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15》私の好きな散歩道の巻


先立つものもアテもないのに、何げなく海外旅行者ご用達のガイド・ブック「地球の歩き方」をひろい読みする。それにつけても「このルートをじっくり回るには十日ほどは必要だ」とか「この国をくるりと一周するなら最低でも一ケ月は見ておかねばならない」とか……。仕事にキビシイ日本じゃ賛沢な話だなァ。この本の読者層は比較的若くて自由の利く学生が多いのだろうとは思うが、一般的な会社勤めの身なら「最低でも一ケ月」なんてどう逆立ちしても夢物語。まとまった長期旅行ができるのはせいぜい転職のときくらいではなかろうか。

「地球の歩き方」という題名が示しているとおり、このガイド書は地球視野の散歩を薦める本である。決して慌ただしいパック・ツアーのスケジュール消化のはざまで見付けることができないモノにこそ、日常生活を飛び出て海外へ旅行する意味があるのかもしれない。しかし、指折り数えられる日数しかない休日の期間中に、あてもないのんびりぶらぶらした散歩をしてはいられないという現実もある。少ない自由時間により多くの充実を求め、様々な名所・旧跡を巡り、写真やビデオを撮りまくり、お土産買いに奔走することも「旅した」という満足感のためには必要なのだろう。

そしてふと思えば、地球規模でなかったとしても、会社勤めの人々の日々からは散歩そのものが夢物語になってしまっていることに思い至る。散歩とは、何の見返りも要求せずに、明確な時間の割り振りなしに、どこかを歩くことである。血眼になって何かを見ようとするのではない。何かの目標に達するために歩くのではない。自分の速度をゆるめ、自然な流れに沿うように身をたゆとわせると、今まで見えて来なかったものが見え、気づかず通り過ぎてきた何かに触れることができる―――空の高さであるとか、星の数であるとか、虫の声であるとか、何かの花の匂いであるとか。そうしたものを見たり聞いたり嗅いだりするのではなく、感じる瞬間が散歩の醍醐味だ。そのためには自分を日常のべルト・コンベアから降ろし、腕時計などはずしてしまうことだ。とはいえ、翌日の出勤にそなえで早く寝たり、ショッピングでウサ晴らししたり、レンタル・ビデオでハラハラドキドキの疑似体験をするのがより実用的で効率的ではあろう。ほんのり温かいサザエさんの家庭がもはや現在の日本では失われてしまったように、散歩も贅沢品になってしまった。

しかし、ボブ・ディランが言わなくても「時代は変わる」。バブルという言葉もすっかり市民権を得、今ではその狂乱が恥ずかしいと言いながらも、遠い目をして懐かしむくらいには昔話になった。不況は長引き、しかも表面上は年々悪化して見える。そんな中、いつの間にか高い建物がなくなり、空き地が増え、空が広くなっていたりする。どうせ気晴らしにとヒーリング・ビデオなんか借りてきたって、車を走らせたって、パチンコをうったって、すっかり痩せ細った財布からなけなしのお金をはたくことになるのだ。日本の社会は今、僕等に「できるだけ仕事をしないでくれ」と言っている。それでも仕事にしがみつかなければ明日からの生活に困るのがオチだとは判っているが、こんなときにオイシイ儲け話を探そうったって無理な相談。今、とりあえず暮らせているなら、せめて少しの間はそれでいいじゃないか。うまく夕焼け頃に仕事が終わったなら、いつもの暖簾をくぐれば終わる一日を、すこし趣の違う日にしてみよう。知らない路地を抜け、知らない角を曲がり、知らない空気感に出会ったとき僕等は、何となしに大きく見えていた自分の職場が街の片隅にある猫の額であることを思い出し、自宅と職場との往復に慣れていつしか線になっていた日常に立体的なふくらみを取り戻すことができるかもしれない。

あなたは、最近いつ散歩に出ましたか?



