2002年11月、僕は2年8ヶ月住んだタイを去ることを決意した。
 「日本」とか「世界」ではなくアジアという広がり、アジアという地域性に魅せられ、旅を繰り返し、ついにはバンコクに居を移した。旅の果てに海外生活に移行するとか就職活動を日本国外まで視野に入れて展開するとか、そういうことは決して今の日本では珍しいことではない。だから、ここに自分史的なことを書き連ねたところでそれが重要な資料的側面を持ったり、貴重な意見や体験を綴ったものにはならないだろうことを先におことわりしておく。
 ただ、ものを書く以上、僕という人間がどういう位置に立って、どういうストーリーの中に身を置いてきた人間なのかを書き留めておくのは正直な在り方だと、僕は思う。フラットな気持ちで自己変遷のひとまずの総括を書こうとするにあたって、海外居住を終え、母国へ帰国する今の時期はかなり適切ではないかと思われる。お恥ずかしながら、少し、書いてみたい。


1 一般論的アジア個人旅行普及の話

 「アジア個人旅行」という言葉が市民権を得るようになったのは、そんなに以前のことではないだろう。谷恒生の小説「バンコク楽宮ホテル」あたりがタイ個人旅行の様子を伝えたさきがけとして挙げられることが多いが、その時代のアジア個人旅行はまだまだ知る人ぞ知る存在だったと言ってもいい。
 装いも新たに「バック・パッカー」なる横文字を携えてアジア個人旅行が象徴的に伝わるきっかけになった時期は、猿岩石の登場前夜あたりになる。格安航空券が出回り、「地球の歩き方」をはじめとする一連のガイドブックが充実し始め、アジア諸国の治安がある程度安定したものとなり、アジア諸国の側でも次々と「観光年」を打ち出してツアー客からの外貨獲得を目論み、円高が進み、ある意味では国内旅行よりも安上がりになるアジア旅行のイメージが定着し、インターネット普及による情報網の爆発的な拡大も手伝って、老若男女を問わずいまや「タイにちょっと行ってくる」なんて、北海道や沖縄旅行に毛が生えた程度の気軽さになった。ある意味においては、その時点からアジア個人旅行はテーマパーク巡りと同等になったと言っても過言ではない。
 僕が日本以外のアジアに踏み出したのは、そのブームに手垢がつき始めるようになる、ほんの直前だった。


2 アジア意識の目覚め

 何歳のときに買ってくれたのか定かではないが、物心ついたときから、我が家には国旗のボタンを押すと国名・首都名が書かれたプレートがカタンと出てくるおもちゃのようなものがあった。その頃の「バンコク」「サイゴン」「プノンペン」という響きには、何か音だけでも非常に怪しげな、日本的でも西洋的でもない独特の雰囲気を感じていた。それから、これまた昔から、家族の誰が実際に行ったわけでもなかったが、タイの観光ガイド書が親の書棚にあった。その中には今から思えばろくな情報はなかったが、写真の中できらびやかな伝統衣装に身を包みしなを作って微笑みながら踊っているタイ女性たちの姿を眺めたりするだけで、なぜかしらその地の危険な臭いをも感じることができた。自国以外の「アジア」は、幼少の僕にとってはまだまだ暗黒の中に怪しげな光をちらつかせるだけの「なんだか怖い場所」だった。

 僕にとっての「アジア意識」の最初の目覚めは、高校の修学旅行で訪れた沖縄との出会いに始まる。実はその当時通っていた私立高校のことが嫌いで嫌いで、実はいまだに変わりなくその高校を忌み嫌っているエネルギーに自分でも感心するくらいなのだが、そんなにも厭な学校だったから、学校行事である修学旅行先のことなんて、まったく想像することもなかった。そうして予備知識なく訪れた沖縄のバスの車窓から飛び込んできたのは、明らかに日本ではない街並みと空気感だった。当時まだギターもうまく弾けなかったのに、戻ってすぐにこの南の島のことをいくつもの歌にして、ひそかに自分では気に入ってよく歌っていた。そして、バスの窓から、宿のフェンス越しに、海岸の隅のほうから、いろんな機会に道行く人々に手を振ると、沖縄の人たちは全員が全員にっこりと手を振り返してくれた。バスガイドさんの微笑みも、営業用スマイルには見えないくらいに光り輝いて見えた。そして、誰にも言わなかったが、あまりの強い印象のために、僕は沖縄の地に何か自分との特別な運命や因果関係を感じたりしていた。ただそのときには気づかなかったが、僕が沖縄で触れたものは沖縄の特殊性ではなく、西南方面へと連綿と繋がる大きな「アジア」の存在だった。


