-世界のできごとに、ささやかな意見を-

韓国の「少女像」問題には、かの国の感情的国際意識が反映された恰好の例に見える。日本が糾弾されているその内容と重ね合わせてみれば、そのことは一目瞭然だ。

2015年に締結された慰安婦問題に関する日韓合意をひっくり返すような韓国での慰安婦像の設置運動や、日本の拠出金10億円が元慰安婦への補償ではなく団体の運営資金に使用されるという合意になかった動きになっていることの根底には、パク・クネ大統領が弾劾裁判で大統領を失職したことにその理由があるとされる向きが強い。「そんな大統領の締結したことなど認めることはできない」という立場だ。
もちろん僕らも安倍政権が決定したことをいちいちすべて追認する気持ちを持ち合わせてはいない。ただ、「正当な選挙によって選ばれた国民の代表者が取り結んだ国家間の合意事項に対する責任は我々には一切ない」ということがどれだけ愚かしいことなのかは、ほとんどの国民が理解しているはずだ。2014年に日本がイスラエルと準同盟国になったことに対する報道も危機意識も低いことに焦りがあるのは、国家間の約束事がいかに重いものであるかを知っているからである。
軍事国家であった大日本帝国では、選挙があっても首相の暗殺が行われ、軍人による独裁政権が動かしがたいものになっていた。戦後の極東裁判では死罪となった政治家も出た。そんな国家の代表者たちが犯した罪に対しても、戦後の日本人は彼らの出現に反省し、誠実な対応をみせようとしてきた。
対して、パク・クネはこれだけ高度情報化社会にある韓国で、正当な手順で選出された大統領である。にもかかわらず、その暗部が明るみに出たことで、彼女が合意した内容の破棄を根拠とするような運動に、何の確かさがあるというのだろう。
そこにあるのは、経済成長を遂げても先行きの見えない鬱屈が作りあげる駄々である。社会が悪い、大統領が悪い、日本が悪い。もしそれらが本当に悪いのならば、改善することこそ目指されなればなるまい。社会の不正を正し、よりより大統領を選出する方法を案出するとともに自分たちの審理の目を磨き、日本により有効に正しい方向性を示すためのコミュニケーションを採らなければならない。しかし彼らがやっているのは、悪者を引き摺り下ろして挿げ替えることであり、自国の中で他国の悪をあげつらう挑発である。そんなことは、成長の過程で自身を作り上げるまでに自己中心的にならざるを得ない高校生までの思春期に済ませておくべきことだ。大統領職に就いたのちにその多くが悲惨な末路をたどるような政治機構に、国連事務総長を勤め上げたパン・ギムンが身を投じなかったのは当然の理である。

韓国人のみならず、海外在住者や外国とのコンタクトを取りつづけている人々は、自国の持っている問題や弱みや暗部をよく知っている。客観的な視点から眺める姿勢が確立されている。しかし、たとえば自国に住む韓国人は在日朝鮮・韓国人を自分たちの同胞と見なさない例があまりに多すぎる。自分たちの持つイデオロギーだけに執着する国民が導く結論が往々にして危ういことは誰にだってわかっているはずだ。

聞く耳を持つこと、そして、前進するために必要なポイントを見極めて消化しようとすること、もしどちらもどうしてもできない生理的嫌悪があるなら、その相手を無視すること。そうでなければ、人と人との関係は一方的なものになり、そんなものが長続きするわけがない。いいかげん思春期的な弱者の論理を脱皮して、成長した大人としての韓国を示してほしい。

2017年3月20日



韓国中国での反日騒動が連日世間を賑わせている。たしかに韓国のイ・ミョンバク大統領の日本バッシングによる点数稼ぎという国内問題を国際関係に持ち込んだやり口には憤りを感じるし、2005年にも起こった中国での反日デモの行き過ぎた暴力行使にも大きな疑問を感じる。そして、「韓国製品や中国製品より、少しくらい高価でも日本製品を買おうかな」というような発言をする日本人の気持ちも分かる。だがその一方で、僕たちはここでもう一度、「人民」と「国家」をきちんと分けて眺めることができているかどうか、自身に問いただす必要があると思うんだ。

まず、僕らはかつて自国の総理大臣を自分たちの代表者、もっと言えば代弁者だと感じたことはあるのかな。竹島や尖閣諸島が「自国の領土である」との主張を譲らず、弱腰にならずに発言してもらった瞬間は、単純なナショナリズムと弱腰外交への反省とで政府の対応に拍手を送ることができるかもしれないけれども、それならイ・ミョンバク大統領が採った方策と同じ小さな土俵に一緒に上がったことになる。韓国への批判が起こるなら、それは韓国政府や大統領に向けられるべきだ。かつての大戦で日本政府や軍がとった行動を反省すると同時に、民衆が戦争の被害を被ったことも認めている日本人になら、この意識は簡単に持てるはず。現在大きな問題になっているアメリカ大使館でのテロ行為にしても、イスラム預言者冒涜を訴えるのであれば、アメリカ政府にではなく、映画製作者に矛先を向けるべきだと感じた人が圧倒的に多かったはずだ。

次に、中国での反日デモは人民が担い手だ。中国政府はある程度デモを容認しながら、ある程度膨張したところで規制をかけている。だから、先述したのとまったく同じく、中国人たちはまず「日本人」ではなく「日本政府」を対象にデモをするべきだ。この点では日本人も韓国人も同様なのだが、一つだけ考慮したいのは、中国政府が長年の一党独裁体制による強権政治を行っていること。反日騒動はこの中国共産党政権への不満のガス抜きの一面を持っていることは、以前の反日デモでも同じことがマスコミに指摘されているよね。そこを拡大解釈してみると、中華人民共和国に住む中国人にとって、政府批判という発想に、たとえ他国に対してであってもアレルギー的に忌避する傾向を持つ可能性がある。もっと違う可能性を探ってみれば、中国政府がガス抜きのための反日扇動をしていることだって考えられなくはない。国家の体制が人民にもたらす影響の大きさを、これまた日本人は戦時中の挙国一致体制への反省で思い知らされているのではないだろうか。