春の悪意

京阪電車に乗っていると、八幡市駅と淀駅の間に、急に風景がぽっかり開ける土地がある。京阪はその名のとおり京都と大阪を結ぶ電車だけど、古くから栄えた二都市の間のこと、自然に満ちた車窓風景はそんなには残されていない。それだけに、とつぜん奥行きが広がるこの場所が胸に残っていた。

サラリーマンだったころ、ここを通るたびに「アタッシュ・ケースもネクタイも川へ投げ捨てて、日がなのんびりとここであくびでもしてたいなぁ」と何度思ったことだろう。しかし無情にも特急は我々をグングン京都の町に連れて行き、今では七条あたりから見られた鴨川沿いの景色すら、地下にもぐってしまって見えない。そして駅を出ると、仕事が待っている。

そこが「かわきた自然公園」という場所なのだとか、木津川と宇治川と桂川の三つの川が合流して淀川に名前を変えるポイントだったのだとかいうことを知ったのは、ずっと後になってからのことだった。川にはさまれた堤の小径には桜の木が植えられ、春には少しばかり入が集まる。けれど、普段ここには人はほとんどいない。そして、見るべきものも何もない。ただただそこは、ポッカリと開けた川の合流地点なのだ。だからこそ僕はそこが好きだ。だいたい、「見るべき何か」などというものはほとんどが観光化され、客寄せの見世物に成り下がっている。見るべき物自体は素晴らしくても、それを見る環境が悪いと気構えがちがってしまう。旅行ではガイド・ブックでおなじみの観光名所よりも、なにげない通りすがりの場所にこそ、忘れられない思い出ができたりする。

ところで、僕はこの場所を「かわきた自然公園」なる名前であまり呼んだことがない。ここは、”kawakita”という音にすれば乾いて凍てついたイメージの場所でもなければ、「自然公園」と呼ばれるほどの、人の手が入って整備の行き届いた管理された場所であるイメージもない。かつてここを一緒に訪れた友人が、広い野に鳥が羽ばたきもせず、ポツポツまばらにいるのを見て「鳥の畑」と評したことがあった。この表現はのどやかでぼんやりしているがうっすらとした恐さもあるこの場所をうまく表していると思うので、ここではそう呼んでおくことにしよう。

木津川・宇治川・桂川はどれも奈良や京都から流れてくる一級河川で、せせらぎの音など聞こえたりはしない。ただ黙々と流れ続けるだけだ。国道の車や鉄道の音も、ちょっと鳥の畑に入ればウソのようにかき消されてしまう。本当に、はぎ取られてゆくように音がなくなってしまうのだ。あとはときおり風の音がするくらいだ。この静けさと、水辺の土地が必ず持っている不気味さが相侯って、鳥の畑はときに僕をゾッとさせる。だが、まったく同じ理由―――静かなことと、水辺の土地の不思議な魅力―――で、僕はまた別のときには心から落ち着く。言うなれば、鳥の畑は、その時々の自身を映す鏡なのだ。自分の存在感が弱いときにはおののき、自分を解放したいときには滋味豊かな、そういう場所なのだ。これはある意味でうれしいのに心震える春という季節と似た手触りだ。

と、そんな事ばかり書いて、肝心の風景の描写が全然ないではないかとご不満の貴兄には申しわけないが、僕には鳥の畑の正確な描写ができない。どんな植生が見られるのかとか、四方の山や丘はいかなる形を有しているのかとか、昼とタ方ではどちらの雰囲気がいいのかだとか、そんなディティールは鳥の畑にいるときにはまったく見えていないからだ。鳥の畑にいて見えるのは、人は一人だからこそ自由なんだという事実と、人は一人だからこそ孤独なんだという事実の二つであり、それがぼんやりとした観念ではなく、具体的に形や色となってハッキリ目に映る。この地の虫や鳥の生態が気になったり、各々の川の流水量が知りたい貴兄はぜひ一度足を運んでいただきたい。そして、それらが貴兄を深い印象の下に捕えたならぜひ詳しい内容をお聞かせ願いたい。それとも、あるいはもしかしたらどう逆立ちしてもこの地を描写する言葉を持ち得ない、とても抽象的なこの場所に対する僕の印象を判ってもらえるかもしれない。

のどかなのに残虐さも持ち合わせている「春の悪意」が京阪電車の八幡市駅と淀駅の間にある。

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