-漫画-

あしたのジョー  高森朝雄・ちばてつや  講談社漫画文庫(2000) /週刊少年マガジン連載(1968〜1973)
 小学1年生か2年生の時、車に足をひかれた。車道の真ん中で肩を組んでわがもの顔に歩いていた僕たち3人組が明らかにいけなかったのだが、お見舞いということで、車を運転していた若い男の人が、漫画を持って家を訪ねてくれた。それが「ドラえもん」「魔王ダンテ」「ゲッターロボ」、そして「あしたのジョー」の20巻(最終巻)だった。彼がもたらした漫画体験は、当時の僕の日々のテリトリーを超えた世界観を高らかに示してくれた大きな体験となる。

 原作者の梶原一騎(「あしたのジョー」ではでは「高森朝雄」とクレジット)の一連の作品カタログから「スポコンもの」というひとくくりで紹介されることが多いが、当時再放送としてアニメを通じて知った「巨人の星」路線とはまったく違うアプローチに、幼いながらも強く惹かれた。泪橋や玉姫公園のくすんだ色合いが拳闘の世界と結ばれて、脳裏から離れなくなったあの頃、僕は生れてはじめてのデカダンス体験をしたのだと思う。
 真っ白になるまで燃え尽きること。それは、この時代に世に問うたとしても空しくしか映らない、輝かしい時代の残像。林家の紀ちゃんや白木曜子の一言に照れる丈の姿を微笑ましく眺めることができる僕たちは、今の少年マガジン読者よりもずっとずっと幸せな体験をしたということなのだろう。


吉祥天女  吉田秋生  小学館文庫(1995) /小学館別冊少女コミック連載1983〜1984
 以前ある人に「僕は女性不信なんです」と打ち明けて笑われたことがある。比喩として「女性不信」という言葉を持ち出したつもりだったのだが、「現に私と何度も長電話しているじゃないですか!」と彼女は吹き出したのだった。具体的にどうして自身を女性不信だと思っているんですかと訊かれたので、僕はありのままを答えた。「男性とあまりに違う存在だからです。でも、だからこそ好きになれるんですが」。そうすると、彼女は「それが普通なんじゃないですか?」とこの話を終わらせた。

 吉田秋生の著作には根底にヒューマニズムが流れていることがほとんどだ。かなわぬふれあいも胸に寂しいエンディングもあるが、人間関係に対する温かい眼差しが常に作品を包み込んでいる。そんな中にあって「吉祥天女」は例外的な作品だ。ここにも綾なす目くるめき人間関係は描かれているが、カネと地位という大きな力に弄ばれないよう、17歳の女の子という非力な存在がいかなる攻撃(オフェンス)を成し得るのかという一点を描くために、「女の武器」にストーリーの中心が据えられている。
 2巻の中ほどにこんな科白が出てくる。「…おまえはひきょうだ」「おまえは人の一番弱い部分をついてくる…そんなのはフェアじゃない」。社会の中での弱者としてよく「女・子供」というくくられ方で語られたりするが、物語の主人公の女性=小夜子は女であり子供でもある。しかし彼女が現実問題として家や自分の身を守らなければならない立場に置かれたとき、その弱さを最大の武器にしながら、底の部分で徹底的に醒め、物事を冷徹に観察しなければいけないくなる。
 女の方がおそらく、現実的な生き物である。そして、たぶん本能的に動物に近い。これは子を宿すという役柄上必須の条件なのだと僕は理解しているが、だからこそ、僕は男とあまりに違う女という生き物が恐い。違う民族の人間だといっていいほどに違うから、好きだけれど、恐い。


僕らはみんな生きている  一色伸幸+山本直樹  小学館・ビッグコミックス(1993) /ビッグコミック連載(1992)
 まずこの物語に驚くのは、作品の舞台となる架空の「タルキスタン」という、内乱と腐敗政治が横行した軍事国家が具体的な地域指定を与えられていることだ。単行本第1巻P14からスキャンしたとおり、この国は実際の地図上では海の上になる土地なのだが、ビルマのヤカィンー州とバングラデシュ南端に国境を接してベンガル湾に張り出していることになっている。

