2002年11月、僕は2年8ヶ月住んだタイを去ることを決意した。 |
1 一般論的アジア個人旅行普及の話 「アジア個人旅行」という言葉が市民権を得るようになったのは、そんなに以前のことではないだろう。谷恒生の小説「バンコク楽宮ホテル」あたりがタイ個人旅行の様子を伝えたさきがけとして挙げられることが多いが、その時代のアジア個人旅行はまだまだ知る人ぞ知る存在だったと言ってもいい。 |
2 アジア意識の目覚め
何歳のときに買ってくれたのか定かではないが、物心ついたときから、我が家には国旗のボタンを押すと国名・首都名が書かれたプレートがカタンと出てくるおもちゃのようなものがあった。その頃の「バンコク」「サイゴン」「プノンペン」という響きには、何か音だけでも非常に怪しげな、日本的でも西洋的でもない独特の雰囲気を感じていた。それから、これまた昔から、家族の誰が実際に行ったわけでもなかったが、タイの観光ガイド書が親の書棚にあった。その中には今から思えばろくな情報はなかったが、写真の中できらびやかな伝統衣装に身を包みしなを作って微笑みながら踊っているタイ女性たちの姿を眺めたりするだけで、なぜかしらその地の危険な臭いをも感じることができた。自国以外の「アジア」は、幼少の僕にとってはまだまだ暗黒の中に怪しげな光をちらつかせるだけの「なんだか怖い場所」だった。
僕にとっての「アジア意識」の最初の目覚めは、高校の修学旅行で訪れた沖縄との出会いに始まる。実はその当時通っていた私立高校のことが嫌いで嫌いで、実はいまだに変わりなくその高校を忌み嫌っているエネルギーに自分でも感心するくらいなのだが、そんなにも厭な学校だったから、学校行事である修学旅行先のことなんて、まったく想像することもなかった。そうして予備知識なく訪れた沖縄のバスの車窓から飛び込んできたのは、明らかに日本ではない街並みと空気感だった。当時まだギターもうまく弾けなかったのに、戻ってすぐにこの南の島のことをいくつもの歌にして、ひそかに自分では気に入ってよく歌っていた。そして、バスの窓から、宿のフェンス越しに、海岸の隅のほうから、いろんな機会に道行く人々に手を振ると、沖縄の人たちは全員が全員にっこりと手を振り返してくれた。バスガイドさんの微笑みも、営業用スマイルには見えないくらいに光り輝いて見えた。そして、誰にも言わなかったが、あまりの強い印象のために、僕は沖縄の地に何か自分との特別な運命や因果関係を感じたりしていた。ただそのときには気づかなかったが、僕が沖縄で触れたものは沖縄の特殊性ではなく、西南方面へと連綿と繋がる大きな「アジア」の存在だった。
3 沖縄再訪〜アジアへの貪欲 大学時代にアルバイトに励まなかった僕は、旅に目を向けるきっかけがないままだったが、卒業後、西日本全域を担当するサラリーマンとなった関係で1993年に沖縄本島・宮古島に何度か出張する機会が訪れた。特に6月の出張は航空会社のストとぶつかり、週末までの5日間ほどを現地滞在に充てる結果となり、原付を借りて島中を回り、民謡酒場を巡り、現地の味に舌鼓を打つ毎日を送った。特に宮古島で三味線店を訪問した経験はアジアに対する気持ちを揺るがないものとさせてくれた(拙書「フリーペーパー・バックナンバーズ」リンク「沖縄に行くの巻」参照)。 |
4 初めてのアジア/台湾へ 1997年3月、フェリーでの旅を思い立ち、沖縄に上陸しようか迷いながら、有村汽船の飛龍号で結局終点である台湾の基隆(チーロン)に降り立つ。この旅行では他に台北(タイペイ)、淡水(タンシュイ)、高雄(カオション)、台南(タイナン)を訪れ、各地でのインタヴューを行ったほか、親日家が多い土地柄のおかげか台湾人の友人に恵まれ、十代・二十代の台湾人の生活にいろいろなケースで触れることができた。この年にはさらに8月にも上記以外にチュウフェン、瑞芳(ルイファン)、台中(タイチョン)も訪れ、さらには翌1998年4月にも台北、高雄、台中のほか日月潭(ズー・ユエ・タン)でツオウ族の頭目である大家族でお世話になった。 台湾旅行ではやはり国境を越えたことが大きかった。民族も文化もはっきりと違う場所が日本と隣り合っている不思議に捕われるとともに、日本という国を違う視点から見ている人々との交流によって、世界の国々・地域への興味が大きく前面に出てくるようになった。また、沖縄では感じ得なかったアジア地域の躍動感と圧倒的なスピードも知った(一年の期間でさえ、どれだけ台北や高雄が変化していたことか!)。それとともにフリー・ペーパーの記事も国際的なテーマを持つものが多くなる。そして、1998年4月の訪台直前には不景気のあおりで僕はリストラに遭い、自分の身が自由になることでかえって個人旅行には都合がよくなる。 |
