music diary


2017年


12月14日(木)

毎年自身の日記に書き残している私的「今年のベスト10曲」の2017年度版を思い起こしてみると、「今年のベスト動画10本」しか選べないことにはたと気づく。
そんな時代の先駆けを1980年代に演出したオリジンであるマイケル・ジャクソンへのオマージュは高まる一方だ。
だが、その80年代、彼はポップ・イコンとして扱われていたことを知っている。
当時の「音楽を判ってる」リスナーは必ずといっていいほどプリンスに票を投じ、ジャクソン5時代への評価とは別に、アルバム「スリラー」以降のマイケル・ジャクソンのことを「芸能人」と見ていた。
≪当時のプリンスの開拓した革新性がそれだけ目くるめく閃光を放っていたとも言える≫
諸先輩方のご多聞に漏れるはずもなく、マイケル・ジャクソンの評価も死後に上がった。
彼の死は2009年6月25日。
そして日本初上陸だったiPhone3の発売がほぼ1年前の2008年6月9日。
ネットの動画や配信などが日常の中心に一般化して世界的に「面白いものは面白い」と言える時代がそこから始まった。
アニソンやボカロ、アイドルがシーンの中心に躍り出ながら、人気と質を兼ね備え、それがいとも簡単に海外からの評価を勝ち取る時代。
もう誰もマイケル・ジャクソンのことをどこかで下に見るような偏見を下すような話はしなくなった。
9歳から音楽エンターテインメントのために人生を捧げた彼のことを、僕もまた80年代バブルの日本に重ねて軽く見ていたことを申し訳なく思っている。
それにしてもどうして、僕らは90年代まで、あれほど情熱を傾けて音楽を優劣で語ろうとしてきたのか?

インターネット時代の到来。
世界的な「シェア」は多様な価値観を生み出し、新たな発見が容易に拡散しながら、もはやそのどれが上下であるかという問いを無効にした。
これを別の言葉に置き換えれば、音楽における質の序列時代は終わった、ということになるだろうか(なんだか封建主義の崩壊と似た響きも感じる)。
でも、「質の序列」という判じ方そのものは、なくなるどころか近年勢いを増し続けている。
SNS・動画アップ・個人ライブ配信などを通じて僕たち個人個人のどこかに、「いいね」や閲覧数やカウンターなど、それを「評価」と捉えがちな数字がついてまわるようになった。
マスコミがネット世界のことを記事にするように、後手後手に回っているその先に、ブロードバンド時代の僕たちの発信は位置している。
音楽の趣味性に上下がなくなったのは、他ならぬ自分たちが「配信者」になってはじめて、芸能という峰の高さや、知名度獲得という果てしなさを実感したからではなかろうか。

90年代まで、僕たちは曲を自分の手許に置いておくためにレコードやCDを購入してきた。
「作品」を買うという接し方をしてきた。
リスナーは財布をはたくだけの価値を期待し、作り手はその期待に応えるべく奮闘した。
しかし、レコーディングされた音楽を無料で聴くことが主体となった今、僕たちはテレビチャンネルのようにクリック一つで音楽サーフをして、アルバムどころか1曲を通して聴くことも少なくなりつつある。
こうして僕たちは余暇生活さえ多忙にしてしまった。
そして、視聴者維持率をキープするための仕掛けを凝らしたプロダクションを経たものしか耳で捉えられない不感症になりつつある。

正直なところ、昭和世代の懐古的見地から「昔はよかった」と言いたい気持ちもある。
だが、僕の最大の関心は、自らが発信し、自己プロデュースをする時代の先に何があるのかということである。
個々のニーズに応えるコンテンツが用意され、それが小さなサークルの登場をもたらし、世間一般には知られることのない何人もの小さなスターを生み出し、そんなスターたちが閲覧数やいいねを稼ぐ方法を孤軍奮闘によって日々考える時代の、その先は…。

自由と平等は僕たちがこの社会に求めてやまない理想である。
だが、そんな理想に近づくごとに、僕たちはみるみる孤独になっていく。
これまで、時には疲れた心や体を癒し、僕に寄り添ってくれた音楽。
これからも音楽はそういった親しい付き合いを僕らに提供してくれるだろうか。




2月8日(水)

J-Pop界は2000年代以来、アイドル花盛りである。
特に、地下アイドルを含めた女性アイドルの勃興はこれまでに類を見ない膨張を見せている。

その直前、1990年代は日本ポップス史上稀に見るアイドル冬の時代だった。
もちろん安室奈美恵や小室哲也プロデュースの女性シンガーたちのように時代の顔となる華やいだアイドルっぽい立ち位置の存在は数多くいたが、その誰もがこれまでのアイドルの枠をはみ出し、アーティスティックなフレグランスを身に纏っていた。
森高千里やこの時期の小泉今日子がアイドルの表現枠をぐっと押し広げ、ユニコーンやチェッカーズが独自の足場を広げていた。
中学生くらいの男女がごく自然にかなり「通好み」なチョイスをする、そんな90年代だった。
今になって思えば、つくづく不思議な時代だ。

そこに風穴を開けたのは、多くの人が指摘しているとおり、モーニング娘。だった。
そんな彼女たちの舞台を用意したのは、SMAPだったと思う。
先述のアイドル氷河期を、ヴァラエティー番組やドラマなど歌うこと以外の場所に積極的に進出することによってプラスに転じ、とうとう去年(2016年)に解散したSMAPは、モーニング娘。の立ち位置に大きな影響を与えたはずだ。
これまで花形メンバーの後塵に霞んできた、容姿も歌もいま一つのメンバーに、「ヴァラエティーでのキャラ立ちによる必要性」という選択肢が加わり、その方向性は今日まで続いている。

モーニング娘。が特大ヒットを遂げていく過程には、コンテストのグランプリ落選者たちである彼女たちにプロデューサーから与えられたチャンスを懸命にデビューへと結びつけた苦労話からスタートするサクセス・ストーリーが大きく絡んでいる。
また、つらい時代を経て現在の自分たちがあるというスタンスを輝かせるべく、彼女たちは相当に高度なダンス・パフォーマンスを披露することになる。
どんどん成長して次元の高いプロの仕事をしていると示せば示すほど、みじめなスタートラインや当初の低迷期との落差が眩しく見えるからだ。
彼女たちのデビューした翌年、ウィンドウズ98が発表され、世の中が本格的にインターネット時代へと入っていくまさにそのとき、モーニング娘。ヒストリーやパフォーマンス動画が共有され流布されることとなった。
このパターンも、長年の下積みからようやくブレイクし、これまでにないダンス・スタイルで巷を沸かせたたPerfumeなど、様々なところで現在も繰り返されている。

2010年代はまだ半ばだが、90年代とゼロ年代がドライにブレンドした感覚のあるアイドルに一定の評価が与えられるようになった感がある。
ここにもまた、ネットがもたらした時代の変化の影響が深い影を落としている。
YouTubeに代表される無料動画サイトの利用が浸透し、新旧の時代の壁が取り払われたことに加え、CDを買ったり有料ダウンロードをしたりすることも少なくなり、そもそも「目を閉じて音楽に浸る」ことよりも「動画とともに音楽を楽しむことがセットになっている」という時代に到来している。
同時に、ポップ音楽の鑑賞を大きなビジネスに結びつけることが難しくなりつつある音楽業界は、レコーディング作品よりもステージに重点を置くようになっている。
動画で新曲PVを見て曲を買い求めようというリスナーよりも、同じく動画でライヴ映像を見てそこに自分も参加したいと感じる視聴者を動員する方がはるかに見込みがあるのは間違いないだろう。
こうした動画中心主義の中にあって、90年代〜ゼロ年代の音楽シーンの在り方は、現在にまっすぐ繋がっている。

Prefumeがその端緒を開いた。
AKBの席巻以来、秋元康の80年代素人路線がシーンをスクエアでオールド・タイミーなものへとビジネス化していたが、Perfumeはそんなアイドル界のメインストリームに、エフェクトをかけたロボット・ヴォイスと自由度の高い表現力をもったダンスを持ち込んだ。
彼女たちに楽興を提供している中田ヤスタカはそののち、きゃりーぱみゅぱみゅとも特大ヒットを放ち、ヒップとポップの絶妙な綱引きを楽しむリスナー層を創出した。
そして、アイドルという土俵が、まるで鎖国から解かれた港のように活気に満ちた混沌の渦のビッグ・バンが起きた。
メタルとアイドルの融合をはかったBabymetal、高速ダンスと意匠性の高さのももいろクローバーZ、メンバー全員がオタクのでんぱ組inc、アイドル研究会からスタートしたBiS、ドラマ「あまちゃん」に見られるご当地アイドルなど、例にはまさに枚挙にいとまがない。

そこで僕たちはようやく気づくことになる。
アイドルというジャンルは、それまで無縁と思われていた各種の音楽ジャンルを飲み込むだけの親和力の高さを持っていることに。

ポップ・スターがスターであるためには、何らかの輝きが感じられることが絶対十分条件である。
それがたとえ反社会的なロック・スターやパンク・スターであったとしてもだ。
しかし、2010年代の今、ブルース・スプリングスティーンが汗を飛び散らせてシャウトすることも、シド・ヴィシャスが明日なき魂を彷徨させて中指を立てることも、僕たちの心をリアルな場所で震わせることはできない。
ポップ・アイコンの向こうに夢は見たいけれど、嘘くさい単純な装置や日常性からあまりにかけ離れすぎたフェイクでは白けてしまう、こういう気分が僕たちの生き続けている気分に横たわっている。
そんな現在のポップ界において、若いアイドルが懸命に羽ばたこうとする姿は、広い層からも支持を受けるに値する素質を備えている。
若い世代はそこに自分の夢を仮託し、高年層は通り過ぎてきた日々の記憶を重ねて見る。
「どうせ音楽ビジネスなんだろ?」という醒めた問いに、アイドルは最初から答えを用意している。
「私たちはファンを楽しませるためのアトラクションです」と。
その答えはまっとうで誠実でありながらシニカルで、今日の空虚でブルーな感覚をも有していて、少なくとも僕には完璧に聞こえる。
「どうせなら若くてきれいな(あるいはかっこいい)店員さんやキャビンアテンダントや看護師に対応してもらえればラッキー」という、下世話でばからしく聞こえるけれども身に覚えのある感覚をずっと延長した先に2010年代のアイドルがある。
サーヴィス業としてのアイドルは、それがある程度あざとかったとしても、篤実で健気で前向きでひたむきだ。
すれた中年から見ても、その折り目正しい仕事ぶりに好感を持つことにやぶさかでないだろう。

一方、コンビニ店員のおばさんが若い店員さんよりしっかりしていて対応力に優れ、人間的な優しみも伝わってきてほっとすることがある。
そんな音楽を作っていこう、と僕はささやかな誓いを立てるのだった。




2016年


11月18日(木)

今月2日、バンコク最大の楽器店街だったウォン・ナコーンカセームという地域一帯の立ち退きが起きたのを知った。

先月レコーディングのあと、各種スティックをケースごとタクシーに置き忘れてきた僕には、何はともあれまずその復旧が先決だった。
スティックの中にはロッズやブラシやマレットもあったから、こうなるとウォン・ナコーンカセームは強い。
店構えこそ小さいものの、何十軒もの個性的な店が並ぶので、どこかで遭遇する率が圧倒的に高かった。
ここにはマリンバもあればコントラバスもあり、ゼンハイザーもコルグも販売店がある。
ぶらり見て回るつもりで出かけても、何かしら購入してしまう場所、でもあった。

休日、バイクでのんびり出かけた僕は、到着した場所に、銀河鉄道999のどこかの駅のごとき風景にひたすら唖然とするしかなかった。
ゴーストタウン――どの店もすべてシャッターを閉ざし、中の様子がうかがえるところみながらんどうである。
道行く人もいるにはいるが、どの顔も終焉の二文字にあまりに溶け込んでいて、動いているスチール画にしか見えない。
映画のシーンに紛れ込んだような気持ちで、しばらくは悲しみや残念ささえ思い浮かべることができなかった。

ほとんどの店先の張り紙や地図に移転先が示されているのが、せめてもの救いである。
こういう重要な情報も、タイでは極端に入ってきにくい。
気を取り直して地図や街の様子の写真を撮って回った。
それぞれの店の、ついぞ今しがたまでの在りし日の姿の回想フィルムラッシュを重ねながら。

その日のうちに、打楽器に強いヨン・セン・ミュージカルの地図を頼りに、チャオプラヤー川を越えて新店舗に向かったが、残念ながら店内工事は始まったばかりのようだ。
開店予定日についても、そこにいた作業員の人たちは「まだ分からないねー」と言っていた。
その日の夜、ヨン・セン・ミュージカルと、スティックの種類が多かったインターミュージックのフェイスブックから問い合わせをしてみた。
翌日、どちらの店からも返事があり、タイのIT社会ぶりに驚いた。

次の休日、途中でスコールに遭いつつ、ボーベータワーの近くにあるインターミュージックの移転先でマレットを買った。
その次の休日は日曜で、どちらも営業していないのを知っていながら、ピンクラオ方面に移ったウォン・ナコーンカセームで一番人気だったティーラ・ミュージックと、ヨン・センのメールで知ったスクサワット35の倉庫にもバイクで走ってみた。
もうここまで来るとお分かりのとおり、僕はとても昭和な日本人と化している。

昨日はその二点が開店している時間に行ってきた。
ヨン・セン倉庫では中に緩衝剤が入ったロッズと、硬くて太いナイロンのブラシを買った。
途中、ウォンウィエン・ヤイ付近に移ったタイ民俗楽器店ニュー・スーンモーンの新店「ベー・ヒープ・タイ」を探したが、こちらはほとんど何の情報もない手書きの地図だけが頼りで、モータサイの兄ちゃんたちに尋ねる程度では簡単に発見できなかった。
ただ、最初に尋ねたウォンウィエン・ヤイ駅前のモータサイの兄ちゃんが「ここに描かれているのは橋なのかな?」という言葉がヒントになり、2本目の橋の近くに存在しているのを確認できた(夕方5時閉店だそうで、半時間ほどディレイ)。
今回は、初めてラーチャプアック通りを走ってみた。
新しくて広く、渋滞もほとんどない快適な道だった。
ティーラ・ミュージックは威風堂々とした4階建てほどの新築になっており、あっと息を呑む。
品数も店員さんの知識も音楽発信源としての力も、バンコク最大であることは間違いない。
今のバンコクで最も腕が立つと言われているジャズ・バンドが店内でデモ演奏をしていたのも驚きだし、翌週金曜にアーロン・スピアーズ(たった3日ほど前にYouTubeで知ったばかりで恐縮の凄腕ドラマー)のドラム・クリニックがエカマイで開かれるという情報を店員さんに教えてもらったのにもまた腰を抜かしそうになった。
ここではティンバレス・スティック、カウベルのアダプター、XLR(キャノン)ケーブルを求めた。

スティック類紛失とタイ最大の楽器店街消失というダブル・ショックから始まった楽器屋巡りは、いつしか休日の小探検になっていた。

先日、僕はレコーディングでエンジニアさんに「最近、自分が音楽が好きなのか楽器が好きなのか分からなくなってきたよ!」と冗談を飛ばしたが、エンジニアさんが笑ってくれたのは、彼自身、僕が毎回持ち込んでくるいろんな楽器の収録を面白く感じてくれているからだと思っている。
バンコクで音楽を続けていくのは、日本での想像以上に難しいが、だからこそ音楽を通じての人のつながりは温かい。




9月11日(日)

パーカッションはレコーディングでじつに重宝する。
音階がない打楽器はドラムも含め、リズムがすべてなので、他の楽器の邪魔になったり干渉しあったりしない。
もともと学生時代から楽器ではドラムを一番手がけてきたから、リズム勝負というのは乗りこなしやすいことも大きい。

