高雄 KAOXIONG

大阪にソックリ?

 台湾第二の都市は、なんとなく立場が大阪に似ている。工業・商業を中心に栄えた街の性格や、「台北(首都)の人々はみんな冷たい。高雄の人々には場がある」などと口々に言うところなどソックリだ。これといった見どころがなく、電車で4〜50分行ったところに古都、台南(日本では京都)が控えているのも瓜二つ。台北の人に言わせれば、高雄の人は気性が激しいそうだ。その反面、僕には情が厚いようにも感じられる。


旗津(チー・チン)
 もとは半島だったが、高雄とつながっていた部分は船舶の出入りのために掘削され、今では島状になっている。渡し船(バイクもどっさり乗り込む)で渡ると、海鮮モノの店がズラッと並ぶ。値段も安いし、アサヒガニの焼きものなど、日本では値の張るものも気軽に食べられる。砂浜があって、西子湾(シー・ツー・ワン)とともに家族連れやカップルの姿が目立つ。ただ、浜からは見えないが、この辺りには海に面した大工場が多いので泳ぐにはあんまりかも知れない。

●西子湾よりフェリーでアクセス。


六合夜市(リウ・ホウ・イェ・スー)

 街の真ん中にある夜市で、明け方まで賑わう。台湾の屋台街は日本の縁日に感じが似ていて、なんだかホッコリした気持ちになる。水ギョウザに逸品が多い(食べ慣れると、日本のギョウザは何なのだろうと思えてくる)。坦仔麺(タン・ツー・ミェン)坦坦麺(タン・タン・ミェン)にもおいしいのがいっぱいあるが、これは台南が本場なのでパスするとして、西の端に近いところにある意麺(イー・ミェン)の店があっさりしてなおかつうまい。タコなどトッピングすると最高。


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家惠と遙遙(チァフェイとヤオヤオ)

 フリーペーパーの取材で、道行く人に「この街の楽しいスポット」として教えてもらった「黎舎(リーシェ)」という店は、ライヴハウスにもなると聞いてきた。道を説明するのが難しいからと、原付の後ろにのっけてもらって、着いたところがカウンター・バー。ちょうどそこに通りかかった若者たちに場所を確認すると、「私たちも黎舎に行くのよ」と、仲間の女性がバーの横にある階段へと僕の手を引いた。
 「一人で来たの?」
 「そう」
 「友達は?」
 「いや、一人で来たんだ」
 「じゃあ、いっしょに騒ごうよ」
 それだけのやり取りで、僕らは友達になった。

 その夜、彼ら・彼女らの仲間が続々と店に集まったり帰って行ったり店を変えたりする中で、店に僕の手を引いた家惠を囲んで何やら密談が始まった。フロアに踊っている中に、家惠が一目ぼれした男の子がいるという。すでに彼は、仲間ではなさそうだけれど彼に気がありそうな女の子の輪の中で踊っている。どう切り込むか―白羽の矢は僕に立った。いかにも日本人風情である僕は格好のキューピッド役。
 だが、話しかけても、彼には英語がまったく通じない。このときには、大学で第二外国語として選択していたにもかかわらず、僕はほとんど中国語を理解できなかった。あきらめて席に戻る僕。だが、不思議に思った彼が僕のあとを追ってきて、皆が家恵を紹介し、この逆転劇は成功に終わった。そして僕は報酬として浴びるほど酒を飲まされた。

 その夜から2日間、僕は家惠の実家に泊まることになった。家惠は若い女性だ。遠慮したが、向こうも強引である。どうも、一人でディスコに来るようなさびしい日本人を放っておけないらしい。僕だって、黎舎がライヴハウスでもあると聞いたから行ってみただけで、ディスコで一人酒を飲もうなどとは思ってもいなかったのだ。話の埒が明かないので、僕は家惠の家に行くことになった。もちろんお父さん・お母さんもいる。でも、誰も何も問わなければ、何も語りかけても来ない。歓迎されざる客であろうことは雰囲気も含めて充分わかるのだが、家惠はちっとも意にかけていない。こうして、僕はそれからしばらく、旅行者というよりは彼女の付き人のように後ろをついて回ることになった。