5 因縁の地/タイへ 1998年4月の旅行は、台湾から戻った3日後タイに発つ変則的な形をとった。沖縄との相似性を指摘され、なおかつ混沌としたタイへの旅はかねてからの念願であった。この旅行は第一回目から旅の終わりの期日を決めない長期旅行の形をとり、結果としてバンコクからマレー半島を南下、マレーシア、シンガポールを訪れ、このコースを往復した。訪問地はバンコク、パタヤー、チュンポーン、ラノーン、ハジャイ、ソンクラー(以上タイ)、ジョージ・タウン、バトゥー・フェリンギ、クアラ・ルンプール(以上マレーシア)、シンガポール。また、プランではシンガポール到着後はペルニ船(インドネシアの国内便フェリー)でインドネシア各島をスマトラからイリアン・ジャヤ(ニューギニア島)まで出るか、東マレーシアを北上してフィリピン入りするつもりであったが、インドネシア・プランはスハルト政権交代デモのため、海洋側北上プランはフィリピンのゲートとなるサンボアンガの治安問題のため、それぞれ見合わせることとなり、いまだに実現できていない。 到着して初めてのバンコクの強い印象に、退廃的なムードの色濃さが挙げられた。都市の病理がストレートな形で現れている部分にばかり目が行き、街の排ガスに捲かれるような感覚であったが、同国内でも地方都市の探訪中、バンコクとタイの他の地域ではまったく雰囲気や感覚が違うことに気づく。これは後にバンコク在住のタイ人からも幾度となく同じ意見を耳にした。また、マレーシア、シンガポールの整然とした佇まいに日本に近いものを感じてつかの間ほっとしたそのあと、急激に「タイに戻りたい」という強い願望が湧き出した。ヒトの心まで整然とし始めていたシンガポール、マレーシアにはない、明らかに人間臭く混沌としたきらめきに溢れたタイを再発見した、ということなのだろうか。そうして戻ってきたときのバンコクはすでに、郷愁に似た懐かしさすら覚える街に変わっていた。 |
6 業の導き 1999年には1月に再びバンコクに降り立ち、隣接国ではなくタイ国内を中心に回る旅を実行する。回った街はバンコクのほかピチット、チェンマイ、チェンラーイ、メー・サーイ、タチレク(ビルマに一日出国)、サーム・リアム・トーン・カム(ゴールデン・トライアングル)、チェン・セーン、コーン・ケーン、ウドーン・ターニー、ナコン・パノム、ウボン・ラチャターニー、コラート(ナコーン・ラーチャシーマー)。一日入国ではなくもっとビルマのことが知りたかったし、ラオスやカンボジア、ヴェトナムや中国雲南省のあたりに足を踏み入れたくもあったが、それ以上に、タイにとどまり、タイに触れたい欲求が大きく上回っていた。危険だという情報をよく耳にしていたにもかかわらず、タイはあの微笑とメコンの大河のような大らかさで、どこへ辿りついても僕を包んだ(旅にある程度慣れていらっしゃる方はご存知のとおり、ガイドブックや海外安全情報のような類は、真実を伝えてはいるが多少オーヴァーである)。とりわけチェンラーイは人々の穏やかさと人々の健やかな好奇心(旅人である僕への視線)に満たされた街として印象のうちに強く捕われた。以降、自身のタイでもっとも好きな街として僕はためらわずチェンラーイを挙げるようになった。 どこかしらのほほんとした北タイに比べ、イサーン(東北タイ)は同じように朴訥とはしていても、翳のようなものがあるのを感じた。それは貧しさであったり、インドシナ三国戦争(ヴェトナム戦争)時の荒くれた発展のせいでもあったりするだろう。その中では、実質上はタイ第二の都市であるコラートの明るさが印象的だった。相変わらずのバンコク一極集中型発展ぶりを見せるタイではあるが、バンコクに出ることを地獄への一歩と取る人々、あるいは「バンコクまで出るのはちょっと…」というためらいのある人々にアピールし、活況を呈している。 