3 沖縄再訪〜アジアへの貪欲

 大学時代にアルバイトに励まなかった僕は、旅に目を向けるきっかけがないままだったが、卒業後、西日本全域を担当するサラリーマンとなった関係で1993年に沖縄本島・宮古島に何度か出張する機会が訪れた。特に6月の出張は航空会社のストとぶつかり、週末までの5日間ほどを現地滞在に充てる結果となり、原付を借りて島中を回り、民謡酒場を巡り、現地の味に舌鼓を打つ毎日を送った。特に宮古島で三味線店を訪問した経験はアジアに対する気持ちを揺るがないものとさせてくれた(拙書「フリーペーパー・バックナンバーズ」リンク「沖縄に行くの巻」参照)。
 1993年のもうひとつの大きな収穫は、絶版になっていたため他地域ではほぼ手に入れることができなくなっていた「ハイサイ沖縄読本」との偶然な巡り会いであった。それはたまたま立ち寄った沖縄の牧志公設市場アーケード内にある小さな本屋でのことだったのだが、あとで探してみると絶版となっていて取り寄せすら在庫がない状況であることが判明した。この本はサブカルチャー的な視点から沖縄を観光旅行やリゾート旅行ではなく、地域の文化的特性から沖縄人の生活そのものに触れようとする「ニュー・ツーリズム」を提唱する前半と、沖縄に対する執着心があまりに強くなってしまった魅せられた人々のための沖縄移住を考える後半とに分かれており、それは個人旅行に目覚めかけていた僕に新しい価値観を形として提示してくれた。
 これをきっかけに僕は個人旅行に関する文献、わけてもアジア関連の書籍を買い漁るように手に取るようになっていった。

 また、1996年には沖縄を旅行者として再訪する。この少し前に僕は地域や都市と人間とを考えることをテーマにフリーペーパーを友人とともに立ち上げ、その取材としても沖縄を現地に探った。民謡酒場のほかに喜納昌吉&チャンプルーズのライヴにも足を運び、てるりん館ではワタブーショウ(漫談と音楽からなる一人ステージ)で有名な照屋林助氏を訪ね取材もした。自身が表現する場にも回ったことにより、より深く地域社会や人間に立ち入ってその関係性を見ようとする方向性が位置付けられた。このときのライターが自分を含め3人も同じ時期に沖縄入りしていたことから、フリーペーパー仲間内でも個人旅行に対する影響をお互いに与え合うこととなり、意識固めが加速度的に進んだ。


4 初めてのアジア/台湾へ

 1997年3月、フェリーでの旅を思い立ち、沖縄に上陸しようか迷いながら、有村汽船の飛龍号で結局終点である台湾の基隆(チーロン)に降り立つ。この旅行では他に台北(タイペイ)、淡水(タンシュイ)、高雄(カオション)台南(タイナン)を訪れ、各地でのインタヴューを行ったほか、親日家が多い土地柄のおかげか台湾人の友人に恵まれ、十代・二十代の台湾人の生活にいろいろなケースで触れることができた。この年にはさらに8月にも上記以外にチュウフェン、瑞芳(ルイファン)台中(タイチョン)も訪れ、さらには翌1998年4月にも台北、高雄、台中のほか日月潭(ズー・ユエ・タン)ツオウ族の頭目である大家族でお世話になった。

 台湾旅行ではやはり国境を越えたことが大きかった。民族も文化もはっきりと違う場所が日本と隣り合っている不思議に捕われるとともに、日本という国を違う視点から見ている人々との交流によって、世界の国々・地域への興味が大きく前面に出てくるようになった。また、沖縄では感じ得なかったアジア地域の躍動感と圧倒的なスピードも知った(一年の期間でさえ、どれだけ台北や高雄が変化していたことか!)。それとともにフリー・ペーパーの記事も国際的なテーマを持つものが多くなる。そして、1998年4月の訪台直前には不景気のあおりで僕はリストラに遭い、自分の身が自由になることでかえって個人旅行には都合がよくなる。


