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=創刊の辞=

いつのころからか、誰か話すときに必ず前置きをつけるようになってしまった。「こう言うと怒る人もいるだろうけれど」とか、「まあ当たり前と言えば当たり前のことなんだけど」とか、「馬鹿気た話なんだが」とか、そういった類いの、本題に入る前のちょっとした牽制球みたいなものだ。よく観察してほしい。あなたもついつい使っているかもしれない。

潔くないな、と思う。かなり多くの場合、そんな前置きは本当に牽制として使われているからだ。「こう言うと怒る人もいるだろうけれど」というのは相手をなだめて最後まで聞いてもらう下地を作るため、「まあ当たり前と言えば当たり前のことなんだけど」というのは、そんなことも知らなかったのか、と馬鹿にされるのを防ぐため、「馬鹿気た話なんだが」というのは下らないと呆れられるのを逃れるための簡単な先手になっていることが多いのだ。もちろん僕もそんなことをいつも意識して会話の中で前置きを話しているのではない。ついついつけてしまうその前置きを、後になってそのときの話の内容なども含めて考えてみると牽制になっていたということなのだ。

しかし反面、そうしてしまうことが分からないでもない。

例えば僕等が三角形を描く。定規を使って真っすぐな3本の線で囲んだ図形。ところが、小学校時代に絶対であるとされたこの図形が、あるときだれかの話によって正確な、僕等が思い描いてきた形ではないことを知る。日ごろ意識はしていないが、僕等は地球という球面上の住人だ。絶対平面の世界に住んでいるわけではない。だから、球面に住んでいる僕等には本当の意味での平面という感覚がない。地球上を真っすぐ進むと丸く曲がって(下って)しまうように、僕等にとっての平面は大きな球面でしかなく、そんな僕等(地球人)が描いた図形はとうあがいてもうっすらと丸く曲がってしまうのだ。いくら真っすぐな定規や正確なコンパスを使っても、僕等はどうしても小学生のときに習った正確な三角形が、本当の意味では書けない。こうしてひとつの「絶対」が消える。僕等にとって三角形は真理ではなくなったのだ。

このようにして、ありとあらゆる絶対、真理、価値観が崩壊した。1+12ではない世界もある。原子より細かい素粒子の世界は未だ立証されていないが、測定しようとすると勝手に個数や体積が増減するし、場所を瞬間移動、つまりテレポーテーション(超能力!)してしまうのだ。数学や科学だけではない。道徳や宗教、政治、風俗などもすべてそうだ。今の北朝鮮の動向を危慣する世論は多いが、かなり言われているように、それは戦前・戦時中の日本とよく似たたたずまいなのだ。また、当時の日本軍部の極悪非道な独裁政治の糾弾はよく分かるが、封建時代のこの国のアメリカン・ドリームの実現者、豊臣秀吉は二度の朝鮮征伐で、敵の目や耳の塩漬を送らせたり、朝鮮人差別を推進したり、かなりひどい様子だ。成功した人は英雄で、失敗したから悪漢なのか、という疑問が政治界には常につきまとう。僕等の平素の価値観だってずいぶん民族や国がちがえば異なることも、よく認識されていることだろう。牛や豚を食べている僕等は、ヒンドゥー教徒から言わせれば聖なるものを殺した罪人、イスラム教徒にすれば汚れたものを口にした畜生だろう。また、馬肉を食する機会の多い熊本県人は、馬を友と見なすイギリス人からすれば、鬼みたいなものだ。しかし僕等にはこうもりの丸焼きやタガメ、イナゴの姿焼きは食べがたい。それはある民族にとっては常識外れなのだ。そしてそういった価値観は経済システムがどれだけ発展しているのかといった比較とは全然関係がない。発展途上国だから野蛮で文化レヴェルが低く、だから昆虫など食べるのだ、などというような言い草はお茶の間でのおしゃべりにしても既に前時代的でナンセンスな、それこそが野蛮な思考回路だ。それが証拠に、経済という物差しで見れば「未開」な地の人々が我々に分からない高度な理論、高度な感覚をしばしば持ち合わせている現場が多くリポートされ続けて来た。ナスカの地上絵やイースター島のモアイ像などがどうして当時の技術でできたのかも現代の僕等には分からないし、明らかに飛行物体(UFOに見える)の操縦室を描いた南米の壁画が何を意味するのかも分からない。第一、現在の科学技術でピラミッドを建造することも不可能なのだ(外観だけではなく、剃刀の刃を入れていても全く錆びつくことのないような不思議も含めての話だ)。経済の発展など、民族や国家の付帯状況の一つでしかない。文化というものはひとつの価値観、ひとつの物差しで測るものではない。そこにはパラレルな状況がある。

