サザン・オール・スターズと中島みゆきは、2014年現在も世代を超えた支持を受け、そうした選ばれし者たちだけが放つオーラを纏っている。
美空ひばりの時代とは違い、あまりにも移ろいやすい(というより実態が何なのかさえ理解しにくい)1970年代以降を通じて新しい世代のリスナーに響くものを作り続けられるというのは、奇蹟に近いといって過言ではない。

 ここで美空ひばりを引き合いに出したのは、ご存じも方も多い桑田佳祐の"TSUNAMI"レコード大賞受賞時の発言があったからだ。
「やっとひばりさんの背中が見えました」と彼は言ったという。
そのとき、僕は上記のように「美空ひばりは国民に求められたが、桑田佳祐は確かなモノのない時代をサバイバルで切り開いた」という感想を持った。
同じ思いを持たれた方も多いように、ネット上で触れた言葉から感じてもいた。

 サザンと中島みゆきというのは、絶頂期だった1980年代までの二者を知っているリスナーには不思議なイメージを持った取り合わせである。
サザンは湘南の夏とコミカルな軽快さを持った「明るい」バンドで、中島みゆきは北海道の冬と暗い情念を背負った「暗い」女性フォーク歌手だった。
今となっては冗談のようだが、80年代の学生には「明るい」「暗い」で物事が峻別されることが当然のような気風が流れていた。
この意味合いで、サザンは中島みゆきではなく、ユーミンと比肩される存在だった。

 しかし、2014年の今になって、ようやく気づいたことがある。
サザンと中島みゆきはともに、歌謡曲の継承者といってこれほどふさわしい人はいないのではないかという組み合わせだということ。
ネット動画やテレビ、ラジオではなく、1970年頃までの有線放送という衣装のベスト・ドレッサー賞があったとすれば、この2組が同時受賞するに違いない。

 桑田はかつてアン・ルイスとの対談で「どれだけ本当のロックをやろうとしても、私たちは歌謡曲から逃れられない」という話でそうとうに盛り上がったというのは、よく知られたエピソードだ。
2009年の「ひとり紅白歌合戦」ライヴでは、歌謡曲カヴァーのオン・パレードを披露してもいる。
歌謡曲が時代の様々なエッセンスを吸い込んでいくように、桑田佳祐は「歩く電通=博報堂」の異名を取りながらも、歌謡曲とロックの二足の草鞋で日本人の琴線をつかみ続けてきた。
いっぽう、中島みゆきはそもそも、歌詞に重きを置いた、歌謡曲や演歌と通じる方法論で、フォーク・ギターを携えて出てきた。
飾り気のないシンプルなコード進行やメロディーは、唱歌のようでもある。
後にバンド・サウンドを導入したり、DTMの時代に入ったりしても、彼女の歌謡曲的ないしは日本的な曲の構造は不変だった。
かたやオマージュ、かたや曲そのものの成り立ちと、お互いの立ち位置はまったく異なっても、サザンと中島みゆきは、今や死語となった「歌謡曲」の継承者だ。

 ここで僕はようやく理解することができた。
どうして桑田佳祐が美空ひばりを引き合いに出したのかを。
そして、彼が「背中が見えてきた」と言ったのかを。
彼は歌謡曲を牽引するトップ・ランナーとして、きっとそう言ったのだ。
ここでいう歌謡曲トップ・ランナーというのは、冒頭の印象のようにトップ・ランナーに重きがある話ではなく、もちろん歌謡曲をどう引き継ぎ(あるいはどう進化変容させ)、この世に問うのかというミュージシャンの自問にほとんどのポイントが集約されている。

 そして、僕はオヤジ臭い安堵を覚えた。
この時代になっても、日本人は世代を超えてかくも歌謡曲を好きでいるのか、と。
正直言えば僕は「歌謡曲」と呼ばれていた楽曲を、当時は世の浮草のように捉えてきたし、今でも特別の思いがあるわけでもない。
でも、日本人の根底に流れる感性の脈流を感じられるような気がして、それがただ嬉しい。
戦後日本の同朋意識の乏しさには、共通した伝統音楽の存在が希薄になったことにもその一員があると思う。
だからなおさら、「あなた」にも「わたし」にも響くサウンドが息づいていることに、何度も何度もうなずいてしまうのだ。


