フリーペーパー・バックナンバー メニューに戻る
ぶらっと メニューに戻る

みみたぶ通信

§9 ピチカートとフリッパーズ周辺D −時代の徒花(あだばな)

 前回をもってピチカートとフリッパーズの連載はいったん終了するつもりだったのだが、これはあくまでかつて彼等をめぐった論争を振り返り、現在の目で再論を試みたものだった。しかしこの形のレヴューは多少ずるい。新譜が出るたびにタイムリーにコメントしなければならない音楽誌の記事をたたき台に、一定期間をおいてから冷静に批判したのが僕の連載だったからだ。それに、僕は評論を評論したので僕のフリッパーズやピチカートヘの視線はダイレクトではない。そこで、蛇足ながら彼等の作品に間に何もはさまずに、少しばかり触れてみたい。

 などと言いながら、フリッパーズ・ギターについて書きはじめるのが、実は恥ずかしい。小山田圭吾と小沢健二はともに一九六八年生まれで、僕と全く同世代にあたる。彼等の評価のポイントである青臭くイマジネイティヴな歌詞や元ネタも含めた音楽牲の幅広さ、計算高いけれど作り込み過ぎない露出スタイルから、さっぱりしたルックス、3Dブックレットまで用意するCDの付録(1)に至るまで、僕には彼等がそうしてしまう必然性がひどくよく判るので、それがいつしか自分をさらけ出しているような恥ずかしさに変わってしまうのだ。殊に彼等の「割り切りたいのに割り切れなかったウェットな部分」だとか「若さがはずかしくてつい言いわけしてしまった部分」だとか、「ここではヒネクレたのでこのあとはストレートに行こう、などといちいち正直に筋道を立ててしまう律義な部分」にちょっとブルッと身震いしてしまう。けれど、それは共感の裏返しでもあるのだ。

 これはピチカート・ファイヴにも言えることなのだが、彼等を両手広げて「スバラシイ、サイコー!」なんて言ってしまえるのは、実は彼等のことをなーんにも判っていない人か、あるいは彼等に皮肉まじりの「アリガトウ」を述べられて有頂天になっている、ほんとにハッピーな人なんじゃなかろうか、とつい勘ぐってみたくなる素直じゃない、素直でいられないところが大きいのだ。そんな彼等だからこそデビュー・アルバム「海へ行くつもりじゃなかった(three cheers for our side)」のラスト曲で「おすすめ料理みたいな言葉を軽蔑して トルバドゥールを唱えたって仕方のないこと おかしな信条だとか主義 パンだけでいいのかもね 僕等の真っ赤なスカーフを投げてしまおう その過ちの下で僕等は生きて死ぬだろう 明目には出発するつもり ゴンドラの漕ぎ手には、赤い旗をかけておけばいい」("Red Flag on the Gondola")と(しかも英詞で)言わなければならなかったのだろう(2)。彼等はかつて、すべての価値観は疑わしいというポスト・パンクの位置から九〇年代の「気分」の断片を次々と提出し続けていた。マスコミをからかったりファッション誌に頻出したり、脳天気と気難しい入を演じ分けたり、あの時期にサンプリングでアルバム一枚作ってみたり(3)。それはジャズやロックの神話がもう終わった後で育った僕等の正直な気分だった。

 しかし、いま振り返って、僕が最も好んで聴くフリッパーズのアルバムは前述ファースト・アルバムで、それは単にメロデイがいいからなのだ。どんなにコマーシャル戦路を巧みに利用しようが、著名人や美男・美女がかかわっていようが、アレンジが秀逸であろうが、音楽の要は音なのだ。そのシンプルな基盤はプレ・パンクであろうとポスト・パンクであろうと変わりはしない。根底的な輝きのない音はどれだけ世間に迎え入れられようと、新しい可能性を切り開こうと、やがて「音楽の歴史」の一ページを飾るだけの「できごと」になってしまうだろう。彼等が当時、ひょっとしたら背水の陣の思いで繰り広げた数々のフェイクは、あれから七年たってほぼ風化した。そして、そうなるだろうことは彼等が一番よく知っていたはずだ。情報として消費されて行くことを望んだのはほかならない彼等自身で、それが言い換えれば彼等のポスト.パンク観だったのだから。

