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みみたぶ通信

§3 なんか似てますねん。CDとストリート一ファッションって。A


 前回からの続き。

 前回をお読みでない方のために強引にまとめると、CDとストリート.ファッションはブレイクした時期、ポップな軽さ、リミックス(1)など、類似点がたくさんある、というようなことを書いたのだったが、いいところで終わってしまった。

 ファッションもポップ音楽も八〇年代まではニュー・ウェーヴやテクノなど(2)、新しい時代の潮流と言えるブームを巻き起こしたが、そういうビッグ・ウェイヴが過ぎ去った後になって圧倒的な支持を得るようになった。これはかつての例を拾えば、マイルス・デイヴィスやジョン・コルトレーンが気炎を上げていた六〇年代当時、ちょっとキザで高尚でクールでオククっぽかったジャズという音楽が、ポップ音楽のフィールドで大きな影響力を失った七〇年代以降急速に一般化し、誰の耳にも馴染みのよいものとして捕えられ始めたように、そのスタイルが壮年期を終えたとも取れる。つまり、この仮説で言うならば、ポップ音楽もファッションも、普及するかわりに力をなくしているのではないか、ということなのだ。

 CDとファッションの共通性を語るとき見えてくるもの、それは経済のオバケだ。
八〇年代、推もがもはや窪済や産業の発展が人類の、地球の未来を幸福にするとは考えられなくなった時代に、しかし僕等はバブルのお世話になっていた。世界一の債権国になった自分の国を「いつか将来ダメになる」とボヤきながら失業率の低さや高賃金、余暇の拡大などの景気の上にあぐらをかいていた。しかしそんなものはもちろん長くは続かない。そうして産業拡大の神話は終わった。ところが、肥大した経済は限りない膨張を続けてゆく。経済というものは、前年より今年度の売上の方が上回らないと成り立たないシステムだからだ。

 レコード集めやおしゃれはもともと道楽だった。だからそんなに多くない数の人間が自分の趣味だけの範囲でまわりの人達に厭味の一つも言われながら細々と続けてゆくものだった。だが、膨張した経済はそんな道楽を現代人の常識として一般の人々に強要し始めた。今ではポップ音楽にうとい人やファッションに気を使わない人は「常識人」ではなくなりかけている。多くの音楽界、ファッション界の有能な入々が経済機構に吸い込まれ、あるときは店に、あるときはメディアに身を投じ、無自覚な人々にまでCDを聞かせ、服を着替えさせようとしている。オバケのごとく肥大化した経済が、もう売るものがないので道楽に常識のレッテルを張ってしつこいセールスに回り出したのだ。

 だいたい最近のプロデューサー指向なんてちゃんちゃらおかしいではないか。小室哲也や小林武史は、自身の音楽センスを確実に持っていると思う。それくらいは僕にだってわかる。だのに、彼等いわゆる「プロデューサー」がしていることは、自分の美学のバラまきじゃないか。globeとかマイ・ラバとかdosとか、そこから聞こえて来るのはバンドの音じゃない。薄笑みをたたえた彼等の狙いが聴こえるばかりだ(3)。彼等は本当の意味でのプロデューサーとして、担当したバンドやグループの醸し出す良さをすくいあげようとしているのでは決してない。自分が認めた素材を自身の手先として流用しようとする専制君主ではないか。

 いや、ちょっと口角泡を飛ばし過ぎた。そんなふうに、僕には経済が僕等を追い越してしまった(あるいは僕等が経済に追い抜かれた)ように見えるのだ。コピー・ライターが流行した八〇年代、客は商品ではなくイメージを買うようになったとあちこちでささやかれた。それは九〇年代の今では至極当然のことになった。もちろんそのイメージは僕等が夢想するのではなく、あるいは僕等の形にならないモヤモヤを誰かが形にするのでもなく、強烈なヴイジュアルやコピーや音声をともなって経済の送り手=商売人が僕等に押し付けようとしてどこかの会議室で練り上げられたものなのだ。

 これはお願いするような気持ちで書いているのだが、どうかあなたにとっていいものはいい、悪いものは悪いことを分かってほしい。あなたが持っている服が今では流行遅れで少し気恥ずかしいものでも、それが自身に似合っているのなら、自分がそれを好きなら、それを着て出掛けてください。神戸の高架下の布地屋のおっちゃんは全身ピンクのいで立ちで有名な人だが、いつの時代にもそのファッションを悪く書かれているのを見たためしがない。いつも敬意と賛辞が込められている。そんなふうに、長いものに巻かれるのがマス・メディアなのだ。また、あなたが聞いている音楽についても同じ。僕は長くカーペンターズのファンだったが、それは一昨年まではかなり言葉にするのが憚られるような恥ずかしい空気を含んでいた(4)。今アバやエア・サプライを聞いています、と言うのと同じくらいか。同じように、サントラ・ブームになるまでウルトラマンやド根性カエルの音源を集めることはかなり一般の人達には抵抗があったのではないだろうか。モンド・ブーム(5)以前のイージー・リスニングもしかり。

 経済が扇動する流行から自分の本当に聞きたい音楽、自身が本当に身につけたい衣類を捜し当てるのは難しい。自分がその扇動の空気に飲まれているとしたら、あなたの選択はあなたではなく経済が強要した選択だからだ。あなたは洗脳されているだけだ。自分が本当に求めているものが分からないような状況の中で新しい力のある動きが出てくるわけがない。今のCDとストリート・ファッションの一般化は僕の目から見れば、亡者の操縦だ。繰り返し現れる新曲とそのカラオケ……ひたすら摂取し消費するばかり。歌いこなせる自分の歌を数少なくても作ること、着こなせる目分のスタイルを数少なくても作ること。この溢れかえった市場がその試行錯誤の踏み台になればいいのに。



1 新たにミックスし直すこと。90年代は特に、過去に栄光を刻んできたスタイルを様々に取り入れ、それを新しい価値観でいかにミックスするかが勝負になった。

2 テクノやニュー・ウェーヴは機械的な反復に陶酔を見いだしたり、内省的と言って良いのかどうか身からないほど屈折したりナルシシズムに耽溺していたり、そういう側面からネガテイヴで一筋縄では行かない印象を抱いていたが、情熱的・破壊的なパンク隆盛の後の反動と捕えれば、まあなんとわかりやすく健康的なムーヴメントだったんでしょう。

3 あるいはこういう表現方法、クラブDJのようにレコード盤を用いて他人のふんどしで相撲をとろうというところを越えて、それを人を使ってやろうとしているのならそら恐ろしい。もしそうだとしたら、DJと「プロデューサー」の隔たりは、将棋と人間将棋くらい離れているんじゃないだろうか。

4 カーペンターズが日ホでリヴァイヴァルしたのはドラマ「未成年」に主題歌として起用されたのがきっかけだが、そのきっかけのほうが僕にはうんと恥ずかしい。

5 モンド・ブームは世界の珍盤・奇盤にあまねく光をあてた。CDやLPレコードを録音物として楽しむことを再確認させてくれた。ただ、それをトレンドとして認識するのはやめてほしい。ものには多様な価値観があって……と言う事を教えてくれたのがモンドのモンドたる部分なのだから、モンド=時代の気分、でも同じイージー・リスニングでもポール・モーリア≠ニュー・エイジ・バチェラー感覚なんて言い出すのはよそう。


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