みみたぶ通信
§15 女性上位時代、あるいはサーヴイスとしての女性A ‐テレーザとellie
ついこの間まで、二五枚入るCDのオート・チェンジャーにマドレデウスもellieも入っていた。私事ながら、こりゃ分裂症気味だなと思う。
マドレデウスは今やポルトガルを代表するバンド。スペインのフラメンコから華やかさを取ってシンプルにし、潮風に晒したみたいなファドという音楽がポルトガルでは一般的なのだが、このファドのスタイルを活かしつつポップスの要素をふんだんに採り入れたのがマドレデウス。風のようなアコーステイック・ギターのアンサンブルに、「天使の歌声」テレーザのどこまでも清楚で透明な歌声が聞こえてくると、誰だって心にシュワーッとサイダーのような泡がたつ。気分はすっかり大西洋の鄙びた海岸だ。水平線に向かって沈む柔らかな西日を浴びながら、欠伸をするも善し、犬と戯れるも善し。近くでおじさんが七厘に火を入れ、秋刀魚を焼く匂いがすることだろう。
で、チェンジャーがランダム機能で選んだ次の曲が。ellieの"Merry Go
Round"。舞台は一転、これから皺くちゃになることをぷんぷん匂わせるベッド・シーツの上だ。耳に唇をつけて彼女は”Ur
bodywon't forget my body", never gonna stop my up and down"(「あなたの体は私の体を忘れられなくなるのよ」「私は決してアップ&ダウンをやめない」)とマニキュアの爪を立ててみせ、スピーカーは,Do
U wanna ride on my merry go round?"(私のメリーゴーランドに乗りたくない?)と囁き続ける。なんてひどい選曲センスなんだ(もちろんCDを選んだ僕が悪い)。
ellieの歌声の奔放さはただごとではない。もう一歩踏み出してしまったら、それはまともな歌でさえなくなるかもしれない。低くうなった次の瞬間、甘い猫なで声が、そしてつぶやきが、叫びが、笑い声が、連射され畳みかけてくる。そして、その,一つ一つの声のどれもが同一人物の声とは思えない、はっきりしたパーソナリティーを持っている。そのどの声もが彼女の深くて甘い夜へと手招きしている。
彼女はラブ・タンバリンズというバンド(1)を捨て、夫と子を捨て、友人関係も信頼もほとんど失い、ぎりぎりのところで歌っている。彼女がすべてを捨てたのは、本当の意味で歌にだけ向き合うため。歌が他のすべてを捨てさせたとも言える。彼女は歌の怖さを知っている。いつもハイ・テンションでエネルギッシュで荒馬のようだった彼女の、すべて捨て去ったあとのインタヴューはけなげな小娘のようだった。
女はシリアスだ。男で聖と俗、といえばマーヴイン・ゲイ(2)だったりジョン・レノン(3)やセルジュ・ゲンズブール(4)だったり。男の情けなさもかっこ悪さもアホさもあって、それが救いでもある。けど、同じ二面性であってもマドレデウスのテレーザの歌声を聞いてほお杖をつきたくなるアンニュイを感じたり、ellieのベッドヘ誘う声の向こうにひざを抱えて震えている彼女の中の少女を見つけたりするとき、僕等は決して救われない。情けなくもかっこ悪くもアホっぽくもない。
シリアスだと感じるのは、女は等身大で女であるからかもしれない。アレサ・フランクリンがゴスペルを歌うとき、見えてくるのは祈りを捧げる彼女の姿そのものだが、ネヴィル・プラザーズのアーロンならば、その歌声を通じて彼が足元に触れようとする神の姿を僕等も追い求めるだろう。また・女性側のセックス・シンボル像がマリリン・モンローであったりブリジット・バルドーであったり、直接体にセックス・アピールがある場合が多いが、男性側では不器用さであったり声であったり少年性であったり・どちらかというと抽象的なケースがたくさんあるようだ。また、そういった性別への意識は普段、異性の口から語られることが多いのだから、女性が女性でしかなく、それ以上でも以下でもないことを男性は愛し(だから「肉体」に意識が向かうのだろう)、男性が自分以上でも以下でもあろうとする幻想を女性は愛するのかもしれない(男が幻にしがみつく夢追い人だということを知っているからこそ、女は「かわいい」という形容を男に対しても使いたがるのだと思う)。
女は子を産む、という時点でより生命体として確固としている、と僕は常日頃思っている。子孫を残す生命維持機構の役割だけ見ると、女性は完全な主役である。卵を温めたり子宮内で子を養うのは女性だ。母体の危機は大きなリスクになる。外敵と対峙しながら餌を確保し、妻子を守ろうとするのが夫の役目となる。また、卵を温めてもらったり臍の緒で繋がっていたり、肉体的で直接な結び付きを有する母親に、より親近感を抱くのも当然の推移と言えるだろう。ならば、最も身近な人間が、人間としてより強固でなければ模倣するに値しないことにもなる。さっき出てきたジョン・レノンは一時期音楽業を捨て、主夫(ハウス・ハズバンド)生活に専念して世間を騒がせたが、幻想を愛するような、精神的振れ幅の大きい男性よりは、自分は自分以外の何ものでもないと腰が据わっている女性の方が、やはり子供の養育には適していると思う。
男性社会ではスジとか魂とか道とかが大切にされる。スジ違いなことや魂の抜けたもの、道から外れたもの(例えば武士道に反する、など)は糾弾誹謗される。しかし・女性の間では感覚やセンスがモノを言う傾向がある。ヒロミックスがネガで写真を撮ったのがいい例だ(5)。最近は男女問わず感覚やセンスは重要視されるようになってきたが、男には正直、イマイチ押しが足りない。向いていないのだ。スジや魂や道なんていうものも、これはすべて幻想だ。実際に形としてはこの世に存在しない。男は自分がカラッポなので、空しさのあまり幻想を生もうとするのだ。そうでなければ外敵に晒され、餌を取る役目だけに終始することはできないだろう。女は自分が確固として自分なので、それ以上のモノは付加価値でしかない。感覚やセンスで勝負、ということは自己内部の表現であり、いわばヌードなのだ。自分という実体のある女は裸体を衆目に見せることもできるだろうし、その姿形の違いが個性と名付けられるだろう。だが・脱いだが最期、男には実体が無い。だからこそ、男社会が発明したものが名刺だったりする。
テレーザが歌う。ellieが歌う。それだけで彼女等は彼女等で。歌のためにすべてを捨てたりもする。焦がれるだけで、僕はこうして何度も駄文を書き換えるほか術がない。男には、あんなふうに歌える日は来るのだろうか?
1 奔放なellieと確実なサポートをするプレイヤー人との関係は歌手とバック・ミュージシャンに他ならなかった。
2 ヴェトナム戦争をテーマに神に祈りを捧げた”What’s Goin’ On”を発表後、彼は性愛を題材に”Let’s
Get It On”を作り上げた。
3 “Imagine”で「『オマエは夢想家だ』と君は言うかもしれない」と歌うくらいの平和論者だった彼のビートルズ時代の作で本人の最高のお気に入りは”Mother
Sperior jump the gun”(修道院長さん、銃をぶっ放してくれ[たぶん「ドラッグを打ってくれ」という意味])と繰り返す”Happiness
Is a Warm Gun”。
4 彼の遺した歌とエピソードは高貴と淫猥、挑発と退廃、最高と最低だらけだ。
5 一般的には発色の良さやグラビア紙面などへの印刷の条件などから、プロのカメラマンはリバーサル・フィルムを用いるのだが、彼女は我々が日常使っているネガ・フィルムで写真を撮って新鮮な驚きをもたらした。
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