グラデーションに色彩分解・塗り分けしたようなタッチや、リゾート感覚を押しだしたモチーフが特徴。

はっぴいえんど
 細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂、松本隆の4人のバンド。日本語によるロックの先駆者でありつつ、その後の4人各々の活躍も含め、日本のポピュラー・ミュージックに最大ともいえる決定的な影響を残した。

「普通の女の子に戻りたい」
 当時人気が沸騰していたキャンディーズが、1977年7月の日比谷野外音楽堂でのコンサート終盤で、進行予定にない解散発表を自ら断行した際のMCでの、伊藤蘭によるコメント。突然の解散宣言の話題性も後押しして、この年の流行語となった。マスコミ的には現代の若者の少女趣味的な気まぐれという観点からの批判が多かったが、絶大な権力を誇る渡辺プロからの遺留を押し切っての発表だったことや当時の彼女たちの年齢を含め、プレッシャーの中でついポロリと出た言葉が一人歩きする状態に困惑した。この発言の裏側には、同年7月にメンバーのミキが、母親の入院時に、普通の娘ならできたはずの看病がほとんどできなかったというエピソードが影を落としていると思われる。

僕らが旅に出る理由
 小沢健二のセカンド・アルバム"Life"所収。当時の人気アニメ「将太の寿司」の主題歌でもあった。

「本当に私たちは幸せでした」
 キャンディーズが1978年4月に後楽園球場で行ったファイナル・カーニバル(解散コンサート)での最後の歌唱となった「つばさ」の曲中で残したコメント。この言葉の前に、「この最後の瞬間に何を言えるのか、何を言ったらいいのか、この数ヶ月間ずっと考えてきました。私達の気持ちを一言で言い表せる素晴らしい言葉を」と伊藤蘭がMCをとり、そのあとで三人が声を合わせて「本当に私たちは幸せでした」と続く。解散へのカウントダウンとともに人気がうなぎのぼりとなり、その頂点となった5万5千人を収容してのコンサートは歌謡史上最高と言われ、このキャンディーズからのラスト・メッセージは同年の流行語となった。

牧志公設市場
 那覇の市場通りにある公設市場で、1階の魚屋さんで買った魚を、2階の食堂でさばいて調理してくれる。

Misia
 渋谷系の音楽が沈静化したあとで雨後の筍のように出てきた女性R&B歌手の一人。安定した歌唱力と適度なブラック感覚が好評で、「包み込むように」でブレイク後、息が長い。

ヤオハン
 かつて国内より海外に目を向け、各国に進出した静岡発のデパート会社。1971年、ブラジルに海外初出店を果たし、その後シンガポール、コスタリカ、アメリカ、香港、マレーシア、タイ、台湾、中国、マカオ、カナダ、イギリスなどに進出するが、1997年に倒産し、ジャスコの支援によって国内のブランドとしてはほとんどがマックス・バリューに置き換えられている。



●ビルマ

アウンサン将軍
 「ビルマ独立の父」と称えられる軍人。学生運動のリーダーとしての才覚を買われ、1938年にタキン党党首となる。1940年に日本軍に逮捕されたが、そのことがきっかけで南機関による「30人の志士」を結成。ビルマ独立運動を展開した。その後、初期ビルマの政権の中心となるパサパラを興し、その代表を務めてイギリスからの独立交渉の窓口となった。1947年のパンロン会議では、少数民族をビルマ族と平等な立場に置く彼の方法論と、篤実な性格によって連邦制としてのビルマ建国を合意したが、政敵のウー・ソーの画策により、志半ばで若くして暗殺されてしまった。アウンサンスーチーの父親でもある。

