MUAN XING


万物流転

 小さな村には、その規模だけに経済発展の渦潮に巻かれるのはきっととんでもない速度だったのだろう。ここはもう以前訪れたムアンシンとは似て非なる場所だった。

 焼畑の影響でどこでいてもどの時間帯にもうっすらと煙い村には、中国製の電気スクーターが走り、24時間送電が止まらなくなったことからATMも数台稼動している。村の外れに移転した市場は、この村の規模から考えて相当に大きくなったが、どこにでもあるような味気ない建物になってしまい、それとともに、旧市場では買い物客に混じって集まっていた動物たちも姿を消し、独自の衣装で着飾った少数民族の訪問も少なくなった。

 外国人にはまだ開放されていないが、ムアンシンは中国国境に程近い村で、近年の中国の経済成長と南下政策の影響をもろに受けたことが、こんなにも如実に形となって見えるのも珍しいくらいのモデル・ケースとなった。以前は中国飯屋でくすんだ色の服を着込んで肩を寄せ合うようにご飯をかきこんでいた中国人たちは、今では土地を買い占め、村のメイン・ストリートを肩で風切って闊歩している。その経済影響に、家を新築できるようになった村人たちは中国人たちの存在を認めている。

 農業を中心に、けちな貧乏旅行者たちを相手に細々とした観光業を加えただけの村は、ようやく懐を温かくすることができた。幸せが訪れたこの村の人々に「よかったね」と声をかけるのが本当はよいのだろう。しかし、僕は、そして以前のこの村を知っている旅行者たちは、きっとあの頃に出会ったかけがえのない美しい輝きを忘れることはないだろう。想い出はそっと引き出しにしまっておくもの。ひとりごちながら、僕は村をあとにした。


=2003年訪問時の記事=

涅槃乃至は桃源郷

 朝は神秘的な霧に包まれ、昼は太陽光に鋭く射られ、夕暮れは軒先で人々が薪を燃やす煙が立ち昇り、夜は星空があまりにも近い。ムアンシンは「天国」という西洋的な言葉よりも、「桃源郷」というイメージにより近い。あるいはそれを「涅槃」と呼んだっていいと思う。リアリティーという意味ではこれほど生活空間から遠く感じる地域も珍しい。それは単に高地にあるせいで酸素が薄いからなのか? 否、こうして日本であの町の写真を眺めたって僕は記憶が薄らぐような錯覚に陥る。あるいはそれは、祖父母から伝え聞いたかつての日本の風情の幻をタイム・トリップ的にこの町に重ねて見てしまうからかもしれないが、確信が持てない。誰か彼の地で確かめてきてほしい。


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素朴さについて ― 2003年の風景

 ほうほうの体で夕刻、ムアンシンに到着した。タイ国境に接したメコン沿いの街、フェイサイから、軽トラックの荷台に椅子を取りつけたピックアップに揺られること8時間。ルアンナムターまでの道中は、ラオス人のおばあさん3人以外にはイギリス人・ドイツ人・スイス人・オーストラリア人・アメリカ人・シンガポール人と僕という、なんとも国際的な面々で、旅の情報交換を始め、車内には会話の花が咲き乱れていたが、誰の眉根にも深い縦皺がくっきりしている。というのも、ピックアップの座席は土埃でもうもうとしているからだ。

 当時、ラオスは主要幹線であっても未舗装道路がほとんどだった。しかも、山賊が出たり、途中で事故やスタックのために車が立ち往生してしまうことが多かったりするため、こうしたピックアップは通常3〜4台の同時発車で、グループになって運行している。そのため、先頭車両以外のピックアップ乗客は、先を行く車が巻き上げる土埃をもろにかぶることになる。途中休憩になれば皆の顔にも安堵が洩れるが、そこにいるだけではもちろん先に進むことはできず、僅かばかりのオアシス滞在を尻目にまた眉間を疲れさせることになる。

 アジア人の多くがそうであるように、シンガポール人と僕は寡黙だった。シンガポール人は英語を第一言語としているはずなので、僕のような英語コンプレックスは抱いていないはずだが、西洋人たちの質問に正確かつ律儀に答えるものの、そのあとに会話が続かないことを端的に発言するだけで、どうもお固い性格であるらしい。僕の方には、コンプレックスだけではない理由もあった。この土埃対策として、編み目の荒いカンボジアの布「クロマー」で鼻と口をマフラーよろしく幾重にもぐるぐる巻きにしていたから、声がこもって会話しづらいのだ。いや、それだけではない。車中のみんながちらりと羨ましそうにクロマーを横目で見るのを、僕は先の長い道中、
「たまたま僕はこんなものを持ってきていてラッキーだったようです。みなさん、ご愁傷様です」
という態度で過ごさなければならない。誰の目にも、土埃が立ち始めた瞬間、僕が鞄から取り出したクロマーをぐるぐる巻きつけ始めたのを注目し、とりあえず僕が「アラブ人女性に見えるかい?」とくだらない冗談で返したのを失笑で迎えた軽率さへの反省が浮かんでいる。

