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みみたぶ通信

§12 「ハッピー=ブルー」とチャンネル・ピチカートの小西アナウンサーは言った

 ピチカート・ファイヴは決して万人ウケするヒット・メーカーではない。「渋谷系」なる言葉が巷に溢れ、ピチカートがその教祖の一人として崇められたことがそもそも特殊な現象なのだ。一億総オタク化と叫ばれる日本の今日らしい話だが、もともとコレクターとかこだわりの職人とかいう類いは、ネクラだと言われたりやっかいオヤジ視されることこそあっても、「情報量のたくさんある信念と独自の美学をもった我が道を行く趣味人」と憧れられることなんて一般的にはまずなかった(1)。事実、サード・アルバムの「女王陛下のピチカート・ファイブ」(2)辺りまで、こめユニットが一大センセーショナルを巻き起こすとはほとんどの人が考えていなかったはずだ。

 これまでムーンライダーズ(3)であるとかパール兄弟(4)であるとか近田春夫(5)であるとか、コダワリを前面に打ち出して独自の美意識で音世界を構築するタイプのミュージシャンやバンドはとかくマニアックでコアなリスナーに偏愛されることが多く、ファンは「知る人ぞ知る」存在の彼等を隠れキリシタンの如く崇めてきた傾向が強かった。これはまた、ミュージシャン・サイドでもある程度までは「コダワリの判る人に聞いてほしい」と望んだ結果だと思う。蘊蓄を傾けるワイン.マニアのようなものだろうか。しかし、ピチカートはそこの様子が少し違っている。小西康陽のこだわりは人一倍強く、そこで鳴っている音の一つ一つがそのタイミングに、その音色で、その音の高さで鳴ることが必然であると納得させてくれるくらいに選び抜かれている。だのに、聞き手は何をも強制されない、物寂しいくらいの自由感がある。リスナーがコダワリをちゃんと聞き取っているかどうかなんてハナから間題にしていない。言ってみれば、この多元的な現代において、「飽きた」とか「つまんない」とかいう理由でチャンネルを変えられることを最初から知っているTV放送局の人のようだ。そこに僕等はポスト・パンク的な姿勢を見て取ることもできるだろう。

 一見カラフルで、アルバムごと・曲ごとに多彩に衣装を着替えてみせる彼等だが(6)、そこには変わらぬ一貫したトーンがある。ファースト・フル・アルバム「カップルズ」で「そばかすは消えたけど でも 美人でもない なのに恋してるなんて もう若くないのに 自分でもおかしいから すこし笑った」(皆笑った)と歌うその口で「夜はとても深くて 二人はいつまでも 愛しあって いつの間にか 夢を見るのさ 恋人たち」(眠そうな二人)と眩かれるところに、なんでもない日常から切り取られたワン・シーンの微妙な心の震え・曖昧な色合いが滲み出ている。その構図は例えば、アルバム「スウィート・ピチカート・ファイヴ」の「昨日TVを観てたら 大好きなマンガの主人公が ピストルで撃たれてしまった 憂鬱なコズミック・ブルース とても悲しいのに 憂鬱なコズミック・ブルース 本当に悲しいのに(中略)だれにも未来はわからない 誰にも何もわからない もうすぐ夜が明けて 新しい朝が来るのに そして今朝のTVには 新しい番組」(コズミック・ブルース)と描かれる心象風景と「ねえ、いますぐ 愛してるって言って いますぐ言って ねえキスして いますぐして 約束して いますぐして 私のこと ホントに好き? じゃあキスして いますぐして」(テレパシー)というシンプルで刹那な表現との対比や、あるいはブレイク作「ボサ・ノヴァ2001」の「地味な性格なんて 似合わないでしょ むずかしい本なんて 読まないけれど 七時のニュースが言ってた 夜には雨がやむでしょう 家には犬が待ってる」(レイン・ソング)という静謐さと「寒い国の 恋人みたいに アライグマの 帽子を被って かじかむ指合わせて クイン・ジ・エスキモーみたいに 赤い鼻をくんくんさせて 愛してると言って」(ストロベリィ・スレイライド)というほのあたたかさのないまぜになった情景とまったく重なる。

