この記事は1996年の記録です

その後、モンスーン・ティールームは2001年に閉店していますが、姉妹店である「マンゴーシャワー・カフェ」が開いています。
阿倍野店もあるのですが、心斎橋店の場所を調べてみてびっくり。
このフリーペーパーの1号前に特集した「ガネーシュ」の場所でした。
以上のことは、残念ながら、バンコクからネットで知ったことです。


モンスーンの巻



おどろいた。

まず最初は、いきなりの閉店―――それは勘違いだったのだが。モンスーンは僕がときたま足を運ぶなかでは最も古くからお世話になった店のひとつなのだ。そんな店のいきなりの店じまい、と来ればそりゃあせる。店全体にシャッターが降り、僅かに開いた戸口の中は無味乾燥な工事現場のそれで、その前にはセメント袋が積まれている。ああ、モンスーンまでが……しかし、近づいて見てみると、シャッターに一枚の張り祇。「改装のため三月中旬まで休業します」そうか、そうか。よかった(お店のみなさん、いきなり物騒な話ですみません)。

次の驚愕は新装開店の店の内装。え。なんだこれは! かつてのお店を知っている人がなにも知らずに新しくなった店内を見て面食らわないことはなかったと思う。明るく清潔でシンプルで瀟洒なこのイメージ・チェンジはなんなんだ!

そう書くと、まだほとんどいないだろうが、以前のモンスーンを知らない方は「前はどんなひどい店だったのだ」と訝るだろう。モンスーンはその出発がカンテ(1)として始まったように、チャイを扱うお店がよく見せてくれるアジアや南米を思わせる無国籍な雰囲気の内装だった。そして、僕はそういう店の感じが好きだった。和んだ空気が流れているような気がしたのだ。ひとりで店に入って本などを読んでいてもうっとおしがられないように思えた。それは僕の店選びの重要なポイントだ。

さて、お解りいただけたたろうか? 実は僕は、このたびの改装に内心不満を抱えながらインタビューにお邪魔した(お店のみなさん、重ね重ね挑戦的ですみません)。アフタヌーン・ティールームに代表されるような「おしゃれ」感覚にモンスーンも傾いてしまったのだろうか、そんな不安がよぎる(アフタヌーン・ティールームがつまらないというのでは決してない。混雑してさえいなければとてもいい店だと思う。ただ、それに迎合するのはつまらない所作だと思う)。流石にそれをストレートに言うのも憚られるので、改装の理由あたりから店長の松浪さんに伺ってみた。

「あれは不完全な内装だったんです」と松浪さん。さきほども書いたが、モンスーンはカンテとしてオープンした。しかしその後増えていくカンテの支店(2)とは違い、このころはまだ内装のヴィジョンもノウハウもまだしっかりとは確立され切っていなかった。そして新しい「モンスーン色」を考えたとき、毎日がキャンプ気分でいられるような、明るい気持ちになるような、そんな内装に思い至ったそうだ。

「でも、白を基調とした新しい店内は掃除が大変で、今日も、ほら」と指さされた先には小さなバケツがキッチンの横に隠れるように置かれていた。僕は店員の方々が掃除に精を出している姿や、籐のバスケットを持って本当にピクニック姿で出動して来る様(そんなわけないのだが)を想像して少しおかしくなってしまった。なんだ、和やかで落ち着いたお店の基調は変わっていないじゃないか。そして見渡せば、そこかしこに掃除用のブラシや手作りの短冊、暖簾風の飾り、東南アジアのお面。ほっとした。

モンスーンは更に、この春にメニューを増やした。もともと紅茶(アッサム)にはTGFOPという葉のカットが大きいものを選んだり、輸入期間、あるいは保存期間の茶葉への影響に気を揉んだりと、かなりのこだわりを見せて来た店だが、缶紅茶にも目を向けうまいものをうまいと認めた結果、リッジ・ウェイやフォートナム・メイソン(3)などのメニューも加わったのだ。その柔軟な姿勢―――缶紅茶なんて、と安易に切り捨ててしまいがちなジャンルのところからもいいものはいいとメニューに採用するレンジの広さには感服する。

