2018年


タイに住み始めた頃のMBK(マー・ブンクローン・センター)
3月15日

携帯のツイキャスアプリには、空港でまさに出国しようとしている木村さんの静止画像になった配信画面が映されていた。
いつものように職場の階下のテラスで煙草を一本取りだしながら「おっ、出国ですね」と呑気に書き込んだ僕は、その12分後にはカタリと音を立ててまったく違う種類の人間に豹変していた。

前日、心霊スポット動画を録る木村さんとともにフェンスの破れをくぐり抜け、大火災のあったクラブ跡の藪に変わった更地で枯れた小枝を踏み鳴らしていた。
おどろおどろしいそんな場所で、小学生の頃にさんざんやった「冒険」のフラッシュバックに身を置いていた僕は、すっかり時空をどこかに置き忘れた。

幕開けは休日の金曜日にツイキャス(以下キャスと表記)の「その他海外」タグに一人だけいた木村さんの配信を開いたところから。
見慣れたその風景はバンコクのショッピングセンターMBK(マー・ブンクローン・センター)のもの。
彼はそこで細切りニンジンのトッピングされたタイ菓子を買って食べていた。
すぐさま「きっとまずいですよ」とコメントを書き入れたが、もうすでに数十バーツが売り子さんに手渡されている。
案の定、その味は彼の口内に長らく形容しがたい違和感を残したようだった。

キャスの海外タグは、あまり「初見さん(キャスでは初めて訪問した視聴者をそう呼ぶ)」を招き入れたくない配信者に、海外とは何の関係もなく利用されることが多く、実際、海外タグはほとんど人気がないようだ。
また、キャスでは固定画面のラジオ配信が多く、実際僕もそれまでほんの少し配信していたそのほとんどはラジオ型だったが、木村さんのライブ配信はバンコクの街の初めてやってきた旅行者の視点を鮮やかに映し出していた。
マー・ブンクローン・センターは僕の初タイ旅行ではじめて訪れた場所。
そして、僕も得体のしれないタイ菓子に手を伸ばして異空間に放り込まれた手合である。
彼の姿は20年前の僕と幾重にも重なり、一気に血圧がアップした。

ホラー映画監督である木村さんの配信には楽しく賑やかなリスナーさんたち(動画配信であっても視聴者をリスナーと呼ぶ)がたくさんいる。
いかにも人がよさそうでいながらとぼけた味の木村さんに届くコメントは、彼を様々な方面から「いじり」ながらも、どれもが情に溢れたものだ。
初見のときから木村さんにも常連さんにも優しくしてもらって、胸に爽やかなそよ風が流れる思いがした。
慣れないタイ初旅行にわくわく惑う木村さんと、ともに画面に流れてくるヴァーチャル・タイ旅行をしているリスナーさんたちに、僕は在タイ者としてできるだけ役に立つコメントをしようと、思わず時間を忘れて画面に吸い寄せられていた。

2日後、慣れない午前からの変則勤務に寝不足の目をこすり、何とか仕事を乗り切った僕は、帰国前日であるはずの木村さんの配信をすぐさま開いてみた。
彼はバンコクの中心地サイアムから、心霊スポットを訪問しようとしていたが、すでに足が棒になっているうえ、目的地がぼんやりとしていて特定しきれない模様である。
とりあえず軽い気持ちで「バイクでお送りしましょうか?」とコメントしてみた。
気軽にこういった話ができるのが、ここタイのスタンダードである。

1時間ほどのち、僕らはセントラルワールドで落ち合った。
タイシルク販売店の代名詞とも言えるジムトンプソンの前での待ち合わせだったが、店の前に到着してみると彼はいないし、彼の配信画面上の場所とは明らかに異なる場所に僕はいた。
リスナーさんたちも僕たち二人も、パラレルワールドにいるのかと気を揉んだ。
「2軒あったりしてw」とリスナーさんからコメントがあり、手当たり次第タイ人に尋ねてみると、同じ階にジムトンプソンが2軒あることがわかってすぐさまそちらに向かった。
ちなみに、手当たり次第に尋ねたのは、タイ生活での常套手段である。
「店で目当ての商品が見つからなくて店員さんに尋ねてみたが、商品を置いていないとか売り切れであると言われたそのすぐ脇に見つかる」ようなことは珍しいことではない。
そして、そんなときの店員さんは恥ずかしそうでもばつが悪そうでもなく、「見つかってよかったね!」と明るい笑顔を送ってくれる。
一事が万事こんな調子なので、タイでは人海戦術が大切なのだ。

セントラルワールドの地下駐車場から2ケツで地上に出たら、排気ガスだらけのはずの大通りの風が、いつものように爽やかに感じられる。
「うわー、気持ちいいっすねー!」
「なんでアジアでバイクに乗る人が多いのか分かった気がします!」
ひときわ大きくなった木村さんの声は、実感が篭っているってこういうことだな、と思わせる熱を帯びていた。

ペッブリー通りの踏切を南に入る貨物線を歩いて僕らは宵のスラムに出た(タイ国鉄の線路脇はスラムの割合が見事に高い)。
タイには入るだけで危険だとされる場所も少なからずあるが、その雰囲気を察するボーダーラインはなんとなく肌で分かる。
ここの人たちの目は優しい。
線路の上にお手製のトロッコが出ているので、貨物列車もしばらくここを通ることはないだろう。
枕木を踏み、鉄橋を越えて、住民とおぼしきタイ人たちに声を掛けがなら奥へと歩を進める。
目が合うと僕たちにビールを勧めるおばあちゃんがいた。
バイクなのでとお断りして、ここにお化けが出るという話を聞いてきたんだけど、と尋ねてみたら、「以前は池にいたけど、近くのお寺でお参りしてもらって鎮魂されたんだ」というお話である。
さっそくそのお寺、ワット・マッカサンを訪ねた。
少し躊躇したが、道に数人いたお坊さんたちに霊のことを尋ねると、100年ほど前にはこの周辺で腹切り・首切りが行われていたが、みんなが寺で徳を積んだので霊は出なくなったという新しいお話が飛び出てきた。
しかも、夕方5時に閉まっていた本堂をわざわざ開け、明かりをつけてくれたその中で僕らは話を聴いていたのだった。
こういう大らかで気さくでゆるーいタイに、僕はこれまでもう何度癒してもらったことだろう。

エカマイ通りにあった超人気のクラブ「サンティカ」は、2009年1月1日0時過ぎ、年越しライヴ中の火災で死者65人・負傷者200人の被害を出して、今もその跡の更地は買い手がついていない。
皮肉なことに、そのときステージに立っていたバンドの名前はThe Burn。
しかも、出火原因と発表されたホール内での花火の打ち上げをしたのは、The Burnのヴォーカリストだったという顛末だ。
とっぷり暮れたエカマイ通りから、僕らはフェンスに開いた破れ目をくぐり、すっかり藪になった空き地を中ほどに進んだ。
交通量の多いエカマイ通りとは金網で隔てられただけなのに、中は必要以上にひっそりとしている。
こんな場所に来たのはいつの頃以来だろう。
その場所は、小学生の頃「秘密基地」を作った記憶を激しく呼び起こす。
都会に住む今の子どもたちは、そんな自分だけの場所をどこに用意できるのだろうか?
心の中?
もしかするとゲームの中?
…すると、突然子どもの声が響き、僕たちの会話は一瞬冷たい静寂を伴った。
振り返るとフェンスの向こうに丸見えのエカマイ通りに子どもの人影はない。
この場所は残る三方が空き地とオフィスビルなので、こんなにはっきりとした子どもの声が聴こえるのはいかにも不自然である。
「いやな感じがするので出ましょう…」
木村さんの声を助けに感じ、僕らは心持ち足早に通りへと戻った。

木村さんをバイクで次の目的地に送ったあと、とりあえずバイクのそばで配信を開いた。
リスナーさんが、僕の配信への飛び込みを「これぞインタラクティブコンテンツ」と書いてくれていた返答に、木村さんは「配信はコメントが流れていくだけののものじゃないですよね。出会いもあって」と話してくれた。
友、という言葉が彼からぽろりと出たとき、妙に胸が熱くなった。

先約だった友人と食事したのち、再び木村さんと会った。
木村さんは日本のバンドThe Band Apartのバンコク・ライヴを堪能し終わったところで、録画ボタンが押されていないオフレコ時間に見合ったいろんなプライヴェート話が飛び出しつつ、やがて外に出てこられたメンバーを紹介してくれた。
そんな彼をホテルまで送って、僕の木村さんアシストは終わった。
翌日の仕事が終わる頃、彼は空港で出国を控えているはずだ。

翌日夜10時前、仕事を終えてひとり、職場の階下のテラスでいつものように煙草に火をつけた。
携帯のツイキャスアプリには、空港でまさに出国しようとしている木村さんの静止画像になった無言配信画面が映されていた。
お見送りできない挨拶がわりに「おっ、出国ですね」と呑気に書き込んだ。
すっかり仲良しになったリスナーさんたちから次々とコメントが届く。
「あっ、きた!」「まだ間に合います」「空港まで汗だくになって走っていって抱き合おう」「抱き合ってキス?」「感動をください」…そんな言葉が短時間のうちに並んだ。
いま、空港から26キロ離れた街中にいる僕に、何ができるだろうか?
木村さんはすでに手荷物検査場を越え、出国審査の列に並んでいる。
しかし、ここはタイだ。
例えば「手数料」を払えば「特別許可」という名のお目こぼしを受けられないとも限らない。
「とりあえず空港に向かってみます」 バイクのキーを握りしめた僕は、ご挨拶コメントの12分後、カタリと音を立ててまったく違う種類の人間に豹変していた。

途中の給油時に気がついて、自分の配信を始めた。
それまで、リスナーさんたちからも「配信して」という声があった。
それまで僕はフェイスブックのアカウントでつぶやきに似たこじんまりとした配信をしたことはあったが、木村さんとリスナーさんたちが求めているのはもちろんそんなものじゃないはずだ。
配信をしてほしいという言葉をいただいたのはとても嬉しいけど、僕にどんなことができるのか、まったくイメージがなかった。
だが、今とりあえず胸ポケットに携帯を突っ込んで走り出してみれば、誰か気づいてくれるかもしれない。
コメント読みはできないし、胸ポケットに携帯を放り込んだ程度ではまともに風景も映らないかもしれない。
でも、木村さんとの再会劇に向けて走るリアルタイムリポートは、メイン・アカウントでの初めてのまともなライブ配信になりそうな気がした。

スワンナプーム空港には2〜3度バイクで行ったことがあったが、メインゲートへ出る入口を遣り過ごしてしまった。
Uターンを見込めない造りの道なので、その先にあるはずの初めての経路を開拓するしかない。
途中で道を訊いてちゃんと空港の見える場所へ辿り着けたところまではよかった。
が、空港敷地内に入った途端に歩行者も店も民家もなくなり、勘を頼りに進むほかない状態に。
そして…僕は空港を目の前にして間違った方にハンドルを切ってしまった。
気がついたときにはすでに、少し逆走して戻れるくらいの距離ではなくなっており、Uターンを切れる場所がまったくない直線道路をひたすら走るほかない。
10キロ以上走って空港敷地を出たところでバイクを停めて様子を見てみると、「木村さんはもうすぐ飛行機に乗り込む」「最後にLINEで連絡だけでも」というリスナーさんの書き込みがあった。
すぐさまLINEを送り、「せめて木村さんの乗っている飛行機を見送るだけでも」と自分の配信に書き込んで、即、道を取って返した。

ターミナルの反対側、滑走路が一望できそうな場所でバイクを降りて、いつの間にか胸ポケットで止まっていたライヴ配信を始めた。
風のある日に遮るものの何もない吹きっさらしだったが、おかげで蚊がまとわりつかない場所だ。
リスナーの皆さんと木村さんをゆっくり見送ることができる。
バイクではほとんど話ができなかったぶん、木村さんとの再会を果たせなかったぶん、リスナーの皆さんが(意外にも)喜んでくれたぶん、僕は早口で上ずった声で、初めてまともに「配信者」になった気持ちでしゃべり続けた。
木村さんについての話も、思い出話も、タイについての話も、ごった煮になって次々とコメントが届けられ、僕たちの話はどこかで尽きる様子など片鱗もなかった。
やがて、木村さんを乗せているとおぼしき離陸が何度かあり、「僕ら」は一緒にそんな機影に手を振った。
「またねー」
そして、その余韻をみんなで分かち合った。
携帯の電池が2%になるまで。

その日からときどき、僕は動画でのライヴ配信をするようになり、リスナーさんに促されることに調子づいて、一人でバンコクの心霊スポット訪問までするようになっている(実際のところ、けっこうおののいている)。
僕の配信にもたくさんのリスナーさんが来てくれるようになって、健康と体をしぼるためのたまのウォーキングでさえ皆さんにつきあっていただき、時のたつのを忘れるイヴェントとなった。
木村さんの置き土産…そんな言葉が脳裏に渦巻く。
ただ、僕はふと思い至ったことにひとり膝を打つ。
彼が僕にそっと手渡してくれたのは、お土産としてもらったジムトンプソンのシルク製品だけじゃない。
木村さんは根っからの映像人だ。
彼は、映像そのものとそれを用いたコミュニケーションがどれだけ素敵なものなのかを、言葉に置き換えることのできない形でバンコクに残していってくれたのだった。
彼に直接そんなことを伝たら、きっとうまくボケて笑いに変えてくれるだろう。
その言葉の行間から、また僕はいっそう確信するに違いない。
木村さんの映像とは、作品として完結的に結晶化したコンテンツではなく、絶えず周囲を触発して広がっていこうとするだけに、いつまでも続きのある、僕たちの人生そのもののような不定型なものなのではないかということを。
そして、彼の映像物語の一登場人物となることができた僕もまた、その魅力の虜となって、この慣れきってしまったバンコク暮らしも一つの生きた物語であることを実感したのだった。
ちなみに、木村さんのキャスと主戦場のニコ動でのチャンネル名は「モノガタリ」である。





2月16日

今年のバレンタインデー、思いもかけずまったく見ず知らずの人からあまりに素敵なギフトを受け取った。
プレゼントの中身は、Facebookと、それに関連づけされたアプリの一斉乗っ取りである。

東南アジアを中心にここ数年大流行しているBigoという配信アプリでのライブ配信が事の発端だった。
タイ語で日本語を教える授業もどきライブが僕のBigoでの主な配信コンテンツだったが、たまーにゲーム配信も行っていた。

ちなみに、僕は小学生以来、テトリスを除いてほとんどゲームをすることはなかったんですが、スマホを手に入れてたまたま面白半分に始めた動物の飼育ゲームをやってみたら、ネット上の架空動物たちだと分かっていても、なんだか放っておけなくなって、ふと気づけばもう5〜6年経っていた、そんなゲームの配信だったんです

公開ライブ配信でそのゲームをプレイしている最中、スマホのSMSにFacebookから「別端末からログインがあった」旨の確認メールが入り、慌てて対処を始めたが、時すでに遅かった、という次第である。
短時間のうちにFacebookに関連づけされたこのゲームや配信アプリが乗っ取られ、わずかながらだが配信アプリへの課金が盗まれ、こつこつ蓄積してきたゲームのポイントはたったこの2日間でみるみる消費され続けている。

Bigoとfacebookのセキュリティー脆弱性が事態を引き起こしたことには疑う余地がない。
ただ、セキュリティー問題はハッカーや乗っ取り犯との間でのスキル向上のいたちごっこだから、被害が軽微で済んでいる今、僕はそのことをとやかく言いたくはない。
問題は、こうして被害者になった際の各社の対応の方にある。

まず、Facebookはユーザーから直接メールや電話でのサポートを行っていないのだが、乗っ取られてからしばらくは対処法の検索で出てくるFacebookのFAQにアクセスして見出しページに入ることができても、その詳細をクリックするとログインを求められる画面に切り替わってしまう。
そこから先を指示に従って進んでいくと、セキュリティーコードを登録されたメアドや携帯電話番号に送る画面が出てくるのだが、当然ながら乗っ取り犯にとっては先刻承知なので、乗っ取ってすぐに彼らはこのセキュリティーコードをすでに何度か申請していて、僕が対処を始めた時点ではセキュリティーコード入力画面に入っても「一定時間での制限化利用回数を超えているので利用できません」というメッセージしか現れてこなくなっている。
24時間経つと再入力が可能になるようなのだが、犯人はこれも何らかの手口で不可能にしている模様。
なぜ一連の流れについてこんなに確信をもって書けるかというと、僕は事件の3日前にもFacebookを乗っ取られたからだ。
このときは乗っ取り犯が興味を失ったようで(たぶんFacebook内に課金がゼロで、認証している友達も1桁台であることを知ったのが理由だと思われる)、セキュリティーコードによって解決していた。
こんなにいともたやすく乗っ取られ、対処法にあまりにも不備が多い(というよりも乗っ取り犯に肩入れしているとさえ感じられる)SNSが、原則的に本名登録を義務づけているので、笑いで腹が捩れるというか煮えくり返るというか、腑には落ちないというか…。

また、Bigoは2度の被害の両方に関わっている乗っ取り犯の温床である。
シンガポール発のこのアプリは、乗っ取りやログインできないといった問題への対処を基本的に放置する。
メールへの返信も一切ないし、乗っ取られたアカウントを報告しても何のアクションもない(そもそも報告ボタンを押しても、それがどのような内容によるものかを尋ねる項目が現れることもなければ、「送信しました」というメッセージすら表示されることもない)。
アカウントを取り返すことに成功した人を何人か知っているいるが、その誰もがBigo運営者とのつながりがあって助けを求めることができたために実現に漕ぎつけている。
実際、何も違反をしていないのに、Bigo運営者を知人にもっているユーザーとちょっとした感情の行き違いがあっただけで利用停止を食らった人を、僕は何人も知ってる。
要するに、身びいき・金持ち優先・塩対応といったアジアの警察や既得権力者などの組織と瓜二つなのである。

「タイ在住の身には見慣れた構図だから我慢しやすいだろう」とおっしゃる読者の方もおられるかもしれないが、実際見慣れすぎて飽き飽きしているので、ネットの中でまで遭遇したくはないというのが本音なのです(;´∀`)

便利なうえに、それがないとできないことが年々増殖しているネット利用。
だが、プライバシーや金銭のセキュリティーは、ネット技術の革新と汎用化にずいぶんな後れを取っている。
やがて訪れるIOT社会を、僕たちは本当に受け容れていいのだろうか?
家や車の鍵も、銀行取引も、パスポートも、仕事上のほとんどのことも、これからは携帯電話かそれに代わるものが一手に受け持つことになるはずだ。
これらが見えない他者の手に落ちてしまう可能性が低くはない危険に晒されたまま、「自分が被害に遭いませんように」というか細い祈りの声だけを頼りに暮らす毎日…それはイジメを見て見ぬふりをするクラスメイトのありようにそっくりだ。

今年のバレンタインのギフトは、もろい僕たちの日常を実体験させてくれた、強く手堅いメッセージだった。















2017年

11月10日

2016年10月13日、ラーマ9世・プーミポン国王が逝去された。
そして今年10月26日に火葬の儀が執り行われ、国民たちは涙とともに別れを惜しんだ。

プーミポン国王が国民から絶大な信頼を受けた名君であることはよく知られていることである。
しかし、その偉業がどのようなものであったのかをまとめて記したサイトを見ることはめったにない。
そこで、ささやかながらここにまとめることにした。

・1973年:血の日曜日事件での国家危機仲裁
・1992年:暗黒の5月事件での一時王宮開放や国家危機仲裁
・2003年:タイのカンボジア大使館暴動を鎮静化
・ラジオを通じての災害救援(1962年の台風被害救援活動が有名)から自然災害被災者救護団体設立
・「足るを知る経済(セータキット・ポー・ピアン)」の提唱
・王家初の地方視察と、その諸地域の殖産興業(ロイヤル・プロジェクト)
・サイアム・セメントなど国営事業
・人工雨の研究
・野良犬の殺処分禁止
・ジャズにてビルボード・チャートにランクイン
・アジア大会にヨットで出場
・70年4か月に渡る在位
・世界最高の資産をタイ王室が保持
・これらを通じてチャクリー王家の名誉復活



2月8日

このところHPに文章を書く機会がめっきり減ってしまった…。
サボっているといえばそれまでなんだけど。
時代の寵児SNSの席巻で、文章を書く欲求・情報を発信したい欲求はそちらで消化されている。
短い情報発信はSNSで、長いものはこちらで、と考えていたが、その「長いもの」が一向に僕の中で醸造されてゆかない。
トシのせい?
これも、そう言ってしまえばそれまでだね。

でも、もっと具体的ではっきりした理由がある。
それはズバリ、結婚、である。

東南アジアの異性とつきあうときに、覚悟しなければならないことがある(ご存じない方は必読!)。
それは、浮気を疑われることはできるだけ避けること、だ。
タイでは仕事中だったとしてもちょっとした時間に連絡を取りあって、相手への変わらぬ思いを示しながら、自分の身の潔白を証明しなければならない(電話を取らなくても許されるのはバイクの運転中か映画館にいるときくらいである)。
日本人どうしなら「むやみに浮気を疑う姿を露呈させることの方が恥ずかしい」「自分にも相手にもパーソナルな時間の余裕が必要だ」という感覚が強いだろうが、タイでは女性がこれでもかというほどかわいい子ぶるのがデフォルトで、「あなたのことが好きだからあなたの行動のすべてが気にかかって心配」という子どもっぽい理屈で、男性は監視下に置かれる。
まあ、僕の妻はタイ人ではないし、必要以上にかまいすぎる態度を彼女自身も好まないことで大いに助かっているのだが、それでも職場や友達関係からの影響力は絶大だし、そもそもタイヤイ族(妻の出自)はタイ族の親戚である。
油断は禁物だ。

このHPではタイのこと・アジアのことなどについてあれこれと綴ってきた。
けど、ともに休日も勤務時間帯もお互いに違う近ごろの僕たち夫婦は、外食以外の目的でどこかへ一緒に出掛ける機会がほとんどない。
そうなると、旅行をはじめ、ショッピング・センターや公園や散歩や、日常的なタイの風景に溶け込んでどこかへ出かけることがほとんどなくなってしまった。
ひとりでどこかへ出かけたとしても、余計な詮索を避けるためにも、用事が済めばさっさと帰宅する。

さらに、バイクを買ったことと音楽活動にのめり込んでいることが、まとまった文章を書く時間を狭めているが、これも実は結婚とある程度の関係がある。
バイクを買ったのはそもそも、一人暮らしのワンルーム・マンションからの引っ越しを考えたとき、場所がどこであれ移動をしやすいようにという理由からだった。
バンコクでのバイク移動は危険を伴う可能性があるから、まずはバイクに乗っていて大丈夫なのかどうかを確かめる意味もあった。
そしていざバイク生活を始めてみると、公共交通機関をほとんど利用しなくなり、僕のタイ・ライフはますますパーソナルな環境にシフトした。
また、音楽活動は結婚とはまったく別件に見えるが、「スタジオに出かけてくる」という科白は、妻にとても理解してもらいやすい免罪符である。
同じカードを頻発しても文句の出ないことで、僕はますます音楽に傾倒していく。

東南アジアでまともな人づきあいをするというのは、自分の予定や個人の自由の優先順位を下げるということでもある。
結婚は、異国での広く果てしないコミュニケーションの可能性よりも、相手を中心とする人間サークルの中である程度完結してよいというゴー・サインの向こう側にしか存在しない。
結局、僕はそれを飲み込んだ時点で、まとまった文章を書く環境よりも伴侶を選んだことになる。
そして、ここが一番重要なポイントなのだが、伴侶がいるという安定を選んだことで、僕はおひとり様ではなくなった。
たとえばMKでひとりタイスキを食していた頃、鍋を一緒につついてくれる相手(それは家族でなくても、話し相手やちょっとした知り合いでもいい)を無限の可能性の中から探そうとしていた、その情熱のエネルギーが僕に文章を書かせていたのだと思う。
広い意味で孤独でなければ、意味のある文章を書くことはなかなかに難しいものなのだ。

と、解釈のしかたによれば遠回しなのろけが、この文章の意味するものなのであった。



2016年

2月17日

小欄「ジャパニーズ・マン・イン・クルンテープ」は、タイと日本での「友達意識」について2001年に綴った文章からスタートした。
15年を経た今、もう一度その「友達」から始まって、人間関係というテーマでバンコク暮らしを眺めてみよう。