今夏にはアゴゴやジャム・ブロックなどをイケベで買ってきた。
ラテン・リズムそのものでも、また、もっと違ったものにでも応用が効く。

相変わらずの楽器熱、なのである。



2015年

9月30日(水)

今年、コンパクトエフェクターを2種類、購入した。

今夏の日本帰省の間にイケベのベース専門店に行き、店員さんに僕がほしかったベース用コンパクトエフェクター(ソースオーディオのSA143)が、生産中止にさえなっていないものの、メーカー側に生産の意志がないということを聞いた(こういうとき、日本のありがたみがよーく分かる)。
タイに戻ってから、この機種が入ったら連絡をくれる約束になっていたギターショップ(バンコクでのソースオーディオ代理店)に向かった。
イケベで、SA143と同じ系列のベースエフェクター(エンベロープフィルター)を薦められたときはピンとこなかったが、後にバンコクの自宅で動画を見るとけっこういい音がしているので、予約で待機をしてくれているはずのバンコクのギターショップにあれば買うことに決めた。
レジの女の子に「あなた、○○さんでしょ?」と問われ、予約客として覚えていてくれた店で買ってよかったと心底思った。

今日、RCAのスタジオで個人練習してきた。
ここは中古楽器屋の2階に部屋があり、ドラムはあまり使い物にならないが、マイクの通り具合やベースアンプの音の良さなど、他には見られないいい点がいくつかある。
前のバンドの練習が押していたため(バンコクではよくあること)、待ち時間に商品を眺めている中に、昔持っていた機種の後継機となるオート・ワウがあった。
インプットがギター用とベース用の2種類あってどちらにも使えることと、試奏のときに昔取った杵柄が感じられたことで、練習帰りに買い求めた。

もし僕の作った曲を読者の方がどこかで聴いていただいたことがあるなら(Fractalの音源はこちらのページで紹介しています)、僕がエフェクトにある程度傾倒していることをお気づきかもしれない。
3rdシングルで念願のDTMを制作したときにはエフェクトモード全開だったが、その後、バンドサウンドとの融合へと向かっていることから、僕のエフェクト趣味はコンパクトエフェクターと、そこからギターへと向かうようにもなっている。
今年、僕が一番腕を伸ばすことができたのはギターだろう。
「冷蔵庫」で初めてギターをレコーディングしたときには、ボトルネックにもライトハンドにもチャレンジできたし、"Phuket"ではアコースティックギターにもトライできた。
ベースにはないギターの快感に、シャキシャキしたカッティング(これは自身がドラムとベースといったリズム楽器をメインとしている影響)とエフェクトの多様さがある。
ワウの浮揚感やフェイザーの透明感、オーヴァードライヴのくぐもり、コーラスのシャリシャリ感など、ギター・コンパクトエフェクターにおける表現力は層が断然厚い。

そんなわけで、僕は今日もますます音楽に耽溺の真っ只中です。




6月23日(水)

4年前まで、僕は同時代的な音楽世界での浦島太郎だった。
タイに移住してから練習スタジオに入ることはほとんどなかったし、それに伴って音盤を買い求める機会も、1年に1度の日本帰省でせいぜいリマスターされた愛聴盤を数枚、といった程度のものだった。
その頃までの僕の認識は「ポピュラー音楽は2000年代以降大きな潮流を作ることさえできなくなった」であった。

今月、4thシングルのための1曲、「冷蔵庫」が完成した。
この曲は僕がようやく浦島太郎を卒業したことを示す里程標である。

これまでの日記内容も含めて、Fractalと名づけられた僕らユニットの変遷を、浦島の現代への漂流で簡単に眺めてみたい。
まず、バンコクで初めてのレコーディング経験となった1stシングル「サカナ」"Rainy, Cloudy"は、クリックを聴かずにレコーディングした。
これは90年代の日本でアマチュアがレコーディングを体験するときによく用いられた方法だった。
技量のないプレイヤーがクリックを聴きながらレコーディングすると、往々にしてリズムがずれる。
10年以上のブランクがある僕と、レコーディングは初めてであるメンバーのAと二人だけのレコーディングは、90年代でいうところの「デモ・テープ制作」程度の気分だった。
そういう位置づけくらいにしておかないと、僕らはいつまでたってもレコーディングを終えることはできなかった。

2ndシングル「旅」「指先に世界が始まる」では、リズム・トラックをDAWで用意したり、シンセサイザー内臓の自動演奏機能をベーシック・トラックにしたことで、クリックに合わせる必要性が出てきた。3rdシングル"Funk-168"「天使たちがいた場所」「もしも」ではさらに、ヴォーカルとコーラス録音以外はすべてDAWで行ったため、すべてがグリッドに支配された制作となった。

ところが、僕らはそこで立ち止まらざるを得なくなった。
Aの身が自由にならないプライヴェート事情もあったが、実は最大の障害はレコーディングそのものにあった。
それまで利用していたスタジオでは、満足のいく音にならないと気づいてしまったからだ。
最終ミックスでも音が曇り空状態で、殊に低音は致命的に損なわれる。
そこを打破すべく、自身が扱えるようになった新しい本格的なDAWでミックスを試みた。
それで音の分離はよくなったが、低音はスタジオでのミックスよりさらに犠牲になることになった。
マスタリングに至っては、ほとんど知識がない。
気づけば僕らは袋小路の真っただ中に佇んでいた。

おのずと、スタジオ練習がたった一つの、自分たちが思いどおりに音楽表現をできる場所になっていった。
幸いなことに、僕らはスタジオ練習が楽しくて仕方ないくらいになってゆく。
前回の日記に綴ったとおり、これまでの経験で音楽性が自由になったこと、音で会話ができるようになったのは大きかった。

そんなある日、Aの知人であるギタリストからレコーディング・スタジオを紹介してもらった。
プロ・デビューしているバンドのメンバーからの情報だけに期待度が高かったが、イメージどおりのクオリティーであることがすぐに分かった。
それは、ずらりとつまみの並んだコンソールの大きさからも、ラック式エフェクターの数からも見えることだが、いっそう驚愕したのは、トラックに録音されたデータをエディットするその技術。
ちょっとしたタイミングや音程の補正、エフェクトやミキシングに対するバランス感覚は、バンコクでそれまで使用してきたスタジオのレヴェルとはまったく比較にならない。
DAWで直接打ち込んだりキーボードで演奏したりグルーヴ・クリップを貼りつけたりしたデータと同じような感覚でレコーディングしたトラックを編集できるというのは、まさに目から鱗だった。
そして、それだけ質の高いスタジオを使用するにあたって、自分たちの演奏力がスタジオ練習三昧だった日々のうちに少しは鍛えられていたのが功を奏した。

グリッドに合わせることによって、広範な音源エディットが可能になったこと、それが僕の捉える2000年以降の音楽の進化だ。
インターネットが生産者と消費者・書き手と読み手をかきまぜ合わせ、マルチメディア時代を到来させたように、ポピュラー音楽もまた、これまでリスナーにしかなり得なかった層をトラック・メイカーに加えこんでいく。
たしかに今のポピュラー音楽は大きなムーヴメントを作ることができないままでいる。
しかしそれはリスナー個々の趣味が細分され、音楽への触れ方においても十人十色となったのみならず、受信者が今すぐにでも発信者となるこの時代のアクティヴな姿勢にも源があろう。
可能性を広げるという意味では、これほどまでに開かれた時代もまたない。

竜宮城から帰ってきた状態で始まった4年間は、1990年代からの音楽的タイム・トラベルでもあり、これ以上ないエキサイティングで貴重な体験である。



2014年

11月12日(水)

スタジオ練習が楽しい
実は、こういう気持ちをもったのは、初めてバンドを始めた頃以来のことである。

前作シングル3曲("Funk-168"「天使たちがいた場所」「もしも」)はDTMとして、ソロ状態でほとんどを自宅で作った。
Fractalの相方であるAが動けない時期だったことと、以前から少しずつDAWを理解し始めていた状況とが合わさった形でのことだった。
まだ初めてのことだったので、様々な問題点を抱えているが、自分なりの手応えもまた感じられた。
ポピュラー音楽はテクノロジーの進化と切っても切り離せない密接な関係があり、新しい機材・環境が音楽に与えるインスピレーションはとんでもなく大きい。
そして、特にPC卓上にミニ鍵盤を取りつけてからしばらくは、「これで毎日がレコーディングになる!」と手に汗を握っていた。
ただ、やはりDAWの自宅作業は孤独なものである。
これだけをずっと続けて音楽活動をすることは、今の僕にはできそうにないということも分かった。

ちょうどシングル曲をまとめた頃に、Aの都合がつくようになり、スタジオ練習が再開された。
その数回目あたりから、二人で練習スタジオの狭い部屋に吐き出しているものが、これまでとは違っていることに、お互いはっきり気づいた。
技量のない僕らには、これまで「いかに曲をちゃんとさせるか」が唯一のポイントだったが、このところの僕らは、口には出さなくても「いかに音楽を楽しむか」を大切にしているのが手に取るようにわかる。
いわゆる[音で語り合う]というやつだ。
そこから練習漬けの日々が始まった。

実力のほどはまだまだだが、腕前がほんの少し向上してそれが可能になったということもある。
けど、いちばん大きかったのは、冒頭に書いた前作シングル。
DTMの凄さは、相手が人間ではないので、気に入るまで何度も反復再生・録音することができること。
おかげで、この3曲についてはどんなコードを使っているのかに縛られずに、感性だけで音を重ねていくことに終始できた。
このモザイク的な音楽制作から受けたインスパイアは大きかった。
これまでのスタジオ練習といえば、音やリズムを外さないかを心配しながら練習していたが、今は音を出すこと=何かを表現すること、という意識で練習の2時間を満喫している。

そんなわけで、次のシングルにご期待ください、と言いつつ、しばらく楽しくて楽しくてしかたがないスタジオ練習にどっぷりになりそうな今日この頃です。




4月5日(土)

邦楽しか聴かないミュージシャンが多くなっている。
それは裏を返せば、1990年代あたりから、邦楽は独自の一定レヴェルに達してきた証明でもある。
日本の産業全体がそうであったように、「追いつけ、追い越せ」の掛け声は、音楽の世界にもあった。
厳密には「追い越せ」というよりも、洋楽は憧憬の対象だったが、それだけに1990年代以降、自身も洋楽にあまり耳がいかなくなっているこの現状は驚きだ。

しかしそれにしても皮肉なのは、邦楽がワールド・レヴェルのクオリティーに到達した結果、洋楽を聞く必要のなくなったリスナーたちが邦楽に「引き籠る」結果となったことであろう。
たしかに、洋楽がどんどん大味になっていくのとは正反対に、邦楽はコード進行にしてもリズムにしてもアレンジにしても、日本人の感性の痒いところにしっかり手を伸ばした、繊細な感性をものにしている。
だが、出歩くなら繁華街ではなく近所・旅行なら海外ではなく国内・つるむなら新しい人脈ではなく勝手知ったるインナー・サークルのメンバーという図式で閉じ籠りつつあるこの時代に、邦楽だけしか志向しない感性は、すっぽりはまり込んでしまっているように見える。
インターネットでのSNSが「世界中とつながる」夢をさらに広げたのとは正反対に、アジア発の"LINE"は電話番号を知っているメンバー同士のクローズな関係にスポットを当てて一世を風靡している。
そして、音楽業界がここ何年間もCD売り上げを伸ばせず、You Tubeなどの台頭で音源を代金と引き換えに手に入れるという行為そのものが崩壊し始めている現在、音楽は徐々に趣味性を押し出したパトロン形式の位置づけに移行しようとしている。
ミュージシャンやパトロンが創造性の至高を究めようともがきながら作り出す音であれば、かつてのクラシック作曲家たちが現代に名を残すように、有無を言わせぬ作品が誕生してくるだろうが、「邦楽しか聴かない」ミュージシャンとそのファンたちの関係が後世に影響を与えるようなものを生み出すことができるかどうかは、甚だ疑問である。

「歌は世につれ、世は歌につれる」
1990年代までは、音楽を産業化しようとする業界との見えやすい、分かりやすい対立があって、その狭間に色とりどりの花が咲いた。
2000年以降、その音楽業界自体がIT化の波にすっぽり飲まれ、そのあまりに目まぐるしくスピーディーに過ぎるIT界と同じように、世界の各種産業自体が以前よりはるかに短期的な売り上げを何とか確保しないと、いかに大きな企業であっても先がないという答えがすぐに出てきてしまうようになり、もちろん音楽産業もそうなった。
曲のクオリティーや感動ではなく、握手会のチケットを求めるアイドル・ファンたちがCDをおまけとして扱い、SNSやブログでのひっきりない書き込みが宣伝として確立し、現在花盛りであるアイドルたちは実際、夢を売るというにはあまりにサーヴィス業であることを自覚しすぎた存在になっている。
IT化にしても、アイドルの発信を受け取るにしても、時代はどんどん僕らを個別化・隔絶化の方向へと押し流している。
それはまた、僕らの多くが個別性・隔絶性を内心で求めている証左だろう。
今や、僕らが最も牙を剥くべき対象は、巨大な資本主義世界でも圧政を敷く独裁者でもない。
ちっぽけだけれどもかけがえのない自分自身なのだ。
音楽はやはりこのたびも、世を映し出す鏡であるようだ。

ポピュラー・ミュージックが引き籠ってしまってどうするのだ、と問いたい。
しかし、その答えは相変わらず風に吹かれている。

せめて、僕は僕の歌を歌おうと思う。
今はただそれだけである。




2013年

9月22日(土)

ゆらゆら帝国「美しい」を聴いて気づいた。
何かをやり切った―――極めたバンドは、最後にはよく似た場所に出てくる。

Beatlesの"Across the Universe"
Beach Boysの"Busy Doin' Nothin'"
Sly & the Family Stoneの"Family Affair"
はっぴいえんどの「さよならアメリカ・さよならニッポン」
ユニコーンの「素晴らしい日々」
そして、ゆらゆら帝国の「美しい」

シンプルでいて微妙な陰影の美しい、揺らぎのある曲世界。
僕もいつか、そんな世界を描いてみたい。




9月12日(木)

音楽が持っている可能性の一つに、情報量スピードがある。

テレビすら家庭の娯楽の王座をPCやモバイルに明け渡しつつある現在ではあるが、それではこういった機器を用いて多くの人が何をしているかというと、メールやSNSなどで文書を送りあったり、ネット記事で情報を読んだり、音楽を聞いたり、カメラ撮影したり、You Tubeで動画を見たりという、それぞれ文字・音楽・番組観賞的なものであって、そういう意味では手紙を書き送って、新聞を読んで、ステレオコンポで音楽を聴いて、テレビや映画を見ているのと同じタイプのことをやっている。
ただ、その背景にある情報量とスピードが、以前とは圧倒的に違うのである。
ネット上にある莫大な量の情報を用いて、きわめて便利かつスピーディーに、個的な活動ができてしまう。
そこに、人々が孤立していくプロセスを読み取ることは容易だろう。

さて、音楽がなぜこのような現在の社会においても持て囃されるのか。
その答えの一つが、情報量とスピードにあると、僕は見る。

まず、動画は現在においても最も情報量が多いメディアである。
そのことは、動画をPCなどに保存したときのファイル容量の大きさからすでに分かることだが、登場するものが動き、音声を発信し、音楽がそこに絡み、必要とあらば文字もどんどん登場する。
もちろん、これらの情報が流れる速さについていくため、人々は五感を総動員することになろう。
これと反対に、アートの鑑賞は、かなり自由にその作品に対峙する時間を自己決定することができて、しかもその作品自体は垂れ流し的な情報マシンガン連射をしない。
そこには一つの作品しか存在せず、その作品から何かを読み取る自分の態度次第では、崇高な存在からただのゴミにまで見なすことが可能である。