日本からの一般的なタイ入国ゲートであるバンコクは、なぜかしら諸地方を回ったあとで戻ってきたときとではその横顔を大きく変えることは先に述べたとおり。バンコク暮らしが始まったあるとき、タクシーの中で「タイは好きかい?」とバックミラー越しにドライヴァーのおじいちゃんに微笑みかけられた。「うーん、正直言うと、バンコクの生活はちょっと疲れるよ」と僕は凝りをほぐすような仕草で自分の肩をトントンたたいて見せたのだが、おじいちゃんは「そうなんだよ。何もかもがあわただしい、人のことも信じられん、何を買っても高い。暑苦しくて、汚くて、仕事がなければわしもこんなところには住まんよ。あんたも休みの日には田舎に行ってみるのがいいよ」と手を「やれやれ」の格好に広げて笑った。同じように田舎から出てきた人々が多いとは言っても、東京がその出自を隠しひたすら東京人然と振舞うことをよしとするのに対し、バンコクはプライドを持ちながらもカントリー志向や自身の郷里への思いを強くにじませた都市である。田舎の空気を吸ってきた者には、たとえそれが旅行者であっても心を開こうとする性分があるのだろう。僕はこの、よそよそしさをお互い脱ぎ捨てたあとのバンコクと自分の関係が好きだ。 |
7 バンコク移住a - 居場所を求めて 「どうしてタイにいらっしゃったんですか?」という質問は、駐在員としての赴任者や旅行者でない限りは、やっぱり必ず受ける質問だろう。そのたび、僕はこう答えてきた。「いや、説明するのは難しいんですが、言ってみれば業のようなものだと思います」 今もタイが好きなことには変わりがないし、その当時だってそうだった。しかし、恋愛でいえばやみくもな熱愛期はもう過ぎていた。バンコク生活が始まるとすればどういうことが待ち受けているのか、そのデメリットの部分もおおよそ想像することができるようにはなっていた。それでもタイへ居を移すことを考えたのは、ある意味で自分へのけじめだったのかもしれない。いつまでもタイを幻想の国に見立て、たまに旅行することで接点を持ち、日本を自身にとっての唯一の現実だとみなして生きてゆくということがつまらない妥協のように思えてならなかった。前項の小見出しを「業の導き」としたのはそういう意味上でのことだ。 1999年9月、ストップ・オーヴァーで韓国に降り立ったのち、自身の仕事の立ち上げ視察を兼ねてバンコクのウォンウィエン・ヤイ近くにアパートを借りた。調査を重ねると同時にノン・ヴィザ入国の期限を利用して9月末にはラオス、11月にはカンボジアにも足を伸ばす。 韓国は滞在日数が短かったが、排日政策を是とする国家の首都ソウルが外観上日本の街に非常に似ていたのが印象的であった。 ラオスは「何もないのがいいところ」といわれるとおり、時間の流れの緩やかさと人の素朴さに打たれた。第2の都市サヴァナケットはメコン(この河は「メコン川」として日本人には親しまれているが、メー・ナーム・コーン [メー・ナームは河の意味で、つまり、この河の本当の名は「コーン」である] が正式名称である)に沈む西日があまりにも美しかった。もう建設がはじまっているのだろうが、ここにタイ=ラオス=ヴェトナムを結ぶ産業道路用の一大架橋が行われるのが(旅行者の勝手な意見ではあるが)残念だ。 カンボジアはいわゆるステロタイプな「貧困の国」ではなかった。日本にいて目に触れやすいマスメディアを通してイメージ形成されると、どうしてもこの国をそのような偏見で見てしまいがちなのだが、カンボジアでは国際情勢や内乱に翻弄されながらも穏やかさ、奥ゆかしさを忘れないクメール人たちの暮らしぶりをつぶさに見て取ることができた。 そうして、当初の予定とは違う形ではあったが、バンコクに職を得て、この年12月にはいったん日本に帰国する。 |
