"IND'S","POP IND'Sと""CHART"は、渋谷系爆発への導火線だった。それまでにはたしかにネオアコやギター・ポップの台頭があったが、チェリーレッドやクレプスキュールなどはマイナー感が強かったし、ムーヴメントの代表格といえるアズテック・カメラに至っては、その真価ともいえるファースト・アルバムの"High Land, Hard Rain"の邦版すら発売されていなかった。そんな中、「ポスト・パンクの正しい道はロックではなくポップスの側にある」という解釈(だと僕は感じて読んでいた)で、これらの雑誌は新鮮な驚きを伝えてくれた。そこでデビューから鳴り物入りで取り上げられたのが、フリッパーズ・ギターのファースト「海に行くつもりじゃなかった」だった。

 かといって、僕は彼らをジャスト・リアル・タイムには聴かなかった。ウォンテッド・アルバム・リストに常に1000枚以上の候補が書き込まれ、それをしらみ潰しに果てしなく追いかけるも、欲しいものの増加量がそれを上回る日々では、正直、評価のある程度定まったものでないと手を出しにくいのが当時の状況。どうしても現在進行形なものは後手に回らざるを得なかった。でも、こうしたつきあいが彼らと接するのにちょうどよかった、と僕は思っている。

 フリッパーズはなにかとお騒がせなユニットだった。そのあっけない幕切れまでが、一種のお祭りだったといっても過言ではない。そうした、音楽を離れた様々なことがメディアの中で膨張し、ファンの胸をときめかせていたことは僕も知っている。この面ではピチカート・ファイヴも似たような状況ではあった。ただ、決定的にこの二者が違ったのは、ピチカートが非常にクールな視点から情報攪乱を行った確信犯であり、彼らの音やスタンスからそれがはっきりと伝わってきていたのに対し、フリッパーズは若気の至りで、へんてこな情熱をこめて自ら酔いしれていたことだ。ピチカートの小西康陽とフリッパーズの二人では年齢が9歳離れていることや、ピチカートがそもそも高浪敬太郎を中心としたパーティー・バンドであったことからも伺える。
 それに、フリッパーズに関してもう一つ困ったことは、僕と彼らはほとんど同世代だということだ。同じように音楽をやっている者同士として、「ああ、僕でもこういうことを考えてやってしまうだろうな」というアイデアを次々と確認するたび、なんだか自分の裸をさらされているようでいたたまれなくなってくるのだ。具体的な音からアルバム・デザインに至るまで、素晴らしいパッケージングで提出する彼らの技量へのやっかみも含まれていただろう。
 彼から解散する直前からCDを手にした僕は、こうしてなんとか水泳パンツくらいは履いている気持ちで、彼らと対峙することができて、本当によかった。

ALBUM

海へ行くつもりじゃなかった
Camera Talk
ヘッド博士の世界塔

my best song Groove Tube
my best album 海へ行くつもりじゃなかった
my best lyrick 
my best music Sending to Your Heart
my best arrange Groove Tube


links of flipper's guitar

サファリデパート
フリギドン


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