アウンサンスーチー
 NLD代表にして、ビルマ民主化運動のシンボルである女性。父アウンサン将軍は、第二次世界大戦終了後のビルマ独立の父として知られる英雄だが、政敵ウー・ソーに暗殺されてしまっている。インド、イギリスに学び、ニューヨークの国際連合で書記官補佐に就任。1988年にビルマに戻り、反政府運動弾圧が起こったことからNLD設立に加わり、NLDは選挙に圧勝したが、政権から選挙内容は無視され、アウンサンスーチーは自宅軟禁された。その後、軟禁が解かれたこともあったが、また軟禁されるという事態を繰り返してきた。2010年にはビルマ国内で1990年以来の総選挙、NLDの解党などが起こったが、テイン・セイン大統領によってアウンサンスーチーは軟禁を解かれ、NLDの政党再登録認可、2012年の国会補欠戦参加を認められている。

カオスウェイ
 ビルマ風の油っぽい焼きそば。

クンサー(クン・サ)
 かつて麻薬王と呼ばれたモン・タイ軍のリーダー。国共戦で中国から逃れ再戦のチャンスを窺っていた父親とタイヤイ族(シャン族)の母親のもとに生まれ、アメリカの支援で反政府のモン・タイ軍を組織。アヘン・ビジネスでゴールデン・トライアングルと呼ばれるタイ北部・シャン州南東部・ラオス北西部に君臨した。その後、麻薬撲滅に乗り出したアメリカに国際手配を受けるとともに、拠点としていた北タイのヒン・テックを失って南東シャン州のホモン周辺を根城としていたが、1996年1月に突然政府に投降した。しかし、もとよりミャンマー政府にパイプを持っていたクンサーは、アメリカの引き渡しを逃れて政府の援助を受け、財閥を築いた。2007年死亡。

国民民主同盟(NLD)
 アウンサンスーチーが率いるビルマ国内最大の野党かつ反政府組織。1988年9月27日のビルマ国内初選挙で485議席中392議席当選を果たしたが、軍事政権がこれを封印し、NLDの活動を禁止した。ミャンマー政府が定めた2010年5月6日までの政党届け出を、軍事政府主導の不正選挙へのボイコットの意思として行わず解散となったが、2011年にはテイン・セイン大統領によるアウンサンスーチーの開放、NLDの再登録受け付け、補欠戦参加と、党をめぐる状況は大きく変化しつつある。

シャン州
 ビルマ東北部にあるビルマ最大面積の州であり、シャン族・ビルマ族・コーカン族・カチン族・ワ族・インダー族・パラウン族・アカ族・ラフー族・タイ=ルー族などが居住している。主な街はタウンジー・ラシオ・タキレック・ケントゥン(チャイントーン)など。観光客にはインレー湖の足漕ぎ舟や、タイ北端の町メー・サーイからタキレックへの日帰り観光などが有名であるほか、モンスーでのルビー採掘が知られている。「黄金の三角(四角)地帯の大部分を占め、ケシの栽培でも知られる。歴史的背景やミャンマー政府の暴行・略奪などからカレン州とともに独立意識が高く、タイ・ヤイ族(シャン族)やワ族には独自の私兵集団が存在しており、麻薬産業はこれら軍隊への資金源となっている。2011年3月に、タキレック北東の町タリーにマグニチュード6.8の地震が発生し、多くの人命・家屋などが失われている。

シャン族
 タイ・ヤイ族の欄を参照。

タナカー
 ビルマ国内で流通している化粧品の一種。月橘(げっきつ)という樹木を石のすずりで細かくすり下ろしたもので、一般的にはパウダー状、あるいは乳液状で販売されている。肌を冷やす効果があるほか、虫よけ・日焼け止め・香りによるアロマ的効果もある。また、衣服の染みなどに塗ると汚れがよく落ち、飲用することで健康に良いとされている。ビルマではおでこ・頬・鼻筋などに塗りつけている女性・子供をよく見かける。

テイン・セイン
 2007年よりミャンマー政府首相・2011年より軍政後初の大統領。長らく高圧的・閉鎖的な軍政を率いたタン・シュエの忠実な部下であると報道されていたが、大統領就任後には開放的な政策を実行し、アウンサンスーチーの軟禁解除とNLDの再登録認可、政治犯釈放、少数民族との停戦会議など、国際社会に開放的な変革をアピールしており、今後の動向が非常に注目を集めている。