 この単行本発刊が1993年1月のことであるから、初めてこのストーリーを追ったときには、僕はまだ旅行者としてもタイとはかかわっていない頃である。当時は原作者が一色伸幸であることを知りつつも、山本直樹作品の多くに共通するニヒリスティックな虚無性と切なさをこの作品にも感じとり、同様の文脈で捉えていた。そしてタイでの生活を終えて家でパラパラと懐かし文献なんかを読み直していた最中、この「僕らはみんな生きている」が出てきて、知らず知らずの間に夢中になってページを捲っている自分がいるのに気づいた。「タルキスタン」が地域的に東南アジアに存在することになっているから、街や人々の描写や天候、政情など様々な設定が自分にとっても身近に感じられるものであったことも大きい。だが決定的なのは、作品のテーマそのもの。「そして知れ。帰れるバショなんて、本当はどこにもないってことをな」という物語ラスト近くに出てくる科白は今、僕の頭の中に一定の重みをもってエコーする。山本作品の虚無性の多くは現代日本にメスを入れ、経済の極端な肥大の副産物としての自閉性を描くことであろうが、このストーリーでは誰もがどこにも居場所はなく、それぞれの「熱い時代」のあとの無所属なそれぞれの国の人々の在り方にスポットが当たっている。
 この身に覚えのある感覚を、僕はストーリーを追うたびこれから何十年経っても思い出すことができるだろう。






デビルマン  永井豪  週刊少年マガジン(1973)
 子供たちは重箱の隅をつつくのがうまいけれど、大の大人が仕事として綿密に企画立案から製作を施したものにはやはりぐうの音は出まい。子供は自分の視点からしかモノを見ることができないことがほとんどだが、大人という存在は不特定多数なるものを想定したり客観的にモノのクウォリティーを計ったりすることができる。だが、俎の上に乗せている時間が長いと、作品の生きた味は損なわれもするだろう。
 永井豪は童心を忘れない作家なのだ。彼が描くものはギャグ、エロ、ストーリーもの、どれをとっても非常に子供的な矛盾や執拗さ、限度のなさ、曖昧さを有している。第一、彼の描く人物自体デッサンが狂っている。だが、幼少期に彼の漫画に親しんだ経験からいうと、あの絵図は子供のイメージする世界観に極めて近いと思う。写実という観念を刷り込まれる以前の子供の画風とでもいうべきか。
 理不尽であれなんであれ、子供の世界が力による支配で形作られているのと同じで、「デビルマン」は物語の整合性などとはまったく別の次元で、読者を圧倒的な力で捩じ伏せる。ここでは壮大なテーマや巧みなストーリー展開さえもがその力を支えるための添え物の役目にしかなっていない。これは一見当たり前に感ぜられてしまう論議だろうが(作品のパワーの素材としてテーマやストーリー・テリングを機能させるなんて当然というより、必要不可欠なことだ)、完全無欠を求めてプロットをこねくり回しているうちに鮮度が落ちるばかりか主客転倒が起こって均質で無難な作品に仕上がってしまっているもののなんと氾濫していることであろうか。
 かつてアメリカ黒人奴隷が労働後に簡易ドラムやパーカッションを作り叩いて踊りに歌に昂じるさまを目の当たりにして、あまりの嬉々とした姿に戦慄し、楽器を禁じたという歴史と同じく、子供的な力は、それを垣間見るものに恐怖心をあおる。しかし、その子供世界が愛するものへの憎しみと死(牧村美樹、不動明、そして人類すべて)という形に帰結し、物語が「終焉という調和」を静かに迎えることで、新しい世界への希望がかすかに透けて見える。図らずも僕らが住むこの現実の世界がそののち猟奇性を増してゆく中、僕たち大人は理性と客観姿勢を持ってどういう答えを導き、どんな希望を聞くというのだろうか。


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