SAVANAKETT


神が与えた夕焼け

 空が高くて青かった。そして、メコンに沈む夕日を西に眺められるこの街の夕暮れ時は、もう掛け値なしにすばらしい。日が傾きだすと、人々は涼を求めて川べりや縁側に出てくる。人々はシャイだ。それでも、カメラを向けるといい笑顔が返ってくる。秘めていた好奇心を覗かせる。
 屋台が立ち並びはじめ、老若男女がぷらぷらしだす。あっちの店ではビール片手にルーレットに金を張っていると思えば、こっちではメリーゴーランドに乗っている子供たちがキャッキャはしゃぐ。
 この街の日常は退屈だといえばたしかに退屈だ。川を隔てたタイのムクダハーンの街は、タイの中では小さな田舎街だが、それでもこことは比べ物にならない華やかさと賑わいがある。でも、それだからこそ、ラオスで2番目(※)に大きいというサヴァナケットはほかにない落ち着いたやさしさを湛えている。そして何より、神様は雄大なメコンの夕焼けをこの街に与えられた。サヴァナケットにはそれがよく似合う。

※ 1998年訪問時にはラオス第2の街だったが、その後パクセーと入れ替わった模様




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パノムポーンとペッサモーン

 日本人宿を避け、旅の中で日本人と接触する機会を自分からは持とうとしない僕だったが、僕の姿形はジャスト・ライク日本人で、間違えられたとしても韓国人だといわれる程度なので、おのずと向こうから声がかかる。僕とて、べつに日本人との接触を拒否しているのではなく、ただ、旅しているからには同胞日本人と過ごすより、できるだけ旅した場所に触れ、そのテイストに包まれていたいからという理由だけなので、ちょっとした軽いつきあいも生まれたりする。
 その日、たまたま散歩のときに知り合ったS君と待ち合わせがあったので、宵になってから彼のホテルの前まで出かけた。約束より早く着いたので時間を持て余しているとき、近くの民家の2階に人の姿が見えた。こちらの様子を窺っているようだ。「怪しい者じゃないよ」と、手を振って微笑んでみせる。「友達を待っているんだ」とタイ語で話しかけてみた。驚きとともに、声の主たちは階下へ降りてきた。それがパノムポーンとペッサモーンだった。
 タイ語を話せる旅行者は、サヴァナケットでは珍しいようで、話が弾む。やがてけっこうな時間を遅刻して登場したS君には、その後の夕食の約束を丁重にお断りしてしまった。二人とも、今話をやめてしまったらもう二度と僕とは会えないとでも思っているような雰囲気だったからだ。その夜、僕たちは二人の家の軒先で2時間ほど話したあと、すぐ近くの中華料理店が評判なんだと案内してもらって別れた。店の前でたむろしていた人々は、珍事件でも起こったかのように、ご近所さんに案内されて食事にやって来た僕の一挙手一投足を見つめていた。

 翌日、何のあてもない僕は、ふらりと二人の家を訪ね、そこで昼食をご馳走になった。タイ料理よりはあっさりした、日本人好みの味だった。しかし、昨夜の二人は留守だった。まだ学生らしく、学校に行っているとのこと。食事のお礼を告げて立ち上がると、パノムポーンのお父さんらしき人が「もう少しゆっくりしていきなさいよ。二人はもうすぐ帰ってくる」と言う。不思議な気分になってきた。前夜に自宅の前で知り合ったばかりの、女子高生の娘の帰りをもう少し待って、会ってやってくれとお父さんに促されているというシチュエーションに。
 たしかにそれから小1時間ほどで、彼女たちは家に帰ってきた。その表情は、タイ人のはち切れんばかりの笑顔ではなく、もっと恥ずかしがりやで控えめな、日本人の僕には見覚えの多い微笑みだった。そして、パノムポーンとその友達と一緒に、街の郊外にある動物園まで、自転車をレンタルして出かけることになった。爽やかなサイクリングとなるべきはずだったが、レンタ・サイクルはサドルが尻に痛くて10分も走ればつらい代物だし、日中の暑さはただ事ではない。動物園はたしかに憩いの場として爽やかでほの温かい空気を醸し出していたが、正直なところ、僕はホテルのベッドに倒れこみたい気分でいっぱいだった。