 からだがすっかり木像になり代わったかと思しき頃、ようやくルアンナムターに着き、ここからまともなミニ・バスに2時間揺られて、ようやく目的地、ムアンシンに辿り着いた。このバス、車内禁煙ではない。宵闇で満たされた薄暗い車内で、旅行者がこぞって煙草に火をつける姿は、夢の世界のように不確かな手触りのものだった。バスを降りると、めいめいが思い思いの方向に歩きだす。僕が投宿する宿で一緒になったのは、フェイサイから乗りあわせたドイツ人とイギリス人だった。なんとなくこの3人の取り合わせというのに頷く。もう一組はスイス人・アメリカ人・オーストラリア人が一緒になって、そちらの宿は翌朝立ち寄ってみると、多くの西洋人が朝っぱらからオープン・スペースで酒を飲みまくっていたので、なおさらそう感じるのだった。

 「明日、洞窟に行かないか?」、ドイツ人は宿の扉を開けた僕に、出し抜けに声をかけた。「いや、装備もないし…」と断ると、おかしなことに、「ヘッドライトは2つ用意しているんだ」とザックから取り出して見せる。コンパクトにまとまった荷物の中に、どうしてヘッドライトが2つ入っているのか、故障したときの予備なのか、それともナンパに成功したときのためのものなのか、真偽は定かでない。その夜、彼とイギリス人との3人で、旅行者のたまり場になっているタイルー・レストランに出掛けた。その帰り道、いっせいに村の明かりが消えた。送電終了の時間だった。灯が消えてしまうと、乾季の冴え渡った満天の星空に包まれて、僕らは無言になって月明かりを頼りに宿へ歩いた。

 翌朝、すでに少し賑やかになった外の物音で目覚め、窓が曇りガラスになっているのを発見した。露が降りているのかと思ったら、村が深い霧に包まれていた。寒さに身を震わせながら市場に行く途中、民族衣装を着た人だけは霧を通してでも割合早く見つけることができた。金属製品や原色を多用した衣装を身につける少数民族たちは、もしかすると、この霧の中でもお互いを発見しやすくしているのかもしれない。まだ村の真ん中にあった市場には、人だけでなく犬や猫、豚やガチョウなど、動物たちも思い思いに売り場を巡っており、一日のうちで最も活気のある時間を過ごしている。

 日本に電話をかけねばならず、電話局で長い列に並んだ。村にはまだ固定電話を自宅に持っていない人が多く、携帯電話などもちろんない。僕の順番がやってくると、電話用の個室の窓には村人たちの好奇の目が注がれる。電話が終わると、いったいこの旅行者はどれだけのお金を払うのかと、みんなは固唾を呑んで見守っており、告げられた額を払おうと鞄を開けると(当時は高額紙幣が発行されておらず、ラオスではちょっとした買い物のためには財布にお金が入りきらなかった)、村人たちはこぞって鞄の口に首を突っ込み、僕はまったく中を覗き込めないのだった。

 昼の1〜2時頃になると、昨夜の消灯のように、いちどきに霧が掻き消え、とんでもない青さの空から刺すような日が降り注いできた。日向に立つと、暑いというより少しばかり肌に痛い。それでいて日陰に入ると薄ら寒い。長袖がいかに山の生活に大切なものなのかを思い知る。レンタサイクル屋に行くと、置いてあるのは、日本で昔、新聞配達に使われていたがっしりと重いもので、子供たちもこの大人用自転車を乗りこなしている。時間と空間が途端に不安定になり、自分がいつの時代のどこにいるのか分からなくなる。かと思えば、そうとう大きな作りつけの小屋を運んでいる人々に出くわすと、老若男女誰もがいっせいに手伝おうと駆けつけ、自転車に乗っている人は、鍵もかけないどころか、スタンドすら立てずに道の脇に寝かせたまま、小屋を持ち上げる人々の群れに飛び込んでいくのだった。そもそもレンタサイクルの店で自転車を借りたときにも、鍵はないと言われた。「こんな小さな村のことで、泥棒なんかいないから」と、店主は慎ましく微笑んだ。