5 因縁の地/タイへ

 1998年4月の旅行は、台湾から戻った3日後タイに発つ変則的な形をとった。沖縄との相似性を指摘され、なおかつ混沌としたタイへの旅はかねてからの念願であった。この旅行は第一回目から旅の終わりの期日を決めない長期旅行の形をとり、結果としてバンコクからマレー半島を南下、マレーシアシンガポールを訪れ、このコースを往復した。訪問地はバンコクパタヤーチュンポーンラノーンハジャイソンクラー(以上タイ)、ジョージ・タウンバトゥー・フェリンギクアラ・ルンプール(以上マレーシア)、シンガポール。また、プランではシンガポール到着後はペルニ船(インドネシアの国内便フェリー)でインドネシア各島をスマトラからイリアン・ジャヤ(ニューギニア島)まで出るか、東マレーシアを北上してフィリピン入りするつもりであったが、インドネシア・プランはスハルト政権交代デモのため、海洋側北上プランはフィリピンのゲートとなるサンボアンガの治安問題のため、それぞれ見合わせることとなり、いまだに実現できていない。

 到着して初めてのバンコクの強い印象に、退廃的なムードの色濃さが挙げられた。都市の病理がストレートな形で現れている部分にばかり目が行き、街の排ガスに捲かれるような感覚であったが、同国内でも地方都市の探訪中、バンコクとタイの他の地域ではまったく雰囲気や感覚が違うことに気づく。これは後にバンコク在住のタイ人からも幾度となく同じ意見を耳にした。また、マレーシア、シンガポールの整然とした佇まいに日本に近いものを感じてつかの間ほっとしたそのあと、急激に「タイに戻りたい」という強い願望が湧き出した。ヒトの心まで整然とし始めていたシンガポール、マレーシアにはない、明らかに人間臭く混沌としたきらめきに溢れたタイを再発見した、ということなのだろうか。そうして戻ってきたときのバンコクはすでに、郷愁に似た懐かしさすら覚える街に変わっていた。


6 業の導き

 1999年には1月に再びバンコクに降り立ち、隣接国ではなくタイ国内を中心に回る旅を実行する。回った街はバンコクのほかピチットチェンマイチェンラーイメー・サーイタチレクビルマに一日出国)、サーム・リアム・トーン・カム(ゴールデン・トライアングル)チェン・セーンコーン・ケーンウドーン・ターニーナコン・パノムウボン・ラチャターニーコラート(ナコーン・ラーチャシーマー)。一日入国ではなくもっとビルマのことが知りたかったし、ラオスカンボジアヴェトナムや中国雲南省のあたりに足を踏み入れたくもあったが、それ以上に、タイにとどまり、タイに触れたい欲求が大きく上回っていた。危険だという情報をよく耳にしていたにもかかわらず、タイはあの微笑とメコンの大河のような大らかさで、どこへ辿りついても僕を包んだ(旅にある程度慣れていらっしゃる方はご存知のとおり、ガイドブックや海外安全情報のような類は、真実を伝えてはいるが多少オーヴァーである)。とりわけチェンラーイは人々の穏やかさと人々の健やかな好奇心(旅人である僕への視線)に満たされた街として印象のうちに強く捕われた。以降、自身のタイでもっとも好きな街として僕はためらわずチェンラーイを挙げるようになった。

 どこかしらのほほんとした北タイに比べ、イサーン(東北タイ)は同じように朴訥とはしていても、翳のようなものがあるのを感じた。それは貧しさであったり、インドシナ三国戦争(ヴェトナム戦争)時の荒くれた発展のせいでもあったりするだろう。その中では、実質上はタイ第二の都市であるコラートの明るさが印象的だった。相変わらずのバンコク一極集中型発展ぶりを見せるタイではあるが、バンコクに出ることを地獄への一歩と取る人々、あるいは「バンコクまで出るのはちょっと…」というためらいのある人々にアピールし、活況を呈している。

 日本からの一般的なタイ入国ゲートであるバンコクは、なぜかしら諸地方を回ったあとで戻ってきたときとではその横顔を大きく変えることは先に述べたとおり。バンコク暮らしが始まったあるとき、タクシーの中で「タイは好きかい?」とバックミラー越しにドライヴァーのおじいちゃんに微笑みかけられた。「うーん、正直言うと、バンコクの生活はちょっと疲れるよ」と僕は凝りをほぐすような仕草で自分の肩をトントンたたいて見せたのだが、おじいちゃんは「そうなんだよ。何もかもがあわただしい、人のことも信じられん、何を買っても高い。暑苦しくて、汚くて、仕事がなければわしもこんなところには住まんよ。あんたも休みの日には田舎に行ってみるのがいいよ」と手を「やれやれ」の格好に広げて笑った。同じように田舎から出てきた人々が多いとは言っても、東京がその出自を隠しひたすら東京人然と振舞うことをよしとするのに対し、バンコクはプライドを持ちながらもカントリー志向や自身の郷里への思いを強くにじませた都市である。田舎の空気を吸ってきた者には、たとえそれが旅行者であっても心を開こうとする性分があるのだろう。僕はこの、よそよそしさをお互い脱ぎ捨てたあとのバンコクと自分の関係が好きだ。