長井健司
 2007年にビルマで起こった反政府運動を首都ヤンゴンで取材中、9月27日に銃撃され死亡したAPF通信社のジャーナリスト。ミャンマー政府は流れ弾に当たったとしているが、携帯電話やカメラ所持者を最重要狙撃対象に指定していたことや、ビデオがミャンマー政府に押収されたまま返却されないこと、メモの一部が紛失していることなどから、軍の組織的な殺害であるとの見方が強い。

ネ・ウィン
 1945年に抗日戦線で戦い、ビルマ独立のために尽力したのち、国軍のトップに立つ。1962年にクーデターを起こし、ビルマ式社会主義政策を採ったが、そのせいでビルマは世界最貧国のひとつになってしまった。1974年から大統領に就任。1988年の民主化要求デモで党首を去るが、強い影響力を保持した。

パンロン会議(パンロン協定)
 1947年2月12日にシャン州の街パンロンで開かれた会議とその合意事項。ビルマ独立に際して、少数民族に自治を認め、英領ビルマを連邦制によって全域を国家の範疇とする協定が、アウンサン将軍と少数民族代表との間に結ばれた。カレン族が4月の選挙ボイコットを起こしたため、ビルマはカレン州を欠いた独立を果たす一方、アウンサン将軍の暗殺によってパンロン協定はビルマ政府によって一方的に無視され、シャンとカレニーに認められていた連邦離脱権も剥奪されている。

ロンジー
 スカート状にして履く腰布。女性だけではなく、男性の衣装としても一般的で、その着用率は非常に高い。女性用はタメイン、男性用はバソーと呼ばれ、布のデザインに多少の違いがある。また、ビルマ国内の民族ごとに布のパターンにヴァリエーションがある。もちろん通気性がよく、暑いビルマでは重宝である。男性はロンジーの背中側に大きめの財布を差し入れて街を闊歩している。


●フィリピン
スモーキー・マウンテン
 生ゴミを焼却処理しないフィリピンでは集積所にゴミの山を作るが、ここで腐った生ゴミが発するガスに自然発火が起こり、常に不完全燃焼の煙が上がっていることからこの名がついた。子供たちがこの危険で不衛生なスモーキー・マウンテンで金目になったりリペアできそうなものを物色していることが、しばしばフィリピンの貧困の象徴として語られる。現在は市郊外のパヤタスがゴミ集積所となり、閉鎖されている。


●マレーシア
ジェティー
 マラユ語で「埠頭」のこと。ペナン島ではジョージタウンを目指すバスの多くがここを終点とする。対岸にある町、バタワースと向かい合っており、アクセス・ポイントとなっている。

バタワース

 ペナン島対岸の町。タイから来た場合、イポー、クアラ・ルンプール、マラッカ、ジョホール・バルなどマレーシア各方面へのバス乗り継ぎ地点ともなる。町の港では、ペナンのジェティー(埠頭)へのフェリーがひっきりなしに往復している。町の南にはペナン大橋もかかっていて、ペナンとは切っても切り離せない関係にある。町はマレーシアにしては珍しく、ちょっとごみごみした感じがする。

リンギット

 マレーシアは、確か2002年ごろから自国通貨を「マレーシア・ドル」と通称変更したが、街から聞こえてくるのは今でも元の呼び名、リンギットである。


●ラオス

カォ・ピアック
 この言葉のままでは2種類の料理を指す。「カォ・ピアック・セン」は断面の丸い米の麺をとろとろになるまで煮込んだ汁物の麺料理で、「カォ・ピアック・カォ」はお粥のことである。「カォ・ピアック・セン」は出汁が日本人好み。

