基隆 CHIRON

日本最西端からたった110km

 日本を除くなら、僕のはじめてのアジア旅行は、この基隆から始まった。夜10時に仕事を終えた僕は、家で30分でつめた荷を片手にとりあえず港に出て、そこの切符売り場で「どちらまで?」と訊かれて、そのときに行き先を台湾に決めた。3日目の昼に入港したときの基隆は、どんよりした空とくすんだ色の海と、灰色の軍艦が並ぶ重苦しい街だった。降り立った僕を迎えてくれたのはバイクと車の排気ガスに煤けた街並み。・・・それが、どうしたことだろう。その後すっかりこの島が好きになった僕は、再びこの街に訪れ、仰天してしまう。すべてが、この街の活気の中であたかも必然であるかのようにいきいきと輝いて見えた。日本最西端の与那国島から110km。青い空・青い海の沖縄諸島を越えてやってきたときの僕には自然環境が無秩序に破壊されているようにしか見えなかった風景が、諸問題を抱えながらも人間が文明という幻を求めてたどってきたささやかな証に写った。そうして、僕はまた一つ、人にやさしくなれる気がした。
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廟口夜市

基隆は港街なので、魚貝類が安くてとてもうまい。これは同じ港街の高雄や、「食といえば台南」と台湾人が口を揃える台南と比べても、なお一歩ぬきんでて見える。愛四路でビンロウを噛み続けていたオッサンがやってた店のアサヒガニの炒めものは、特に絶品


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飛龍で出会った仲間たち

 初のアジア旅行だと息巻いていたタイ行きが、ひょんなことからボツになった。そこで急遽飛び乗ったのがフェリー飛龍である。この船は当時大阪〜那覇〜宮古島か石垣島〜基隆(チーロン:台湾)を結んでいた(1999年に運航会社である有村産業が倒産しており、現在はもうない)。このフェリー、春休みとぶつかったことで、大阪から那覇までは学生からオヤジライダーまでを詰め込んでお祭り状態だった。即席合コン会場となった船内では、波の揺れに慣れもないのに飲みすぎたお調子者の男たちがトイレで唸り、女の子たちに鼻で笑われていた。そんな躁状態の船も、那覇を出るときには県内移動のローカル線風情に衣替えしていて、まるっきり顔ぶれが変わったので驚いた。そして、石垣島で日本の出国スタンプを受け取る段になると、もう乗客は数えるほどになっている。何人かの台湾人らしき人たちには数名のお見送りがあり、どんな事情があるのか、目頭を押さえている。さあ、これで旅情に浸るにはもってこいだ。

 デッキで2度ほどすれ違ったことのあるドイツ人女性Aさんと、お互い始めて行く台湾についての情報交換をするようになった。彼女には特有の不思議な体臭があった。味に置き換えれば「にが味」になるとでも言えばいいのだろうか。ヴェジタリアンだということで腑に落ちた一方、僕はその匂いから「日本を離れて世界に飛び出した」という感慨を受け取っていた。Aさんは東洋世界をぐるっと回る旅の途中で、中国から韓国を経て日本に入り、台湾から先は東南アジアを目指すとのこと。タイに入れなかった僕には羨ましさもあったが、「もしかすると台湾を舞台に国際ロマンスが…」という下心も、実は少しなりともあった。

 そんな心理を察知したのだろうか、ほどなく彼女に日本人女性旅行者Bさんを紹介された。Bさんはこれまで石垣島の民宿でバイトしていたが、そこを辞めて、次の目処がつくまでしばらく台湾を巡るのだという。なるほど、日焼けして引き締まった彼女からは、若くして泰然とした旅への余裕が満ち満ちている。僕らは誰もが初台湾訪問であり、まだ見ぬ土地の話は尽きなかった。けれども、フェリーの限られたスペースで時間を過ごす以上、それなりの隔たりもキープしておく必要性を暗黙のうちにお互いが持ち続けていた。静かなデッキは、もう何日か海上だけで過ごしているのに、不思議と飽きがこなかった。

 コバルト・ブルーの海がにわかに灰色味がかれば、もう基隆港はすぐそこまで来ていた。国鉄時代の駅の改札かと見まごう港の入管を抜けると、誰が言い出すでもなく、僕らは自然と「さて、どこに行こうか?」と3人で行動をともにすることになっていた。淡い期待はかき消えたが、ほとんど何の予備知識もないままやって来た台湾に、頼りにできそうな同伴者がこうして現れた。

 そのまま鉄道に乗って台北に出てきた僕らは、ガイド・ブックのトップに太鼓判扱いで紹介されているゲスト・ハウスに荷を解いた。だが、このゲスト・ハウス、どうして評価がいいのかさっぱり分からない代物だった。古ぼけたビルの階段の途中からは施錠されていて、人を呼んでも毎回、しばらくは誰も出てこない。共同シャワーはヌルヌルで真っ黒になった床に一度石鹸でも落とそうものなら、もう二度と使う気になれないし(実際僕は落としてしまった)、宿のおばあさんが順番を知らせてくれるまで、一日一度しか使えない。ベニヤで途中まで仕切っただけの壁のうえ、窓がないので、他の部屋で出た小さな音も反響してうつろに響く。蚊が多いので、各部屋で焚いている蚊取り線香が眼に痛いくらいである。おまけに宿主のおばあさんは気難しいのを絵に描いたような人で、何事にも命令口調。門限の時間も早く、これではおちおち遠出もできそうにない。その夜、近くの小さな素食の店で麺料理を堪能しながら、僕らはゲスト・ハウスの悪口で結束力を固め、翌日から他の宿を探すことに全力を傾けることにした。

