台北 TAIPEI


玉手箱を開いてみれば

 中正改め桃園国際空港から出た市内行きのバスを市街地で降り立った瞬間、懐かしさの油に身を浸された。この匂い。それぞれの国にあるその街独特の匂い。嗅覚は、ここがかつて心底愛した台湾であることを宣言していた。匂いというのは五感の中でもおそらく最も説明がつきにくい。言語化・映像化されず生のまま記憶に生きているだろうか、嗅覚の引き起こすタイム・スリップ感は実に力強い。

 アジアの、しかも都市にはできるだけ過度な期待をしないようにしてきた。バンコクがここ十数年でどんな厚塗りの化粧を施してどこまで人情味を失くしたかは、在住者としていやというほど味わっているし、ヴィエンチャンやプノンペンの変貌にも肩を落としてきた僕が、思い出の詰まった台湾の首都に輝く記憶を重ねてその延長戦を期待するのはお門違いだということは、肝に銘じすぎるということはないと自分に言い聞かせていた。それに、美しい思い出はそのままとっておくのがベストだと、僕の中の賢者もささやいていた。それでも台北に降り立ったのは、たまたま日本帰省時のフライトが台北経由となったからで、ストップ・オーヴァーも無料だったせいだ。今回行かなければ次のチャンスはあるのだろうか、そのときちゃんとからだは動くのだろうか。大した期待のないまま、僕は玉手箱を開けてみることにした。

 予定調和のように、台北の街並みはすっかり変わっていた。郊外にもぴかぴかの高層ビルが立ち並び、バイクの群れが一定量で車に変わり、街にはカタコトの日本語を話す人が増えていた。ちょうどお盆だったので、日本人観光客の姿もいたるところで見かけた。鄙びたムードが得も言えぬ味を醸し出していた迪化街はシンガポールのチャイナタウンのようなテーマパーク感を見せ、圓環に至っては総ガラス張りに大型電光掲示板の輝くスポットに変身していた。街ゆく人々がそれぞれ身に纏った無言の距離感がしっかりと築かれており、いつものように苦い気持ちが胸を覆った。

 それなのにどうしたことだろう、たった1泊して24時間滞在しただけの台北が、あれから1ヶ月ほど経とうとしている今も、毎日胸を焦がす。日記を開くたびに台湾のことを書こうとする。

 以前僕が台湾を立て続けに3度旅した1997〜8年は、哈日族(ハーリーズー)という日本ブーマーたちが登場していたまさにその沸騰の坩堝にあった。それと知らずに若い独身日本人男性として台湾に足を踏み入れた僕は、あちこちで熱狂的な歓迎を受けた。今となっては本当に大切な思い出だ。でも、僕は今、それとはまた違う文脈で台湾にもっと触れたいと思っている。その「文脈」って何なんだ? 長らく答えは見いだせなかったが、ある日ふと気づく。台湾は僕にとってセクシーな街なんだと。

 「セクシー」という言葉はそっくりそのまま、旅行者としてかかわった時期に僕がこのタイに抱いた強い印象だった。当時の恋人がタイに対して嫉妬した理由が、今になって僕にもよく理解できる。それはダイレクトに女性を意味するセクシーさではない。街の持つ祝祭性やその諸刃の剣にある翳、そのにおかれた一旅行者が感じる可能性などをひっくるめた熱のようなものだ。そしてあの台北の街の匂いにも確実に繋がっている。しかしなぜかそれは女性に対して抱く熱情と似ている。だから、僕は自分で自分に驚いた。以前タイに感じたセクシーさは「長い結婚生活」に収斂され、「セクシー」の称号が今や台湾に冠せられ、立場が全く逆になっているのだ。

 僕はきっとまたそう遠くないうちに台湾に行く。あの匂いに包まれ、まだあると信じている可能性に触れてみたい。

 タイに住むことになる端緒を開いた台湾は、僕の原点である。







1998年の記事

日本志向・中国の血・台湾探し

 世界で最も日本の好きな人々が多いのは台湾ではなかろうかと、この国を旅した人なら誰もが思うだろう。だから、その国の首都はやはり東京化を目指すはずだ。しかし、対日感情が非常に悪いはずの韓国の首都ソウルの表通りが日本のそれと似通った雰囲気を強く醸し出しているのとは正反対に、台北は所謂アジアン・テイストを強く匂わせる街である。一般的に言って、中国人は世界中にチャイナ・タウンを形成するように、自身の中国人であるという出自を強く意識する民族であるから、それは理解できないことではない。が、その街並みの肌触りがバンコクとも似ているのはどういうことだろう?

