2011年〜
日曜の朝に、「遠くへ行きたい」という旅番組が放映されていた。
そのタイトルのわりに、日本各地へのぶらり旅行だっただけに、出演者はあまり遠いところに出かけてはいなかった。
ただ、あれが「番組」でなければ、出演者はそうとう日常からかけ離れた山里にいたりした。
バンコクで仕事を持つ身になって思うのは、思いのほか自分が「タイ」から遠いこと。
職場でも街角でもタイ人とは顔をあわせるけど。
でも、散歩に出た先で出会う風景はまさしく「タイ」で、それは僕のいる日常からはすごく遠くて、僕がこの国に住み始めるまでに恋い焦がれ、好きでやまなかった風景そのものだ。
近くでも遠いところに出かけること、それがいまの僕の散歩。
ちょっと、一緒に出かけてみませんか?
バンコク郊外・北部 | |
クレット島 その2 | ヤギの瞳に見えたもの |
ドリーム・ワールド | 最も遊園地らしい場所 |
クレット島 | 車のいない島のデジャヴ |
ワット・チェディ・ホイ | 牡蠣殻でできた仏塔と野良犬・野良猫たち |
バンコク郊外・西部 | |
マハーチャイ〜メー・クローン | 移動こそが旅の醍醐味 |
プッタモントン | あまりに広大な仏塔公園 |
バンコク郊外・南部 | |
スリ・ナコーン・クワンカン公園 | 渡し船を降りたら自転車で |
バンプー・リゾート | 夕暮れに舞うかもめ |
ムアン・ボラーン | タイでテーマ・パーク巡り |
プラプラデーン | 水先案内をしてくれたPさんの教えてくれたもの |
プラプラデーン市場 | 「あの」タイの風景に包まれて |
バンコク郊外・東部 | |
クローン・スアン100年市場〜ワット・ソートーン(チャチューン・サオ) | 紋切り型でない市場 |
スアン・サイアム(/パタヤー〜ジョムティエン/フアマーク・スタジアム) | 思いつくままの年末年始 |
バンコク | |
バイクに跨って | アジア版「部室でいる男どうしの感じ」 |
ソンクラーン考 | 歩行者天国シーロム通りに立って思い出した |
怪電話 | 唐突に始まって出し抜けに終わった「友達」譚 |
バンコクのトランプ詐欺師 | 絶体絶命の一大ピンチ |
ワット・パークナーム | 仏教宇宙の美 |
少し歩いてみるか −スクンヴィット・ソイ22 | 久しぶりに味わった独身の味 |
当てもなく近所を歩く | 弱さから来る痛みにありのまま向き合う |
フリスビーのある風景 | タイ人の原型と出逢う |
動物議員ポスターを探して | なんて自由な国なんだろう |
バンコクのソンクラーン | やっと感じられたタイ正月 |
ワット・ラカン〜ワット・アルン〜ワット・ポー | 思いもかけない3寺院巡り |
スアン・ルアン(ラマ9世公園) | 入場料分の清潔 |
フアマーク・スタジアム(/パタヤー〜ジョムティエン/スアン・サイアム) | 思いつくままの年末年始 |
チュラロンコーン大学〜ラーチャプラソン | 蜃気楼のありかに辿り着く |
サイアム・パラゴン | バンコクらしい散歩は靴修理のついで |
ローイ・クラトーン | 「静」の祭典の現在 |
アヌサワリー・チャイ〜ラーチャプラロップ〜プラ・ラーム1 | 悲劇に垣間見るタイ風生きざま |
家探し | タイって広い |
バーン・バート | たった一か所だけ残った鉢の村 |
セーン・セープ運河 | 水辺のタイムスリップ |
チャルンクルン通り サパーン・タークシン〜ホアランポーン | iPodとヴァーチャル散歩 |
パトラーイ通り〜ヤォワパニット通り〜ソンワット通り〜ター・ディンデーン通り | 以前の散歩を歩き継ぎしてみた |
スクンヴィット・ソイ16〜ベンチャキティ公園〜アソーク市場 | 人影の少ない猛暑を歩く |
チャトゥチャック市場のJJモール周辺 | あの人の思い出を超えてゆく |
タノン・トク | 袋小路に残された温かみ |
チャルン・クルン通りの裏通り | チャイナタウンでタイム・スリップ |
伊勢丹の福岡ジャパンフードフェア | 日本との微妙な距離を感じる「ジャパン・フード・フェスティバル」 |
タ・プラ〜タラート・プルー〜ウット・タカット通り〜イントラピタック通り | 夜闇に浮かぶ、こぶつき熱帯魚 |
アユタヤー | |
アユタヤー | 国王誕生日に思ったこと |
パタヤー | |
パタヤー〜ジョムティエン(/フアマーク・スタジアム/スアン・サイアム) | 思いつくままの年末年始 |
ジョムティエン・ビーチ | タイ人の友達と浜辺を歩く |
パタヤー | 以前バンコクが持っていた街の熱を感じる |
チェンマイ | |
チェンマイの親戚訪問 | 初めての長距離ドライヴ |
ムアン・ンガイ〜ナイト・バザール〜ドイ・ステープ〜スアン・サット・チェンマイ | 「今」と向き合う |
チェンマイ〜メー・サーイ〜タキレック〜チェンラーイ | 「ひとり」と感受性 |
チェンラーイ | |
チェンマイ〜メー・サーイ〜タキレック〜チェンラーイ | 「ひとり」と感受性 |
メー・サーイ | |
チェンマイ〜メー・サーイ〜タキレック〜チェンラーイ | 「ひとり」と感受性 |
プーケット | |
プロンテップ岬 | バイバイ、プーケット |
コ・シレイ(シレイ島) | 寺とチャオ・レー村と猿 |
コ・へー(コーラル島) | 透明な海とカラフルな魚たち |
ラワイのチャオ・レー集落 | 海のジプシーに触れる |
ラワイ・ビーチのローイ・クラトーン | チャオ・レーとの出逢い |
プーケット・タウン(ナイ・ムアン・プーケット) | オールド・タウンにて |
ナイハーン・ビーチ | 落ち着きのある夕暮れ |
カタ・ビーチ | 人間くさいいビーチ |
パンワー岬 | 小さな水族館 |
ヤヌイ・ビーチ | プーケットで初めて泳いだ |
カロン・ビーチ | 洪水退避はこうして始まった |
ラオス | |
パクセー(南ラオス) | 毎日が散歩日和 |
タキレック | |
チェンマイ〜メー・サーイ〜タキレック〜チェンラーイ | 「ひとり」と感受性 |
日本 | |
猛暑の大阪歩き | 日本の夏が暑いのは |
夏祭り | 祭り囃は聴くものか飛び込むものか |
アイソレーション・タンク | 意識の宇宙の片鱗をつかんだ!? |
ユニバーサル・スタジオ・ジャパン | 欧米人流の楽しみ方 |
道頓堀 | くいだおれ人形 ― 消えゆく昭和の香り |
その他 | |
散歩に出ていないのは | 「散歩」の何が変わったのか |
日本という場所 2016年4月17日(日)
翌日からの天気予報は雨。
今年の桜に間に合った、それが今年の日本帰省初めての外出の風景だった。
でも、そんな可憐で小さな花弁が風に運ばれていくのをぼんやり眺めている僕は、じつはぼんやりとしか眺められないほど疲れていた。
年々老いを重ねる母との散歩の最中だから、もちろんそんなことはつゆにも見せないようにしているけれども。
「先月からけっこう心身ともにつらい」
「先日、○○さんが認知症になった」
里帰りを待っていた母の話は、日本を留守にしている期間ぶんだけたんまりたまっている。
そして、多くの話は母の年齢を反映してそれなりにヘヴィーだ。
弟が親の話をまったく聞けない性格なので、母は毎年僕の帰りを待っている。
長男でありながら海外生活を送っている気儘な僕にとって、日本滞在中はできるだけ母に寄り添うのが務め…というのではなく、僕自身も少しは親孝行をしたい。
それに、いくら話題が重いとはいってもここは大阪。
随所にちょっとした笑いも含まれていることだし。
次の日、用事があって梅田に出た。
別の日には天王寺・阿倍野に出た。
さらに別の日には本町から九条界隈にも出た。
半分は忘れていたことを思い出す懐かしさと、もう半分は自分の知らなかった日本の再発見に、僕は穏やかながら強い思いを胸に感じていた。
そこには僕が20代まで日本にいた頃に感じていた親密な仄明るさがあった。
カフェに行けば知り合いがやってきて長いおしゃべりが始まったり、そのまま飲みに行ったり誰かの家におじゃまする流れになったり、そこに初対面の誰かが加わって人の輪が広がっていくような、そんな可能性が当然のように街角のあちこちにあった。
日本で街と人を追いかけることをテーマにしたフリーペーパーを発行していた僕は、その温かみを誰よりも知っていたはずだ。
ただ、ギラつく東南アジアの陽光のように、タイでの人間関係はあまりにドラマチックで、僕はすっかりそんな風景を忘れてしまっていたのだ。
ちょうど、ウォッカのあとで飲む日本酒のうまさを感知しにくいように。
でも、それらの場所は僕の記憶の日本とは違う空気もしっかりとはらんでいた。
焚き火も公園でのボール遊びもできないことが肌で分かる雰囲気。
人が写り込んでしまうとき、みだりに写真を撮ってはいけない雰囲気。
酔っている人たちにも、夜に声を上げないことがルールになっている雰囲気。
でもそんなムードに多くの人が息苦しさも感じている雰囲気。
それらは、帰省中にほとんど実家周辺に行動半径を絞ってきた僕の目にはとても鮮やかに飛び込んできた。
にわかにこの国が面白いということを嗅ぎ取る日々が始まった。
母には申し訳ないが、自分ががまっとうな日本人であるために、僕はもっと動き回り、様々な地域の様々な日本を感じ取る必要がありそうだ。
僕たち家族が今の実家のある場所に引っ越してきたとき、小中学校では地元勢と転居勢とが微妙なバランスを作り出していた。
それが今では、少子化と高齢化の証言台のような地域になっていたことを知ってしまった。
だが、だとしても時間は巻戻るわけもなく、僕らも進んでいく。
そうして僕は同じ年、夏にも日本に降り立つことになったのだった。
バイクに跨って 2015年8月29日(土)
スコールが始まった。
慌てて、道路の中央分離帯をへこませて設けられた駐車スペースにバイクで突っ込む。
そこにはもう数名の先客がいる。
目が合うとどちらからともなく苦笑いが交わされる。
そのあとから、またほかの男がバイクで乗り入れてきた。
「雨季のバイクはうっとおしいね」
彼が話しかけてきた。
タイでバイクを運転しているものどうしのちょっとしたやり取りには、男子校の部室に似た空気が流れている。
去年4月にバイクを買った。
これまで僕は車もバイクも自分で所持したことはなかったし、結婚するまでそんなことをほとんど考えもしなかった。
ワン・ルームの部屋から引っ越しを考えると、BTSや地下鉄などの沿線では、マンションやアパートの値段は軒並みぐんぐん上昇し続けているのが目につく。
それなりの家賃でそこそこの物件となれば、多少の不便は覚悟しなければならない。
そのためには、まず引っ越しそのものよりも、バイクか車を手に入れて、タイでの運転に慣れることが先だ。
やっぱり危険極まりないとか、渋滞でどうにもならないとか、そういうことであれば、引っ越しを見合わせることだって可能だ(タイでは家賃が上がるとき、新しい入居者にはそれを適用するけど、昔からの入居者は据え置きにしてくれることが多いので、むやみに転居ばかりすると損をする。また、タイの賃貸関係では借主の権利はほとんど認められないので、大家との関係が大切で、このあたりの見極めも難しい)。
それに、まともな買い物ができる町まで歩いて2時間以上かかるカントリーサイドからやってきた妻にしてみれば、バイクを持つことから生活の向上が始まるという感覚がある。
彼女の実家ではどうも、バイクを導入しない僕らの暮らしぶりがどうなっているのか、いま一つ理解を得られていないようだ。
ちょうど妻が長期の里帰りをしているタイミングで、バイク購入にも免許取得にも時間の自由があったうえ、旅行しようとためていた資金があった。
思い立ったが吉日。
これまでバイクにまったく興味も知識もなかったので、日本でもタイでもバイクに乗り続けている友人に相談した翌日、彼もそこで買ったという店に行っていちばんピンときた一台を予約した。
翌朝、開店早々の店に行って代金を払い、手続きを済ませて、初めてバイクでバンコクを走った(これまでタイの観光地やラオス・宮古島などでは、レンタルで乗ったことはある)。
3週間のプーケット滞在(バンコクからの洪水退避)のときには、バイク生活を先取ってはいたが、交通事情・道路事情がこれまでとは全く違うバンコクの道を走ると、「この街で風を感じながら走るのは爽快だ」「でも、運転はとにかく怖い」、そんな思いがくるくる廻った。
今年1月にアユタヤ―、4月にはナコンパトムまで2ケツで行ってきた。
アユタヤ―では、遺跡や街中を自分のバイクで回れることが嬉しかった。
ナコンパトムのときは、タイ最大の仏塔のシルエットが行く道(タノン・テサ=テサ通り)の先に見えたとき、その大きさに圧倒された。
なぜか、この仏塔はナコンパトム駅から眺めるといま一つ威容が伝わってこないのだが、バイクでアクセスしたおかげで新鮮な驚きの思い出ができた。
ここで、去年の12月に書いた日記をご紹介したい。
この日の記述が、僕のこの「散歩日記」で今回お伝えしたいことのほぼすべてだ。
タバコを吸いに出る夕方のオートーコー市場裏の運河のほとりで見る夕日もけっこういいものだ。
チャトゥチャックやJJモールあたりを冷やかすのも楽しそう。
モーチット周辺はバイクで出かけるのにちょうどいいくらいのところかもしれない。
というのも、火曜の4時〜6時台だというのに、道中で混んでいた印象のあるのはペッブリーやディンデーンの一部とモーチットの北辺りくらい。
特にメイン・アクセス道路となるウィパワディー・ランシットはすこぶる快適である。
距離のわりにアクセスがいいというのが正直な印象だった。
一番混雑を感じたのはウィパワディーからラチャダーピセークへのアクセス分岐点からだったが、ここでカンペーンペット2に分岐する道を選ぶのもいいし、それよりもっと手前、ウィパワディー×ラップラォの交差点からすぐのカンペーンペット3を選ぶのが正解だと思う。
つまり、混んでいるところを解消できるかもしれない方法はいくつかありそうだということ!