 黎舎には遙(はるか)と名乗る女性もいた。オリエンタル美人の彼女は、日本で3年ほどいたという。彼女は中正路のロータリーに面した場所でブティックを経営しており、そこが彼ら・彼女ら仲間の集いの場所ともなっていた。毎日誰かがやってきては、その日の遊び場や夕食の場所を決めている。遙は僕にはやたらと優しい笑顔で、できる限りの日本語で話しかけてくれたが、台湾の男には冷たかった。そして、その冷たい表情がさらに彼女を美しく見せるようなところがあった。彼女は中国風に2文字の名前で「遙遙(ヤオヤオ)」と呼ばれていた。それが本名なのかどうかは分からない。

 4ヶ月経って、再び高雄を訪れた僕は、迷くことなくまっすぐに遙の店を目指した。そのときには友人を伴っていたので、彼とともにまた浴びるほどの歓待を受けた。ホテルでの食事も頬が何度も落ちたし、別のディスコにも連れて行ってもらった。忙しいうえに、いつも取り巻きの中心にいるにもかかわらず、的確なタイミングで程よい心遣いを見せてくれる遙は、常に人間関係への配慮を欠かさないはずの日本人である僕たち二人に、歓待とはどういうものなのかを教えてくれる生き字引のようだった。
 そのときにはもう遙のブティックに顔を出さなくなっていた家惠は、声を失うほどひどくやつれていた。顔にも血の気がなく、青白い頬は少しこけて影を作っていた。そして、遙とは対照的に、彼女は僕の友人を視界にまったく入っていないものとして扱った。そのおかげで、連絡が取りづらくなってしまい、家惠とはその後ほとんど顔を合わせることなく台湾をあとにした。

 さらに翌年の春、また僕は高雄にいた。そこで、遙の店が潰れてなくなっていることを知った。ここを拠点としてのつながりだっただけに、僕にとってそれは高雄での友達を一挙に失うことでもあった。そこで、か細い心当たりではあったが、遙がディスコで紹介してくれた大立伊勢丹で働いている中偉(チョンウェイ)のことを思い出し、そこで彼と会うことができた。しかし、遙の行方も分からず、かろうじて家惠が台北にいることを知った。
 「家惠のことが好きなの?」
 彼はそう言って笑った。その眼には、ただからかうだけではない含みがある。
 ただ、彼の取り計らいで、台北にいる彼の友人の情報から、家恵の携帯番号がわかった。それだけでもありがたい。
 台北での家惠は、以前ほどでないにしても、かなり生気を取り戻していた。新しくできた年下のボーイ・フレンドは親切で、家惠にちょっとした幸せが訪れたことが僕にもわかる。家惠とボーイ・フレンドは「うちに泊まっていきなよ」としきりに勧めてくれたが、自由に街歩きをしたかった僕は、その申し出を断った。それが彼女と会った最後となった。

 バンコクで仕事を始めてしばらくしたころ、職場に家惠から国際電話があった。驚いた。用事ではなく、ただ日本の僕の実家に電話したら、この電話番号を紹介されたのだという。その内容はもう思い出せない。ただ、家惠が何を思って電話をかけてきたのかは、海外での人々の姿に慣れつつあった僕には、うっすらと気づきかけているような気がしていた。
 台北でいるときにはバーでウェイトレスをやっていると言っていたが、家惠には高雄での仕事はなかった。そして、遙の店でツケで買った洋服の代金も払わないでいることも、僕は知っていた。痩せこけて目の焦点もしっかりしない彼女の姿は、あの遙に連れて行ってもらったディスコで声をかけてきた男と同じような興奮を貪ったあとの空虚な肉体ではなかったか。家惠にかかってくる電話のいくつかは、ガサツな中年の男の声ではなかったか。昼にまったく用事のない家惠は、たまに夜だけ僕を連れてゆけない用事で僕に街歩きの自由時間をくれなかったか。だからこそ、若くてまじめそうなボーイフレンドができて、彼女は落ち着きを取り戻していたのではなかったか。もちろん、すべては想像の世界の話である。それが誤りであってほしいと僕自身願っている。でも、家惠の実家の、あのコミュニケイションの冷え切った感触が蘇ってくると、僕にはそんな暗い妄想が沸いてしまうのだ。異邦人だからこそ、僕が彼女たちのそばにいると人間関係の釣り合いをとることが自然にできたのかもしれないが、異邦人だからこそ心の奥底までを語り合える友にはならない。ただ、お互いにとって懐かしく素敵な思い出になってゆくしかないこともまた事実なのだろう。

 だからこそ、幸せになっていてほしい。心から、そう思う。




footprints

旗津への船着き場周辺

海鮮屋台が軒を連ね、どこもうまい!
CASA

日系レストランなのだろうか?
御書房

台湾の茗茶をいただきながら、贅沢な時間を。

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