コザ


なぜ「コザ」なのか?

 「アジア」と聞くと、なぜか旅人の多くは「中国」とか「イラン」とか、ましてや「日本」だとかを連想しない。なぜか申し合わせたように「タイ」だとか「インド」だとかの名があがってくる。これを沖縄に当てはめると、多くの場合が「那覇」や「北谷」や「万座毛」ではなく「コザ」。それは、東京がやっぱり首都然としているように、那覇もやっぱり県庁所在地然としているせいだともいえるし、それがいいのか悪いのかはともかく、米軍基地の街として発展してきたコザは、一方で芸能の街としても栄えているという、複雑に絡まりあい関係しあってきた都市の功罪・光と闇のコントラストの激しい街だからだともいえると思う。そして、この街は以前、全国で唯一のカタカナ名を持つ市として知られた。今は「沖縄市」という味気ない名前になってしまったが、街の人々は今でも愛着をこめてここをコザと呼ぶ。その「コザ」という呼び名自体、今でも残るこの地の「胡屋(ごや=GOYA)という地名を誤って「コザ=KOZA)」と記してしまったことに端を発すると言われている。このエピソードこそがコザの立脚点を表しているように思えてならない。


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「てるりん館」にて照屋林助さんを訪ねる

 取材などについてときどき僕は考えてしまう。名刺はもって行くべきか、MDなどで録音するべきか、これまで発刊してきたフリーペーパーを持参して望むべきか、前もって質問事項や進行をガチガチに決めてしまうべきか、なんて。その具合に よって取材は内容がけっこう決まってしまうところがある。名刺で挨拶して、マイクをセットしながら質問を繰り出す―――そういった基本的な取材形式をとれ ば、「ああ、キチンとした取材なんだな」と安心してもらえる反面、かなりフォーマルなカタい答えしか帰ってこなくなる。ちょうど敬語のようなもので、敬語 を使うと僕の信用性は上がるけど、くだけた話は敬語ではしにくいもんだ。そしてまさしく、僕はそのくだけた話が聞きたいがために取材しているのだ。だが、 僕みたいなどこの馬の骨だかわからない若造が初対面の人のフトコロにくだけた感じで自然に……なんてちょっとムシがよすぎる。
 照屋林助さんにインタヴューを申し込んだあとも、僕はそのことで頭を抱えた。照屋さんは漫談家で、それこそ「話す」ことにかけてはプロ中のプロなのだから、 状況がどうあれ、興味深いお話を聞かせてくれるには違いないのだが、間題は僕自身の姿勢にあるのだ。僕が申し込んだインタヴューなのに、その出来を他力本 願にまかせきってしまうことは、なんとも情けないことじゃないか……。結局僕は、納得できるアイデアもないまま出掛けた。いくつかの質問事項と、名刺と、MDを携えて。
 ワタブーショーという、照屋さん独特の漫談と歌を交えたステージは、彼の自宅の二階が会場(それが「てるりん館」だ)として用いられ、まとまった観客の入数か集まった日に催される不定期の予約制ライヴなのたが、この日はわがままを聞いてもらうような形になり、観客はたった二人。そのことでも僕はいっそう恐縮してしまった。そして始まったワタプーショーは……。
 照屋さんはリハーサルを終えると、「今日はこの人数ですから、差し向かいのような形でやりましょう」と声をかけてくれた。そして、いきなりの話題が「沖縄と大阪の関係」についてだった。ああ! それはまさに、僕がその日用意していた最大の質間事項だったのだ。なぜ沖縄の人に大阪へ出て来た人、あるいは大阪に暮らした経験のある人が多いのか、逆になぜ沖縄や宮古・石垣などに大阪の出身者が多いのか、なぜ大阪とのフェリー便が多いのか。それは黒潮と偏西風のせいだった。沖縄に船を浮かべると、海流と 風の影響で自然に大阪近海へ流れ着くのだ。また、この海流は紀州沖で南向きにぐるりと一回転し、ふたたび琉球諸島方面へ流れて帰ってゆく。その名残だそうだ。大阪に沈む見慣れた夕日のずっと向こうにある沖縄とつながっている潮と風―――そう、このお話を聞いただけで僕はもう、なんというか、そうとう胸をこがしてしまったのだ。