 とすれば、彼等の歴史はまさしく資本が個人を凌駕してゆく過程を描写している。まだ五人のメンバーが集まったただのバンドだったファースト・アルバム「海へ行くつもりじゃなかった」から、小山田・小沢の二人になって架空のサントラ(4)のようなアルバムを問うてヒットを生んだセカンドの「カメラ・トーク」、そしてサンプリングの洪水の上に心情をボソボソと吐露したラスト・アルバム「ヘッド博士の世界塔」までの歩みは、開け過ぎた可能性と不器用さのはざまでまだやみくもだった若さから、すべてが過剰でレヴェルの振り切った狂気を何とか綱渡りしながら、閉塞した自己を投影しようと孤独へと加速度的に突っ走る世紀末の都市絵巻になっているのだ。彼等はあくまで物事をナナメから見ながら翻々と情報砂漠の世の中を泳ぎ切ったようなふりをして、実は真摯におぼれていた。ただ、彼等は「それも演出である」と言ってしまうだろう。「シニカルさとダサさのブレンド具合をねらってる」だとかなんとか。そのミエミエのくだらないプライドが「ケツの青いガキのたわごと」だと喝破する豪快さんもいるだろうし、それでも虚勢を張る姿に「カッコイイ! カワイイ!」と涙をにじませる女の娘も、「極めて現代的な態度である」としたり顔でのたまうヒョーロンカ氏もいらっしゃるだろう。それはそれでどう感じてもいい。つまり、無視されるくらいなら悪態をつかれたり怒られたり、関心を持ってもらえ、相手にしてかまってもらえたほうがいいという、一種幼稚な、けれどどうしようもなく切り立って乾燥したこの都市生活においてはリアルな選択なのだ、これは。

 しかし結局、僕等は音楽に(と言うか、作者にだが)そうしたアティテユードを求めることがあっても、音楽は僕等に付帯物を求めはしない。音楽はただの純粋な音楽。フリッパーズ流ポスト・パンク視点から言えば、音楽以外のすべては神話という名のウソ、あるいはゴミなのだ。この拙文を含め、音楽評論なんてそれ以下かもしれない。僕が「海へ行くつもりじゃなかった」を今でも好んで聴くのは批評性やコマーシャル性や、ましてやフリッパーズのキャラクターに拠るものではない。それが楽曲の魅力であれBGM的な雰囲気であれ、そこに生きているのものは「音」そして「声」なのだ。その部分は風化しない。装飾に馬鹿らしく思いながらこだわって心血注いだ彼等の計算高さや愚かさが僕には愛しくもうっとおしくも恥ずかしくもあるが、彼等の音楽はストレートに響く。衣服と肉体、みたいなもんだ。

 サブカルチャーなんて、幻想と噂話と思い過ごしとでできた水の泡だ。「みみたぶ通信」しかり。当の作品の輝きに到底及ばないばかりか、ヘタすると傷つけてしまいかねない。しかし書かずにいられないのは、黙ってしまえば黙り通せてしまえるからだ。それはソロ活動後の小沢健二を見ればよく分かる。「くだらなさの美学」という言葉を以前この連載で引用したが、それは美学ではない。真剣なのだ。作り続けることに意味がある―――そこを疑ったら、あとはだんまりを決め込むしかない。たとえそれがくだらないものだとしても、だ。

 では、次回は彼等のソロ活動について。



1 サードにしてラスト・アルバム「ヘッド博士の世界塔」の初回盤は付属メガネを用いると飛び出して見える3D仕様になっていた。

2 アルバム「海へ行くつもりじゃなかった」は全曲が小沢健二の手による英詞で書かれている。

3 ここでの歌詞の引用は彼自身がCDライナ、に載せた対訳である。

4 前出のアルバム「ヘッド〜」は全曲がサンプリング(既出のレコードノCDから音やフレーズを録音して他の曲に再利用すること)によってほぼ構成されている。

5 「サントラ」はサウンド・トラックの路で、映画音楽のアルバムのこと。ちなみに、「カメラ・トーク」はアルバム所収「恋とマシンガン」のヒットでブレイクした。


◆ 次号へ









SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送