音楽はおそらく、そのちょうど真ん中の頃合いに立っている。
当たり前の話をすれば、音楽は聴覚によって成り立っている。
動画同様に一定の速度でリズムが、メロディーが、歌詞世界がそれぞれ情報として迫ってくるが、すべては耳を通して届けられる。
動画よりも情報量が少ないのだ。
そして、その情報の欠如を埋めようと、自身が色づけを加えようとする。
ちょうど小説の読者が、登場人物や風景を頭の中に思い描くように。
この適度な創造性が、音楽の醍醐味の一つなのではないかと思うのだ。

ここには他の現代的な付加価値もある。
情報量が限られるだけに、音楽は多くのものを強要しないのだ。
各種メディアでは、具体性を伴うごとに、そのメッセージ性が好悪や価値基準を個々に分断させがちだし、抽象性が高いものほど、今度は受け手の感性を意識的に大きく開かなければ受け取るのが難しくなってしまう。
しかし、音楽はある意味で、ただ流れているだけでいいのだ。
もちろんメッセージ性が強い音楽作品もある。
でも、「メッセージは自分とは合わないけれど、アレンジはいい」というようなことが簡単に言えるメディアが音楽なのだ。
例えば、「ストーリーはいま一つだけど、画像がすこぶる美しい」映画だとか、「作品の意味するところはどっちでもいいけど、文体が流麗な「文学作品だとか、「衣装は気に食わないけど、造形には心を奪われる」工芸品などといった話にとんと巡り会わないことからも、音楽の特殊性が分かる。
抽象性の高い音楽だってある。
これにしても、音楽の場合は「ただ聴いていて気持ちがいい」というその一点だけで成り立ってしまう。

また、スピード感という縛りは、現代においては非常に重要である。
第一に、多くの動画に比べて、ポピュラー音楽は作品単位の時間が短い。
これは多忙な現代の都市生活者には大きなメリットである。
また、聴覚以外の感覚を必要としないため、生活空間に音楽を持ち込むことは実に容易である。
満員電車でスマホの画面を眺め続けるのは難しい場合もあろうが、収録した音楽を聴くのには、あらかじめイアフォンかヘッドフォンを装着しておいて、プレイ・ボタンさえ押せばいいだけの話であるし、家事をしながらでも、自宅で仕事しながらでも、音楽を聴きながら何かの作業をすることもまた楽しい。

第二に、現代は快感の刺激増大にポイントのある時代である。
ジェットコースターが回転するくらいではもはや何の興味も抱かれないので、スタンディング・コースターになったり、リアルな恐竜模型や3Dを活かした空間を走り抜けたり、シート左右から流れる音楽を聴きながら乗れたりするコースターが次々に登場する。
「もっと、もっと」が現代の標語であり、経済社会を支える原動力だ。
ポピュラー音楽は実際、このニーズを満足させる作品を作り続けてきた。
エレキ・ギターの音を歪ませたり、シンセサイザーで音の可能性を広げたりもしてきたし、各種エフェクターや音源加工などの技術革新による興奮も生み出してきたが、その一方で、実際には(西洋音楽の)音楽理論的にはもはやフロンティアは消滅していた。
メロディーと和音の関係は開発しつくされ、フリー・ジャズや即興性を取り入れた音楽などに至って、その先に可能性を探るよりは、西洋音楽の基礎から解体し、再構築しなければならないところまで来ている。
それをせずに凌ぐことができた要因の一つが音色や楽器の開発だったのだが、もう一つがリズムの追究という路線だった。
2ビートから32ビートまでのリズム細分化はその最も理解しやすい例である。
しかしそれ以外にも、「ハネたリズム」、しかもシャッフルのように4分音符を3分割するような単純な割り算ではない揺らぎのあるリズムを生み出したり、その反対にまったくぶれない機械的な反復フレーズに快感を見出したり、裏拍を強調するレゲエに新しい高揚感を覚えたり、リズムだけで曲を構成してしまうとするファンクやヒップ・ホップも登場したりしてきた。
新しいリズムは新しいスピード感を聴き手にもたらし、刺激を与えた。

音楽には、親しみやすい顔がありながら、人々をイマジネイティヴにする作用がある。
何かふと思いついたからSNSにくだらないことをつぶやく軽さとは別種の、聴き手一人ひとりの中に爆発したり沈着したりするように、安易に他人と分かち合うことのできない思いをもたらす。
もちろんこういう思いは小説を読んでも、映画を見ても、美術作品を鑑賞しても起こることだが、情報量とスピードという二つの側面によって、音楽はハンディーなのに深みと広さのある媒体足り得ている。
それこそが現代社会にまだ音楽が奇跡的な支持を勝ち得ている理由の一つだと思うのである。




5月16日(木)

村上春樹のインタビュー集「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」を読んで気づいたことがある。

読者は作品に、最終的には自分にとって面白かったかどうかを基準に判定をつける。
だから実際のところ、アマゾンのレヴューなどから僕らが期待するのは、あくまでそのコーナーの狙いどおり、面白く読めそうな作品かどうかのリサーチであって、本格的な論評ではない。
読者は不特定多数の人間なので、面白かったかどうかの基準は当然千差万別で、そうでなければ社会的に不健康極まりない。
おのおのの基準や価値観が異なるからこそ、個々人はそれぞれに意味を持つというのが現在の民主社会の前提である。

一方、多くの作家は自身の資質と趣向を背骨に、作品を生み出す。
小説家とは、非常に孤独な職業である。
自分の内奥にある世界を一人で汲み出し、一人で結晶させてゆく。
ぎりぎりの淵に自分を追い込むことができなければそれまでである。
しかし、別の意味で小説家は読者との共通基盤を信じることのできる夢想家でもある。
自分を掘り下げるだけ掘り下げて物語った話を、どこかの誰かに伝え、響かせることができると信じ切れなければ、作家など到底続けられはしないだろう。

しかし、物語ることは、作家自身の手だけによるものではない。
村上春樹はそれを「起きながらにして夢をみること」だと表現しているが、僕も以前小説を書いていたときに、「物語が天から降ってきて、自分はそれを筆記する機械のようだ」と感じる時間を何度も持つ機会に恵まれた。
物語はある程度のところまで進めば、あとはそれまで敷かれたレールの延長線上を自らの推進力で走り始める。
もちろん、分岐点でいったん停車して、どちらに走ればよいのかを決定しなければならない瞬間も数多くある。
表現が甘かったり」不明瞭だったりで、あとで何度も手を入れなければならないのも当然である。
にもかかわらず、文章は先を書けば書くほど自身を規定し、「この先書かれるべき世界」へといざなう。
途中から書けなくなった作品とは、それまでに文章化された世界の先にレールが敷かれていないからではなく、文章自体が推進力となる熱を失ってしまうからできてしまうものである。

短編集「TVピープル」から長編「ねじまき鳥クロニクル」を発表するあたりまで、僕は村上春樹の作品をあまり評価してこなかった。
今になればわかる。
それは、アマゾン・レヴューのように好悪という単純な話で言って、さほど面白いとは感じられなかったからだ。
しかし、当時は「村上春樹も歳をとった」という、そんなステロタイプな言い回しでしか理解できていなかった。
村上春樹は今でも進化を遂げている。
年齢とともに技術を蓄え、人物描写やテーマの設定に多彩さを加え、以前にはなかった魅力を存分に発揮している。
作品を単品として取り出して味わい、めいめいが好んだり合わないと感じたりするのは、読者としてまったく正しい接し方だろう。
だが、コース料理の一品だけを取り出して云々するよりも、全体の流れで捉えて料理人の意志を感じることができれば、もっと新しい味覚の世界へと羽ばたくことができるはずだ。

小説家は読者を満足させる装置でもなければ、時間や労働力を切り売りするサラリーマンでもない。
つまるところ、物語は作家が目覚めながらに夢を見られるところまで自分を掘り下げ、天からあまねく降り注ぐものを書き留めた作品なのである。

さて、これを曲作りに置き換えてみよう。

ポピュラー音楽はレコードを販売するシステムを作り上げたときから、特定のパトロンではなく、不特定多数のリスナーに数で支えられるシステムを獲得した。
特定のパトロンとの出会いは運命に縋るほかないが、流通に乗り、メディアに乗り、コマーシャリズムに乗った音楽は、より広範の人々の耳に届くようになり、世に羽ばたく可能性が圧倒的に広がった。
その一方、音楽家とパトロンは現実の人間関係で結ばれているが、リスナーはほとんど楽曲を通じてしか音楽家との接点を持たないので、離脱はあっさりと行われる。
だから、ミュージシャンもレコード会社も、自分たちの生き残りをかけて売れるものを提供しようとする。
音楽制作、特に録音にはお金もかかるので、その資金回収への責任意識も背負うことになるだろう。

しかし、作家としての精神性の薄いものは風化が早い。
ちょうど、いくつかの推理小説やライト・ノヴェルと似たようなものである。
売れるために書かれたものは、不特定多数の中でもできるだけ多くの人々に好評を得られるような工夫に満ちているので、反響も大きくなる可能性が高いし、「好きだ」といってくれる人を多数輩出させることもできるだろう。
でも、それはリスナーを満足させるための装置になりきって、時間や労働力を切り売りしたサラリーマン仕事から生まれてくるもので、良くも悪くも「商品」である。
アンディ・ウォーホルやマルセル・デュシャンの登場を待つまでもなく、大量生産のポップ・カルチャーにアートを見出すという発想はそれ自体素晴らしいものだし、事実、僕らはそうした経済文明のもたらす夜のネオンサインを美しいとも感じてきたのは確かだ。
ただし、それは表現者と鑑賞者の「発見」の折り合った地点の刹那的な輝きであり、見出すことそのものに価値が置かれている。
何の変哲もない流行歌のひとつに思い入れを持ったりクウォリティーを見出したりするのは、リスナー側の「発見」によるものであって、クリエイター側の手にはない。

ものを作るとき、表現者はまず自分の表現したいものを愛していないとならない
そのためには、自分の中にしっかりと根を下ろしているものを見極め、自分を掘り下げなければならない
そして、一度形を整えだしたものが持ち始めた熱を推進力として、その世界の現出のためにシャーマン的な存在になる必要がある。
技術が身につけば、表現力を拡大することができる。
それが売れるか売れないか、評価されるかされないかは、確かに一大イヴェントだ。
それでもなお、物を作る人間がこだわろうとする最も重要なポイントはそこであってはならないと思う。
個人個人がそれぞれの感想で作品を味わう中で、「おいしい」と思う人をどれだけ満足させることができるか。
換言すれば、自分をどれだけ納得させられるか、である。
村上春樹はそのインタヴュー集で「物語を書きながら、自分はその物語の最初の読者でもある」と発言している。
小説家が読書を愛するところからスタートするように、ミュージシャンも音楽を貪り聴くことから生まれてくる。
自分が作った文章や音楽を、ナルシシズムを差し引いたところでも好んで読んだり聴いたりしたいと思えるところに達するまでブラッシュ・アップするところに、作品の質はその第一歩を結晶化する。

去年の12月、前回の日記で、リスナーを想定した曲作りについて考えていたことを書きつけた。
今回、僕はその気持ちにもっと明確な理由を見出すことができた。
作家性リスナーとしての自分の先に、今後も僕は文章を書き、曲を作っていきたい。




2012年

12月15日(土)

また新たなシングル曲のレコーディングが続いている。
今年9月末からスタートして、今回はこの1曲だけで進めているところだ。

今回は、前回(6月27日)に当欄を書いたときのような気分にはなかなかなれなかった。
まず、相方に家族ができて、彼の生活が一変した。
続いて、自宅で作ったベースとなるシーケンス・トラックを、レコーディング初日にスタジオで読み取れず。
さらにその後も、スタジオの予約が非常に取りにくい時期が続き、間延びした録音環境となった。
そしてとうとう、僕自身、レコーディングに対する意欲が著しく低下。
その原因をいろいろと考えあぐねながら、重い腰をよっこいしょと上げて録音に臨む日々が続いた。

僕たちはプロではないので、僕たちが音楽的に行き詰ったところで、迷惑をかけるような人も、まず存在しないだろう。
それでも僕がレコーディングを続けたのは、ひとえに今の自分がどこまでのことをやれるのかを見届けたかったからだ。
僕にはすでに長い音楽的ブランクがある。
この10年ほどの間に音楽的な可能性を追いかけておかないと、次の10年にはもうからだが言うことを聞かなくなっているかもしれない。
もちろん、そんなときにはそれなりの音楽を作ったり演奏したりすることもできるだろう。
ただ、まだ柔軟に物事を吸収できる時期にそれだけの力を養っておかなければ、10年後には楽曲作成に楽しみすら覚えることができないかもしれない。
そんな焦りが、僕を突き動かしていた。

そして、昨日のレコーディングで、とうとう僕はトンネルを抜けた感覚を強く持てるようになった。
レコーディング内容が充実していたことは間違いない。
それにも増して、抜けたトンネルを眺めて感じるのは、自分がいかに様々な物事に囚われていたのかということだ。

レコーディングのスタート時から、僕らはこの曲に「自分たちの最高傑作になることは間違いない」という、他人から見れば(苦笑も含んだ)微笑ましい自負があった。
がぜん、肩に力が入りまくっていた。
その後、僕たちはレコーディング内容に毎回不満を持つようになった。
演奏への不満、音作りへの不満、ミックスへの不満、形にならない物足りなさ……。
すべては「この曲を名曲にしたい」という思いからのことである。
そのプレッシャーは、自分でも意識できていた。
ただ、それを正面突破で乗り越えることしか頭になかった。

トンネルを抜けられたのは、やっとその自縄自縛に気づくことができたからだ。
ユニットのHPにも掲げたとおり、僕らの唯一のモットーは「自分たちが聴きたいものを形にすること」。
そこには二つの意味を込めてある。

一つは、自分たちが心の底からよいと思えるものには、どこかの誰かにも届く可能性があるのではないかということ。
技量やセンスが僕たちにさほど備わっていないにしても、プロとアマチュアでは先述のように立場が違う。
僕らはプロを目指したたたき台としてアマチュア活動をしているのではない。
アマチュアとして好きなことを好きなように表現できることを活かして、なおかつそれが自慰に陥らないように開かれたものであればいいと考えている。
そこにこだわって――つまり、自分たちの美意識の深いところに手を伸ばそうともがいて――曲を生み出すことができれば、きっと誰か気に入ってくれる人がいるはずだと、そんなふうに思うのだ。

もう一つは、リスナーを想定した曲作りをするには、僕らは修行が足りないのだということである。
たとえば桑田佳祐松任谷由美は、徹底したリスナーへの意識を高いレヴェルで昇華しているミュージシャンであることはよく知られていることだが、それは桑田が「歩く電通・博報堂」と評されたことや、ユーミンが「世の風潮を肌に感じるために人の集まる場所でひとりアンテナを張り巡らせている」というエピソードが物語っている。
それを言い換えると、プレゼンの力ということになる。
業務に慣れない新入社員がいきなり抜群のプレゼンを連発するには、本人がある種の天才であることが条件となる。
僕たちはもちろん、そんな大それた人間では決してない。
では、新入社員はどういうところから活躍の糸口を見つければいいのか。
僕なりの頼りない意見だが、自分の特性を意識して、それをフル活用するシーンを見つけることなのではないか。
たとえば、笑顔が憎めない人なら、その笑顔で名刺を配り続ける。
話をするのが苦手な人なら、相手の言葉に真剣に耳を傾け続けて話を引き出す訓練をする。
つまり、自分のパーソナリティーに即して、自分の足元を見つめることから始めるということだ。

僕らはリスナーを意識した「名曲」を作ろうとしたが、そんなことを言うには10年早い。
それを読み替えれば、僕らは「名曲」を作らないからアマチュア的な美学を自由に追い求めることができる。
そして、僕らが生み出そうとしているものが「迷曲」だったとしても、そんな楽曲を屑でないものにできるかどうかは、僕らがどれだけ僕ら自身に向かいあうことができているか次第である。