7 バンコク移住a - 居場所を求めて

 「どうしてタイにいらっしゃったんですか?」という質問は、駐在員としての赴任者や旅行者でない限りは、やっぱり必ず受ける質問だろう。そのたび、僕はこう答えてきた。「いや、説明するのは難しいんですが、言ってみれば業のようなものだと思います」
 今もタイが好きなことには変わりがないし、その当時だってそうだった。しかし、恋愛でいえばやみくもな熱愛期はもう過ぎていた。バンコク生活が始まるとすればどういうことが待ち受けているのか、そのデメリットの部分もおおよそ想像することができるようにはなっていた。それでもタイへ居を移すことを考えたのは、ある意味で自分へのけじめだったのかもしれない。いつまでもタイを幻想の国に見立て、たまに旅行することで接点を持ち、日本を自身にとっての唯一の現実だとみなして生きてゆくということがつまらない妥協のように思えてならなかった。前項の小見出しを「業の導き」としたのはそういう意味上でのことだ。

 1999年9月、ストップ・オーヴァーで韓国に降り立ったのち、自身の仕事の立ち上げ視察を兼ねてバンコクのウォンウィエン・ヤイ近くにアパートを借りた。調査を重ねると同時にノン・ヴィザ入国の期限を利用して9月末にはラオス、11月にはカンボジアにも足を伸ばす。
 韓国は滞在日数が短かったが、排日政策を是とする国家の首都ソウルが外観上日本の街に非常に似ていたのが印象的であった。
 ラオスは「何もないのがいいところ」といわれるとおり、時間の流れの緩やかさと人の素朴さに打たれた。第2の都市サヴァナケットはメコン(この河は「メコン川」として日本人には親しまれているが、メー・ナーム・コーン [メー・ナームは河の意味で、つまり、この河の本当の名は「コーン」である] が正式名称である)に沈む西日があまりにも美しかった。もう建設がはじまっているのだろうが、ここにタイ=ラオス=ヴェトナムを結ぶ産業道路用の一大架橋が行われるのが(旅行者の勝手な意見ではあるが)残念だ。
 カンボジアはいわゆるステロタイプな「貧困の国」ではなかった。日本にいて目に触れやすいマスメディアを通してイメージ形成されると、どうしてもこの国をそのような偏見で見てしまいがちなのだが、カンボジアでは国際情勢や内乱に翻弄されながらも穏やかさ、奥ゆかしさを忘れないクメール人たちの暮らしぶりをつぶさに見て取ることができた。

 そうして、当初の予定とは違う形ではあったが、バンコクに職を得て、この年12月にはいったん日本に帰国する。


8 バンコク移住b - 外へ!

 2000年2月、バンコクでの本格的な生活が始まった。職場の近くであるトンローに居を移し、当HPコンテンツも現地からのリポートを中心とした情報サイトへと転身を図ろうと試みた(このプランは座礁)。フリー・ペーパーは廃刊となったが、その精神を継承したサイトとすべく街と人との関係を探る日々が続く。
 バンコクに住み始めて丸1年くらいまでは「自分は今タイにいるのだ。しかも居住しているのだ」と思い返すだけで幸せな気持ちになれた。屋台の辛すぎる料理に舌鼓を打ちながら汗を拭き、休日には近くの町へ出かけたりした。ウォンウィエン・ヤイに住んでいた頃の名残でマハーチャイに散歩に出たり(ウォンウィン・ヤイからのディーゼルの終着駅がマハーチャイである)、家から近いエカマイ・バス・ターミナルからパタヤーで一日旅行を楽しんだりした。
 タイでは家の扉が軽い。実際に日中は戸を開け放したままの家も多いが、「内と外」という感覚が薄いのだ。寝間着のままソイ(路地)へ出てくるのは特におかしなことではないし、知人が家に訪ねてくるときにでも「他人のプライヴェートな空間に踏み込んでいる」という意識が日本人よりは低い。日本では外出する際、気づかぬうちに何かと用意やちょっとした気構えを必要としている。これらが無礼講になり、街と自身の距離が飛躍的に縮んだ。