バンコクで結成した音楽ユニット"Fractal"のメンバーAは日本人とタイ人の両親を持つミックス(ハーフ)で、彼の家庭を眺めると、日本とタイの意識差が透けて見えてくる。
結婚直後から、彼の家(実家暮らし)には奥さんの家族がひっきりなしに滞在するようになった。
「訪ねる」という言葉を用いなかったのはわざとで、一度やってきたら一週間以上は泊まっていくというレヴェルなのである。
あらかじめどんな面々がいつまで滞在するのかなど、日本人としては当然必要とされるインフォメーションがほとんどなされないまま、ある日あるとき突然現れて、滞在中も奥さんとどういう関係にある人間なのかも紹介されないままであるようなケースもしばしば。
それに、彼の母親は家を空けることが多く、もちろん彼にも仕事や私用があるから、彼の家には奥さんの家族しかいない時間が相当に存在している。
実は僕の嫁も同じような意識でおり、彼女の親戚がバンコクに来ることになると、僕たちの棲家がワン・ルームであることなどお構いなしに宿泊の舞台になってしまい、仕事から帰ってみたら誰かがもうそこにいるという事態に陥っていたりする。
僕は仕事上夜型生活であるうえ、ワン・ルームでは貴重品の補完にも困るので、こうしたケースをなるだけ避ける努力はしているが、それでも不測の事態を予防することは難しい。

タイ周辺では――というより、おそらく世界の多くの国では、家族・恋人という単位が持つ意味合いが極めて大きい。
欧米人旅行者にやたらとカップルが目立つのも、中国人が血縁関係を重視することも、よく知られた事実だろう。
そしてこのタイでは、15年前にしたためたように、友達意識は知人に毛が生えた程度の存在である。
現代の日本人が持っている友達という同朋意識の多くは、家族や恋愛関係に吸収されている。

その点、日本社会は信用社会と言っていい側面が大きい。
家に訪れた友人を一人部屋に残しても、その友人は基本的に、勝手にスマホやPCを開いて中身を覗いたり引き出しを開けてみたりはしない。
落し物をしても自分のところに帰ってくる率が高い。
一人で入った飲食店で席に鞄を置いて用を足しに行っても、戻ってきたらそこにちゃんと鞄が同じ中身を携えて待っている。
1970年代くらいまでの日本だと、家に施錠せずに外出する家庭も多かった。
「同じことをされたら相手はどう思うだろう?」という教育の成果だと思っていいだろう。
こういう場所では、友達が持つ意義は大きい。
思春期にある多くの若者たちは家庭や恋人よりも、友人関係から多くを学んでいると感じているだろう。

しかし、そんな日本もグローバル化を含め、少しずつ変容を余儀なくされているように見える。
その原因の一つはおそらく、未成年の環境変化にある。
最近の友人関係は非常に緩い。
以前ならプリクラの枚数で、現在ならLINEやSNSの繋がりの数で繋ぎとめられている場合も多い。
現代のイジメにはLINEから外されることも多いことに、それはよく現れている。
だが、子どもたちのコミュニケーション力が年々減退しているのは当然といえば当然である。
両親共働きのうえ不特定多数の大人との接触を警戒するように教育され、学校がその存在意義に揺れ動いて信用を失い、「失われた○○年」を延長しつつ自信も誇りも喪失した大人像が間断なく提供され、「オタク」という称号にも引き籠りのように具体的な場所にもにも逃げ込むことが社会的に容認され、子どもの権利が大人のそれを圧倒的に上回って保障されている現代日本。
ここから導き出されるのは、他人との軋轢の経験が少なく、自分を守るためにいろんな可能性を閉ざすことを学び取っている子どもの姿であろう。
60〜70年前後の学生運動隆盛時の討論・団交の頻発や意見の違いの分裂続きの状況と、SEALDsの示した「具体的な目的が同じであれば緩く繋がっていけるというあり方の違いは明確だ。
こうして、日本も個人社会の到来になったともいえるし、家庭を大切にする=子どもを守るという意味でグローバル化したともいえる(海外での子育ては往々にして甘い)。

日本の友人文化は、赤の他人同士がいかにして信用しあえるようになるかを具現化した、貴重で確かな方法論だと感じる。
ところが、今の日本ではその根底が大きく揺すぶられ、それを掬い取るための単位であるはずの家族の比重も以前より薄らいでいる。
たしかに、疲れたからだで仕事から帰宅したら嫁の親戚が待ち受けているようなタイでの生活も楽ではないけれども、そのシステムに「親戚なんだから気兼ねなしにつき合おう」とした姿勢には強いネットワーク感が存在する。
また、この異国の地で確かな友人関係を発展させ保持していくためには、強固な意志が必要だ。
それが自身の人間関係観を鍛えている側面がある。

ストレスフリーを目指そうとする姿勢・会社や人間関係に絡め取られない自己肯定感の強い個人主義・人間の欲望に対して柔軟な心の在り方など、日本人がタイ社会から学ぶことは多い。
また、タイ人にとっても、モラルや価値観を共有する社会の安定性・家族と恋愛に偏重しない人間関係・格差是正をモットーとする風潮など、こちらも見習ってほしいことは山ほどある。
しかしそのどちらもが、マイナス面において若い世代を中心に均一化した様相を見せ始めているのはどうしたことか。
おそらく、経済社会というものはこうした均一化とセットになった商品なのであろう。
それが証拠に、世界中の新しい建物はどれも似たようなのっぺらと無機質な顔をしている。

自己正当化するつもりではないが、僕らが次の時代を生きていくためには、人は一度は祖国を出るべきなのではないだろうか。
身をもって祖国と滞在国のダブル・スタンダードを生き、その差異を愛でたり苦しんだりしながら、自分の錨をどこに下ろすのかに思いを巡らす、そんな日々が大切なのではあるまいか。
この点で一つ、タイが日本に優先しているのは、タイ社会がそんな多国籍性を柔軟に受け容れていることだ。
ただ残念なのは、受け容れはできても学びが少ない。
ここでも、学びが多く受け容れはしない日本とは正反対である。
そこで思い至るのは、「学ばないから受け容れる余裕ができる」、あるいは「受け容れができないから不安で学ぶ」ということ。
かくも私たちの文化は、私たち自身の個を差し置いて頭上に覆いかぶさっている。
そのことを私たちはもう一度しっかりと自覚し直す時期に来ているのだと、そう思えてならないのだ。



2014年

9月14日


数日前から「弱者の論理に支配されつつある日本社会」についてあれこれ考えている。

弱者が弱者であることを訴えようとすれば、感情論がまず先に立つことが多くなる。
弱者が救済されるためには、自分たちがいかに蹂躙されているかという部分に理解を持ってもらう必要があるため、情に訴える必要性が高いからだ。
感情を表看板にすれば、必然的にその思想は自己中心的に傾く。
そこが今の日本社会の迷走を生んでいる一大源流のひとつなのではないか?

もちろんこれは「強者の理論」でも似たようなこと。
強者が権威を振りかざすとき、ステイタスを守るためだけに自己中心的な視点を取ることは往々にしてある。
だから、日本人が海外から賞賛される社会的な節度は「一億総中産階級」と呼ばれた時代が作り上げた魔法なのかとも思う。
強者でも弱者でもない人々が不平不満のある程度を鞘に納め、それでも訴えなければならないと判じた事柄を世に問い、モラルという名のフィルターを通じて思考停止せずに社会の構成員となっていたと見える。
しかし、時代は人々を中産階級意識にとどめてはおかなかった。

ここで、弱者と強者の差異について見てみたい。
強者は強さへのプライドと権力維持のために、他者との連携へと発展し、体面を考えることが多いが、弱者(のふりをする者たち)は「自分は持たざるもの」だという認識から、なりふり構わなくなる傾向がある。
この構図はタイで嫌というほど見てきた。
またもや一時的に軍政となったタイでは、軍が民政ではなしえなかった各種取り締まりや改革を強化し、催し物まで開くなど、点数取りに躍起である。
対立しているタクシン一派は、農民にばら撒き政治を見せつけて与えられた飴のおいしさを民主政治だと言い切った。
強者はそのお株を奪おうとする対抗馬にいつも勝ち続ける必要があるため、連携を強化しつつ、座をキープするために何をすればよいのかを考えなければならない。
しかし、両陣営のどちらかに属する民衆の多くは「どちらがおいしいか」によって自身の票を売り、その恩を政治的に還元してほしいというポイントでしか物事を見ようとしない。
貧困はたしかに非常に重要な問題だが、他人の話に耳を傾けようとしない頑なさは、却って心まで貧困にすることもまた理解しようとしない。

話を日本に戻そう。
新しく社会人になった若者たちが「使えない」という話を、本当にどこでも聞く。
職場にかかってきた電話に「どちら様ですか?」というべきところを「何様ですか?」と訊いたという笑い話があるが、自分で電話を取る情熱があるだけいい。
問題は、今の若者たちが熱を失っていることなのだ。
小学生や中学生に「大人になりたい?」尋ねると、「なりたくない」という答えが圧倒的で、理由は「めんどくさそうだから」が多い。
また、「大人になりたい」と答えた学生も、その理由には「お金が自由に使えるから」「親に束縛されなくて済むから」がほとんどである。
未来に即物的な希望や人間関係の希薄化を求めるのであれば、どこに彼ら・彼女らが大人になる必要性があるのだろうか?
そうなれば時間がただ冷酷無比に自身を運び去っていく感覚しか残らないのではないか。

「自分が生まれたときから日本は経済的に下降していて、バブルを知っている世代と違うのは当たり前」という至極まっとうな話を若者から聞く機会も多い。
社会が上昇志向を持っていれば、国民がその影響を受けることに間違いはない。
ただ、その言葉が「弱者宣言」でしかないなら、「勝ち組」との差は開くばかりだ。
バブルを通過した人々は、それでも「清貧」というイメージを小さいころから教わってきた。
カネやモノにこだわりすぎると人間としておかしくなるから、ちゃんとバランスを取りなさいというメッセージを社会から汲み取ってきた。
金銭的な面から醒めた目で社会を眺めるつもりだったら、それこそタイに移住した方がいい。
ここでは会社が倒産しても、「一度やってみたかったんだ」と表情を輝かせて夫婦ともども屋台を引くような人々がいっぱいいる。
その社会から学びとれるものは少なくない。

僕が最近の若者社会人において一番問題だと考えるのは、故のない権利の主張である。
出勤している以上、給料が出て福利厚生が整えられるのは当たり前で、それは仕事のできとは関係ない(スキルは単に時間によって蓄積されるというのが主な理由)、職場での人間関係においても新人だから自分ではなく周囲が決定し配慮してほしいという、このような権利である。
もちろん人間関係に熱くなれない彼ら・彼女らがそれを声高に主張するわけではないが、何かの問題に突き当たるたびにその言葉の裏から聞こえてくるのは「権利」である。
給料も福利厚生もスキルも人間関係も、生み出すのは自身の努力によるものなのだと考えることができないのは、どうしたことだろうか。

その理由の一つは分かっている。
家庭が、学校が、社会が彼ら・彼女らを甘やかしたからだ。
今の日本は子どもを単なる弱者としか捉えようとせず、手厚い保護を与えさえしておけば「問題化しない」という支柱によって抱きかかえられている。
社会人となってその支柱を自身で組み立てよと言われても、経験どころかそういう発想がないから、世代を区分して保身に走る。
自分を甘やかしてくれるぬるい関係というものがいかにほどけやすいものかということを知らない。
そして、そういう自分の脆弱性を補完しようと情報に埋もれようとする。
自分で咀嚼することのない情報が、またさらに彼ら・彼女らの「故のない権利」観を増長させる。

アンチを唱えることはいくらでもできる。
だが、その解決を国家や社会に押し付けて、自分なりの努力をしないなら、問題は形を変えて繰り返されるだけだということを、「大人」はちゃんと伝えていかなければならないと思う。
言うまでもなく、「彼ら・彼女ら」にこんな社会を用意したのは僕たち大人である。
日本社会が経済的に上昇していないことより、国家や社会が子どもや若者に十全なものを保障できていないことより、僕らは次の世代に何を伝えていけるのかを、そろそろ真剣に考えた方がいい。
パワハラでも、親の期待過剰でも、プライバシーの侵害でも、余計なお世話でもない配慮をもって、本当に伝達すべきことを厳選して手渡していくこと。
考えを押しつけるのではなく、自分で考えられるようになってほしいという願いを伝達し、次の世代に伝えていくこと。
それを、戦後の日本社会はあまりに軽視しすぎてここまでやってきた。

動物にとって、咀嚼は生存の原点なのだ。



1月27日

また性懲りもなく、反政府デモについて書く。
2か月ほど前に「デモはもううんざり」と書いた気持ちに偽りはないけど、在タイ者である以上、避けて通れないデモ情報のチェックを通じて、やはり日本の報道との距離を感じ、一人でも多くの人間がそういうことを発言しなければならないという気持ちが強くなってきたからだ。

まず、日本での報道が「海外危険情報」に陥りがちであること。
有名な海外旅行ガイドブック一般にも言えることだが、日本という国は今や、「危険だという情報を出してくれなかったから、不測の事態に巻き込まれたのはあなたのせいだ」という類のクレームを極度に恐れなければならない国になり、そこに「危険だと煽った方が販売効果や視聴率が上がる」という商売のセオリーが絡まって、大げさな危険情報を用いることが多くなりすぎた。

たしかにこのところのバンコク周辺では爆発物事件や発砲事件が見られるようになったし、それ以上に、今後どういう展開が待ち受けているのか全く予測不可能である展開が続いており、僕はここで「大したことはない」という態度ばかりを強調する気はない。
だが、東日本大震災後の原発問題にもはや一部の人しか反応できず、問題視されている秘密保護法についても意識のない国民が多い日本のあきらめムードの方が、僕にはよっぽど怖い。
痛いものを痛いと感じることは恐ろしいことだが、痛いはずのものを痛いとも思わない方がよっぽど問題が大きいのではないか。
痛いものにはアンテナを張り巡らせ、注意を払うことによって少なくとも防御態勢を作ることができる。
自分たちで意識できないうちに進行している病気は、気がついたときにはもう手遅れ、ということもしばしば。
交通事故死者数の実に5倍ともなる毎日90人もの人々が自殺している日本の国内問題が示すように、人の内部から静かに腐食させる心の病の蔓延がどうして日本ではもっと声高に危険だと叫ばれないのだろうか。
デモで毎日90人の人が死んでいたら、これはもはや内戦であり、日本人などとっくに緊急避難命令である。

国内であろうと国外であろうと、僕らは動物であるかぎり、ある種の危険と隣り合わせに生きている。
それをどう切り抜けていくのかに配慮しながら、ささやかな幸せを守ることもまた、国内・国外を問わず僕らが目指すところだ。
それならば、いま報道が考えなければならないことは、東日本大震災ニュースで埋め尽くされた一時期のテレビ番組編成が一定人数の視聴者をノイローゼに巻き込んだ事例が示すように、不安を煽るような言説をまき散らすことではないはずだ。
この意見は一見、先に僕が記した「今となっては原発問題に一部の人しか反応できないような日本」への批判と矛盾しているようにとられるかもしれないが、問題が関心の高い時期に煽られることと、風化を防ぎつつ問題意識を深めることはまったく別問題である。

ここで次の話題への導入点が見えた。
新聞のような活字媒体での紙面の制約やニュースでの放送時間枠があることも、ネット情報では文字数がやたらに多いと敬遠される状態にあることも承知で言えば、この反政府デモに関する問題点の指摘は、一つ一つのニュースの中では断片的で、しかもほとんど触れられていない事項もある。
断片的だという点は、この問題に関心を持っている人々がニュース・ソースを増やすことによって補い、個々に総合化すればよい話なので、ここではあまり触れられることのない話題を挙げてみたい。
中には報道と銘打つほど大したことのない話題も含まれているが、そこを紹介するのもまたこの記事の意義でもあると思うので、ご理解いただきたい。
そして、それ以外の意味で、どうしてこういう報道がなされないのかを考察してみたい。

◎ UDD(親タクシン派)のデモでは直接暴力が振るわれるような方式が採られたが、今回の反政府デモ(以降、このデモの筆頭主導団体であるPDRCの名称を用いる)や2008年のPADデモはある程度の統率力が行き届き、できるかぎり暴力に訴えないデモを展開している。PDRCはデモ行進時に交通整理まで行っている。しかし、日本の報道では両者の差がイメージできない。
→ 王室の権威が保障され、民衆にも相当に支持されているタイ王国にあって、タクシン勢力はその構造への対抗勢力である性質が強い。また、軍の指揮には王室の意向が反映されており、タイ警察のように内閣の指示で動く組織とは全く別物となっている。また、そもそもこれまでの歴代首相が軍人から輩出されることが多く、軍そのものが政局においてタクシン派とライヴァル関係にある。こうしたことから、UDDには武装闘争しなければならない状況が存在する。一方、PDRCには軍や王室からのフォローが期待できるという背景がある。
→ 日本ではどちら側が政権に就いても、その後の両国関係をスムーズにスタートさせるため、できればどちらか一方に肩入れしたくない。報道関係各社も同様であろう。

◎ 反政府運動指導者たちは民主主義を後退させ、選挙を否定する方向性を打ち出しているという報道は正しいが、タイよりはるかに安定しており、政治的に安定しているという安心感のあるシンガポールは実質一党独裁状態で国の安定と経済的発展を図ってきた。マレーシアもこれに似た状況が存在する。経済成長に関しては、蒋経国時代の台湾やパク・チョンヒ(朴正煕)時代の韓国、スハルト時代のインドネシア、マルコス時代のフィリピンなどでは、強権政治の手法で一定の成果を上げており、近年では再評価の対象となる機会も多い。また、最近とみに日本でも評価の高いブータンは意識的に反鎖国状態を保つことで伝統文化や自然環境を護持して国民総幸福度を高める努力が国際的にも認められている。民主主義=正義と本当に言い切れるのだろうか?
→ タイの国民投票では得票のための買収がかなり大っぴらに行われており、これに対する有権者側に罪の意識がかなり薄い。また、民衆(殊に農村を中心とした地方)はコモンセンスより専ら自身の直接の利益を導入してくれる政党を第一に考えている。
→ タイも日本もアメリカの後ろ盾で国体を維持してきた近代の歴史があり、今もアメリカのプレゼンスは相当に高い。そのアメリカは民主主義に関して進歩史観のうえで人類の現時点における最高のカードであるとの姿勢を疑うことがない。これはEUの代表的諸国も日本も同様である。いったん民主主義の舞台に立ったからには、そこから一歩下がることを許さない先進国の姿勢は、ドミノ理論を妄信して社会主義との徹底抗戦を貫こうとした冷戦時代の姿勢と通じるものがあると感じる。

◎ UDDの支持層がタイ北部・東北部(イサーン)にあることはよく報道されてきたが、今回の反政府運動に動員されている地方出身者が南部から多く出ていることについての報道が少ない。バンコク以外ではこれまで比較的潤ってきた地方であるタイ南部は、既得権を北部やイサーン(東北タイ)に奪われたくないという背景がある。しかし、既得権益を有しているということは、日本としても失いたくない利益を持っているということでもあるし、これは北部や東北部のような「農民に再分配を求める改革運動」という目新しくて読者受けのよいニュースではないため、ほとんど無視されている。
→ タイ南部はマレーシアと接しており、イスラム教徒が多い。2006年のクーデターの際、軍を率いたソンティ・ブンヤラットカリンがムスリムであったことも、こうした事態と関連している可能性がある。植民地化を防ぐためにビルマ・マレーシアを押さえていたイギリスとヴェトナム・ラオス・カンボジアを手中にしていたフランスとの緩衝国家たろうとしたことでも有名なタイは、勢力間のパワー・バランスを利用することに長けた国家である。

やはり僕らはニュースが一面的なものであることを強く認識しておいた方がよい。
特に、政治はきれいだとか汚いだとかいう前に、互いの勢力が伸長するために目論見をもって動くものであって、その意思を欠いたものはまともな運営ができない土俵なのだということは自明である。
かといって、ネット記事を片っ端から鵜呑みにするのもまた、ソースとして危険だ。
そう、もちろん僕の書いているこの文章だって、斜め読みしてもらった方が健全だろう。
情報を分析する間断もなく、次の情報洪水がまた日々訪れる。
それでも僕らは自分たちの身を守るために、自分なりの見解を打ち立て、世間に対処していく必要があるはずだ。
それがおそらく現代の「狩猟」なのだ。



2013年

12月3日

ここにデモのことを書くのも、「またか」という気分がどこかにある。

2006年のクーデタータクシン失脚)
2008年のPADデモ(空港・首相府などの占拠)
2009年のUDDデモ(パタヤーのアセアン会議の撤収)
2010年のUDDデモ(セントラル・ワールドなどに放火)
ここに、2011年には、政権とは直接関係がないものの、大きな洪水騒動があった。
2012年は、久しぶりに安定した1年だったが、その翌年にはまたこんな騒ぎになっている。
以前の村上春樹作品の主人公なら、間違いなく今年、「やれやれ」と呟いたに違いない。

この気持ちの中には、「仕事に迷惑をかけないでくれ」というバンコク生活者の本音もある。
だが、それをはるか上回って、今回は自身の気分が白け切って…いや、少し違う、心が弛緩しきっているのだ。
たとえば、タイ人の友人の奥さんが、鼻息荒く反政府運動に出かけようとしたとき、友人は「それならなぜ、(このインラック政権が誕生することになったときの)選挙に行かなかったの?」と尋ねると、「悪いものを倒すのは当然」だと奥さんは返し、その中にはまったく彼の質問の答えはなかったと、そんな話を彼のため息交じりに聞いた。
友人の気持ちはひどくよく分かる。
仏教からの影響もあるのだろうか、この国では「善」と「悪」の二元論がきっぱりしており、「相手は『悪』なので何を言ったとしても聞く耳を持たない」という態度となって表れやすい。
そんなとき僕は決まって、子供の頃に見た戦隊もののテレビ番組を思い出す。

反政府活動側の言い分の中に、もっともだと思わせるものがある。
UDD(赤シャツ=現与党のタイ貢献党支持派)のカウンター・デモ隊のほとんどは、500バーツだとか1000バーツだとかの日当目当てで田舎からやってきた、事情のよく呑み込めていない高齢者ばかりではないか、というものだ。
この話はたぶんデマではない。
これまでにも同じようなことが日常茶飯にようにあり、人集めのための人員募集が、僕の友人のタイ人たちのところに出回っていたのも知っている。
僕は愚かにも、2010年5月23日の日記(UDDデモについて)に、笑顔で手を振りながら、帰郷者を無料で送るバスでバンコクを出ていくUDD参加者のニュース映像に対して真剣に腹を立てていたことを記した。
だが、あの笑顔の裏側には、本当に何もなかったのだ。
彼ら・彼女らは「そこにいるだけで日当のもらえるおいしいバイト募集に集まった人たち」でしかなかった。
バイトの話は当時も知ってはいたが、それでもUDDの信念に基づく何かがある人が多いのではないかと、どこかでそんなふうに感じていた。
でもまったくそうではなかったことは、あの帰郷バスの窓から手を振っていた人々の屈託のない笑顔が証明してしまった。
タイでよくある脱力感に浸された気持ちになった。
ただ、これでもっとはっきりしたのは、UDDが標榜する民主主義とは単なる多数決のことであって、無自覚な農村の人々を弄することにスポットを当てるものではないということだ。

ただ、それでは反政府側はどうかというと、これまでにもPAD(黄シャツ=反UDD団体だが、すでに解散)がやってきたことを繰り返して、首相府で攻防戦を繰り広げている。
当初の目標であったタクシン元首相帰国に直結する恩赦法の廃案は、与党から速やかに行われたが、デモは振り上げた拳を下ろすことなく、インラック政権打倒を掲げた反政府運動へと切り替わっていった。
要するに、デモ側は選挙結果で選ばれた与党をひっくり返そうというのであるが、これも2008年のPADと同じやり口。
正義のためなら周囲を巻き込むのもやむを得ないどころか、積極的に迷惑をかけて、それらをすべて与党へのプレッシャーにしようという発想である。
ところがこれまた、この選挙自体、投票にカネがばら撒かれているので、そもそも不正なのである。
しかし、なぜかタイという国は、票の売買を糾弾して取り締まろうという方向には動かない。
その代わり、民選議員以外の「貴族院」的ポストを国会内に設けることを、PADは要求した。
そうしないと「タイの良心」ははたらかないというのである。
言いたい気分は分かる気がするが、どのみちこれらは、カネと権力があまりにも正面に躍り出てくる、タイのTVドラマそっくりの綱引き大会なのだ。

立憲君主国であるタイは、それがいかなる陣営の国民であっても、法の下にあらねばならない。
民主主義云々の前に、法治国家であらねばなるまい。
その礎となるタイの憲法は、1932年の「シャム王国統治憲章」以来、スラユット暫定首相時に発布された2007年憲法で、実に18番目のものとなる。
アメリカにお伺いを立てながら戦後すぐ打ち立てられた1946年発布の憲法を固守している国のこともどうかと思うが、その話は置いておいて、なぜこうもタイで改憲が相次ぐのかといえば、これまた自陣営への利益導入綱引き合戦だからなのだ。
そんな憲法を仰ぐ法治国家の国民であると、どこのだれが思えるだろうか。