そんなことを考えながら、レコーディングは佳境に入ろうとしている。




6月27日(火)

今年に入って以来、この音楽日記では自身のバンコクでの音楽活動再開の様子とその思いを徒然に綴ってきた。
「はまった」というのはまさしくこういう状態を指すのだろう。
レコーディングという的を狙って弓を引けば、あとは矢のように、ただひたすらまっすぐを目指してひた走る自分がいた。
一度そういう状態になると、iPodで選曲される曲の大半は自身のレコーディング曲のラフ・ミックスを聴き返すチェック作業と化すので、それ以外の曲を聴く機会が極端に少なくなる。
それは文章を書くことにしても同様で、一つの長い作品を書き続けている間には、他の作家の本を積極的に手に取ろうとはなかなか思えない。

シングルCDの2曲のレコーディング完成以降、力が抜けたようになった一方、リスナーとしての自分が再び顔を出した。
次のシングル2曲は打ち込みをベースにしたものにしようとぼんやりイメージしていたことから、しばらくハウスやヒップホップを意識して聴くようになっている。
ファンクは大好きだが、軽薄に見えたディスコ・ミュージックを長らく敬遠してきた僕にとって、エレクトロニックの系譜にある音楽とはYMOから中田ヤスタカに至るテクノ・ポップであったと言っても過言ではない。
自身の学生時代、口にするのも恥ずかしいと思っていた「ユーロ・ビート」がハウスに変態していったのであれば、本当に音楽とは底の深いものであると感じる。
クラブを楽しいと思えない僕にとって正直なところ、エレクトロニック・ミュージックには、冗長に過ぎると感じられる部分がないではないが、良質なエッセンスに包まれた輝かしい音楽ジャンルであることを、少しは理解できた気持ちでいる。

そこでようやく気づいたのは、Dragon Ashがなぜ爆発的な人気を博していたのかということ。
いま手にしているハウスやヒップホップの数曲の中に置くと、彼らの音は飛び抜けて印象的で、スタイリッシュで、日本的な小気味よさに溢れているのが、いまさら耳に新鮮に飛び込んできたのだ。
彼らが自分たちをロックに属する存在だと話したというのは、本当によく分かる。
ヒップホップの中での彼らの位置づけというのはまだよく知らないが、ロックというジャンルが現代的な音や趣向をはらみながら自然な呼吸で成長すればこういうものになるんだということを、彼らの曲は確かに語っている。
ロック的なスピード感とヒップホップ的な構成がスリリングという両者共通の魅力の地点で融合しており、Kjのヴォーカルも、ヒップホップとしての男くささと女性ファンを魅了するロックの持つ甘さとの中間点に立っている。

ただ、ここで偉そうなことを言わせてもらえるならば、すでに僕は彼らの曲の多くを若干、聴き飽きたように感じている。
いや、それだけではなく、エレクトニック・ミュージック全般にその傾向がある。
それはおそらく、へヴィー・ローテーションにし過ぎたせいでもなければ、興味が他に移ったからでもない。
僕にとってクラブ・ミュージックに属する音楽は、もともと飽きやすい傾向を持っているのだ。
「場」に反復を与えられることによって陶酔感を甘受し、延々と続くグルーヴで踊れることがクラブの醍醐味なのだろうが、これを裏返せば、ビートを中心に、構成パターンが金太郎飴ふうになっているということでもある。
ビーチ・ボーイズやビートルズの組曲的な展開でリズムもどんどん変化していく作風に慣れ親しみ、ドラムやベースを担当してきた僕にとって、クラブ・ミュージックに均一なビートが採用されているなら、もっとリスナーを楽しませてくれる小技がほしいし、そうでなければ、もっと圧倒的な楽曲としての魅力があってほしい。
もちろんこれまで僕自身が聴いてきたロックやポップスにも、反復はこれでもかというほど登場してくるのだけれども、完全な反復にならないような前述の小技が効いていたり、曲のサイズがリスナーを飽きさせない長さにまとまっていたり、圧倒的な名曲になっていてしっかり心を掴まれたりしてきた。
それが証拠に、同じクラブ・ミュージックの範疇においても、Pizzicato Fiveには捻りに何度も唸らされてきた。
ほんの少しだけ齧ったくらいの現在のところまでの意見で恐縮だが、エレクトニック・ミュージックの多くは快楽や陶酔を与えてはくれるものの、リスナーとして音楽を聴く耳には未完成の作品であるような印象を拭えないでいる(この感想とて、少し経てばすべてがひっくり返ってしまう一過性のものかもしれないけれど)。

だが、それは僕自身がやるべき方向性をはっきり示してくれているようにも感じ始めている。
そう、僕は自分が聴きたい音楽を自分で作るために活動を続けてきた。
しばらくの間放心状態になっていたけれど、明確な方針が見えてきたようだ。
次のシングル2曲は全編打ち込みで行きたいというのは以前から構想していたことだ。
さあ、このジャンルにはまだどっぷりでない分、新しい視点を持っているはずなのだから、胸を張っていこうじゃないか。
自分が聴きたいものが世の中に、あるいはひとりの聴き手にクロスする瞬間を求めて。




   

5月17日(木)

さて、これまで8回に渡ってレコーディング・セッションを繰り返してきた2曲は、いよいよ次回、スタジオでの最終ミックスを済ませれば、あとは自宅でエフェクティングやSE追加などの再編集を経て、完成となる。
一方、ここにきて少しばかり、音楽活動に対する自分自身の姿勢やポジションが変化してきたことをご報告したい。

まず、8回目のレコーディング後、仕事が多忙だったこと、風邪をひいていたこと、相方がただならぬ状況に突入したことなどがあって、スタジオに予約の電話を入れることがなかった。
特に相方が思うように時間を取れなくなったことは、ここしばらくの音楽活動に大きな影を落としている。
肩を押してくれる存在のないまま、ひとりでレコーディングを進めていると、「これでいいのかなぁ」というぼんやりとした不安につきまとわれることが多くなる。
バンコクのスタジオで録音しているため、タイ人のエンジニアさんの説明してくれるところの本質が理解できないこともあるし、僕らの細かい指示が伝わりにくいこともある。
ちょっとした補正をかけ続けても、できあがってくるものは自身の思いと違うものになっていることもけっこうある。
一つ一つのレコーディングが終わるたびに、できあがったミックスのエフェクティングを作ってきたので、もうこれが完成形でいいかな、とつい思ってしまったりもする。
これじゃいけないと自戒しつつも、今回のようにレコーディングに合間ができてしまうと、「まあこれでいいか」の波に流されてしまいそうになる自分がいる。

一方、レコーディング以外の部分で、自身が音楽活動をストップしていたわけではないから、新たな方向性というのも見え隠れし始めた。

日本にいた1990年代、僕はバンド活動をもって音楽活動としてきた。
トッド・ラングレンのようなマルチ・プレイで音楽を形作っていく技量もなかったというソフト面でもそうだったし、ロックやポップスといった音楽の世界では当時、まだまだバンド形式が一般的だったというハード面でもそうだったのだが、自分一人で楽曲を創り上げて完成まで持っていくという発想はほとんどなかった。
だが、タイに移るようになる直前の1〜2年には、ヤマハのQY700というシーケンサーを手に入れ、それでバンド新曲用のデモを作り、これを発展させて打ち込みで楽曲を作ろうという発想は芽生え始めていた。
そのタイミングでバンドは解散、僕自身もタイに生活拠点を移して、音楽活動は長い休眠期に入った。

時は流れ、DAWが浸透した2012年、もはや「バンド」はいささか古い響きを持つ言葉となっているようにも感じられる。
相方の参加が今後どれくらい見込めるのかが不透明な今、バンドのメンバー募集をするのも一つの手だが、ソロ・プロジェクトとしてやっていく覚悟も必要だと感じることも増えてきた。
先述のようなレコーディングに対する意志の弱さがある以上、不安ではあるが、ひとりならフットワークが軽くなることもまた確かなのだ。

こんなことをつらつら書いているのは、実際に自宅でシーケンサー・ソフトなどをどうやっていじればいいのかが、ほんのごく少しだけでも分かってきたからだ。
シンセサイザーを購入する前後にも、スタジオのエンジニアさんや楽器販売店のスタッフたちから耳にしていたことだが、現在の音楽作製事情は、まったく以前とは違った様相になっている。
音源からリズムのループを選んで自分好みに加工し、そこに入力用キーボードを接続して旋律や和音を必要とする上ものを乗せてゆく。
こちらもシンセ音源のみならず、DAWその他の音源から選ぶこともできるうえ、コピー&ペーストも自由。
こうして演奏のループを反復させ、それだけでは面白くなければ必要に応じて変化を出す。
また、ヴォーカルやコーラスもDAWで処理することができて、ミキシング、エフェクティングなどもすべて同一ソフトで済ませることができるのだ。
実際のところ、ここまでのことができるDAWを導入しようにも、僕の現在所有しているPCではスペックの限界を越えているので無理なのだが、数年前くらいまでのシーケンサー・ソフトとマルチトラック編集ソフトを併用すればなんとかなりそうだ、というあたりのことまで、ようやく理解できるようになった。

90年代、僕がよく用いていたのは、ギターでコードとカッティングのパターンを数小節分作り、それに合わせたおいしいメロディーをひねり出して、その続きのメロディーを考えると、今度はギターでコードを探すという手順を繰り返していくという作曲方法だった。
これは、ドラムかヴォーカルを担当してきた僕自身が、コードとメロディーの関係の理解に弱いためにできた手法で、最も苦手なギターからできることを始めてみるというところにポイントがあった。
それが、今ではQY700時代のような一音一音の打ち込みも不要な状態で、とりあえず適当に作ったループに何かをのっけていくという作業の流れになると、あとはリズム・コード・メロディー面で合うか合わないかの感覚的なジャッジと、自身の好みによるセンス的な判断だけで基本から作り込みまで追いこめることになる。
もはや楽器的な課題ではなく、操作をマスターしてしまえば、あとはチョイス次第ということになってくる。

つくづく、ポップ・ミュージックというのは世に連れるものなのだと実感する。
アンプで大音量が出せるようになるとハード・ロックが生まれ、電子機器が発達するとテクノやハウスなどが発生し、テクノロジーを貪欲に取りこんでゆく。
そのたびに、それぞれの機器に即した音楽へのアプローチが新しい発想や方法論となり、ミュージシャンやリスナーを刺激する。
だからこそ今日まで大衆音楽は発展してきた。
チョイスによる感覚で楽曲を構築するからには、そこに個人的な趣味が色濃く反映されるのは当然で、言わずもがな、その延長線には孤独な時代が見えても来るだろう。
それを表現することで、また大衆音楽はいっそう世に連れ添う。

PCを用いた曲作りのノウハウを調べつつ、シンセサイザーを出発点とした作曲の構想もどんどん固まってきた。
触発こそが音楽の原点
感受性豊かに音楽活動を続けてゆくために、模索は続いてゆく。



   

4月20日(金)

まったくもって、僕のスタジオ日記となっているこのところの当欄だが、下手の横好きにどうぞつきあってやってほしい。
今日は計6度目のレコーディングを完了してきた。
これまでのスタジオでのレコーディングでは、その日の作業を終えたときからすでに、しくじった個所ややり残し、詰めの甘いところなど、それぞれの悔やみがあった。
今年2月の初めてのレコーディング日記で書いたように、それに拘泥し過ぎるとレコーディングは遅々として進まなくなるので、ある程度見て見ぬふりをすることも、アマチュアの僕たちには大事なことだと思っている。
ところが、今日のスタジオはそんな自身の粗が先立たない、快い充実感があった。
本当に珍しいことである。

ことの発端は、春の長期休暇中にシンセサイザー「コルグX50」を購入したことだ。

バンド活動をしようとするとき、メンバーの調達に最も困るのがキーボーディスト。
想像してみるに、キーボードを担当しようという人は、大別して2組に分かれる。
一つ目のカテゴリーは、ピアノやエレクトーンなどの修練を経た人である。
この種類の人たちのほとんどは、幼少のころからピアノやエレクトーンを習っており、鍵盤の演奏者としては高い技術を持っている。
そして二つ目のカテゴリーは、最初からシンセサイザーを選んで音楽を始めた人。
この人たちはキーボードの音色の多彩さや、曲をプログラム編集することを念頭としていることが多く、編曲能力や機材の使用に慣れているので、現在の音楽活動で向き合うことの多い課題をこなすノウハウを持っている。
ところが、カテゴリー別にみたお互いの長所は、もう一つのカテゴリーの人たちの短所でもある。
カテゴリー@の人たちは機材に頼った演奏をプレイヤーとして好まない場合が多く、カテゴリーAのメンバーは技術の向上をプログラムでカヴァーしようとする向きが強い。
そしてバンドへ迎え入れようとするとき最も大きな壁になるのは、@の人たちの大半が、バンドという形態で好きなように使われることではなく、自分の気の赴くままの演奏を好むことであり、Aの人たちが、シーケンスのプログラミングによって、バンド・メンバーという他者のヘルプなしに、自分の好きなように曲を組み上げることができる点なのである。
かくして、キーボードを操る能力を持っているにもかかわらず、僕たちのようなバンドやユニットに好んで参加してくれる人はなかなか見つからないのだ。

そういうことなら、もう自分でやるしかない。
日本でもなかなか難しいことが、ここタイでそんなに都合よく実現するわけがない。
そこでシンセサイザー購入へと走ったわけだ。

実は、僕が生まれて初めて購入した楽器は、シンセサイザーだった。
ヤマハのV2という、当時一世を風靡していたDXシリーズの廉価版の位置にある機種である。
しかし、鍵盤の経験もほとんどなく、しかも大学で参加した音楽サークルで先輩に「次の新入生歓迎コンサートまでにバンドとして出場するように」というお達しがあって、すでにギタリストとキーボーディストが同期入部し、もう一人はベース志望ということで、僕のパートは誰が検分してもドラムだという状態になった。
人生の中でも大きな趣味の一つとなった音楽活動だが、入り口はそんなものである。

さて、シンセサイザーは、その後とんでもなく進化していた。
音源の方式が変更されたり、操作性が向上したり、一台でマルチ・プレイができたり、そんなことも素人はだしながら知っていたが、実際に手にしてみるとこれは、空想上の代物とはまったく異なっているのである。
音圧が高く、すぐにでもライヴに使える音ばかりが並び、僕のようなほとんど初心者にも使い方が直感的に分かるようになっていて、しかもそれでいて、重量が4.3kgと、今僕が使っているベースより軽いのである。
PCを中心とする技術革新の急流ぶりは理解できているつもりでいたが、やっぱり論より証拠、百聞は一見に如かず。
X50の購入後、暇を見つけては鍵盤に触れてみることがこんなに楽しくなるなんて、思いもよらないことだった。
あ、これは3月の日記でコーラスについて書いたのと同じような話になっているが、違いはズバリ、シンセサイザーの場合には音そのものに魅了されることだ。
コーラスはヴォーカルやすでに収録したコーラスと重ねてみないことにははっきりした効果を想像しづらい。
それくらいのことを試してみるシステムは今のPCにあるが、どうしても自宅で声を張り上げることが恥ずかしくてできないことや、マイクなどの機器的な差から、コーラスを重ねても幾分か浮いてしまい、スタジオで録ってみるとできがまったく違う。
ベースやギターは、家にアンプがない。
ましてやドラムは、シャドー練習のみである。
この点でいえば、シンセサイザーは圧倒的に音で迫ってくるうえ、その音が楽曲にどういう効果をもたらすのか、容易に想像がつく。