8 バンコク移住b - 外へ! 2000年2月、バンコクでの本格的な生活が始まった。職場の近くであるトンローに居を移し、当HPコンテンツも現地からのリポートを中心とした情報サイトへと転身を図ろうと試みた(このプランは座礁)。フリー・ペーパーは廃刊となったが、その精神を継承したサイトとすべく街と人との関係を探る日々が続く。 バンコクに住み始めて丸1年くらいまでは「自分は今タイにいるのだ。しかも居住しているのだ」と思い返すだけで幸せな気持ちになれた。屋台の辛すぎる料理に舌鼓を打ちながら汗を拭き、休日には近くの町へ出かけたりした。ウォンウィエン・ヤイに住んでいた頃の名残でマハーチャイに散歩に出たり(ウォンウィン・ヤイからのディーゼルの終着駅がマハーチャイである)、家から近いエカマイ・バス・ターミナルからパタヤーで一日旅行を楽しんだりした。 タイでは家の扉が軽い。実際に日中は戸を開け放したままの家も多いが、「内と外」という感覚が薄いのだ。寝間着のままソイ(路地)へ出てくるのは特におかしなことではないし、知人が家に訪ねてくるときにでも「他人のプライヴェートな空間に踏み込んでいる」という意識が日本人よりは低い。日本では外出する際、気づかぬうちに何かと用意やちょっとした気構えを必要としている。これらが無礼講になり、街と自身の距離が飛躍的に縮んだ。 また、カンボジア、マレーシア、シンガポール、インドネシアにも足を運ぶ機会に恵まれ、特に2001年4月のフィリピン旅行は一般的な観光名所巡りだけではなく、フィリピン人の友人二人に付き添ってもらってのトンド、パヤタス(ともに大規模なスクォッター・エリアである)訪問で拡大する都市の裏面と直接向かい合う貴重かつ重要な体験となった。 |
9 バンコク移住c - 妥協と煩悶 旅行と生活が違うのは当然のことであるが、その重みのようなものは人それぞれ、どのような形で感ぜられるようになってゆくのだろうか。概ねよく似た経過を辿るのではなかろうかと僕は想像しているのだが、民族という大きな差異を越えようのない壁として捉えだしたときに、「自身の限界」という言葉の芽が頭をもたげ始めた。 バンコクで暮らし始めて間がない頃、知人が彼と一回り歳の離れた外国人の友人との関係についてこういうことを口にした。「僕は彼にもっといろんなことに意欲を燃やし、目標意識を持って人生設計をしていってほしいんです。けれど、そういう意識は彼にはいつまでも育たなくて、今日という一日一日をただただちょっと楽しいことをやって生きているように僕には見える。僕が言っていることは日本人的な価値観の彼への押し付けなんでしょうか? また、日本的なそういう発想そのものが偏狭な考え方なんでしょうか?」。これは難しい質問だけれど、当時の僕の答えは「いや、彼があなたを信用して付き合いもあるのだから、彼にはあなたがどんなふうに物事を考え、どのようにお互いよい関係でいるかについても無意識でいいというわけではないんじゃないでしょうか。あなたも彼も国として付き合っているのではない。だから、好きな相手のことにはやはりいろいろと考えて然るべきだと思うんです」というものだった。 今もこの意見には変わりはない。しかし、僕のトーンは当時よりいささか弱い。ほからなぬ自分も同じような思いにつまづき、そしてほかならぬ自分自身さえも今日という一日を意欲もなくただ生きている人間になっていたからだ。タイでは自分が「今このままの自分ではない、もう少し高みを目指す人間」になどならなくていい。生きることにくだらぬ理屈もいらない。どんなに平凡な人間であっても、人々が耳を貸さないというようなことはない。しかし、裏返してみればそれは努力という必要性がない社会ということでもある。日本式の協調主義社会のほうが世界的に見ると珍しい国家であろうから、「人が嫌がることをするな。人がどう思うかをよく考えて行動したり言葉にしたりせよ」という幼少時の訓戒がほとんど汲み入れられないことは、自分の価値観の根底をゆすぶり、ひいては「この国に置いてもらっている身なのだから」という妥協しか探らない自分が根付くようになった。 いつしか職場との往復、友人との付き合い以外にはほとんど外出しないようになっていた。生活の場というのがワンダーランドでありつづけるわけはない。ただ、手を伸ばせば届くところにもあるはずのリアリティーもこの生活の延長線上には見えないのではないだろうかという疑問が常につきまとうようになった。 |