シー・パン・ドン
 ラオ語で「4000の島」という意味をもつ、カンボジア国境に近いラオス南部のメー・ナーム・コーン川(メコン)に点在する島。かつてラオスを含むインドシナを植民地としていたフランスは水上運送を行うために、滝が存在するこの地の島に鉄道を敷設した。今ではその跡地も観光に一役買っている。

ジャンボ
 ラオスの小距離バスの代用兼乗り合いタクシー。屋根を渡したトラックの荷台の両側や真ん中に座席を作ってある。雨季には雨が吹き込み、乾季には未舗装道の土ぼこりを巻き上げるので、長距離移動の際には対策を講じておかないとかなり苦しい移動手段となる。

タイ・ダム族(黒タイ族)
 機織りで有名な民族で、名前のとおりタイ族と源流は同じ。女性の伝統的な髪型が沖縄女性のものと似ている。

タム・マーク・フン
 タイでいうソムタムのこと。未熟のパパイヤを千切りにして、プチトマトやサヤインゲンなどとともに石臼で軽く突き、ナンプラー・唐辛子・マナーォ(スダチのようなもの)などで和えた料理。下味のために干し海老か沢ガニの塩漬けを入れる。ラオスのものはタイのそれより辛さが控えめで、爽やかな食感にそそられる。

タラート・サオ
 朝市。夜の帳(とばり)が降りるのが早いラオスでは、朝、人が動く。ただ、朝市とはいっても、午後になっても普通に開いている。最近では一部が3階建てのショッピング・モールに生まれ変わった。すぐ隣に、ラオス各地への中・長距離バス・ターミナルがある。

ビア・ラオ
 「ビア」はビールのことで、つまり、「ラオス・ビール」のこと。フルーティーで滑らかなコクがあって、東南アジアで最もうまいビールだと、僕は思っている。そのせいか、僕はタイでクラティン・デーン(レッド・ブル)のTシャツを買って着たためしがないが、ビア・ラオのものだけは愛用している。

ムアン・コーン
 シー・パン・ドン最大の島であるコーン島の村。ゲスト・ハウスも数軒存在し、南ラオス散策の拠点となっている。

ラーオ族(ラオ族)
 ラオスの最多民族。タイ王国のタイ族・シャン州のタイヤイ族(シャン族)と同じタイ系民族である。

ランテン族
 漢字を使用する。ラオス北部に集落を持つ。女性の民族衣装は黒を基調にしていて、現在も着用率が高い。

ルアンパバーン
 ラオスの古都。現在の首都、ヴィエンチャンをはるかメコン上流に遡った位置にある。現在はフライトのほか、パクベンを経てフェイサイとスピード・ボートで結ばれている。



●アメリカ

ネヴィル・ブラザーズ
 アメリカ南部のニュー・オーリンズで精神的支柱となっている、ネヴィル4兄弟(アート、アーロン、チャールズ、シリル)とそのバックからなるバンド。90年代中期、「世界最強のバンド」との評にたがわず物凄いグルーヴ感と集中力を見せた。



●ヨーロッパ



●その他の国

レナード・コーエン
 吟遊詩人的な印象を持つカナダのシンガーソング・ライター。人生の苦味を作品に昇華した名作群はこれまで玄人筋の評価が高かったが、近年一般的な評価を得るに至った。

カースト制
 インドでは身分制度が揺るぎのないものになっており、大まかには僧侶、貴族、平民、被差別民という4段階に分かれている。そして、この身分は世襲制となっているので、その階級に属する家族からは同じ社会的地位しか与えられない。
 タイでもこれほどはっきりとした目に見える形ではないが、緩やかなカースト制が存在する。金持ちと貧乏な人とでは遊ぶ場所も知り合う階層も違い、行動の規範的な考え方も大きく異なる。かつて日本の首脳陣が自国の売春ツアーについて開口一番詫びたところ、応じたタイ人たちは憤慨し、「我々をああいった売春婦たちと一緒くたにするのか!」と息巻いたというから、徹底している。