4回目のレコーディングではスタジオに備えつけのキーボードで、5回目にはX50を持ち込んで、それぞれ録音してみたが、各2時間ずつしかスタジオを押さえることができなかったことと、まだ不慣れなことが多かったことで、思ったようには進まなかった。
そうして今回、自分の技量の足りなさはさておいて、ようやく満足のいくレコーディングと相成ったわけである。
コーラスの追加も、シンセサイザー効果のあと押しなのか、気分よく運ぶことができた。
音圧もけっこう上がり、チープな雰囲気もまずまず抑えることができたようだ。
ミックスのやり直しも時間をとってしっかり固め、手応えを感じている。
ようやく曲としての完成形が見え始めた。
あとは、今日不参加だった相方の感想を待つばかり。

今後、知遇を得た女性コーラスの方、電話番号を紹介してもらった男性ギタリストの方、相方の旧友であるギタリストのヘルプをお願いして、これまで取り組んできた2曲のレコーディングもいよいよ佳境を迎える。




   

3月11日(日)

2日前、スタジオで3回目のレコーディングがあった。
午後8時からスタートだというのに、昼から何も食べずのまま臨んで、コーラスにまったく力が出なかった。
前回のヴォーカルとコーラス録りではまずまず好感触だっただけに、下準備の大切さを教わった。

一方で、初めてコーラスに非常な興味を持ってレコーディングを進めていることに気がつく。
僕のささやかな音楽活動で、ひときわ高い壁がコーラスだった。
もともと音楽的な素養がないうえ、ドラム・ヴォーカル・ベースと、単音楽器(か歌)の担当を主としていた僕の大きな弱点のひとつに、和音感のなさであることはずっと自覚している。
そんなわけなので、ここバンコクで音楽活動を再開し、ユニットでの録音の中で、コーラスのラインを考えるのが一番楽しい自分に驚いている。

ビーチ・ボーイズやカーペンターズ、山下達郎、ティン・パン系ミュージシャンたちを例にとるまでもなく、コーラスを前面に出した曲を自分自身が好んで聴いてきたし、その効果についても知っているつもりでいた。
違う角度から言えば、特にアマチュア・バンドの場合、フロントに立つギタリストやベーシストがスタンド・マイクをどれだけ使用するかによって、そのバンドの見栄えは大きく左右されることも感じていた。
だが、僕はコーラスがどれくらい空間を広げてくれるのかという、非常に根本的なことを軽視していたようだ。
たぶん、それに気がつくきっかけをくれたのは、僕らが二人だけのユニットになったからだろう。
バンコクに所持している楽器や機材の貧弱さから考えて、自分たちに今すぐできることをやろうとすれば、おのずと肉声に目が向く。

手探りのコーラスにしばらく心を奪われていたい。




2月10日(金)

とうとうバンコクで初めてレコーディングを体験した。
やはり、まずは一人でスタジオ入りしてのスタートとなった。
そして、まずドラムだけのトラック収録からかかるという方法も、実は初めてのことである。
日本でレコーディングしていたときには、ドラム+ベース+ギターの3ピースの同時録音をしていた。
この方法だと、誰か一人でも失敗するとすべてやり直しになるので危険度は高いが、練習で慣れた形と似たように録音できるので、構成を間違えることがない。
ドラマーにとって、無音状態、あるいはクリック音だけの無の状態から、グルーヴを出しながら構成を追いかけるのは想像するより難儀なことである。
だが、今回は相方との予定がなかなか合わないことに加え、その相方が今後かなり多忙になりそうな予感があるので、急がなくてはならない。
幸い、近頃はスタジオで個人練習も増えていたおかげで、構成を追うことはそれほど難しいことではなくなっていた。

ドラム各所にマイクが立てられ、バスドラからサウンド・チェックが始まる。
作業はスムーズに進み、レコーディングにキューが出された。
心のどこかにまだ用意のできていない部分が残っているが、そんなことはもちろんそんなことにはお構いなしに集音は始まる。
落ち着け、いつもの感覚を思い起こせ、いまビートが狂わなかったか、ブレイク・タイムが短かったような気がする、音が雑だな、次はどんなフィル・インをしようか、思うようなフィル・インにならなかったな、あっ、シンバルを外した。
最初に落ち着けと自分に言い聞かせながら、いろんな思いが渦のように、狭いドラム・ブースを駆け巡る。
何度か録り直すが、制限時間と自分の力量の追いついていないことを考え合わせ、かなり適当なところで手を打つことにする。
そうでもしなければ、無限ループの果てに一つも結果が残らなくなってしまう。

ベースの録音は、なんとエンジニア・ブースで行われた。
たしかにこれだと、プレイヤーはベッドフォンからしか返しの音を聞けないという制約から放たれるし、ベース・アンプの前に立てられているマイクに余計な音を拾わせなくて済む。
だが、経験の浅いベースをエンジニアの目の前で披露するのは、じつに気が引けた。
こういう気持ちもまた、キューが出されると完全無視を決め込むしかない。
レコーディングは音を忠実に記録する。
そして、曲ができたときにはリスナーの誰もが、その音だけを楽しんでくれる。
そこにエンジニアのそばでベースを弾く緊張や、ドラムをたたいている間の葛藤を表してはならない。
ひたすら、できるだけ一心に音を奏で、ビートを刻む。

3時間のレコーディングはあっという間に終わった。
正直なところ、いいものができたとは思わない。
プレイヤーは常に自分の技量を見限らずに腕を磨き技術の向上を目指すものなので、保存されたトラックのリアルな記録のどこかに必ずちょっとした不満を持っているが、先ほどの話のように、どこかで妥協しなければなるまい。
機会があれば、次にもっといいテイクを残せばいいのだ。
それよりも、ここから先に何ができるのかを考えていこう。
ギターとヴォーカル、コーラスは既定路線だが、さらに何をするか。
キーボードをかぶせようか、それともボンゴを入れてみようか、逆回転にしてみてシンバルでもかぶせようか、少しピッチをいじってみようか、効果音を挿入してみようか。
まずい部分を取り去ることより、みんなでそこをフォローしあい、ひとつの作品を作るのがバンドだ。
メンバーが少なく、ひとりひとりが複数の担当を受け持つとしても、その方法論は変わらないはずだ。

さあ、できれば来週、またレコーディングを進めよう!




1月13 日(金)

他所では何度か触れてきたが、自身のバンコクでの音楽活動再開が本格化し始めている。
まだまだ十全な準備に足りない部分は山ほどあるが、そろそろ見切りをつけてレコーディングにかかれそうだ。
そうしないことには、録音はいつまでたっても始まらない、そういうものだ。
今日にでもレコーディングをスタートさせたかったのだが、今は風邪で荒れた喉を癒し、鼻水が止まってしまうのを待っている。
そこで、今回の「ミュージック・ダイアリー」では、自分自身のバンコクでの音楽活動再開への変遷を簡単にまとめてみたい。
「ダイアリー」の名のとおり、これは自身の内省の記録ともなろう。

学生の頃から日本でバンド活動を続けていた僕は、もちろんバンコクでも機会を見つけて活動を継続していくつもりでいた。
それが思いもかけずこんなにも長いブランクになってしまったのは、多忙で時間が思うように取れなかったり、タイに魅入られるあまりに音楽のために費やす時間を惜しんだ時期が続いたりしたこと、そして、そういった期間ののちに、自分自身が音楽への情熱を忘れていたせいだ。
なかんずく大きな影響として、1999年から2002年までの第1期バンコク滞在とその後の大病を経て、僕は自身も周囲もあっと驚かせるほどの、自身の性格変容を経験し、それ以前と以後の価値観に大きな断絶感を抱えていることがある。
ここではその原因探求にまで筆を進めないが、音楽活動だけではなく、人間関係から日々の生活のあり方まで、同じ人間とは考えにくいほどの激しさで、そんな自分にほかならぬ自身が戸惑っていた。
2008年ごろまで、その惰性の中で日々を生き、これからの生活をどう生きればよいのかを暗中模索する日々だったと言っても過言ではなかろう。

こんな心境が揺さぶられたのは、2009年の日本帰省でのことだった。
心のどこかに「タイを去ることになるかもしれない」という思いを持っていた僕は、日本を再確認するため、初めて2週間近くを日本滞在に費やした。
家族や親戚と過ごす十分な時間を確保し、日本での友人やタイで知遇を得た人々にできるだけ会った。
もちろん、かつてのバンド仲間にも。
そして、長年の夢だった、アイソレーション・タンク体験も果たした。
自分の中で、長らく眠っていた躍動――旅行先での一時的になりがちな刺激ではなく、自身を肯定的に捉えようとする心の動き――が目覚めたのが分かった。
アイソレーション・タンクの中で僕が思い浮かべたのは、自身のルーツやこれまでの経験の中に自分に関するヒントが数多く含まれているのだという、啓示にも覚醒にも似た強い確信だった。

タイに戻った僕は、再びバンドを始めることにした。
まずはそこから何かが起こってくるかもしれないという予感があった。
まずは賽を投げてみる。
出だしは上々だったが、数ヶ月もすると自分自身に予期せぬできごとが起こった。
当時のメンバーやヘルパーは誰もが、「自分に新しい彼女ができて、そちらの野暮用とバンドの予定がバッティングした場合には、必ず彼女の用事を優先させる」と公言していた。
孤独になりがちなバンコクでの日々の中、こうした発言はよく理解できる。
ただ、前年にタイ人の恋人と別れたのちには、もう当分女性関係に引きずられるのはこりごりだった僕は、たった一人でも音楽活動を続けると、自信をもって言い張っていた。
そんな僕に、運命の出会いがいち早く訪れた。
それが去年結婚した妻である。

妻は当時、タイでの滞在許可を持たないことで、できるだけ目立たないように息を潜めて暮らさなければならないという困難を窮めていた。
こののち2年以上、僕がそばにいないかぎりは相当に孤独で不自由な暮らしを彼女は続け、僕はお気楽な音楽活動によって数少ない彼女への精神安定剤になる役割を放棄するわけにはいかなくなった。
特に注意を要する外出に関しては99%連れ添い、見守ってきた。
だが、とうとう去年、彼女が滞在許可を得ると、晴れて公然と結婚に踏み切る環境が整った。
さあ、こうしていよいよ、バンコクでの音楽活動は本格的に再始動を始めることとなったわけだ。

バンコクでの活動は、メンバーのポジションから、僕はベースの担当となった。
もともと、ベース・ラインを作るのは大好きな作業だった。
1年間だけだが、学生の頃にベースを担当したこともある。
そのときに買ったベースが日本の実家に眠ったままになっていたので、去年バンコクに持ってきた。
音楽への情熱は、機材によって支えられる部分も大きい。
ベース・アンプも機会をみて手に入れたいと思う。

現在はメンバーが自身以外にもう一人しかおらず、担当ももともとやっていたドラムになるかもしれない。
こちらも今後のメンバーの集まり方しだいになりそうだ。
ただ、メンバー不十分の状態から、まずはデモ音源のレコーディングをしてみようとしている今、自宅でのシーケンス打ち込み作業も含めて、ヴォーカルまで含んだほとんどを自身で手掛けることが先行しそうな様子である。
せっかく揃ったメンバーも、日本への帰国で失うことの多いバンコクのバンド事情だ。
この環境を承知のうえで、できることからコツコツ始めていきたい。
限りなく初心者に近いベースはもちろんのこと、錆びついたドラムやヴォーカルだって、もう一度磨き上げなければ。

目標ができた今、バンコクでの生活はまた違った色彩を帯びつつある。
洪水退避で訪れたプーケットからバンコクに舞い戻ってすぐ、僕は軽い鬱状態に陥ったが、そこから救いの一条の光となってくれたのも音楽活動だった。
温かく、息長く、音楽制作と関わっていければいいなと願っている。





2011年

11月20日(日)
プーケットから戻ってきて3日。
いまだにその日々の延長が自分の中で続いていて、目が覚めるとバンコクにいる自分がまだうまく飲み込めないでいる。
都会の夜、電気を消してベッドに身を横たえると、様々な物音が窓から入り込んでくる。
それらは皆、申し合わせたように、耳に決して優しくない機械音だ。
クーラーの室外機の低い唸りから、車の防犯装置のけたたましい叫びまで。
そして僕は思いだす。
都会という場所は、いろんなことに目をつぶって、無関係にやり過ごして、刺激を刺激と感じないように暮らしていく場所だったことを。

しかし、プーケットにいる間、僕を捉えて離さなかったのはPerfume"Dream Fighter"だった。
いくらアイドルとはいえ、筋金入りのテクノ楽曲である。
それでも、"Dream Fighter"は脳裏にぐるぐるぐるぐると、南の島の風景のあらゆる場面で回り続けていた。
一つには、洪水騒動でバンコクを避難した身として、これからの自分たちがどうなっていくのか分からない不安定さが関係していたのだろうと思う。
「普通」の日々の中で忘れていた思いを振り返るにはもってこいの歌詞ではある。
だが、それだけじゃない。
僕は日頃から、歌詞よりも圧倒的に音に左右される人間である。
どんなによい歌詞を持った楽曲でも、音として優れていなければどうしても好きになれない。

プーケット滞在中、なぜ"Dream Fighter"なのかについては考えなかった。
物事を追求するよりも、あるがままを受け容れるのが、プーケット暮らしには必要なことだった。
雨が降るかもしれないからバイクで出かけるのをやめてしまうような思考方法では、プーケットの何を知ることもできないだろうからだ。

こうしてバンコクに戻ってくると、Perfumeがプーケットの思い出と同じような、きらきら光る存在であることに気づく。
その質や手触りはまったくといっていいほど違う。
プーケットの魅力をここでつらつらと書いてもしかたがないのでほとんどは他稿に譲るが、あくまでそのよさはナチュラルで穏やかなものであることは言うまでもない。
それに対して、Perfumeはテクノであるばかりではなく、アイドルとしても10年選手の、磨き上げられたユニットである。
言わば人工的な加工品としての完成された一つの商品である。
ところが、その人工的なキャリアがもたらすコンビネーションの安定した落ち着き加減が、まさしく耳にきらきらしているのである。

8月1日にも書いたが、80年代ごろから、日本の女性アイドルといえばメインはロリータ路線である。
若いのに芸達者であればそれはそれで話題性は尽きないし、アマチュアっぽければそれも初々しいということでうける。
それに若いから、路線転換などのやり直しも利く。
たしかにこの方法は業界にとってもリスナーにとっても好条件が揃っている。
だがその一方で、僕たちは「歌謡曲」が持っていた何でもありの雑食的な冒険志向や、それに負けないだけのアイドル本人の力量に触れる機会を失ってきた。
アイドルたちにとって冬の時代だった90年代には少し旗色が変わったこともあったが、80年代の素人アイドルの極致であったおニャン子クラブをプロデュースした秋元康がAKB48でまたもや席巻した現在との間に、ロリータ路線に関する大きな開きはない。

Perfumeはその意味で、まったく異なる位置づけにあるアイドルであることは、みなさんもご存じのとおりだ。
広島のローカル・アイドルから出発し、ブレイクまでの長い下積みを経て、木村カエラなどプロの側からの賞賛を勝ち取った彼女たちのあり方は、長らく僕らが忘れてきた、本当に力のあるアイドルとしてのそれである。
だからこそ、彼女たちの歌声にしてもダンスにしても、一朝一夕には得られるはずもない充実感がある。
そして、このようにしてブレイクしたものだけが持つ喜びが聴こえてくる。
きらきらの正体はそれだ。
3人の伸びやかな声や肢体には、プーケットの陽光と同じ眩しさが、プーケットの風と同じ爽やかさがある。
そして、テクノという未来を持ったフォーマットが、彼女たちを支えている。