レンジの広さということで言えば、松浪さんのお話は止まるところを知らない広がりを見せた。世界中を放浪しジプシー(4)となったヒッピー(5)たちが今一度インドに集まり出しているらしく、そこから新しいムーヴメントが発信される可能性があること。最近大きな話題を振り撒いているW&LT6)へのフューチャー・ポップ(=テクノ)と中世的童話的世界(=ケルト精神)のミクスチュア(7)感覚への評価。クラブ・ミュージックのきっかけとなった阿木譲氏(8)の圧倒的な影響。フェリーニ(9)のリミックス(10)・センス。上田正樹(11)がかつて徹底的にこだわったベースとドラムのコンビネーションの細かな絡み合い(それはやがてダブなどへの方法論につながることにのちに皆は気づく)。モーガン・フィッシャーのお店でのライヴ(12)など、それこそここに書ききれない圧倒的な情報量だ。そんな中で僕が特に胸を打たれたのは、以前モンスーンで個展を開かれたサキさんのお話だった。

「ちょっと待っててください」と松浪さんが店の奥から出して来てくださったのが、ニュー・ヨークに引っ越されたサキさんからの手紙だった。中にはラメ(13)がいっぱい詰め込んであり、そして中から一枚のカード。そこにはサキさんに抱かれた彼女の赤ん坊の写真があった。封筒の裏にはその赤児の小さな足型のスタンプ。サキさんは泥で描いた絵や3mもあろうかという幅の絵などを描いた、スケールの大きい独自の世界を持った方だったようだ。松浪さんは南仏/スペインのニキド・サンファール(14)という画家にも似た作風だったと言う。そして、個展のときには夜遅くまで自分達だけでディスプレイ(15)して、大変だったけど本当に楽しかったと語ってくれた。かつてのお客さんやかかわりのあった人がふと訪れたり、便りをくれたりしたということを語るときのお店のオーナーさんの表情には、とても遠くてやさしい感情があふれている。松浪さんは僕のつまらない質間に丁寧に答えてくれつつ、サキさんの手祇からテーブルにこぼれたラメを一つ一つ丁寧に封筒の中に片づけていた。

「最近はハッとするようなものがないですね」と彼は語る。「今では美術も工芸も専門学校で教える時代になってしまった。それでは本物は生まれて来ない」こざっぱりした、それなりのセンスを持った若者はとても増えたように思う。器用にはなった。けれど、そんな小手先がどんな本物を作れるというのだろう? 「あんた、歌もうまいし顔も捨てたもんじゃないし、クラスで人気もあるみたいだから、芸能界へでも進んでみたら?」なんて、真顔で言う親バカも増えた(その分、親バカ子バカの芸能人をあっさり受容する視聴者バカも増えた)。ある意味ではそんなことに目くじら立てるほど暇な時代じゃないかもしれない。また、それが現実であって、あるときにはクールにさらりとやり過ごし、あるときにはしたたかにさりげなく利用するのがスマートなやり方なのかもしれない。でも、人との出会いは、何物かの創造は、仕事じゃない。遊びでもない。もっと真剣で切実なもののはずだ。第二・第三のサキさんの手紙が新しい時代に届かなくなるかもしれない事実を、僕は見過ごしたくはない。

しかし。

モンスーンの店内はいつも若者で溢れている。僕は「若い」と言って良いのか戸惑うくらいの年齢になったせいだろう、そういう若い皆の姿に違和感がある。少なくない不安の雲が広がる。自分が若いころそうであったにもかかわらず、何か認めがたいものを彼等・彼女等に感じることがある。けれど、それは僕等の古い価値観を笑い飛ばしてしまえるような新しい風なのかもしれない。可能性はある。休日の店内の軽い喧噪を聞きながら、この中のどこかに芽生えるかもしれない、小手先ではない何かについてしばらく考えていたが、もちろんそんなことは僕には分からない。新しい人達が新しい何かをバスケットに詰め、モンスーンにやって来ることを僕は信じたい。



(1)   大阪のチャイを出す店としては草分け的な存在。その奇抜でしかも安定感のある内装はこういったチャイを扱うスタイルの店のイメージを決定づけた。中津の本店はしばらくクローズしていたが、少し離れたロケーションに移転して最近再開した。松浪さんは「大阪のオルタナティヴ」のイメージをもってカンテの門をくぐったようだ。

(2)   梅田マルビルの地下、ホワイティうめだの泉の広場、心斎橋の東急ミナックス・プラザ3Fにある。それぞれ、内装の基調は同じだが趣が異なる(本店も同じ)。

(3)   リッジ・ウェイは日本人向けブレンドで、爽やかな渋みと酸味が特徴。フォートナム・メイソンはミルク・ティーにぴったりのロイヤル・ブレンドだ(モンスーンのメニューのメモより)。