司法もまた厄介な位置にある。
どう転んでも総選挙では圧倒的な票田を持つタクシン派に対して、タイの憲法裁判所は与党を違憲として解党させたり、選挙結果の無効宣言をしたりと、行政への介入を繰り返してきた。
そもそも、公正さというものはこの国では建前や口上でしかないうえ、ジャッジの基礎である憲法がこのような状態なので、司法はあくまで恣意的な意思決定の場にしかなり得ない。
そして、国民も政治団体も、最後の頼みとするのは決まって国王と軍である。
国の父と仰がれ、1992年の多量流血を伴った政治危機のときには両陣営トップへの一喝で事態を収拾したプミポン国王と、2006年にも見られたように、政治に「腐敗」がみられるとクーデターを起こして事を清算してきたタイ国軍。
結局、誰も自分たちの力だけで信念を貫き通すことができない。

やっぱりどこをどう眺めても、間延びした脱力に浸されるばかりなのだ。

国民和解のプロセスが、案の定、自分たちの利益優先に切り替わり、言葉より感情が流れを作り、無責任な闘争が起こる。
この国のエゴ綱引きはもううんざり。
でも残念ながら、こうした事態は世界中のスタンダードでもある。



8月31日

国際結婚について、配偶者の郷里との関係を主にマイナス面からご紹介する記事が連続したので、今回は、国際結婚のいいところについて書いてみるとしよう。

夫婦ともなれば、どうしても口喧嘩が避けられない場面は多い。
親子喧嘩、兄弟喧嘩と同じく、夫婦喧嘩もまた、相手のことをよく知っているからこそ起こる。
自分とどこか似ているけれども非なる存在だからこそ起こる。
安定した共通の基盤があって、そこにどうしても譲れない価値観の摩擦が生じるから起こる。
そこを裏返せば、自分と似てはいない、共通の基盤に乗っからない関係であれば、近いものどうしのこうした喧嘩は発生しにくいだろう。
ただ、それではそもそも、家族関係はばらばらにならざるを得ないし、夫婦や恋人にしても、共通した土台がなければ恋愛に発展しづらい。

そう、そこで国際結婚なのである。
相手に惹かれる部分に個人的な相性が関わってくるのは相手が同じ日本人であっても同じことだが、何かしら衝突の火種になる事柄が飛び出してきても、相手と自分が共有している常識自体が異なっていると、許容範囲がぐっと広がるのだ。
夫婦喧嘩の多くは、どちらの言い分が正しいかが争点となる。
しかし、相手の常識が自分の常識と異なっているとなると、そもそもどちらが正しいのかは晴れぬ霧の中である。

例えば、僕が以前伝えたことを、妻が忘れていたとする。
それが大事なことであれば、まずは怒りを感じるが、ちゃんと伝えることができていたか、言葉の問題がすぐに浮かび上がってくる。
僕にとっても妻にとってもタイ語はお互いの母語ではないから、話し手にせよ聞き手にせよ、お互いに「伝達し合えることがまずは素晴らしいとしよう」という基本理解があって、それが伝達ミスとなっても仕方がないと許しあえる環境がある。
まあ、僕のケースは特殊かもしれないが、それでも自身と母語の異なる配偶者との間には言語伝達に関する姿勢が鷹揚になることについては軌を一つにするのではなかろうか。

もちろん、前回・前々回と言及したように、相手にせよ自身にせよ、共に暮らす時間が長くなるにつれ、その社会背景自体がおかしいと感じることも増えてはくる。
お互いへの理解と慣れが深まるごとに、共通認識も形成されてゆく。
旦那にせよ奥さんにせよ、「あれ」というだけでそれが何のことか通じ合うような「メタ言語」も生じる。
それでも、相手にどこまでのことを期待できるのかという閾値が、異文化の中で育ってきた人間同士の間ではどうしても狭くなることに変わりはない。
日本人どうしの付き合いは、相手への期待があるからこそ理解度が高く濃密なうえにスピードが速いのだが、相手と自身とのちょっとしたずれに対しても神経過敏になりがちである。
その点国際結婚では、相手への期待はお互いの個々のパーソナリティーに基づいて、期待していい部分とあきらめた方がよい部分とに分別され、もし期待できない部分にメスを入れようとしてつまづいても、怒りではなく空しさが先に立つ。
怒りはあくまでアクティヴな心理なので、フラストレーションがたまってくればまた吐き出す出口として立ち現れやすいが、空しいとただ孤独な無力感に襲われるだけなので、同じ失敗を繰り返したくなくなるという、なんだかいいのか悪いのかわからないけれど、夫婦生活を円満なものにする効果があるのだ。
そう、「あきらめ」というところがポイントなのだ。

ただ、賢明な読者にはもうお察しがついているだろうが、国際結婚では、お互いの心が離れると離婚まで心理的にぐっと近くなる面もある。
民族的な常識を基盤としないだけに、お互いに対する信頼が、人生を共にする理由のほぼすべてと言ってもいいくらいであるうえ、「あきらめ」がお互いの関係に向いてしまうと取り返しがつかない。
そこにも僕は国際結婚の利点を無理からでも見出そうとするのだが、国際結婚をした人間が離婚するとなると、共通の民族性という第三者を加えこまないために、すべては自分に返ってくる。
相手が自分を見限ったのも、自分が相手に情熱を持てなくなったのも、すべては自分が構築しようとした関係の何らかの失敗にしか帰結しない。
相手に過度の期待をできない部分があるからこそ、自分がそこを補うという意欲がなければ、国際結婚の家庭は維持できない。
その意欲もなしに、相手にとっても自分にとってもいいとこ取りをしようというのであれば、それは国際結婚であれ同族どうしの結婚であれ、単に行きずりの関係でしかない。
終局にしてさえ学びあり、そんなおいしい関係が国際結婚なのである。
でもこんな縁起でもない話は、ここでやめておくことにする。

タイに長く暮らしている日本人は、顔に年輪が刻まれにくい。
ある程度以上の年齢に達していても若く見えるのは、コンプレックスであるにしても、まんざら悪い気持ちのするものではない。
ただ、社会的な責務から解放されてキリギリス的な生き方をしている証であるなら恥ずかしいことだと、僕は長らくそう思ってきた。
だが、ある日はたと気づいた。

タイで暮らしていると、突然何の前触れもなく、気にも留めていなかった事態が思いもかけない急転直下するようなできごとに何度も出くわす。
でもそんなとき指をくわえて見ているわけにはいかない。
事態をこじ開け、なんとか精一杯やるだけのことをやるしかない。
「それは世界中どこだって同じことだ」とあなたはおっしゃるかもしれない。
「結果に対するシビアさは日本の方が数段上だ」とも考えられるかもしれない。
しかし、起こってくる事態や急転直下ぶりが、想像を絶するレヴェルのものばかりなのである。

妻のことで例を挙げてみよう。
・タイでの身分証明が何もないまま、僕は当時恋人だった妻が半ば強制労働させられている場所から脱出するのを手伝い、その後数年かくまうことになった。
・妻の身分証明取得のために、隠密にその方法を探索することになった。
・ようやく身分証明を得られたので結婚披露宴を行うと、予定日がバンコクの洪水危機と重なった。披露宴の日から僕の職場が無期限の閉鎖に入り、再開の目途は立たないままだった。
・外国人男性との婚姻が禁じられているため、義父は娘(僕の妻)の婚姻届を、僕の名前ではなくビルマ人の名前で出してしまった(これはのちに誤解であると判明)。
・妻の実家のある村の土地権利者が突然現れて、土地開発のための強制立ち退きを通告した(のちに開発地域が他所に移ったため難を逃れた)。
・妻の実家から「妹が私立校に入学する」「家を新築する」「耕運機を買う」と資金調達の知らせが来るのは、いつも「明日入金してほしい」という唐突な連絡である。
・50代の義父のところに、民族解放戦線から徴兵の通達がやってきた。この年齢での常識はずれな徴兵命令のため、陰謀説ややっかみ説など、様々な憶測が涙とともに飛び交っている。
ざっとこんな感じである。

あれ? 今回は国際結婚の美点についての話ではなかったのか?
つっこみはごもっとも。
でももう少し話を続けさせてほしい。

こんな事態を何とか切り開いていくしかないとなったとき、僕らは歳などとっていられないのだ。
事態にスピーディーに、パワフルに対処しなければ、後の祭りとなった先のことすら想像できない。
顔が若く見えるというより、精神的に若くあり続けなければ、生き残っていくこともできない。
そう、国際結婚は若さの秘訣なのだ。

相手がミステリアスな存在であればあるほど心惹かれる傾向がある人は多いだろう。
僕にとって妻はミステリアスを造形したも同然の存在である。
なにしろ、彼女は今住んでいるタイの国民でもないし、辺境作家の高野秀行氏が江戸時代に例えたビルマの少数民族の出身である。
彼女の実家の近くには世界的なルビーの鉱山があり、何のコネもおいしい商取引の交渉ネタも持ち合わせていない僕には訪問すらままならない。
閉ざされたタイムスリップ郷からやってきた、小説の登場人物といってもいいような人間なのだ。
これではなかなか相手に飽きることができない。
次々に降りかかる大問題の火の粉にしても、僕らは無力ながらなんとか越えていくしかない。
そのたび、僕はまだ自分の中に残る若さの残滓を振り絞って、自分の力をむやみに信じるしかない。

しばしば人生は旅に例えられる。
たぶん、国際結婚は人生に長旅の要素を持ち込む行為だと言える。
ほとんど先の予測はつかないけれど、相手によって自分を柔軟に変容させ、それでもどうしようもなく変わらない自分を抱え、そのすべてを自分にとって必要なものと捉えることができないと、長続きしない。
人生に旅を感じたいあなたには、国際結婚こそその舞台であることをお知らせしたい。



6月3日

あまり楽しいお話ではないかもしれないけれど、先日(今年2月8日)の話の続編です。
東南アジアの人との国際結婚を考えられている方に、何らかのヒントとなればいいなと思っています。


妻の実家一帯が立ち退きになるという話に一時、あたふたした。
妻の実家のある小さな集落の土地の権利を持っているという人間が登場して、「すでに集落の住民は居住権を失効している。この一帯を速やかに返却せよ」という話になったというのである。
蜂の巣をつついたごとき騒ぎになったのは…実は僕の頭の中だけだった。
「そうなったら近くの街に家を移すらしい」と、妻は恐れ入るほど淡々と話して聞かせた。
その動じない素振りがそのまま反映されたのか、1ヶ月ほど経つと、近くにある別の集落が立ち退きになって、どうやらそこにミャンマー政府絡みの大きな施設を作り上げることになるという。

胸を撫で下ろしたはよかったが、そんなことで話は収まらない。
そのとき家を移すことを真剣に考えた妻の実家は、その勢いのまま、村の中で家を新築する心積もりを決めてしまった。
そうなるともちろん、またもや僕のところに負担が転がり込んでくる。
つい1ヶ月前、耕運機を買うということで、それなりの送金を済ませたところなのに。
いや、妻の帰省にせよ、それ以前の義父の入院にせよ、貯金を切り崩した分の補填が完了する前々にこうした無心が連発している。
混乱に拍車をかけるのは、こういった事態に関して出費協力を周囲に仰ぐのに、事前相談もなく、ある日突然決定事項として伝わってくることである。
妻は僕の立場や資金力・労働状況をかなり理解しているにもかかわらず、事態は一向に好転しないのはなぜか。
それが今回のお話である。

まず、以前にも書いたところから出発しよう。
東南アジアの農村社会では、子が親を尊敬し、できるかぎりの仕送りをするのが当然のこととして定着している。
「甘え」や「自立」という言葉とはまったく無縁に、べったりと甘い愛情で結ばれている親子は、よほどのことがないかぎり距離感をもってお互いを客観視することができなくなっている。
妻の叔母が先日離婚したのだが、その最終的なきっかけは、タイ人の夫に「俺と母親と、どちらといられればお前は幸せなのか?」と問われ、「母親だ」と答えたことにある。
この夫の質問自体が子供っぽいひがみから発せられたものであるともいえるのは確かだ。
しかし、叔母はこれまで何度も長期帰省していたうえ、今回は4ヶ月の里での滞在後、数日だけ夫の元に戻ったと思ったらすぐに「母親をチェンマイに連れて行く」と家を出て、さらに2ヶ月も実家とチェンマイを行き来して、お金が足りなくなったら夫に送金を打診するばかりで、計半年もバンコクを留守にしたのである。
彼の質問は、僕には至極まっとうなものに思えるし、これまでタイ滞在の面で様々な便宜を図ってもくれたはずの夫に対するにべもない返事をする叔母の姿はひどく冷酷に映る(ちなみに、黙って送金を続ける叔母の夫は妻の里では「いい夫」であり、送金に対して冷静な判断を促すことのある僕は「嫁を怖がらせ、黙らせている夫ではないか」というイメージであるという。また、叔母は離婚状態であることを秘密にし続けている)。
かように、東南アジアでの親子関係(特に母親と娘の関係)は絶大なものなのだ。
だから離婚率は極めて高いが、母子の絆が残されているならばそれでよしとする風潮が子から孫へと伝播されていくことも、さらに離婚率を押し上げる形になっている。
そして、東南アジアで一部の貧しい家庭の娘が春をひさぐことに関して、最近では買春者への非難ばかりが席巻してしまっているが、この親子関係が「親が幸せならばそれでいい」という娘の間違った献身性を生み出していることも忘れてはならない。

次に、農村暮らしの立場から都会生活を思いやることが難しいという問題がある。
もちろん都会暮らしの僕も、農村の現実をちゃんと把握しているのかと問われれば答えに窮するが、限定された範囲の中で理解に努めようとすることはできる。
だが、妻の実家の人々にとって、「都会」や「外国人」は富の象徴でしかない。
収入にしたがって支出も多く、農村のような共同体に属していないだけに、自分の身は自分で守るしかないという原則があり、安易に子を産んで将来を子の収入に頼るという考えも、法規的な認可を僕たちのケースでは受けられないという現実が存在することも、まったく理解されない。
お金のあるところから回してもらうという考え方しか、そこには存在していない。
ここで最も厄介なのは、サラリーという考えを理解してもらえないことである。
村では何か大きなお金を動かすことになると、家畜や土地や金品などの固定資産を動かして当座の資金とすることが多いが、僕は住居はおろか車も購入したことのない人間である。
そうなるとダイレクトに月給か貯金しか運用することはできないのだが、その月々のプラス・マイナスに神経を使う生き方が理解されないとなると、大きな収入がないかぎりサラリーマンの資金繰りシステムがほとんど崩壊してしまう。

そして、お金に関する常識の違いがさらに話をややこしいものにしてしまう。
現金や貯金がいかにアジア世界の中で歴史的・地理的に軽視されてきたかということも、互助のために親戚縁者やムラ社会が「ケチ」な素振りをいかに許さないかということも、以前にご紹介した。
しかし、この話にはこれまで書いてきたことを複合した続きが用意されている。
いざというときに同じ共同体の家庭を助けるやり方は、その村落での勝手知ったるおのおのの収入に応じた出費を求めるが、都会で暮らす外国人の僕は、この意味では蔵を持った家庭のような扱いである。
一方で、妻は収入増のために働いているが、タイ人でも先進国の人間でもないことで足元を見られ、安い日給で、日によっては朝7時に出勤して帰りは午前1時ということもままあり、相当にストレスを募らせている。
親に尽くすことは宗教以上の価値を持つので、時折「あなたに迷惑をかけ続けて、親にも思うように報いることができない。自分などこの世からいなくなってしまえばいいのではないだろうか」とこぼすこともある。
貧しさを補い合うための互助装置を都会のサラリー生活に持ち込まれてしまうと、もともと甘えの関係である東南アジアの親子関係も、精神的な拠り所という一点で結びついている子のいない夫婦関係も、同時にひび割れてしまうのである。
親の甘えは子からの仕送り面で、子の甘えは親を絶対視することで交差し、無軌道で無自覚なお金の無心の連鎖を生む。
義父母に対して「サラリー生活や都会生活を理解してくれ」と求めたところで、妻が板挟みになるだけの話で何ひとつ好転しないし、それが自分の両親に対する批判をどうしても含んでしまうことになる以上、妻にとっては不愉快な話題にならざるを得ない。
そうして、毎回の仕送りを言われたとおりに終えたあと、「これで少しの間は落ち着いていられる」と小春日和を喜ぶことで、何とかやってきた。
けれども、「なんだかんだ言いながら、やっぱり今回も娘夫婦はリクエストに応えることができた」という現実が、いっそう僕たちを「蔵のある家庭」扱いへと押し上げて、事態はどんどん泥沼にはまっていく。
時計もカレンダーも持たずに日々を過ごす素朴なカントリー・ライフの現実は、残念だけれどこんなものだ。

僕が最も重要なファクターだと感じていることは、「衣食足りて礼節を知る」ということわざに集約されている。
これまでの仕送りに対して、僕はこれまでたった一度も感謝の意を伝えられたことがない。
一人暮らしで生活をある程度切り詰めている僕の母親は、「自分へのお土産など考えなくていい」と言いながら、僕の帰省のたびに妻や義父母への贈り物を持たせる。
僕も妻自身の帰省時だけではなく、妻の親戚縁者が里帰りするたびに、その人と妻の実家に宛てた援助やプレゼントを毎回用意している。
こうした心遣いにも、一度だって「ありがとう」の一言すらないのだ。
もちろん、僕が里帰りするときに母親や僕に何かの心づけを受け取ったこともない。
それを民族的な習慣だというなら、こんなに悲しい習慣もない。
このところ帰省のたびに母親になけなしのお金しか渡すことのできない僕は、母親を不憫に思ってあわせる顔がないままである。
たった一言が人の気持ちを温め、心と心をつなぐことだけは、何がどうあってもわかってほしい。

日本からやってくる、家族関係の崩壊を思わせる近頃のニュースは実に痛々しい。
だが、僕は安直に「昔の家族関係はさぞ温かくて……」とは言わないようにしよう。
一見すると美しい「子が親を一途に思う気持ち」の皮を一枚めくってみれば、その観念のゆえに、親子以外の人間関係を冷却させ、お互いの客観性を奪い、親がおよそ「子の幸せを願っている」というには程遠いカネでの結びつきが最終的に絆となってしまう現実が横たわっている。
ただ、かつての日本では「嫁入りした以上は、実家に戻る場所はない」という強い覚悟のもとに親子は結婚を新たな人生の門出としたが、東南アジアにはその重みもないから、結婚がもたらす「約束された特別な人間関係」は「約束以前に生んだ親と生まれた子」という絆の前では脆弱さを孕んでいることは付け加えておこう。

前回と同じように、シリアスになりすぎないよう、明日はどこ吹く風で鷹揚にやっていこうと決めている。
でも、時々やっぱり思いを巡らせてしまう日がある。
こうして気持ちを吐き出さなければやっていけないと思う日がある。
そして、義父母から「ありがとう」の言葉を聞いて胸を熱くする日がいつか来ることを心の底から望んでやまない日がある。

――以上、タイで国際結婚した男のつぶやきでした。



2月8日

妻が2ヶ月ほど帰省している。
いきなりからせこい話で恐縮だが、そこで持ち出すことになった額は、僕の日本帰省よりもはるかに高額なのである。
こうなってしまうのにはいくつかの理由がある。
たとえば、タイ国境の町タキレックから妻の里に近い町までの移動には、ハイヤーを使用するより手がないのだけど、この仕事はほとんど個人の独占状態となっていることと、それから、途中にあちこちかなり待ち受けている軍の検問所でそれぞれに賄賂を要求されることとで、請求額は向こうの言い値になってしまって、交渉の余地はまったくない。
また、これよりはるかに大きな額が動くのは、両親に渡すお金や、親族・知人に配るお土産にかかるお金である。
これまでともに暮らしてきた中で見たこともない馬力をフル稼働して、自分のからだが丸ごと入るほどの鞄をいつくも抱えて、小柄な妻は帰省していった。
今回は、ミャンマー国軍やハイヤー運転手についての愚痴はさておいて、タイヤイ族(や東南アジアの人々)との結婚の副産物のひとつを眺めるため、妻と両親や親戚・知人にどうしてこんなお金の動きが出るのか、それが僕の目にどのように映り、どうかかわってくるのか、ご紹介してみよう。

まず、東南アジアの共通点のひとつに、独特な親子の絆がある。
高度経済成長期以前の日本でも見られたはずの話だが、子の親に対する思慕の念は絶大で、大半の子の大人になりたい理由は「大きくなって親を助けてあげたいから」である。
ただ日本と違うのは、親自身の子に対するプライドの持ちようで、東南アジア諸国庶民の「大人」の多くは仕事や人生に対するプロ意識を自己の中心にすえることはなく、あくまで植物や動物のように、特定の物事への寄る辺なく生をありのままに生きている。
先進国側の人間から見れば、それは限りなくアマチュアリズムに近い生き方である。
たとえば、タイヤイ族の親の多くは、躾として「それが子の成長のためにならないから叱る」ことよりも、自分の感情の激高で怒るとしばしば耳にする。
物を落っことして壊してしまったとすると、子が注意不足であることや、落とさないための工夫をしなかったことを叱るのではなく、それが親にとって大切なものなのに壊されたから怒るというような具合に。
親の資質が取り沙汰される日本と比べれば、なんとお気軽なことかと、羨ましく感じられる方もいらっしゃることだろう。
しかし、発展途上にある地域では、物の価値は総じて高い。
物をため込むことが悪しき習慣のようにさえ言われる今の日本人には、それを自身の価値だけでああだこうだ言っても、話の次元が違うとはいえる。
また、「反抗期」なるものも、生活に余裕があるからこそ存在しえるモラトリアムの楼閣であろう。
自分たちのコミュニティーが押しなべて貧しい中では、自身の成功を夢見ながら、その利益をともに苦労してきた家族に還元したいと願うのは、自然な成り行きだと思う。
ただし、親がそこにアマチュアリズムの胡坐をかいている節があるのはどうしようもない事実だ。
たとえ途上国の人たちの老化が早く、子からの支援が早期から必要であるとしても。

次に、お金に対する意識について。
これまで東南アジア諸国で自国の貨幣が何度もその価値を損ない続けてきた金銭への信用問題であるとか、銀行が身近に存在しないことであるとか、ビルマの場合にはビルマ兵による略奪の可能性が高いことであるとか、諸問題が横たわっていることを分かったうえでいうのだけれど、蓄財の意識が相当に薄い。
これも先進国的な観点から言えば、東南アジアの多くの人々にとって、金銭はあれば使うものであって、家の新築程度までの金額であれば、それは貯蓄ではなく投資に回すという限度額の高さを誇る。
また、こういう姿勢である以上、「カネはあるところにはあるし、ないところにはない」という考え方になってしまい、親族がみな同等の経済レヴェルにあればいいが、誰かの懐にまとまった額が転がり込んでくると、どこまでたどればいいのか分からないくらい遠い親族までが群がってきて、相当な大金でないかぎりは、瞬く間に雲散霧消してしまう。
こういう場合に金払いが悪いと貼りつけられる「ケチ」というレッテルは、親族関係の広がりとは裏腹にごく狭いムラ社会を生きている人々にとっては、その濃密なネットワークからの離脱への序曲を意味するので、「金は天下の回り物」という言葉が、高度経済成長社会とはまた違った観点でさらに意味を深めることとなる。

ちなみに、蓄財に関してフォローするなら、めまぐるしく変動する自国の貨幣価値を信用できないことから、東南アジアでは金(お金ではなく貴金属の「金」のこと)を買い求める人が多い。
金は世界中でも価値の変動がさほど大きくない、安定した財産となる。
しかも、アクセサリーとして身につけることもできるので、一挙両得なのだ。
ただ、僕はこの「他人に見せびらかす」ことに、いかにも日本人らしい疑問符を持っている。
アジアではブランド品などをセレクトする場合、そのブランドのロゴが前面に出ているような、あからさまな見せびらかしを想定した買い物をしようとする傾向がある。
タイで携帯電話やスマートフォンを毎年買い換える人が多いことも、タイ人女性が恋人候補になりたいという男性のマイカーの所持をチェックしようとすることも、まったく同じ心理からきている。
だが、警察も資産家の一家のためには犯人検挙に総力を挙げても、貧乏人が無理して買った金品を盗まれるような被害届には書類作成をするくらいの対応しか見せないような地域で、なぜ羽振りがいいようなそぶりを見せて犯罪の被害者候補にならなければならないのか、まったく理解に苦しむ。
現に、以前つきあっていたタイ人女性は、デパートの人気のないところで催眠ガスのようなものを嗅がされて、僕がプレゼントした(というか、させられた)金のブレスレットを盗まれたが、彼女は警察に届けることすらしなかった。

話が少し脱線したのでその話はさておいて、家の新築にせよ、バイクを購入することにせよ、資金繰りが苦しくなったら売却するというのは金と同じである。
そんなわけで、結婚したときに僕が妻の両親に送った(日本でいうところの)結納金は、翌月にはすっかりなくなっていたそうだ。