これからも僕の中で、プーケットと聞くとPerfumeが連鎖反応として出てくることだろう。
思い出と結びついた音楽は、いつまでもその輝きを失わない。




11月11日
ムーンライダーズの活動無期限停止が報告された。
プーケットでバンコク退避生活を送っている11月11日。
ちょうどタイで「ローイ・クラトーン」を祝う日のことである。
ラワイの月明かりは息を呑む輝きで僕たちを照らしていた。
そんな満月の月夜に、彼らの活動停止の報に触れたのだった。
ついでに言えば、僕は同時に、月がストーリーの大きな要素となっている村上春樹の「1Q84」のハード・カヴァーを読み返していたところでもあった。
それはさておき、月光下騎士団、彼らはあの月のもと、海の彼方へと向かおうというのだろうか。

僕はこのバンドにこれまでどれほど心を動かされ、考えさせられ、影響され、音楽の素晴らしさに身震いさせられたことだろうか。
それをどれだけ言葉に直しても、決して足りることはない。
あるときには抱きしめたいと思い(メンバーの皆さんにすれば気持ち悪いだけ…)、あるときには教師のように敬ってきたムーンライダーズ。
彼らと出逢った浪人時代から、僕は本格的にポップ・ミュージックとは切っても切り離せない自分を抱えることになった。

引退というにはまだ早いし、今後のソロ活動などへの支援も彼ら自身が呼びかけている。
それに、これは解散宣言ではない。
ファンというのはいつまでもどこまでもわがままなものだ。
命あるかぎり、彼らがムーンライダーズの一員であり続けてほしいと願っていた。
だが、1986年の「ドント・トラスト・オーバー・サーティー」から1991年の「最後の晩餐」までの長い活動休止期間中に、自然消滅が囁かれたものの、見事に復活してからの彼らのバンド活動にこそ、僕らはありがとうをもう一度言うことが大切なのかもしれないとも思う。

バンドにはそれぞれの事情があり、個々の思いだけではどうにもならないことが山のようにある。
ましてや、日本最長のバンド歴となると、僕たちには想像もつかない。
けじめをつけたいという思いは、先述の1986年からの長期活動休止から、いっそう彼らの胸に中にはっきりあったのではなかろうか。

ありがとう、ムーンライダーズ。
もしかするとこれが最後になるのかもしれないけれど、さようならはあななたちにあまり似合わない気がするので。




10月16日
黄さんの歌声がカラオケ・ボックスいっぱいに広がってくる。しなやかでいながら芯の太い彼女のあの歌声が。

「黄さん、歌、うまいんだよ」隣の家惠が店に来る前に話していてくれたとおり、いや、そんなレヴェルじゃなかった。なにしろ、カラオケで「あ、この曲、あなたの買ってたCDに入ってる曲だよ」と教えられた"It's a Party"は、日本に帰国したのちに聴いた李王攵(ココ・リー)のヴォーカルの腰がいかに弱いかをまず感じさせたのだから。黄さんの歌は、この曲が醸し出す都市生活の華やかな側面だけでなく、同時にその空虚さも伝えていた。

家惠は高雄でできた初めての友達だった。フリー・ペーパーの取材で知った名を頼りに辿り着いたバーの階下で知り合い、僕が駅前のぱっとしない宿で腰を据えようとしているのを知ると、両親のいる家に招いてくれた。妙齢の若い男で、しかも国籍まで違う胡散臭い突然の訪問者を、なぜか家惠の両親は黙認し、部屋をひとつ与えた。それから高雄にいる間じゅう、僕は彼女の携帯電話のアクセサリーとなって、その傍らをほとんど離れることがなかった。お互いのトイレ休憩と、鬱陶しそうな電話のあと、しばらく知り合いに会ってくると彼女が言い残してカフェを去るとき以外は。

カラオケ・ボックスには実に多くの訪問客がいた。これは、その店がいかに繁盛していたかという話ではない。僕らのいる部屋の扉を、少なく見積もっても20人以上の来訪者が入れ替わり立ち替わり開けていったのだ。ある者は1曲歌い、ある者は軽い立ち話を済ませ、そしてある者はしばらく誰かの隣に居座りを決め込んだが、誰一人僕らとその後の行動をともにする者はいなかった。部屋に入ってくる姿はそれぞれに違ったオーラを纏っていたが、出ていくときには夢かと見まごうほどに一様な背中をしていた。そして、その誰もが男だった。こんなにも街に顔見知りがいる彼女たちは、僕の想像以上に遊び人なのかもしれないし、高雄がさほど大きくない街なのかもしれない。台湾では日本で想像もつかない若者たちの広域なネットワークが常識となっているのかもしれない。初のアジア旅行に酔いしれ、フリーペーパー取材で街でのコミュニケーションの拡大に鼻息の荒かった僕には、すべてが世紀末の新鮮なアジアの脈動だとしか映らなかった。

2011年のバンコク。洪水のニュースばかりが繰り返されるテレビのスイッチを切り、iPodをランダム選曲にてプレイ・ボタンを押した僕の鼓膜を、"It's a Party"が震わせた。目を閉じると、薄暗い無機的なカラオケ・ボックスに黄さんがいて、マイクを握っていた。もちろん、僕の隣には家惠がいる。あのときのざわめきが曲を包む。線の細い李王攵の歌声は、遠ざかるにまかせた記憶の断片を表現するのにはぴったりだった。きっと、李王攵はそんな事態を予想していたのだろう。

家惠たちと知り合う前、台北のライヴ・ハウスで知り合ったョさんの家にも、僕は招かれていた。彼の父は某銀行の東京支店長で、彼自身も日本に語学留学の経験がある。郊外のゆったりしたユニットのマンションには、目映い朝の日差しが似合っていた。春節のご馳走をふるまってもらった夜、早朝に高雄に到着するバスに乗り、次の夕方には家惠たちと杯を高くさし上げていた。若く、無鉄砲な日々。それはまた、思い込みの勝った無神経な期間でもあった。NHK教育からロードショー番組にチャンネルを替えるくらいの気持ちで、街の様々な日常に異邦者として登場した僕は、これまでの勝負の流れやプレイヤーの手持ちカードなどお構いなしに、不意にゲーム盤にチップを置いた冷やかし客でしかなかった。多くの物事にはそのとき、その場にしか理解の鍵はないものだが、いくつかの限られたことだけは時間の篩をかけ、経験を経たことで見るとことができるようになる。

偏見や先入観に捉われることなく、自身の心の赴くままの行動が起こした影響をあるがままに受け容れながらそこはかとない興奮を覚えることができたあの青春という恥ずかしい名を持つ季節を、僕も眩しく感じる。あの頃さんざん抱いた自己嫌悪や劣等感までもが、今となってはシュガー・コーティングされている。だが、そのむやみな猪突猛進にあぶれた、彼ら・彼女らの背負っていたはずのたしかな重みは、今になって手のひらに感じられるようになった。ちょうど、透明で柔らかく、渇きを癒してくれる水という存在が、ひとたび量を増すと暗く濁った重みであらゆるものを呑みこみ、その洪水の水面下にすべてを沈めてしまおうとするように。

"It's a Party"は名残惜しそうにフェイド・アウトし、若者たちの独壇場である夜の終わりを告げていた。ミラー・ボールのフェイクな輝きが止まってしまった店を出れば、そこには白んだ鈍重な夜明けがあるだろう。人々は過ぎ去った時間に少し思いを馳せたり、からだが重いと感じてみたりしながら、それぞれの現実へと帰ってゆくだろう。それでもときどき、夜の帳の中にいる時みたいに叫んでみたくなるんだ。「俺たちは明日なんて見なくてもいい! 今を、この瞬間を生きるんだ!」

※ 李王攵の漢字表示ができないため、おかしな表示になっています。2字目はおうへんにのぶんです。




8月1日(火)
〜今回の「ミュージック・ダイアリー」は、今のJ-POPシーンからほとんど取り残された一人の浦島太郎に、竜宮城から戻った陸上の世界がどう映ったかを綴った手記です。

 タイム・トラベルは旅好きな人間でなくとも、できれば体験したいと願う究極の旅であろう。ここ数日、僕はそれを音楽で味わった。

正直言って、今の日本の音楽シーンのことはほとんど知らないままだった。
音源が手に入りにくいことや、普通の暮らしの中から聞こえてくる「いいもの」の情報がほとんどないことが、もちろんその大きな理由。
偏食なくポピュラー音楽を聴くのが僕のスタンスだが、ヒット・チャートから流行歌ばかりを聴くというのは、どうしても性に合わない。
だが、音源にせよ情報にせよ、海外から捕まえやすいのはヒット曲や有名ミュージシャンのものになってしまう。
街に出てCDメガ・ショップにある試聴機を冷やかしたのち、お気に入りのカフェで常連たちと「最近のフェイヴァリットは何か」と話に花を咲かせ、帰りの電車で買ってきた音楽雑誌を拾い読みして、自宅でエア・チェックができるような日本という環境で音楽と接してきた以上、いまさらオリコン・チャートとにらめっこする気にはなれないし、かといってネットで情報を集めても、その割に実りが少ないような気がしてならない。

ふとしたきっかけで、先日から「ミュージック・ステーション」や"HEY! HEY! HEY!"といった日本の音楽番組を集中的に見る機会ができた。
おそらく、日本から送ってもらった紅白をちゃんと見た2001年以来のことだと思う。
まずショックだったのは、やたらと懐メロ映像が多かった点。
視聴率を考えると、ベビー・ブーム世代を狙った番組製作に偏らざるを得ないという話は聞いていたし、たしかに現在引っ張りだこの売れっ子ミュージシャンを招いての番組作りに比べて費用面・スケジュール面・製作面などで負担が軽いこともあろうが、これほどまでとは。
僕もそれなりには楽しめたけれど、ずっと観ていると疲れる。
もともと音源としては貧弱だし、さほど新しい発見もないので、ただ「懐かしいな」という気持ちの反復に過ぎなくなってしまうからだ。

そこで、「ミュージック・ステーション・スーパー・ライヴ」である。
ここには「現代の日本」が詰まっていた。
ほとんどが、僕のまったく知らない日本の風景だった。
メンバーが増えたEXILE、年齢を重ねたゆずL'Arc〜en〜CielKinKi Kids、復活したDreams Come True、初めて動く姿を観たいきものがかりaikoAKB48、実は初めて歌っている姿を観た
まったく、僕にとってはさながら玉手箱そのもの。
時が一気に10年先にワープした。
出場メンバーの話だけではない。
ステージ・セットから全体的な音楽潮流まで、日本が僕にとっての空白の10年の先にどんな流行に辿り着いたのか、その一部がディスプレイを飛び越えて部屋に充満した。
そして、ぼんやりとこんな感想に包まれた。

@ 日本のヒットはヒップ・ホップ系テクノ系だけが進化を感じさせ、それ以外では緩やかな退行(そう言って語弊があるならレトロ・フューチャー)傾向にある。
A K-Popガール・グループの隆盛は、ちょうど日本の流行の風穴にある部分に当てはまりそうだ。
B ロック系のグループをほとんど見かけなかった。
C ニュー・フォークを中心に、癒し系の音楽が一定の地位を得ている。

@については以前、2004年のこの日記に書いた、UsherAlicia KeysのPVに触れたときの感想と似たものだ。
音やリズムとして、テクノロジーの進展とともに発展を遂げるヒップ・ホップやテクノが先進性を感じさせるのは、当然といえば当然のことだが、元来ロックやポップス自体がそうした技術革新によって脱皮を果たしてきたこともまた真実で、Bを含め、90年代というセンス第一主義の時代を経て、ロックやポップスの様式美化は一層固定してしまったように感じる。
一昔前のヴィジュアル系の台頭は、そういった時代性を物語っているのだろう。
ロックやR&B、ジャズなどはすべて黒人音楽に端を発しているとされる。
「先見性」というより音楽に対する「衝動」を、よりリアルな音楽的皮膚感覚として黒人が胎内に宿しているのは、間違いがないと思われる。
だから、ヒップ・ホップの隆盛は時代の流れゆく方向として、理解できる。
また、テクノは「その時代に鳴らすことが可能になったテクノロジーの最先端」としての刺激を最大限に表現することのできるキャンバスである以上、今後の伸張も間違いのないところであろう。

Perfumeが突出して見えるのは、こうした背景が大きかった。
アイドル=ポップス楽曲でありながら隙間のないテクノであるその立ち位置。
従来アイドル歌謡は話題性や楽曲のヴァラエティーということで、テクノをつまみ食いしてきた。
しかし、Perfumeは明らかにテクノの土壌でアイドルを成立させるというスタンスを取っている。
この図式は80年代にジューシィ・フルーツでも見られた。
だが、ジューシィ・フルーツのコンセプトは、まだキッチュな「ピコピコ・ミュージック」であった創世記のテクノの音を逆手にとって、素人たちがそのアマチュアリズムを全開にして楽曲にパッケージしたところにあった。
この点で、Prefumeはダンス・スタイルともども、生身のアイドル性を支える屋台骨であるヴォーカルそのものが音声処理されていることが、その決め手となっており、よりテクノそのものを軸足に据えている。

また、彼女たちのルックスがさらに独自の位置を保障しているとも感じる。
基本的に日本のアイドルはロリータ路線がメインであるが、それは清純無垢な偶像を維持するための折り紙でもあろう。
だから、20代をある程度過ぎると、女性アイドルはセクシー路線を採りがちだ。
そうでなかったとしても、年齢と睨み合わせた「大人の女」を打ち出すことは必然に近い。
まだ現時点ではPerfumeの3人はその過渡期に位置する年齢ではあるが、まったくそのどちらにも属そうとはしていない。
むろん、前述したようなテクノに立脚したアイドルとしての立場がそうさせているとはいえ、スレンダーな彼女たちの肢体は現代日本の風穴に近い位置にあるように思う。
それというのも、セクシー路線のアイドルはもはや完全に下火であり、大人の女路線は圧倒的な楽曲が揃ってこそ完成するので長続きしにくいからだ。
すらっとした20代女性の活躍の場は現在、非常に限られていると言っていいと思う。

この話の延長線上にAがあるように見える。
スレンダーな女性とくると、美形というイメージが重複する場合が多いが、この手のアイドル受難時代にあって、Perfumeが独自の場を得たように、何がしかの付加価値が売れるための要素として必要なのであれば、K-Popという異国要素と、世界中で日本人に最もよく似たお隣さんの国のルックスが備わった少女時代KARAが持て囃されることがよく理解できる。
しかも、この異国要素というものが清純イメージを日本人に対するそれと同一な視線を許さないものにする。
日本ではもはや19を越えると、「清純なままではいられない」という含みが感じられなければ「いい歳して…」と言われがちだ。
その点で、海外から入ってきたアイドルに対しては、ほとんどないものと言っていいほどにその中傷のガードが下がる。
韓流ブームで下地が作られ、経済成長した国で音楽性が向上した韓国アイドルがブレイクすることもよく解るし、東方神起を代表とする男性グループがまず人気が高まる=女性ファンの側からまず流行が作られるという図式も頷ける。
さらに、@について述べたように、現在の音楽シーンでエレクトロニカ系がポピュラー・ミュージックを切り拓き、受容されていることを考え合わせると、もともとロックよりはるかにダンス・チューンと甘ーいバラードが主軸であり続けてきた東アジア・東南アジアに多少の歩がある。
実際、同様の音楽傾向を持つタイやヴェトナムでも韓国グループは大きな人気を得ており、こうした国際認知が日本での人気に還元される部分もあるのではないかと思われる。