〜90年代の記事〜

 10年ほど前、すでに長寿番組となっていた「笑っていいとも」の名司会者となっていたタモリがインタヴューでこんなことを言っていたと友人が教えてくれた。インタヴュアーの「タモリさんがもともと持っていたブラック・ユーモアとか冴えたギャグがなくなって淋しいです、最近のタモリさんははっきり言ってつまんなくなりました、という視聴者からのお手紙が届いていますが?」という問いに、「そうだねえ。でも、司会者をやるってのはそういう毒を隠し技みたいにちらっちらっとしか使わないで大きくまとめていくってことなんだよ。残念に思われるかもしれないけど、仕方ないんだな。それに、いまさら『いいとも』を降りるわけには絶対にいかない」と、彼はそんな風に答えたそうだ。

 20年選手であるサザン・オール・スターズを見るにつけ、タモリのその言葉が重なる。サザンは本当に個性の塊のようなデビューを果たした。テレビの中でホット・パンツ姿で駆け回り、「勝手にシンドバッド」なんていう駄洒落ともつかない曲で、わけのわかんない歌詞を英語なまりのような歌い方にしてがなりまくり、かといってロックでもないサンバ・チックな曲で、子供心にもわけがわかんない存在だった。しかし、反対に子供だったからこそ、その革新性は理屈抜きで肌でわかった。その後、桑田圭祐が素晴らしいメロディー・メイカーでありサザンというのが日本には稀有なバンドであることは、サード・シングルとなったバラード「いとしのエリー」が教えてくれた。

 「歩く電通・博報堂」と評される今のサザンには、もうはっきりいって興味はない。それはもはやビジネスなのだと思う。ユーミンでさえ時代の潮流にうまく乗れないときもあるこの時代を、あれだけのビッグ・ネームをもって泳ぎつづけるのは並のことではない。いや、奇跡といってもよいだろう。でも、僕は手堅い仕事を習うために音楽を聴いているんじゃない。

 "kamakura"がグループのピークであり音楽的な最後であったのは、多くの人が感じていることではないだろうか。サザンが熱いバンドでありつづけた理由の一つに、様々な音楽スタイルへの真摯なリスペクトと、それを生硬なものにまとめてしまわない独特の諧謔精神があった。ザ・ピーナッツへのオマージュを曲調として取り入れたデビュー作からヒップ・ホップ、アフリカン・ロック、ブルース、スカ、レゲエからスティング、吉田拓郎まで引っ張り出してきた"kamakura"までの間には、彼のそうした「曲を聞く喜び」が音盤の向こうから聞き取れたのだ。しかし、クワタ・バンドとソロをはさんでサザンとしての活動を復活させたのち、「サザン・オール・スターズ」というバンド名をそのまま冠したアルバムから、皮肉にも桑田の幅広く貪欲な音楽性は一時期ポール・サイモン非難に用いられたような、文化の剽窃や単なる素材のパクリに陥ってしまった。特に沖縄民謡をアルバムに収めた次作「世に万葉の花が咲くなり」は、無機質なショー・ケースになってしまっていた。

 芸能である限りは、音楽に規約などない。今の若い世代がサザンにヒット・ポップ・メーカーとしての楽しみを見出しても何の不満もない。ただ、輝きすぎた人がその後を演出してゆくのは難しい、と今はただリスナーのわがままとして、それだけを思う。


ALBUM

熱い胸騒ぎ
10ナンバーズ・カラット
タイニィ・バブルス
ステレオ太陽族
ヌード・マン
綺麗
人気者で行こう
kamakura
サザン・オール・スターズ
世に万葉の花が咲くなり
Pacific Hotel
さくら
KUWATA BAND
KUWATA BAND

桑田圭祐・ソロ
Keisuke Kuwata
孤独の太陽


links of southern all stars

サザンオールスターズSTANDOOH! AREEENA!! C'MOOOON!!!



my best song いとしのエリー
my best album 綺麗
my best lyrick よどみ萎え、枯れて舞え
my best music C調言葉にご用心
my best arrange Bye Bye My Love




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