 また、カンボジア、マレーシア、シンガポール、インドネシアにも足を運ぶ機会に恵まれ、特に2001年4月のフィリピン旅行は一般的な観光名所巡りだけではなく、フィリピン人の友人二人に付き添ってもらってのトンド、パヤタス(ともに大規模なスクォッター・エリアである)訪問で拡大する都市の裏面と直接向かい合う貴重かつ重要な体験となった。


9 バンコク移住c - 妥協と煩悶

 旅行と生活が違うのは当然のことであるが、その重みのようなものは人それぞれ、どのような形で感ぜられるようになってゆくのだろうか。概ねよく似た経過を辿るのではなかろうかと僕は想像しているのだが、民族という大きな差異を越えようのない壁として捉えだしたときに、「自身の限界」という言葉の芽が頭をもたげ始めた。

 バンコクで暮らし始めて間がない頃、知人が彼と一回り歳の離れた外国人の友人との関係についてこういうことを口にした。「僕は彼にもっといろんなことに意欲を燃やし、目標意識を持って人生設計をしていってほしいんです。けれど、そういう意識は彼にはいつまでも育たなくて、今日という一日一日をただただちょっと楽しいことをやって生きているように僕には見える。僕が言っていることは日本人的な価値観の彼への押し付けなんでしょうか? また、日本的なそういう発想そのものが偏狭な考え方なんでしょうか?」。これは難しい質問だけれど、当時の僕の答えは「いや、彼があなたを信用して付き合いもあるのだから、彼にはあなたがどんなふうに物事を考え、どのようにお互いよい関係でいるかについても無意識でいいというわけではないんじゃないでしょうか。あなたも彼も国として付き合っているのではない。だから、好きな相手のことにはやはりいろいろと考えて然るべきだと思うんです」というものだった。

 今もこの意見には変わりはない。しかし、僕のトーンは当時よりいささか弱い。ほからなぬ自分も同じような思いにつまづき、そしてほかならぬ自分自身さえも今日という一日を意欲もなくただ生きている人間になっていたからだ。タイでは自分が「今このままの自分ではない、もう少し高みを目指す人間」になどならなくていい。生きることにくだらぬ理屈もいらない。どんなに平凡な人間であっても、人々が耳を貸さないというようなことはない。しかし、裏返してみればそれは努力という必要性がない社会ということでもある。日本式の協調主義社会のほうが世界的に見ると珍しい国家であろうから、「人が嫌がることをするな。人がどう思うかをよく考えて行動したり言葉にしたりせよ」という幼少時の訓戒がほとんど汲み入れられないことは、自分の価値観の根底をゆすぶり、ひいては「この国に置いてもらっている身なのだから」という妥協しか探らない自分が根付くようになった。

 いつしか職場との往復、友人との付き合い以外にはほとんど外出しないようになっていた。生活の場というのがワンダーランドでありつづけるわけはない。ただ、手を伸ばせば届くところにもあるはずのリアリティーもこの生活の延長線上には見えないのではないだろうかという疑問が常につきまとうようになった。


10 アジアとしての日本

 自ら決意して日本を離れた生活を選択する場合、再び日本に戻ってくるつもりがあるかどうかははっきりしていることが多いようだ。帰るつもりのない人が戻る場合はあるが、帰国を予想している人はほぼそのまま居ついてしまうということがないように思う。僕は後者である。フリー・ペーパーでは「日本人である自身を探す」というテーマが柱としてあったが、日本人であるという意識はそこを離れることによって得られた。また、暮らしのステージとしてのタイはまだ自身の選択肢としては残ってはいるが、一旦それに決着をつけて日本を再確認する作業はどうしても必要なものだと思っている。