最後に、Cは先鋭化していく時代の音の反動として捉えられるが、元来この種のヒット曲はいつの時代にも当然のように存在している。
それを現代と重ね合わせた場合、経済的発展の先の生活に先行きの見えないぼんやりとした不安を持つ先進国社会が、よりハートフルな音楽を聴きたいと願っている証であろうことは、誰でも容易に想像がつくはずだ。
ギター1本で成り立つフォークというジャンルは、最もアグレッシヴだった1960〜70年代のプロテスト・フォークの時代でさえ、常にこうした原点への立ち返りを促してきたとも言える。
ただ、コブクロやゆずがその透明感の高い歌唱と青春歌謡然とした爽快感を前面に押し立てるのに比して、相変わらず沖縄出身のミュージシャンが奏でる音は素直な底力を垣間見せ続けてくれている。
縁の下の力持ちということわざは、いかにも日本人好みのフレーズだと思う。
自分が成したことを華やかにアピールするのではなく、分かる人にだけ分かってもらえればいいというのは、ファッションから職場での仕事ぶりまでを貫く日本人ならではの美学だ。
音楽でそれを最も表現することができているのは、沖縄出身のミュージシャンではないだろうか。
その秘訣は、居間に三線が置かれているような生活――音楽と戯れることが、飼い犬と戯れることとほとんど同義の近さにあることではないだろうか。
この意味において、沖縄出身者の奏でる音は、見事に先祖と繋がった原点回帰を含む音楽になり得ており、フォーク音楽の中心に位置づけられるべきものだと、僕は見ている。





2010年

12月4日(土)
 目から鱗の瞬間。これまでにも音楽には多種多様な衝撃を味わわせてもらってきたが、今回は意外なところからアッパー・カットをもらった。

 シャン州のタイ族のポップスといえば、日本人の耳にはどうしても時代がかったように聴こえる曲ばかりであった。それらの曲は、タイと中国の双方からの影響を感じさせるミクスチュア性が面白いともいえるし、僕らが時代の流れの中で失ってしまった温かみや伸びやかさを感じさせてくれるという側面もある。それに、音楽といえばCDではなく生演奏で聴く人がほとんどだというシャン州タイ族の経済状況も、その楽曲の存在価値に大きな影響を与えている以上、現地でのライヴ体験がないかぎりは、僕にそれらのポップス曲に対する正当な価値は与えられそうにない。

 しかし、そんな能書きを吹っ飛ばしてくれたのが、You Tubeで触れたチャイ・サーイマォのいくつかの曲。彼の活躍はもう20年ほど以前からになり、老若男女を問わずその名を知っているというから、タイでいえばバードことトンチャイ・メークインタイに似た存在ではないかと思う。なにせ外国人に開かれた地域ではないので情報も少ないが、自身で作曲し、ギターも弾くシンガーソング・ライター的な活動をしていることはかろうじて知ることができた。

 「グン・カム・マイ・2」には参った。タイでいうと「グン・トーン」にあたり、金銭という意味である。「カネのある人間は、死んでも豪華な棺に入る。貧乏な人間は死んでもお粗末」というような歌詞であり、タイのように愛の歌一辺倒で、そのほかといえばプレーン・プア・チーウィット(命のための歌、という意味で、社会的なメッセージを込めたフォーク音楽)くらいしかないタイ暮らしの身には、かなり新鮮な響きである。そして、そのアレンジ・センスがまたすごい。裏拍を意識したリズムが極めてユニークである。裏拍子といっても、レゲエのように角張らず、かといってボサ・ノヴァのようにアンニュイに過ぎず、飄々としていながらすっとぼけた音像が楽しい。ヴォーカルの押しが弱くて、ミックスでも音量を絞り気味だが、これだけバックの存在感が強いとあまり気にならない。

 サーイマォの音楽はこのほかにも、活動歴の長さに比して数多いようだ。他人への提供曲は、他のシャン・ポップス同様、愛をテーマにしたものばかりだが、彼自身が歌うものはこれとは反対に様々な題材が採り上げられており、その広がりが頼もしい。中には変拍子が際立ったプログレ的な曲もある。今後もタイ族に新鮮な息吹を吹き込み続けてほしい。それとともに、僕も彼のライヴに接する機会があればと願っている。





11月14日(日)
 タイに暮らし始めてからというもの、技巧派プレイヤーの熱演にやられっぱなしだ。これはおそらく、あまりにもベタベタな演奏の多いタイ音楽を耳にする機会が多いことの反動だろうと思う。ただ、技巧派といっても、フュージョンやメタル系にはこれまでどおり、あまり食指が動かない。フュージョンはあまりに順風満帆すぎるし、メタルはでしゃばり過ぎている。

 ずばり、Tin Pan Alleyがここ数年、僕のフェイヴァリット直球ストレート。大瀧詠一の"Niagara Moon"を筆頭に、Tin Pa Alley自身の"Caramel Mama"、細野晴臣のチャンキー3部作"Tropical Dandy"「泰安洋行」「はらいそ」、荒井由実の「ひこうき雲」"Misslim"あたりは、記録容量の少ない僕の古い型のiPodからも消されることのない定番である。日本で彼らに並ぶ感覚のグループといえばやはりMoonridersだろう。ただし、彼らが持てる力量の限界に挑戦していたのはアルバム"Nouvelles Vergues"まで。この頃の演奏も楽しいが、これ以降のセンス勝負のオブジェクトのような楽曲での音の拮抗感も素晴らしい。バンドから離れると、矢野顕子の存在が大きい。なにせ16歳のデビュー・アルバムで絶頂期のLittle Featをサポートに迎えてレコーディングし、彼らに「僕らは十分なものを提供できなかった」と言わしめた彼女のこと。ポップ感覚を失わずに音楽と戯れる彼女の演奏は、いつ聴いても鳥肌もの。

 洋ものでは、まずSteely Danが浮かぶ。彼らのドライでクールなテイストは他に類を見ない。よく知られている、後期の彼らのアプローチ、曲それぞれに合わせてスタジオ・ミュージシャンを選考したという念の入れようは、器楽演奏の極致を聴きたい耳にはうってつけである。それから、絶対に外すことができないのがFrank Zappa。彼のバンドからどれだけ優れたミュージシャンを輩出したのかというほど、その技術の高さにかけては定評がある。そもそもポピュラー音楽の範疇で自らの音楽表現を括ったことのないザッパのことであるから、バンドに要求されるクオリティーは尋常ではない。また、技巧でいえば必ず挙げられるジャンルとしてプログレがあるが、大作主義が前提となりやすいプログレは、そのほとんどが重苦しいテーマを持っており、楽曲の熱を楽しむうえで暗雲垂れこめるテーマに邪魔をされることが多いのだが、Yesはその点で演奏を楽しみやすい。もともとビートルズ的な志向性から始まったバンドだけに、曲それぞれの芯がしっかりしていて馴染みやすく、からっと明るいので演奏が突き抜けて聴こえる。ブラック・ミュージックでは、少し意外に思われるかもしれないが、Stevie Wonderを挙げたい。彼の初期リーダー・アルバムは、ヒューマン・ライクな彼の音楽性と演奏の熱さの触媒が有無を言わせない。

 こうやって眺めてみて思うのは、いかに70年代がこの熱演ジャンルにおいて重要であるか、である。いずれのミュージシャンも70年代にひときわ大きな光を放った人たちばかりである。80年代以降は、ポピュラー音楽はとにかくセンス勝負だという側面が強くなった。そのパッケージングを楽しむあり方は、とりもなおさず都会生活の反映である。ただ、「本物の職人」に憧れる気持ちもまた、都市生活での本音であろう。そんなことをぼんやり考えながら、またiPodをプレイしてみる。





2009年

10月18日(日)
 どうもSimon & Garfunkelの歩が悪い。一般的にはヒット・メーカー的な捉え方が多いように思う一方、初代ミュージック・マガジン編集長の中村とうよう氏がPaul Simonのソロ時代のスタンスを「音楽的な植民地主義」と揶揄したり、小声でぼそぼそとした歌い方が鼻もちならないと発言したりといったマスコミからの声の印象もある(こうした声は日本だけのものではない)。いわゆる「オシャレ」な感覚もあって、ロックが席巻した時代には槍玉に挙げられる要素は確かに多かろう。僕自身も、フェイヴァリットの範疇においては彼らを聴いてこなかった。

 "Bridge Over Troubled Water"におけるArt Garfunkelの名唱はつとに有名だが、どうやら僕はこれまで、彼らの表層的な部分しか聴いてこれなかったのだなと近頃感じている。あまりにもストレートなバラードに、どこかしら僕には照れがあったのだろう。そういうノイズは、歳を少しだけ重ねて消し去ることができた。ヴォーカリストとしてのアート・ガーファンクルがここで果たしている、器楽的で透明な音響感を湛えつつ、歌唱でなければ絶対に表現することのできない感情の高まりや紅潮の余すところない表現は、筆舌に尽くし難い輝きを放っている。だが、サイモン&ガーファンクルがその後活動を停止したのは必然であろう。この曲には彼らがフォーク・デュオである理由などもうどこにもないからだ。他にも、サイモンとガーファンクルが互いにコンプレックスを抱きあっていたとか、ガーファンクルが映画に色目を使い始めたとか、さまざまな、音楽以外の面での理由が囁かれているし、そうした声には真実もあるのかもしれない。だが、音楽的な面で彼らがお互いに抱えるものが擦れ違っていることは、この曲とサイモンのその後のソロ作を比較すれば一目瞭然である。その別れのアルバムとなった主題曲が「苦しみの中にあるとき、僕はその荒れ狂った川の橋になろう」という友愛の詞を伴った楽曲となったことに、それが偶然であったにしても、喝采を送りたい。

 その耳で聴けば、彼らの曲はフォーク、あるいはフォーク・ロックという範疇で、抒情性にだけ流されず、かといってプロテストに傾くわけでもなく、時代に流されない自身の歌曲世界を作り上げ、表現力を拡大していったことを再確認することができた。"Mrs. Robinson"での生ギターのドライヴや、サビの部分でバックの音をギター・リフだけにすることによって緊張感を高めた"A Hazy Shade of Winter"での手法、"Scarborough Fair"でのモード旋律の美しさなど、これまた素直に楽しむことができるようになった。



1月14日(水)
 長い間、ムーンライダーズのクラウン時代のアルバム中では"Nouvelles Vagues"は、僕には最もピンとこないアルバムだった。"Istanbul Mambo"までの祝祭的なムードが消え、"Modern Music"以降のデカダンスを湛えたニュー・ウェーヴの範疇にも入らず、なんだか中途半端なポピュラー・ミュージック・アルバムである印象だった。

 それがひっくり返ったのは、コンピレーションである"Caramel Papa"を聴き返したときに、彼らのたった1曲の収録曲「マイ・ネーム・イズ・ジャック」のリマスタリング・ヴァージョンが収録されていたからだった。メロウなグルーヴ感を押しだしたこの企画盤での音像は、この時期のムーンライダーズが純粋な意味でのバンドとして輝いていたことを教えてくれた。1500円の復刻版LPを安物カセット・テープにダビングして聴いていたときには判らなかった、新しいギタリストとして白井良明を迎えたメンバーの結束力が、複雑なアレンジをものともせずに嬉々として聴こえてくる。

 音を16ビートに分割して禁欲的にすら感じられるアレンジが、エンディングでタンバリンに導かれながらブレイクし、ボトル・ネック・ギターとフルートのアーシーでいながらスタイリッシュなリードで終わっていく疾走感がたまらない。





2008年

2月7日(木)
 "Chotto Matte Kudasai"という曲がある。オリジナルはサム・カブーというワンヒット・シンガーのものらしいが、それとは知らず、僕はサンドパイパーズのヴァージョンで知った。

 タイでの生活でたまたま触れるようになった曲というものも、数は少ないが存在する。日本は音楽マーケットとしては素晴らしく多様なので、いろんな曲・アルバムが夢のように手に入るが、その分だけ印象に薄くなる傾向があると、僕は感じている。その点、たまたまバンコクのラテン・バーであまりうまくないバンドが演奏していた"Can't Take My Eyes Off You"(Frankie Valli)などは、このぶんだと原曲はかなりいいに違いないと確信して、誰の曲なのかわからないままに探し歩いたことが思い出に焼きついている。こんな曲との出会いのひとつに、"Chotto Matte Kudasai"はなった。

 僕はこれまで「60年代ゴールデン・ヒット集」といった類のコンピレーションに手を出したことはなかった。十把一絡げの寄せ集めでしかない気がしていたからだ。しかし、バンコクで安く手に入る洋楽アルバムとなると、こうしたものがどうしてもノミネートされる。ならば、音楽の多様化が進んだ70年代以降のものを避けて、60年代モノを買ってみてはどうだろうと、失敗覚悟の軽い気分で求めたのだった。
 メロディー、コード進行、歌詞、どれをとってもありきたりなもかもしれない。いや、しかし、だからこそ切ない。まだ日本という国が東の果てにあるエキゾチシズムを湛えた幻のような国であった頃の、はかなくて壊れやすい桜の花びら一枚のように繊細な眩しさがここには記録されている。そのほとんどすべては、気づけばあっという間に時の彼方に押し流され、僕たち日本人自身が日本人であることを忘れたように暮らしている。こうして異国に暮らすうちに、僕は「母国」という意識について考えを巡らせることがずいぶん多くなった。そのせいか、僕にはここで歌われる"Sakura"が女性の象徴でも花そのものでもなく、消えゆく「日本らしさ」そのものであるように思える。

 ここでは「行かないでほしい」「愛がないと私は死んでしまうだろう」と主人公は訴えているが、「ちょっと待ってください」のあとには「私が涙を流している間は」と続く。去ってゆくものをどうすることもできず、ただ涙するしかないことを男は知っている。かつて米国人が歌い上げたもろくてはかなくも美しい幻の日本を、今度は日本人の僕らが涙する番がやってきた。


Chotto matte Kudasai
Please Excuse me while I cry
Seems Sayonara means good-bye
But no one never told me why

Sakura was in the spring
When our hearts found songs to sing
But sakura has gone away
And so has our love, so they say

Chotto matte kudasai
Please excuse me while I cry
Without our love, I would die
Never leave me kudasai

Chotto matte kudasai
Please excuse me while I cry
Without our love, I would die
Please never say good-bye

作詞・作曲 : Jeanne Nakashima・Loyal E. Garner





2006年

11月2日(木)
 今でも「タイで最も好きな曲は何か?」という問いに、「チュアモーン・トン・モーン」を真っ先に思い浮かべる。音楽には個人的な思い出があれこれとつきまとうものだが、この曲はある時期からまさしく僕のタイ生活でのライフ・ミュージックとなっている感がある。

 会社の元同僚であるきょうぼうさんと一緒にこの店に立ち寄ったときに、僕はこの曲を買い求めた。そのときはちょっと大きな病気の療養の真っ最中で、その数日前までは病院のベッドで寝ていた。きちんと療養しなければならなかった僕は日本に戻り、冬に入ってゆこうとしていた日本でまさしく冬眠のようにひたすら眠り続けたが、傍らでかすかに聞こえる程度のヴォリュームで聞きつづけた。全快してからは普通の情緒が戻ってきて、激しくタイが恋しくなったとき、ヘッドフォンにしてこの曲を何度もリピートした。または、この曲を聴いて激しくタイを思った。
 その年の秋、筆まめで気配り上手なきょうぼうさんからメールが届かなくなった。励ましの意味を込めて、僕は彼女に「チュアモーン・トン・モーン」の入ったアルバム、「マジック・モーメント」を送った。聞いてくれる機会があったのかどうかは、今となっては確かめようもない。翌日に来るクリスマス・イヴを迎える期待感に誰もがほんの少し浮き足立った日、彼女は永遠に年齢を止めた。
 それからまもなく、僕はタイにまた戻ることになる。日本人には非日常的だとしか言いようのない日々が足をばたつかせ駈けてゆく中、洗濯のBGMに聴いているのは、やはりこの曲だった。フライデーのヴォーカル、トライ・ブミラッタナーの甘く震えるような優しい声は、プレイ・ボタンを押せばすぐに部屋中を包み込み、切なく苦くも甘酸っぱい温かみでいっぱいにしてくれる。

 以前からタイにも「いい曲」は山のようにあった。だが、ここ最近のタイはぐっと微妙な陰影をつけたデリケートな表現を獲得し始めている。新しい空に向かって羽ばたき始めたタイ・ポップス。きょうぼうさんの夢を背負ってより高く、より遠くまで飛び立ってほしい。





