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閑話休題四方山噺


その3. X世代からヴァーチャル・エイジへ → この20年の漫画変容譚

 マンガは、やっぱり、子供にとってほんとに身近な友達です。三つ子の魂百まで、とはよくいったものですが、僕も正直なところ、自分の道徳観や倫理観の礎としてマンガは多大な役目を果たしただろうと思います。そして、このことはうっすらと、世代を分ける基準のひとつになっているように見えるんです。

 妖怪人間ベムや新造人間キャシャーンなど、70年代によく放映されたアニメーションの主人公は自己に大きなコンプレックスを抱き、そこに救いもカタルシスもないままエンディングを迎える物語がとても多くありました。子供だった僕達はそのたび社会の不条理に怒り、それでもどうしようもない現実をにがい薬だと思って呑みこんで育ちました。また、ウルトラマンや仮面ライダーのシリーズには何度かニセウルトラマンやニセライダーが出てきて、なにも知らない市民をおびやかしたりして、世の中には「絶対」というものはないんだと訴えていましたし、U君(※ライターの一人)の採り上げている手塚治虫氏なんていわずもがな、葛藤だらけです。そんな僕らは、水戸黄門や遠山の金さんに違和感がありました。そんなにも単純明快で善悪がハッキリしているのはおかしい、と。

 いつごろからでしょう。マンガ(特に少年マンガ)は、驚くほどステレオタイプ化しました。ドラゴンボール、スラムダンク、美味しんぼ、北斗の拳、金田一少年の事件簿。これじゃオートメーションです。想像力の入り込むスキもないし、「知っている形だから安心できる」だけのことです。絵が緻密になってきたのも顕著な傾向ですが、その分よけい動きが出ず、イメージも限定されてしまう。はんで押したような子供達が増えてもおかしくないんじゃないでしょうか?

 そんな子供たちも黄門さんや金さんにギモンを持っています。でも、僕達とは構造が違うんです。彼ら・彼女らは演歌やNHK教育番組のような「古クサくて融通が利かなくてツッコミの入れやすいモノ」として時代劇を笑いとばすのです。

 思えば「お笑い」もかわりました。ダジャレなんて平和な時代は終わったのです。人を笑いモノにしなければ自分がサラシモノになる。バック・トゥ・弱肉強食でしょうか。イジメは現代っ子の処世術なんですよ、きっと。









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