 僕がいまだに気にかかるのは、「アジアな雰囲気」とか「アジアの味覚」とかいった言い回しだ。そのファジーで偏った表現にも危機感があるが、それよりもはっきりとした問題は、ここでいう「アジア」の中に日本が含まれていないことである。日本を除いたアジアを指す語がないから、中国やタイやインドを巡る旅をしたときに「アジア旅行」という表現方法を取るしかないのは判る。だがしかし、こういう言われ方を好まない場合が多いようだが、僕らは紛れもなく日本人でありアジア人である。個人の自由と人権を浸透させてきた歴史の合間のどこかに、隣人をはじめとして友人や恋人、果てはとうとう家族からも断絶を感じ、もはや「国民」などという感覚はオリンピックのときくらいにしか沸きあがらない。海外に出たときに、自分がJapaneseであるのが恥ずかしいと感じてしまう瞬間があったりするくらいである。ましてや、アジア人としての共同意識などほぼないといってもよいだろう。EUを果たしたヨーロッパ各国とは大きな隔たりである。

 これはおそらく、多くの先人が指摘してきたとおり、日本がイースト・エンドの島国であることと、戦後の目覚しい経済復興の時期に日本が採った国民意識の形成・教育に起因するだろう。大陸や大陸に程近い場所に建国された国家は自身の存在を常に隣国から脅かされてきた歴史から愛国心がしっかりと根付いているが、その一方で国家というものが何度も転覆してきたような脆弱な基盤であることも知っている。同時に、策定されている国境線に対しても、通商が可能なボーダーでさえあればそれを飛び越えた枠で民族地図や宗教地図が広がっていることが意識されている。現在の日本人に民族意識が低く宗教への関心が薄いのは、国家・民族・宗教・言語などがすべて「日本」という枠にぶれが少ないまま収斂してゆくからだ。つまり、沖縄の人々やアイヌの人々を除けば我々は愛国などというレヴェルを超えたナショナリストであり、省みることを知らぬ狂信的な宗教家であり、激しく単一民族国家幻想に取り憑かれた田舎者ではないか。

 「イン・クルンテープ」にも書いたが、僕は新たに、日本を好きになろうと思う。そして、「自分は日本人である」ということに自覚と誇りを持とうと思う。人を殺めるためでなく、人を認めるために、自分の出自をしっかりと認識しようと思う。そして、次のステップがやってきたとき、また次の項を書くこととしよう。


※ 2004年1月23日、運命の巡り合わせは僕をタイでの生活へと引き戻した。バンコクに戻って落ち着いてきたら、このページの続きをまた書きたい。

※ 上記のとおり、遅ればせながらその後のバンコク生活を綴った。以下は、その有様である。


11 日本での1年間

 「海外で得た経験を活かす」というフレーズはもはや常套句になっており、現在の日本では一般論といっていいほど反論を食らうことがない。だが、現代の日本はそこまでグローバルな意識を持つ社会を持ち合わせてはいなかった。いや、だからこそこうした掛け声が必要なのだろう。

 僕がタイで培ったと思っていたものは、ほとんど日本での生活の役に立ちそうもなかった。母国はそれまで感じていた以上に縁故主義的で、もし家族がいなければ、この国に僕がとどまり、何かを成す必要などどこにもないようである。タイでは日々生きることを大き過ぎず小さ過ぎず、等身大に捉えるところがある。そして、自分が日々を暮らすためのささやかな何かをめいっぱい楽しもうという気風がある。だが、同じ等身大の感覚といっても、この国では「平凡な毎日こそ幸せなのだ」と呟きながら、炬燵を囲んで一家団欒を至高の宝物だと思い込むミニマリズム・ライフに浸り過ぎていた。戦後社会が大戦の記憶を伝承しているという観点からは素晴らしいことだが、それはどこかで不景気の波に蹂躙されるがままになっている、日本古来からの無常観と諦念に依るところが大きいようにも見える。自分を隠すこと、バイパス・プレイヤーに徹することが、日本でうまくステップを踏んで見せることの秘訣のひとつだと、タイ生活を始める以前に感じていたことを、僕は再び思い出すことになった。

 ニーズがなければ掘り起こすしかない。視点がシャープで目新しい企画なら、試してみる価値はある。既刊のものとは違う角度から東南アジア旅行を捉えるというアイデアを抱え、出版社に原稿持ち込みをするための取材のつもりで初めての北ラオスを訪れていた僕は、日に日に言いようのない疲労に襲われ、ほうほうの体で戻ったバンコクで医師から緊急入院を告げられた。1か月間の絶対安静を経て病状が安定したところで日本に帰国して、さらに2か月自宅療養の合間に通院した。食事と排泄と通院以外の時間はそのほとんどを眠って過ごす、芋虫のような生活。だが、その床で家族の絆をひしと知り、生死の意味について深く思い巡ることもできた。

