-小説・物語-

1973年のピンボール 村上春樹 (1980)
 ストーリー・テリングの妙は村上春樹作品の醍醐味であるが、この頃の彼は敢えて物語の起伏を薄くしたようにも見える作品を書いていた。確かに多くの人々が揶揄するように、悪く言えば「お洒落なカフェのマスターが書きそうな作品」ではある。しかし、彼の残した透明な喪失感には、夢とも現実ともつかない中に、読者にとって、ほかの誰でもない自分自身の問題を浮き彫りにする確かな質感があった。その陰の部分=現実を背負うものとして登場する、主人公の友達である「鼠」は、だからこそ非常に抽象的な描かれ方でしか登場しない。孤独を「孤独」と字面に直してみたところで、空虚な寂寞が待ち受けているだけである。

 主人公としばらく居をともにする双子姉妹の登場は唐突で、その別れもあっけないものだった。そこには理由がない。それはとりもなおさず、理由など必要ないということである。物事が定めのように流転してゆく中で、人はただ抗えない何かをあきらめながら、それでも何かを目指そうとして明日を迎える。でも、それは空虚でも寂寞でもない。悲嘆すべきものもない。ただ渺々とした日々の連続があるばかりである。
 =つづく=

お伽草子 太宰治 (1945)
 若い頃、麻疹にかかったように太宰を読んでいた−僕もそんなおバカさんの一人だった。処女小説集「晩年」から未刊に終わった「グッド・バイ」まで、彼のデカダンスにひたすら酔い痴れ、彼とともに俗物に眉根を顰め、恥じらいに身震いし、憂いの伏目を世の中に向けた。太宰本人はそれでよいのだが、それを浅はかなレヴェルで真似た僕らはその後、自身の若気の至りにこそ背筋を震わせることになったのだが。

 太宰を精読したもの以外にはあまり認識のないことだが、彼の真骨頂はそのデカダンスなテーマにあるのではなく、どちらかというとスピード感とパワーのある文章力のほうに存在する。それに圧倒されるから、青年たちは俄かデカダンスに身を賭そうとするのだ。だが、彼の文章力を堪能できるのは、むしろデカダン姿勢から離れた中期にある。とりわけ彼の批評眼が冴え渡る「お伽草子」は珠玉の傑作。この作品は「瘤取り」「浦島さん」「カチカチ山」「舌切雀」の4作品からなり、それぞれあの有名な昔話を題材に改作を図り、人間の本質をシニカルでいながらユーモラスに切り取ってみせる。戦時中、何もない防空壕の中で子に聞かせる小話という設定をとっているが、まったく痛快な大人のための新釈昔話集である。中でも、愚鈍な中年タヌキに対する処女のウサギの冷酷さ、残忍さを描く「カチカチ山」は、断じて彼以外の人間が書き得なかった作品だ。男の側から彼がこれほどの女性という「対岸」を書きえた事実と、太宰が命を削り取るようにまで放蕩を尽くし女性遍歴を重ねたこととが無関係でないなら、やっぱりかの時代には「作家」然としたものが存在したのだなと思い知らされる。誰もが夢見た経済の発展と平和で安定した日本は、自分を賭しない物書きの「保険文学」の時代を迎えてもう長くなる。

  「本当にもう、お前にそんなに怒られると、俺はもう、死にたくなるんだ。」
 「何を言ってるの。食べることばかり考えているくせに。」兎は軽蔑し果てたというように、つんとわきを向いてしまって、「助平の上に、また、食い意地がきたないったらありゃしない。」
 「見逃してくれよ。おれは、腹がへっているんだ。」となおもその辺を、うろうろ捜し廻りながら、「まったく、今のおれのこの心苦しさが、お前にわかってもらえたらなあ。」
 わきへ寄って来ちゃ駄目だって言ったら。くさいじゃないの。もっとあっちへ離れてよ。あなたは、とかげを食べたんだってね。私は聞いたわよ。それから、ああ可笑しい、ウンコも食べたんだってね。」
 「まさか。」と狸は力弱く苦笑した。それでも、なぜだか、強く否定することの能わざる様子で、さらにまた力弱く、「まさかねえ。」と口を曲げて言うだけであった。


ぼくの大好きな青髭 庄司薫 (1980)
 学生紛争の時代に甘い幻想がある。それは、この時代を追体験としてしか知らない僕らのような世代には当然のことのように思える。「シラケの時代」といわれる頃から物心がつき、もう「ロックは終わった」と宣言され、科学万能主義と経済至上主義は崩壊し、ヒーローというものは須らく疑わしいものとされた。そして、それらのトーンは色合いこそ違え、今にいたるまでこの時代ムードの骨子は変わらない。いってみれば、映画が終わったあとで僕らは映画館に入ったようなものだった。

 しかし、それが甘い幻想であることも今日の僕らは知っている。都市のごく限定された地域でしかそれらのムーヴメントはなかったし、ましてや伝説化したヒッピー・カルチャーやフォーク・ゲリラやフリー・セックスといった風潮はさらにもっと限られた中でのできごとだっただろう。それにこの時期の自殺者が物語るとおり、多くの若者がこの風潮の中で思いのほか暗く重たいものを引きずるようにこの時代観をイメージしていたことも事実だろう。そんな側面が表出した作品に触れる機会がたまたま少なかったのだろうか、意外にも実際にはこの時期の諸作品に自分自身が惹かれるものが少なかった。