 初めての台湾の街は、行き交うバイクにくすんだ街並みの、エネルギッシュなだけで大した面白みのなさそうな場所だった。約束どおり、翌日台北駅前にそこそこ居心地のよさそうなゲスト・ハウスのドミトリーを確保した僕らは、そこで出会った日本人男性C君を加えて故宮博物院(グーコンポ―ウーユェン)に繰り出した。確かに展示品には圧倒された。その宝物を1年に一度総替えして、20年後にようやく一巡するという話にも仰天した。けど、それより僕らに博物院行きのバスの乗り場を尋ねられた女子高生たちが、「私たちも知らないんです」とさんざん道行く人に訊いて回ってくれたうえ、その場所まで案内してくれた頃には1時間近く経っており、自分たちの目的だった陽明山(ヤンミンシャン)には行けなくなってしまったことを爽やかな笑顔で明かしてくれたときの方が、はるかに鮮烈な印象をもたらしてくれた。道中、C君が「トイレット・ペーパーの芯を抜いて持ち歩くのがバック・パッカーの常識」だとか、「ガイド・ブックを買うのは軟弱もののすること」だとか、アジア旅行指南を延々と続けるわりには、バス乗り場探しにちっとも使い物にならなかったので、僕たちのために文字どおり額に汗してくれた女子高生たちがいっそうキラキラして見える。

 さらにその翌日、僕たちは初めて別行動をすることになった。フェリー上での僕のようなかすかなトキメキの予感をリアルなものにしたいのか、AさんとBさんのどちらにくっついて行こうか揺れているC君を尻目に、台北の繁華街に出て、人いきれの中をひたすら歩きまくった。人酔いといってもいい、不思議な熱のようなものに包まれている自分に気がつく。街がダイレクトに感じられる。一人きりが孤独であるのは間違いないが、それはまったく悪くない気持ちだった。

 夕刻、目的地の一つだった主婦之店(ジュプーチーティエン)というライヴ・ハウスで開演の時間を尋ね、それに合わせて足を運んだ。黄小琥(コウ・シャオフー)や林蒙(リン・メン)という面々は全盛期を過ぎた「過去の人」らしいが、それだけに円熟したエンターテイメント性を発揮している。これがきっかけで、日本に留学していた頼さんと朱さんに出会った。二人の語学留学先が、僕の卒業した高校のすぐ近くだったことも手伝って話が弾み、夜更けまで3ステージすべてを堪能したあとで、頼さんに「僕の自宅に泊まれば?」と誘われた。僕たち3人は誰もがこの出会いに興奮していた。二つ返事でOKして、さっそく頼さんの車で、荷を取りにゲスト・ハウスに戻った。新車の匂いでいっぱいの頼さんの車越しに見れば、駅前のゲスト・ハウスの入居しているぼろビルが二人の目にどう映っているのかは手に取るように分かった。でも、そんなことに躊躇しても、何も始まらない。

 ほんの数日間だけだが、一緒の空気を吸い、一緒に歩を繰り出し、一緒にねぐらを探した仲間が、午前に入ったというのに、僕の帰りを待っていた。
 「こんな時間までどこへ行ってたの? 心配したんだよ」
 そのひと言は嬉しかった。だからこそ、荷を引き上げて立ち上がる腰がやたら重かった。階下で頼さんと朱さんが待ってくれていなければ、「よろしければ、後日にしてもらってもいいですか?」と電話でもかけただろう。
 でも、僕は気づいてしまった。旅のドラマとは人との出会いなのだ。名所旧跡にもリゾート地にも繁華街にもおいしいものにも驚きや感心や発見がある。だけど、本当に心に残るのは人間なのだ。それも、旅行先の地域と分かちがたく結びついた人の体温なのだ。陽明山ハイキングに行こうとしていた女子高生や頼さん・朱さんがそれを教えてくれた。

 Aさん・Bさん・C君との出会いも確かにこの旅の中で忘れられないできごとだろう。でも、僕らはこの地に様々なものを「与えられる」だけの受動的な旅人どうしだ。語りあい、思いをともにして、お互いに頼りあうことはできるが、与えあい、触発しあい、汲み入れあうことはできない。僕たちが一緒に行動することで、僕らは外界に見えないバリヤーを張ってしまう。団体でいる旅行者に話しかけてくる外国人の多くは商売人なのだ。違うたとえで言うなら、僕らはこのままでは連れだって台湾という映画を見ている観客に過ぎない。自分がスクリーンの中に入り、演じることがなければ、僕たちの台湾は限りなくヴァーチャルに近いものになってしまう。

 さんざん心配をかけておいて、あっさり出て行く。ドミトリー仲間としては最低の部類だ。C君の鼻にかけた旅行指南弁舌を非難する資格はゼロである。それでも僕は行く。人にはそれぞれの旅がある。非日常へ飛び込んでいくことが旅ならば、僕はここで「仲間を見捨てた」とは考えるまい。その思考方法がそもそも日常の側にあるものだからだ。
 「心配かけてごめん。でも、俺、行くわ。みんなも元気で!」

 それ以来、僕は旅先で旅行者とつるむような旅をしたことがない。今となっては、もう少し「観客」に回ってもよかったんじゃないかと思うほどである。ただ、海外でつるむという意味では、この3年後にタイに移り住むようになったので、バンコクの職場仲間を中心に、Bさん顔負けに10年以上在タイ日本人とつるみまくっているのだが。

 ちなみに、その後僕にとっての台湾は、くすんでいたなんていう初印象が冗談だったかと思うほど、やはりあの女子高生たちのようにキラキラしたままなのである。




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