僕のような「タイで現地採用されている日本人」はこういうところで割を食うことになる。
妻の郷里一帯でも、中国人男性を筆頭に、「金持ちと結婚したから家が建った」という例は枚挙に暇がないという。
娘が玉の輿に乗れば自分たちの生活がよくなるという親の思いが、子の「親に楽をさせてあげたい」という願いと合致するところに、僕のような「収入を主眼とする考え方はさておいて、自分の人生の舞台の選択としてふさわしい場所を選びたい」と考えてタイにやってきた日本人の伴侶が転がり込んできても、妻の郷里の人々にうまくカテゴライズしてもらうことができないのだ。
中国よりも発展した国だという日本人(実際のところ、GDPでは中国に抜かれているのだが)が配偶者となって、バンコクではどう見ても自分たちより相当によい暮らしをしているが、資金援助はさほど大きくないということになると、たとえいくぶんか許しを得られたとしても「やっぱり異人なんだな」と思ってもらえるあたりで関の山なのである。
日ごろ日本人がいかに自分たちの老後や、子ができたときのための準備や、大病を患ったときのための用意に充てた貯蓄をし、その資金がどのようなストレスや葛藤の中から生じてきているのかを理解してもらうのは、刑務所の壁をよじ登って越えるほどに難儀なことだと言わざるを得ない。
こうした思いは、タイ人女性を配偶者とした男性も味わっていると、よく耳にする。
ただ、最近でこそ変化が見られるが、ミャンマー政府のようにこれまでぶ厚い壁を持ち続けてきた国の国境の向こうに、外国の情報を閉ざされてきた村に住む人々にとってはさらに理解が難しく、ミャンマー国軍によるこれまでの数々の略奪や暴力に苦しんできた人々にとっては、なおさらのこととなる。

お互いに共通の観念がないところでの話が続くのが、この手の話題の特徴なのだが、それではいつまでも平行線をたどるだけである。
どこかにお互いの理解が生まれそうなポイントはないものか。
そこで思い至ったのは、僕たちには子を生み育てる予定がないことだ。
タイヤイ族に限らず、アジアの多くの民族、そして戦時中までの日本でさえ、子が親を支えるシステムをとっている。
ところが、僕たちは子を作る条件が整っていない。
ミャンマー政府は現在、自国民女性と他国籍男性との婚姻を禁じている。
日本やタイで婚姻届を出すにも、書類が揃う可能性は今のところきわめて低い。
この条件で子が誕生した場合、1年以内に婚姻を含めた書類が受理されなければ、日本側では僕の子としての認知を一生受けられない形になることは、ヤンゴンの日本大使館ですでに確認した。

子を授かる予定がなければ、大家族がそれを補い支えるのが、アジア諸民族のパターンである。
しかし、僕らは妻と僕の二人だけの超核家族だ。
今のままでいけば、老後の資金は僕たちが何とかするしかない。
このことは、僕らが大病を患ったときにも同様であろう。
親が子からの送金をあてにして生きていけるのは、子も孫や大家族ネットワークからの恩恵を受けられる予定があるか、あるいは子が潤沢な資金を持っているかのどちらかに支えられるからなのだ。
だが、自分たち自身のためになることではなく、親孝行をしたいという気持ちは、本当に美しい。
何とかしてやりたいのは山々なのだが、実は独り身の頃から自身の親にさえ、ほとんど孝行などできていない僕である。

さて、妻が帰省にあたって、両親のためにお金を持ち帰ることも、親族や知人たちのために抱え切れないほどのお土産を持っていったことも、こういった理由による。
世界で最も愛する人を生み育ててくれた妻の両親に対する感謝も、その人の人格形成に多大な影響を与えてくれた郷里の親族・知人たちに対する思いも、忘れずにいたい。
けれども、金銭の問題はあまりに現実的にシビアで、感謝や思いという漠然とした精神世界を軽く踏み越えてしまう。
妻の家族が自立した生活ができる環境を整えるための資金なら、できるかぎり協力したい。
だが、義父や義母たちが郷里にいるかぎりは、収入の見込めるような仕事はまず見当たりそうにない。
でも、だからこそ僕は思う。
シリアスになりすぎるな。
義父や義母にしても、妻にしても、僕の母親にしても、同じことをきっと言う。
明日は明日の風が吹く、と。
そう、それこそがタイヤイにも日本にもタイにも共通して流れている生活の知恵なのだ。
山のようなお土産を抱えて帰省する妻の姿に「ははは」と笑いながら、重い荷物を持つのを手伝うこと。
その鷹揚さこそが、アジアの知恵なのだと、僕は最近ようやく気づき始めた。



2012年

3月1日

とんでもなく重大な難問が発生!
結婚式は挙げたが、婚姻届を出すのが難しい僕たち夫婦。
以前からのお話を拝読いただいた方はご存じだろうが、妻の出身地はビルマ(ミャンマー)のシャン州だ。
ビルマでは人身売買防止策として、ビルマ国籍の女性と外国人との結婚を認めていない。
しかも、妻はタイ・ヤイ族という少数民族出身で、ビルマ政府とは独立運動のために一種の敵対関係にあるというややこしい立場である。
さらに、僕たちが暮らしているのはお互いの本国ではないタイ。
僕たちの結婚の公的証明はもとからかなり困難なのだが。

妻の叔母がこのたびシャン州に里帰りし、そこで役所に結婚を届け出た。
そして、それに触発された妻の父親が叔母に同行し、僕たちの結婚も届け出てしまったのだ。
もちろん僕は、いつか彼女の戸籍を手に入れることができるなら、日本かタイのどちらかの公的機関に、妻の独身証明書として提出するつもりだった。
だが、叔母が勝利のしるしとして持ち帰ってきた戸籍には、僕の妻が結婚済みであることが記載されてしまっているではないか!
しかも、叔母の言によると、「ビルマ語で書きづらい」という理由で、役所の係官は配偶者である僕の名前は、適当な別名での記載登録がなされてしまったという。
うわぁ、「いかにも」なミャンマー政府のお役所仕事。

さて、泡を吹いてばかりいても物事は好転しない。
ピンチのときほど、自分たちができることは限られており、まずはそれを実行してゆくしかない、と日頃から自分に言い聞かせていることを、何度も胸中に繰り返しつぶやく。
現実的な策として、どんなことが考えられるのか。

プラン@
義兄が今月チェンマイを引き揚げて里に帰るので、それまでにビルマ語で正確に書いた僕の名を記した用紙を彼に渡し、その紙を役所に見せて名前の書き直しを行ってもらう。
これが受理されれば、ミャンマー政府から結婚証明を取ることができる可能性が広がる。
ヤンゴンや首都ネピドーで常識となっている外国人男性との結婚禁止制度であっても、地方では、特に少数民族出身者の結婚に関してはほとんど鑑みられていない可能性は大きく、それだからこそ本人の出頭なしに結婚が簡単に記載されてしまったと考えることができる。
だが、もし係官が外国人との結婚禁止を知っていた場合、僕の正確な姓名を提示してしまうと厄介なことになる可能性がある。
そして、これに失敗した場合には、同じ担当者がその窓口にいるかぎり、他の手を打つことが難しくなる。

プランA
この案は@の変形版。
外国人との結婚禁止に触れてしまうリスクを避けるため、結婚届そのものが間違っていたと申請するのである。
かなり杜撰なプランで認められにくそうだが、タイ・ヤイ族と役所の関係を考えると、却ってこのほうが、通りがいいかもしれない。
そして何よりリスクが少ない。
まずは一度この方法から切り込むのがいいかもしれない。
失敗しても、数年たってから他の方法を試してみることは可能だろう。

プランB
配偶者として登記された男性になり澄ました人物に協力を願って、離婚届にサインをしてもらう。
妻が言うには、役所で本人どうしの直接のサインが確認されないと離婚が認められないそうなので、役所のある村から離れたところに住んでいる、面の割れていない人物(できればタイ人)を雇う必要がある。
こうすれば、当初の予定どおり、戸籍が妻の独身証明書となり、クリーンな状態から再スタートを切ることができる。
この方法の難しいところは、まず雇い人の選定をどうすればよいのか見当がつかないところ。
特に、うじゃうじゃいる兵士が各所で雰囲気の悪い検問を行っているダート道を片道2日かけ、妻の村まで同行してくれるような奇特なタイ人を探すのは難しいだろうし、かといって、タキレックあたりでミャンマー国籍の誰かに頼むとすると、軍政下での嘘の発覚を恐れられることが容易に想像できる。
また、こちらも失敗した場合には、同じ担当者がその窓口にいるかぎり、他の手を打つことが難しくなるのは一緒。
ただし、Aのようなゆるゆるのプランも考えたくらいなので、配偶者が蒸発したとか、他の街に出稼ぎに行ったまま戻ってこないというような単純な嘘でしのげる可能性もあり。

プランC
テンポラリー・パスポート(タイ国内滞在だけ認められている、身分証を持たない越境者認定用パスポート)申請をタイのヴァット・ターン・ダーォ(ミャンマー・ラオス・カンボジアからの移民証明書)申請に切り替えてみる方法も検討の余地がある。
叔母は、相手がタイ人ではあるが、この方法で結婚しているので、相手が外国人であっても結婚が認められる可能性もある(これまではヴァット・ターン・ダーォ発給を行っている業者から聞いたところ、どこも日本人との結婚は認められないと言っているが、タイではこういう事態に対して係官や窓口によって対応が違うことが往々にして発生する)。
もし何の爪痕も残さないように結婚申請をするのであれば、この方法が最も信頼できる。
デメリットといえば、まずは本当に結婚が認められるのかということのほかには、ヴァット・ターン・ダーォとテンポラリー・パスポートの両方を取得しなければならないというくらいのものである。
つけ加えれば、この方法だといつ機会が得られるのかはまったく予測がつかないこともあるだろう。

叔母にしてみれば、姪の世話を焼いてあげるという親切心に加え、以前北タイの親戚の家を訪問して彼女のビルマでの身分証明書をその家から持ち帰ったことのある僕への恩返しのつもりもあったのだろう。
結婚した我が娘の晴れの姿を見られなかった義父が、せめてもの気持ちで行きたくもないミャンマーの役所に出向いて、結婚を届けるくらいのことはしたいと考えたこともよく理解できる。
今回の悲劇は、喜劇から成り立っている。
戸籍や名前に対する感覚の大きな違いに加え、人の親切心が物事をとんでもない方向に運んだ。
誰を責めることもできない。
僕も、前を向くことしか考えるまい。

ちなみに、戸籍が重要視されないのは、タイ・ヤイ族にとっての結婚が婚姻届の提出・受理にあるのではなく、自宅での結婚式にあるからだ。
あくまで事実婚=結婚であり、入籍は多民族政府から押しつけられたものでしかない。
そして、名前に対する感覚の違いは、タイでもある程度同様である。
タイではチュー・レンというあだ名で呼び合うのが普通だ。
職場でもそうなので、深い仲でもないかぎり、タイ人の戸籍に記されている姓や名を知ることはない。
そして、チュー・レンがあだ名である以上、本人の意思で突然名が変わることも、故郷と現住所で名を使い分けていることもある。
いわゆる源氏名に後ろめたさがまったくないのである。
だから、タイ・ヤイ族が届け出た配偶者の名をビルマ風に書き換えたところで、ビルマ国内でのことなら何ひとつ問題はないのだ。
僕たちの抱えた問題の行きつくところは、ミャンマー政府が自国民、特に少数民族に外国人との接触を極力許さない姿勢でいることなのだ。
加えて言えば、人身売買や性産業に巣食う輩の残した悪しき行為のとばっちりでもある。

翻弄に翻弄されているような僕たちの生活。
行き先は常に、風に吹かれて揺れている。
でも、お互いが信頼していれば大丈夫。
うん、そう言い聞かせてここまでやってこれたのだから、この先も。


























2011年



















10月23日

冠婚葬祭に、僕はドライな人間だった。
薄情な人間だと言われればそれまでだ。
たしかにそうかもしれない。
ひとりひとりの結びつきこそがすべてであって、形としての式にはほとんど形而上的な意味合いしかないと感じてきたことは事実だ。

婚約者と僕は、2年前に結婚していてもおかしくはなかった。
お互いがお互いを強く必要としていることは、アクセルを踏めば車が進むことと同じくらい明白だった。
それが浮ついた酔いのようなものでないことも。
だが、僕たちには秘密があった(2011年8月24日の当欄をご参照ください)。
お互いにとって異国の首都バンコクでふたりが引き裂かれないようにするためには、どれだけ気を配っても配り過ぎではない。
こうして、森の小動物のように息を潜め、機会を窺いながら僕らは暮らしてきた。
依然として結婚は夢幻のように遠くにあったが、具体的なゴール・テープに似た形を作り上げ始めた。

タイでの滞在許可が降りたら、僕たちはすぐに挙式することを決めていた。
8月21日、待ちに待ち焦がれていた吉報を受け取った僕たちは、結婚までの道を最短距離で突っ走った。
そこに、洪水騒動が不気味にゆっくりとした速度でやってきた。

夜の森で懐中電灯をなくしたような気持ちで、僕たちは、予定していた小さな披露宴の開催をどうするのか、毎日その話題で頭を抱えた。
でも、どこかのところで、その答えもすでにある程度用意していたような気もする。
ぎりぎりまで悩み、僕たちはもしたった二人だけになったとしても、披露宴を決行することとに決めた。
僕たちは充分な客観性をもって物事の選択をするには待ち焦がれ過ぎていたし、周囲の状況に一方的に弄ばれることに疲れてもいた。

だからこそ無事に披露宴を済ませることができたことは一段と、いや、二段三段と感慨深いものがある。
なにより、この騒ぎの中で出席してくれた人たちに、どうしても出席できなかった人たちに、僕たちを応援してくれた人たちに、心からありがとうと言いたい。
そして、みなさんにとって、この披露宴が不穏な空気に包まれたバンコクの中で一つのほの明るいニュースになってくれれば幸いだ。

冠婚葬祭にどんなドラマがあるのか、僕はおそらくまったく無知だった。
家族・親戚や同僚・友人たちにどんないきさつがあり、どんな峠があったのか、僕もいくつかは知っていた。
「いい結婚式でしたね」と、式が終了したあと、同席しただけの方に声をかけてもらい、「ええ」と返事をしたこともあった。
しかし、正直なことを言えば、その場では「いいものだな」と感じたことも、1年たてばもう記憶の霧に包まれている。
ある意味で僕は、冠婚葬祭にあまりに大きな感情を求め過ぎているのかもしれないが、1年たって霞んでしまうことをメモリアルとは言わないのではないかと思い続けてきた。

これではニュースと同じではないか。
深刻な情報に対して、僕らはどんなに衝撃を受けても、その報道が落ち着いてしばらくすると、次のニュースにしか目が向かなくなる。
こうして、刺激だけが優先して、都市生活者はボブスレーが滑り落ちていくごとく、不感症と形だけの感動へとまっしぐらに走りぬけてゆく。

だが、僕は自分が結婚することになってようやく、初めて気づくのだ。
僕自身がいかに重症だったのかと。

人にはそれぞれのドラマがある。
語って聞かせる内容はそれぞれにあるだろうが、本当に重要な、ウェットでいてぬくもりのある鼓動を響かせる物事は、言葉をどれだけ連ねようとも、当事者にしか分かち合うことはできるまい。
だからこそ、式を挙げ、参列者のひとりひとりが個々に祝ったり悼んだりするのだ。
冠婚葬祭が宗教行為の側面を強く感じさせるその意味を、ようやく僕は理解することができた。

ゴールは次のスタートだと、よく言われる。
それはつまり、終わりなき帰依なのだ。
祭が終われば次の何かがまたやってくるだろう。
僕たちのドラマは終わらない。
ただ、僕たちがそれぞれのドラマを生きているのだという実感を失わないかぎりは。



10月16日

黄さんの歌声がカラオケ・ボックスいっぱいに広がってくる。しなやかでいながら芯の太い彼女のあの歌声が。

「黄さん、歌、うまいんだよ」隣の家惠が店に来る前に話していてくれたとおり、いや、そんなレヴェルじゃなかった。なにしろ、カラオケで「あ、この曲、あなたの買ってたCDに入ってる曲だよ」と教えられた"It's a Party"は、日本に帰国したのちに聴いた李王攵(ココ・リー)のヴォーカルの腰がいかに弱いかをまず感じさせたのだから。黄さんの歌は、この曲が醸し出す都市生活の華やかな側面だけでなく、同時にその空虚さも伝えていた。

家惠は高雄でできた初めての友達だった。フリー・ペーパーの取材で知った名を頼りに辿り着いたバーの階下で知り合い、僕が駅前のぱっとしない宿で腰を据えようとしているのを知ると、両親のいる家に招いてくれた。妙齢の若い男で、しかも国籍まで違う胡散臭い突然の訪問者を、なぜか家惠の両親は黙認し、部屋をひとつ与えた。それから高雄にいる間じゅう、僕は彼女の携帯電話のアクセサリーとなって、その傍らをほとんど離れることがなかった。お互いのトイレ休憩と、鬱陶しそうな電話のあと、しばらく知り合いに会ってくると彼女が言い残してカフェを去るとき以外は。

カラオケ・ボックスには実に多くの訪問客がいた。これは、その店がいかに繁盛していたかという話ではない。僕らのいる部屋の扉を、少なく見積もっても20人以上の来訪者が入れ替わり立ち替わり開けていったのだ。ある者は1曲歌い、ある者は軽い立ち話を済ませ、そしてある者はしばらく誰かの隣に居座りを決め込んだが、誰一人僕らとその後の行動をともにする者はいなかった。部屋に入ってくる姿はそれぞれに違ったオーラを纏っていたが、出ていくときには夢かと見まごうほどに一様な背中をしていた。そして、その誰もが男だった。こんなにも街に顔見知りがいる彼女たちは、僕の想像以上に遊び人なのかもしれないし、高雄がさほど大きくない街なのかもしれない。台湾では日本で想像もつかない若者たちの広域なネットワークが常識となっているのかもしれない。初のアジア旅行に酔いしれ、フリーペーパー取材で街でのコミュニケーションの拡大に鼻息の荒かった僕には、すべてが世紀末の新鮮なアジアの脈動だとしか映らなかった。

2011年のバンコク。洪水のニュースばかりが繰り返されるテレビのスイッチを切り、iPodをランダム選曲にてプレイ・ボタンを押した僕の鼓膜を、"It's a Party"が震わせた。目を閉じると、薄暗い無機的なカラオケ・ボックスに黄さんがいて、マイクを握っていた。もちろん、僕の隣には家惠がいる。あのときのざわめきが曲を包む。線の細い李王攵の歌声は、遠ざかるにまかせた記憶の断片を表現するのにはぴったりだった。きっと、李王攵はそんな事態を予想していたのだろう。

家惠たちと知り合う前、台北のライヴ・ハウスで知り合ったョさんの家にも、僕は招かれていた。彼の父は某銀行の東京支店長で、彼自身も日本に語学留学の経験がある。郊外のゆったりしたユニットのマンションには、目映い朝の日差しが似合っていた。春節のご馳走をふるまってもらった夜、早朝に高雄に到着するバスに乗り、次の夕方には家惠たちと杯を高くさし上げていた。若く、無鉄砲な日々。それはまた、思い込みの勝った無神経な期間でもあった。NHK教育からロードショー番組にチャンネルを替えるくらいの気持ちで、街の様々な日常に異邦者として登場した僕は、これまでの勝負の流れやプレイヤーの手持ちカードなどお構いなしに、不意にゲーム盤にチップを置いた冷やかし客でしかなかった。多くの物事にはそのとき、その場にしか理解の鍵はないものだが、いくつかの限られたことだけは時間の篩をかけ、経験を経たことで見るとことができるようになる。

偏見や先入観に捉われることなく、自身の心の赴くままの行動が起こした影響をあるがままに受け容れながらそこはかとない興奮を覚えることができたあの青春という恥ずかしい名を持つ季節を、僕も眩しく感じる。あの頃さんざん抱いた自己嫌悪や劣等感までもが、今となってはシュガー・コーティングされている。だが、そのむやみな猪突猛進にあぶれた、彼ら・彼女らの背負っていたはずのたしかな重みは、今になって手のひらに感じられるようになった。ちょうど、透明で柔らかく、渇きを癒してくれる水という存在が、ひとたび量を増すと暗く濁った重みであらゆるものを呑みこみ、その洪水の水面下にすべてを沈めてしまおうとするように。

"It's a Party"は名残惜しそうにフェイド・アウトし、若者たちの独壇場である夜の終わりを告げていた。ミラー・ボールのフェイクな輝きが止まってしまった店を出れば、そこには白んだ鈍重な夜明けがあるだろう。人々は過ぎ去った時間に少し思いを馳せたり、からだが重いと感じてみたりしながら、それぞれの現実へと帰ってゆくだろう。それでもときどき、夜の帳の中にいる時みたいに叫んでみたくなるんだ。「俺たちは明日なんて見なくてもいい! 今を、この瞬間を生きるんだ!」


※ 李王攵の漢字表示ができないため、おかしな表示になっています。2字目はおうへんにのぶんです。






































































































8月24日

2年という歳月を「あっという間だ」という人もいれば、「ひどく長い」という人もいるだろう。
まさに、僕自身にとってもこの2年間は、今になってみれば地下鉄で次の駅に着くまでのような速さだったとも思えるが、つい3日前までは、待てど暮らせど現れない待ち人をひたすら待ち続けるような日々であったこともまた確かなことだった。
ただ、去年の8月からの、この2年間に対する思いはひとしおであることだけは間違いがない。
とうとう3日前、僕の恋人はタイでの生活保障を勝ち取った。
ここまでの道のりは、「バンコクに暮らす日本人」というある意味で悠長な身分の僕には、想像も及ばない波乱万丈を見せた。

2009年8月12日の本欄に綴ったとおり、僕が一生をともにしたいと願っている女性は、バンコクで暮らしているこの2年間、身分の保障を得ることができなかった。
この件については、ずいぶん長くなるだろうが、ある程度の説明を要するだろう。
彼女の出身地は一般にはビルマの「シャン州」と呼ばれており、ミャンマー政府とは敵対関係になっている地域である。
詳細は別項に譲るとして、日本の文献では「シャン族」と紹介されているこの民族は、タイ王国の主要民族であるタイ族・ラオス人民民主共和国の主要民族であるラオ族と同じ出自を持ち、中国から南下してそれぞれの場所に定住したとされている。
「シャン族」たちが自分たちの民族のことを「タイ」(タイ族を表す「タイ」とは発音や声調・現地語での綴りはそれぞれ異なる)と呼んでいることからも、その共通性を理解していただけるだろう。
ただ、タイ族・ラオ族がそれぞれの定住国家で最多数民族となったのとは異なり、「シャン族」が定着したビルマは、イギリスからの独立後、州の自治を認められながらその約束を反故にされ、国内2位の民族人口を抱えながらも、アウンサンスーチー氏を封じ込めてきたような軍事国家政府との対立を余儀なくされてきた。
現在ではミャンマー政府の支配が及ばない地域はほとんど見られなくなったが、以前は「シャン族」のほか、カレン族・コーカン族・ワ族など様々な少数民族が実効支配している地域が国土のあちこちある状態で、それが却ってそれぞれの部族の出身者の戸籍がない状態や、それが元でパスポートなどを持たずに外国に出るしかなくなって難民化するという状況が生まれている。

彼女とともに生きる決意を固めた僕がまず驚かされたことは、彼女が自身の誕生日や正確な年齢を知らなかったことである。
彼女いわく、家族に尋ねても知らないだろうし、村の人々の出生届などが役所にあるというようなことは理解できないということである。
「自分はビルマ人ではない」ことが当然だと考えている「シャン族」と、圧政によって利権に固執するミャンマー政府との軋轢の深さを考えれば、政府が管理する戸籍のないことは納得のいく話である。
時計がない生活を送る彼女の村の人々にとって、記念日という概念は宗教的なもの・行事的なものに限られるようだ。

さて、こうなるとまず先に頭を抱えてしまうのは、国家の法律事情にある程度まで察しがつく僕の方となる。
婚姻を認めてもらうにも、彼女と日本に行くにも、戸籍の所持は最低条件となってくる。
だが、それが存在しないとなると、いったいどうすればいいのか。
いや、もっと大きな問題として、彼女がバンコクで生活していくのに、最低限の身分保障はどうすればいいのか。
警察に身分証の提示を求められたり、病院で初回には必ず身分証明を見せなければならなかったりすることを、どのようにクリアすればいいのか。
その答えはすべて、主に自身の情報収集によって解決の糸口を見つけるという方法に拠るしかなかった。
どうして彼女の方は動かないのか?
そう、彼女自身が動き回ると、身柄を拘束される危険性が高いからである。
彼女のタイ生活2年間は、肉食動物の徘徊する森で暮らす小動物のように、息を潜めて気配を消し、信頼できるたった二人の人間――彼女の叔母と僕以外の人間といるとき以外は、決して小さなアパートの部屋から外出しない鋼の掟を守ることに終始した。
世界でも有数の「強い」パスポートを持っている日本人の僕がサーチを担当することは、その点で有利だ。
そして、最も感謝しなければならないのは、ボート・ピープルを追い返したかつての日本とは対照的に、このタイ王国が他民族に寛容で、受け入れにも融通が利くこと(なお、現在の日本政府は2010年9月28日に、タイのメラ・キャンプに暮らしていたビルマからの難民を国内に受け入れている。しかも、政府機関が現地に赴いて面接を行う「第三国定住」認定はアジア初の試みであることを付記したい)。
国家間的・経済的な摩擦からの民族排斥運動が盛り上がったことはあるものの、タイに定住している人々、例えば中華系・インド系の人々に対して目立った事件と化したような迫害は、これまでにタイ国内では起こってこなかった。
弾圧で締め上げるのではなく、「タイ語を話し、タイという国を理解しようとし、タイで暮らす人々をタイ人と捉えよう」とするタイ王国の容認姿勢は、自身にどこか島国根性の残る目には眩しすぎるくらいに光り輝いている。