帰り道、たぶんスティサンの交差点のこと。
立体交差の高架をぶっちぎらなかったせいで、ずいぶん待たされたけど、面白いことがあった。
バスに阻まれたその後ろで信号待ちをしていると、左にいたタイ人ライダーに「○△3差路はもうこの近くですかね?」と尋ねられた。
まったく聞き覚えのない地名だったので「マイ・ルー・ルアン・クラップ(知りません)」と言う。
道を尋ねられたのはこれが初めてだが、バイク乗りどうしには不思議な親近感がわくのが伝わってくる。
道を尋ねたときの反応は、自分が歩行者であるときとは全く比べ物にならない。
そこには男どうしのバンカラな、しかも、アジアらしいおおらかな連帯感がある。
しばらくすると、今度は右にやってきたタイ人ライダーに「アヌサワリーは右折ですか?」と尋ねられた。
「いや、まっすぐ行って突き当りを右折ですよ」と答えると、「ウィッタユ通りへはどう行くんですか?」との質問が。
これはかなり答えに困るので、うやむやにしてしまった。
タイ人ライダーからの初質問は、一度に左右2か所からやってきた。
バイクに乗るとタイを感じるのは、こうしたことも要因に大きい。
そして、タイ人がよくバイクを使うので当然街はバイクで移動するのにわりあい都合がよいようにできてもいることも分かってきた。
たしかにバイクに乗り始めたことで極端に行かなくなった店や場所は多いが、今は、かつてたまに散歩で味わっていた感覚をバイクの世界で広げていくのが楽しい。
もちろんその舞台がプーケットやサムイならもっと楽しいだろうが、そういう意味でも散歩に似ていて、旅よりはもちろんこじんまりしているけど、日常の一こまに彩りを与える、タイらしい風景を歩く感覚と、バイクでのそれは地続きである。
艀に乗ってプラプラデーンに行ったのも思い出深いし(タノン・ロットファイ・カォのくたびれた産業道路然とした雰囲気はけっこう好きだ)、夕方モーターウェイの側道からスワンナプームに出て夜にオンヌットを走ったのも鮮やかな記憶。
照りつける熱帯地域の太陽の下、信号待ちをしていると、「ああ、俺は東南アジアにいるんだな」という思いにときどき浸される。
渋滞をすり抜けると、このバンコクでも幾許かは時間を読める移動ができるというのが、日に日に判ってゆく。
パーク・ナームまで新鮮な魚介類の買い出しに出るくらいが、バイクでのちょっとしたお出かけにすごくいいと気づく。
雨の日に走るのはたしかに少し怖いが、レインコートとレインパンツを着て眺めるバンコクの姿は、いつもより少し優しくて美しい。
スロットルを回すことでしか見られない世界が、そこには明白に息づいている。
ソンクラーン考 2015年4月15日(水)
水かけ遊びのタイ正月として知られるソンクラーン。
大人も水遊びに興じる姿に、旅行者には人気の高い世界中の行事の一つで、皆さんもご存じではないかと思う。
多くの長期タイ在住者が、たぶん同じことを思っているのだろうけど、最初は物珍しさで自身も参加したり、子につき合って水かけをするのだが、3〜4年も経てば自分も家族も飽きてきて、ただただ水をかけられるのが億劫になってくる。
だからこの時期の長期休暇を、日本への帰省に充てたり、タイ国外旅行に出たりする人が多い。
実際、タイ人もソンクラーンの時期は水かけを避けて海外旅行に出る人が年々多くなっていると聞く。
もしバンコクにいることになれば、用事がないかぎり自宅のそばの水をかけられる心配のないあたりで、ソンクラーンの3日間を過ごすのが無難だ。
ソンクラーンが好きではない理由がいくつかある。
まず、この時期には死者が多く出ることだ。
世間を騒がせ、在タイ日本人も帰国の決意を迫られる気さえした2010年3〜5月のUDDデモでの死者は91人、2013年の反政府デモでは10人なのに対して、2014年のソンクラーン(9〜15日の1週間で計算)での死者数は322人と、桁が違う(その後のニュースによると、今年2015年は同じ9〜15日の1週間で364人に上昇)。
けが人のほうも、UDDデモでは1800人以上との発表だが、2014年の1週間には3225人(2015年は3559人)。
そして、単純な人数比較だけではなく、ソンクラーンの方は伝統行事としてこういう規模のの死者・負傷者を毎年出し続けているということを忘れてはならない。
去年はソンクラーン初日に、家のすぐそばの交差点でバイクの男が倒れ、ピクリとも動かなくなていたのを見かけた。
飲酒運転が原因だろうと、タイ人が噂話をしていた。
大阪出身の僕には、まだ岸和田のだんじり祭りで命を落とす気持ちへの理解がある方だと思う。
しかし、その理解は「祭りに賭ける男の生きざま」に向けられたもので、ソンクラーンのように「楽しく酔っ払ってバイクや車をかっ飛ばして巻き添えを出しながら事故を起こす」のとは根本的に違う。
それから、話は急に軽くなるが、単純に「水に濡れるのは嫌だ」という理由。
タイで職を得た初年度だったので、楽しい思い出として記憶に残っているが、ソンクラーン中に仕事で職場に向かう途中、バイクタクシーの男たちに噴水のプールに投げ込まれたことがある。
あれは今やられたら怒るだろうな。
この3日間、トンローを走る出入口の扉が閉まらないミニバス乗車時には、バケツに満載した水をぶっかけられてもいて、今日のバスで、隣に乗り合わせたフィリピン人のオジサンは「水鉄砲でかけられるのはいいんだけど、バケツで氷水をぶちまけるのは反則だ」と言っていたが、僕も同感である。
このソンクラーン、いにしえには、タイで最も暑いこの時期に、僧侶にわずかな涼をとってもらうため、手首に水を垂らした風習だったいう。
それが今では、だれかれ構わず白い粉を顔に塗りに来たり、水も氷でさらに冷やされたり、である。
タイ人が水かけで最もヒートアップする瞬間は2パターンあり、1つは水かけにやってきたものどうしが攻防戦を繰り広げるもので、こちらは脇で見ていても面白いのだが、もう1パターン、まだ水をかけられていない人や、かけられるのを嫌がる人(といっても、バンコクでは完全にノー・サインを出している人にはかけないだけのモラルがある程度まであるのだが)が通ってきたときだ。
その攻撃性があまり好きではない。
しかし、今年、僕は妻に勧められ、初めて水鉄砲を買って参戦してみた。
しかも、向かったのは、ソンクラーン期間中歩行者天国となっているシーロム通り。
東西の旅行者に人気のカオサン通りとともに、バンコクの2大水かけ聖地で、毎年バンコクでの水かけのニュース風景はほとんどこの2か所で撮影されたものある。
そんな場所に、小さな水鉄砲一つ携えて、いそいそと赴いたのだった。
さて、BTSサラデーン駅を出て通りの真ん中に出ただけで、もうすでに服もズボンも余すところなくびしょ濡れである。
しかし、僕はここで改めて、ごくごく基本的なこと――タイに来たことのない人でも知っているタイ人の特徴について、改めて気づく。
ここには笑顔があふれている。
ソンクラーンは、やっぱり祭りなのである。
お笑いを劇場で見るとか、仲間うちで面白い話が飛び出すとか、日本でもあちこちに笑顔の共有はあるが、タイではこれを1年で最大行事として国民が共有しているのだ。
もちろん、ソンクラーンのシーロム通りだって「仲間うち」ではある。
だが、こういうことを国民が認めあい、許しあい、しかもそれを外国人にも開放して一緒に正月を楽しもうとする姿勢は、ちょっと他には見当たらない風景なのではあるまいか。
歩道近くでは、多くの場合水は5バーツからの販売となっているが、中には無料で水を配っている人もいる。
何千人という人が集まるこの場所で、次から次へと集まる人々の水鉄砲に笑顔で水をリフィルするサーヴィス精神は、タイならではのものだろう。
次に気づいたのも、これまた以前から知っていることだった。
ソンクラーンの楽しさについてタイ人に尋ねると、多くの地方出身者が声をそろえて言うことには、「ソンクラーンに水かけをすることで、女の子(男の子)との出会いが生まれるんだ。それが縁で恋人になって結婚していく人たちも多いんだ。田舎にはなかなか出会いの場がないからね」という答えが多く返ってくる。
それを地でいっているのがよくわかった。
シーロム通りのように、四方八方いたるところから水が飛んでくる状況だと、自分がまずはどこの誰に照準を絞って水鉄砲を使うのかを考えないと、水がいくらあっても足りない。
そこで注意して見てみると、タイ人たちの多くは、相手が水をかけてきたら応戦するという以外には、男性は女性・女性は男性に水をかけているのがわかる。
そこで僕もさっそく、近くを歩いていた女性に水をかけてみた。
応戦の水とともに笑顔が返ってきた。
なるほど、タイ人がソンクラーンを大切にする理由が、僕にも肌で分かってきたぞ。
こうして水をかけたりかけられたりした中で、僕のすぐ後ろを歩いている女性からは一度ならず水をかけられ、振り向いて目があうたびにタイの微笑みを受けた。
もし僕がまだ独身ならば、こんなきっかけから言葉を交わし、電話番号やLINEのIDなどを交換することもあるだろう。
今年は水かけのメイン会場となるような場所でのアルコール販売や、顔に塗る白い粉の販売は禁止されている。
実際、通りを行く人々を監視している警察官もそれなりに見かけた。
ところが、実際には路上で堂々と白い粉を女の子に塗る若いタイ人男子の姿も見かけたし、シーロム通りからソイを入ったレストランなどでは普通にアルコール販売もされていた。
また、BTSや地下鉄では事前に「全身びしょ濡れになった客や、水鉄砲に水を入れた客は乗車させない」という話も出ていたが、そんなチェックはなかった。
何もかもが緩い。
そこでまた思う。
こういう状況を日本ではどう見るだろうか?