 夕刻になると、申し合わせたように、各家の前で焚き火が始まった。ある家はそこでごみを燃やし、ある家はその火で料理を作ろうとしていた。みかん色の空に向かっていっせいに立ち上っていく煙は、彼らの姿そのもののように見えた。大きな自然に向かって、心細くたなびきながら、あるときには風にあおられながら、それでもひとつの筋を描いていた。夜の帳が下りて、つかの間の通電時間に、人々はテレビを楽しんだり、明かりの下で話に花を咲かせたりしていた。この村には夕方5時から8時半までしか電気が来ない。そして、また明かりが消えると、人々のスイッチも切れた。村に静寂が訪れ、犬の遠吠えがやけにくっきり聴こえる。こうして村は眠りに就く。「素朴さについて」という大仰な題名をつけてしまったが、それが何なのか、僕には今もって説明することはできない。しかし、当時のムアンシンがそれを持っていたことは間違いないと思う。どうしてこの小さな村が特定の旅行者から愛されてきたのか、それが今の僕にはよくわかるのだ。大切なものは、失われてからそれがどれだけかけがえのないものだったかを知る。





2013年訪問時
夕方の焚き火の風習はいまも残っている
しかし、焼いている人の姿が見当たらないことが多くなった
夜になった村一番の道

人通りは少ないが、村の夜は圧倒的に明るくなった
しかしこんな土の道がまだほとんど
高床式はわかるが、この家はなぜここまで高くしているのだろう?
村のみんなに向けた放送がよく流れる
音がちょっと大きすぎやしないか?
お母さんが「カメラよ!」と促すが、子供は完全に人見知り
散髪屋の風景は心が和む
自転車に乗っている若いお坊さんが多かった
城の痕

壁だけがわずかに残っている
村の南にある寺
村の中心にある寺
ツーリスト・インフォメーション

以前は織物を売る店だった
ムアンシン博物館
タイルー・レストラン

外国人旅行者の憩いの場
2階はタイルー・ゲストハウス
ナムピック(具入りつけだれ)の野菜添え

タイルー・レストランで光る一品
カォ・ピアック

タイルー・レストラン向かい左手の麺料理屋にて
あっさり味でいける
和平飯店(へーピン・レストラン)

以前はシンチャルーン・ホテル別館だった建物で、その後プーイーウー旅行社となって、今度は中華料理店になっていた
きゅうりとトマトの冷製サラダに、中華式ベーコンとパプリカの炒め物

和平飯店のメニューで、この村で最もおいしい食事だった
値段は60万キープと高かったけど
ムアンシンの新市場

村の規模にしては驚く広さ
朝には持ち込みの露天売り子が元気だ
新市場の麺料理屋が並ぶ一角

一番右の店が群を抜いておいしかった
カォ・ソーイ

幅広麺に肉味噌を入れるのが本来のカォ・ソーイ(ラオス・ビルマのシャン州で共通している)
北タイのものとはまったく違う
北タイ・ビルマのシャン州にも見られるトナゥ(納豆)を市場で発見
日本の納豆とは違い、ペースト状にしたり、それを乾燥させてせんべい状にしたりして使う
村の中心にあった市場の跡

ここは以前阿片の一大取引場所であったという
3階建ての立派なホテルに生まれ変わるらしい
村にはATMも登場
もちろん24時間使用可能
市場近くの中国雑貨マーケット
中国製の電気オートバイ(右)

ムアンシンで数多く見かけた
こちらは普通の荷台つきバイクだが、ナンバーは雲南省のもの
中国語の看板

気分はすっかり中国
ムアンシンの新バスターミナル

市場のすぐ向かいにある
日が暮れるとトゥクトゥクもまったく見当たらなくなるので、ご注意を
シンチャルーン・ホテル

2階の部屋の方が広くて快適
1階は50万キープ・2階は60万キープ
従業員はやる気まったくなし
オーナーが従業員に任せきりにしているかららしい
アカ族のデーン村

急斜面にへばりつくように村がある
ムアンシンから7キロ
アカ族のデーン村

子供たちはほとんどがお金をせびる
アカ族のデーン村

大きな豚がけっこう目についた
アカ族のデーン村

信仰上、こういう構造物がアカ族の村には必ずある
タイ・ルー族の少年僧たち

近づくピー・マイ・ラオ(ラオス正月)に向けて、ロケット花火を作っているところ
タイ・ダム(黒タイ)族の村にて

織物で有名な民族
伝統的な女性の髪形は、沖縄に似ている
2003年訪問時
家の前で焚き火に木をくべる少女
宵に各家の軒先で煙が薄くたなびくさまは幻想的
中国国境まで18km
中国人の姿も目につく
空が広い
夕焼けは圧倒的に迫る
野菜のクイティヤウ
まさに自然を食べている感覚
人だかりができていると思ったら、作り付けの小屋を運んでいた
女も手伝う
ムアンシンの市場には子供も動物も遊びにやってくる
ムアンシンの朝は深い霧で始まる
この写真は少し霧が薄くなったときに撮影したもの
中国との国境
ラオス人、中国人以外は通過できない
霧の朝には彼女らの衣装がよく映える
かつて日本でも新聞配達に使われていた自転車が、ここでは主役
中国製のトラックが多い

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