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レヴュー05

イヴェント    1997年元日・住吉大社初詣

じつは僕も元日に住吉大社へ行った。ひとごみの中を木魚のメンバーや旧友と語らい、あちこちぶらぶら歩いた。気づけば午前5時になっていた。

去年の12月はなぜだか、「年の瀬」という雰囲気をヒシヒシ感じた。商店街の忙しさの向こうに感じられるほんのりした、こたつのようなぬくもりとか、心斎橋や梅田の街にあふれかえった人々の足取りの微妙な緩慢さとか、あちこちから遠巻きに聞こえてくるケンカの声とか、ファミリー・レストランのいつもに増していいかげんな店員さんの応対とか、そんなすべてが「師走」という言葉でひっくるめられて、僕はそれらにやさしい気持ちを抱いていた。誰に声をかけるわけでもないけれど、僕もひとごみの一人一人と同じようにいくつかの用事を抱えながら、なんだか通りすがりの誰かに挨拶しても同じようなやさしさで応えてくれそうな気がしていた。

たぶん僕も年齢を重ねたのだと思う。10代の頃の、身を律しておくことかできないほどのうれしさや、不幸を一人で囲いこんだかのような孤独感を今の生活に感じることはなくなった。日々の生活の経験を重ねるうちに、人は誰でも純粋さをいつしか失ってゆく。けれど、極端で鋭利で大胆で恥知らずでウジウジした「若さ」より、鈍感で頑固で腰が重く融通も利かない、それでも自分以外の人の体温や湿度や重さがすこしだけ分かるようになった今の自分の方が僕はずっと好きだ。元旦午前5時の旧友たちの目は充血しかけていたし足取りも決して以前のように軽やかではなかったけれども、みんな笑ってた。

書籍   「スティル・ライフ」池澤夏樹(中公文庫)

物語の起伏や展開ではなく、揮話の個々の描写にリアリティの強い作品、というものがある。この小説を紹介するにあたっても、ストーリーを語るより、そんなエピソードのひとつを語ることの向う側に、この物語の手触りが幻視できれば、と思う。

友人どうしである「ぼく」と佐々井の二人が部屋の壁に白いシーツを張り、スライド・プロジェクターで様々な山の写真を見てゆく。「なるべくものを考えない。意味を追ってはいけない。山の形には何の意味もない」「そうするうちに個々の山は消えて、抽象化された山のエッセンスが残る」と佐々井が言う。やがて「ぼく」には、山の様々な形を連続して見ているうちに、地形の運動感が感じられるようになる。佐々井は言う。「おもしろいだろ。写真というのは意味がなくておもしろい。一つの山がその山の形をしているだけで、見るに値する」

実際に僕の友人はスライド・プロジェクターを買ってしまった。彼の家で見たスライド写真は、紙に焼きつけた写真よりも色鮮やかで、壁一面に映すだけの追力があった。感傷家の僕は、その色彩感が、まぶしかった小学生の頃の夏休みの記憶のように、遠いところにあるが故に静かで華やかに見えた気がした。

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