「人類はみな兄弟」とは言っても、兄弟げんかや、兄弟だからこそ許せないことがたくさんある。特に韓国や中国といった近隣諸国に対しては、国どうしが接しているからこそ、過去から現在に至るまでに様々な利害関係を孕んできた以上、特に近親憎悪を抱きがちだ。顔形や文化・言語にも共通性の見られる民族どうしだと、その差異が見えにくくもなるし、違和感が醜い形で露呈すると余計に許せなくなったりもするだろう。こういった感情は、タイに暮らしている僕にもしばしば沸き起こり、自己反省することも多い。ただ、海外在住者として自分が「日本人」という看板を前提に見られている経験を繰り返し、自分という存在や日本人という民族性と、日本政府を離れた場所から客観的に眺めるという日々を送る間に、人民と国家を綯い交ぜに考えても意味がないことを強く意識するようになった。僕という人間を眺めて、日本人の片鱗をつかむこともできるだろうけれどもイコールではないように、人民と政府もまたお互いに影響しあってはいても同一存在ではない。そこを履き違えて感情論に訴えても、どこに行き着くこともできはしない。ましてや、無責任なネットでの個人発言にいちいち目くじらを立ててもすべてが徒労になるだろう。

加えるなら、日本人はどこか極論主義な側面を持っている。戦争に突入したら「最後の一人になるまで戦う」、戦争が終わると「これまでの社会観念はばっさり切り捨てなければならない」、仕事では「家庭や個人生活・健康を犠牲にしてでも任務を貫徹する」、サーヴィス業では「お客様は神様であり、店内で騒いだり暴れたりする子どもを叱るのは論外」、いじめでは「ゲーム・オーバーまで相手をとことん追い詰める」(いじめはゲーム感覚で行われていると、僕は見ている)。事例は枚挙にいとまがない。日本人は他者の立場に立って考えることに関しては優れた能力を誇ってきたが、その一方で、バランスをとらずに極端な方向に傾くオール・オア・ナッシング思考でかたをつけようとするふしがあり、これが時に相手を慮る特性を封じてしまいがちなこと、そしてこの傾向がネット社会での匿名個人発信が増加するにつれ、異常に肥大していることを意識しなければ、自分をも見失う可能性がある。

2012年9月23日



タイの首都バンコクでは、とうとう国軍とUDD(反独裁民主同盟)が本格的に衝突を始めている。2006年のクーデターは無血革命だったし、空港占拠騒動のあった2008年のPAD(民主主義市民連合)活動時には発砲を用いた対峙にはならなかったので、これは1992年のスチンダー退陣デモ以来の内乱といえる。地方出身者が多数を占めるUDDがソンクラーン(タイ正月)を迎えても陣形を崩さなかった(帰省しなかった)あたりから情勢は特殊なものとなっていたが、その期間には村本博之さんの死を含む衝突、バンコク中心部であるラーチャプラソン交差点ルンピニー公園周辺への拠点変更、誰の手によるのか不明であるロケット弾での死傷者発生、バンコク北部のランシットでの衝突と、事態はいつ惨事を生みだしてもおかしくない状況に突入していた。せっかく与党である民主党が出した5つの骨子を盛り込んだロードマップが発表されて、UDD側も受け入れ姿勢を見せた一瞬があったにもかかわらず、5月14日から、ラーチャプラロップ方面で銃撃戦が始まった。この一帯は日本人も一定数部屋を借りていることで知られており、実際に僕の友人も逃げ出してきた。

ただ、いちタイ在住者の感想としては、どこか他人事であることを否めない。1990年に大阪で起きたの西成暴動のとき、僕は通勤の乗り換え駅として現場にほど近い地下鉄動物園前駅を毎日使用していた。地上で起こっている投石騒ぎとは裏腹に、我々ビジネスマンは何食わぬ顔でそれぞれの目的地へと黙して淡々とした人の流れに乗っているだけで、そこには何の混乱も含まれてはいなかった。そのことを思い出す。現場を見たり、断続的な砲撃音を聞いた人はその恐怖を皮膚感覚として持っているだろう。しかし、現場とは若干はなれた位置から、テレビ報道やインターネットで情報を見聞きする僕のような立場の人間には、どこかそれが遠い国で起こっているような錯覚がある。それがこわい。

※ その後経緯からの個人的なエッセイは以下のページの以下の日付へ

ジャパニーズ・マン・イン・クルンテープ 2010年5月20日

2010年5月16日



タイの首都バンコクで、とうとう日本人ジャーナリストに死者が出た。2007年にビルマ(ミャンマー)の首都ヤンゴンで命を落とした長井健司さんに続くものとして、東南アジア政局の不安定と危険が報道され、この「微笑みの国」はいっそう観光客離れに拍車をかけたことだろう。2006年の無血クーデター以来、いや、2001年のタクシン政権スタート以来、この国は舵取りを甚だ危ういものにしてきた。この問題には、民主主義制度とはほど遠いこの国の国民性が絡まっている。そこに何らかの解決を見いださなければ、一時的な収束はあっても、大団円とはならないことだろう。

