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みみたぶ通信

§10 ピチカートとフリッパーズ周辺E ‐小沢健二はシャツの裾がはみ出たまま

 二ール・ヤングという人がいる。特定の音楽ジャンルにしがみつかず、アルバム毎にその音楽性を変えてファンを驚かせ(ある意味で期待を裏切り)続けてきた孤高のミュージシャンだ。僕は小沢健二とファンの関係を思うとき、彼の姿とどこかがダブって見えることがある。

 二ールがこれまで手かえ品かえ様々なスタイルで発表して来たアルバムは、決してすべてが成功作だったとは言えない。むしろ、失敗こそが彼の人間くささを生傷のようにはっきりと感じさせ、不器用なのに向こう見ずな彼を「誰にでも分かるものでないとしても、俺(私)は彼の良さを知っている。彼のピュアさを愛している」とファンに言わしめる。―――そう、これは母性本能のくすぐりだ。二ールと小沢は全然違うクイプのミュージシャンだが、この強烈な愛され方においては瓜二つだ。これを僕は「末っ子性」と呼ぼう。

 両親、特に母親にとって末っ子はいつまでも「子供」だ。不器用で、たよりなくて、だからこそ愛くるしくて、「自分が守ってあげなければどうしようもない」存在だ。そんな子が何かをして成功したとき親は目尻を下げ、失敗すると胸に抱きかかえる。この全面受容姿勢が、例えば父性的な・子の独立独歩を誇りにしようとする視点からはいかにも甘ったるく、親バカに見えることもあろう。二ールにせよ小沢にせよ、成功しても失敗しても受け入れてもらえるなら、ポップ・ミュージシャンにとってこんなに羨ましい状況はなかろう。それが(特に小沢への)様々な妬みに結びつきやすいことも想像に難くない。

 末っ子はまた、過去を否定することが多い。先に生まれ先に道をひらき、圧倒的な影響力をもつ兄や姉のものではない、自分だけのオリジナリテイーを得るためには、末っ子は一度自分の中にあるすべてを放り出さなけれぱならない。こうして「自分らしさ」を獲得した体験をもつ末っ子は、その後にも新しい価値観を手に入れるためにはそれまでの自分を捨てることができるだろう。フリッパーズ時代はおろか、ファースト・アルバム「犬は吠えるがキャラパンは進む」(1)さえ自身の過去から消し去ってしまっていた小沢の姿は、決してうまくないのにギターで吠えようと弦を掻き毟る二ールと同じ、末っ子性を持つ者のさがを映している。

 二人の最も大きな違いは(実はここが重要なのだが)、自意識の在り方だ。二ールはロック音楽界がいわゆる大物ミュージシャンによって惰性化しかけていた時期に、自分達に唾を吐くバンク・ミュージックからの感銘を受け、逸速く自分を含む既製の保守的でご大層なミュージシャンに「錆びるより燃え尽きたい」と叩きつけた。自身の情熱だけに正直であろうとする彼の行き様は正にロックあるいはパンクの神髄の結晶であろう。しかし、情熱の空回りであらぬ方向に行ったがためにときどき失敗する二ールとは違い、小沢は最初の第一歩の時点で既に(わざと)つまずいている。これはフリッパーズのときにも何度となく繰り返したテーマだが、情熱一本槍で生き抜けるほどシアワセな時代はもう終わったのだ。だから前述アルバム「犬は〜」のメイン・テーマでもある曲「天使たちのシーン」で小沢は「涙流さぬまま寒い冬を過ごそう 凍えないようにして 本当の扉を開けよう カモン!」「神様を信じる強さを僕に 生きることをあきらめてしまわぬように にぎやかな場所でかかりつづける音楽に 僕はずっと耳を傾けている」くらいにしか前向きに渉を繰り出せず、しかも同アルバムを消し去ってしまわなければならなかったのではないだろうか。