まず、無差別殺人やテロなどの恰好の場になる・お年寄りや体の弱い人にショック死をもたらすかもしれないなどといった危険理由で禁止になることは間違いない。
もし仮に実施されたとしても警察が随所に配備されて「整然とした」ものになるだろう。
その「整然」が何をもたらすのか――ネットで社会や企業や他人のあらをぶち上げてさらし者にするようなタイプの「無菌室」社会である。
たしかに今タイは、軍事クーデターで元陸軍総司令官が首相を務め、戒厳令はようやく解除したものの、それより強権発動がしやすいと言われる暫定憲法をスタートさせるような、はた目には息苦しそうな政治状況である。
しかしその実、軍が首相命令を拒否して動かなかったり、デモ隊が押しかけてきたらその場所を開放したり、そのデモ隊が居座っても長期間にわたって強制排除しなかったり、おそらく他国に暮らす人々のイメージ以上に世論を気にして動いてもいる。
健全なのはどちらの社会なのだろう?
その答えが僕などに判断できるはずもないが、ソンクラーンの水かけで人と人とが実際に対面して、伝統や社会公認のもとに「笑ってすませよう」とする攻撃性と、ネット時代の日本が抱える自主規制の嵐とその鬱屈の噴出としての誹謗中傷の攻撃姿勢を比べるとき、どちらが殺伐としているのかは目に見えている。
ソンクラーンの水かけが禁止あるいは管理されるとき、それはタイ社会が無味乾燥の「無菌室」社会へ突入する瞬間なのではないだろうか。
濡れて冷えた体に過剰な冷房で全身鳥肌になりながら、帰りのBTSでそんなことを思いめぐらせた。
駅に降り立つと、いつもは蒸し暑く淀んでいるとしか感じられない4月の空気が温かく、身をもって太陽のありがたさを感じる。
実際に水かけに参戦しなければ、記憶の隅に古びたままになってしまう感性がいくつもある。
ソンクラーンは、そんなことも教えてくれた。
ホアランポーン駅 2015年2月19日(水)
「2018年頃にはなくなってしまうって、もう決まったことだったのか」
タイを訪れたことのある日本人の中の、きっと多くの人たちが、バンコク中央駅としての機能が北のバーン・スー駅に移され、ホアランポーン駅が廃止されるというニュースに何らかの感慨を持たれるだろう。
初めてのタイ旅行で利用した人々にとって、ホアランポーン駅はタイの中でもまったく別格の旅情を今に伝えてくれる場所の一つである。
「日本人ですか?」
時は1999年、ファンが生ぬるい風をかき回すホアランポーン駅構内の食堂で、クウィッティヤゥを掻き込んでいた僕の頭上から、そんな言葉が降り注いだ。
慌てて顔を上げると、大学生くらいの日本人女性が笑みを浮かべていた。
アジアの雰囲気に肌が慣れてくると、紛れもない日本人による日本語の音声を聞くときに若干の緊張感が走るようになる(これは今でも変わらない)。
彼女はノーンカーイからこのホアランポーンに戻ってきて、これからチェンマイに出るのだそうだ(僕もチェンマイ行きだが、彼女の列車とは時間が違った)。
僕がさほど空腹でもないのにクウィッティヤゥをだらだら食べていたように、彼女もまた乗り換え時間の暇つぶしが必要だった、そういうことだ。
「ちょっと変だと思うことが、ノーンカーイであったんです。こんなに仏教に敬虔なタイなのに」と彼女は言う。
「夕方、川べりに散歩に行こうとしたら、途中にお寺があったんで、そこで写真撮ってたんです。そしたら、若いお坊さんが出てきて、『僕は日本語を勉強しています』って、日本語で話しかけられたんですよ。『日本人の旅行者にもらった』っていう日本語とタイ語の旅行会話集を見せてくれました」
その後、彼女はワット・ケーク(サラギョク)を案内してもらうなど、この若い僧にいろいろとよくしてもらったという。
「でも、これ、最終日のことなんですけど、そのお坊さん、私に握手を求めてきたんですよねー。それも、お堂から出た物陰でこっそり…。あのー、ほら、タイではお坊さんは女性に触れちゃいけないってガイドブックなんかにも書いてあるじゃないですか。『いいのかな?』って思ったんですよね。どう思います?」
実際、僕は彼女に遅れること2週間ほどのノーンカーイで、夕方川べりに出ようと散歩していたら出くわしたお寺で、旅行会話集を携え日本語を勉強している若い親切な僧に出会った。
翌朝にはワット・ケークを案内してもらい、最終日には握手を求められた。
後日、タイの友人にこの話をしたら、「カォ・パンサーの間にお坊さんが外出しているとはまかりならん」と、彼は息巻いていた。
何もかもがタイのもわっとした暑さに蒸され、どかっと来るスコールに洗い流されて、タイならではのいいかげんさが渦を巻いている。
そんなタイが大好きだった。
一眼レフを背に、バイクに乗ってホアランポーンに出てきた。
今回初めてホームの端から端まで回ってみた。
駅奥にある1〜3番線あたりは放置状態の車両が並び、ホームにはバイクの駐車の列がある。
さらに奥へ進むと、東端ホームの終わりには一般道との間の開口があった。
駅の西奥にはSLが飾られているスペースがあった。
また、駅西端には機関区があり、この一帯は油にまみれている(父の職場が町工場だったから、僕には懐かしいにおいである)。
ホアランポーンは思いのほか広かった。
そのことをちゃんと知ることができてよかった。
バックパックを枕に、コンコースの地べたに寝転がっている男女の白人旅行者たちがいる。
駅舎内から外の街への小さな抜け道を、いつものことのように通り抜けていくオレンジ袈裟の僧侶がいる。
元来は飛行機の格納庫ではないかと言われた(実際はそうではないらしい)アーケード型の屋根には、歴史ある始発駅しか持ちえない心地の良い淀みが漂っている。
マレー鉄道の終着であるシンガポールのタンジョン・パガー駅も2011年7月に廃止された。
バンコクでは長距離バス最大のターミナルであるモーチットも移転する。
こういうことに遭遇するたび、「歴史に間に合ってよかった」と感じる。
ホアランポーンよ、永遠なれ!
怪電話 2014年10月15日(木)〜2015年3月1日(土)記
〜前回に続いて、バンコクでしかあり得ない、2000年の思い出話です〜
それは一本の電話から始まった。
それはあらゆる意味で不可解な電話だった。
短い夏の休暇をチェンマイで過ごした最終日、僕はバンコクの自宅へ帰る飛行機のシートでじりじりとした気持ちを抱えていた。
この日、夜の便で日本に帰国する知人に頼みごとがあって、何が何でも彼に会う必要があったのだが、フライト前に彼と会える時間に間に合うかどうかの瀬戸際にあったからだった。
頼みごとというのは、日本で買ってきたノート・パソコンが使用半年くらいで動かなくなってしまい(結局初期不良だったのだが)、その修理は日本でないとできなかったので、彼に日本へ持って帰ってもらって修理に出してほしいというものだった。
バンコクでは知人にドンムアン空港で落ちあうだけではなく、自分の部屋にパソコンを取りに戻る必要があった。
頭の中でおおよそ見積もって、渋滞がいつもの程度なら、部屋からとんぼ返りすればぎりぎり間に合うかどうかというところである。
高速を走ってもらい、アパートの前でタクシーを降りる。
よし、ここまではまず順調だ。
1段抜かしで4階までの階段を駆け上り、部屋に文字通り駆け込んだ。
じつに、まさにその瞬間、聴き慣れない音が、まだ物も多くないがらんとした、バンコク暮らし一年生のがらんとした部屋に響き渡った。
しかも、ほかならぬ自分のいるこの部屋から。
腰を抜かしそうになったが、思わずデューク東郷ばりの俊敏さで部屋を見渡しもした。
音の主は部屋の電話機だった。
が、いつもはこんな音を立てない。
普段は「ルルルル……」と軽快な(というのはほめすぎだろうか)音を立てているのだが、今そこから聞こえてくるのは、「ブーブ―」というくぐもった得も言われぬ断続音。
しかも、この最高のタイミングはなんだろうか。
ものの2分もすれば、この部屋のドアは慌ただしく閉められていたはずだ。
この間隙を狙ってスナイプしたとすれば、ゴルゴ13顔負けである。
――相手もデュークだったというわけだ。
「あるいは、電話機が故障しているのかもしれない。この音は故障を知らせる音なのではないだろうか?」
咄嗟の思いつきを確信にねじ替えて受話器を取った僕は、それが浅はかな寄る辺だったことをすぐに知る。
「ハロー」 (※ タイでは「もしもし」を、タイ語アクセントで「ハロー」という)
耳に当てた受話器から流れてくるのは、女の声だった。
まったく聞き覚えはない。
いや、そんなことより、これまで僕の自宅に電話をかけてきたタイ人女性は一人もいない。
2000年にはすでにバンコクでは携帯電話が普及していたから、自宅の電話が鳴るのはピザの配達でアパートに辿り着けないとか、旅行代理店がチケットの予約を取れたので支払いに来てほしいとか、そういう類に限られている。
「…誰かな?」
尋ねた。
答えはなかった。
「もうご飯食べた?」
タイ人のいつもの常套句が返ってきただけだった。
さしたる話題がないと、タイ人は挨拶代わりにこの質問をする。
「あの……たぶん間違い電話ですよ」
「お腹すいた?」
「いや、あの、間違い電話ですよ」
まったくかみ合わない押し問答に、一方的に電話を切ろうとしたとき、女はこう尋ねた。
「どこに行ってたの?」
…受話器が凍った。
この「どこに行ってたの(パイ・ナイ・マー)?」というのもタイ人がよく挨拶として使うフレーズなのだが、少なくとも外出して帰ってきたことを知らなければ、そんなことを訊くはずがない。
「ねえ、ご飯はもう食べたの?」
「……君は誰なんだ? 僕は君のことを知らない」
すると、受話器はこう答えた。
「あなたは私のことを知らなくても、私はあなたのことを知っている」
しばしの沈黙が部屋を覆った。
これはホラー映画世界の序章だろうか?
その手のストーリーでは、主人公グループが警句を軽んじるのちに、とんでもない惨劇に飲み込まれていく。
慎重になるべきだ。
だが、ホラーやサスペンスにしては、このバンコクは乗り物や話し声やどこかのバーからの蛙鳴蝉噪に包まれすぎているし、だいいち、女の声が明るすぎて裏が感じられない。
自分の想像を軽く超えるような事態には、これまで何度も遭ってきた。
タイ人の知人が横領で逮捕されたり、あっけなく死んだり、死んだと聞いた人が生きていたり、タクシー運転手に自分の娘と結婚してくれと言われたり。
しかし、こいつはそういった東南アジアらしい情景とは根底からちがう。
受話器を握り直した。
「……あの、僕にはとても大事な約束がある。これからすぐに空港に行かなければならない。用事が終わったらすぐに帰ってくる。ご飯はまだ食べていないから、帰ってきたら一緒に食事をしよう。このアパートのことは知っているんだね? じゃあ、9時にアパートの門の前で待ち合わせよう。今は時間がない。またあとで」
それだけ言うと電話を切って、壊れたノート・パソコンを抱え、部屋を飛び出した。
パソコンは無事に、知人にパスされた。
知人はバトンを受け取って、僕の代わりに駆け出した。
そうしてアパートに戻った午後9時少し過ぎ、果たして階下に女が二人立っていた。
タイに多いオカマ風でもなければ、べつだん風変わりな様子でもない。
少し胸を撫で下ろす。
だが、これまで遭遇したこともないけど、こういうのが美人局の典型的なパターンなのかもしれない。
「あなたが電話をかけた人ですか?」
20代の二人は、こくりと頷いた。
近くのタイ料理屋のテーブルを囲んで、あまりパッとしない料理を箸でつまみながら、ぽつぽつと会話が始まった。
アパートからそう遠くない日本人カラオケ店で働いているという二人は、「日本人の友達がほしいから電話した」という。
「日本人カラオケで働いているなら、日本人の友達なんかいくらでも作れるじゃないか」と僕は言った。
「店の客はオヤジばっかり。それに、客は客で友達なんかじゃない」、そう彼女たちは言う。
気持ちは分からないではない。
でも、きっとまだガードを下げるのは早い。
二人が住んでいる、同じ階の並びにあった彼女たちの部屋を訪れた。
そこで酒などが出てきたら疑惑モードだが、この日はそういうわけでもない。
出された水で口を潤しながら、二人の尋ねる日本の様子などを、ただ話すばかり。
こうして、同じようなお互いの部屋の訪問が始まった。
それ以降には、ビールを飲むこともあったし、作った食事を食べさせてもらったこともあった。
そしてふと思えば、たしかに彼女たちが言うとおり、二人と僕とは誰がどう見ても「友人」という位置づけであることに、ある日気づいた。
アパートの同じ階どうしなので、暇なときに立ち寄ってみるような、気軽な関係でいられたのも大きい。
ちなみに、バンコクでは、地理的に近い位置にいるということは、日本で想像するよりも遥かに重要なポイントとなる。
部屋の扉を隔てた内外の垣根は低いけれども、渋滞や、タクシーの乗車拒否や、BTSの駅までの遠さや、暑さ・排気ガス・人の多さ・道の悪さなど、挙げればきりのないくらいの悪条件が重なって、誰かと会おうとするとき、お互いの住所が持つ距離感は日本の数倍ある。
とりたててすることのない休日や仕事帰りに、ただ数歩繰り出すだけでノックできる扉の存在は、タイに暮らし始めて1年目の僕にはありがたかった。
二人のうちの一人が、ある日突然髪を真っ黒にして現れた。
でも、僕が目を剥いたのはそんなことではない。
肩までだった髪が、一夜にしてロングになっていた違和感は、まさに「アメイジング・タイランド」(当時のタイ観光用の標語)そのものだった。
まったくわけのわからないことだらけだ。
訊けば、「接着剤でつけてある」という。
本当だ!