「微笑みの国」のイメージに隠れているが、タイ人の多くはきわめて個人主義的な人々である。人前での面子にこだわり、家族・血縁を重視して友人・知人を軽く見て、自分の意にそぐわないことは苦しい言い訳をしてでも回避しようとする。たとえばカメラを貸すと、風景写真などは意に介さず、とにかく自分を撮ろうとする。自分が気の向いたときに電話をかけてきて、電話を取らなければそのことをなじるが、こちらから電話をかけても気分によってしか取ろうとはしない。そういうところが随所に窺える。職場でも協調性がなく、自己都合ばかりを優先するのでやきもきした経験をお持ちの在タイ日本人の方も数多くいらっしゃることだろうと思う。無論、その個人主義が人間関係の風通しのよさを生み出したり、社会的抑圧の緩衝剤となっていたりする美点も多いが、政治に焦点を合わせれば、集団行動と協調の苦手なタイ人にはタクシン元首相の登板以前の小党分立状態で、与党も連立政権で大きな一歩を踏み出せないのが自然な形だと、今のところ思わざるを得ない。

そこが、ビルマとの大きな違いである。ビルマはあくまで軍事独裁政権の国であり、アウンサンスーチーを投獄あるいは軟禁し続け、民主主義を掲げたNLDを封じ込め続けている封建体制を敷いている。それだけに、その場所でのジャーナリストの取材・撮影には覚悟が必要であろう。だが、今回の村本博之さんのケースは、憲法もたびたび改訂され、民主主義を謳い、報道の自由も確定されているはずのタイでのできごとである。そこに大きな力が生まれ、幻想が生じたときに悲劇が起こる。個人主義的であるがゆえ、相手の言い分というものに想像力をはたらかせることをやめ、集団力学を考慮して政治というルール内での解決をみることから横道にそれてもその意識を持たないことは、相当に危険なことである。

タイで目にする柔らかで人懐こい微笑み。その瞳の奥にある自由には、頑固な意思の両刃がある。この国を理解しようとするとき、そのことを忘れないでおきたい。

2010年4月12日



日本はどんどん窮屈な国になっている。そう感じておられる方は、海外に暮らす私のような立場の人間でなくとも多数いらっしゃるのではないだろうか。個人情報保護によって、卒業アルバムに住所や電話番号も記載できず、後部座席ですらシートベルトの着用が義務化され、そして今度は児童ポルノ所持の禁止によって、これまで芸術とされてきたものや両親が撮った子の写真が単純所持禁止になるおそれが出てきた。施行自体に当然の理由があるのはもちろんだが、たとえばアグネス・チャンの悲痛な面持ちを押し出した写真を見ると白けてしまう自分がいながら、一方では「なんでも騒ぎ立てればそれでいいのか?」とマスコミや、それに煽られた人々の姿に疑念を挟んでしまう。

自由を謳歌する社会=平和で平等で基本的人権を大きく認めた国家、という図式が大きくまかり通っている。しかし、現代の日本は爛熟期を過ぎかけた、腐りかけの果実を想起させる社会風潮に満ち満ちている。こういうもの言いは、もうすでに私が幼いころから定着していた。つまり、さらに退廃の時計は針を進めたということであろう。ここに「私も歳をとった。現代の若者文化を否定する側に回った」という感想だけで思考停止してしまうのは危険だ。

日本の窮屈さは、おそらくその自由さを当然の権利としてただその版図を広げようとする国民の姿勢からくる。「自由の横溢→モラルの低下→自由の法律規制→管理社会」といった流れは、恐らく国民の多くが単純に理解できているはずなのだが、日本には戦争アレルギーが根づき、国家の管理統制にことさら敏感になっているせいで、目に余る事態が生じたときに細かい規制枠を設けることで凌いでいるのが現状だ。ところが、基本的には自由の保証が前提となっているせいで、こういった縛りが増えるたびに「では我々の権利はどこへ行くのか?」と毎度のように個人的な権益が叫ばれることとなる。そして私たちはまた失望し、自信を失う。現代のこの混迷はいつまで続くのか、経済レヴェルが上昇し、文明社会が発展してゆくと、もうどうにも太刀打ちのできない、出口のない社会に変貌していっているのではないか、と。

ここで大切なのは、それがあくまで個人の自由に執着したものがほとんどだということだ。このところ続いている首相や党幹部の交代劇も、結局は政局うんぬんよりも、当人の個人的な見栄えで決定されているのではないかと勘繰りたくなる場面が多い。誰だって理解できていることだと思うが、トップに大きな権限が与えられず、ただスキャンダルにびくびくしているような状況で大きな改革など行えるはずもない。個人主義といえば聞こえはいい。しかし、そんな言葉を叫ぶ人が、一方で国の保障する年金をあてにしているのはどうか。

全体主義アレルギーを理解することはできる。だが、私は日本を離れるまで母国という言葉をどこか空々しいものと捉えてきた。日本は自分に唾をかけ、自分を非難することで自分をやっと意識できるというパラドックスに陥って久しい。窮屈を感じるのは、私たちが無制限に近い自由を信じるからだ。国家として宗教を持たない「信念のなさ」にも起因する、「法を犯さなければ何をやってもいい」という感覚がある以上、私たちの意識には図形のように無機質で均一な辺の内側と外側が存在するだけだ。円の中心からグラデーションに形作られてしかるべき個人としての信念や、そこから生じてくる規範・誠実さを持ちえない限り、私たちはいつまでも自由の規制と全体主義アレルギーのいたちごっこから逃れることはできないだろう。そして、2ちゃんねるに「王様の耳はロバの耳!」と吹き込むことでしかストレスを発散し、粘着質なカタルシスを得られない人々が救われることもないだろう。

