SRI CHANGMAI

歴史の欠片

 対岸にラオスの首都、ヴィエンチャンが見える。まあ、それだけといえばそれだけの印象の町だった。これといった見ものがあるわけでもないし、町の人々は―これはコラートを除くイサーンに共通して感じられる雰囲気なのだが―なんとなくよそよそしい。それに、町の特産品であるという春巻きの皮だったが、春巻きを口にする機会がついぞなかった。
 でも、この町にはまだ手付かずのままになった歴史の欠片がある。対岸がヴィエンチャンなので、かつてはラオスとの貿易ポイントとしてその名を馳せた。今は立派なメコン架橋まで用意された58km隣のノーンカイにその座を奪われた形で、その頃の面影を残した建物が多く残されている。それに、旅行者は通過できないが、川をボート越えしてタイ人とラオス人が互いに行き交っているのが散策路から見下ろせる。


大きな地図で見る



マスダ氏

 夕日が暮れかけていた。レンタバイクでスリ・チェンマイまで出かけていた僕は、宿を取っていたノーンカイへの道を急いでいた。タイの田舎道は日が落ちると真っ暗闇になってしまうから、スクーターなんかで走っているとけっこう心細いものだし、その当時僕はまだタイでのそうした気ままな一人旅に慣れてもいなかった。

 ほとんど大きな十字路などないのだが、とある信号で止まった。と、出し抜けに「ニホンジンデスカ?」とダットサンを運転する男が日本語で話し掛けてきた。観光地ならよくあることだが、そこはちょうどスリ・チェンマイとノーンカイとの中間あたりで、英語で話し掛けることすら難しそうなところだった。面食らったが、道に迷ったかもしれないと不安だった僕は渡りに船と笑顔で「はい! そうです!」。

 路肩に駐車して少し話してみると、日本で社長に「マスダ」と呼ばれていたという彼は、5年ほど横浜の土建会社で働いて帰ってきたのだという。そしてその資金を投入して土地を買い、養鶏、養豚や鯰の養殖をはじめ、けっこうな広さの田畑を持ったそうだ。「ぜひ家に立ち寄ってほしい。ノーンカイへは何時に帰ってもいいんでしょう?」と促す。暗くなる前に宿に着きたかったのだが、もうどのみち無理そうだった。それに、彼は久しぶりにこんな場所で日本人を見つけたのだ。僕にご自慢の田畑を見せたくてたまらないに違いない。「じゃあ、伺います」と彼のトラックの後ろを追いかけた。

 マスダ氏の案内してくれた広い豚小屋には豚がいなかった。そして、鯰の養殖池はぬかるんでいるだけで、鶏は20羽もいなかった。田畑のほとんどは雑草が生い茂るだけの空き地と化していた。そして、彼が新築したという自宅は窓も扉もはめられていない状態で、室内の調度品もまったくなく、電線も水道も引かれていないようだった。つまり、コンクリートの打ちっぱなしのままで放置された状態なのだ。けれども、コンクリートそのものは新しい。豚小屋だって建物はまだ建ってそう長くないのが見てとれる。家族なのか近所の人なのか友人なのか、薄暗くなってきた中を老若男女が集まってきて、家の前の比較的明るいところにござを広げて食事の用意をし始めた。マスダ氏は酒をぐいぐいやりながら語る。「1年目はよかった。豚と鯰だけだったけど、ちゃんと商売できた。でも、次の年の豪雨でやられた。池は決壊して鯰は全部逃げたり死んだりした。人を雇って開墾してあった田畑は土が流れて手入れができないままになった。資金はすべてはたいたあとだったから、豚は全部売ってしまったけど、それだけ。それで、家も造りかけのままさ」と彼は笑った。その笑顔はニヒルではなかった。「イヤー、日本の社長がタイに来たとき一緒に遊んだなぁ。楽しかったよ。おい、マスダ! 女を連れてこい!ってポカポカ殴られた」彼はどんな話も酒飲みらしい豪快な笑顔で鼻息荒く話した。

 泊まっていけよと彼は言ったが、そこまでの心の用意は僕にも正直なところなかった。教えてもらった道筋をスクーターでとばした。真っ暗闇を走ると虫が顔にピシピシ当たる。でも、ついさっきまで僕を覆っていた暗がりの一本道を一人行く不安は消え去っていた。酒を飲んだせい? それもあるかもしれない。でも、この闇の中に見えない、明かりのない家での見えないマスダ氏が僕を見守ってくれているような気もしたからだ。


◆「あの人この街」目録へ
◆トップ・ページへ








SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送