2005年

5月30日(月)
 歌は世につれ、世は歌につれ。所変わってここ、タイはバンコクであっても、流行り歌は世の鏡。僕がタイ・ポップスを聞き始めてからという短い期間の中でも、両者は歩を同じにした。

 98年、タイにはまだ、バック・パッカーを惹きつけるだけの、両手で抱えても余りあるような自由さがあった。その頃南タイのハジャイではディスコ・バンドがターター・ヤング「オー…オイ」モーメー「チョック・クラ・ディック・チョック・クラ・ドゥック」を毎晩披露して、僕はこの国の発展途上を感じた。その音の感覚は、自身が70年代後半から80年代にかけて触れた耳障りを持っており、タイム・スリップを味わった気がしたものだった。

 99年、ウー・タナトーンはそれまでの路線を捨て、ポップスを歌ったことで「フアチャイ・クラダート」を大ヒットさせる。この曲は、ウィンウィアン・ヤイにタイで初めてのアパートを借りたときによく聞いた。スコール明けの陽光はこの曲を今もイメージさせる。ニコルを「ぶりっ子」だなんて死語でからかう連中がいないタイは、居心地がよかった。

 2000年。前年末BTSが開通し、この年は華やかでカラフルなイメージがバンコクを覆った。ニース!"kiss"はそのBTSでジャケット撮影しているが、彼女たちの属するレーベル、ドージョー・シティーにはトライアンフス・キングダムHなども素人風でコケティッシュなヴォーカルを聞かせてくれた。

 01年、ここまでがまだタイという国の中にバンコクをカウントしてよい年だった。タクシン政権は固まっていたが、彼らはまだ改革には乗り出していなかった。僕のタイ・ライフもこの時期ピークを迎えていた。音楽よりも何か他のものに夢中になっていた僕には、この頃の歌の記憶がない。

 02年、いよいよタイはまたひとつの大きな分水嶺を越える。オープン・エアー以外の店での喫煙が禁止され、店の夜間営業が取り締まられ、これまでの「喉下過ぎれば熱さを忘れる」タイとは違い、徹底した管理が支配するようになった。タイ愛国党は独裁政権化し、タイ・ポップスはこの頃からsmallroomを代表とするセンスで勝負のインディーズの急速な台頭が目立ち、これとは反比例するようにスターダムでのビッグ・ヒットのつまらなさが露呈するようになった。パーミー「ヤーク・ローン・ダン・ダン」はそんな時代が生んだ最後の輝きのようであった。

 03年、僕は日本に帰国している。家でリムジンホアランポーン・リディムといったインディーズのコンピレーションばかり聴いていた日々。そんな年末、タイでの僕の同期であり、日本帰国の師匠でも会った女性が闘病の末亡くなった。彼女にも贈ったフライデー「マジック・モーメント」をリピートで聴く年の瀬は透明で冷たすぎた。

 04年、バンコクはもうすでに僕の知っている建物や店や、そして何よりもタイらしい影が薄くなっていた。そして南部テロは悪化の一途をたどり、それをカラバオが取り上げることもなく、タクシン政権は2期目を無事に奪取する。もうかつての底抜けの前向きさはポップス内には残ってはいないが、エンドーフィンがエレピの音をモダンレトロに巧みに取り込んだ「プアン・サニット」が実力どおりのヒットを飛ばしていた。

 05年も半分が過ぎようとしている。タイの動向が固まったと同時に、ポップスも固まったような気がする。触角みたいな飾り物をつけたカチューシャ姿で奇を衒ってデビューしたブライオニーが髪をばっさり切って貧血気味の少年みたいにイメチェンした頃の、切なくかつひたむきなヒット曲をたまたま手に入れて、僕はそんな思いを強くしている。自由な頃の歌はまっすぐで胸に痛い。僕はそんな歌を失って日本で生きてきたが、タイで再びそれに出会い、そしてまた失くした。
 あのブライオニーはセンスとハイソ感あるアジアのスターといった風情で日本にも紹介され、ターター・ヤングはビッチ風にイメージ・チェンジして日本での知名度まで手に入れた。彼女が欲しくても届かなかった国際的スターという認知も、かつてのタイでは及ばぬことが当然のように誰もが思った。得ることに慣れると失うのが怖い。だが、得ることに慣れるそのこと自体が本当に大切なものを知らず知らずに失わせていることを、当事者は気づかず時を駈けてゆく。




2004年

11月15日
 ユニコーンはつくづくビートルズだったんだな、と思う。

 二人の大きな才能という最重要な部分は奥田民生が一人で持っていかなければいけなかったが、アイドル的ビート・バンドとしてスタートしながらサイケに突入。一気に他と一線を画すポジションへとシフトしながらも、決してポップさを失わずにバンド人生を駆け抜け、音を何よりも楽しみ、そして草臥れた。その後、ロッカーとしての独自のポジションにキャリアを重ねてゆく奥田民生の姿もどこかしらジョン・レノンのそれに似ている。

 もう一つ、日本でビートルズに似たバンドといえば、はっぴいえんどがそうだったろう。はっぴいえんどが日本語のロックの幕開けを飾ったならば、ユニコーンはその終焉を飾ったとも言えそうに思う。はっぴいえんどがバッファロー・スプリングフィールドを中心に洋楽からの影響を屋台骨に日本語のロックの可能性を生真面目に切り開いた当事者であったなら、ユニコーンは音楽とじゃれることを突き詰めていった結果、ビートルズのミニ・ストーリーを生き直すことになり、そういう方法論でしかポピュラー音楽に肯定論を導き得ないことを図らずも証明してしまったバンドだった。ロックンロールやロックという言葉を輝かせ、ポップスとしっかりとした線引きを施すために、我々はよくアウトサイダー的な気骨をこの語に込める。しかし、直球勝負で行くには実際のところ、ロックが示す暴力感や猥雑感・スタイリッシュ感、さらには閉塞感まで、ロック的美学はロック・ミュージックそのものよりこの我々が生きる現実世界が見事に先を行ってしまっている。つまり、今日的にはロックは我々の幻想的世界の音楽化ではなく、自身のいる場所を確認するための道具に位置をシフトしてしまっているとさえいえよう。だから、若者はいまバンドをやるのではないか。彼らの解散はもはや、ロックやバンドという枠組みを過去の遺物にしてしまったといえなくもない。

 でも、それだったとしても、僕はやっぱりユニコーンが好きだ。ミュージシャン生活を遊び場と見立てて、奥田民生のほかには川西・阿部・EBI・手島といった本来キャラ立ちの薄いはずのメンバー同士が徹底的に遊び尽くすことで個性を光り輝かせた、稀有な透明さを、あの頃このバンドをリアル・タイムに聴いたリスナーの多くは感じ取ったのではないだろうか。「ターボ意味なし」の逆回転ディレイや、「自転車泥棒」の「ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド・レ・ミ(つまり、ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ・シ・ド!)」を繰り返すイントロや、坂上次郎にも登場してもらった「デーゲーム」サビの「ティッ・ティッ・ティッ・ティッ」というコーラスにビートルズの姿を見るにつけ、僕はそのたび彼らの会心の笑顔を男の友情でもって聞き届けた。そのことを、いつか彼らに言えたらいいと思う。



11月7日
 パタヤーは飽きない街である。バンコクから2時間弱で着ける海辺の街だというのがまず素晴らしいが、いつ足を運んでもそれなりに新しい発見がある。それにまず、この街全体がタイのどこにも存在しない不思議な空気を感じさせてくれるのがいい。パタヤー中心部は、今も圧倒的に多いファランの存在を抜きにしては考えられないのだが、そのおかげでタイの田舎とはまた別の意味のリラックスしたムードが漂っていて、それが心地よいのだ。

 そんなパタヤーで思わぬ置き土産があった。まとめて買ってきたパーミーのVCDの方ではなく、露天に並んでいた洋楽アルバムの中からとりあえず目に付いたので買い求めたFrank Zappaのベスト版を聴いてみて、改めてこの髭面男のあまりのカッコよさに痺れが切れなかったのだ。

 ベスト版1曲目はザッパで最も売れた"Peaches En Regalia"。アルバム"Hot Rats"は愛聴盤だったけれど、改めて聞いた割には、このどうしようもなく楽しい気持ちはなんだろう。映画のオープニングにこんな曲が使われていたら、どんなにダメな映像であったとしても期待せざるを得ない。比較的シンプルなドラムに支えられて、ベースをはじめとしたインストは自由に空間を駆け回る。予断を許さない冒険活劇のような展開に目くるめく。この一曲で僕らは部屋にいながらにして世界各地を旅することができる。

 そして、"Sexual Harassment in the Workplace"だ。オーソドックスなR&Bの展開コードを回している上にリード・ギターがソロをとっている、どこにでもあるタイプの曲なのだが、ザッパとそのバンドはそんな凡百な位置に甘んじるわけがない。どの曲でもそうだが、特にここでのザッパのギターはもはや楽器ではない領域にまで達している。「泣きのギター」というフレーズはよく耳にするが、この曲を聴いてしまうと、これまでのそれに類したギター曲が一気にかすんでしまう。あるいはこう言ったほうがよいのかもしれないが、この曲のギターはヴォーカルなのだ。この曲は、ヴォーカルでできないまでの領域へとギターを舞わせる曲なのだ。この曲を背中にしょうならば、世間のいろんな世知辛さにも切っ先を向けて頑張っていけそうな気がする。

 ザッパの曲は多種多様な曲調・フレーズが万華鏡のように飛び出してくるので、1曲丸ごと好きであるのとはべつに、リスナーそれぞれにお気に入りの個所があるだろう。僕のフェイヴァリット、"Peaches En Regalia"では中華風アレンジになってから電子音が飛び交うまでにいたる流れと、最後にチープなアレンジでテーマ・フレーズがリフレインする中での、管楽器のひょうきんながらもどこかさびしさも湛えたオブリガート(?)、そして"Sexual Harassment in the Workplace"のハーモニー・ギターになる前の、これを哀愁といわずしてなんというかというソロに、後半に飛び出す8分の6拍子が4分の4拍子の疾走するパターンになって何食わぬ顔で「これが俺のオカズだったんだ」と元に戻るドラム。さて、あなたのお気に入りは?


10月1日
 音楽は時代を鮮やかに映し出す水晶球のような存在だから、時には過ぎ去った時代が眩しく輝いて見えるときもある。「ピコピコ・サウンド」と形容されていたYMOの時代の初期テクノだが、細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一が揃い踏みしたこのバンドは、海外の諸テクノ・バンドとは土俵が自ずと違っている。

 "Nice Age"から聞こえてきたのは、80年代の、向こう見ずなまでに明るいファンファーレだった。サビ・メロディーの女性コーラスは限りなくあの時代のパルコを匂わせる、「トキオ」への賛歌だ。この時代を生きることができたのは、本当によかったと今は思う。それでも「弱腰」といわれていたけれど、あんなに日本人がみんな胸を張っていた時代は、これからは当分ないだろうことが、今の日本の音を聴いて、誰にだって判る。


6月9日
 「アフリカへ行きたい」には、やられた。荒井由美のサード・アルバム「コバルト・アワー」の収録曲だが、これまでまともに聴いたことがなかったのがこんなに悔やまれたのも珍しい。

 思えば、タイ暮らしの中で何気なくBGMにしていた「中央フリーウェイ」をある日ヘッドフォンで聞いて仰天したことから端を発するのだが、この演奏の凄さは、いったい何なんだ! 勢い任せの直角なドラムに、しなやかにランニングする太くて艶やかなベース、ドライヴするカッティング・ギターとクールかつ優しく可愛いエレピ。そのど真ん中を、素晴らしいメロディー・ラインがあのユーミンの壁絵のようなヴォーカルによって射抜いていた。
 タイを引き揚げ日本に戻った僕は、ユーミンの旧譜を求めた。その一曲、「アフリカへ行きたい」。これは痛烈な一発だった。

 これまでにも荒井由美時代のアルバムは4枚のうち3枚までは、「ひこうき雲」「ミスリム」「14番目の月」と高校時代から聴いていた。ティン・パン・アレイに端を発する彼女のアルバムでのバックとアレンジの素晴らしい昇華についても判っているつもりだった。だが、「アフリカへ行きたい」は、グルーヴが違う。キレとタメが違う。ソリッドでいてしなやかな16ビートがテンション・コードに乗って不安定でスリリングな綱渡りを披露し、贅沢な数分間のポップ・ミュージックを奏でる。いつものように彼女の声は楽器に成りすまして風景と心理の描写を撒き散らす。
 アフリカでなくていい、僕も心から、どこか遠くへ行きたい。


4月30日
 あてのない休日のことだ。
 ベッドで寝転んでMTVを見ていた。そして久々にブラウン管の向こうに「アメリカ」を発見した。ホワイト・スキンたちは相変わらずの元気なディストーション・ギターで「自分たちはここにいるんだ!」と叫んでいるだけだったが、ブラックの世界にはガツンときた。「今」の「アメリカ」を生きているのは、間違いなく彼らだ。Usher"Yeah"と至極クールなシャウトを重ね、音もしないハードなステップで踊ってみせる。

 そして、懐かしいオーソドックスなソウル・スタイルを完全に踏襲したAlicia Keys"I Ain't Got You"が流れてきた。ピアノの鍵盤をたたくブラック・レディは、「ある人たちは…、そしてある人たちは…」と町の幸せそうな人々のいる風景を歌い、そして"Everything is nothing if I ain't got you"と聞く者の胸をかきむしる。いつの間にか、彼女の痛みは自身の思い出のストーリーに変わり、記憶のなかの甘酸っぱい風景を部屋中に引っ張り出す。




2003年

12月14日(日)
 先日車でFMkokoroを聴いていたら、番組のゲストに佐野元春が出てきた。彼の声は特徴があるのですぐに判る。佐野は10年ほど前までモトハル・レディオ・ショーというラジオの人気番組をやっていて、そこで初めて洋楽に触れて聴く音楽の幅を広げたというリスナーも多かった。
 ザ・ブームの宮沢和史が司会だったのだが、彼が「ロックというのは音楽の形式ではなくてアティテュード(態度)なんだと初めて理解した」とコメントして流したのがアルバム"Visitors"の1曲目、"Complication Shakedown"だった。そのコメントは、「ちょっと臭いな」と思ったのだが、意表をつくような新鮮さでこの曲が車内に流れ始めた。

 佐野元春の曲となると、正直なところ、80年代の空気感を孕みすぎていて聴いていて恥ずかしくなってしまうことがある。キッズとかストリートとかイノセントという言葉を新鮮な解釈で引っ張り出してきたことで彼のイメージは決定づけられたのだが、そこから僕らのイメージはまだ離れられないでいるので、彼の実年齢に音楽が合わないような気がしてしまうのだ。ファンでない限りリスナーはヒット曲を表層的に聴くことしかしないから、どうしても彼のイメージが"Someday"であったり「約束の橋」であったりしてしまう。

 だけど、FMから流れてきた"Complication Shakedown"は間違いなく、今の気分としてかっこよかった。音に緊張感が漲っていた。当時ラップをメジャー・シーンの中で初めて展開して成功したのは佐野元春だと言われたものだったが、そういう歴史的な意義だとかではなく、この頃のロック・スタイルを踏まえた上でのヒップ・ホップの中ではかなりクールでソリッドな手触りを持っている。ちょうどそれより1週間ほど前、車にたまたま転がっているテープを適当に車で聴いていたら弟のものらしいRun DMCのカセットだった。大味な曲もあったが、全体的にこの頃のラップ・シーンが持っていたロック的なビート感がやけに眩しく見えた直後だった。レッテルを貼って、ミュージシャンやシンガーのイメージだけで音楽を聴くのはつまらんことだなと、久しぶりに心から感じた。


◆「プレーン」表紙に戻る   ◆トップ・ページに戻る









SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送