スタートはやはり厳しかった。
日本への帰省時に近くの役所から外務省にまで連絡して打開の方法を探ったが、当然のごとくすべて水泡に帰した。
日本に限らず、大きな機構にはすべからく様々な部署が用意されており、その中で機能的に専門的なケース・ワークを行っている。
そのシステムは、僕たちの抱えた問題のような、まずどこに相談してどのような解決の方法があるのか糸口さえつかめない状況に対しては、一枚岩のような冷たさも持ち合わせている。
一つ一つの部署で「必要な書類上、今回のケースは我々には扱いかねる」という言葉の類型にはどんな言い回しがあるのかを勉強させてもらうことができたという、副産物だけが増えていった(僕と同様の問題を抱えている方のささやかなご参考のために記せば、こういう問題を国家機関に相談するなら、在外日本大使館をお薦めする。大使館は基本的に窓口が一つであるため、相談内容に対して多方面への広がりを持っている。また、蛇足ながら付記すれば、僕が訪ねたときに対応してくださった在ヤンゴン日本大使館の女性スタッフの対応は懇切丁寧で勇気づけられた)。
難民申請というケースも考えたが、実際に戸籍が存在するのかどうかを確認することが先決であった。
だがしかし、この地域には「シャン族」による独立運動が散発しており、ミャンマー政府は外国人がこの地域の奥深くに入って反政府的な言動を現地人から見聞きしたり、その反対に外国人から人権などの啓発を現地人に与えたりすることへの警戒を露わにしているため、しばしば入郷制限が行われる。
また、そうでなくとも、外国人が自由旅行としてケントゥン(チャイントーン)より奥の地域に踏み込むことは禁じられているので、この場合には成人の招待者の同行が必要とされるが、彼女の故郷はタイ国境地帯からほど遠く、国境まで誰かに出向いてもらうことは極めて非現実的だ。

結婚すれば彼女の身分は保障されるのだろうが、事実婚ならとにかく、入籍となればどちらにしても戸籍の問題がつきまとう。
新しい命を方法として利用することなど軽率なアイデアだとは分かっていながら、子を先にもうけるということも考えたが、このアイデアはヤンゴンの日本大使館で否定された。
認知に必要な書類が所定期間内に揃わない場合には受け付けられないという悲劇が実際に起こっているという。
やはりここでも問題は戸籍だった。
しかも、ミャンマー政府は人身売買問題から、自国女性と外国人男性の結婚を認めない政策を打ち出している。
日本大使館に紹介してもらった、ビルマ人男性と外国人女性との結婚(僕たちとは性別が逆のケース)なら申請できるというヤンゴンの裁判所に出向いても、門前で止められ「中に入って相談してくる」と言われたが、出てきた彼の返事は「ノー」。
できるだけのことはやってみようと、正面切って「シャン族」のパスポート取得について尋ねようとほかの庁舎に赴いても、建物の前で僕を追い払おうとしかしない護衛のビルマ軍人に一瞬銃を突きつけられたような有様で、とりつくしまがない。
途方に暮れてばかりいても時間が過ぎてゆくだけなので、語学学校を探し、そこで通訳者として同行してもらえる人材を探すという案を考え出し、あたりを見回して歩き始めた。
庁舎の近くにあったビルマ人経営の語学学校の経営者の方は当初、飛び込みで入ってきた珍客に訝しさを隠さなかったが、内容を理解すると次第にめっぽう親切な笑顔に早変わりしていた。
日本語も話せる彼は、「そういう件なら、日本人が経営している語学学校を知っているから、そこまで案内しましょう」と言ってくれる。
そう、ビルマを旅行した人ならどなたもご存じのことだろうと思うが、ビルマ人自体は人のよい、温かで穏やかな人々だ。
しかし、国家となると途端に腐臭を放つ。
人は集団になったときに、ここでいるときとはまったく見受けられなかった色彩を身に纏い始める。
いじめの構造とまったく変わることはない。
彼に紹介してもらった日本人の方は、ビルマ人の奥さんと結婚なさっていた。
彼が提示してくれたのはご自身の結婚のケースと同じく、ビルマ内で親戚を迎えて事実婚を上げたのち、奥さんがパスポートを取って留学名目で中国などへ出国し、そこで日本大使館にあらかじめ集めた必要書類を提出して日本側でも入籍を認めてもらうというものだったが、それを下敷きに僕たちが行動するためには、彼女に一度里帰りをしてもらう必要がある。
だが、問題はそこまでの移動中に捕縛されないかということ。
ビルマ内で少数民族が検問に引っかかるのは危険極まりないし、それがタイであっても、ミャンマー政府に身柄受け渡しとなってしまえばあとは闇である。
少数民族に対する殺人・略奪・暴行・強制労働などの報道が絶えることのないミャンマーでの身柄拘束は、何としても避けなければいけない。

僕たちにとって生活の場ではあるが第三国でしかないともいえるタイでは、外国人の滞在許可を得られる条件に労働許可が不可欠であるというところまでは理解に漕ぎ着けたが、それ以上の進展は図れなかった。
区役所では労働局に行ってくれと言われ、労働局では就職先を通じてコンタクトしてくれと言われるが、その本人はまだタイ語をある程度までしか理解できていない状態だった。
当時の彼女の就職先をコネもなしに探すことは、経済的に貧しい国で募金活動をすることに等しい。
あるときには、タイとその周辺諸国の女性の結婚紹介所と銘打たれたホーム・ページのタイ国内の連絡先に電話をしてみたこともあった。
僕が電話したサイトではないが、この種のサイトで、別の意味での女性斡旋になっているというかどで閉鎖になったところがあるということも、検索で引っかかってきた情報によって知っていた。
それでも、藁をもつかむ思いだった。
「女性の紹介ではなく、すでに結婚したい女性が居るのですが、その相手との結婚の手助けをしてもらえないでしょうか」と投げかけた問いに、電話の日本人男性は明るく丁寧な承諾の返事をくれたが、70万円の資金が必要であると告げられた。
その額はタイ現地採用者である僕にとって、このケースでしくじってしまったら他のケースへのリトライまでにはそれなりの期間を用意しないとならない可能性があることを意味している。

経験から解ってきたのは、役所や政府機関などの正面突破よりは、個人情報の方が有意義らしいことだった。
バンコクで働いているビルマ人を紹介してもらって、その人たちからどうやって労働許可を手に入れたかを尋ねると、より具体的に僕らがどの方向からこの問題を解決した方がよいのか、示唆に富んだ話が聞けることが多かった。
ただし、この方法には常にある程度の危険を冒す覚悟が必要である。
数人の知人から忠告を受けていたように、話を聞いた人からのタレこみがないとは限らないからだ。
タイにはタレこみに報奨金が出るケースがあるのは有名な話である。
滞在許可を持たない者に対する密告がその対象になるのかどうかは知らないが、噂が大好きなタイ人社会で後ろめたい秘密を持つ以上、注意しすぎるということはない。
それに、今はネットで情報があっという間に拡散する時代でもあり、僕たちのような小さな存在が誰かのどこかでのネタとして有用なものだとは思えないが、用心するに越したことはないことだけは、これまでPCのスクリーンに映し出されてきたメッセージが示している。
個人ネットワークを広げることが問題の早期解決に近そうだということは見えてきたのに、それを思い切って展開することができないというジレンマに頭を抱えながらも、僕たちは落ち着いて安心できる筋だけをセレクトすることに徹するほかなかった。

だが、暗いニュースばかりでもない。
最大の逆転劇は彼女のIDの存在を嗅ぎつけられたことであった。
彼女は叔母とともにブローカーに騙される格好でバンコクに出てきたのだが、そのブローカーや、途中で考えられる警察・軍からの拘束に備えて、途中に立ち寄ることのできた北タイの親戚に自分たちのIDカードを預けていることが判明したのだ。
なぜ長期にわたってそのことを我々に秘匿し続けていたのかと叔母を責めることはたやすい。
しかし、いくら姪や、その姪の見初めた日本人だからといって、むやみに自分たちの生命線ともなり得る身分証明書のありかをたやすく他人に語ってしまえるほど精神的に余裕のある生活などあるはずもなかっただろうことは、日陰者としての暮らしに相当なストレスを抱えながらも甘んじなければならなかった彼女のそばに居る僕には、痛いくらいによく分かるつもりだ。
叔母が真実を告げてくれたということは、僕が認められたということでもある。
さっそく僕はそのプライドを胸に、北タイの国境地域に程近い親戚の家まで駆けつけ、二人ぶんのIDを受け取ることができた。
この地域への道路には検問所がいくつか設けられているが、僕は顔パス状態であった。
日本人であることの幸運がどれだけのものであるのかを実感する。
そして実際に、このミャンマー政府発行のIDは、その後の各種の書類申請の唯一かつマルチプルの力を発揮することとなる。

その1年近くのちに再び北タイを訪れたのは、やはり情報収集のためであった。
「シャン州」はタイ北部と国境を接しており、北タイには「シャン族」以外にも多くの少数民族が暮らしている。
彼ら・彼女らが生活できているのは、どういう証明書を受け取っているからなのか。
IDを預かったときの北タイ訪問によって、彼女や僕・叔母の存在がタイ領内に移住した親戚・知人筋の間で確認されて噂に乗り、彼女や叔母への電話連絡がかかっててくるようになったおかげで、僕が北タイで彼ら・彼女らに会って話を聞くことができるという、お役所の門前払いだった以前とは比較にならない情報収集が可能になっていた。
そこで分かったのは、近隣諸国の人々に与えられる「ヴァット・ターン・ダーォ」というIDの重要性である。
情報収集の初期段階からこのカードの存在は知っていたが、北タイではそれがかなり容易に申請できることが分かった。
居住地域制限がないものもあり、その申請のためにしばらく身を寄せればいいと言ってくれた彼女の知人家族もあった。
だが、ネックはやはり移動中の身分証明書提示を求められるケース。
これまでに何度もつまずいてきたポイントである。
何かことを起こすのに、北タイの都合がよさそうだということにも、実は早い段階で気づいてはいた。
ネットで検索して最初に出てきたのは、北タイで彼女を養女として受け入れてくれるタイ人家庭を見つけて手数料と謝礼を払うか、同じく北タイで土地を彼女名義で購入すれば制限つきの身分証明書が出るという情報だったからだ(ただし、この証明書では北タイを出ることが許されないため、彼女と暮らすためには僕自身が北タイに職を見つける必要がある)。
だが、移動中のリスクは常に念頭から消えなかった。
ただし、受け入れに安心な知人が出現したことは大きな励みになったし、取得に関する一定の手続きの流れについても理解が進んだ。
そして、自分たちがどの方面を目指して模索すればよいのか、ゴールを見据えることができたのは大きな収穫だった。
また、この訪問の後日談として、彼女と訪問先との電話のやり取りから、もし僕たちが彼女の故郷へ向かうことがあれば、ハイヤーを営んでいるドライヴァーを紹介すると言ってくれた親戚がいた。
先述したような入郷制限がある「シャン州」に訪問おいて、実績があって少しでも信頼できる運転手の確保は非常にありがたいことである。

バンコクでは日タイのハーフである知人のサポートを得て、「テンポラリー・パスポート」なる存在に辿り着いた。
彼の知人が紹介してくれた貿易商を営んでいるビルマ人は、さらにこのテンポラリー・パスポートを扱っている業者の電話番号を教えてくれた。
そのビルマ人業者は、自分自身もこのテンポラリー・パスポートを取得してタイに滞在していると、誇らしげに見せてくれた。
貿易商の社長さんによれば、ここ数年でタイとビルマの間で協定ができて、ビルマからタイ国内に流れてきたまま滞在許可を持たない人々のために、タイとビルマ国外へは出られないが、滞在許可を与える特別パスポートとして発行されているという。
まさしく僕たちのケースにぴったりではないか。
彼女や僕の友人・知人たちと相談に相談を重ね、ここで勝負に出ようと決めた。
「勝負」と書いたのには、2つの理由がある。
ひとつは、2011年7月のタイ総選挙が近づいていることだった。
前年のUDDデモのような惨事が繰り返されないとも限らない。
避難ということになれば、軍の検問に引っかかる率は数倍に跳ね上がるだろう。
また、選挙で勝利するのがUDD派のプア・タイ党であろうことは、タイ内外を問わずほとんどの人々が予想できていたが、UDD派の精神的支柱であるタクシン元首相は在職中にさんざん強行突破的な政策を実施したし、その人気の秘訣は自国の経済向上にあったから、在タイ外国人の排斥に近い政策が選択されないとは限らない。
日本人にとっても、彼が首相だった時代にタイに暮らすことがヴィザ面や届け出面で窮屈なものに改変されたことは、その時期の在タイ者ならだれもが知っている。
それに、実際プア・タイ党は公約としてタイ人労働者最低賃金を300バーツに、大卒最低初任給を3万バーツにまで一気に引き上げると宣言していた。
こんなに急激な給与アップが出た場合、大規模なリストラが各地で起こり得ることは目に見えており、そうなると最低賃金に制限のないビルマ・ラオス・カンボジアからの出稼ぎ労働者で賄おうとする企業が続出することも容易に想像がつく以上、タイ人雇用枠を確保するため法的に外国人労働者を締め出しにかかる懸念が出てくる。
僕たちはことを急いだ方がよさそうだ。
そしてもうひとつの理由は、このテンポラリー・パスポート申請のためには、彼女がビルマ国境まで出頭する必要があったことだ。
担当者は「行きの道中で捕まるようなことはない」と言うが、東南アジアの人々がつけた折り紙がいとも簡単に破れてしまうのを、僕はあまりに数多く見過ぎてきた。
今回、失敗は許されないのだ。
しかし、虎穴に入らずんば虎子を得ず、である。
僕も会社を欠勤させてもらって彼女と同行し、ことの一部始終を見守ることにした。
決意と夢の実現に前夜寝つけないで指定の日を迎えた朝、僕たちは到着するはずの車をいいだけ待って、思い切り肩透かしを食らった。
当日朝一番には繋がっていた業者の担当者の電話に、誰も応答しなくなったのだ。
その日だけで電話した回数でいうと、日本では警察に嫌がらせと受け取られても仕方のないくらいのリダイヤルをした。
そのたびに聞かされた呼び出しの音楽は、僕らがこの世の中で最も聴きたくない曲となった。
そののち彼にも貿易商社長にも、何日電話してもつながらないことを確かめるだけの数日が続いた。
彼女の落胆を見るにつけ、心臓がつねりあげられる。
また、僕が不用意に「人生の一大決戦は明日」などとBBSやツイッターなどに書き込んだことで、不用意に周囲の人々の心配も招いてしまい、その後何の報告もできずに自身の首を絞める結果となった。

それからほどなく、救いの神様は意外な方向から姿を現してくれた。
僕たちがテンポラリー・パスポート申請に動くのと並行して、すでにタイ人男性と事実婚を済ませていた彼女の叔母はバット・ターン・ダーォの申請を準備し始めていた。
叔母がバンコクにいる数少ない「シャン族」の友人と話している中でその話が会話の中に自然に出てきたのであろう。
その友人が自分もバット・ターン・ダーォの申請を始めようとしているという話を、彼女が聞きつけた。
そして、僕らはすぐさまその尻馬に飛び乗った。
叔母の友人の都合によって申請に向かう日も二転三転し、待ち合わせ場所や時間すら何ひとつ守ってもらえない中、ようやく僕らは6月に届け出を出し、その後もたび重なる本人出頭や受領日の変更・担当者の説明の少なさとアバウト加減にさんざんやきもきさせられながらも、とうとう彼女は就労先を探すためのタイ滞在許可証と病院に提示する許可証を手に入れた。
不満を言えば、これらは我々が求めていたバット・ターン・ダーォではなかった。
それに、あるときに乗車したタクシーの運転手によれば、バット・ターン・ダーォがあってさえ、警察にパスポートを見せることができなければ千バーツの罰金を徴収されるとも聞いた。
しかし、タイでの滞在に対する証明を受けることができて、僕たちの大きな、大きな第一歩は踏み出すことができた。
彼女はようやく陽のあたる場所に出て、自分の意思でこのバンコクを歩くことができるようになった。
明るい声で堂々と携帯電話に向かって「シャン語」を話す彼女の溌剌とした姿に、言葉にならない想いの渦巻きをただ眺めるばかりである。

彼女と歩んだこの2年間の、ふたりであたためた思い出の数と、過ごした時間に対する実感は反比例している。
光陰は矢のごとく突き進み、出逢いが2年も前のことだったとはにわかに信じがたい。
その一方で僕たちは吐息を繰り返すしかないくらい長い、出口の見えないトンネルに身を置いてきた。
だが、バンコクのど真ん中でカメレオンのような保護色を身に纏おうとあがき、いつこの生活が終焉するのかと肩を震わせる日は、どっしりと重い現実からとうとう過去という名のアルバムにしまいこまれた。

嵐に凍えた翼を抱えて晴れ間に出たつがいの鳥は、この陽光の眩しさ、空の青さをいつまでも忘れることはないだろう。



※ 当サイトの他のページでも同様ですが、実質的には軍事政権であるため、ミャンマー政府が変更した「ミャンマー」という国名は旧称のまま「ビルマ」と表記しています。ただし、現政府のことは「ミャンマー政府」としました。また、「シャン」はビルマ族からの呼称のため、「 」をつけた表記としました。本来は「シャン族」自身が用いている呼称を使いたいのですが、本文でも触れたように「シャン族」は自分たちの言葉を「タイ語」と呼ぶほか、自分たち自身を「タイ人」と呼び、自分たちの居住区域を指す一般的な言葉を持ちませんので、ここではタイ王国との混同を避けるために敢えてこの表記を採用しています。



6月10日

近頃、ここに書く内容がどんどん重いものになっていましたので、今回は、タイの携帯電話でのニュース・メール話でもひとつ。

先月末あたりから、突然僕の携帯電話にタイ語のニュース・メールが届くようになった。数年前にもまったく同じ状況があり、そのときには最終的にメール配信を停止してもらった。
タイ語学習のためにはいいのだが、文字が小さくて読みにくい。
眼を細めながら小さなタイ文字を追うと、老眼鏡に頼る年齢になった気分になること請け合い。
たしかに、文字表示を大きくすることもできるのだが、そうすると今度はタイ語以外での文字表示が大きすぎて面倒だ。
しかも、問題なのは、この種のニュース・メール、一日に数十件来るということ。
まず、僕の生活時間帯は仕事上、どうしても夜に偏る。
ニュース・メールは朝6時から配信が始まるが、就寝前にメールの受信音をうっかりオフにするのを忘れてしまうと、早朝の鶏のいななきよろしく、この時間からひっきりなしに起こされることになる。
さらに、職場にいるときにもマナーとして受信音を消しているためバイブにしているが、そうすると電池の消耗が異常に早い。
仕事が終わってメール・チェックするにも、ひとつずつデリートを繰り返すのがばかばかしい。

以前は職場のタイ人スタッフに、この種のメールが届かないように手配してもらった。
それなのに、忘れたころにまたやってきたというわけだ。
そのときと同じように、今回もタイ人スタッフに頼んだ。
そして、7日以内に配信がストップするというメールを受け取った。
なのに、それから2週間過ぎても、ニュース・メールは止まるどころか、配信数が増えて、1日50件も届く日が出てきた。
そもそも、申し込んでもいないどころか、以前配信ストップをかけているメールがこんなにも届くというのは、いったいどういうわけだろう。
しかも、解除もできない。
うーん。

エンポリアムの携帯ショップなら解除できるだろうとタイ人スタッフに聞いて、数日後に出かけたが、ここでも職場のタイ人スタッフがやったのと同じ方法しか試すことができなかった。
また職場で別のスタッフに尋ねてみると、通信会社であるAISのサーヴィス・センターがセントラル・ワールドにあるという。
さらに数日後、そこで手続きをして「3日以内に止まります」という言葉をもらってほっとした。
しかも、手続きをした瞬間から、配信はまったく止まったのだった!
当たり前のことが、ひどく嬉しい。
肩に担いだザックをようやく下ろせた気分。

ここで、今回考えたことをいくつか。

ひとつは、「迷惑」について。
タイでは公共交通機関で携帯電話にいそしんでいる人が多いし、夜には道端やコンビニの前などで酒宴が催され、夜通しどんちゃんやっている音もよく耳につく。
アパートの廊下では何度も何度も大きな音でどこかの部屋をドンドンドンドンノックする音が続いたり、選挙が近い今は、ただでさえ狭苦しく、屋台や無計画に建てられた電柱などで歩きにくい歩道に行く手を阻むどでかい立候補者の立て看板がこれでもかと並んでいる。
携帯電話へのニュース配信は宣伝メールでもないわけだから、タイ人からすれば「なぜサーヴィス配信が迷惑なのか?」と首をひねられてしまうかもしれない。
個人の権利という面では、日本人は行き過ぎているという実感も、現代を生きる我々にはあるだろう。

しかし、例えばバンコクには国際結婚を特別なこととは考えていないようなふしがある。
もちろんそれはコスモポリタンなこの街の特性だともいえるが、一方で、同じ民族同士の結婚を望まない人が多いのも事実だ。
そこにあるのは、他人への配慮のあり方なのではないかと思う。
「ヘン・ケー・トゥア(身勝手)」というタイ語を耳にするたび、ではなぜ自分たちを省みないのか、なぜ他人から学ばないのか、と感じてしまう。

もうひとつは、やっぱりタイはこのままでいいのかもしれないということ。
これはあくまで僕のような在タイ外国人の戯れ言なのだが、「衣食足りて礼節を知る」と言われるとおり、経済発展とともに人権に関する考え方も向上するだろう。
では、僕自身は便利で快適で近代的で、迷惑なニュース配信など携帯所持者の許可なしには届くはずのない人権意識を持ったタイの将来を待ち望んでいるのだろうか?
もちろん、答えは否だ。
「海外で働く」のではなく、「タイで暮らす」ということだけを考えてバンコク生活を始めた僕は、クラティンデーン(レッド・ブル)のキャップをいくら回しても取れないことに腹を立てるのではなく、それを「開きませんよ」とレジに持っていってタイの微笑みを受け取りながら、蓋を何かでこじ開けてもらったり、新しい瓶に取り替えてもらったりできるコミュニケイションを楽しむことに意義を感じてきたのではなかったか。

そう、この種の話では、いつも僕の答えは同じところに帰ってくる。
バカボンのパパの名言どおり。
「これでいいのだ」



3月26日

 また、悲しいできごとについて書くことになってしまった。
 東日本大震災は、戦後未曽有の悲劇をもたらした。日本観測史上最大の地震、人々や建物・車などを丸呑みした津波、爆発を繰り返しブタン・ガスをまき散らしたガスタンク爆発、そして、その後の生存者たちを恐怖で締め上げている原子力発電所事故。誰もが目を背け、なんとか眠りについて明日になればすべてが夢だったと願いたい、悲惨な状況であることは、誰もが感じている。各国からの支援が相次ぎ、また、日本で起こった他の震災時同様、暴動や略奪が発生しない日本人の公共道徳精神の高さへの賞賛が起こっているが、この震災で亡くなられた方々、その家族や親類縁者、家屋や職をなど様々なものを失った被災者にとっては、その心の痛みが和らぐのはいつのことになるのか。そして、残された各種の問題はいったいいつになればある程度の安定を見せるのか。この時期に悲観的になり過ぎるのがよくないことであるとは分かっている。だが、まず現実と向き合おうとするとき、涙を流し、私たちの表情に重苦しい影が差すことを避けて通ることはできぬ。

 悲劇のニュースがまだ世界を駆け巡っている最中、日本での地震発生から12日経過した3月24日、今度はビルマ(ミャンマー)・ラオス・タイ国境付近でマグニチュード6.8の地震が発生した(以下、3国国境震災と記す)。私の伴侶の家族はこの震災の被害に遭った可能性がある。実家への連絡はまだとれない(4月初旬に連絡がつき、無事であることが確認できました。ただし、この地域では独立を求める民族兵とミャンマー政府軍との交戦状態に入っています)。
 10日には雲南省(中国)でも地震(マグニチュード5.8)が起こっており、25人の死亡、300人以上の負傷者が確認されており、24日の地震と同じ活断層上での地震発生である。今後の状況も予断を許さない。3国国境震災では現在、死者75人・負傷者111人以上というニュースが伝わってきているが、タイ側はともかく、ビルマ側・ラオス側では国家の管理能力やインフラ環境から、詳細の確認には相当の日数が必要とされるだろう。震源のあるビルマではこの周辺に住む民族の多くとミャンマー政府との対立が根深く、政府からちゃんとした確認がなされるのか、正確な数値を把握する気があるのかも疑われる。日本でのニュースで触れられているように、支援が政府の蓄財に回され、被災者地域に届かない可能性も高い。さらに言及すれば、この事態に付け込んでミャンマー政府が支配力を高めようとする恐れもある。長井健司氏が死亡した反政府デモ圧殺や、アウンサンスーチー氏を長らく幽閉してきたミャンマー政府の悪名は高いが、我々日本人はこの政府の非道ぶりを北朝鮮についてのようには知らないだろう。報道により痛みを深く知ることのできる災害もあれば、その機会も与えられることのない災害もある。天災が人災に繋がり、悲劇がさらなる悲しみを生みださないよう祈るほかない。