 そして、回復したところで時期を見てリハビリを兼ねたアルバイトを始めた。職があるというのは、この国では至極大切なことだ。収入があることだけではない。自身の存在理由が労働によって初めて認められる感覚は多くの方が感知するところであろう。日本人は当然ながら国内で暮らす限り、パスポートなど持ち歩く必要はない。けれども、働くことでようやく僕は市民権を得た気持ちになることができる。人間として存在しているのだから、それ以上でも以下でもないというタイでの個人感覚からすればあまりに意識の落差が大きい。ただ、ここは日本である。だから、休日だった土曜・日曜にも別の仕事を持つようにして、休みなく働くことにした。年末から正月にかけても郵便配達に参加し、次の定職を探すこと以外は考えないことにした。それがこの国で生き延びる術なのだ。そう自身に言い聞かせた。

 それでも、自分が日本人であることの自覚は忘れなかったつもりだ。殊に、食については日本人としてのルーツ意識を毎食ごとに飽きることなく確認することができた。食物を飲み込む前に、咀嚼の段階ですでに消化が始まっているかのような感覚は、大学生以来変動することのなかった痩せっぽちの僕の体型を変化させ、周囲を驚かせるとともに、これが重い病から自身を救ったことを皮膚感覚で理解し、食事が決して侮るべきでない重要なファクターであることがわかった。

 家族以外に、当時の僕には精神的支柱となってくれた女性がいた。2000年にバンコクの同じ職場で働き始めた、タイでの生活に眩し過ぎるほどの情熱を抱いていたNさんである。彼女はその年末、志を幾許も達成することなく、病のために帰国を選択した。いわば、彼女は帰国の先輩となった。ご自身の状況にも関わらず、Nさんには日本でのもどかしさや、人間関係の迷いや、募るタイへの思いなどを聴いていただき、そのたびに篤実で丁寧なメールのお返事から勇気と力をもらっていた。日本での生活に良き理解者が存在することは、停電の中で蝋燭の明かりが灯ったことに等しい。そのNさんからの連絡が、彼女の再入院後から徐々に途切れがちになっていたことは、深まる秋と、近づいてくる冬の気配とともに深い灰色の憶測をもたらしていた。そしてクリスマス・イヴ前日の2003年12月23日、Nさんの訃報が届く。その日の空の色は、あまりに淡く透明だった。どうして彼女が亡くなり、僕が生き残ったのだろうか。誰も答えてはくれない。それでも、僕は天に問い続けた。そして、今も。


12 タイ・アゲイン

 2004年1月23日、僕は再びタイに舞い戻って暮らし始めた。そこに職があり、自分が必要とされていたからだ。その機会を僕は、残念ながら日本で見つけることができなかった。

 タイに戻ってくることのできた喜びをできるだけ忘れずにいようと誓った。食事は日本食を主とし、もともと不安定な胃に負担をかけないことに決めた。間もなくタイ人の彼女もできて、その後4年にわたる交際となった。以前の友人とも旧交を温め、すべてが順風満帆のはずだった。なのに、そこで僕を捉えたのは、こともあろうに虚脱感だった。どうしてなんだ? 夜の床で幾度も胸に手を当てて思いを巡らせた。Nさんの逝去のショックだろうか、年齢のせいだろうか、病後の後遺症のようなものだろうか、タイ生活に期待を抱き過ぎていたのだろうか、日本とのギャップに今さらながら翻弄されているのだろうか、仕事疲れだろうか。そのいずれもが部分的には正解なのだろう。ともあれ、2度目のタイ・ライフは薄墨色の中で幕を開け、進行する。現実から目を背けてはいけない。強引にでも活力を切り開くにせよ、この心境を認めて受け容れるにせよ、折り合いを模索する日々が続いた。焦ることはない。ゆっくりでいいから。

 落ち着いたと言い換えてもいい月日にあっても、バンコクは目を見張る速度で変貌を遂げていった。スラムが立ち退きとなり、長屋の商店が姿を消し、舗装がみちがえるようになり、物価が上昇し、道行く人の表情がファッションに歩調をあわせて澄まし顔になってゆく。不条理と混沌が整備され、近代化という秩序らしきものへと導かれてゆく。自身が幼少期からの成長の過程で目の当たりにしてきた日本の変容のリプレイと見まごう。「何かを得ることは、ほかの何かを失うことなんだ!」そう叫びたい。だが、そんな言葉は衣食足りている人間の驕りでもあり、そもそも、ほかでもないこの僕自身が時代の呼吸に胸を弾ませた覚えのある人間である以上、欺瞞でもあろう。それはわかっている。けれども。