 また、同じような事象で、これは「渋谷系元ネタデイスクガイド」(7)のなかで佐藤公哉氏が指摘していることでもあるのだが、「きみを愛しているのに 訳もなく気分は どこかブルー 幸福な 夏の午後なのに なにもかもひどくブルー」(夜をぶっとばせ)、「楽しすぎて ブルーになる GROOVY DAY」(我が名はグルーヴィー)、「うれしいのに悲しくなるような あなたはとっても不思議な恋人」「泣いてるの? 嘘よ、笑ってる」(ハッピー・サッド)、「大好きなレコードを小さな音でかけて(中略)大好きなレコードはもうしばらく聞かない」(私の人生、人生の夏)、「悲しくなるほど好きなの 死にたくなるほど好きなの 嫌いになるほどあなたが好きなの」(連載小説)、「Thank you ゴキゲンな キスしてくれて サンキュー ユウツな気分で 死にたいけど」(サンキュー)などという、相反し撞着した表現法が多用されていることも目につく。

 小西の繰り返し描く世界はすべて、物事が並走し同時進行していく様子を描写している。彼が底抜けにハッピーだと言うときには、そこにハッピーでない状況があるからだ。彼はその「ウラ側の風景」をハッキリとは描かずに、あぶり出しの絵のように極めて隠喩的に浮かび上がらせる。彼は決してヒネクレているわけではない。ハッピーが言葉どおり百%ハッピーであるような日常ではないことは誰だって知っていることだ。幸せすぎてこわいとか、この幸せがいつまで続くのだろうとつい勘ぐる、などという表現も昔からイヤというほどされてきたことだし、その間にもどこかで誰かが餓死したり戦死したりしていることも僕等は知っている。そしてまた、そういう多極的な事実すべてと向き合って生きて行くことはできないことも、暗黙に了解されている。そんな飽和しながら閉塞する今、九〇年代に有効だったのは理論でも蘊蓄でも必然性でもなく、時代の「気分」だということなのだろう。それがピチカートにとっての音やヴィジュアルなどの「衣装」なのだ。そういう意味では、これはポスト・パンクというよりはポスト・ダダ(8)なのかもしれない。

 ただ、その傍らで小西は、自信をもってコダワリ続けた音や言葉が特定のパトロンを生むことを知っている。その価値が判ってもらえなくとも、うわっつらのセンスに惹かれてファンになってくれても、どっちでも良いのだ。判る人には判る。あとはシアワセに騙されてくれればいい。お金がなければ思うようなことが十二分にできないからだ。―――そして、彼のコダワリもまたチャンネルを変えたら思い出されもしない手慰みに過ぎないことを最もよく判っているのは小西康陽本人に違いない。「そしてぼくは 裸の王様」(女王陛下よ永遠なれ)



1 ピチカート・ファイヴのブレイン、小西康陽は重度のレコード・コレクト患者で、まさにコダワリが服を着て歩いているような存在であろう。
2 次の「月面軟着陸」は旧来の曲をまったくリ・アレンジのうえ再構成した企画力に富んだアルバムで、ここから彼等は現在に至る布石を確立したと言えるだろう。
3 鈴木慶一を中心とした日本の老舗バンド。メンバー全員が日本の音楽界の表裏をあらゆるシーンから支えてきた職人揃い。
4 ムーンライダーズの流れを受けたサエキけんぞうと近田春夫の人脈から出てきた窪田晴男が中心だった八〇年代のニュー・ウェーヴのバンド。現在はサエキのソロ活動の場と化している。
5 ハルヲフォン、ビブラトーンズ、ビブラストーンやソロなどをへて、また、ピンクやジューシー・フルーツなどにも関わり、日本のニュー・ウェーヴ、ラップ界に大きな影響を残す才人。
6 ファースト・アルバムから順に大まかなテーマはそれぞれ、A&Mサウンド(カップルズ)、スウィート・ソウル(ベリッシマ)、サントラ[映画音楽](女王陛下のピチカート・ファイヴ)、リミックス(月面軟着陸)、インスト集(「学校へ行こう!」)、録音技術(女性上位時代)、ハウス(スウィート・ピチカート・ファイヴ)、ライヴ(インスタント・リプレイ)、ポップス(ボサ・ノヴァ2001)、ロック(オーヴァードーズ)、クラシカル・エレガント(ロマンティーク96)、ドラムン・ベース(ハッピー・エンド・オブ・ザ・ワールド)である(編集版/十二インチ・アルバムを除く)
7 クイック・ジャパンを出している太田出版の刊行。それにしても救いようのないくらいみっともないタイトルの本だ。
8 ダダイズムは言葉を意味や歴史から切り離そうとしたフリーキーな二〇世紀初頭の運動。


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