タイ人男性はこれまで、成人を過ぎると一度は出家してきた。しかし、バンコクではその意識もかなり薄れたものとなってきている。それに比例して、残念ながらモラルも低下してきた。人々の心が軟弱にすさんできた。もはやこの国の首都は、私たちのイメージする「微笑みの国」という感覚で捉えることは難しくなってきている。一昔前がよかったと感じるのは懐古趣味でもあるが、そこにはここの信念がもう少ししっかりした共同体意識を形作っていたからでもあるはずだ。私の帰省時の楽しみは、私より年上の方とお会いすることである。そこには、「日本」らしきものが感じられるからである。個人を押し立てず、かといって国家に絡め取られず、絶妙の塩梅を確かめることができる。

国民としての誇り。それは、私たち個人個人の誇りでもある。

2009年8月23日



タイでは混迷の政治が続いている。2006年の軍部クーデターによるタクシン首相失脚からこちら、圧倒的規模だった与党のタイ・ラック・タイ党(タイ愛国党)が解党され、総選挙後には暫定軍事政権から無事民間移政が行われたものの、元タイ・ラック・タイ党所属議員の受け皿となったパラン・プラチャーチョン党(ピープル・パワー党/PPP/国民の力党)が勝利した。これに対し、PAD(民主主義市民連合)が立ち上がり、サマック首相の退陣を要求。首相府近くでPAD反対勢力である反独裁民主連盟(DAAD)との衝突によって死傷者を出し、非常事態宣言が発動されたが、結局半年でサマック首相は降板した。にもかかわらず、代わって選出されたソムチャイ首相はタクシン元首相の義弟。そんな中、タクシン元首相に資産上での実刑判決が下り、PADはとうとう首相府に続きスワンナプーム国際空港ドンムアン空港(2006年までの国際空港)を占拠して旧タクシン派の一掃を叫ぶ事態となった。現在、司法からの判決でパラン・プラチャーチョン党に選挙違反による解党命令が出され、ソムチャイ態勢は1ヶ月を待たず崩壊し、PADが空港明け渡しに応じて総選挙が実施される運びになっている。

 首相府や空港封鎖で内外問わず非難の声が高いPADだが、彼らは「今立ち上がらなければタイに未来はない」という。その主張には、国会議員の7割を任命制とするという項目が掲げられている。なぜそれがPADという名にも含まれる民主主義なのか、そして、任命制がタイの未来を救うのか。その答えは今回の裁判判決に求められるだろうが、タクシン元首相の傘下にあった勢力が選挙において票稼ぎのために組織だった不正を繰り返す状況の打破にはこういう策しかないというあたりなのだろう。

 その他にも、、PADには「日当を目当てに参加者を地方からかき集めている」「どうせタクシン勢力に追い落とされた勢力が巻き返しを図るために息巻いているだけのこと」という批判が相次いでいる。ただし、抗争や爆弾事件などで死傷者も出る中、日当だけで集められた勢力で首相府や国際空港を封鎖する統率力は維持できるまい。また、そのフィクサーやパトロンが追い落としを受けた旧勢力者であったとしても、タクシンが強硬政治のために犠牲にしたものを考えれば、その反動はごく自然なものと言えよう。

 問題は、この国が完全な民主政治を求めていないということだ。今回の司法処分にしても、12月5日の国王誕生日を前にしてあまりにもタイムリーに過ぎる。同じ立憲君主政治を採っていても、タイでは国王の存在が圧倒的で、こういった騒ぎでは常に国王の「鶴の一声」が常に待ち望まれる。首相府・空港封鎖で軍が動かなかった原因として、2年前のクーデターでの国際非難がしきりに挙げられるが、行政の管轄となっている警察に対し、軍の統率権は国王に帰属していることにも一因はあろう。また、PADは首相府前での衝突事件の際、シリキット王妃が多額の寄付・被害者の葬儀の主宰を採り上げて、王室の賛同を得ているとの感触を訴えていることも見逃せない。軍部クーデターにしても、国王への打診と許諾によって実施に踏み切られたのである。「国王のためならすべてを捧げる」と公言する国民のあまりにも多いタイでは、民主政治=国民の総意ではない。

 タクシンが首相時代、国王との謁見で諌められたにもかかわらず独裁色の強い政権作りに躍起になったうえでクーデターが勃発したことも考え合わせると、この騒動はPAD=王族派と与党=タクシン派との争いであるという位置づけとなり、つまるところどちらも民主主義を本来的な意味合いにおいて実現しようとする性質のものではない。国王が80歳の高齢となっている今、この一連の事件はタイの焦燥を具現化したものだと、僕は見る。そして、国王という「人知を超えた善良な眼」の代わりになるものを必死に探しだそうとしているもがきなのだとも感じる。それはまた、「ポー(父)」と呼ばれる国王からの自立を果たそうとする思春期の葛藤でもある。

 天皇が日本の象徴だという認識しかないうえに、汚職摘発を恐れ、クリーンを目指すばかりで肝心なことに腰を据えられない政治家が跋扈する現在の日本の行き詰まり感を禁じ得ない僕には、正直なところ、力のある意見は出せない。ただ、飛行機が飛ばないことで大混乱したことを「だからタイはどうしようもないんだ」と十把一絡げにすることにだけはノーと言いたい。日々の多忙や銃弾への恐れを理由にプラカードの一つも持てない者には、それを口にする資格はまったくないはずだ。

2008年12月3日



タイ在住中に、とうとうクーデターが実際に起こった。ただ、素直な感想を述べると、「そうであってもおかしくはないな」というあたりに落ち着く。 先月にはタクシン首相自宅付近で時限爆弾が仕掛けられた路上駐車の車が見つかっており、その首謀者として軍部の実力者数名が逮捕されていたからだ。前年までの状況だとタイ愛国党の力が圧倒的で、国軍といえど下手に手出しできない雰囲気が強かったが、アンチ・タクシンの機運が盛り上がって首相というポジションが暫定的な立場になってからは、その支配力が弱まった。