 母なる地を離れて暮らすと、実際その場所にいるのとはまた違った、手を伸ばそうと思っても届かないもどかしい不安を抱えることになる。そして、2006年クーデターや2008年スワンナプーム空港封鎖・2010年UDDデモと、バンコクで騒ぎが起こるたびに「大丈夫か」と安否を気遣ってくれた家族・親戚・友人たちに改めて感謝の念が湧いてきた。これまで心配させる側にばかり回っていた私は、いつしか心配する側の気持ちを充分に汲めないところがあったことを反省している。そして、現実を直視したのち、自分ができることをやるしかない。阪神淡路大震災を体験した身として、そう思う。

 このたびの東日本大震災・3国国境震災でお亡くなりになられた方々、被災された方々には心よりお悔やみ申し上げます。



2010年

5月23日

 政府が用意した無料バスに乗って、ソンクラーンでもない時期に帰省客がごった返した。3月から続いていたUDDによるデモの終結によって、田舎に帰る人が列をなしていたそのニュース番組では、テレビカメラがバス車内に乗り込んでその素顔を映すのをどこかで嫌がっている人々の雰囲気がにじみ出ているかと思えば、バスに向かって歩いたり、そのバスが発車したりするときに笑顔で手を振っている人々の姿が見られた。
 久しぶりに、心の奥の方から、怒りが込み上げてきた。

 このUDDデモの被害は大きかった。2か月以上に及んでUDDの占拠地域では機能が停止した。殊に商売に携わっている人々はまったくのお手上げ状態であった。村本博之さんだけでなく、他国のジャーナリストも犠牲となった。公共交通も止められ、テレビ局も襲われて潰された。ATMや商店での強奪があちこちで発生し、極めつけにはあちこちに放火があった。その末に、あの笑顔での帰郷。そんな横暴な笑顔が公共放送で流れていることなど、まかり通っていいのか。
 タイでは都市部と地方との教育格差は大きい。情報の流通にしてもまったく量が違う。タイ人自身、よく「タイには二つの国がある。タイとバンコクだ」と口にする。今回の騒動はこの二者の対決だったともいえる。しかし、そんな言葉を口にする人々だって、このタイが二分することを望んではおるまい。いくら地方出身者だからといって、自分たちの引き起こした騒動への責任感がかくも軽いことを許す筋合いはないはずだ。
 すべての参加者が強奪や放火に加担したわけではない。ごく一部だといってもいい。それに、デモ参加者には自分たちの周辺のことしか判らないような、この手の情報が入りにくい状態にはなっていたはずだから、そこは引き算して考えなければならないだろう。また、強奪や放火にしたって、犯人が捕まったわけでもない。すべての犯人がUDD関係者だと決めつけるのは早計だ。ただ、ことの発端は問題を政治的解決に訴えることのできなかったことにある。そういう意味では皮肉なことに、PADがこのデモの在り方に示唆を与えたのだろうと思う。しかし、PADとの大きな違いは、この国がもはやどうしようもなく不安定なまな板の上にしか乗っておらず、これまでの安定はある種の幸運だったのだとしか言いようのない印象を残したことである。国際的にも、この国の落ちていく一方だった信頼はほぼ失墜したといっていいだろう。それがどういう結果を招くのか、地方からデモに参加した人々は理解できているのか。あるいは、それについてきちんと向き合って考えようとしたことがあったのか。いくら逼迫しているからといって、すべて目先のニンジンによってしか動かないのであれば、彼ら・彼女らの言う「民主主義」など達成できるはずがないではないか。先述の「ある種の幸運」をもたらしたのはいったい誰なのかを、もう一度考え直してもらいたい。それはとりもなおさず、地方の人々も崇めてきた、この国で唯一公人だという自任のあったプーミポン国王なのではないか。あるいは、その王室幻想なのではないか。王室が時代遅れな発想だったとしても、そして、それが善意だけではないものであったとしても。

 天使の微笑みを持つタイ国民に、たかだか在住10年の一人の日本人がそんな説教を垂れるのはお門違いであることは理解できている。だから、この文章はただの戯言にすぎない。ただし、タイ人がこの国をこよなく愛し、自身がタイ人であると誇りを持つとき、僕も違う角度からではあろうがこの国を愛し、その愛国心にちょっとした眩しさも感じてきた。それだけに、「居させてもらっている」「世話になっている」というそれだけでは済まないという部分だってあるはずだ。地震が起こっても略奪や暴動が起きない国を出身とする一人の人間の意見というものがあっていいと思う。

 昨夜、雷を伴った横殴りの雨が降った。どうしてあの雨がもう少し前に降ってくれなかったのか。放火の直後にその恵みの雨があったなら、きっとこのタイ王国やプーミポン国王の不思議な力がまことしやかに語られたことだろう。だが、21世紀を迎えた世界には、そのような類の神話は終焉したのだよ、と警告を受けているように僕には見える。
 今日のニュースでは、バンコク市民が自主的に道路や施設の清掃を手伝っている姿を報道していた。箒やスポンジを手に炎天下、汗を流す彼ら・彼女らの姿に救われた。薄暗い雲に覆われたここ数ヶ月のバンコクの過去を洗い流しているようであった。

↑ 放火の煙が4日たってもやまないセントラル・ワールド(5月22日)




↑ ものが焦げた臭いや人糞らしき臭いがたちこめるプラトゥーナーム(5月22日)




↑ 外出禁止時刻30分前の、人の姿のない20時半のトンロー(5月22日)




↑ 西に見える黒煙(中央建物の上空・5月19日)







↑ 買いだめに走る人々で混みあうセブン・イレブン(5月19日)







↑ その翌日、暴徒に備え新聞紙でガラス張りを覆ったコンビニは18:00に閉店(5月20日)







↑ 人でごった返すはずの時間、トンロー・ソイ15は閉鎖(5月20日)
5月20日

 きな臭いバンコクを、とうとう同時体験ようになってしまったか。これから我々の生活はどうなるのか、2000年にこの国で暮らし始めてから初めて、国外退去やバンコクから避難という最悪の事態も少しばかり考慮に入れなければならないのかと感じた。これまでにもバンコクは、2006年の軍部クーデター、2008年のPAD民主主義市民連合=反タクシン派)によるスワンナプーム国際空港占拠など、現在の日本では考えられない局面を迎えてきたが、今回のUDD反独裁民主統一戦線・DAADタクシン元首相派)騒動は、これまでのどこか他人事だった混乱とは比較にならない緊張感を覚えさせる。これには、実際の死傷者の数や期間の長さに加え、それまでの事件が政府官庁の多い旧市街地であるバンコク東部が主な現場だったのに対し、今回はデモが市中心部に移っていて、しかも、16日に大きな衝突のあったボンカイ地区から日本人居住区として最近人気の高いピアポンパニット通り(スクンヴィットソイ24)の入り口まで僅か約1qのところまで近づいたという現実的な距離感覚もある。そんな書き出しで始めてから、5月19日にはUDD首脳陣7名が自主投降したものの、残党組が暴徒となってセントラル・ワールド・チッドロムなどに放火してもいる。しかしその片側で、タイという国自体がこの事件を端にどう変化していくのかわからないという、至近未来への不安のほうも大きかった。

 これまでのタイの動向の流れは別項に譲るとして、この騒動は日本の報道にもあるように、階級闘争である側面が強い。タクシン元首相の政権時経済的に向上したことにバラマキ政治が加わって、これまでにない農村部の権利への意識が芽生え、旧来からの既得権を有する保守層との対立になっているのは確かなところだろう。だが、その震源となっているタクシン元首相自体が当時までタイ随一の所得者だったことも事実であり、彼を中心とした新興勢力と、王室をバックに控える保守勢力との対立に一般市民が巻き込まれた形になっているという側面もあろう。地方の人々の利害もあろうが、新興勢力にすればデモの最前線に立ってくれる人間として利用している部分だってあるのだ。

 今回、王室は沈黙を守っている。国王は政治に関与しないことにはなっているが、これまでタイは国王のまさに「鶴の一声」で事態の解決を図ってきた。この構図はこれまで、よくできたバランスをとってきた。立憲革命が終わって絶対王政が終焉したタイでは、現在のラーマ9世が名誉を回復するまで王室の評判は下がる一方であったが、ラーマ9世は政治家や軍が自分たちの格付けに王の名を利用しようとするのを逆手にとって権威を取り戻した。一方、国王は政治に直接介入しないので、政治手腕を常に問われる責務から解放されている。また、国王はタイ仏教界の頂点にもあるので、「人智を超えた善意」という地位を確保した。必要なときには最終的な決断を下す、そんな国王を、国民は「ポー(父)」と呼ぶ。そして、これまでにも述べてきたが、タイでは国軍の統帥権の最頂点にいるのも国王であり、これまでいくつものクーデターが国軍によって起こされてきたという事実もある。個人主義でありながら、権利の主張をするよりも易きに流れがちな国民性のタイ人社会には、自分たちをリセットしてくれる存在が必要だったとも換言できよう。それがまさしくラマ9世なのであった。
 国王が鶴の一声を発してくれないことには、82歳という高齢が関係していると言われる。また、その立場上国王がたびたび政治に意見することも難しい。ただ、その両方に関係してのことだと思うが、王室の権威が問われているのはどうやら確かなようだ。これまで英知を誇ったラーマ9世だけに、その人智を超えた善意に甘え切ったタイ国民は、「今の王様は私たちのことを以前と同じだけの慈悲で見守ってくださっておられるのだろうか?」との疑問を持ち始めていると聞く。年齢をおして声明を出したとして、それでも騒動が治まらなかった場合、王室はどうなっていくのか。現国王の人気があまりに高くて、皇太子はその後継者たる名声を得るのは難しい。そんな状況下で、UDDは民主主義という旗を立てて与党や国軍と対峙している。

 はたまた、1973年と76年に起こった大学紛争も、当時タマサート大学などの裕福層の大学生だったことを考えると、現在タイでそれぞれ重要なポストに在籍しているのだろうから、今回の騒動に関係している可能性もある。また、1992年のスチンダー元首相退陣デモの首謀者として逮捕されたチャムロン元バンコク都知事は、PADのリーダーでもあり、タクシンは彼が党首を務めたパランタム党の議員だったことや、同じく市民デモ側に立っていたプラティープ元上院議員ドゥアン・プラティープ財団代表)がUDDを支援したという非難がなされたことからも、この騒ぎとの関連性は高そうだ。

 どんな内乱だってそうだが、一筋縄ではいかない背景がある。ただ、おそらくそのたびに庶民は「実弾」として利用されてきた。この事実は忘れてはならない。裁判所による判決後、UDDのトップに位置するはずのタクシンは海外におり、騒ぎがひどくなってから逃げてきた家族とショッピングを楽しんでいるとの報道もあった。アピシット現首相にしても、軍と距離を置かれていたにせよ、陣頭指揮を執ったわけでもなく、内乱が本格化する前から治安責任をアヌポン司令官に任せてしまっており、ニュースにもこの2名はここしばらくまったく登場していない。そんな中、家族や同士を失ったり傷つけられたりした報復や、目の前に対峙した敵の姿に気炎を上げることで、国民は体よく煽動されてきた。踊らされた国民にも責任の一端はある。だが、その事実を知る機会をタイの、特に地方で持ち得ることはなかなか難しい。首脳部がそこに付け込んでいることは明白だろう。

 また、報道にしても、常ではあるが考えさせられることが多かった。ニュースはやはり商品であるから、当初受けがよい方向というのは、どちらかといえばUDDを若干持ちあげることだっただろう。UDDのほとんどは自分たちの生活向上を訴える地方出身者で、タクシン政権時代に権利に目覚めたとされる人々なので、庶民や社会的弱者=正義の味方という構図の見栄えがよかったに違いない。その反対に、政権というのはいつも批判の矢面に立たされるものだ。しかし、タクシン率いるタイ愛国党が与党だったときにはもちろん彼らも同様にある程度たたかれたし、地方へのバラマキ政治にも批判があった。そのバラマキが続いてのUDD決起を大衆代表として紹介するに近いやり口はどうかと首を何度も傾げた。強制排除に関しても、国内外の非難に対する保身のためであるとはいえ、できるだけ避けるべく努力も図ってきた。UDDが占拠してきたラーチャプラソン交差点周辺での行動にしても、ここがタイきっての繁華街であることを配慮して、できるだけこの地域での紛争を避けてきた(攻撃をためらってきたのは、周辺施設のオーナーである財閥への配慮でもあるという理由もあろう)。それにもかかわらず、幹部7人が投降したあと、暴徒と化したUDDはあちこちに火を放ち、セントラル・ワールド・チッドロムに入っている日系百貨店の伊勢丹は再出発できるかどうかの瀬戸際に追い込まれている。これを機にUDDの悪事を暴きたてる方に世論が傾くと思うが、これまでUDDを持ち上げ気味だった某紙がその立場を急変させたとしたら、やるせない思いはさらに募る。

 タイは節目を迎えた。定点観測を続ける一人としての素直な意見である。この騒動や今後の状況によっては、在タイ日本人のタイ離脱も多いに予想されるが、できるかぎりこの因縁の地の霧中にある行く末を見届けたいと思う。この稿を書き始めた14日から、さまざまな変動があり、そのたびに書き足し・書き換えを繰り返しながら、その思いを強くしている。



2009年

8月12日

 恋をした。
 不意打ちのように、それは現れた。以前の恋人との思い出が多すぎるこの街で、寂寥のバスタブから身を起こすために、帰省した日本で胸に手を当てて空を眺めた。そして、バンコクに戻った僕は20代まで続けていた音楽活動を再開した。長らく忘れていた、バンド・メンバーで一つの楽曲を紡ぎ、追いかけるひたむきな気持ち。みんなで音が出せるというそのシンプルな事実だけで手に汗握った。5連休に赴いたラオスでは、iPodをを聴くばかりで演奏のできないことが歯がゆく感じてもいた。でも、その旅先で僕は気づく。楽器を手にしていないとき、僕は何ひとつ忘れることなんてできないでいるということを。
 僕以外のバンド・メンバーはみな目下20代。新しい彼女ができれば、ほかには何もいらないんだと、練習が終わるたび耳にする。恋愛適齢期というものがあるならば、それを過ぎたはずの僕は、女性にそれほどまでに何かを求める気もなければ、幻想を抱くこともできないと感じていた。なのに、キューピッドはそんな僕に向けていたずらな弓を引いた。しばしば、恋はそれを追い求める者ではなく、寝起きや耳かきの最中にいる者の扉をたたく。洋邦に「恋に落ちる」という言い回しが定着しているように。

 この恋は、日本にいるだけではきっと、僕にもほとんど理解を超えたさまざまな障壁を持っている。ひと言でいえば、彼女はその出身である本国からの身分証明を持たない。そうなれば、無論このタイでも影を潜めて生きてゆくほかはない。郷里にはほとんど仕事がなく、彼女は異国に収入のある話を聞いて飛びついた。そのブローカーに騙された形でバンコクに出てきて、彼女はひとり取り残された。この東南アジアでよく耳にするストーリーではある。だが、ベランダから月を眺めてひとりで流していた彼女の涙を、僕はこの眼でしかと見た。現実に流される、塩気と温もりのある涙の前に、僕はもうどんな看過をすることもできはしない。
 小知恵のはたらく国に暮らす人間が、人を疑うことを知らない地域に暮らす人間から搾取する。何リットルの涙を、彼ら・彼女らは見て見ぬふりをして札びらに替えてきたことだろうか。
 ここタイは、そういう人々のためにもわずかながら門戸を開いた国である。と同時に、権威主義が白鳥を黒いと言わせる地でもある。権力の槍を持たない者に、可能性の扉の鍵が手に渡る機会はほとんどない。だが、こうしている間にも、ドラマにも出てくることのないような行き場のない悲しみが再生産されてゆく。何とか拭き取ってあげたい。あの涙を。うち震えるような気持ちで、心の底からそう思う。そして、今はただそのためだけに僕は生きている。

 鳥かごから飛び立った。南国なのに北風の激しく吹き狂う空へ。視界は悪く、数メートル先もうまく見えはしない。しかし、実にシンプルで、何よりもかけがえのない真実がある。彼女も僕も、もうひとりじゃない。



2008年

11月23日

 つい半年前に別れた彼女から、結婚披露宴に招待されるなんて、聞いたことがない。彼女の友人から電話で話を聞かされたときは、まさかそんな誘いに自分がのこのこ出かけていく姿など、想像もつかなかった。共に過ごした4年間の記憶がたった6ヶ月で消えてしまうはずもない。
 痛みの癒えぬまま、花束を抱えて彼女の門出を祝福する席に座ったのは、僕が彼女に確かな未来へのつかみどころを与えてあげられなかったことへの罪滅ぼしと、かつて片思いだったNさんのお葬式にどうしても出られずに気持ちの整理をつけることから逃げたせいで、Nさんがどこを探してももうこの世にいないことを今もって認めることができていない後悔からのことだった。

 バンコク中心部からタクシーで1時間半ほど。クレリック・シャツのワイド・スプレッドに合わせた厚手のドット・タイを選んで、フォーマルな中に遊び心もあるローファーをシューズ・ラックから取り出し、久しぶりにコーディネイトという言葉を意識していた僕は、到着した会場がお寺で、その境内から賑やかなモラームが聴こえてきたのを確認した瞬間、「ここはタイだったんだ」という脱力にとらわれることとなる。
 すっかりでき上がった男女がステージの前で髪を振り乱さんばかりにからだをくねらせる中、彼女の友人と僕は、こともあろうに新婦の家族の席に案内された。彼女の母親は「あんたのことを待ってたんだよ! 遅いじゃないか!」。手招きの主も、すっかり赤ら顔だ。
 テーブルの面々はもちろんのこと、通りがかる客に次々と、彼女の母親は「こちら、元カレ」とあっけらかんと説明し、僕は曖昧なジャパニーズ・スマイルを浮かべながら冷や汗を拭くばかり。こともあろうに、新郎にまで面通しをしてくれるので、悪い夢でも見ているのではないかと疑うが、席に着いてから彼女の母親がなぜかしきりと僕の背中をつねるその痛みに、がっちり現実に繋ぎとめられている。
 それにしても、幻想的な夜だった。彼女が突然別れを切り出して電話を取らなくなってから、告げたい言葉をいくつ数え上げたろう。なのに、僕はただ時の流れゆくままに身をゆだねることしかできなかった。タイならではの結婚式用厚化粧に素顔を隠した彼女は、テーブル一つはさんだそこにいるとは感じられないくらい遠くにいた。映画を見ているようなその感覚は、さしもの彼女の母親の指でも消し去ることはできない。
 ふと見ると、彼女の母親が落涙している。泣き上戸なのかな、と眺めていたら、「あんたが不憫でね…」とぽつり。「テーブルに戻ってこない親族も、みんなあんたがかわいそうで、見ていられないから席を外してるんだよ」。改めて思う。こんな結婚披露宴、本当にアリなのか!?

 帰りのタクシーに、なぜか新婦が乗り込む。このタクシーは、別のタクシーがつかまる大通りまでピストンしてくれる披露宴の契約車らしい。どうやらそこまで見送ってくれるようだ。助手席に座った僕のすぐ後ろから、飽きるほどに聞き慣れたはずの声がする。僕にとって、世界でいちばん聞き取りやすいタイ語。のどの奥にせり上がってくる熱いものがある。大通りに降り立つと、僕はいきなり彼女のハグを受けた。失態を見せないように、彼女の腰をポンポンと軽くたたきながらそっと手を回すことしかできなかったけれど、晴れた空に放たれた白いハトのように、ため息ばかり渦巻いていた僕の胸の小さなかごから、彼女も、僕自身も、解き放つことができた。

 高く、高く、飛び立て!


5月1日

 ラオスのことが頭から離れない。

 これまで、僕にとってラオスは「ないもない」場所だった。
 まず、この国には海岸線がない。島国で育ったせいか、たとえばあてのないドライブにでかけたりすると、けっきょくは海辺に出てきて「今日の目的地はここだ」と納得したりするところがあるから、ラオスにはどこかしら最終目的地にたどり着いていないような気分が知らず知らず生まれることになる。
 それに、これまで僕の触れあってきたラオス人たちは、そのほとんどが遠い存在だった。いろんな媒体で「ラオス人は稲の育つ音を聞きながら暮らす人々」だと形容されており、実際、自身のことを「キー・キアット(ものぐさ)」だと自認する人がかなり多いタイ人が舌を巻くのではないかと思うような、のんびりした印象が強い。宿の経営者にしても、ジャンボの運転手にしても、その表情から何かを読み取ることが難しい人が多かった。感情の起伏を表面に出さないことで、西洋人からすると日本人はつき合いにくい人種だと捉えられることもしばしばだが、僕の目から見たラオス人は、表面に出さないというよりも、心に波風を立てないことを信条としているように映る。人との出会いが旅の醍醐味の90%だと感じている僕にとって、これは大きなデメリットだった。

 ラオスを見直す転機となったのは、旅行者に人気の高い北ラオスやタイからのアクセスの良さで進化を遂げる中部ラオスではなく、ガイドブックでも扱いの小さい南ラオスに足を運んだことである。きっかけは、つまらない理由だと一蹴されてしまいそうだが、食事だった。何を食べてもおいしいのだ。タイ料理が好きで、日本ではある時期、高い料金を払ってでも週に一度はタイ料理店に赴いていた僕があまりタイ料理に食指を動かされなくなったのは、辛いものを少しずつ受けつけなくなってきたこともあるが、甘味・辛味・酸味などをさまざまに絡ませあう調理法と油っこさに大きな原因がある。関西出身の僕にとっては、ダシのとれた薄味の向こうに素材の自然な味わいが広がってくる調理が自分の胃腸に一番よく合っている。それはまさしく、南ラオスで食べた料理だったのだ。どの料理が?どの店が?と尋ねられるまでもない。どの店のどの料理も、試した限りはすべてそうだったのだ。

 メコン川に近い場所にいるからには、川魚料理が食べたいと思い、川に浮かんだフローティング・スタイルのレストランに入った。そこには思わず振り返ってしまうくらい美人のビア・ガールがいた。東南アジアでのビア・ガールは、たとえばビアラオだったらビアラオのラベルをプリントした、やたらとボディ・ラインを強調した衣装を着ており、注文が入ると給仕をしたり、若干客の話相手になったりして愛層を振りまく。そして、その売り上げが彼女にキック・バックとして支払われるという段取りになっている。だから、ビア・ガールは端麗な容姿と媚を売り物に、飲んで気が大きくなった客から「楽しい時間の分け前」をもらうような格好になる。
 食事が運ばれてくる頃、団体用にくっつけられた隣のテーブルに老若男女が混じった一行にビールや酒が並び始めた。彼ら・彼女らは「1・2・3・乾杯!」という掛け声で乾杯しよう、と何度もみんなに呼び掛けている。「何度も」というのは、そのたびに誰かが吹き出したり、横やりを入れたり、わざとフライングしたりするからだ。この乾杯は、同じような調子で、食事中何度も繰り返された。そのたび、全員が立ち上がってテーブルを囲んでいる。掛け声、誰かの話、笑い。めでたいことがあったのだろうか、それとも久しぶりの外食なのだろうか。そのテーブルでは、誰もが等しく幸せそうだった。
 美人のビア・ガールは給仕を手伝っている。そして、手がすいてビール・サーバーの前に立っているときには、客の話を聞きながら慎ましく笑っている。ほかのテーブル客も含め、誰も彼女に色目を使ったりしない。彼女も客に流し目を送ったりなどしない。そこには、サザエさん一家的なほのぼのとした空気がひたすら流れていた。

 デジカメ片手に異国を旅して、自分の所有するパソコンを使ってその有様をホーム・ページにアップするような贅沢を、多くのアジア人が羨む。その気持ちは、日本本国では想像し難い格差社会であるバンコク在住日本人の世界で日々を送る僕にも理解できているつもりである。しかし、しかしだ。ないものねだりであることを承知で言えば、台地や川の恵みを感じる滋味豊かな食事に箸を運ばせながら、あんなに屈託のない幸せを皆で共有するような時間を、近頃の僕らはいつ持ちえただろうか?