大雑把な印象ではあるけど、近くで見るとたしかに、数本の髪を束にしてエクステンションを継ぎ足したように、糊のようにも見えるものでつけてある。
「何でこんなことを?」
その答えは、まったく僕の質問を無視しているように聴こえて、実は事の本質へのダイレクトな導入だった。
「私、日本に行くことになった」
しかも、明日ドンムアンから成田へ出発だという。
もうなにがなんだか、頭がぐるぐるしてくる。
翌日――彼女がタイから去った日、もう一人の「友達」と、今や彼女だけのものとなった部屋で、僕らはけっこうビールを飲んだ。
酔いも手伝って、彼女からいろんな話が飛び出てくる。
「お客さんの中にブローカーがいて、あの子はその斡旋で、日本の店で働くことになったんだよね」
吹き出しそうになった。
「日本に結婚相手ができた。あなたのことは好きだけど、あなたは私のことを女として好きではないから。ただ、相手は仕事があってタイには来られない。私が日本人に扮装して行かなきゃならない。ロングの黒髪にしたのは日本人の女の子がそうだから」というのが、前日に、日本へと飛び去った「友達」から僕が聞いた話だった。
あまりに無理があるので、じつは僕はブローカーの手引きではないかと、「友達」が語るのとまったく同じ筋書きを思い描いていた。
吹き出しそうになったのは、そこだ。
しかし、その先のストーリー展開は、まったく頭になかった。
「あの子、その予行演習のために、あなたに近づいたんだよ」
そうか!
だから、彼女の話題のほとんどは「日本はどんなところ?」だったのか!
「……」
客が去ったあとのピエロのような気分が、胸に広がってくる。
「友達」だと思っていた彼女たちに「はめられた」、そんな気持ちしかなかった。
それでも、怒りはまったくなかった。
むしろ、そんな話を肴にビールの杯を重ねる彼女の部屋が、妙にタイらしく感じられて、「ああ、俺は今、日本で夢にまで見たタイにいるんだなぁ」と胸の奥で独りごちていた。
「でもね、あの子、あなたのこと好きだったのは本当だと思うよ」彼女が言った。
「…」
「あの子が日本へ行くはずだったのは、本当は2か月前のこと。ブローカーには「待って」と言って日を伸ばしてもらってた。あなたと二人で会うときは、絶対に連絡をすることって言われてたんだよ。覚えてない?」
そう言われれば、うん、そうだ、二人を逆にして思い出すと、日本へ行った「友達」が、今ここで一緒に飲んでいる「友達」に電話している記憶は一つもないのに、言われたとおりの記憶ならいくらでも出てくる。
「タイでは女の方から『好きだ』って絶対に言わないから。あなた、そのこと、知ってた?」
知らなかった。
まったくもって、僕はじつに何も知らなかったのだった。
いろんな意味あいにおいて。
一人では家賃を払えないからと、残された方の「友達」は1週間ほどで、アパートを出ていった。
引っ越しを手伝おうかと言うと、「新しい『パパ』の用意してくれたコンドミニアムに移るから、ばれたらやばいでしょ」とのことである。
降って湧いた僕らの縁は、そっくりそのまま対称図形になったかのように瞬間で蒸発した。
それから2週間くらいだろうか、部屋の廊下を通りかかるとつい、彼女たちがいた部屋の扉をちらっと見ていたが、新しい入居者が決まったらしい頃から、また僕はそれまでのように、仕事が終わった深夜、目的も何もなく、ただタイに触れたい、タイの空気を思い切り吸いたい一心で、会社から借りた車を一人でマハーチャイやパタヤーまで走らせたり、休日には繁華街をウロウロしたり、カメラを持って旧市街を練り歩いたりの日々に浸るようになった。
あれから15年経つ。
今では、彼女たちが「客はオヤジばっかり」と言っていた、まさにその年齢になった。
今ならわかる。
あんな、重みのない「友達」関係でも、やっぱり意味があったんだということを。
こうしてHPに綴るような機会でもないかぎり、正直なところ、彼女たちのことを2015年の今、日常生活で思い出すことはまずない。
でも、彼女たちのことをこのように文章にしてみて、そんなことは2000年のバンコクだったから起こり得たことだったんだなと、強いノスタルジーに打たれる。
その頃、「地球の歩き方」でハイソな地域だと紹介されているような場所でも、細いソイでは若い女性でさえパジャマ姿でミニ・マートや屋台に買い出しにやってきて、僕ら日本人は目のやり場に困ったものだが、そういうタイらしいのんびりした雰囲気を、バンコクはまだ残していた。
僕は、バンコクを定点観測していくつもりだということを、このHPの他所に書いた。
彼女たちとの出会いもまた、この15年でずいぶん別の街に変貌を遂げた2015年の定点から眺めると、鮮やかに輝いて見える。
東〜東南アジアの街というのは、日本も含めてどこでも同じような方向へと「発展」していく。
近代化を絵に描いたようなその姿は、お互いに驚くほど似た顔をしている。
それでもまだ、僕はあの頃のタイの記憶を持っている。
バンコクのタイらしさを教えてもらった、喜怒哀楽すべてのレヴェルが振り切りそうになるくらいの日々の記憶を。
バンコクのトランプ詐欺師 2014年10月14日(火)記 ※ 写真はイメージです
〜今回は、タイに初めてやってきたときに遭遇したトランプ詐欺師たちの思い出を「散歩」してみたいと思います〜
時は1998年、バンコクきっての巨大ショッピング・センターワールド・トレード・センター(現セントラル・ワールド・チッドロム)で一幕が開いた。
ショッピング・センター前の広場で「ローズ・ガーデンに行くバスが何番で、どこから出るか知ってますか?」と、流暢な英語で声を掛けてきた女性とその「弟」は、「シンガポールから来たんだけど、タイ人には英語が通じなくて…」と、当時僕も抱いていた感想を代弁するように漏らした。
ガイドブックで調べて分かったことを伝えると、ほっとしたような顔で「よかった。明日ほかの友達と合流して、案内してあげなきゃならなかったから、これで安心できました。ありがとう。ほっとしたらお腹が減ってきたわ」と女は言った。
ほどなくして僕は、その二人とともにタクシーに揺られていた。
僕が日本人だということを確かめると、「私たちの叔父が日本人大好きなの。もしよかったら、少しの時間でいいから叔父に会ってあげてくれませんか? 昼ご飯をご馳走しますから」と「姉」に言われた僕は、躊躇しながらも、話に乗ってみることにした。
旅先で迷うのは、危険に巻き込まれないように上げたガードをどこまで緩めていいかということだ。
注意はするに越したことはない。
けれども、ガードを上げ過ぎてしまうと、せっかくの一人旅で、日本では起こりえない人々との旅先での出会いが最大限起こりやすい状況を用意してあるメリットが活かされなくなる。
今日のこの後の予定を訊かれた僕は、「航空会社のデスクを訪ねないと、今日のフライトで日本に帰らなくちゃならなくなるんだけど、その間だけなら」と、タクシーに乗り込んだのだった。
実際は、帰り便の予定はあと1ヶ月後だったが、自分の自由を確保するため、小さな嘘をついてみた。
一人旅だと、一度歓待された集団のペースに飲み込まれて、なかなかそこを離れられなくなるようなケースが多いので、僕はひとり旅を満喫するための保険をかけたつもりだった。
でも、シートの横に座っている女性はなかなかの美人だし、「弟」も含めて人もよさそうだ。
これまでのところ、バンコクでは親しく話したと思える人間は数えるほどしかいなかった。
その一方で、僕はタイに降り立つ直前まで滞在していた台湾で、あちこちで「日本人ですか?」と声を掛けられ、日本では信じられないほど浴びるような歓待を受け、素晴らしい思い出をいくつもいくつももらっていた。
これからバンコクのどんな思い出が増えるのだろうと、心は弾む一方だった。
あとから思えば、そこはピンクラォと呼ばれる地域だったはずだ。
タクシーの車内で僕は「ここはどこなんだろう?」と尋ねてみた。
彼女はなぜか言いにくそうに、小声で「ドゥシット」と短く答えた。
あとから思えば、たぶんタクシー・ドライバーに余計な詮索をされたり、横槍を入れられたりしたくなかったからだろう。
初めてのタイ旅行で、まだ地図の上でしか知らない場所がほとんどだった僕は、そのことを深く心には留めなかった。
ただ、ぼんやりと「ワールド・トレード・センターからドゥシットに行くのに、こんな大きな川を越えるようなルートがあったっけ?」と思ったが、その地図の記憶にしてもほとんどうろ覚えだった。
ほどなくタクシーを降りて案内されたのは、安普請のアパートの一室。
部屋にはベッドとクローゼット・鏡台・丸テーブルのほかにはほとんど何もなく、がらんとした寂しい印象である。
「叔父」は人懐こい笑顔を浮かべ、僕に握手を求めた。
女は「このアパートの大家は叔父なの」と言う。
ホントかな?
いくら安アパートとはいっても、大家たる者がこんなにも物のないうらぶれた部屋で暮らさざるを得ないものなのだろうか?
それに第一、僕たちが階下からアパートに入るときにも、入り口にいたガードマンらしき人は「大家の親戚」に挨拶すらしなかった。
それともあるいは、私服だった彼は、ただの住民だったのだろうか?
少しずつ、僕は本当にこの場にいていいのだろうかという疑念が湧く。
しかし、どこかの屋台から買ってきたような鶏肉の煮つけのせご飯を用意してくれた「叔父」も女も、時間がたつのを忘れさせてくれるようなひと時を提供してくれている。
こんなに和やかな雰囲気を味わうのは、バンコクでは初めてのことだ。
しかし、昼下がりのそんな温かな風景は長続きしなかった。
ごちそうになったしばらくのち、「叔父」が普段はマレーシアのキャメロット・ハイランドでトランプのディーラーを仕事としているという話が出てきてから、舞台暗転の第二幕が開いた。
僕の警戒ガードが上がっていくのが肌身で分かる。
ディーラーを装う男が旅行客にいかさまトランプ試合を持ちかけて、最初は大いに勝たせておいて、最後の大勝負で一気にどん底に陥れるという手口は、様々な旅行ガイドブックで紹介されている有名なケースだからだ。
最初はそれでも「いや、まだ完全にそうと決まったわけではない」と自分をなだめていたが、事態は急斜面を滑降するように展開していった。
「叔父」が「絶対他人に口外しちゃだめだよ」と、ブラックジャックでのいかさまの手口を紹介し始めた。
空いている方の彼の手のサインが、次の一手をどう張ればいいかを教えてくれるという、至極素朴な手だ。
「姉」はしきりと「心配しなくていいのよ、悪いことをしているわけではないんだから」と合いの手を入れるが、「叔父」のいかさま説明を含め、僕が二の句を告げないようなテンポで進んでいく。
そうか、「弟」が階上には上がらず「僕はアパートの庭でバスケのシュート練習しているよ」と言った理由もわかった。
彼はカモの逃亡見張り役なのだ。
「これはまずい」と気がついても、気の弱い日本人旅行者はここで降りるわけにはなかなかいかないだろう。
遠慮しているうちに、もはや逃れることができない状況に陥ってしまうのは目に見えている。
いや、もう僕はすでに術中にすっぽりはまってしまっている。
やはり状況はガイドブックの記す方向へアクセルべた踏みで疾走していく。
「今日、同じこのアパートに、私の弟子になりたいと言っているディーラーのたまごがいる。でも、私はこの男がどうも好きになれなくてね。お金に卑しいんだ。だから、さっき教えた手を使って、彼をハメてみないか。姪のことは、君の恋人だと彼には紹介しておこう。その方が彼も怪しまないだろう。もうすぐ彼がここを訪ねてくるはずだ」
その言葉が終わったか終わりきらないかのタイミングで、ドアがノックされた。
もはやスピーディーな展開一辺倒で、自然な成り行きムードを醸し出そうという感じではない。
息をつかせない落としどころなのに違いない。
いい体格をした色の黒い長身の男が、ドアを開けて入ってきた。
「叔父」が僕と「姉=僕の恋人」、そして「弟子」の紹介をひととおり済ませたところで、出し抜けに「二人でブラックジャックをしてみないか?」と先を急いだ。
"Nice to meet you."