僕等には絶対的な真理、安定した土台はなさそうだ。時間をさかのぼったり場所を変えれば異なる真理がたちところに現れて、僕等の信じていたものはどれもこれも、ただの一つの観点に過ぎなくなってしまう。言葉だってそうだ。ソシュールが言葉の恣意性と呼んだように、言葉には意味と音があり、その二つにはおおよそ関係がない場含が多い。りんごは英語ではapp1eだが、「りんご」という音もapp1eの発音も、りんご本体と何の関係もない。漢字にはそれなりの意味性があるものの、言葉は単なる入れ物に過ぎないのだ。ところが、入れ物に収納することによって感覚が隔たることがある。兄弟は英語ではbrotherだが、兄も弟もbrotherと表す。それは姉妹でも同じ。そうすることによって、英語圏では年長/年少の感覚が緩くなる。英語には敬語が圧倒的に少ないことからもそれは分かってもらえると思う。また、日本人は犬の鳴き声を無意識に「ワンワン」と言藁に置き換えているが、英語圏の人達は「バウワウ」と置き換えている。「コケコッコー」は「クックドゥルドゥー」。そして、そうした身近に慣れ親しんだ言葉の区分けを行っているうちに、言葉には限界が出てくる。音声に意味が縛られたり、意味によって言葉が束縛されたりするのだ。僕等が「ワンワン」という文字を見ると、瞬間に犬の鳴き声を想定してしまうように、音自体の自由がなくなる。反対に、日本人のほとんどは犬の鳴き声を前述のように「ワンワン」としか聞き取れないのだ。また、brotherと兄・弟という区別のように、言葉が概念を作り出す、つまり、本来思考を代弁する役目であるはずの言葉が、全く反対に言葉自体の決まり事によって思考を規定してしまっているのだ。また、映像や音や匂いや味覚・触覚(そういった多くは今をときめくサブ・カルチャーだったりする)を言葉には完全に置き換えられないといった事態も次々と生じ、やがて言葉への不信感が生まれる。自分達が情報伝達のために編み出した言語が自分達を規定しようとするので、僕等はそこから何とか逃れようとする。そのようにして、言葉も絶対的なものではなくなった。もう少しこの話の続きをしよう。最近不信感を強く放っているのはマス・メディアだ。元からうさん臭い立場に立つてるものだが・公正かつ正確な情報公開や意見発表の場であるはずの新聞でさえ、かなり偏った主張を繰り返している場面を何度も目撃した(そのことについては後にぜひリポートしたい)。言わんやTV、ラジオ、雑誌などのひどさといったらない。TBSの問題でお茶の間にも広く行き渡った問題だと思うが、刺激の閾値を広げて行くばかりの荒涼とした風景がどこまでも続いているばかりだ。そして、どこにも商業の匂いがプンプンしている。しかも、現実と虚構との間を漂うことによって僕等はストレスを発散し、カタルシスを得ている。

このように、言葉や情報、あらゆる価値観は今日、まず前提として信じてはいけないものになっている。だけれど・僕等はやっぱり言葉を使うし新聞も読む。計算もするし常識を信じている。その他に依拠するものがないからだ。こんな風にして、何か話すときについ前置きをつけるようになった。ひとつの物事は絶対的ではないから、わざと最初から前置きではぐらかしておいて、熱っぽい、主観的な思い込みでないことを訴えたいのだと思う。思うことを思うままに言えるほど単純な時代では確かにないと思うのだ。

一時期、うまくしゃべれないことがあった。言いたいことのイメージが言葉とすぐに直結しないのだ。普通に会話しているときにはあまり気がつかないことだが、会話にはテンポが重要で、話者どうしのテンポがかみ含ってきてこそ会話に花が咲く。ところが、当時の僕は何か意見を求められるとあわてふためきながら語彙の箱をひっくりかえして、そのときの気持ちに最も近いものを探しているうちに、もう何を言っても取り返しのつかない湿った重い空気が流れ出す。また、言いたいことがあっても言葉として口に出す前に、それにかかわる様々なことが、雨降りの川のように次々と胸の中に渦巻いて、結局何ひとつ言えないまま機会を逃がしてしまうのだった。