 ヴィエンチャン近郊の村、バン・クンに向かうピックアップで一緒になったおじいさんは、ひたすら遠い眼をして流れてゆく風景を眺めていた。インドシナ戦争も、その後の社会主義化も、近年の経済開放も見てきたその眼の先に何があるのか、僕もまねをして追ってみたが、もちろん彼が見ているものを僕には見ることができなかった。おじいさんの連れ合いらしいおばあさんが、何度もピックアップを停車させて、その近くにある店や民家でトイレを借りている。尿が近いのだろう。しかし、15分走ればまた車を止めるような頻度になったせいで、乗客はだれもがうんざり顔になってゆく。そのストレートさがまた面白い。すると、おばあさんはトイレに立ったある店の前で別のピックアップに乗るように促され、おじいさんだけが帰ってきて僕らと同じピックアップに座った。どうやら、他人どうしだったようだ。
 どうやら、僕は外国人相手の商売をしているラオス人の姿しか見ていなかったようだ。以前、ムアンシンに滞在したとき、作りつけの大きな小屋を男女がわらわらあちこちから集まってきて、みんなで運んでいるのを見かけたことがあった。誰も大きな声を出したりしないし、見て見ぬふりをする者もない。ヴァンヴィエンでは橋のない小道があった。川の向かい側にも同じように道が続いている。どうなっているのかと立ち止っていると、あとからやって来た人々がそのまま川に入って向こう岸まで歩いて行った。老いも若きも男も女もてらいなくありのままの姿で、ラオスでは人々が遠い眼をしながら暮らしている。実に久しぶりに、旅情がかきたてられてやまない国、それが僕にとってのラオス。













2007年

12月2日

 食が「母国」を感じさせる大きな要素となることはこれまでに繰り返し書いてきた。日本人は世界でも珍しく愛国精神の少ない国民だと思うが、海外在住や留学・長期旅行などで長らく口にしなかった味噌汁やご飯に体が反応するとき、自分が日本人であることが強く意識できるだろう。

 これと似たようなものに、「笑い」がある。特にテレビ番組には大きくその違いが映し出される。たとえば、日本の笑いには「間」が非常に重要視されている。同じフレーズを1秒早く言うのと遅く言うのでは、もう笑いを誘えなくなる可能性が大きかったりする。そのため、日本の漫才やコント、お笑いバラエティー番組の多くは年を追ってスピード感を上げている。そして、漫才における「ボケ」のように、笑いを誘う中心人物は不可解な性格をのぞかせる人物だという設定になっている。つまり、多分に構成的なのだけど、そこから逸脱したように見える人間が周囲をぐんぐん自分の世界に引きこんでいくパターンなのである。これはM-1グランプリでのチュートリアルやフットボールアワー、麒麟などを見るとよくわかるだろう。やすし・きよしやコント55号のころからこうした要素は伝統的に続いている。また、綾小路きみまろや長井秀和、ひろし、古くは嘉門達夫など「あるある」スタイルのお笑いも数多く存在する。日常生活のはざまで気にもとめていなかったけれど、指摘されると「確かにそんなことあるよなぁ」「確かにそんな人いるよなぁ」という種類の笑いである。

 アメリカン・ジョークに笑えない経験がおありなら、その延長線上に考えてもらえると思うのだが、タイでのお笑い番組は基本的に、明らかにおかしな格好をした芸人たちがベタな冗談を言ったり、ハリセンでたたいたり、さらには田舎者をバカにしたり、個人の身体上の欠点をコケにしたりするパターンで進んでゆき、僕はどうしてもTVの前で白けた気持ちになってしまう。ハリセンやダジャレに関しては非常に古臭いイメージがつきまとうし、差別的なネタでは笑うことが許されない気分になる。笑えない原因の最も大きなポイントは、僕のタイ語理解がTV番組の速度に追いついていないことであるのは明白なのだが、そこを差し引いても、タイ語の力が高まったところで、やっぱり身長が極端に低い男の頭をハリセンで思い切り叩いて、小男がそのせいでふっとぶことを笑ったり嘲ったりすることはできそうにもない。
 ただ、これはタイ人についてよく指摘されることなのだが、例えば田舎者や身体上に同じ欠点を抱えている者がその番組を見てケラケラ笑ったりするのだ。この感覚は、国際的にいっても非常に珍しい種類のものではなかろうか。差別的な感情は、胸に手を当てて問うと、ふつうは誰の心にもあるだろう。それをありのままに表現してしまい、受け手の側が柔軟な姿勢でそれを笑い飛ばしてしまうという構図は痛快だ。これに対して、日本人は非日常的な人物がすごいスピードでまくしたてるような寸劇を見せないと日常生活から離れることすらできず、または「あるある」という共通認識を通じてやっと他人とつながりあえるようなお笑いの世界に生きている。日本のお笑いは相当高いレベルとセンスを兼ね備えてはいるだろう。しかし、送り手と受け手のコミット具合は都会の孤独を思わせる側面を有している。やはり、経済レベルが人を阻害するケースがここにもあるのではないだろうか。


6月11日

 僕ら在タイ日本人はしばしば、自分たちが住んでいるタイという国のリアリティーを忘れて生きている。皮肉なものだが、そうした現実感は長く暮らしている今日現在よりも、タイにいることだけで鼻息を荒げる長期旅行者として過ごしていた無為な日々の方に圧倒的に存在する。これは仕方のないことではあろう。長期旅行者は昨日も今日も明日も、時間や行動の束縛がないことが第一条件なのだから、せっかくタイにいるのならその足元に触れたいと願うし、何らかの形で日本にかかわる仕事を抱えた在住者の多くは、意識を日本のチャンネルに合わせておかないと「稼ぐ」ことができない。どうしようもない民族意識の壁を、一方的にタイ人の側の責任として愚痴をこぼしてやりくりしている。
 その片側で、僕はタイという国にずいぶん救われている。列車で近くの座席になった人からお菓子を分けてもらったりもすれば、屋台の娘さんから「しばらくぶりね、日本に帰っていたの?」と微笑みをもらったりもする。仕事上では怠慢やルーズにいらいらしていたはずが、ここではそれらが鷹揚さ、精神的な余裕と名を変えて僕の心に沁み込む。調子いいもんだ、と自分でも思う。

 どんな恋でもいつかは冷めるように、いつまでもこのタイのことを焦がれるように無性に愛し続けることはできない。ただ、恋が長くなったり結婚生活へと結びついてゆくにつれ、当事者の恋人どうしや夫婦どうしでなければ理解すらできない関係性が生じてくる。もはやそのときには、友達の誰かに恋の相談をするような瞬発的でオール・オア・ナッシングな若気の至りではなく、時間が醸造した二人だけが感応し得る重みを分けあってゆくほかない。そのかわり、「おい、あれ!」と言うだけでお茶や新聞やテレビのリモコンやビールが所望したとおりに出してもらえたり、「あの事なんだけど」と言われるだけでそれが今月のローンの話であったり息子・娘の教育についての話題であったりすることが瞬時に理解できるような、貴重で格別な関係がゆるやかに続いてゆく安定性が日々を支えることになるだろう。僕はその段階に入っているということなのだ。
 タイは地域であり国なので、「おい、あれ」と言ってみたところで何も出てはこない。だが、僕はこの場所で存在を許され、認められ、一部では乞われてもいる。それだけでいいじゃないか、と自分をいさめるが、青春期を回顧するごとく、僕はまだその事実に馴染めないでいる。そして、なじみきってしまわないことが大切なのではないかとさえ思っている。

 恋人でなく家族となること、旅行者から在タイ者へと身を転じた者のタイとの関係は、そんなところだ。

↑ サイアム・ディスカヴァリー前より、まだ橋脚だけのBTS建設を臨む(1998年)


4月16日

 バンコク生活に戻って3年以上の年月が流れ、いつの間にか、以前暮らしていた長さを知らない間に越えていた。仕事帰り、屋台でイサーン料理を食べていると「ああ、自分は今、タイの土地を踏みしめて暮らしているんだ」と思うだけで胸がいっぱいになった初めてのタイ・ライフのスタートに比べて、この3年があっけなく過ぎていったのは、当然のことだといえばそれまでだ。
 ただ、こうしてバンコクの同じアパートにずっと暮らしていると、定点観測をしているような、ちょっとした街や人の移り変わりが自分なりに年表のようになってきて、それはそれで意味を持っているような気もする。この界隈には日本人がかなり多く住んでいるが、駐在員の家族としてこの街に住む大半の日本人にとっては、タイは数年の通過点でしかないうえ、街の動向なんてほとんど興味が持たれない。また、20代までの人にとっては街の熱さに触れる機会は多いが、それは瞬発性が強いものになりがちだ。

 このタイという国をはじめ、東南アジアには国家の歴史でさえ後世に遺された文献が少ない。歴史に学ぶよりも新しい波にうまく乗ることに長けた民族性がそうさせるのだろうか。日本では考えられないくらいのスピードで次々と街の風景が塗り替えられ、その場所に以前何が建っていたのかも思い出せない場所が数多くあるようなバンコクで、誰かがその記憶をとどめておくのは、悪くない。
 今のバンコクの勢いに、遠くかすみそうな記憶の中の1970〜80年代の日本の姿が重なって見える。誰もが「今」を生きることに夢中で、経済的発展が薔薇色の未来を約束してくれているような気がして、流行に敏感な若者も多いのに人々のコミュニケイションがまだ温かな、物質文化と人間性のつり合いがちょうどいい塩梅になっている旬の時期。たぶん僕は、その時期の追体験を大人として生きてみることに自身のバンコク生活の価値を感じているのだと思う。

 懐古的になるのはもう少し年配になってからでもいいとは思うのだが、「ギブ・ミー・チョコレート」の声を日本で聞いたかつての米兵は、今の日本をどう見ているのかを想像してみると、自分のわがままで僕はこう思ってしまう。「そんなに生き急がなくてもいいじゃないか。そんなに向上させるばかりがすべてじゃないじゃないか」。そんな声は、経済的に恵まれた国の人間が発するべきではないというむきもある。だが、経済伸長ののち、どんな空虚や孤独や恐怖や退廃が訪れるのかを知っているのは、がむしゃらなで性急な経済成長を終えた我々だけがその本質を知っている。マザー・テレサが「インドの貧困層よりも癒されない孤独」をアメリカに見たのはなぜだったのか。
 僕はここでバンコクの一部の記録係を、自分で勝手に担当している。微笑みをもって外交を乗り切り、「マイ・ペンライ」と互いを許しあう人づきあいで温かな人間関係を保ってきたこの国で、僕らと同じ過ちが起きないかどうか、どこがその分岐点になるのか、定点観測を続けたい。
 


2006年

9月26日

 前回の項でクーデターについて書いたので、休みを利用していくつかのポイントを回ってきた。ご存知のようにこのクーデターは無血革命となり、国際世論では「民主主義の後退」を指摘されたものの、現在に至るこの1週間を安定した状態で推移させ、国民から賞賛を得ている。その様子を見ておくことは、タイ在住者として重要なことであると感じた。

 サナーム・キラー・ヘーン・チャート(国立競技場)駅には、軍人のほかに警察官も配備されていた。面白いのは、軍人が相変わらず記念撮影に応えているのに対し、警察官はカメラを向けると制したこと。警官が撮影に応じなかったのはたまたま不機嫌だったからだとしても、国際世論に穏健な印象を与える軍隊のイメージはこういった意味でも成功しているのかもしれない。

 ワット・プラケオ(エメラルド寺院)で気づいたのは、タイで格別の扱いを受けるこの寺院常駐の軍隊は、着用している制服の色がちがうこと。街にいる普通の軍隊は迷彩色だが、ここのそれはオリーブ・グリーン。入り口を覗くと、ちょうど交代の時間だったか、二列縦隊になった彼らが歩調をあわせて行進し、詰め所に向かって敬礼していた。こちらの方がずいぶんと「本物」らしい風情だ。

 民主記念塔は、1992年の忌まわしい事件の現場。このときも金権政治に溺れたチャワリット首相を引き摺り下ろすため、スチンダ将軍が決起したが、その後「政治には首を突っ込まない」と明言した将軍はそのまま政権に居座り続けて首相に。この民主記念塔の周囲は日に日に増えてゆくデモ参加者で埋まってゆくが、とうとう軍は戦車を含む発砲を起こし、流血騒ぎとなったという。今回のケースが同じ轍を踏まないようにと、誰もが祈っている。この民主記念塔は交通の要所でも、現在のタイ政治における重要拠点を近くに数多く抱える土地でもあるから、やはりライフルを肩から提げる男たちがいる。「民主記念塔と一緒に写真を」と願うと、「顔は撮らないでくれ」と背を向けた。僕らの様子をベンチに腰掛けているこの付近の学生が笑いながら眺めている。

 カオディン(動物園)のすぐ横にはアナンタ・サマコム(旧国会議事堂)がある。そのすぐ前、アンポーン公園の横を走る道には戦車が縦列駐車してあった。ここはタイ最大のレコード会社グラミーがオール・スター・野外コンサートを開いていたところだ。しかし今日は、軍人や戦車と写真を撮ろうという市民・観光客で大盛況である。戦車に立ち入らないように囲われたゲートを空け、軍人は子供を戦車に上らせてもいるし、他所よりもうんと気軽に記念撮影に応じている。見ると、彼らの肩や戦車の上に花が飾られており、同じく花を手にしている子供もたくさんいる。軍人からもらっているのも確認できたが、カメラを向けるとぷいと顔をそらす子もいる。その小学生位の年齢と思しき女の子は、明らかに花束といっていいくらいの花を持っていて、いつの間にか少なくなったと思ったら、走ってどこかからまた花を持ってきた。そう、彼女はここで花を売っているのだ。僕はまた一つ、日本ではなかなかお目にかかることのできない「生きる力」を垣間見た気がした。
 ここにいる軍人には、写真撮影の許可を求め、シャッターを切ったあと「コープ・クン・クラップ(ありがとう)」と頭を軽く下げる人もいた。何に対しての感謝なのだろう? この写真の一枚一枚がタイ国軍を是とする一票を投じている証だとでもいうことなのだろうか? いや、たぶんその答えは違う。タイではあまり遭遇しないが、フィリピンなどで「俺を撮ってくれ!」とせがむいい年をした男たちが撮影後「サンキュー!」を連発するように、おそらく彼は「撮影してくれてありがとう」と語りかけてくれたのだろう。市民からのひっきりなしに求められる記念撮影の渦の中で、兵士たちは笑顔を取り戻し、ただの一人一人の男にずいぶんと近づいていたからだ。職務に徹することができていないといわれればそれまでだが、少なく見積もっても、僕も含めここに集った野次馬たちに軍は意識革命を成功させたと言えるのではないか。
 











9月20日

 日本料理店で食事していると「今夜、軍部によるクーデターが起こったらしい」とタイ人の店員から聞いた。たしかに言われてみれば、車の数が少ない。しかし、どのタイ人からも、深刻論はまったく飛び出してこなかった。タイ人の中では比較的シリアスの物事を捉える傾向を持った友人からですら、電話をもらっても最初はまったくクーデター絡みではない話から会話が始まる。2006年の夜、日本でそれを知った人々が大騒ぎをしている間、バンコクではそんな調子だった。
 もちろん僕にしても、安全のことについては考えた。しかし、戒厳令が敷かれているはずの翌日の街では、交通要所で軍人がライフルを構えていることと、名物の交通渋滞がないことを除けば、表面上はほとんどいつもと相も変らぬ風景が広がっているだけ。あっけに取られるのは、三脚を立てて軍人と肩を並べ記念写真を撮っているタイ人たちも多いこと。これを例えば日本人がやっているのを見かけたTVリポーターなんかがいたら、「責任感の無さにもほどがある」とまくし立てられること請け合い。
 以前大阪のあいりん地区で暴動が起きたときにも同じようなことを思ったのだが、現場のすぐ近くを通っている地下鉄は通常どおりに運行を続けていて、外面的にはまったく何の騒ぎがあるのか判らない。そんなものなのだ。日本には圧倒的なスピードの情報共有力と、「相手のことを我が事のように考える」という連帯責任感がある。それは本来すばらしいもののはずなのだが、マスコミがこの考え方を逆手にとって、刺激度をアップした報道で視聴率を稼ごうとしているのにまんまと乗せられていることを、視聴者は自覚しておかなくてはならない。

 もちろん、かといって軍人との記念写真が褒められたものであるということではない。ただし、少なくともこの僕は、今回のクーデターを現時点では喜んでいる人間の一人であることも知っておいていただきたい。これはタイにおいては国民ではない「外国人」である僕の個人的感想なのだが、ここ数年のタイは、そして特にバンコクは進化時計を早く進めすぎた気がする。前与党であるタイ愛国党、そしてそのリーダーであるタクシン政権は国家の経済発展と国民生活の安定に寄与したが、その無理のために大きすぎる犠牲を払ってきたし、大衆意識の変化によって確実にある程度の精神的なゆとりを失いつつあった。
 僕のような人間にとって、タイは「日本が忘れてきたもの」を保持しているという点で非常に貴重な場所である。訴訟社会に入ってがんじがらめになろうとする以前の、子供が子供らしさをなくしてしまう以前の、経済成長のストップが「一億総中産階級」であった安定感を切り崩す予兆が見える前の、将来への不安が少子化を生む前の、隣近所との付き合いや見知らぬ誰かにも親切でいる道徳心が消えてしまう前の、まだ経済成長時代まで日本が持っていた大切な情感や熱さや可能性を、タイという国は旅行者にさえわかりやすい形で保っていた。いや、正確に言えば、現在に至るまで圧倒的に有しているのだが、その一部が日本でもそうなってきたたような感覚で失われたのだ。
 それがタイでは外国人である僕の感想としては不適切な部分を多く含むことをわかってはいても、日本が犯した過ちをタイに繰り返してほしくないと願うのは、生活の場としてこの国を選択した僕には当然の成り行きであることを了解していただきたい。その上で書くのだが、今回国軍が発表した「国家のため、国王のための決起である」という発表を、僕は喜ばしく捉えている。だからこそ、タクシー・ドライヴァーが「タクシン出て行け、と国民みんなが思っている。100%だ」と強調する笑顔を、僕も100%の思いで受け止める。そうなんだ。生き急ぐことがすべてじゃない。政治や国力の躍進に追随して空き地を埋め尽くし、スラムを立ち退かせ、ビルディングの背丈を競うことが最重要課題なのではない。すべての人が生きる力を失わないことが肝心なのだ。
 「持つ者」の余裕が「持たざる者」へと高見からお気楽なコメントを吐いているのではないつもりで僕はいる。「クーデター」を四角四面にシリアスに捉えて誰もが軽率な行動を控え、国民一人一人の良識的判断なるものを民衆自らが振りかざす国民であるよりも、会社や学校が急に休みになったので恋人や友人と街に買い物に出かけ、そこにいた軍人と記念写真を撮って誰かとの話のタネにするくらい自由な一般人でいることのほうが、どれだけ生きる活力にとって大切なことなのだろうか。時代とともに子供が活きる力・夢見る力をなくしている現状を憂える裏で、僕ら日本人はどれだけ痛みを伴わない机上の空論で現状を嘆くことを繰り返せば気が済むというのだろうか。
 繁華街に設置された軍人の連絡所のすぐ前で、バンコクっ子たちはヒップホップ・ダンスの練習に勤しんでいた。僕にはそれが、すごく眩しい。


7月8日

 mixiに入るようになって半年ほど過ぎたが、日本と海外との関係もずいぶん変わったなと感心する。
 日本ではmixiがどういう受け容れられ方をしているのかよく知らないのだが、日本人同士の接触が極端に減っている海外生活では、このmixiが果たす役割には少なからぬものがあるように感じる。バンコクの在住日本人は都市別ランキングの世界一らしいが、それでも顔がさすといった不便を感じる程度に、日本人家庭の多いスクンヴィット界隈は狭い。掲示板・ブログ荒らしから守られている日記とコミュニティーの場を通じて、パーソナルをなんとなく窺い知ることができる匿名の日本人と風通しのよい人づき合いができるということの意味は、相当大きい。

 バンコクから眺めた日本のよさのいくつかに「ほっこりした感じ」と「信頼できる誠実さ」というものがある。こたつに足を入れてみかんを食べながら、コマーシャルに入るとテレビ番組の感想を述べあうような「ほっこりした」ささやかな幸福感はバンコクの喧騒からは遠く、友人・知人・今知り合ったばかりの誰かの真摯でひた向きな一面に「この人とはいろんなことが話せる」という確信に胸が躍るあの瞬間も、バンコクの排ガスに霞みがちだ。
 換言すれば、ほっこりした空気や信頼できる誠実さを感じる機会を与えないくらいに日々、日本ではありえないような珍しいこと、どうしようもないこと、あまりに馬鹿げたこと、涙を流すくらい笑えること、誰もが不条理に感じること、そして本当に大きな事件などが、バンコク生活に渦巻いているということでもある。
 僕はそのような中に身を置くべくしてタイにやって来たのではあるが、やはりタイ暮らしの今、日本米と味噌汁を出されればわざわざタイ料理を選択できないこととまったく同じ理由で、その「ほっこり感」「誠実さ」を求めてしまうのは日本人の性ではないかと思う。
 そこにmixiである。あのオレンジの画面から「ほっこり感」や「誠実さ」が覗けるときには、ちょっとした癒しのようなものを感じることすらある。

 また、mixiには自分のトップ・ページ上で参加コミュニティーを表示することによって、趣味や興味を公開している。正直なところ、日本人居住区で働く人間にとって海外生活は、日本の田舎暮らしに少し似て人目が気になってしまう側面があるのだが、日本の名刺文化のように趣味や興味を通じて匿名の、しかも外見や年齢にとらわれることなくダイレクトに心のある部分までを見せて他人同士がつながってゆけるという可能性を感じることは、快い刺激になる。それに応じて、趣味にまでものぐさになっていた自分にも気づかせてくれた。

 mixiのコンセプトには、海外在住者こそが当てはまっている気がしてならない。


2004年

7月11日

 数少ない休日、久しぶりにバンコクの中心街、サイアム駅に降り立った。人いきれに休日を感じつつ、手っ取り早く用事を済ませる。職場用のパンツはどのあたりで探すか、セールをやっているのはどこか、タックが入っていないタイプのものはどの店で売っているか、そういうことに大体の見当がついてしまうことに、この街で僕が暮らした長さを一人感じる。CDを求めるにしても、どのレーベル、どういうジャケットのものにはずれがないのか予想できる。しかし、旅人だったりまだ着任早々だった頃にあんなにも感じた「ここに歩いている見知らぬ誰かとの出会いがぐんぐん広がってゆきそうな予感」だけは見事に拭い去られてしまった。僕の歩いているサイアム・スクエアは、いつの間にか日本の街並みと同じく、ちょっと肩がぶつかってもすぐに「あ、すみません」とは口をついて出てきにくいくらいに人と人とが遠くなっているように感じてしまう。ただ、それはバンコクが変化しているのではなく、ほかでもない僕が、この街に長くなったというだけのことだ。


4月29日

 誰もいない部屋にいると、寂しさでつい友達を呼んだり長電話したりするのだが、しゃべっているうちに一人になりたくなってくる。いつもどこかしらイライラしている。何か批判めいたことを口にするときに、言いようのない毒を含んでしまう。楽しいことを探したいとは思っているのに、その気になるまではずいぶん面倒くさがる。―近頃とみに我侭になった自分がいるのは、自分自身でよく判っている。
 つまり、僕は歳を取ったのだ。それは認めなければいけない。いつまでも若い気を保つのは、誰が言わずとも大切なことだが、それもきちんとした現状認識があっての上でのことだろう。夜更かしした翌日、ゆっくり眠りたいのに目が覚めてしまったり、そのせいで胃が重く、食欲が一日中戻らなかったりすることを、「自分はまだまだ若いんだ」という思い込みだけでそのたびに乗り切ってしまっては、かえって体に負担をかけることになってしまう。
 そう、歳を取ると気難しくなるのだということを、僕はここ最近、肌身を持って感じている。その舞台がバンコクであるのは、いささか厄介だ。この街は、サヌックでサバーイであるために、時には緩慢ともいえる鷹揚さでいろんなことを許し、妥協し、やり過ごしてその場しのぎでもよいから笑顔を浮かべていることが何よりも大切な場所だからだ。都市である以上、バンコクにだって種々の鬱積がそこかしこから漏れ溜まり、滓のようになっている。それでも、人々は無理に湿ったマッチに火をつけるがごとく、あの「タイの微笑」を浮かべる。顰め面をして屋台の椅子に腰を降ろしていると、自分がいかにもはぐれ者になった気がする。
 いい歳のとり方をしたい。若くはありたいけれど、この三次元世界では時の流れを誰しも手中にすることはできないのだから、抗わず、無理せず、体内時計に沿った「いい生き方」をしたい。日本で暮らすのとは違い、ここには範となる先達を見習って自身の将来を決めてゆく(あるいは「決めさせられる」)ような環境は殆どないといっていい。誰もがある種のフロンティアに立っている。寛容になることが答えではなくてもいい。ただ、信じられる自分を生きて生きて生き抜いてゆくことを忘れてはいけない、とささやかに自戒する。