 アジアン・テイストを求める旅行者たちは口をそろえて台北のことを「期待はずれ」だという。それは旅行者たちの「選択はずれ」なのではないかと僕は思う。日本を志向しながら中国人の血が立ち昇ること、祖国である中国に隔たりを感じ、懸命に台湾人としてのアイデンティティー探しに駆られるその姿こそが、国家でも植民地でもない台湾という地域、そしてその首都の台北の素晴らしさではないか、と僕は思う。


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頼さん

 当時台北きってのライヴ・ハウスであると紹介されていた「主婦之店(ジュプーチーティエン)」では、入店後すぐに黄小琥(コウ・シャオフー)のステージが始まっていた。欧米のヒット・ポップスも交えた選曲は耳馴染みがよく、小さなハコの特性を活かしきった客席とのやり取りも、言葉がよく分からないものの、リラックスした楽しさは十分伝わっていた。何曲目かを歌い終えた黄小琥は、不意に視線をこちらに向けた。
 "Are You Japanese?"
 気の効いた返事もできず、ただ慌てて「イエス」と答えるだけの僕は、いかにも四角四面な日本人そのものだ。
 "I know about Japanese, only Sony, Toyota, Honda...スミマセン!"
 会場からどっと笑いがおこる。ベーシストが舞台脇に逃げる仕草をしながら中国語で何か一言。また渦巻く笑い声。

 次の曲に滑り込んだタイミングで、今度は隣の席から日本語が飛んできた。
 「日本人の方ですか?」
 「ええ」
 微笑みながら、台北でライヴ・ハウスを訪れるような日本人客は僕以外にもいるものなんだなと半ば感心しかけていたら、
 「僕たち、日本に留学してました」
 生粋の台湾人だったのであった。

 声をかけてくれた頼さんは、僕の通っていた大阪にある高校のすぐ近くの語学学校に2年留学し、台北に戻ってきて間もないとのことだった。同席している朱さんは大阪留学のときに知り合ったガール・フレンド。二人とも、たった2年だけの学習とは思えない日本語を話すが、渡日以前にはほぼ日本語に縁はなかったという。この日の3ステージが予定どおり終わると、頼さんにぜひうちに泊まっていってほしいとせがまれた。大阪から船でやって来て、駅前のドミトリーに潜り込んでいた貧乏旅行の僕にとっては、願ってもない話だった。
 とはいえ、ライヴ・ハウスのステージがはけた深夜のことである。見ず知らずの外国人を自宅に引っ張り込む息子は、頼さんのご両親にどう映るだろうか。グラスを交わした弾みで出てしまったお誘いの言葉ではなかったのだろうか。気を揉みながらも、車窓に流れる異国の夜景は、このまま流れるように身を任せればいいんだよと語りかけてくれているようだ。

 頼さんの自宅は新興住宅街である南港の立派なマンションにあった。自宅の扉の中に招いてくれた頼さんは先に両親の寝室らしき部屋に入って、事情を話し始めた。
 「●▲■!」
 「★◆×▼!」
 「◎+÷!」
 うわわ、やっぱり口喧嘩になっちゃった! 一気に酔いが醒める。
 「あ、どうぞ、上がってください」
 部屋からにこやかに顔を覗かせた頼さんだが、僕の足はほとんど抜き足差し足忍び足である。
 だが、部屋から向けたれた寝間着姿のご両親の表情もまた、頼さんに負けず劣らず、どこまでも柔和なのである。
 そう、中国語はすごい声量を必要とする言葉なのだ。
 僕が大学で第2外国語として中国語を履修したその初日、W先生は中国語にアルファベットで書かれたピンインを任意の学生に思うままに発音させてそれを正しい発音に置き換えてみせ、「こんなふうに、中国語はやたらと声量が必要となる言葉なんです。のどに負担がかかるせいで、僕の知り合いの中国語教師はもう何人も喉頭癌で死んじゃいました」と笑っていたが、生徒は全員引いていたのを思い出す。ほかならぬその先生自身も、僕らの卒業からわずかのちに、先人とまったく同じ扉をノックして鬼籍に入られてしまったのだが。
 こうして、僕はとんでもなくふかふかのベッドで寝息を立てることができたのだった。

 翌朝、家族での食卓に同席させてもらった。そこでもっとたまげたのは、頼さんのお父さんの日本語がパーフェクトであることだった。
 「私は東京にある中国国際商業銀行(現:兆豐国際商業銀行)の支店長を務めているんですよ」
 なるほどである。
 気さくな頼さん一家の雰囲気をいいことに、当時フリーペーパーの編集・発行をしていた僕は、思い切って尋ねてみた。
 「台湾独立についてどう思いますか?」
 「うーん、それは簡単にまとめて話せることじゃないね。次の機会にお話ししましょう。さあ、もっと食べてください!」
 台湾が国家ではないことは、皆さんもご存じのことだと思う。第2次世界大戦中には共産党と共同で日本軍と戦っていた中国国民党は、戦後、毛沢東の共産党に敗れて台湾に逃れた。中華民国初代総統の蒋介石は国土復興と反共を掲げたままその夢を達成することはできず、独立国家でもなければ自治州でもなく、中華人民共和国を認めることもないまま現在に至っている。時の流れとともに、台湾政府が中国の代表権を持つ唯一の政府であり、やがて時が来れば本土を解放するという言い回しは聞かれなくなっているが、では新時代の台湾をどう位置づけるのか、人によってその見解はまちまちであり、それゆえ総統選挙は台湾の将来に直接関わる極めて重要な性格を持っている。寝ぼけまなこの政治意識しか持てなくなった隣国とは雲泥の差なのだ。
 しかし、そこに切り込もうとした血気はやる異国の野次馬を軽くいなしながら、いかにも中華世界らしく食事にその妥協点を見いだすとは。実際、この朝食がやたらとおいしいのである。微妙な政治問題に言及を求めたフリーペーパー編集人は、早くもグルメ・ライターに転身していた。