 僕はジャーナリストでもアナリストでもないので、ここでは多少無責任な個人的見解で書かせていただくが、タクシンは権力闘争にいささか神経を注ぎすぎたと感じる。以下は、タクシン前首相を代表とするタイ愛国党政権での問題点をおさらいするものである。

@ タイ深南部でのテロに強硬姿勢を取り、多くの被害を出した。タクバイでは86人ものテロ容疑者(一般市民も数多かったことが予想される)を護送車にすし詰めにして全員が窒息死。拘束された状態で川に落ち溺死した多くの容疑者が流れてゆく様子をホーム・ヴィデオで撮影したものがVCD化されていたが、これの流出も厳しく禁じていた、などという事態が次々と発生。無論マレーシアとの関係も一挙に悪化。
A たてつく者を更迭、あるいは追放することが多かった。テレビ番組での辛口コメンテーターとして人気だったソンティ氏をテレビから締め出し、それがルンピニ公園での反タクシン集会へとつながって今日の政局混乱を導き出した。新聞に対しても同様の対策がとられ、タクシンの経営であるシン・コーポレーションが英字紙「ネイション」の株を押さえ、経営を手中に収めようとした事件も発生。また、深南部テロの立ち上げているホーム・ページはもちろんのこと、自身やタイ愛国党についての批判的なウェブサイトを、タイ国内では接続不可能にもしている。
B 麻薬取り締まり強化捜索では国境地帯を中心として操作担当官の発砲を大幅に許可。数千人に上る死者を出したが、検挙に対する報奨金目当てに、罪のない国境付近の村人が「死人に口なし」とばかりに殺されるケースが多発。国際的な非難を浴びたが、最も重要な発言者であった国連に対して噛みつく発言を繰り返し、まったく聞く耳を持たなかった。
C 地方へのばら撒き政治で人気を獲得したが、例えば20バーツ医療制度で地方生活差の貧しさに手を差し伸べようとしたものの、医者・病院にするとまったく採算が合わず、有能な医者の海外流出、あるいはバンコクを中心とする私立病院への転進を進め、より「持たざるもの」に不平等な結果をもたらした。
D 自身がタイでトップの資産保有者であるタクシンは、通信・航空などいくつかの機関部を残して、その他の
グループ会社をシンガポールの企業に売却。国家機密も含まれた内容の譲渡に市民の怒りは爆発。ソンティ氏の煽りも含め、世論は一挙にアンチ・タクシンに傾いた。
E タクシンの自己資産を親族に分配したが法に触れて摘発されたものの、裁判では無罪が確定。その他、ソンティ氏が「軍用機をファミリーのために私物化して飛ばした」というような報告例もある。

 こうして改めて列挙すると、やっぱりあの政権は独裁政権だと見なされても仕方がないと思う。たしかに「経営者首相」として、歴代の首相には成し遂げられなかったさまざまな政策が実を結んだし、国民の生活向上には大きく寄与した。だが、そのために多くの無理がある権力行使を押し通し、国王からも諌められるほどであったことが、今回のクーデターで「国家のため、国王のための決起である」との声明を国民が受け容れるまでにつながったことを認識しておかねばなるまい。
  

2006年9月19日



タイ南部のテロ問題は、現在日本でどれくらいの認知度を持っているのか、正直なところを知りたい。この一連の問題は、タイで暮らしていて知らない人はほぼいないと言っていい。
 去年のうちからいろんな事件があった。ただ、ここへ来て、2期目を狙うタクシン首相の思惑に反して特筆すべきアクシデントが立て続けに起こった。イスラム系テロをモスクの中にまで立ち入って追ったタイ警察に非難が集まったり、暴動を起こしたかどでタイ警察に捕まったトラックに文字通り鮨詰め状態にされたイスラム教徒たちが数十名も死んだりしている。イスラム系テロによる駅や繁華街での爆破は、いまや一日1件の割合にまで上昇している。

 タイに暮らす僕ら在タイ日本人は、テロへの憎悪に燃えるアメリカの旗色伺い国家である日本にいるより、ずっと客観的に「テロとは何か」をこのタイにいて実感できているように思う。今のところバンコクにはこのテロの煽りはないが、国内問題であることは自覚できる。
 テロ側が暴挙に出ている事実は確かにある。罪なき一般市民を巻き添えにして(あるいは標的にして)爆弾テロを行うケースの枚挙には暇がない。
 しかし、ポイント・ゼロのあの「テロとは悪魔のことだ」といわんばかりの航空機映像を繰り返されて感じる「テロ」とは違って、タイ南部問題では、どちらかというと政府側の対応にもっと大きな問題がある。先述したようなモスク突入やトラックでの圧死・窒息死のほかにも、もともと南部に配される警官や兵士自体が賄賂経済を築いた張本人であったという歴史もあるし、タクシン首相がチェンマイ出身であるため、もともと南部に支持基盤のあった前与党の民主党が完全な与党になっており、それがこのテロ事件の一端となっているともいえる。ASEANで南部問題をつつかれたら席を蹴って退場すると事前にいきまいてもいたし、実質上の緘口令を敷いたり報道統制とも取れる場面だって繰り返された。鳥インフルエンザを再発・拡大を招いたことと併せて、これはタクシン政権のとんでもない失策である。
 でも、経済畑の手腕を生かしてタイに好況をもたらした実績は、彼の地位を揺るがさない。タイ国民のほとんどは、個人主義をモットーとしているからだ。自分の生活が潤うことをやってのけた首相にポイントが入る。今では彼のタイ愛国党は他の追随を許さない、圧倒的な与党となっている。

 この与党はしかし、南部問題に関してあまりにも杜撰すぎた。そういう例もあるのだ、ということを、もっといろんな人に知っていただけたらと思う。

 