2月20日

 1年強経って、タイへ舞い戻ってきた。自身で選んだ道とはいえ、もうこうなれば宿命のようなものをこの地に感じるほかない。居も以前3年弱暮らしたアパートに戻って始めた。職場まで元のさやに戻った。しかし、いろんなことがかつてとは違っている。
 7月からの滞在時に2ヶ月ほど使っていた古いアパートはゲートに囲われて解体作業が進んでおり、庭の綺麗なインターナショナル・スクールになる予定だ。つい数年前にはBTSも開通していなかったこのバンコクに、今夏地下鉄が走る。カオニャオ・マムアン屋の娘は携帯を手にしょっちゅうメールに明け暮れ、男友達が店を手伝うでもなくひっきりなしに遊びに来るようになった。このアパートの階下にあったミニマートは名前が変わり、無愛想な店員の顔ぶれを見ると経営者も替わったようだ。そのかわり、24時間営業で便利なファミリー・マートが近くにオープンしていた。多くの知人がバンコクを離れ、そのかわりに見知らぬ誰かがこの街で暮らし始めている。
 さしあたって、僕はこれまでのどのときよりも落ち着いた気持ちで、はやる期待もほとんどないままバンコク住民の一員となってすごしている。この街に変わらないものがひとつくらいあってもいいじゃないかというくらいに。

 日本を離れる直前とバンコク到着直後にそれぞれの印象を文にできたらいいなと思っていた。だが、こういう時期には必ずそれなりの事情があって、そんな悠長なことは言っていられなくなる。でも、それでいいのだ、と思う。文を書くために生まれてきたような人もいるけれど、僕が文を残したいと思うときは、生活の中から何かがにじみ出てきたときであってほしいと自身で願っているからだ。生き急ぐこのバンコクの真っ只中で、せめて自分の好きな文を書くときくらい、ゆったりとした面持ちでいたい。仕事以外にはさして外出もせず毎日PCと向き合ってよしなしごとを書きつくる毎日よりは、蒸し暑いバンコクで粘ついた汗をかいてこの心に溜まった何かを伝えたい。
 日本人というイレギュラーな立場から、このタイでの生活をもう一度スタートし、それを文にしてゆける喜びを、できる限り忘れないでいたい。

2003年

10月6日

 人の歩くペースがゆっくりで、ついぶつかりそうになってしまう。どこにいても音がうるさい。排気ガスで息がしづらい。誰もが、在住日本人でさえもがのんびりしている。自分では自然に話していることが、相手にとってはよそよそしくて曖昧に映る。時間を割って物事が動いていかない。当然のように、暑い。 ―それが約半年間の日本生活を経た後のバンコクに対する感想だった。しばらくの間に自然と日本人然としたものを身に纏っている自分に戸惑いを覚え、一刻も早くこのタイの空気に馴染みたいと焦る一方で、手元にある程度戻ってきていた、日本人的な行動力やセンス、責任意識があれば、タイの中で何か新しいことをやってゆこうとする自分にも大きなチャンスがあるのではないかと密やかな期待も抱いていた。

 知人宅での間借り生活から一人暮らしへと切り替えた頃…人間というものは貪欲なものだ。あれほど日本にいる間にタイ生活に焦がれ、「あそこにさえいれば、それだけで僕は幸せだろう」と高をくくっていた僕だったのに、あまりかけてくる人のいない携帯電話のディスプレイをいつも眺めるようになっていた。旅であろうとなかろうと、長らく「職場へ通う」という行為のないままにひとつの街で暮らしているとき、おのずと「自分はこの街にあまり結びついてはいない」とひとり煙草をふかす時間が増える。暇がなければ自由がほしいと願うが、暇が多いと寂しいと感じる。本当にわがままだと思う。
 「恋人はいるのかい?」と、よくある質問をタクシー運転手が投げかけてきた。「いないとひとりで退屈な寂しい毎日を送らなきゃならん。けど、いたらいたでつまらんことで喧嘩して、面倒で落ち着かん毎日になる」と、彼は言う。聞きながら、日本での日々のことを思い出していた。あの国では、面倒なことが本当に骨の折れて厄介なことばかりだから、いっそ貝のようになって退屈と寂しさに慣れて自身を麻痺させることが楽だった。でも、こうやってバンコクにいると、僕には彼の言わんとするところがとても身近に感ぜられた。この街では、手を伸ばせばきっと誰かの指に届く。でも、届いた指を手繰り寄せてしっかりと握り合い、長い時間を共有してゆこうとする覚悟が形づくられない。恋愛に関しても人間関係にしても人生に対しても、この国はあくまでアマチュアなまま時間だけが流れてゆく。

 タイの田舎から出てきたある知人に、一人暮らしの理由を聞いてみると、最初は「ひとりが好きなんだ」と答えていたものの、時間が経つと「前に一緒に住んでいた同居人に盗みをはたらかれた」と正直なところを話してくれた。誰もが「繋がりたいのに繋がれない何か」を抱えている。かけたいのにかけられない電話が増え、かかってきてほしいのに鳴らない電話が多くなり、うすぼんやりと孤独な朝を、バンコクは繰り返す。


2月25日

 日本に戻ってきた。

 どうしてこの日本に「母国」のイメージがないのか、それが悲しい。どの国の人々にだってそれなりの自国に対する愛着があるはずだ。でも、自分の中にはそれがほとんどない。同じように感じている日本人がきっと多いことも知っている。第一、僕たちは「国民」という言われ方をひどく嫌う。それなら「ヤマト民族」とでも置き換えてみてもいいが、それとて昔語りのような輪郭のぼやけたもので、あまりにもリアリティーがない。

 帰国して早々の一時期、僕は軽い引きこもりのような状態に陥ってしまった。服用していた鼻炎薬の副作用もあったが、あまりの日本に対する違和感のためでもあった。久しぶりに会う親しい友人にだけはそのことを話したが、彼らの答えは概ね一様に「そりゃカルチャー・ギャップもあるだろう。けど、日本でずっと暮らしているみんなも、中身は違っても同じように孤独に苛まれ、不毛に嘆いているんだ。それでも日々のささやかな幸せを探そうと、仮面をかぶって楽しげに生きているんだ」というものだった。そういえばそうだった。僕もその感覚は日本を出るまでずっと抱きつづけていたじゃないか。
 たぶん、僕の話し方がまずかったのだろうと思う。彼らは傷つき迷う友にアドヴァイスをくれたのだったが、僕は悩みごと相談をしたかったわけではなかった。このギャップが決して埋まらないだろうことはもとから判っていた。そして僕は愕然としてしまった。要するに、僕は友達に精神の助けになってもらおうとは期待していなかったということだし、友人達は「人は個々それぞれに孤独な闘いを続けてゆくしかないんだ」と遠く距離をおいたところから話し掛けていたからだ。彼らが話してくれたことはたぶん誠実で真摯な意見だ。それは以前の自分を考えれば納得がいく。しかし、僕が話したかったことは膨らませていえば「この話の帰着として、日本以外の世界のどこに『人は孤独な生き物なんだよ』というようなことを解答にするような国があるというのだろう」ということなのだった。話が平行線を辿ることは火を見るより明らかだったので、彼らが僕のことを真剣に受け止めてくれたことに感謝を刻み込んで、話題を換えることにした。そういう日々が続いた。

 はっぴいえんどというバンドは、当時ほとんど認知されていなかった日本語によるロックを意欲的に手がけ、1973年の解散時に「さよならアメリカ、さよならニッポン」という曲を残した。ロックという西洋文化をイースト・エンド=日本に導入し、その洋邦どちらともつかない新しい地平に出ながら、初発の勢いだけではそこに切っ先を向けることのできなくなった状態を「さよならアメリカ、さよならニッポン」と表現した。今ここにこうしていて、僕も同じように感じる。日本のものさしとタイのものさし、二つの尺度の長所・短所を知ってしまうということは、ユートピアなんて存在しないということを認識することだ。暮らすことと旅行することとは決定的に違う。どこかの国に魅せられたとしても、よほどの相性がない限り、そこは第2のタイにしかなり得ない。
 そういうとき、日本が僕らの中で「母国」然としていないのが残念でならない。どうして僕らは日本でいる限りこうも暗く重くて、疎外感に満ち、押し潰されそうになっているのか。瞬発的な10代の少年、少女達の感性がこの社会に噛みつこうとするのは、むしろ自然なのではないか。
 これから僕は、できるだけ日本を愛そうと思う。国家とか民族主義とかナショナリズムとか島国根性とか、そういうこととはまったく関係がない。実体はないけれど、豊かな言語をもち、誠実で、山海に富み、四季に彩られ、他人の身になって物事を考えることがたぶん世界一得意な日本というものを。

 このページの主旨である「異郷からの僕の歌」は帰国したことで、今回で終わる。ただ、これからも僕はタイというリアリティーを忘れることはないだろうし、彼の地に赴くことも少なからずあろうだろう。今度はベース・キャンプを変えたところから、湧いて出る思いを綴ってゆきたい。島国の中からだけではなく、タイを経由してこの日本に僕と血の繋がった証を感じながら。

2002年

9月20日

 ずっとこらえて来たんだ、と云わんばかりに激しい雨が舗道を叩き始めた。毎日、およそ定時に降雨がある雨季にしては、このところ珍しいくらいスコールはなかった。「来るときは何でもなかったのになぁ」と、こういうとき誰もが口にするフレーズを胸の内で反芻しながら、半屋台になった店の、屋根のある側でわざとゆっくりパット・ミーヤム・ルアムミットを食べていた。だが、箸を置く頃合いになっても大粒の雨はとどまるところを知らず、「家のシャワーの水が、これだけ出てくれたらありがたいのに」と、諦めて隣の軒に向かって駆け出した。次の軒下を辿るだけで、濡れた服が肩に張りつく。タイ人たちは車で颯爽と去ってゆくか、いつ終わるとも知れぬ雨宿りをしている。
 やっと出てきたスクムヴィット通りだったが、高架になった駅舎の下でも、歩道には雨が吹き込んできた。もう少し走らなきゃ。両手でびしゃびしゃになった顔をぬぐいながら、家に洗濯物を乾かしていたことを思い出して舌打ちしていたとき、ふと頭上から雨粒が消えたのを感じた。そして、傍にいて傘をさしかけてくれている少女の姿を認めた。それは、パット・ミー屋に腰を落ち着ける前にカォニャオ・マムアンを買った店の娘だった。
 傘を差してくれていても、彼女は笑ってはいなかった。タイは確かに微笑みの国ではある。しかし、電車で席を替わってあげることでさえボランティアという大袈裟な大義名分の必要な日本とは違って、たとえバンコクでさえ、タイには昔ながらの互助精神がしっかり残っている。善意を顕すときに、笑顔を随伴させる必要はあまりないように感じているのではないだろうか。だから、善意が押しつけがましくない。心にもない遠慮や謙遜ごっこもここにはない。

 「雨がひどいでしょ。傘があるから、どこかまで送ってあげるよ」と彼女は言う。いや、正確に言うと「ひどい雨ですね。傘がありますから、どこかまでお送りしますよ」といった、きちんとした敬語だったのかもしれない。しかし、ビジネス然とした職場でない限り、タイでは敬語で話されても、いかにも前者のように聞こえるのだ。タイ人たちの表情の柔らかさやふわふわした発音のせいだろうか、話し手の位置がずいぶん身近に感じられるのだ。たぶん敬語に関する意識は実際ずいぶん違うのだろう。そして、旅行者がタイの「ヒト」に惹かれてこの地を繰り返し訪れるのも、そのせいだと思う。自分なりの精一杯のタイ人らしさを込めて、僕は「いや、反対車線に出なきゃいけないから、駅の階段を回っていくよ。ありがとう」と笑ってみせた。
 駅の入り口まで、屋台用の大きな傘を、彼女は指しかけて僕を送ってくれた。階段を上りきったところで見下ろしてみると、もう彼女はすっかりカォニャオ・マムアン屋の娘の顔になっていた。傘の位置をこまめに変え、マムアンを並べ直し、カォニャオを混ぜ、額に汗しながらテキパキ働いている。「がんばりなよ」と声をかけてあげたくなる。

 帰りのタクシーの中で、ふと気がついた。彼女は、僕の初恋の人にそっくりだった。


6月23日

 文がうまく書けない。

 「今月は休みがないんだ」と言うと、タイ人たちはほぼ例外なく「ナー・ソン・サーン(かわいそうに)」と答える。それなりのタイ語ボキャブラリーしかない僕のような日本人にもわかりやすく自分の見解を述べるとすると、結局その語が最も伝わりそうで端的なものとなるだろう。ただ、それであっても「大変だね」とか「頑張りなよ」とはついぞ聞いたことがない。日本では「かわいそうに」の一言は、たぶん失礼である。仕事は自主選択するものだから、たとえハードであってもその仕事に従事している現状を「かわいそう」なものに貶めてしまうのは人を見下した物言いになってしまう。
 それを反対側から見ると、タイ人は成り行きや運命のめぐり合わせ上、仕方なくその仕事をしているのではないかと想像される。その気候ゆえ太古から食糧が容易に手に入った南国では、仕事というものは自営でもないと、やはりあくまで時間の切り売りになってしまうのだろうか。一般的タイ人は日本人的視点から言うと、バイト感覚で仕事をしているといってもいいだろう。
 ではいつも定時に帰宅し、何かと「今日は休む」といとも簡単に携帯を取り出す彼ら・彼女らはその日何をしているのか…ほとんどの場合、ゴロ寝しながらTVを見て一日を終えてしまうのである。これは現代の日本人父親像が「ナイター見てビールか、難しい顔で新聞か、ゴロ寝」であるのとは根本的に違う。彼らは来るべき明日の仕事のために身体を休めるインターバルを家庭に置かざるを得ないのであって、明日という修羅場に、間違っても「今日は休む」などという電話をかけないために自衛しているのだから。

 今となってはもう忘れかけているが、旅行者だった頃はやっぱり僕もタイのことが大好きで、だからこそその後にこの地を選んで居住するようになったのには違いない。だがしかし、当然のごとく「旅するのと住むのとは違う」という根本的な定理は、僕のタイ・ライフの扉も例外なくノックした。昔のように、タイのことを無条件に愛していたいと、今でも切に願う。だが、掛け声倒れに終わる、いつも。それは、僕があまりにも日本人だからだ。

 ヒトはモノを考えるとき、必ず言語を使用して思考する。つまり、母語を日本語とする日本人は、日本語を用いてモノを考える。本当の意味での「完全な翻訳」ができないように、例えば「ナー・ソン・サーン」は「かわいそうに」とは必ずしも一致するわけではない。ある意味合いにおいては、「ナー・ソン・サーン」は他人の仕事が忙しい状態に対する儀礼的挨拶のようにも思う。しかし、理解するためのイメージ母体が日本語による以上、僕はどうしてもそれを「かわいそうに」と聞き取ってしまう。そうして僕は、日本語という束縛をいとおしくももどかしいものに感じてしまう。遠距離恋愛のようなものである。

 海外居住とは、頑固でいてしなやかな生活ができるかを試される場である。そして僕はしなやかに生き延びるために、しかしながら不恰好な姿を晒して、このように文を書く。それがある種僕の個人的なリハビリであろうと解釈していただいてかまわない。ただ、海外生活という名の孤独にもがく僕の姿が誰かにとってリアルでさえあれば、僕はやはり文を書きつづけようと思う。

2001年

7月8日

 7月7日、天の川をはさんで二つの星が劇的な再会を繰り広げる日に、僕はひとつの訃報を受け取った。
 彼の名を僕は知らない。ただ、職場の入り口でガードマンをやっていた彼は、あの「タイの微笑」でいつも挨拶をしてくれるという、それだけといえばそれだけの関係だった。仕事をかわったあとも、バイク好きだった彼はよく職場の駐車場で愛車をあれこれといじりまわしていた。しかし、運命は彼をそのままのささやかな幸せに繋ぎとめてはおかなかった。本当に、風の噂のように、「昨日、彼はバイク事故で死んだよ」と耳にした。

 タイでは、アジアの多くの国では、ヒト一人の命は軽い。家庭や血縁も含んだ人間関係の責任の重さから、この国の人々は自由だ。彼も、ひょいっと自分の「イノチ」を担いで別の街に移り住んでしまったようにさえ感じる。でも、それでも、僕等残された者は、この物語にエンドロールを出して「生活」という名のエピソードの劇場上映を終わらせることができない。ただ、こうした訃報を「いつしか、時間とともに人間は物事を須らく忘れていくものだ」と言い聞かせながら、それでも捨て去ってしまうことなどできずに、戸棚に片付けて仕舞っておくしかない。僕等には「昨日」も「今日」もあり、たぶん「明日」も「明後日」もあるのだ。

 中国正月が「春節」といって、旧正月に爆竹やシンバルを鳴らし回って新年を喜ぶように、タイ正月は「ソンクラーン」と呼ばれ、4月13日から15日までの3日間を、通りすがりの人々どうし、派手に水をかけあってお祝いをする。僕は、タイで初めてのソンクラーンに、少しだけ残っていた仕事があって、職場でそれらを片付けていた。ソンクラーンのあいだにも仕事で帰省できなかった、当時ガードマンだった彼は僕の仕事をしている部屋に、「こんな日に一人でいるのは寂しいです。一緒に飲みましょう」とやってきて、僕は彼の奨める得体の知れない安酒をコップにがぶ飲みしたせいで、職場のトイレで朝まで寝ていた。

 「気にしないでおこう」「気にしないでおこう」と、いつも僕は肝に銘じる。でも、駄目だ。どうしようもなく、僕等には「昨日」も「今日」もあり、たぶん「明日」も「明後日」もあるのだ。


2月12日

 ネヴィル・ブラザーズのカヴァーで知ったのだが、オリジナルはレナード・コーエンの手になる“Bird on a wire”という曲がある。
 ネヴィルスはアメリカ南部きっての大都市で、フレンチやカリビアンの匂いを今に強く残したニュー・オーリンズを拠点とするブラック・アメリカンズ。レナード・コーエンはカナダ発の放浪者で枯淡と漂白の詩人・ミュージシャン。かたやブラザーズ・ブラッド(兄弟の血)をしなやかに歌うネヴィルスと、あくまで個であることにこだわり俗世から離れたところからの観察者であろうとするコーエンの歌声がこういうライムを繰り出す。
 Like a bird on a wire
 Like a drunk in the midnight choir
 I have try to be free
 Like a bird, free
 As a bird, free

 そして、僕はやっぱりどうしても、このどうしようもない町のどうしようもなさが好きでいてしまう。


1月14日

 ちょっと以前のことになるが、「僕らが旅に出る理由」という小沢健二の歌があった。そこでは「遠くまで旅する恋人にあふれる幸せを祈るよ」と言いながら揺れてしまう男心の感傷が歌われていた。そして、Misiaが”Believe”で歌ったのは、同じように遠くに旅立つ恋人を見送る立場に立ったときに「さみしさが生み出した笑顔が瞳の奥・胸の中、強く光るの」と言い切る女の側からの決意だった。それにしても、これはなんという隔たりだろう。二人とも、旅に出る恋人本人には本当のところを言えないでいるが、小沢が旅に出る前の恋人に「君は完全にはしゃいでいるのさ」くらいの皮肉しか述べられないのに対して、Misiaはのっけから”I Believe”と歌い上げ、「ああ、あなたに伝えたいことばかり」というフレーズのすぐあと、では何を伝えたいのかというと、”I wanna get you”とくるのである。

 ところで僕は旅立つ側の人間になってしまった。そういう僕がひとしきり思うのは、「僕らが旅に出る理由」ではなくて、「僕らがそこで暮らす理由」のほうだ。それはまた、旅に出る側の人間だけの理論ではなく、その場所で相手を待つことを選んだ側にも問われることだ。旅はある意味で映画と同じだ。エンドロールを出したら、そこまでの物語を完結させ、甘美な挿入曲を流して感動のフィナーレを演出することもできる。しかし、生活の場というのは違う。そこには不恰好な日常の連続が緩慢に続いている。旅に出ているとき僕らが口にする言葉は、いってみればセリフだが、自分が暮らす場でいいかげんな「かっこいい台詞回し」などしようものなら、余計に恥ずかしい結果を待ち構えなくてはならないこと請け合いである。虚構はいつか終わる。大切なのは、それが終わったあと、自分がどこに帰るのかである。

 Misiaが”I Believe”と歌うのは、「あなたはここに戻ってくるでしょう」という意味だ。彼女にとっての「ここ」とは「私」である。だが、たとえば彼女の信じるように恋人が帰ってきたとすると、そのときに彼が目指した「ここ」は「彼女(私)」だけではなく、「彼女(私)を通して見える、自分の住むべき場所」なのではないかと思う。それは単に、彼女が住んでいるところが自分もかつて住んでいた馴染み深い場所で、彼女はそこに暮らしているのだ、ということを意味しているのではない。世界中にさまざまなリアリティーが存在しているのだということを身に刻んでしまった時点で、たぶん彼はもう元の彼ではないのだ。だから、たぶん彼にとってはそれは帰ってきたのでも戻ってきたのでもなく、選択して、前に進んでそこにやって来たのだ。そしてそのとき、恋人の存在は彼にとって、ただの恋人ではなく、自分が暮らすための場所として選んだその地を象徴的に含んだ存在になっているのだろうと思うのだ。
 
 そのことの好悪を決めるのは世の恋人本人同士だ。ただ、出て行かれた側としてはやっぱりやるせないのは当然。理由があるにせよないにせよ、「僕らが旅に出る」のは身勝手ではある。そういえばこういう歌があったではないか。

 娘さん、よく聞けよ、山男にゃ惚れるなよ。山で吹かれりゃよ、若後家さんだよ。
 山男、よく聞けよ、娘さんにゃ惚れるなよ。娘心は山の天気よ。


1月12日

 日本に住んでいる間、ずっと、窮屈さを感じてきた。

 日本という国は、いろんな意味で個々人に多くのものを要求する。みんなと強調しながらうまくやってゆく匙加減や妥協、場の空気の読み方を鍛錬しないと、その人はいつしか同じところを回っているハツカネズミになってしまうし、そのくせ個性や秀でたところがないとただの壁の花になってしまう。自分で望んで生まれてきたわけではないのに、日本は必要以上に「生きるためには大きな重荷を背負って歩かなくてはいけないのだ」といやというほど繰り返す。そういう日本の頑なさは、逆手に取って、うまくのその掌で踊ってやればあとは楽にいられるのだが、そういうのはもう飽き飽きだった。

 精神的に弱い子が増えて、そういう子供たちに「生きているという、そのことだけで素晴らしいんだ」と言うその口で、普通に暮らす子供たちに「生きるというのは須らく大変なことなのだ」と言ってのける二枚舌が嫌いだった。
 そういう時期に、僕はアジア世界で、「生きるというのは、単に生きているというだけのことなんだ」と教えてもらったように思う。タイ語では生きることは「ミー・チーウィット・ユー」という。「ミー」は「ある」、「チーウイット」は「命」、「ユー」は現在進行形。つまり、命が存在して続いているという、ただそれだけのことを表す。ヒト一人一人の命は軽い。そして、ごく普通の人がごく普通に堂々と生活しているのが素晴らしく感じられた。毎日の生活の中で、日本人の多くはただ一日をぼんやりと過ごしてしまうと、「今日という日をを無駄にした」と感じる。が、タイにいるとそれはそれでまったく何の疑問も湧いてこない。それが人間本来の生き方ではないのか、と思ってきた。

 しかし、ほとんどの物事がそうであるように、モノには一長一短がある。
 「モノのあるべき姿」を個々人に要求する日本方式は、執拗である部分ではいただけないが、確実に向上心をもたらす。そして、他人の身になって物事を考えようとする相対姿勢が形作られる。普通の人が普通に生きて何の差異も生じない社会は、その努力を認めない社会でもある。個人個人が自由にそれぞれの価値観で生きて、他人に干渉せず、自分のことだけ考えればいい個人主義社会になりがちである。
 この街では顔見知りになったら、すぐ「この人は友達」だと言う。それまでは「簡単に友達なんて言うなよ」とよく口にする日本人の発想が好きになれなかった。急なスコールで急いで雨宿りに屋根の下に逃げ込んだときに、お互い目が合ったら笑いあった、それだけでその人のことを友達といったっていいじゃないか、とずっと思ってきた。けれども気がつくと、日本人レヴェルから見て、僕には友達と呼べそうな人間がこの街には片手にさえ余るくらいしかいない。そして、それはよくよく観察してみると、タイ人たちにも同じことが言えそうだ。一緒に部屋をシェアして住んでいる仲間にさえ、どこかに隔たりを持っていて、「あの人のことはよくわからない」と洩らすのを耳にする機会は多い。

 僕は日本人でよかったとつくづく思う。
 たぶん、「生きるということは・・・」と問い、思索できることがすでに堂々と胸を張った生活なのだ。
 日本という環境が押し付けてくる一方的な価値観に「自分はこう思う」と一席ぶてる時点で、その人には思いを語れる友達がいる、ということだ。


◆2003年4月〜2004年1月、生活の舞台は日本-イン・オオサカへ

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