 これから台中への夜行バスに乗り込もうという日、頼さんが春節(中国正月)の寄合に誘ってくれた。夕刻に入る前から、女性陣は老若問わず、見たこともないような食材やすごいサイズの鍋や包丁などを抱えてかいがいしく行き交っている。その手際のよさといったらない。見る間に肉の塊や野菜が芳香を立てているではないか。その夜、どの料理にも絶妙の火の通り方に舌を巻き、その巻いた舌を酒で平らになめして次の大皿にダイビングする僕は、もはやグルメ・ライターでも何でもなく、ただの食い道楽・飲み道楽男であった。
 その証拠に、夜行バス発車直前に小用を済ませたはずの僕は、出発後半時間と経たないうちに再び尿意を催し、それでもハイウェイをひた走る高速バスの性質上、我慢の限界を2倍ほど超えたところまで耐え抜いた。しかし、途中休憩があると聞いていたものの、バスが事故を起こして警察が取り調べにやってくる始末。たまりかねた僕は「少しだけ出させてくれ!」と大袈裟な身振り手振りで運転手に懇願した。「気分が悪いんだ!」というウソまでついて。現場検証が済み、無情にも再びバスを走らせ始めた運転手に、僕は取っておきの手段で訴えた。「吐きそうだ! もう我慢できない!」。
 すると、運転手はこともなげに「それならあっち」と、バス後部を指差した。ああ、そこにはトイレがあるではないか! 途中にトイレ休憩があると聞いていたせいで、バス車内にはてっきりないものだと思いこんでいたのだ。バスの揺れとあまりに我慢した勢いで狙いが定まりにくい台中行きバスのトイレは、間違いなく天国に最も近い場所の一つだった。




footprints

2015年訪問
西門町(シーメンディン)

すっかり垢抜けた若者の街。
西門町(シーメンディン)

ラジオの生番組か収録を行っていた。
西門町(シーメンディン)

オタクの聖地と言われる場所になっている。
台湾科技大学

ユニークな作りの建物。
台湾科技大学

グリーンカーテンとはこのことか!
萬華(ワンホァ)近くのスタジオ兼インディーレーベル

どの部屋もわりに広かった。
萬華(ワンホァ)近くのスタジオ兼インディーレーベル

レーベルで出していたCDをサンプルとしてもらった!
焼き餃子

どれを食べても、台湾で餃子をはずしたことがない。
台北駅

駅舎は年季が入って来たけど、その前の広場は整備されていて美しい。
台北駅

中央コンコースの吹き抜けは作りが大きくて楽しい。
台北駅

中央コンコースでたむろする人々。
爽健美茶比べ

左が台湾のもので、右が日本のボトル。
味はけっこう違うけど、どっちも爽やかでいい感じ。
2014年訪問
すっかり整備された台北の目抜き通り
敦化あたりは以前からきれいだったけど、それにも増して整備されている
ランドマークとなっている台北101
ライトアップされた台北101
だからやっぱりこういう街並みを見るとほっとするんだよなぁ
街角の公園で京劇をやっていた
屋台の雰囲気はやっぱり最高!
地下鉄民権西路駅には立派な駅舎があった
台南担仔麺は癖になる味
シジミの醤油煮は台湾の顔
奮発してトコブシ料理を試してみた
超美味!
意麺

あっさりしているので大好き
郊外の街もどんどん開発されている
これが今の圓環
迪化街

小洒落た佇まいにシンガポールを思い出した
迪化街の漢方薬店

冷たい薬草茶をサービスでもらった
迪化街で買った漢方薬

医師が診てくれて処方してもらったもので、けっこう効いてる!
なんとなくこんな風景から日本の位置が見えてきたりも
空港から台北へ向かうバス車内
桃園国際空港
桃園国際空港にあった、かわいらしいエスカレーター
1997〜8年訪問
台北駅前の大歩道橋

駅前きっての百貨店、新光三越との間を結んでいるので、人通りの多さは圧巻。
駅前から新光三越の入ったビルを望む

上の写真とは反対に、台北駅側から歩道橋を眺めたところ。

台北駅の客待ちタクシー

台湾のタクシーはイエロー・キャブ。
圓山大飯店(ザ・グランド・ホテル)

捷運(地下鉄・高架鉄道)からも見える圧巻の造り。
淡水河

かつてオランダ統治時代に貿易港として栄えた淡水は、台北郊外の行楽地として人気。
淡水の街並み

白壁の家々が並ぶ細い路地に歴史を見る。
大葉高島屋天母店

日本人街もある、台北郊外の新興地区、天母。
外れの路地

開発の波が押し寄せる天母にも、味のある路地が。
捷運・淡水線の車内

当時はまだ中山までしか開通していなかった。

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