2004年11月25日



イラク問題については各メディアがいやというほど取り上げており、私自身も下の拙欄で取り上げたのだが、自身の外交的態度という意味では輪郭のぼやけた書き方だったのでそこを明らかにしようと思う。

 まず前回の続きから話を進めるが、私個人は政治活動を生活の糧にしている人間ではないので、私の意見というものは須らく一般国民の立場ないしは巷の俗人のそれであることには間違いがない。ただ、民主主義というものがそういった世間一般人の寄せ集めの総意を汲むものなのであれば、私の意見というものも一定の重みを持ちうるのではないかといった性質を逃れられない。これは「逃げ」ではない。私は真剣に考え、真剣に書いているからだ。
 その前提条件をもとに繰り返せば、私は国政として国際問題を捉えているのではないというスタート・ラインをもう一度はっきりとさせたい。できればそこに私情を必要以上に挟まぬよう気をつけながら筆を進めるだけである。

 国政としてのイラク戦争についてどうかと問われれば、私はイエスでもノーでもない。どちらかというと、サダム・フセイン独裁体制に対してははっきりとノーであるから、今回の戦争の肩押しをする側の意識をもつ人間なのかもしれないとさえ思う。けれども、ここにデモに加わる民衆との深い溝があるのだが、超大国による情報合戦・プロパガンダに踊らされつづけている我々一般国民が新聞やテレビ、雑誌などのメディア以上の知識を持ち得ないという諦念が私にはある。例えばサダム万歳を叫ぶバグダッド市民の姿も捏造であったりするかもしれないという我々の読みがある一方で、もしそれが国民の過半数が見せる真の姿だとしても、限定された情報に踊らされているという側面においては我々も何ら変わりはないのである。だから、市井の人間としての私の矛先は戦争そのものではなく、メディアの在り方や一般人の意見の混乱、あとは国家というシステムの欺瞞への懐疑に向かう。

 私がメディア批判をするのは、それが国民意識への刷り込みとなっているからである。軍事国家や戒厳令下にある国家に比べ、我々が享受する情報は確実に自由で公正さという幻に近くはある。しかしながらその一方でソフィスティケイトされたやり方で世論を煽ったり一定方向に向かわせようとする働きがあるのはもはや誰だって周知であろう。そこになおかつ執拗なイデオロギーの折り重ねで自社オピニオンを押し通そうとするところが私には鼻持ちならないのだ。そういう頑なさの所在では、意見調整に翻弄され一定方向にしか動きようがない国政(特に与党の反対意見が野党という構図が子供の喧嘩レヴェルにまで下がっている日本国政)にしろ、「平和がいい。だから戦争反対」という短絡思考でイラク戦争を非難する一般市民にしろ、相通じたものを感じる。
 戦争をネタにしているという意味においても、この三者は同罪である(そこには私も含まれる)。だが、新聞メディアはさらに罪深い。皆が知りたがる内容を伝えるのは商業上仕方がないが、「完全に採算ベース志向のポリシーではない。真実を公正・平等に伝える機関なのだ」という自負を振りかざしている以上、もっと柔軟な姿勢がなぜ取れないのか? 社説が玉虫色ではいけないかもしれないが、記者それぞれの意見はないのか? どうして自社説に合った識者、読者からの声しか取り上げないのか? 幅広い意見の中から討論形式などを採用した記事がなぜないのか? それに、今私の家で取っている某全国紙の国際欄はどこへ行ってしまったのか? すべてイラク戦争関連記事でべったりになっているこの状態を果たして平等で公正な紙面づくりといえるのだろうか。

 実際に人が死んでゆくことの重みは私にだって判るが、多くの日本国民が感じているように、こうした報道一辺倒の社会が不感症を招いているのは事実だろうし、リアリティーの欠乏は止むを得ないのではないか。だから、私は自分を、自分たちを不感症に導くメディアや国家の姿勢と闘う。それと同時に、自身を含む「庶民」の軽率さと闘う。

2003年3月25日



国連の持つ意味がまた問われている。

 現在の国連=「国際連合」は第1次世界大戦後に結成された「国際連盟」の反省の上に作られた機関である。国際連盟はあくまで対話式で平和裏に国際協調を図ろうとしたあまりに日独伊のファシズム台頭を許し、その力が強固になってしまったあとでは連合国・枢軸国ともに多大な犠牲を払わなければならなかった。「もう少し立ち上がるのが早ければ…」、力による抑止力が新たな意味を付与された瞬間であった。

 国連のもっとも国連らしい活動は、そういう意味合いにおいては冷戦の崩壊とともに終焉したと考えてもよいと思う。核保有を宇宙開発を中心とした力の拮抗による平和は、一時期「核の時計」を3分前にまで縮めて第3次世界大戦を想起させたが、軍縮会議や和平調停を繰り返した国連の働きはこれまでの人類の歴史に類を見ないグローバルな平和を力強く指し示していたといえる。

 しかし、ドミノ理論をあれほど恐れて忌み嫌った資本主義世界が諸手を上げて祝福すべだったはずの社会主義の衰亡をへて、世界は民主主義を逆行した。アメリカが「世界の正義」を標榜し、NATOのスネ夫イギリスはアメリカに盲従、うやむやなことを言いつづけて日本はもはや国際問題に関しては発言権がないに等しい。北朝鮮やイラク、そして何よりテロ集団が指し示したように、より個人的な力の理論がまかり通っているのが現状である。これは図らずも、資本主義のベクトルの先に存在すべくして存在する事態だ。資本主義というものはより強いものが権益を持つことを社会的に奨励する制度なのだから。そうして、個人的エゴが限りない増殖を続ける先には、近未来漫画が描き出すような極端な終末的暴力世界の像が描かれるのも無理はない。

 世界に正義とか理想といったものがたった一つしかないと思い込むのはもうやめにしたい。ファシズムの台頭を許したのは力の抑止力が足りなかったから、それだけだろうか? 各国にうごめいていた指折りの損得勘定の算段の間に事態は進展していた。タリバン政権下のアフガニスタン、クウェート侵攻の頃のイラクを叩くのとはわけが違う。「正義」や「理想」がいかにファシズム臭い言葉であるのか、旧連合国はよく知っているはずだ。そして、朝鮮戦争、ヴェトナムはじめとしたインドシナ戦争、キューバ危機、またなにより世界中の旧植民地国の独立でいやというほどわかっているはずだ。だからこそ「国際」の「連合」なのではなかったのか?