遅ればせながら彼は握手を求め、僕は満面の笑みでそれに答えた。
それは、日本人特有の困った場面での愛想笑いではない。
とち狂ったわけでもない。
チャンスはここしかないのだ。
一度ゲームの席についてしまえば、完全に退路を断つことになってしまう。
何でもいい、とにかくあがいてみるしかない。
「はじめまして。せっかくあなたに会えたし、こうして皆さんにも会えたのですが、僕にはもう時間がありません」
男は怪訝な表情を浮かべた。
「叔父」や「姉」の表情も確かめたいが、そんなことをしている余裕はない。
今度は僕が事態を急滑降させる番なのだ。
「僕は今日の夜のフライトで日本に帰るチケットを持っていますが、日にちを先に変更して、もう少しタイにいるつもりです。でも、航空会社のオフィスが閉まってしまったらそれで時間切れになります。ゲームはその手続きを終わらせてからでもできますが、予約変更にはもう時間がないんです。ねえ、渋滞も怖いし、時間はもうやばいよね?」
僕は「姉」の方を振り返った。
彼女は僕の「恋人」なのだから、その予定を知らないとなると話がおかしくなるうえ、実際に彼女と出会ったときにそのことは伝えてある。
「姉」の表情が僕を勇気づけた。
口ごもったままひきつった表情を隠しきることができないでいる彼女の姿が、形勢逆転の成功を物語っていた。
そうか、この状況だと、プレイヤー全員に公平であるべき「ディーラー」が僕を引き留めることも不自然でできない。
それに、出会ったばかりの長身の男が僕を引き留めようとするにも限界がある。
続けざまに、僕は口を開いた。
「素敵な時間をありがとう。僕はとても楽しかったです。でも、もう行かなきゃ。僕のガールフレンドが、僕の代わりにブラックジャックをするなら、それでもかまいませんよ。君、やる? 女だし、ギャンブルは好きじゃないかな? でも、ここでみんなともう少し話を楽しんでいけば? フライトの変更ができたらまた連絡するよ。じゃ、皆さん、僕は行きますね。Have a nice time.」
笑顔を絶やさないように努めながら、けむに巻かれた顔つきの彼らに手を振ってドアの外に出た。
最後に「姉」が「少しくらいカードゲームをやっていったら?」と背後から声を掛けたが、「時間がないんだ。わかるだろ?」と少しだけ眉間にしわを寄せ、「また電話するから」の一言を残し、扉を閉めた。
フライト変更という「保険」をかけておいて本当によかった!
夕暮れにさしかかろうかという時刻、外の光のあまり入ってこない暗い廊下で、虎穴に入って無事に出てこられた幸運を噛みしめる。
階下では「弟」が僕を待っていた。
「シュート練習はしないの?」と僕は軽口をたたいた。
「もう終わったんだ。疲れちゃって。…今日は楽しんでくれた? そこまで見送るよ」
一刻も早く一人になりたかったが、へんに焦ると話がややこしくなってしまうかもしれない。
「タクシー代、出そうか?」と親切なことを言ってくれる「弟」を尻目に、「いや、いいよ、ありがとう」と流しのタクシーに乗り込んだ。
待ちわびていたように、そこで一気に冷や汗が噴き出した。
それにしても、よくあれだけ英語が話せたものだ。
危急存亡状態のとき、脳がフル回転するというのは、つくづく本当のことなんだな。
それにしても、僕が部屋を出ていこうとしたとき、よくみんなに囲まれて恐い思いをせずに済んだものだ。
たしかにあの建てつけが悪いアパートで大声をあげられたら、彼らもまずいことにはなったのだろうけれど。
ついさっきまでの風景が何度もフラッシュバックし、僕は何度も何度も冷や汗をぬぐい続けた。
乗っていたタクシーも、もしかすると流しに見えて彼らの手先かもしれない。
繁華街で乗り捨てて、少し歩いたところで拾った別のタクシーで宿に戻り、シャワーも浴びずにベッドに倒れこんだ。
こうして、僕はひょんなことから結果的に、バンコクのトランプ詐欺師から昼食をせしめることに成功してしまったのだった。
ワット・パークナーム 2014年3月19日(水)
1999年のその頃、そこにはBTS路線どころか、今ではいかにもわが街顔でその下を走っている道路もまだ工事中だった。
子どもたちが戯れる夕暮れ時を、あくびしながら物憂げに眺めている野良犬が、工夫の帰ったあとのその場所の主たちだった。
ラーチャプアックという名の通りにBTSが走るようになってちょっとした感慨があったのは、そのすぐそばに、短い間だったけど僕がこのタイで初めて住んだアパートがあるからだ。
まだデジタルの幕が開く前、フィルムをDPEに出すと、名を名乗ってもいないのに引換書の氏名欄に記されたタイ文字を辞書で調べてみたら「日本」とあった。
その頃、ウォンウィエン・ヤイ周辺は日本人にとって――いや、おそらくバンコクっ子にとっても実際の距離以上に遠い「向こう側」だった。
そして気がつけば、やはり僕にとってもあの場所は遠い「向こう側」になってしまっていた。
ウォンウィエン・ヤイまでのBTS路線開通に先駆けて、その周辺に引っ越そうかと物件を探したこともあったが、肝心の開通以来ご無沙汰していたら、もうその先のバーン・ワーまですでに路線は伸びている。
これまで何度も「今日は行ってみよう」と思いながらも、なんだかんだと日伸ばしになってしまっていた。
そうして、妻が裁縫を習い始めて身の空いたとある休日、ようやく僕はBTSでチャオプラヤー川を越えた。
午後3時、バーン・ワー駅はやはり暑季の日照にうだっている。
この駅の頭上で立体交差するMRTの橋脚工事が進んでいるうえ、この駅の周辺は各方面からの道路網が巡らされているため、駅でも物音に包まれているはずだが、乗降客の少なさと駅の真新しさと陽炎が出そうな暑さのせいで、真空パックされたように静寂に浸されているという印象しか持てない。
駅を降りてみても、ぐるりと回った周辺の風景に、取り立てて親しみも持てない。
高架道路や大きな幹線道路が庶民的な家屋を押しやっていく、アンバランスな断層が目立つばかりだ。
取り立ててランドマークとなるもののない場所への訪問には、当然こうしたハズレくじはつきもの。
……いや、もしかするとそれは体力のなさを含め、この暑さについていけない自分のせいかもしれない。
それに、近い将来、今僕が目にしているアンバランスささえ懐かしく回想する日がきっと来るのだから、この風景を見ておくことで良しとすべきではないか。
ここへ来るときにも、BTS沿線で2つほど用事を済ませてからやって来た。
このあとも別の駅で降りて別件にあたるつもりだ。
バーン・ワーから出るがらんとした電車が出るまで、またバンコク中心部に戻る以外の選択肢はなかった。
しかし、次のウィスカサット駅で僕は降りていた。
階段を降りようとせず、ホームから遠景を眺めている僕に、ホームにいた若い駅員が声を掛けた。
僕は彼に尋ねた。
「あの白い仏塔に行く最寄駅はここですか?」
タラート・プルー駅からバーン・ワー駅まで、BTS路線はぐるりと曲線を描いているが、その中心あたりにこの仏塔は位置していた。
それがバーン・ワー訪問の中で最も印象に残る風景である。
キンキンに冷えたBTS車内は相当に魅力があったが、せっかくここまで来て、思い出に残る風景が少なすぎるのはさびしいものだ。
いつまたここを訪れるのかもしれず、どうせなら街をもう少し散策してみよう。
あそこまで大きな仏塔がある寺が存在するということは、きっと周辺は古くからの街並みに違いない。
レシーバーで周囲の地理に詳しい職員に連絡を取ってくれた係官は、「ここが最寄駅です。アクセスはバイク・タクシーが一番便利だそうです。あのお寺の名前は『ワット・パークナーム』です」と非常に丁寧に教えてくれた。
その名前には聞き覚えがある。
たしか各国からの修行者を受け入れている大きな寺院のはずだ。
T字路にたむろしていたバイク・タクシーに跨り、30バーツで仏塔のすぐそばまで連れて行ってくれた。
道中は思ったとおり、王宮周辺の旧市街だといわれてもさもありなんな街並みを抜けてゆく。
また、ワット・パークナームの僧坊から境内へと続く細道は、さながらチベットの雰囲気である。
時間軸が揺れ、やにわにバンコクという日常生活に繋がれた片足の鎖がほどける音を聞いた。
バイク・タクシーのお兄ちゃんは母親らしき人と小さな子ども二人を後部座席に、どこかへ去っていった。
それにしても、古さと新しさの混在したお寺だ。
僧坊やいくつかの建物は年季が入っているが、仏塔とその周辺施設はすこぶるぴかぴかである。
仏塔の下で靴を脱いで階上の入り口へ。
2階はおそらく催し物ができるようになっている、がらんとしたスペースだが、赤色と金色がほの暗いなかで静寂に包まれたさまに、雅という言葉が重なって見える。
3階は仏教博物館のようになっており、仏像や経典らしきものや玉が、感じのいい木枠のガラスケースに陳列されてずらりと並んでいる。
その謂れや意味合いの分かる人にはこたえられない場所だろう。
4階には金色の高僧の像が何体も並び、祈りを捧げる参拝客もいれば、ずっと後ろの壁際で瞑想に勤しんでいるワイシャツのサラリーマン風の男性も数人いる。
圧巻は、訪問客が訪れることのできる最上階である5階にあった。
ここは中心が半円ドーム状になっており、そこに細密画が描かれている。
その下には透明な緑色の仏塔が据えられ、内部からの光でところどころ輝いている。
見応えのあるスケールも一因だが、なにより声を失うのは、そこに仏教世界の小宇宙をひしと感じることができるからだ。
緑の仏塔の先には太陽らしきものがあり、その周縁には夜のしじまがある。
さらにその下には何体もの仏がこの世界を支えている。
緑の仏塔はこのドームの下で、太陽を目指して伸びようとするようだ。
最上階であるここには、この世に生を受けた人間を意味するもののない、神の宇宙である。
そしてこの階下には高僧が、その下に人の営為の証が、さらにその下に仏教世界への入り口があり、われわれが暮らす日常世界はさらにその下の、白い大きな仏塔の台座たる大地にある。
仏教に対する信心が特別にあるわけでもない僕だが、しばし仏教宇宙の美しさに言葉を失くしたままでいた。
すっかりこのお寺が好きなった僕は、5階テラスの日影で風に吹かれながら、ふと気がついた。
僕らはこういう場所をこそ失いつつあるのだ。
日本の繁華街には無料で人が座れる場所があまりにも少ない。
カフェやレストランで人々がお金を落としていくのを待っているからだ。
もちろんそこにはそれなりの価値はある。
しかし、街をまるごと一つの共同体として眺めるとき、僕らが骨休めとして与えられている場所に対価が必要だというさびしい事実に、僕らはあまりにも慣れきっている。
かといって街の無料スペースを設けたとして、そこに人々は本当に集うのだろうか?