 3日目の夜、翌朝には対岸のムクダハーンに渡って、タイに戻ることを二人に話した。すると、ペッサモーンがすうっと席を外した。パノムポーンに気を利かせているようである。二人きりになって、パノムポーンは首を横に振った。
「いやだ、このままここにいてほしい、あなたは日本人ならいくらでもこの街にやって来ると言うが、あなたのように優しい日本人はどこにもいない」
 うすうす気づいていた展開だとはいえ、僕は慌てた。
「僕は今、無職だ。日本人は長期旅行をするのに、多くの場合は仕事を辞めてやって来ている。僕もいつまでもこうしているわけにはいかない。かといって、仕事をラオスで見つけることは難しい。僕はバンコクで仕事を探そうと思っている」
 「それなら、私を連れて行って!」
 どこかで見たことのあるようなストーリーだ。でも、これは絵空事ではなく、実際に僕はその物語の中心に位置して、次のセリフやアクションを求められている。だが、その続きのうまいシーンは、僕には作れなかった。また、うまく作れば作るほど、純粋な女子高生の心を翻弄する悪役にはまり込んでいくことも、分かり切っていた。
 パノムポーンはメコン岸に僕を誘った。この家からすぐそこなのだが、そこは僕らには別の意味で遠くであるべきはずの場所でもあった。婚前の男女が二人だけで日の落ちたデート・スポットに赴くというのは、おそらくよほどの覚悟が必要なのだろうから。そのことは、中華料理屋の前まで送ってもらったときの人々の痛いほどの視線や、動物園での家族連れたちが向けた目の丸さから十二分に感じとることができていた。しかし、このお誘いを断ることはできなかった。夕食の店を案内してもらうことや、動物園まで一緒に出かけることの意味の深さを事前に察することができないような異邦の男は、このデートの申し出をお断りするような言葉もまた、持ち合わせてはいなかったのだ。
 川べりに腰を下ろした僕らはしかし、もうぽつりぽつりとしか話すことができなかった。ひとつには、僕らを取り巻く人々の視線が好奇と緊張に高ぶっているのを肌で感じることができたからでもある。そして、それ以上に、僕らがお互いに遠く離れた存在であることが明白に投げ出されていたからでもある。僕らの距離は、大河メコンを隔てるよりももっとはるか、南シナ海をも東シナ海をも挟んだ遠さにあった。黙りこくる彼女に、僕はこれまでの生い立ちや日本人の日常を、思い出すようにぽつぽつと話したが、すべてが川に運ばれていくのを見届けるしかなかった。遠い先、この流れはやがて海に流れ出すのだろうけど、その姿を想像することすら僕にはできない。

 DPEから戻った僕は、バンコクから彼女に、写真の入った封筒を送った。サヴァナケットを離れてから1週間。その手紙がちゃんと届いたのかどうか、僕にはもう知る由もない。住所を知ろうとするとひと騒ぎになって、パノムポーンの家族が近隣のあちらこちらに訪ねて回らなければならなくなり、やっと書き留めることができた住所もなんだか心許ないものになっていたからだ。封書が届かなければ、それはそのまま僕らの距離だったんだと思ってあきらめるしかない、そう考えることにした。

 あれから10年以上の歳月が流れ、僕はサヴァナケットよりもっともっと遠い地を出身とする連れ合いを得ることになった。東南アジア社会への理解が深まるとともに、自身の若気の至りがどんな意味をもっていたのか、少しは感じられるようになってきた。だからこそなおさら、パノムポーンには幸せになっていてほしいと願う。いつの日か、「お互いに歳を重ねたね」と笑って再会できる日が来てほしいと願う。




footprints

メコン河畔にて

青年も日傘を手にポーズ。
ラオスの若者・子どもたちはカメラにほどよくサーヴィスしてくれる。
下校時なのかな

カメラを向けると日傘を下ろしてくれた。
笑顔が眩しい。
お寺の前にて

靴磨きスタンドの少年たち。
ひとり遊びをしていた男の子も、カメラの前ではお行儀がよくなる。
街角の郷愁感は東南アジアで一番かも。
家の軒先で涼をとる女の子たち。
犬も人も穏やか

野良犬はその国の人々の性格を覗かせてくれるものだ。
メコン河畔にて

おなじみのいかりマークだが、山国ラオスで見るとちょっと不思議。
大河の水運盛んなりしころの名残か。
空はどこまでも青い

高い建物がほとんどないので、空の存在感が大きい。
対岸のムクダハーン(タイ)を臨む

明かりが多くて、「街」なのだなぁと感じさせられる。
メコン河畔にて

日中の暑さに河畔も静寂に包まれている。
対岸ムクダハーンの展望台から見たサヴァナケット

こちらは緑が多く、近年叫ばれ続けている「共生」の理想的な形に見えてしまう。
郊外の道

夕暮れ時になるとほっとする。
郊外の動物園にて

どの動物も退屈そうである。

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