 それなのに日本の某全国紙では社説的に「何が国益なのか、それはならず者国家への手遅れにならないうちの威嚇だ」「偽善的な反戦イデオロギーほど独裁者に加担するものはない」と書き立てつづける。それは国家という実体のないシステムの益であり、そんな国家が具体的政策を迫られるときの及び腰をして「偽善的」と呼ばわれるのではないか。では、市民の権利はどこへ行くのか。戦地から離れたポイントからヴァーチャル的にミサイルを打ち込むことで「ならず者国家」は「解放」されるのか? そして、同じ「ならず者国家」である北朝鮮はイラクとは異なり、査察さえ受け入れないでいるのに、こうした対応の差はどこに起因するのか? すべては国家の集団力学的な「国益」なるエゴの発露ではないか。護憲だとかではなく、「国益」などという乱暴な言葉を被爆者の方々の前でとうとうと言えるか、ということなのだ。国民の一人一人の声と国策とを同時の地平で語るのは、もうやめにしてほしい。

 こんなことを声高に叫んでも「そんなことは誰でもわかってる」と言われるだろう。でもあえて僕は書く。誰もが無関心でいてよくはないからだ。国家というのは個人ではない。アメリカはブッシュという名ではないし、北朝鮮はキム・ジョンイルなどと呼ばれはしない。

2003年2月19日



アメリカ国内におけるテロについてはもう各種メディアでさまざまなことを言われてきた。オリンピックが始まったらにわかスポーツ・ファンになったり、テロが起こったら「ヤバイ」ことはなんでも「ウサマ・ビンラーディン」とか命名するような族にはなりたくないので、僕はあくまでここではささやかなことしか書きたくない。

 テロが起こってすぐ、殊に新聞メディアが書き立てた懸念と同じ意見を、僕は今でも、というかずっと以前から、しばらくこれからもあの国が変わらない限りずっとこの印象を持ちつづけることだと思うが、
合衆国はとにかく「世界の正義」だとか「力のアメリカ」に重点を置き続けていることが空恐ろしくて仕方ない。

 もちろんテロ行為を容認したり、罪もない人々の悼みを忘却したりしているわけではない。ここを混同してはいけないと思うのだが、国家の指針や集団力学と個人の生活とは同一の地平では語れない。広島・長崎の原爆や沖縄戦について語り継がれる悲劇を忘れない一方で、決してあの戦争で日本は「単なる被害者」ではなかった事実も忘れてはいけない。市井の人々の暮らしがテロによって蹂躙された事実と、ヴェトナム戦争の記憶を早くも失ったアメリカがレーガン大統領の頃から一貫して世界の覇権を一手に集めるべく力の政治を押し出して、「世界の正義」たろうとプロパガンダを繰り返している事実はきちんと分別して認識されるべきだと信じる。

 またしても日本は「レスポンスがおそすぎる」「自国の危機であるとの認識が欠如している」と内外の批判を噴出させた。曰く、民主主義がまだ未成熟なのである、と。

 今の日本がこういう事態に対して腰が重く、平和ボケしているのは誰が考えてみても当たり前のことではないか。万が一小泉首相が圧倒的な国民人気を背景に手際よく憲法解釈を改め、これまでにない「軍事的貢献」など実施したら、国内外問わず誰もが反対に日本に対する警戒心を抱くこと請け合いだ。それこそが「パール・ハーバー」を想起させるだろう。

 被害者あるいはその親族や関係者がテロに対する力の報復を望むことは人として至極まっとうだと思う。僕とて、もし身に近い者がテロの被害にあったとしたら、刺し違えてでもその黒い力に一矢報いようとするだろう。だが、なぜアムネスティは世界から死刑をなくそうと働きかけているのか? なぜ被爆者の方々は「敵への力の報復」ではなく「演壇での涙の講演」を選択するのか? 国家アメリカが証明しようと躍起になっていることは、僕にとってはハンムラビ法典の正当性にしか映らない。

2001年10月17日



アフガニスタンといえば、タリバンによるバーミヤン石仏の破壊が国際的に糾弾された。確かに原理主義に基づく偶像崇拝の禁止のためという建て前も、孤立無援状態からの報復措置としての破壊活動という本音も、どちらも「ハイハイ、そうですか」と口が裂けても言えるようなものではものではない。信者数の問題から言い出せないのが現状だが、日本でのオウム真理教事件後の世界としては、聖戦(ジハード)が認められるイスラム教という宗教の在り方自体がもう少し問われるべきではないかと思われる。まあ、それを言い出すと、十字軍を派遣したキリスト教だって弾劾の対象にはなるだろうし、そもそも信教という一種の脅迫観念の存在の是非も問われるだろうし、こうなるとどんどん問題は自己膨張を続け、もはやこんなちっぽけなコーナーでちょろっとしょぼい文章を寄稿したりする僕の役目を超えてしまう。