あるいは、集った人々は見知らぬ間柄でもお互いに目が合うと微笑み、機会があれば知り合うことができるのだろうか?
ビルマのヤンゴンを訪れたとき、寺で束の間の逢瀬に胸をときめかせている恋人や、ギターを片手に語らう男の子たちを見かけた。
寺院は有機的な老若男女のフリー・スペースであり、また、個人としての祈りを捧げ、瞑想によって自身と向き合うこともできるパブリック・スペースでもある。
そのときの懐具合に合わせて献花したり寄付したり、お清めを受けたりすることもできる。
そして誰にも開かれており、尊敬を集める神聖な場所でもある。
些末な話で申し訳ないが、物を盗まれる可能性が相当に少ないのも寺院である。
今世での諸悪を贖い、来世への希望を夢見るこの場所で積極的に不義をはたらく愚か者は、この限りなく開かれたコミュニティーへの参加権利を失しているからだ。
しかし、無信仰がベースとなっている今の日本はおろか、一大仏教国であるタイでも、年々若者たちは信心の方向をを宗教から物欲へと移行している。
もちろんそれはさびしいことだが、まだ仏教が生活の中に息づいているこの時代に生をうけ、タイに暮らすことができていることは、もっともっとのちの世代として生まれた身になって考えてみれば、素敵な体験であるともいえよう。
止まらない汗にのどを潤そう。
再び降り立った大きな白い仏塔の下、つまり俗世界に舞い戻った。
猛暑の大阪歩き 2013年8月12日(月)〜18日(日)
暑さ体験型テーマパークに行くぐらいの心づもりで、2013年夏の日本に帰省した。
機内から関西空港のボーディング・ブリッジに出た瞬間、東南アジア諸国の最も暑い時期に感じたレヴェルの熱気の塊に、これは熱中症で倒れる人が続出するのも当然だと肌で感じる。
実際、某所で買い物を済ませて出口に差し掛かったとき、外から入ってきた中学生くらいの女の子が目の前で倒れて、慌てて「救急車、呼ぼうか?」と声を掛けたりもした一幕もあった。
しかし、周囲の人々はほとんど動じず、実に冷静な対応。
「テーマパーク」にやってきた観光客ではなく、この猛暑の中で現実に向き合って暮らしている人々には、この程度のことならこれまでにも何度も見てきた、あるいは自分自身もそうなった経験がある、ということなのかもしれない。
気象に関する話題は実際、体験してみないとその感覚がなかなか伴わず、表面だけの話に上滑りしがち。
タイの暑さについて、これまで自身が何度も日本の人々に感じたことだ。
「さぞ暑いんだろうね」というその一言で完結していく、あの感じ。
それをまさか日本の猛暑に対して、ほかでもない自分自身がやってしまうとは。
大阪の街中を歩いていて、いくつも頭をよぎることがある。
日本の夏が暑いと感じるのには、ほかにも原因があるのだ。
その1:自家用車がない場合、移動手段に徒歩が非常に多い
バンコクのタクシーは非常に安い。
初乗りが35バーツ(100円強)で、そこから4キロメートルごとに2バーツ加算されていく。
今の東京の一般タクシー初乗り料金である710円でどこまで乗れるかというと、バンコクでは100キロメートルをほんのわずか上回る距離になるのだ。
実際にはバンコクから100キロ先までの乗車なら、帰りの運賃も請求されるような交渉制に切り替わるので、現実的な話ではないが、話は「いかにバンコクのタクシーが安いか」ということ。
だから、どこかへでき開けるとなると、ひょいとタクシーに乗り込むだけで済んでしまう。
それに、タクシーの台数も相当多いので、利用には事欠かない。
また、駅やバス停で降りると、ほとんどの場合、近くにバイク・タクシーがいる。
これまたひょいとまたがれば、目的地の目の前まで運んでくれる。
徒歩にかける距離は相当に節約される寸法になっているのだ。
その2:弱冷の場所が多い
エコ、あるいは長時間利用でも快適なように、健康に良いなどといった理由だろうが、日本では公共交通機関やショッピング・センターなどでは弱冷が一般である。
しかし当然のことながら、徒歩で暑い中を歩いてきた身としては、弱冷ではしばらく汗も止まらない。
その点バンコクでは「冷やしてこそサーヴィス」なので、施設内に入ったら一気に冷やしてくれる。
当初は「いくらなんでも寒いだろう?」と心の中でつっこんでいたが、今ではバンコク・サーヴィスに慣れきってしまって、日本の冷房は暑いのだ。
その3:日影が少ない
バンコク中心部のうっとおしいところに、歩道があまり整備されていないことがある。
車優先社会のタイでは、歩道に関心が払われることがほとんどない。
よって、多くの歩道も狭く、多少広い場所でもそのスペース分だけ屋台が並んでいたりして、すいすい歩くことが難しい。
そんなバンコクだからこそ、実は歩行者が歩く場所が日影になっていることが多いのだ。
歩道が狭いということは建物のすぐ横を歩くことになり、その陰に入っていることが多かったり、屋台の軒下が影になっていたり。
直射日光を浴びる時間が、歩道もその視界もスコーンと開けた日本に比べて少ない。
そんなわけで、今年の日本の夏は、タイ暮らしの男にとっても舌を巻く散歩を提供してくれたのだった。
少し歩いてみるか −スクンヴィット・ソイ22 2012年12月24日(月)
夜の花売り屋台で写真を取っていると、店のおじさんがポーズを取り始めた。
何枚か彼を撮ってみると、今度は路上に並べた植木鉢を押しのけてくぼみを作り、その間に潜り込むように、彼はべたっと座る。
「なんだ?」道行く人は訝しげな目を向けている。
他の売り子たちをちらっと確認してみると、「またやってるよ…」的な軽い苦笑を口元に泳がせている。
その一枚で切り上げようとすると、呂律の回っていないおじさんは「明日写真を持ってきてくれ」とせがみだした。
「明日は仕事なんで、またここを通ったときにね」と伝えると、「1週間以内に持って来なさい」と、今度はなんだか居丈高である。
他の売り子たちの口元がまた得も言われぬ角度に軽く歪む。
妻が初めて帰省した。
簡単に帰省といっても、彼女の里はビルマのシャン州の中央部である。
外国人である僕なら、陸路では入郷許可の下りない場所だ。
軍の検問が何か所もあり、突発的な内戦も、兵士による理不尽な殺人・暴行・強奪・連行・強制労働なども起きている。
数日前にはこのあたり一帯に地震もあった。
同行している叔母は彼女と殆ど年齢が違わないのでさほど頼りになるわけでもないし、そもそも、妻から聞いたところ、タイ人の旦那の元にもう帰るつもりがないような不安定なことを言っているありさまで、しかも体調不良である。
国境の街メー・サーイで合流する少年僧2人は身分証明書もお金も持っていないと聞いている。
その2人を幇助した罪に問われないとも限らない。
これで不安にならない方がおかしい。
しかし、僕には仕事があるうえ、ついていけたとしても僕だけはミャンマー政府軍の検問所のどこかで追い返されることになる可能性が非常に高い。
同行することは、たぶん足手纏いになるだけだ。
しかも、妻の帰省は約1か月に及ぶ予定。
行き帰りだけをピンポイントに道中を完全同行できたとしても、いったんシャン州の奥に踏み込んだら、次に何日の何時に出られるのかという正確な保証はどこにもない。
黙って笑顔でバス・ターミナルまで見送ってやるのが関の山なのである。
妻がいなくなったワン・ルームの僕の部屋は、これまでに見たことがないくらいがらんとして静寂に包まれていた。
もはや独身時代の静けさよりもはるかに濃厚なひっそり閑とした風情である。
いかん、そんなことを考えても、事態が少しでも好転するわけではない。
できるかぎりのことをやって、あとは天命を待つよりほかないことは、ほかならぬ自分自身が一番よく分かっているはずだ。
だいいち、妻が長期の帰省したからという、そんなことでくよくよしている自分が限りなく情けない。
ただ、国境を無事に越えたという電話が入ったのちに、音信が途絶えた。
シャン州にはビルマ国内の携帯電話の電波はないので、郷里の村に近い町に到着するまでは連絡が入らないことは了解していた。
だが、いくらなんでも1日車に揺られた次の日の昼、つまり、この日には連絡がなければ、ちょっとおかしい。
最悪の事態が頭をよぎる。
いかん、いかん、やっぱり呪文のようにまた唱えるしかない。
日本人御用達のフジ・スーパー1号店のあるスクンヴィット33/1で用事を済ませると、何もすることがなくなった。
じゃあ、食事処までちょっと歩いてみようか。
花売りのおじさんの元を逃れ、ソイ33の入り口に立つ。
日本から2度目のタイ旅行でバンコクに滞在していたとき、散髪するのにわざわざタクシーに乗って訪れたのが、僕にとって初めてのスクンヴィット・ソイ33だった。
このソイに日本人御用達の店が並んでいると聞き、それなら日系の美容室もあるのではないかと推測したからだった。
実際はフジ・スーパー1のあるソイ33/1を指していたのだがそうとも知らず、タクシーを止めた近くにいた女性に散髪屋はないかと尋ね、「散髪が終わったら一杯でいいからうちの店にビールを飲みに来ること」という約束をさせられて、すぐそばの店に案内してもらった。
タイ人スタッフしかいないその店で「かっこよくして」とだけ言ってカットしてもらったら、実に中華系タイ人スタイルになっていた。
そして、女性の勤めるバーで約束どおり一杯だけ、昼からビールを流し込んだ僕は、彼女からこの一帯が女性の接待があるバーの並ぶエリアであることを教わったのだった。
今日もソイの向こうに色とりどりのネオンが輝き、欲望と金銭のにおいが漂ってくる。
それらは、今僕が立っている地点からは必要以上に遠く見えた。
妻が心配で気を紛らわせるために短い散歩を始めた僕に、バカ笑いと香水と官能の世界は、あまりにも遠かった。
スクンヴィットを横断し、しばらくの間、シャッターを下ろしたままの暗がりの歩道を歩く。
薄暗さに、来たばかりの頃のバンコクが重なって見える。
BTS開通前夜のバンコクは、たしかにこんな闇を持っていたはずだ。
恐くもなく寂れたふうでもなく、ただ都会の暗がりがそこに転がっているというだけの闇が。
ソイ22に近づくと、光も迫ってきた。
ただ、この角はいま大きなホテルの建設中で、まだネオンに包まれてはいない。
ここには以前"Flyer"という名のバーがあり、その前はたしかプール・バーだった。
どちらにも入ったことはないが、大きなガラスから店内が覗けた。
その頃までの僕は、この街のいろんなものを見て、触れて、まだ知らない可能性の扉を開けることに、言い知れぬ好奇心を抱いていた。
守るべきものをできるだけ抱えないことが清々しく感ぜられた時期。
でも、その扉の大半を開けることもなく、扉そのものがこの10年で2度も違う形のものに取って代わられた。
そこかしこに槌音をあげて脱皮を図るアジアの都市は、「タフでなければ生き残れない」と咆哮している。
この路上に並んだ屋台でおなじみのテーブルに、似つかわしくないかわいらしいキャンドル・ランプが柔らかに揺れていた。
その様子を写真に撮っていると、店の女性が英語で何か言う。
訊き返してみると、「『写真代』って言ったんだけどね。冗談、冗談!」と彼女は、タイミングを完全に逸した僕の受け答えに少し決まりが悪そうである。
「花を売っているの?」近くでけっこうな量の花を花瓶に生けている女性がいるのを見ながら尋ねてみると、屋台バーだということだ。
もうあの頃のように酒は飲まないが、「座っていきますか?」という彼女にはあくどそうなところがまったく感じられないので、ペプシだけならと注文して腰を下ろした。
彼女はコーンケーンからバンコクに来て10年になり、いま38歳だという。
バンコクに10年というのは僕とけっこう似た長さで、こういう話が出るとお互いに少し親近感が沸く。
「バンコクをどう思う?」
「うーん、もう長いからなんとも思わないけど、最初はうるさい街だなぁと思ってた」
ある程度タイ語を話せるようになると、会話は至極落ち着いたものになる。
タイ初心者マークの人が店にやってくると、それだけで店の人たちも自然に舞い上がり、そこが客にとっても楽しくて、つい財布の紐が緩むという、うまくできた商売になりやすい。
