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「暮らすことと、旅することと」の「僕」に戻る


沖縄に行くの巻

 九三年の六月、サラリーマンだった僕は仕事で訪れた宮古島で飛行機会社のストに遭って大阪に戻れなくなった(非常にうれしいことに)。昼にはつまらない業務連絡を取りつつ島をスクーターで気ままに回って、夜には泡盛を飲んで過ごした。料亭「葵」のご主人にあれこれとお話につきあっていただき、そんないきさつで三線(沖縄の三味線)の店を紹介してもらった。

 翌日うかがった「洲鎌三味線店」は全く普通の民家で、門扉を入ると御老人が一人、来るべき台風に備えてか、雨戸のレールをカンナで修理していた。尋ねると、彼こそが家主の洲鎌さんその人であった。「葵」のご主人に訊いた処によると洲鎌さんは宮古ではテレビ出演などもしている有名人なのだそうだが。
 洲鎌さんは見るからに頑固じいさんの風貌だった。明らかにヤマト(沖縄の方々は琉球列島以外の日本人・土地をこのように称する)の身なりをした僕を一瞥して、居間に上がるように無愛想に僕を促した。そこで麦茶を出してもてなしてくれたのが、洲鎌さんのお弟子さんである友利さんだった。彼女は「始めたばかりなんですよ」と言いながらとつとつと三線を弾いたり、それこそ数え切れないくらいの世間話を交わしたり、お茶菓子を勧めてくれたりした。友利さんと僕とは、失礼な話だが、三十ほどは歳が違った。それなのに、なぜか友利さんのお話は僕の気持ちに直接流れ込んでくる体温があった。とても確かなコミュニケイションがあった。

 気がつけば四時間ぐらい経っていたのだと思う。長居しすぎた僕は、それでももう少し話したい未練を実はうっすら抱えながら、おいとますることにした。そのとき、友利さんはこう言った。「たぶん、お若いあなたとおばあさんの私がこんなに話すことができるのは、前世で出会っていたからなのでしょう。今世では無理でしょうが、また来世で会いましょう。そのときにはあなたがおじいさんで、私が若い娘かもしれませんよ」……白状すると、僕はそのとき不意に目頭が熱くなったのだった。

 その夜「葵」で、結局三線は売ってもらえなかったことを報告した。洲鎌さんに「三線は島の言葉が分からない者には売らない」と言われてしまったのだ。島歌の楽器を島言葉の分からない僕が使えないことには、僕には当然至極の理由に思えた。洲鎌さんは僕といる間、「宮古の言葉しか話せない」と言って、彼の言葉は全て友利さんが通訳してくれていたのだが、「葵」のご主人と奥さんは「それはからかわれたんですよ。テレビではとても流暢な標準語を話してるもの」と大笑いした。だとすると、洲鎌さんは友利さんと僕との会話もすべて分かっていたのに、黙って四時間も聞いていてくれたのだ。
 そのとき突然、僕の帰り際に洲鎌さんが慌てていたのを思い出した。奥の工作室から三線の材料を取り出してきて組み立て始めたのだ。そのとき初めて僕は、無口で頑固で照れ屋で、おそらく人づきあいの上手でない洲鎌さんが組み立て始めた三線が僕のためのものであったこと、宮古では三線店と言えど、需要が多くないのでたぶん三線は受注販売していて、ふらりと現れた旅行者が所望したところで店頭販売や在庫などないのだろうことに気がついたのだった。

沖縄の島々は、そこを知っている人々には<僕(私)だけの特別な場所>だ。それを誇張だというあなたは、こんな駄文を笑い飛ばす前に、彼の地にあなたの足で降り立ってみるがいい。そこに暮らす人の声の湿り気を感じたり、遥か海の彼方からの風が皮膚を撫でるのではなく細胞組織の間を通過していくとき、あなたに何物かが触れはしないだろうか?

 友利さんは、洲鎌さんは、「葵」のご夫婦は、今も元気だろうか?




「てるりん館」にて照屋林助さんを訪ねる

取材などについてときどき僕は考えてしまう。名刺はもって行くべきか、MDなんかで録音するべきか、それまでの「木魚のひるね」を持参して望むべきか、前もって質問事項や進行をガチガチに決めてしまうべきか、なんて。その具合によって取材は内容がけっこう決まってしまうところがある。名刺で挨拶して、マイクをセットしながら質問を繰り出す―――そういった基本的な取材形式をとれば、「ああ、キチンとした取材なんだな」と安心してもらえる反面、かなりフォーマルなカタい答えしか帰ってこなくなる。ちょうど敬語のようなもので、敬語を使うと僕の信用性は上がるけど、くだけた話は敬語ではしにくいもんだ。そしてまさしく、僕はそのくだけた話が聞きたいがために取材しているのだ。だが、僕みたいなどこの馬の骨だかわからない若造が初対面の人のフトコロにくだけた感じで自然に……なんてちょっとムシがよすぎる。