傲慢な話だが、そのときの僕は話すことが面倒でもあった。横が汗をふきふきニアピンの言葉を探して話しても、それは僕の思っていることとは若干違う。聞き手というブラック・ボックスに入ってしまったらなおさら分からない。そんな不確実な会話に参加するよりは、だれかの会話を聞いていることのほうがよっぽど楽しかった。そのころ周囲にはいろんな話をしてくれるいろんな友人たちがいて・会話を聞くのに事欠くことはなかった。僕一人くらいしゃべらなくても、世の中には話したがっている人が溢れているように見えた。そのくせ、さびしいからいつもだれかの話に耳を傾けていた。

そのころに僕が見た風景のことや、僕が感じたいろいろな事柄の色合いをうまく表現することはできないだろう。いや、絶対にできないのだ。それは僕が言葉と距離をおいた場所にいて、何かを見たり聞いたりしたときにそれを言葉で表現する術をもたなかった時期だったからこそ見ることのできた、感じることのできたものだった。僕はわりあい街中で育ったので、冬にはものの輪郭がはっきりすること、タ立や台風のあとの晴天が爽やかなこと、五月の若葉が本当にやわらかそうに揺れていること、秋は落葉の寂しい季節だというばかりじゃなく、空も海も青く、哺乳類には安定した手ごたえがある季節だということなどを初めて知った。たぶんそれまでの僕は自然や四季に活字などで間接的に触れていただけだったのだと思う。

たぶん僕がその風景や感情を描写しようとしたところで、それは心にあるものに近付くどころか、かえって遠く離れていってしまうこと請合いだ。何かを模写、あるいは代弁しようとしたとき、言葉は途端に頑なな、融通の利かない堅物になってしまう。

だが、僕が話さなければ、その風景・その感情はどこへ行ってしまうのだ?

僕が学生のとき、クラスの文集か何かに、自分は今の気持ちを大切にしたい、言葉にしたら壊れそうだ、だから自分の城の中で今はその気持ちを大切にしたい、というような事を誰かが書いているのを読んで、なんだかやけに悲しい話しだな、と感じたことを思い出す。僕もその人と同じような思いを抱いた。けれど、発信しなければ、その思いはだれに知られることもなく、いつしか消えて行くのだ。その世界は外へ出たがっているかもしれない。

自分が思ったことや自分が触れたものを、自分の所有物だと考えるのは、それは傲慢だと僕は思う。人が何か思うには、人が何かに触れるには、自分とだれか他者(それは生物でなくてもいい。石や水や空気でもいい)が必要なはずだ。ならば、その思い、その接触の記憶には両親がいる。片方が自分で、片方がその相手だ。そして、その記憶は両親とは別個に、自立したひとつのモノなのだ。それを自由に自分の内側に閉じ込めておいたり歪曲したり、あるいは自由に発表したりするのはひとつの人権侵害だ。

僕はある時期、目分の中に解放されたがっている、話されたがっている世界がいくつも膨らんで来ているのが分かった。そして僕はもう一度、不確実でも言葉を使い、表現し始めた。

言葉は言葉として、独自の世界をもっている。僕等が僕等の常識内でしか捉えられないのと同じだ。そして今度は言葉と僕との子が産まれる。そうして考えてやっと分かったことは、言葉も科学も数学もメディアも真理も絶対も、それらすべては人類の鎧ではないということだ。僕等の保身や土台作りのためにそれらは機能しているのではなく、それらはそれら自身のためにあり、僕等はその関係性を取り違えているだけのことなのではなかろうか?