タイ人の多くは、どこまでも職業にアマチュアリズムを持ち込むことによって、職業と生活を同じ基盤で乗り切っていこうとする。
しかし、僕のような人間は、彼女たちをどこへも連れて行かない。
あくまでタイの日常を浮かび上がらせ、自分を素顔にさせる。
その流儀に浴することのできるようになった僕は、タイにやっと片足を入れることができるようになったのかもしれない。
それでも、タイ人客に見せる接客とも明らかに違い、もう片足はやっぱりタイの中に収めることができない。
世間話が始まってすぐやって来た、「結婚してる?」という質問に、僕は生まれて初めて「結婚してるよ」と答えた。
どこかくすぐったいような気持ちも感じながら、妻帯者なんだという返答をすると、その後本当に気楽に楽しく女性と話ができることに驚いた。
タイ人が持っている人の垣根はごく低い。
どこかの店の店員さんであろうが、道を訪ねた通りすがりの人であろうが、何気ない会話になることも、日本では考えられないくらいに多い。
30分も話しこめばもう立派な「友達」の誕生である。
男女を問わず、相手の年齢や携帯電話の番号交換まで、初対面でも話がはずめば非常に気軽なやり取りがなされている。
ただし、相手が妙齢の女性である場合、やはりそこには少し緊張したある一線が引かれている。
そこに「結婚している」という一言を加えると、こうもリラックスした空気が流れるものなのか。
妻がタイヤイ族であるという話も当然出たが、彼女は遅れて出勤してきた女性たちに僕を紹介する際、「ビルマ人の奥さんがいるそうだよ」と添えていた。
この「ビルマ人」というのが、僕にはピンとこない。
高野秀行氏は著書「ミャンマーの柳生一族」で、少数民族との内戦も絶えなかったビルマを、江戸時代の日本になぞらえているが、これは当意即妙である。
おそらく江戸時代には、江戸に住む者と薩摩に住む者がお互いを「同じ日本人である」というより、よその国の者とイメージしたことと似たような風景が、ビルマという国にはたくさんある。
実際、妻がこの世で最も嫌いな民族は、おそらくビルマ族である。
ビルマに住むタイヤイ族の多くが様々な悲劇的被害を被っており、そのことについては世界的にも知られている。
それとは真逆に、民族的に兄弟と言っていい関係であるタイ王国に対して、タイヤイ族は非常に親近感を持っている。
そんなことを日本にいる母親に説明してもなかなか分かってもらえないのは仕方のないことだ。
だが、彼女の(そしておそらく一般的タイ人の)意識の中で、「ビルマ国から来た人」=「ビルマ人」なのだということを知り、複雑な気分になった。
そんなことを言いながら、実際に僕はこれまで沖縄やアイヌの人々が「日本人」と呼ばれるときの気持ちを真剣に想像したことがあっただろうか、と反省もする。
結局店の女性みんなにビールを出して、お会計は600バーツ。
クリスマスのバンコクは、到着の遅すぎる涼しい季節の真っ只中にあった。
歩を進めたスクンヴィット・ソイ22は、僕が初めて来た頃のバンコクの雰囲気を幾分か残している場所である。
ソイ入り口から、日本人客も多い大型ホテル「クイーンズ・パーク」あたりまで、夜の店も多いが、その合い間に飾らないよろず屋が懐かしい雰囲気を醸し出している。
タクシーの車窓に見るたび、漠然とながら、一度歩いてみたいと思っていた(一度くらいはクイーンズ・パークあたりまで歩いたことがあると思うのだが、定かではない)。
実際、ネオンもギラギラしておらず、歩道の明るさに適度な渋みがある。
ニューハーフ・ショーのマンボが移転して、左手に見えるソイの奥が暗くなっていたのが、少し寂しげに見える。
マッサージの店からの客引きからも、ほとんど声がかからない。
在タイ者と旅行者のオーラは、蝋燭の明かりと「夜の街」のネオンサインくらいに違う。
小用にクイーンズ・パークのトイレを借り、また歩き出す。
この先は急に明かりがトーン・ダウンし、物音も少ない、人の普通の暮らしがある居住区のにおいが濃厚になる。
人気のない静寂に包まれた小さな夜の消防署は、模型のようにしか見えない。
その向こうに、独身の頃に行きつけだった小さな料理屋がある。
「わあ、お久しぶりですねえ」
店長の日本語はさらに達者になったようだ。
「そうですよね。結婚したので、なかなか来るチャンスがなくて」
「そうですか。遊びにいってると思われますからね」
店長はおそらく、僕がタイ人女性と結婚したと思っているのだろう。
タイ人女性の多くは、夫の女遊びを防止すべく、定期的な連絡をすべからく強制する。
それが夫を心理的に縛りつけ、疲労感を生み出す元になっていることなどお構いなしに。
でも、僕がこの店に来なくなったのは、僕自身が、独り身の思い出が染みついた場所を好まなくなったからに他ならない。
そんなことは店長には一言も言わないけれど。
久しぶりに聞く店長の声に、独身時代にも感じた温かみが腹の底に広がって、そのとき初めて僕はなぜ散歩の終点がここになったのか腑に落ちたのだった。
散歩に出ていないのは 2012年12月16日(日)
題名のとおり、今年、2012年に当欄に文章を寄せたのは4月の1本だけである。
一本で勝負、というのも潔い感じがしていいものだが、この傾向はしばらく続くかもしれない。
そこで、今回はどうして散歩日記が止まってしまっているのかについて、少し書いてみたい。
結婚するまで、僕の散歩は自身の(お粗末な)空白を埋めるものだった。
タイに旅行して魅入られ、海外生活に入った日本人はきっと少なくない。
その延長線上の気分が散歩にあったことは間違いない。
ただ、仕事を抱えている以上、思い切った日数を旅に費やすわけにはいかないので、日頃は散歩のような形で小出しの旅気分で我慢するほかない。
この我慢、実は悪くない点がある。
我慢している自分が意識できるから、旅に出たいという気持ちをいやがおうにもかきたてられるのだ。
大型連休になったら意気揚々と期間限定の旅行に飛び出せるのも、それが叶わないから散歩で代替しようとするのも、すべては期間を限定しない長旅ができないことからもらえたパワーなのだった。
長旅については、一つ思うことがある。
僕には実際のところ、長旅に不向きなところがある。
遺跡・観光地巡りにあまり興味がないこと、旅行者と積極的に関わりを持とうとしないこと、そのくせ内心寂しがり屋であることだ。
観光地にはオリエンテーリングのポイントとなるような、人を移動させ、何らかの印象を残させる働きがある。
もちろん中国の史実に明るい人が故宮博物院を訪れるようなケースだと、オリエンテーリングとは似ても似つかない求心力があるだろうが、こうなると故宮博物院鑑賞であって、旅ではないように感じる。
多くの一般的な旅行者(僕もその一人だ)にとって、訪問する遺跡や観光地に特別な思いは取り立てて重要なものではなかったりする。
そこへ行って帰ってくる過程で起こってくる様々なできごとや現実の手触りが大切なのであって、その折り返し地点が、誰かが特別な感興を抱けるような場所であれば申し分ない、という側面が強いのではないかと、そう僕は思っている。
遺跡や観光地に興味がないと、つまり、移動に目的がなくなりがちなのだ。
旅行者どうしでの情報交換や単なる世間話から親しみを持つようになった人に、僕も心当たりが何人もいる。
でも、自分から積極的に声をかけてつるみたいとはいまだにどうしても思えない。
もしかすると自分で気がついていないだけで、僕はそうとう人見知りなのかもしれないが、それ以上にはっきりした理由がある。
僕は日常から切り離されたところに身を置きたいから旅に出たいのだ。
日頃の生活からはとうてい見えないリアリティーに触れたい。
だから、できるだけ旅行先に暮らす人と交わりたい。
ところが、独身時代のほとんどの期間を通じて好んだ旅行先は「街」だった。
人が溢れ、混沌とした力が漲っているような場所が大好きだった。
するとたちまち、適当なオリエンテーリング・ポイントはショッピング・センターや市場、街路、果てはかつてのディスコなどになってしまう。
そんなところに現地の人との本格的な出会いを期待する方が間違っている。
想像してみてほしい。
外国人の男が一人、大きなディスコのテーブルで踊ることもできずにただ人々を眺めている姿を。
当然僕のオリエンテーリング・ポイントからの折り返し道は、ことさら寂しいものになる。
さて、独身時代のバンコク周辺散歩は、たしかにこういった条件ではほとんど同じようなものである。
ただ一点だけ、気分がまったく違うところがある。
長期のひとり旅は孤独との折り合いに成否があるとすれば、散歩は孤独そのものに成功のカギがあったことだ。
街でのひとり旅が長く続くと、「自分はこの街に必要な人間ではない。自分はこの街の一部ではない。あくまで異邦人に過ぎない」という意識が強まってくる。
自分に所属がない自由を満喫しながら、所属のなさを寂しがるという、何とも愚かな矛盾の悪循環を肩手に握り込んで日々を送る。
けれど、散歩は短時間のプチ孤独を楽しむことができる。
一人になると、日頃塞がれたままになっていた感受性がふわりと開いて、自分が職場で働いている間に、他の場所ではどんな時間が流れているのかを見届け、忙殺される毎日にあって、そのリアリティーを片時でも思い出して安堵することのできる記憶に繋ぎとめることができる。
勤務という名の茫漠とした現実の空白感を、僕は長らく散歩に埋めてもらってきた。
妻と出会ってから、僕の散歩は思いがけない、まったく別の意味を持つものへと変貌した。
諸欄に何度か書かせていただいたように、ビルマのシャン州からやって来た僕の妻は3年ほど、バンコクで身分証明を何も持たずに暮らした。
警察の検問を受ければ、いつ身柄が拘束されてもおかしくない状況で、しかも証明書取得への道のりは不明瞭極まりない。
いったいいつどのような形で息を潜めた暮らしがハッピーエンドを迎えるのか見当もつかなかった。
それでも人間はそれなりに生きていかなければならない。
ただでさえ出口の見えないトンネル生活の中、彼女が自宅から一歩も出ないで暮らすのは精神衛生上極めて危うい。
ここに、どこが安全かつ彼女が気分転換できる場所なのかを考えながら外出するという、「けっこう真剣な散歩」が誕生した。
まあ、あるいは単にデートということもできてしまうのだけれども。
この期間、僕はディスカヴァー・タイ気分を味わうことになった。
遊園地や公園など、これまでは足が向かなかった場所を経験する絶好の機会になったし、僕としても彼女にバンコクのよさを味わってもらってなんとか里心を癒してもらおうと、目的地のセレクト範囲が大幅に広がった。
特に寺院はこの時期、最も積極的に足を運ぶことになった。
彼女らタイヤイ族はタイ族の多くと同じく、仏教徒である。
行事以外の日でも、日頃の穢れを清め、安息を願ってお寺を訪問することは、彼女たちにとって非常に重要なことだ。
さらに、寺院には警察の影が非常に薄いことがポイントでもある。
彼女との散歩に慣れてきた頃、ちょっとだけ遠出をしてみようと、マハーチャイまで出かけたことがある。
以前僕はウォンウィアン・ヤイの近くに住んでいたことがあり、マハーチャイまでの鉄道には何度も乗ったことがある。
シーフードを堪能してご満悦だったが、その帰りのことである。
列車の最後部に腰を下ろした僕らの目の前に、警官が陣取ったのだ。
ガタゴト揺られながら、僕らは終着駅まで暗黙の了解で、一言も口を利かなかった。
きっと僕らに少しでも関心を持った人は、おおかた喧嘩でもしているのだろうと察したに違いない。
タイの警察はよほどのことがないかぎり受け持ちの任務しかやらない。
このときばかりは彼らの職務姿勢に大いに助けられた。
そして去年とうとう、トンネルの出口に到達した。
僕たちは、晴れて大手を振って人前に出られるようになったら結婚式を挙げようと決めていたので、トンネルを出るとすぐウエディング・ベルが鳴り響いた。
それと同時に、未曽有の洪水がひたひたとバンコクに押し寄せており、職場も言ったん無期限休業に突入。
僕らは最終的にプーケットへの避難を選択し、それが新婚旅行ともなった。
プーケットについてはさんざんあちこちに書いてきたので、ここではもう繰り返さない。