10 アジアとしての日本 自ら決意して日本を離れた生活を選択する場合、再び日本に戻ってくるつもりがあるかどうかははっきりしていることが多いようだ。帰るつもりのない人が戻る場合はあるが、帰国を予想している人はほぼそのまま居ついてしまうということがないように思う。僕は後者である。フリー・ペーパーでは「日本人である自身を探す」というテーマが柱としてあったが、日本人であるという意識はそこを離れることによって得られた。また、暮らしのステージとしてのタイはまだ自身の選択肢としては残ってはいるが、一旦それに決着をつけて日本を再確認する作業はどうしても必要なものだと思っている。 僕がいまだに気にかかるのは、「アジアな雰囲気」とか「アジアの味覚」とかいった言い回しだ。そのファジーで偏った表現にも危機感があるが、それよりもはっきりとした問題は、ここでいう「アジア」の中に日本が含まれていないことである。日本を除いたアジアを指す語がないから、中国やタイやインドを巡る旅をしたときに「アジア旅行」という表現方法を取るしかないのは判る。だがしかし、こういう言われ方を好まない場合が多いようだが、僕らは紛れもなく日本人でありアジア人である。個人の自由と人権を浸透させてきた歴史の合間のどこかに、隣人をはじめとして友人や恋人、果てはとうとう家族からも断絶を感じ、もはや「国民」などという感覚はオリンピックのときくらいにしか沸きあがらない。海外に出たときに、自分がJapaneseであるのが恥ずかしいと感じてしまう瞬間があったりするくらいである。ましてや、アジア人としての共同意識などほぼないといってもよいだろう。EUを果たしたヨーロッパ各国とは大きな隔たりである。 これはおそらく、多くの先人が指摘してきたとおり、日本がイースト・エンドの島国であることと、戦後の目覚しい経済復興の時期に日本が採った国民意識の形成・教育に起因するだろう。大陸や大陸に程近い場所に建国された国家は自身の存在を常に隣国から脅かされてきた歴史から愛国心がしっかりと根付いているが、その一方で国家というものが何度も転覆してきたような脆弱な基盤であることも知っている。同時に、策定されている国境線に対しても、通商が可能なボーダーでさえあればそれを飛び越えた枠で民族地図や宗教地図が広がっていることが意識されている。現在の日本人に民族意識が低く宗教への関心が薄いのは、国家・民族・宗教・言語などがすべて「日本」という枠にぶれが少ないまま収斂してゆくからだ。つまり、沖縄の人々やアイヌの人々を除けば我々は愛国などというレヴェルを超えたナショナリストであり、省みることを知らぬ狂信的な宗教家であり、激しく単一民族国家幻想に取り憑かれた田舎者ではないか。 「イン・クルンテープ」にも書いたが、僕は新たに、日本を好きになろうと思う。そして、「自分は日本人である」ということに自覚と誇りを持とうと思う。人を殺めるためでなく、人を認めるために、自分の出自をしっかりと認識しようと思う。そして、次のステップがやってきたとき、また次の項を書くこととしよう。 |
※ 2004年1月23日、運命の巡り合わせは僕をタイでの生活へと引き戻した。バンコクに戻って落ち着いてきたら、このページの続きをまた書きたい。
※ 上記のとおり、遅ればせながらその後のバンコク生活を綴った。以下は、その有様である。
11 日本での1年間 「海外で得た経験を活かす」というフレーズはもはや常套句になっており、現在の日本では一般論といっていいほど反論を食らうことがない。だが、現代の日本はそこまでグローバルな意識を持つ社会を持ち合わせてはいなかった。いや、だからこそこうした掛け声が必要なのだろう。 |
12 タイ・アゲイン 2004年1月23日、僕は再びタイに舞い戻って暮らし始めた。そこに職があり、自分が必要とされていたからだ。その機会を僕は、残念ながら日本で見つけることができなかった。 |
13 暮らし 丸4年つきあいのあった彼女から別れの手紙を受け取ると、自分の中で急速に、タイと自分を繋ぐもやいが解ける自覚が鎌首をもたげた。これまでにもタイ生活に疑念を挟むことは何度もあったが、興味そのものを失うのは初めてである。失恋の自棄ばかりではない。日本で編集していたフリー・ペーパーのテーマを「街と人とのかかわり」に設定したとおり、街はひとの集合体で、それがなければたちまち意味を失う。30代までは人間関係こそが財産だと感じてきたが、40の境界線が近づいてくると、自身の素直な欲求がそこにはもう向かっていないことに気づいた。新しい何かではなく、守るべき何かを探り、温めることが次のステージの核となるだろう。 |
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