平良(宮古島)

オトーリ

 台風と湿気にやられまいとした白壁のコンクリート造りの街並みが、南国の日差しに反射して眩しい。島内をスクーターで一周すると、大海原を吹き抜けてきた風が全身を包む。シーズン・オフの浜にはほとんど人はいない。砂浜は、沖縄本島ではあまり見なかったような、見事な白砂だ。

 酒を出す店に夜訪れると、「オトーリ」と呼ばれる酒の酌み交わしが始まる。店の扉を開けると、まず先客から泡盛を勧められる。先客の側でも返杯をうけて一杯飲む。自分が店にいる間に別の客がやってくると、今度は自身が酒をふるまって、自分でも飲む。これが延々と続くので、その凄さを噂には聞いていたが、気がつけば僕は店のトイレで気を失って倒れていた。
 翌日、見晴らしのよい岬に泡盛の空き瓶が10本ほど転がっているのを発見した。
 「オトーリのあとですよ」
 タクシーの運転手さんはこともなげに言う。




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料亭「葵」と洲鎌三味線店

 九三年の六月、サラリーマンだった僕は仕事で訪れた宮古島で飛行機会社のストに遭って大阪に戻れなくなった(非常にうれしいことに)。昼にはつまらない業務連絡を取りつつ島をスクーターで気ままに回って、夜には泡盛を飲んで過ごした。料亭「葵」のご主人にあれこれとお話につきあっていただき、そんないきさつで三線(沖縄の三味線)の店を紹介してもらった。
 翌日うかがった「洲鎌三味線店」は全く普通の民家で、門扉を入ると御老人が一人、来るべき台風に備えてか、雨戸のレールをカンナで修理していた。尋ねると、彼こそが家主の洲鎌さんその人であった。「葵」のご主人に訊いた処によると洲鎌さんは宮古ではテレビ出演などもしている有名人なのだそうだが。
 洲鎌さんは見るからに頑固じいさんの風貌だった。明らかにヤマト(沖縄の方々は琉球列島以外の日本人・土地をこのように称する)の身なりをした僕を一瞥して、居間に上がるように無愛想に僕を促した。そこで麦茶を出してもてなしてくれたのが、洲鎌さんのお弟子さんである友利さんだった。彼女は「始めたばかりなんですよ」と言いながらとつとつと三線を弾いたり、それこそ数え切れないくらいの世間話を交わしたり、お茶菓子を勧めてくれたりした。友利さんと僕とは、失礼な話だが、三十ほどは歳が違った。それなのに、なぜか友利さんのお話は僕の気持ちに直接流れ込んでくる体温があった。とても確かなコミュニケイションがあった。
 気がつけば四時間ぐらい経っていたのだと思う。長居しすぎた僕は、それでももう少し話したい未練を実はうっすら抱えながら、おいとますることにした。そのとき、友利さんはこう言った。「たぶん、お若いあなたとおばあさんの私がこんなに話すことができるのは、前世で出会っていたからなのでしょう。今世では無理でしょうが、また来世で会いましょう。そのときにはあなたがおじいさんで、私が若い娘かもしれませんよ」……白状すると、僕はそのとき不意に目頭が熱くなったのだった。
 その夜「葵」で、結局三線は売ってもらえなかったことを報告した。洲鎌さんに「三線は島の言葉が分からない者には売らない」と言われてしまったのだ。島歌の楽器を島言葉の分からない僕が使えないことには、僕には当然至極の理由に思えた。洲鎌さんは僕といる間、「宮古の言葉しか話せない」と言って、彼の言葉は全て友利さんが通訳してくれていたのだが、「葵」のご主人と奥さんは「それはからかわれたんですよ。テレビではとても流暢な標準語を話してるもの」と大笑いした。だとすると、洲鎌さんは友利さんと僕との会話もすべて分かっていたのに、黙って四時間も聞いていてくれたのだ。
 そのとき突然、僕の帰り際に洲鎌さんが慌てていたのを思い出した。奥の工作室から三線の材料を取り出してきて組み立て始めたのだ。そのとき初めて僕は、無口で頑固で照れ屋で、おそらく人づきあいの上手でない洲鎌さんが組み立て始めた三線が僕のためのものであったこと、宮古では三線店と言えど、需要が多くないのでたぶん三線は受注販売していて、ふらりと現れた旅行者が所望したところで店頭販売や在庫などないのだろうことに気がついたのだった。

沖縄の島々は、そこを知っている人々には<僕(私)だけの特別な場所>だ。それを誇張だというあなたは、こんな駄文を笑い飛ばす前に、彼の地にあなたの足で降り立ってみるがいい。そこに暮らす人の声の湿り気を感じたり、遥か海の彼方からの風が皮膚を撫でるのではなく細胞組織の間を通過していくとき、あなたに何物かが触れはしないだろうか?

 友利さんは、洲鎌さんは、「葵」のご夫婦は、今も元気だろうか?


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