照屋林助さんにインタヴューを申し込んだあとも、僕はそのことで頭を抱えた。照屋さんは漫談家で、それこそ「話す」ことにかけてはプロ中のプロなのだから、状況がどうあれ、興味深いお話を聞かせてくれるには違いないのだが、間題は僕自身の姿勢にあるのだ。僕が申し込んだインタヴューなのに、その出来を他力本願にまかせきってしまうことは、なんとも情けないことじゃないか……。結局僕は、納得できるアイデアもないまま出掛けた。いくつかの質問事項と、名刺と、MDを携えて。

ワタブーショーという、照屋さん独特の漫談と歌を交えたステージは、彼の自宅の二階が会場(それが「てるりん館」だ)として用いられ、まとまった観客の入数か集まった日に催される不定期の予約制ライヴなのたが、この日はわがままを聞いてもらうような形になり、観客はたった二人。そのことでも僕はいっそう恐縮してしまった。そして始まったワタプーショーは……。

照屋さんはリハーサルを終えると、「今日はこの人数ですから、差し向かいのような形でやりましょう」と声をかけてくれた。そして、いきなりの話題が「沖縄と大阪の関係」についてだった。ああ! それはまさに、僕がその日用意していた最大の質間事項だったのだ。なぜ沖縄の人に大阪へ出て来た人、あるいは大阪に暮らした経験のある人が多いのか、逆になぜ沖縄や宮古・石垣などに大阪の出身者が多いのか、なぜ大阪とのフェリー便が多いのか。それは黒潮と偏西風のせいだった。沖縄に船を浮かべると、海流と風の影響で自然に大阪近海へ流れ着くのだ。また、この海流は紀州沖で南向きにぐるりと一回転し、ふたたび琉球諸島方面へ流れて帰ってゆく。その名残だそうだ。大阪に沈む見慣れた夕日のずっと向こうにある沖縄とつながっている潮と風―――そう、このお話を聞いただけで僕はもう、なんというか、そうとう胸をこがしてしまったのだ。

神様は海から来ると信じられている沖縄では、おばあさんたちが今でも海に手を含わせているところを見ることがある。そして、沖縄では「予祝」をする。豊作なので神様にお祝いを捧げるのではなく、「今年も神様が遠い海のかなたからいらっしゃるだろうから、豊作は間違いない」とあらかじめお祝いをしてしまうのだ、と照屋さんがおだやかに話してくれたとき、僕は突き上げられるようななにかをおさえるのにやっとだった。貧しかった沖縄では、たぶん刈り入れの時期に豊作を祝えるほど収穫があることなんかほとんどなかったにちがいない。それで、彼等は「予祝」するようになったのだろう。それも、「神様は笑うところにやって来る」と信じて、精一杯祭りを楽しむのだ。そこでは神様を飽きさせないようにと毎年手かえ品かえ新作の民謡を披露したりして。

照屋さんのお話には圧倒的な映像がある。そしてどのお話にも部屋を飛び出て世界へ広がってしまうような解放感があり、それなのにその世界のどこかに自分が小さくても確実に存在している、世界とつながっていることの確かさも同時に感じさせてくれる。それはたぶん彼が「話芸」をしている域にはいないからだろう。およそ「芸」と名のつくものは殊に日本では大切にされ保存され、生きた化石よろしく「文化財」になってしまう。しかし、照屋さんのお話はあくまで照屋さんそのものであり続ける。話芸はあくまで手段。彼は存在そのもので僕等に話してくれているのだ。

これは物書きのはしくれである僕には痛烈な一発だった。しゃべるにせよ書くにせよ、僕はやたらむちゃに言葉を羅列して表現するタイプで、「よくまあそんなに言葉を並べたてられるもんだ」と半ば感心され、半ば呆れられる。これはしかし、どう考えても潔くないところがある。誤解をおそれているフシがあるからだ。だが、なんということだろう。そんなこんなで坤吟している僕の目の前に、照屋さんは瓢々と眩しすぎた。そして気がつけは、フォーマルに行くか親しげに行くか、なんてくだらないことに悶々としていた僕に、彼は明確な答えをとっくに出していた。このワタブーショーは僕達を交えた話のやり取りで進められていたので、すでにインタヴューはワタブーショーの中に吸収されていたのだった! 客席との垣根のないショー。寓話とも現実ともつかないそのショーという時間・空間に融和されて業務的でも世間話でもなくなったインタヴュー。

まるですべてを見透かされたような偶然に僕は興奮したが、これだって照屋さんのなせるわざだったのかもしれない。よく、たまたま自身があることに興味をもったら、急にそのことについての情報やなんかがしきりに目につくようになることってあるでしょう。会話を目や耳でじゃなく存在そのものでしている彼には話さなくてもそのときの僕の状態が自然と聞こえてしまう、そんなこともあるかもしれない。

貫禄たっぷりなのにまったく子供の笑顔。その外見は照屋さんの惜しみなく自身を生きてきた証に見えた。

※ 照屋林助

漫談家、民謡歌手、俳優、催眠術師、心理学研究家など、あらゆる顔を持つ。長く録音ソースを残さなかったが、「平成ワタブーショ」シリーズ(オーマガトキ〕をリリースした。りんけんバンドの照屋林賢の父。









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