何かを表現しようとすると言葉の限界が見えてくるというのは、自分と言葉の相関関係が把握できていない物言いだと、僕はそのとき初めて気づいた。僕等が完全無欠ではないように、言葉も全知全能ではない。それぞれ足りない部分もあるからお互いは求めあい、コミュニケイションを図り、より完全なものに到達しようとする幻想を抱くのだろう。そして、その二者の協力がうまく実ったとき、僕等とも言葉ともまた違った世界が新たな可能性と新たな欠点を抱えて一人歩きを始める。それは既に独立した心の持ち主であり、僕が何かをそこに無理に求めることは干渉にしかならない。

たしかに多種多様な情報が過度に横溢した時代ではある。その渦の中からリアルなものを選び取って行くのはとても困難な作業だ。それだけ時の流れ、その中での情報の風化もはやい。ともすれば情報を追いかけるだけに終始していまいがちだ。自身の体内での熟成期間を与えられないまま、矢継ぎ早に時代は変わっていくので、見聞きしたすべてのことが自分の表層を滑ってゆくだけに終わり、自分にはその残りカスみたいな消耗が残るだけになることがあまりにも多い。こうした現状から無個牲な子供達が形成されるとか、狂信的な宗教にすがる温床になっているとか、一般市民としての常識を備えること自体が一種の仕事化しているとか、表面的な快楽だけを求めるエピキュリズムをはびこらせているとか、様々な推測が成り立つと思う。そして、結局は伝達の道具、人と人とを結ぶはずであった言葉(=情報)が僕等を孤独の淵に突き落としているのだ。何という皮肉!

しかし、この困難な状況から、僕等は歩を繰り出そうと思う。

ポピュラー音楽の世界ではロマンの消失がずいぶん以前から嘆かれている。いわく、すべてのコード(和音)やメロディーは出尽し、いまさら何を作り上げたところで、これまでの何かの類型にしかならない。ジャズなどがいい例だが、今の主流派は過去のどの曲もかなりのレヴェルで力演を見せてくれるし、また、そういったエッセンスを吸収する速度、間隔も並外れているけれど、オリジナリティーがない。開拓者だけが持つクリエィティヴなオーラがない。器用ではあるが神懸かりではない。そう言われる。このような類いの話はどんなジャンルでも話されていることだ。言葉の世界でも同じ。

本当にそうなのだろうか? コードやメロディーが出尽くしたとは思う。けれど、僕等をつき動かす本能的な音楽衝動は、器用でこじんまりしてしまったのだろうか? 人間の本能である子供を産むこと、人を愛することは、その形(子供の個性や外見・愛情の形など)が出尽したからといって、興味をなくすようなことなのだろうか? 音楽が類型に陥ったからといって、僕等が音に興味がなくなるわけではない。ブルースや演歌のように、類型ばかりなのに時代を少しずつ取り込みながら大衆に支持されてきた音楽も多い。本当にだいじなのは、そこに心があるか、ということなのだ。ある作品が多くの商業ベ一スのフォーマット(ヒット曲メーカーや雑誌やTVの娯楽番組など)が単に資本回収のために作ったものなのかどうかは冷静になればすぐに分かることだ。商業主義の土台に乗ったものが総て害悪であるのか、くだらないのかという論はさておいて、技術的なものがすべて過去に発表されていたからといって、すなわちパッションがないということではなく、利潤追求のために作られたものは元から対象外として扱うべきものなのだから、混同してはいけないということなのだ。

詩の世界でも言われていることなのだが、僕等は自分の個性・感受性を育むためにはいったん、外界をシャット・アウトする機会が必要な場含もある。そうして自分を意識的に掘り下げなければ、表層の圧倒的な情報に目を奪われ、流されてしまうからだ。そしてなにより、自分の言葉が発せられない人は、他人の言葉も理解できない、つながりの持てない者だからだ。物事をインデックスから検索するようにうわつらを捕えることは現在の社会ではごく簡単なことだ。そうして表層を生きて行くこともできる。しかし、だれかとつながろう、だれかと「話そう」とするときに、自分がリアルに感じる言葉、自分のものとなった、生きた言語が使えないと、本質的にはだれかの心の水面に波紋を投げかけることは不可能なのだ。自分が裸にならないと、自分のどんなことをも言えない、だれの言葉も聞こえない、閉ざされた場所にしか自分を見つけられはしないのだ。使い古されたはずの言葉があるときあなたの心を震わせたように、情報が席巻しても言藁の輝きは何ら失われることはない。

こうして、僕等は書き始めようと思う。書こうと思うことだけを書こうと思う。言葉とふたりで愛情や思い入れいっぱいの文章を書いて行きたいと思う。もし、僕等の声があなた達に届いたならば、できるだけ声を返してほしい。それが言葉の意味、コミュニケイションなのだと思う。僕等の声があなた達の日常のどこかに種を運ぶことができればいいなと思う。

長い文章を読んでくれてありがとう。

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