●音楽関連

SE(サウンド・エフェクト)
 曲の効果音として用いる音。主として、音楽と関係のない音が挿入される。例:雨の音・車が通り過ぎる音、など

エフェクト(エフェクティング)
 収録した音に特殊な効果をもたらす処理をかけること。トンネル内のように聴こえるリヴァーブや、やまびこのような効果のディレイ、音を圧縮するコンプレッサーやリミッター、高音・中音・低音など音域ごとのヴォリューム調整をするイコライザーなどがある。

MTR
 多重録音装置。すでに収録されている音を消すことなく、その上に新たな音を追加することができる。ミュージック・テープ時代には一般のカセット・テープより幅が広いオープンリール・テープを使用することが多かったが、ハード・ディスクに直接レコーディングすることが一般的となってからは、圧倒的に扱いやすく、録音できるトラック数も増えると同時に、MTRという呼び方も聞かれなくなった。

クリック(音)
 リズムがずれないように演奏者がヘッドフォンなどで聴く機械音のこと。メトロノーム代わりに音を収録しておき、不必要になった時点で音を消す。普通は「キッ・コッ・コッ・コッ…」と聴こえる。かつてはこれを「ドンカマ」と呼んだ。

シーケンサー
 自動演奏記録装置。DAWやワークステーション型シンセサイザーなどに内蔵されており、音色を選択して器楽演奏を音符入力したりリアルタイム録音などをして保存することで、自動再生できるようにする。様々な音を重ねることによって、楽曲としてのすべての音をシーケンサーだけで作ることもでき、実際に現在の日本のヒット・ソングではミュージシャンの生演奏だけでバックが完成することは珍しいほどになっている。

シーケンス
 シーケンサーによって組み上げたパターン。

シンセサイザー
 様々な音色・機能が付属した鍵盤楽器。「キーボード」はシンセサイザーを含む、さらに広範な鍵盤楽器を示す言葉だが、PC用語としてのキーボードが一般認知を受けるようになってややこしい呼称となった。

スタンド・マイク
 スタンドに立てた状態のマイク。対義語は、手で持った状態の「ハンド・マイク」。

スネア
 ドラム・セットの中で、リズムにひときわアクセントを与える太鼓。裏革にスナッピーと呼ばれる細かいコイル状の金属線が何本か張られ、打ち鳴らされるときにこれが振動して、独特の鋭いアタック音を出す。ドラム・セットの中では普通、右利きドラマーの場合中央からやや左寄りの内側に置く。また、マーチング・バンドなどの中では小太鼓として単体で使用される。

DAW
 シーケンサー機能やMTR機能、ミキシング・エフェクティング機能などを一つにまとめた音楽作製ソフト。それなりに高価だが、プロが使用しているものと殆ど遜色のない作業をこなすことができる。ただし、初心者には取り扱いが難しいうえ、PCにもそれなりのスペックが必要である。

トラック
 リスナー的には一つの曲を指すが、多重録音で使われるときには、その多重録音の一つの格納先を指す。通常、一つのトラックには一つの楽器音が収められ、失敗した場合にはその楽器だけを録音し直すことができる。

バス・ドラム(ベース・ドラム/バスドラ/ベードラ)
 ドラマーの足元に、打面が床に垂直に立てられた大きな太鼓。ドラム・セットの中で最も低い音を出し、足を使ってキック・ペダルを踏むことによってたたく。リズムの基本となり、ベースとの絡みあいが楽曲のリズム感の多くを決定する。一つのドラム・セットの中に2つのバス・ドラムを有する場合には「ツー・バス」と呼ぶ。「ワン・バス」の場合であっても、ツイン・ペダルを使用することによって同じ使用法ができる。マーチング・バンドなどでは肩から釣り、