 「ぼくの大好きな青髭」は、もう最初の10ページほどを読んだところで、文字を追う目を休ませることができなくなっていた。状況設定がはっきりなされないまま主人公はもうすでに事件に巻き込まれており、読者自身も煙に巻かれた気になるが、実は主人公自身も目の前で起こっていることがどういうことなのか何もわからないまま事件だけが先走っている状態だということがすぐにわかり、あとは彼とともにこのとんでもない時代のとんでもないできごとへの謎解きに参加しているというわけだ。ちょっと気障ったらしい文体(誰かが70年版村上春樹だと紹介していたが、言い得て妙だと思う)がまた彼の性格と行動・思考様式にぴったりで愉快だ。脇役も含め、登場人物のキャラクターが粒だっていて、印象が深い。そして物語が頂点に達し、やがて静謐な朝を迎えるラスト・シーンは、すべての祭りに終わりがあるということを、まだ若かった僕に教えてくれた。

 この小説については、ぜひ文庫本で手にとってほしい。古書店にはハード・カヴァーもあるだろうが、実はオリジナルのハード・カヴァー版とは最後の最後が違うのだ。迎える結末は同じだが、余韻の広がりがまるで違う。それ以上書くと物語の種明かしをしてしまいそうなので書かないが、いまだに僕にとっての「青春の熱っぽさ」というのはこの小説で描かれている夜明けの風景と同じ場所にある。

  「だって、私みたいな馬鹿で弱い子を助けようって始めたわけでしょう? でも、無理だってことも分かってたの。私には贅沢すぎるって。あたしは馬鹿で、勉強が嫌いで、才能もないし、だからあたしみたいなのが生きていくには、おとなしくお行儀よくしている他ないって、よく分かってたのね。だって、人間が好き勝手に生きるってことは頭がよかったり力があったり才能があったりする人にだけ許される贅沢なんでしょう? そうじゃない人は、周りの言うことをよくきいておとなしくしているほかないんでしょう? 人間はみんな同じだなんて嘘で、自由に生きる資格のある力のある人と、一所懸命おとなしくしていてそれでやっと生きていける人とがあるんでしょう?」
 僕は自分の中に、たとえ形だけでもとにかく一言反論をさしはさまなくてはいけないと思う何かを、そしてでもその一方では、その何かが実はきわめて無責任で陳腐なものであると思う別な何かを、同時に感じ取って黙り込んでいた。


壁 S・カルマ氏の犯罪 安部公房 (1969)
 観念小説としての安部公房には、実をいうと僕はあまり興味がない。そもそも変身譚というジャンル自体、今日ではその役割を担うのは漫画や映画のほうが向いているとさえ思ってしまう。不条理を圧倒的な画力とスピードで叩きつけられ、否応なしにその世界に引きずり込む漫画や映画に対し、カフカや安部公房が紹介する物語はストーリーとして生硬で生真面目に過ぎる気がする。そして、その異物感こそが彼らの小説の面目躍如とするところであると言われたとしても、サイバーパンクという言葉さえレトロ・フューチャー感を漂わせ始めているポスト・ミレニアムの僕たちはもはやそうした不条理の手触りに慣れ親しみすぎた。

 久しぶりに読みかえしてみても、壁をテーマにしたこの小編集、「赤い繭」がまあ「できた小説だな」という以外には、「魔法のチョーク」「洪水」などはほとんど「ウルトラQを文字に直した結果、映像の迫力がなくなってただのSFになりました」というレヴェルに感じる。しかし、「S・カルマ氏の犯罪」だけは、真夜中に声を殺して布団に口を押し付け何度も笑った。この物語の今日的な素晴らしさは、ロールプレイング・ゲーム的不条理世界の数々のステージで繰り広げられるステロタイプ人間達を徹底的に揶揄した具体性にあるだろう。公房は情景描写を書き込んで物語のリアリティーを高めてゆくような作家ではないので、登場人物の会話シーンなどではことさら展開が速く、息をつかせず畳み込むようである。主人公が被告人となる裁判シーンでの法学者、哲学者、数学者と証人たちの馬鹿馬鹿しくも生真面目な発言の数々は、喜劇と悲劇が同時に併走する滑稽さを具体的に感じられる素晴らしい一例だ。

 「ところで」と発音の悪い無口なほうの法学者が言いました。「われわれはヘンセイなる裁判を続行しよう」「厳正でしょう」と金魚の目玉が言いました。「いや端正かもしれない」と哲学者の一人が言いました。「そうではあるまい。専制と言ったのだ」と別の哲学者が言いました。「だが、私は発音どおりに変成と解釈したい」と数学者が言いました。
 「私はその全部を同時に言ったのだ」と法学者が答え、あちこちで感嘆の囁きが交わされました。法学者は得意になって繰り返しました。「全部を同時に言ったのだ」しかしもう感嘆の囁きは聞えませんでしたので、がっかりしたように後をつづけました。


◆「ナンスー」表紙へ戻る◆  ◆トップ・ページへ戻る◆









SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送