 2007年、友人と「メコンのナイアガラ」と称されるコーン・パペーンを見ようと、南ラオスのパクセーを訪れた。ここに端を発するラオスとの「再会」は、いつしか暮らしのオアシスの様相を帯びたものになっていた。木訥で多くを語らないラオス人たちの謙虚な含羞には、風通しのよい温かみが感じられる。華やかなタイ、カルチャーショックの大きなカンボジアの陰で見えにくかったラオスの、冬のたき火のような温もりが愛おしい。そしてまた、この感覚は自分自身が隣国タイに身を置いているだけにより深く感じることができるような気がする。近いけれど遠い国。数回にわたる旅行で、これまで「何もないからよいところ」でしかなかったこの内陸国が、だからこそ滋味に満ち溢れた地であることを実感できるようになっていた。


13 暮らし

 丸4年つきあいのあった彼女から別れの手紙を受け取ると、自分の中で急速に、タイと自分を繋ぐもやいが解ける自覚が鎌首をもたげた。これまでにもタイ生活に疑念を挟むことは何度もあったが、興味そのものを失うのは初めてである。失恋の自棄ばかりではない。日本で編集していたフリー・ペーパーのテーマを「街と人とのかかわり」に設定したとおり、街はひとの集合体で、それがなければたちまち意味を失う。30代までは人間関係こそが財産だと感じてきたが、40の境界線が近づいてくると、自身の素直な欲求がそこにはもう向かっていないことに気づいた。新しい何かではなく、守るべき何かを探り、温めることが次のステージの核となるだろう。

 あるときには、日本人の集いの場となっているバーに足を運んだ。あるときには、つきあいのあるタイ人と夜通し飲んだ。またあるときには、タイを離れて胸に共鳴するものを求めた。クレット島プラプラデーンに、ラオスにも似た安らぎを見つけたのはこの期間のことである。
 2009年春の2週間に渡る日本帰省は、いろんな意味でそのターニング・ポイントとなった。家族や旧友・バンコクでの知人を訪ね、その意味合いについて深く考えることができたことに大きな意義があった。そして、京都でアイソレーション・タンクに身を浮かばせた短い時間に、自身が解き放たれる感覚を得て、バンコクに舞い戻った。かつて心血を注いだバンド活動をバンコクで再開し、長い間眠ったままだった創作意欲を取り戻し、新しいヴィジョンの一端を掴みかけている予感がした。

 ある日僕は唐突な恋に落ちた。そして、生まれて初めて結婚願望を持った。守るべきものができたとき、自分にとっての世界が一変した。彼女はタイ人ではない。それは個人的に、大きな意味を持つ。ただの旅人でしかなかった頃に僕が幻想をもって眺めていたタイ人の姿の半分は単なる隣の芝生の青さで、残る半分はおそらく都会暮らしのバンコク人自身が失っていった。その純粋で素朴な心を、彼女が心の泉に溢れさせていたことは、彼女の故郷がタイから遠すぎず近すぎもしない位置にあることと大きな関係がある。理由があって身分の保証さえ受けることができない彼女を支えてゆくことは、相当に高いハードルであろう。でも、もう迷わない。僕が僕である理由を、彼女はくれたから。

 個人差はあるだろうが、人間には年齢相応の自己実現や環境適合の方法がある。流れに力ずくで逆らうことは老けこむ自分を諦めたり、年齢に勝てないと投げ出すことではないし、若さに必要以上にしがみつくのはピーターパン・シンドロームでしかない。おそらく、若さとは成長過程の未熟さを埋める恥ずかしさに身悶え、だからこそ恰好をつけることに一心になる独りよがりな長い思春期なのだ。ものに感じる心の少なくなる熟年とは、もう次の世代に何かを遺すための精神構造・肉体の状態になっているはずではなかろうか。それでも、長寿社会で我々の人生は続いてゆく。
 こんこんとあふれる若いエナジーに任せてものを書くことばかりが素晴らしいわけでもあるまい。恰好悪くてもいい。等身大の自分を見つめ、等身大のもの書きができるときがやってきた今を着実に生きよう。

 やっと、John Lenonが"God"で歌っていたことを、実際に生きて見せることが僕にもできるようになったようだ。




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