(4)   ヨーロッパの各地にいる、定住地を持たず流浪を続ける民族。

(5)   六〇年代後半に登場し、物質文明・経済社会を否定した。サイケデリック・スタイルなどと呼応し、新しいファッションも創造した。イビザ島やネパールなど、様々な地域に輿団居住地としてコミューンを作ったが、長く定住していない傾向が強い。

(6)   パンクスと結びついてニューエイジ・トラヴェラーと呼ばれるようにもなった。

(7)  ウォルター・ヴァン・ベイレンドンクの個人ブランド。奇抜な徹底したショーは有名。大阪での販売店としてはoggiが手広い。松浪さんはoggiの店の、いつも半分シャッターが降りっぱなしになっているような姿勢がW&LTの持つ魅力と似ていると笑っていた。

(8)   混ぜ合わせること。

(9)   大阪フォークの草分け「春一番」ライヴにかかわったり、「ロック・マガジン」誌でグラム・ロックから後にジャーマン・ロックなどを他に先駆け紹介したりし続けたイヴェント・メーカー/評論家。松浪さんは十代の頃からお付き合いがあったようで、彼から原理的なオルタナティヴを愛でる姿勢の影響を圧倒的に受けたそうだ。

(10) 戦後直後より活躍したイタリアの映画監督。巨大なセットを背景に、己の心象風景を源泉とした幻想的な映像世界を創造する。代表作に『道』『力りビアの夜』『甘い生活」『81/2』など。

(11) 既発表の作品などを新しく他のものと混合・改変して新しいセンス/価値観をもって提示すること。

(12) ウエスト・ロード・ブルース・バンドや憂歌団とともに大阪ブルース・シーンの台風の目となったサウス・トゥ・サウスのヴォーカリストで、後にソロヘ。大阪弁をソウル/ロック曲の歌詞に乗せたり、逸速くレゲエを取り入れたりした。

(13) まだほとんど一般的な認知のない時代にシーケンサーと音源モジュールを用いて行ったライヴに松浪さんはたまげたらしい。モーガン・フィッシャーは元モット・ザ・フープルのキーボーディストで、同バンドを卓抜したセンスで音楽的に支えた。

(14) きらきらひかる細かな短冊や紙片。

(15) フランスがサイケデリックの波を上げ、ゴングなどがヒッピー・カルチャーをそのままバンドヘ反映させた動きを見せていたころ、様々な絵やオブジェを手掛けた巨人。仏のウッドストックとでも言うべき地域姓/感覚がサキさんに近いと松浪さんはおっしゃってました。

(16) 飾りつけ。



● 「モンスーン」の名の由来は、もちろんアジア的な意味合いを込めて季節風から取った側面もあるが、当時出版されていたシーナ・チャンドラーの美しい写真集の名からもきたらしい。シーナはロンドンで活躍していたダブやリミックスの先駆けを生み出したバンドのヴォーカリストでもあるそうだ。まさしく店のイメージの選択だ。

● 前のお店のメニューに載っているピンクの牛は、松浪さんが高校二年の時に見て衝撃を受けたアンデイ・ウォーホルの作品だそうだ。この度のメニュー変更で消えたと思っていたら、隅のほうに小さく残っていた。笑ってしまった。

● この七月に天満のシティ・ギャラリーで個展を開かれていた飯田三代さんもモンスーンで個展を開かれた方の一人。大阪で古くからヒッピー運動とかかわり、長く活躍されている方だ。そのギャラリーの招待状に用いられていた絵は、ストーンドしたときに変に奥行きが出る幻視状態を描いたものであるようだ。バリに題材を得ることも多かったが、今ではアフリカを題材に取っているものがほとんどのようだ。

● 新しいメニューにはハーブ・ティー(スパイシー&フルーツ・ハーモニーとドリーム・オブ・レモン)や練乳コーヒー、ケーキにリンダーマッカートニーやマリリン・モンロー、六時からのメニューとしてネパール風ピザ、レツド・アイ(ビール)、ブライアン・ジョーンズ(ウイスキー+ヴェルガモットなとのカクテル)、ゲンズブール(ラム・ベースのカクテル)など。ネーミングにスタイルが噴出している。



モンスーン・ティー・ルーム/席数約50席/水曜休が多い/11:00am10:00pm

/06-253-1649/西心斎橋一丁目一六番十の七号





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