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第6号レヴュー

美術

夢二郷土美術館(竹久夢二/岡山市)

 「多情な人だな」-美術館でそんなことをストレートに感じたのは初めてのことかもしれない。世にエロティックな絵など星の数ほどあるが、いつもシーンとしてホコリひとつない無菌室のような映画館という場所が、リビドーの活動を許さないのだ。しかし彼の絵は、深い意味をもった女の瞳で待ちかまえていた。おそらく彼が最も愛し最も憎んだ「女」という、いかんともしがたい不可思議。落ち葉のベンチでステッキに身を寄せる女の瞳と腰つき。男という、なにもないがらんどうにいったい何を求め、何を奪おうというのか? もちろん一枚の絵である女は美術館が閉館している間でも、休みなく何かを求めつづけている。それは男のモチーフにはあり得ないことだ。ロダンの彫刻「考える人」は人がいないときには考えてはいない。彼はそんな超人ではない。暗がりの中では彼は寝息をたてている。だが、夢二の描いた女たちは眠らない。こうしている今も、何かに憂いを投げかけつづけている。
僕には、そんな彼のたまに見せる郷愁が印象的だった。単色で描かれた素朴な郷里の町は、縦長の掛け軸の中ではほんのちょっとしかうかがえないが、そこに誰か物売りがよく通る売り声とともにこの掛け軸に描かれた風景に中に歩いてくるのが分かる。この絵の町はきっと夜には明かりを消し、眠るだろう。 


映画

「ジュ・テーム・モワ・ノン・プリュ」
監督:セルジュ・ゲーンズブール/出演:ジョー・ダレッサンドロ,ユーグ・ケステル,ジェーン・バーキン

 あまりに話題性のあった流行モノをとり上げるのもしシャクだったのだが、いいものはいい。それにリヴァイヴァル上映も落ち着いた時期はずれの今、改めて書くのも悪くない。
 使い古された便器を、雨のなか汗を流しながらトラックに投げ込む男。蝿の舞うゴミの山を抱き合って転げ落ちてくる男どうしのカップル。場末のコーヒーハウスでの醜女のストリップ。埃っぽい大地、なのにシーンのひとつひとつが抗いようもなく美しい。
 僕が悔しいのは、この映画が当時受けた罵声-ホモセクシャルや肛門性交、露悪趣味などスキャンダルだけが売り物のクズ映画だという論評-を、「今日ではそんな発言がナンセンスなことが、この素晴らしい映画を見たなら分かってもらえるだろう」などという売り文句で結局やっぱりスキャンダル性をコマーシャルに使ったことだ。これを使って「幻の名画」だとか「不遇の逸品」だとか騒ぐのも許せない。商業紙の無責任な書き散らし方にはウンザリだ。
 ジェーン・バーキンの小動物のような躍動感。彼女の短い髪と薄い胸が「中性的」などとよく言われているが、全く、かえって女らしい。彼女がもし典型的男性のイメージのロング・ヘアーに豊満なバストであったなら、ただの007のボンド・ガールにしかなり得ないだろう。彼女の髪の中途半端な短さから分かる恥じらいに、つねに漂う彼女の薄い胸へのコンプレックスに、女性の事実があるからだ。
 監督のセルジュ・ゲンズブールは、本来そういうイメージでないものを、異なるイメージで、自分なりの価値観で見続けてきた。そんな人・そんな映画を前に、スキャンダルを売り文句にしたり、ジェーン・バーキンの体型を安易に「中性的だ」なんて言う奴のこと、みんなで笑ってあげましょう。









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