-思想・哲学・宗教・探求-

パラダイム・ブック C+Fコミュニケーションズ  日本実業出版社(1986)
 20年以上も前の科学を扱った書籍をいまさら紹介するのは、実際酷なことである。その間に科学は目覚ましい進歩を遂げた。ヒトゲノム解読計画が終了し、クローン実験も進んだ。現在では常識となっているC型肝炎の存在さえ、同書の出版と同じ年のことである。さらに、当時の潮流であったニュー・サイエンスの波の中にあった同書を採り上げるのは、なおのことであろう。
 ただ、ここには科学の世界が立ち悩んできた根本的な問題が集約されており、それをわかりやすい形で読者に示してくれている格好の入門書であり、なおかつ、科学と思想がクロスするポイントを見据えようとした希望の書である。袋小路に迷い込んだ現代日本の迷走ぶりを感じるにつけ、ここから先の世界とは何かを見出すポイントとして、僕はこの「パラダイム・ブック」を紹介したい。
 この本のユニークな部分は、物質編・生命編の次に意識編が用意されていることだろう。物質編では主に物質を構成する要素に対して、生命編では命とは何かということについて、それぞれの探求が記されている。どちらも人類が抱えている、科学的には最も根源的な問いである。その探求に、意識編として、宗教や神秘主義の研究内容も含まれているのだ。これは当時のニュー・サイエンスが採ってきた立場そのものでもあるが、「パラダイム・ブック」はあくまでその研究の紹介になっているので、断片をさながら万華鏡のように次々と示してくれており、そしてどの立場にも強く偏ることがない。そして、どのエピソードにもうならされる。
 同書の題名の由来にもなっている「パラダイム」だが、これは既成の観念、とでも言うべきものである。この本で繰り返される「パラダイム・シフト」とはつまり、既成観念の転換のことで、たとえば地球は平らで、その地球の周りを天体が回っていると信じてきたこれまでの人々の既成概念が崩れ、地球は丸くて太陽を周回しているという現在の我々の認識に改まった、まさにそのような現象のことを指す。そして、次の大きなパラダイム・シフトの予見を、同書では展開しているのである。
 話は大きくそれるが、日本人こそ、もうそろそろ意識のパラダイム・シフトが必要な時であろう。享楽的自由に溺れ、生きる力を失いつつある私たちには、パラダイム・シフトそのものを見つめる機会が必要なのではないかと考える。

 そこで、ニューサイエンスの特徴でもある包括論的な立場に立ち、物質、生命、意識という存在領域全体を包括できる大きな枠組みを設定し、それぞれの領域におけるパラダイム・シフトの動向を概観することを試みたのが本書である。


究極の旅 The Serch  バグワン・シュリ・ラジニーシ  スワミ・プレム・プラブッダ(訳)  めるくまーる(1978) 
 「わがまま」「いいかげん」というとイヤなイメージですけど、漢字に直してみてください。「我がまま」「いい加減」。どうです? とても響きがよくなってきませんか? ――たしか、そんなことを浪人時代の講師の先生が言った。そんな彼が前期の終わりの授業で、もし興味があるんだった読んでみればいいとラジニーシの本を数冊挙げた。彼のことを話しているうちに、先生は涙を見せた。その涙を心ない数名の生徒がおかしがったが、彼が美しいものに触れて泣いているのだと理解できた何人かは、本屋でめったに眺めることのない宗教のコーナーの前に立った。
 この本はインドのプーナにあったアシュラム(修行坊)でのバグワン・シュリ・ラジニーシの毎朝の講和の中でも、1976年3月1日から10日までに彼が「禅の十牛図」について語ったひとまとまりを収めている。ラジニーシのこうした形での著作は数多く出版されたが、とりわけ「究極の旅」は穏やかな力を持っていて、しかも取り上げられた十牛図のストーリーが美しい。この十牛図というのは漢詩と画がセットになったものが10段階まで並べられたもので、ラジニーシはここで牛=自身と説く。牛を探しに出かけ、発見し、乗りこなし、家につれて帰り、牛も自身も世界も無に溶け合う、つまり解脱するストーリーになっている。しかしこの十牛図がすばらしいのは、無我の境地は8段目に据えられていて、最終の9〜10段階では悟りを得た解脱者は俗世間に酒瓶を片手に戻ってくるくだりだ。そこをラジニーシも力説する。自分を解き放ち、世界と同化して真の知を得た者はエベレストの麓あたりにでもたくさんいる。彼ら・彼女らは完成され、一点の曇りもない。でも、それがどうだというのだ? つまるところ、自身の内部でで自己完結している美しさは美というだけに過ぎない、と言うのだ。
 生命のダンスを踊ろう、と説いたラジニーシは、アメリカでは邪教扱いを受け、誹謗中傷も浴び、やがて現世の生を全うしてからもう20年近く経ったろうか。喜納昌吉も彼をプーナに訪ねたが、僕にはそういう機会は訪れなかったし、また、僕自身もこの著作との出会いだけでよかったのだろうとも思っている。書物の中でのラジニーシは、極めて穏やかに、物事の本質だけを語っている。それが時に大げさなエピソードや急場こしらえの例を引っ張り出しての話しぶりだったとしても、彼はまっすぐ前だけを見ている。そういえば、浪人時代の先生は僕らにこう言った。「本当のことだけを話すと、その人は国家権力から捕まえられるんです」

 あなたが理解した瞬間  私がしゃべっているようなこともまたナンセンスなものだ  もしあなたが理解しなかったら  そのときには、それは意味深長に見える  一切の意味は誤解によるものだ  もしあなたが理解したら  一切の意味は消えうせる  ただ生のみがある  意味というのは<心>のものだ  ひとつの心の投影  心の解釈に過ぎない  そうしたら「バラはバラでありバラである」――  こんな言葉すら存在しない  どんな名前も  どんな形容詞も、どんな定義もつかない  ただのバラ――  ただ生だけがある  突如として、どんな意味もなく  どんな目的もなく――


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