 ただ、日本人の信仰のなさが昨今の凶悪犯罪勃発に手を貸していることは創造に難くない。それだからこそのオウム真理教だったとも言えよう。そして、さらに不気味なのは、こうした凶悪犯罪が不況とともに急増していることだ。もちろん不況で人々の心が追い詰められるのは当然ではあろう。が、その動機はどう見ても、不況の直接利害に関係のない世界で生成されている。大阪の小学生無差別殺人や神戸の少年のXファイルまがいの事件、17歳の少年たちの次々と立ち起こった事件に次ぐ事件…。

 結局、日本人にとっての信仰とは、要するに、「カネ」だったのではないか? その即物的でご利益のはっきりとした宗教の嵐が過ぎ去ったあとに、救われないものが残ったと、そういうことではないのだろうか? この日本に「原理主義」があると想定すると、それは空恐ろしいではないか。その筋書きで行けば、たぶん、日本は「景気復興」という筋書きでは不況から救われない。それに気づいた個人の心から病は治癒してゆくのではなかろうか。

2001年7月8日



タイでもいわゆる「ゲリラ」に依る病院占拠が起った。ついこのあいだ、パキスタンでインド政府に政治犯釈放を要求したハイジャックがあったところだ。恣意的に一般市民を巻きこんで政治目的を達しようとする動きは年々強まっているように見える。ただ、なぜここで僕がいわゆる「ゲリラ」という書き方をしたかというと、彼等はひょっとして一般的なゲリラではないかもしれないからだ。

 世の中は知らず知らずに体制側に荷担していることが多い。例えばビルマ(ミャンマー政府)に関するガイドブックなどでは「国内を自由に旅行できないのは、国境近くで今なお反政府組織が活動しているため」なる記述をよく見かける。もちろんそれは事実で、しかも、ガイドブックが命の安全に関する知識を教唆してくれるのは非常に大切なことだ。だがその一方で、こうした少数民族の独立運動に対して十把ひとからげにテロリズム的な印象を与えてしまうのも事実だ。諸悪は少数民族の側ではなく現政府のほうにあるかもしれない。

 タイ政府は「神の軍隊」と名乗るカレン民族の武装集団によるラーチャブリ県立病院占拠をテロ行為とみなした。もちろん先に述べたように、何の罪も縁りもない一般市民を人質にするのはいかなる事態でも許されるものではない。それを承知でもう一歩踏み込んだ話をするなら、これでカレン族の独立運動が悪印象になったのは確かだ。タイ政府にとっては、去年の10月にビルマの民主化を訴えるカレン民族武装グループによるミャンマー大使館占拠事件のときに犯人擁護の立場をとり、それがテロリストたちに標的にされやすくなったのではないかという危機感と、ミャンマー政府との関係悪化を生んで困惑したという記憶が生々しい。その汚名挽回が今回非常に効果的な形でできた。また、ミャンマー政府にとってはカレン族に対して悪いイメージをバラ蒔くことができた。軍事政権で、なにかとそのことで強い風当たりを受けるミャンマー政府にとってはまたとない好機だ。こうした背景から、「もしかしたら、これはなにかのキッカケで依りを戻したい両国政府によるワナ?』とみる見解があってもいい。

 くれぐれも、民主主義という一見自由で、垂れ流されている「世評」があたかも自分のオリジナルであるかのように見えてしまう場所から、刷り込まれたモノを鵜呑みにしない視線を保っていたいものだ。

 

2000年1月29日



日本人の若い男性の間でかなり定着している「無造作ヘア」が、東南アジアではえらく不人気だ。多くの人が、「日本人は金持ちで清潔好きなのになぜシャンプーしないのか?」と尋ねられる。「あれは洗ってなくてボサボサなのではなく、流行りなのだ」と言っても判ってもらえない。まだバンコクでさえコギャル風は旅行者には少ないが、彼女等はもっと理解されないだろう。日本人とすら見られないと思う。 ただ、無造作ヘアをしている男性諸君はコギャルをあまりあざけらないほうがいいのではないか? たしかにコギャルはケバすぎるが、一応はあれの元祖は黒人のファッション(もはやそこから離れてしまっているけど)。対して無造作ヘアの元祖は、どう考えてもマンガのキャラだったりするのだから。

2000年1月23日



カンボジアではクメール・ルージュ(ポル・ポト派)を裁く国際法廷の設置で、フン・セン首相が立場を少し軟化させた。クメール・ルージュの4年間の政治のおかげで、この国には40代以上の人口がめちゃくちゃ少ない。プノン・ペンの街を歩いていてもそれははっきりと判る。

 そのクメール・ルージュがなぜ4年も政治を担当でき、その後も国際法廷に引きずり出されることなくゲリラ活動で生きて行けたのかを考えると、我々にも他人ごとではなくなる。なぜなら、親ヴェトナム(つまり社会主義)政権を打倒するためにアメリカ他資本主義国はクメール・ルージュに様々な援助・肩入れをしたからだ。もちろん、こういう場合の日本はアメリカの言いなり。結果として、クメール・ルージュの横暴が世界的事実となってからも、多くの国々では彼等を裁けなかった。

 今なお、様々な利害関係やしがらみで真っ当な裁判のできないカンボジアの情勢。そこへニッポンのシュショウがやってきて、譲歩を引き出した。それが政治的成功でも、結局、多量の資金援助を条件に、つまりはもろにカネにものを言わせての取り引きに、いったい何人の人が手をたたけるのだろうか?

2000年1月15日



台湾に新幹線が走るという。もともと、新幹線のモトは旧満州国に走っていた満州鉄道の「あじあ号」にあるといわれている。年月をかけてその技術が伝播していくのが不思議だ。そういう意味では、アメリカの偉大な発明品はコーラとGパン、日本の偉大な発明品は味の素とインスタント・ラーメン、カラオケになるだろう。

1999年12月29日




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