タム(タムタム)
 バス・ドラムの上部やドラマーの左右などに配置される複数の太鼓の総称。曲のコードやメロディーに関与しない程度に音の高低があり、右利きドラマーの場合通常、左から右に口径が小さく音が高いものから口径が大きく音が低いものを並べる。主にフィル・インで使用。

フィル・イン(フィル)
 「おかず」とも呼ばれ、主にメロディー・パターンの切り替わる際にリズムの表情をつけたり、曲を盛り上げるために入れられたりする手数の多いドラムのパターン。

ブレイク
 バンド演奏においては主に、音を効果的にストップさせることをいう。

フロア・タム
 口径が大きく低い音を出す太鼓。右利きドラマーの場合、通常はドラマーの右側に配置される。胴が長いため、他のタムのようにバスドラやシンバル、ラックなどのスタンドやアダプターを利用せず、フロア・タム下部についている脚を床に直接立てるため、この名称がついている。

リム・ショット
 「リム」と呼ばれるスネアの縁の金属をたたいて音を出すこと。小さなコツコツという音が特徴。



●その他の用語

O-157
 食中毒をおこす菌の一種で、激しい下痢を伴った腹痛がみられる。年少者に死亡するケースも見られ、感染者が拡大した1996年には国内での大きなニュースとなった。なお、正確な表記ではO157となり、O-157という表記は一部マスコミの誤記であるが、当HP上ではOが数字の「ゼロ」を表すのかアルファベットの「オー」を表すのか判別がつきにくいため、敢えて当時よく見かけた表記を用いた。

ゲスト・ハウス(旅社)
 いわゆる安宿のことで、ドミトリーと呼ばれる共同部屋や、扉に南京錠を自身で用意するような個室が用意されていることが多く、バック・パッカーの利用が多い。

コロニアル
 本来は「植民地の」という意味の形容詞だが、建築において、当時の欧米諸国風味を持った造りを指す。

ストップ・オーヴァー
 フライト乗り継ぎの際、空港外に出て宿泊することをこう呼ぶ。経由地にも旅することができるメリットを持つ。殆どの格安航空券ではストップ・オーヴァーでの課金や日数制限がある。

デューティー・フリー
 免税のこと。「デューティー・フリー・ショップ」は免税店。空港の国際線パスポート・コントロール内に多い。

テンポラリー・パスポート
 文字どおり一時パスポートのこと。HP文中では、ビルマ(ミャンマー)からの越境者がタイでの滞在を認められるために取得することで紹介されている。ミャンマー政府の開国政策で変化が予想されるが、長らく続いた軍政によってタイへ流入しているビルマ国籍の人々は母国でのパスポート申請が非常に流動的で高価につくために、とにかくタイに着いてから就労のための滞在許可と医院の利用許可書をを取得し、タイ国内で発行できるテンポラリー・パスポートの申請を行うことが一般的になっている。有効期限は2年で、タイ国外での有効性はない。

ドミトリー
 相部屋の宿。ゲスト・ハウスやユース・ホステルを指すことが多い。

ピックアップ(・トラック)
 軽貨物車の荷台に座席を取り付けた乗合自動車で、手狭な路地、舗装の行き届いていない悪路、乗客の見込みが少ない路線などで活躍している。タイではソン・テウと呼ばれている。

マンマンデー
 確か台湾で使われていた言葉で、「ゆったり、のんびりした気質」のことを言う。日本ではこれを仕事や人間関係に関してマイナス・イメージに用いることが多い。

ミニマム・ベット
 最低の賭け金。その額がカジノのグレードを表す。

旅社
 中国人が経営する安宿。アジア各地にあり、バック・パッカーからはゲスト・ハウスのように使われている。バンコクではヤワラート方面に多い。

ロンリー・プラネット
 略して「ロンプラ」とも呼ばれる、オーストラリア発行の旅行ガイド・ブック。日本を代表する「地球の歩き方」に比べてヴォリュームがあり、情報の趣も違って、バック・パッカーの間では重宝されている。今では日本語版もメディアファクトリーから出版されている。










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