 神様は海から来ると信じられている沖縄では、おばあさんたちが今でも海に手を含わせているところを見ることがある。そして、沖縄では「予祝」をする。豊作なので神様にお祝いを捧げるのではなく、「今年も神様が遠い海のかなたからいらっしゃるだろうから、豊作は間違いない」とあらかじめお祝いをしてしまうの だ、と照屋さんがおだやかに話してくれたとき、僕は突き上げられるようななにかをおさえるのにやっとだった。貧しかった沖縄では、たぶん刈り入れの時期に 豊作を祝えるほど収穫があることなんかほとんどなかったにちがいない。それで、彼等は「予祝」するようになったのだろう。それも、「神様は笑うところにやって来る」と信じて、精一杯祭りを楽しむのだ。そこでは神様を飽きさせないようにと毎年手かえ品かえ新作の民謡を披露したりして。

 照屋さんのお話には圧倒的な映像がある。そしてどのお話にも部屋を飛び出て世界へ広がってしまうような解放感があり、それなのにその世界のどこかに自分が小さくても確実に存在している、世界とつながっていることの確かさも同時に感じさせてくれる。それはたぶん彼が「話芸」をしている域にはいないからだろう。 およそ「芸」と名のつくものは殊に日本では大切にされ保存され、生きた化石よろしく「文化財」になってしまう。しかし、照屋さんのお話はあくまで照屋さんそのものであり続ける。話芸はあくまで手段。彼は存在そのもので僕等に話してくれているのだ。

 これは物書きのはしくれである僕には痛烈な一発だった。しゃべるにせよ書くにせよ、僕はやたらむちゃに言葉を羅列して表現するタイプで、「よくまあそんなに言葉を並べたてられるもんだ」と半ば感心され、半ば呆れられる。これはしかし、どう考えても潔くないところがある。誤解をおそれているフシがあるからだ。 だが、なんということだろう。そんなこんなで坤吟している僕の目の前に、照屋さんは瓢々と眩しすぎた。そして気がつけは、フォーマルに行くか親しげに行く か、なんてくだらないことに悶々としていた僕に、彼は明確な答えをとっくに出していた。このワタブーショーは僕達を交えた話のやり取りで進められていたの で、すでにインタヴューはワタブーショーの中に吸収されていたのだった! 客席との垣根のないショー。寓話とも現実ともつかないそのショーという時間・空間に融和されて業務的でも世間話でもなくなったインタヴュー。
 まるですべてを見透かされたような偶然に僕は興奮したが、これだって照屋さんのなせるわざだったのかもしれない。よく、たまたま自身があることに興味をもったら、急にそのことについての情報やなんかがしきりに目につくようになることってあるでしょう。会話を目や耳でじゃなく存在そのものでしている彼には話さなくてもそのときの僕の状態が自然と聞こえてしまう、そんなこともあるかもしれない。貫禄たっぷりなのにまったく子供の笑顔。その外見は照屋さんの惜しみなく自身を生きてきた証に見えた。


※ 照屋林助
漫談家、民謡歌手、俳優、催眠術師、心理学研究家など、あらゆる顔を持つ。長く録音ソースを残さなかったが、「平成ワタブーショ」シリーズ(オーマガトキ〕をリリースした。りんけんバンドの照屋林賢の父。




footprints

懐かしさの残る街角。
台風に備えた低い石造りが特徴。
東南植物園

ハイビスカスは沖縄の顔。
東南植物園

餌に群がる魚の多さに仰天!
高台から眺めたコザの街並み。


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