福岡

ただの風景から人になる瞬間

 出張を繰り返すサラリーマン時代、最もなじみが深かったのが、ここ福岡だった。ホーム・タウンに戻らない日が何日も続くと、仕事のことでしか口を開かない毎日が寂しくてたまらなくなり、かといって時代は今のようにネットでつながってもおらず、やがて、仕事を終えるとカウンター席で酒を片手にネタ・ケースの向こうのお兄ちゃんやおっちゃんたちと話をするようになる。ここにきてようやく、僕にもなぜ中年サラリーマンが赤ら顔で店員さんや店の主人に酒やビールを勧めるようになったのか、その片鱗が見えるようになった。人には、それぞれの理由が、ある。

 ある夜、親不孝通りで飲みつぶれた。道の脇でうずくまったまましばらく顔を上げることもできなかったが、「大丈夫ですか?」という声がかかった。声の主は、大学生らしい、男女のグループだった。
 「大丈夫ですよ!」僕は立ちあがった。それは、都会の中で耳にするはずのない救いの声だった。今にも吐きそうな蒼い顔をしている泥酔人など、街の景色の一部くらいにしか僕も思っていなかったし、自分もそう思われているのだろうと決め込んでいた。そんな僕に声がかかったので、驚くやら嬉しいやらで、胸元から喉に上がってこようとする不快な粘液はすっと姿を引っ込めてしまったのだ。
 赤ら顔の男女グループは、「あ、どちらから来られたんですか?」と、イントネーションの違いに気づく。肩を抱えられた僕が大阪から出張でやって来たサラリーマンだと知ると、「タクシー、あっちですよ。一緒に乗って行きましょうか?」と笑っている。「本当にありがとうございます」僕はタクシーの窓から手を振った。戻ったホテルの鏡に映った僕の顔には、ちゃんと赤みがさしていた。


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