 それは次の特大ヒット・アルバム"LIFE"でより決定的になる。「デイズニー瞭画のエン
デイングみたいな 甘いコンチェルトを奏でて 静かに降り続くお天気雨」(おやすみなさい、仔猫ちゃん!)と歌うときの小沢の姿は、もうラヴ・ソングの向こうに微かにしか見えない。ここで松本隆にも登場願おう。はっぴいえんど(2)時代に青く静的な心理描写を豊饒で巧みな言藁を駆使して表現し、あるときからスッパリと歌謡曲の世界に身を投じて松田聖子の諸作をはじめ数え切れないヒットをものにした日本の作詞家の第一人者だ。当時ファンの多くにその変節を「裏切り者」と言われた彼は、当時を述懐して「作品の質を重視する姿勢から、多くの人に聞かれて認められる量の重視へと価値観が変わった」と言う。そしてクリスマスのスタンダード「ホワイト・クリスマス」を採り上げる。確かに「ホワイトークリスマス」の歌詞は革新的でもなく、とりわけ質が高いわけでもない。それでもあの曲が感動を生むのは、あの曲が長年世界の至るところで愛され、歌われてきたポピュラリティーと歴史を持つからだ。この質から量への潔い変化は小沢にも通呈する。

 だが、「ぼくらの住むこの世界では旅に出る理由があり 誰もみな手をふってはしばし別れる」(ぼくらが旅に出る理由)、「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて生きるのさ それだけがただ僕らを悩める時にも未来の世界へ連れてく」(愛し愛されて生きるのさ)と彼はカー・ステレオやカラオケで消費されようとすることを善しとした曲の中で少しホンネをつぶやいて見せる。特に後者の曲テーマはその一年半後にシングル「痛快ウキウキ通り」で「喜びを他の誰かと分かりあう! それだけがこの世の中を熱くする!」とほぼ同じように表現されている。一見甘く切ない恋愛譚の装いだが、このとき、小沢は愛し愛されるごとを「可笑しいほど」だと、それ「だけ」が僕らを未来の世界へ連れて行くと、そしてそれ「だけ」がこの世の中を熱くするのだと歌っている。横溢する情報に溺れ、物心がついたときから自身を相対視すべくチル・アウトするように育ってきた小沢や僕の世代にすれば、今この時勢にまるっきり二ール・ヤングをやってしまうのは演技であり、ウソなのだ。松本隆のように演技しきってポピュラリティーのみを追うことができず、歪みや目閉を吐露する彼は痛いほど正直者だ。

 彼は徹底して恰好よくなろうとも、ホンネを語ろうとも思ってはいない。彼はただ迷っているだけだ。彼の美意識が果てしなく続ける消去法の連鎖の彼方に伺が残ってるわけでもないことを彼は一番よく知っているだろう。サードの「球体の奏でる音楽」において、彼が「何時間も電車を乗り継ぎここは静かな町・尾道 ああ川の流れのように生きられたらいいなと思う」「恋い焦がれ一人でいたい訳 誰にもきっとあるもの」(ブルーの構図のブルース)と歌うのは、一人でいたい時は誰にだってあるものだという普遍的な真実を述べたてたり、そういうボクの気持ちを分かっ
てくれと言っているわけでもなく、「だから放っておいてくれ。人は誰も一人なんだ。川のように黙って流れていられたらどんなに素晴らしいだろう」と漏らしているのだと僕は理解している。こうして「大人」をつかんだ彼はしかし、カッコよくなりきらず、背中でズボンからシャツをはみ出させている少年のままだ(それを彼は計算してもいる)。少し歳を重ねた彼は、末っ子性を遺憾なく発揮して甘え上手になったようだ。

 僕はファースト・アルバムが好きだ。生のべースとドラムだけを核としたシンプルな音像の上に、青臭い詞が乗っかり、どうしようもなさを「どうしようもないんだ」とぶきっちょな固い声で歌ってしまっているまだ着い彼がそこにいる。正直言って、彼はアレンジも歌もうまくないし、音の配し方も選び方も垢抜けない(特に近作"back to back"や「ある光」)。が、不器用さを敢えて認め、余身な音をマイナスすることによって自分を荒削りした「犬は〜」での小沢を、男である僕は支持したい。あのアルバムでこう歌う小沢が好きだった。「もう間違いがないことや もう隙を見せないやりとりには 嫌気がさしちまった」(カウボーイ疾走)



1 最近"dogs"なる題で再発売された。中身は同じである。
2 大瀧詠一、細野晴臣、松本隆、鈴木茂を擁する伝説的なバンド。クォリテイの高い日本語詞のロックを追及し、大きな功績を残した。


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