ただ、そこで「散歩」の大花火が打ち上げられたことで、ポスト・プーケットの現在、書くに値する「散歩」が見当たらないような気持ちに包まれている。
それが、この「散歩日記」の進まない一番の原因である。
また、僕は結婚を機に音楽活動を再開した。
これまでは彼女の精神的な支柱となることが何よりも優先だったが、妻が身分の保障を受け、自分の時間を持つにはちょうどいいスタートだった。
作詞・作曲・編曲・楽器演奏・歌唱・コーラス・録音・音源編集・CD化など、音楽活動には贅沢なまでの時間が必要とされる。
これも散歩の機会を減らす大きな要因である。
そして、妻が日頃PCを占領するようになったことも一因である。
仕事上、僕らの生活時間帯は昼から深夜までがメインなので、僕が仕事を終えて家に戻ってきた頃には、面白いテレビ番組はすでに終了しかけている。
夕食を囲んでシャワーを浴びれば、ちょうど妻がPCに貼りつく時間帯に入っている。
そういうわけで、なんとか強引にその間隙を狙う優先順位として、プーケット以降の日々の中でそれ相応の時間をかけて綴りたい散歩というのがおいそれと見つけられないでいるのだ。
こういう風景もまた、夫婦生活というものなんだろう。
そもそも、妻がPCを占領するくらいに都会生活に慣れたことは、僕にとって喜ばしいことのはず。
そんなこんなで、ここのところさっぱりな散歩日記だが、このページが自身にとって文章という手段で何かを表現しようとするよすがとなってきたことに間違いはない。
新しい散歩を手にしたときには、真っ先にまたこの欄で皆様にお目にかかれればと思っている。
チェンマイの親戚訪問 2012年4月5日(木)〜8日(日)
今年の4月長期休暇には、特にどこへも行かず、部屋の片づけなどをしながらバンコクでゆっくり過ごそうと話していた。
すると、休暇に入る3日前になって唐突に、「翌日テンポラリー・パスポートの取得ができるようになったからすぐ用意するように」と妻に電話が入り、ドタバタ騒ぎのまま連休に突入した。
もとから里帰りしたいと何度も口にしていた妻に、テンポラリー・パスポート取得ができたこの状態で、長期休暇をただバンコクで過ごそうとは、これで言えなくなった。
ただ、妻の里帰りに外国人の僕が付き添うとなると、かなり下準備が必要である。
かといって、洪水騒ぎのときにあれほど妻が所望していたチェンマイ行きを断念した経緯からも、リゾート地でゆっくりする夢は夢のままになろう。
こうして僕たちのチェンマイ訪問は雪崩式に決まっていった。
チェンマイには妻の親戚や知人が数多く暮らしている。
長らくのミャンマー圧政に苦しんだタイ・ヤイ族の人々が目指す一大拠点が北タイであり、その中心地がチェンマイである。
ただ、今年はプーミポン国王の従姉妹であるペチャラット王女の葬儀のため、4月9日(月)が祝日となったので、7日(土)からの3連休、あるいは13日(金)からのソンクラーン休暇までも含んだ長期連休を狙う人々が多いのは必至だ。
当然のように寝台列車は満席で、フライトだと2人で往復1万バーツ近くかかることになる。
バスならだいたいなんとかなるものだが、あまり好きじゃない。
そこで、今回はレンタカーでトライすることにした。
どのみちチェンマイではいろんな親戚の家を訪問することになるのだから、足がしっかり確保できているに越したことはない。
車の運転は2011年の正月以来だし、チェンマイまでの距離は約700km。
大阪からだと熊本か水戸までの距離とほぼ同じである。
ここまでの長距離運転はかつて経験がないが、なんとかなりそうだ。
初日、まず大失敗したのは、地図を持ってくるのを忘れたことだった。
GPS機能のついたスマート・フォンやカー・ナビなどない状態でのことなので、途中で道を間違えたのに気づいたのは、後で確かめてみると50kmほど過ぎた地点でのことだった。
コンビニで道を尋ね、そこで地図も買って、ようやく自分たちがいる場所がサラブリーであることが分かった。
こうなればここで少し観光でもとしゃれこみたいところだが、チェンマイ到着までに残された道程を考えると、その余裕が生まれない。
ロッブリーまで出て、シンブリーからアジア・ハイウェイになんとか合流する。
道の脇にあったチャイナートのレストランで食べたカイ・ヤーンはめっぽううまい。
遠くまで来たことを、その味から知ることができる。
ナコーン・サワンを抜け、カンペーン・ペットの標識を見る頃にはすでに日が暮れかけている。
このカンペーン・ペットの標識は長らく続き、どこまで行けば次のタークの標識に切り替わるのか、もしかして自分たちは知らない間に同じ場所を周回しているのではないかと気が気でならない。
ようやくタークに着くと、もう日はとっぷり暮れている。
これで半分くらいの道のりは走り終えたのだろうか。
夜になると、疲れと車窓の変化のなさに、これは現実なのか、それともヴァーチャル・ゲームなのだろうかと、区別がつかなくなるようになってきた。
しかし、それもランパーンに近づいてからは霧が晴れるように薄らいできた。
ランパーンまで来れば、あと一息である。
ここからは急に山中らしいワインディングが続く。
しかし、交通量の少ない夜道を行くのは、それほど苦ではない。
チェンマイのスーパー・ハイウェイに入ったことが分かった瞬間、とても懐かしい気持ちが広がる。
街に迎え入れられたという感覚に包まれ、とうとう僕たちはホテルの駐車場に潜り込んだ。
口数も少なく、遅い夕食をとって、バスタブの湯につかって疲れを癒すと、髪が乾くまでもなくそのままベッドに倒れ込んだのだった。
チェンマイ初日。
タイ・ヤイ族のチェンマイ・コミュニティーの中心であるワット・パパオに妻を連れてくることができた感激に浸りながら、境内の屋台でタイ・ヤイ料理を食べてすぐ出かける。
妻の叔母の一人の家はメー・マライという場所にあり、そこの市場で待ち合わせるが、すでに待ち人は待ちくたびれて家に帰ってしまっているという。
ここの市場で働いている叔母の娘が出迎えてくれるが、叔母宅への説明は「犬が3匹映ったポスター」だとか、ゴミ箱があるソイだとか、まったく要領を得ない。
そして実際のちに分かるのだが、犬のポスターはどこにもなく、それよりも、市場から走った道に最初に架かった橋の手前という、非常に説明の簡単な道を入るだけであった(ただし、そこから先はまったく無理)。
そこで叔母・叔母の娘・叔母の旦那と次々に連絡を取り合うこと1時間、車であちこち往復しながら、ようやく叔母家に到着した。
車がすれ違うことのできない土の道に入り、木の橋を通り抜け、民家の姿さえほとんど見られなくなるような場所に、その家はあった。
案内してもらわなければ自分たちだけで辿り着くことは到底不可能だ。
家の前には池が2ヶ所あり、そこで魚を養殖しているという。
昼食に出してもらった甘いカレー味の魚料理は、もち米にぴったり合って、とてもまろやかでおいしい。
池の向こうに小屋があり、そこでは闘鶏用の鶏を飼っている。
僕が近づくと怯えて、逃げ足が速い。
闘鶏たるもの、怯まず追いかけてこいよと挑発したくなるが、実際にそんな鶏がいたら危なっかしくてしょうがないはずだ。
旦那さんが「ちょっと見てくれないか」と、家の中に案内する。
どうもステレオ・コンポの調子がおかしいというのだ。
たしかにCDを入れて認識しても、どのボタンも利かない。
しかし、それも無理はない。
コンポは無造作に、高温多湿で埃まみれの部屋の片隅に置かれていて、僕が様子を見るまで入れられていたCDも、裏面が傷だけではなく、ソース状の汚れがべったりついているような状態である。
CDプレイヤーはカセット・デッキ時代とは違い、分解しないかぎり内部構造を手探りできないので、これはお手上げである。
しかも、道具はまったくといっていいほどない状態なので、せめてものしるしにと、電線コードを使って簡易アンテナを作ってきた。
これまで聞こえなかったAMラジオも、これで楽しんでもらえるだろう。
それにしても、日本人だと聞くと電気修理を頼まれることは、タイの田舎では非常に多い。
最近はASEAN諸国への電化製品の進出著しい韓国人や中国人も同じような場面に遭遇するようになっているのだろうか?
それとも、こういうイメージはまだまだ日本人の独断場なのだろうか?
叔母家族はそろそろ帰ろうとする僕たちをなんとか引き留めようとする。
タイ・ヤイ族やタイ人たちは、親戚訪問となれば2〜3時間で引き揚げることなど、普通は考えられない。
せいぜい半日は見込まれていると思っていいだろう。
ましてや、数年会っていない姪がはるばるバンコクから来たというからには、宿泊していくものだという意識が端からある。
ただ、レンタカーの期限は4日で、行きと帰りにはそれぞれ1日ずつを充てておかないと体が持たないから、中2日に最低でも3組と会わなければならないことが既に確定している。
叔母はしきりと「疲れたろう、とにかくまず昼寝でもしていきなさいよ」と食い下がる。
昼寝を勧められるのがいかにも、である。
風情はあるが、まだ弟にも会っていないので、と辞去なんとかする。
タイ・ヤイの人たちは去り際に見送ってくれたりするわけでもなく、どこが切れめか分からない対応をするので、気分を害してしまったのかどうかの見分けが難しく、複雑な気分で家を後にした。
夕刻には、ハーン・ドンにやって来たばかりの妻の実弟と会う運びに。
まずは、妻がハーン・ドンの「ペプシ」で待ち合わせになったという。
ペプシ?
ペプシ・コーラのボトリング工場前でのことかと尋ねると、スーパーか何かだというので、それらしきスーパーの名前をいくつか出すと、「ビッグC」だろうと判明。
しかし、ここから先が本番だった。
ハーン・ドンにはビッグCが2軒あるので、新しい方で待っていてくれという話になっていたが、いくら待てど暮らせど、探し当たらない。
銀行のガードマンさんに携帯電話を渡して、僕らの現在地が新しいビッグCなので、こっちに来てほしいということを話してもらっても、やはりそれらしい人は見当たらず。
あちこち歩き回った末、最終的に別のタイ人にまたもや携帯電話で話してもらって、それが古いほうのビッグCであることを突きとめ、僕らが移動することになった。
もちろんこの間にも、ほとんどの時間は相手と通話が繋がり、話し合っている状態。
感動の再会になるはずのシーンに到着するまでに2時間、もうすでに僕たちは疲れていた。
道案内に関してだけでなく、タイ・ヤイ人たちは物事の説明に関して、極めて下手な人が多い。
電話番号ひとつにしても、たとえば「012-345-6789」だと伝えようとすると、「いや、3の次は4で、その前は2」「8が2回じゃなくて、最後は9、…いや、8の次に9、いやいや、9が2回じゃなくて、…もう一度最初から言うと…」とやっている。
日本人の僕たちは、前2ケタか3ケタが地域や電話の種類を表し、中3ケタか4ケタがさらに細かい地域区分などを記し、最後の4ケタが個人番号であることを知っているうえ、人間が一度に記憶できる量として5つ以上の番号を一度に言わない方がいいということに気づいている。
だが、そういう感覚がタイ・ヤイ人たちには理解できない。
日本人なら僕らのケースに陥ったとき、まずはお互いにそこが新しいビッグCなのかどうかの確認を済ませ、違いが分かったらどちらかがすぐにそちらに向かうことにするとか、店の入り口の一つで待ってもらって、自分たちがその店の入り口をすべて調べているのかどうかを確認するとか、手順がすぐに決まり、相手もすぐにそれが何を意味しているのか理解することができるだろう。
妻に出会うまで僕はそのあたりを意識できていなかったのだが、こうした一連の理解力や共通認識というのは、「経済的」な生活を続けることと、教育との賜物であることによって育まれるものなのであろう。
自分たちにとって見知らぬ人間を集落で目の当たりにしたときに訝しがり、少なくとも人見知り以上の対応をとらないことで日々を過ごしてきた人々に、見知らぬ街や日頃の行動範囲内ではないところでの手際のいい待ち合わせを期待する方がおかしいのだ。
だが、僕が「こうした方がいいよ」ということをほとんど耳に入れないことには多少なりとも腹が立つし、実際、妻の方が先に立腹して「あの銀行のガードマンの説明不足のせいだ」と怒りをおかしな方向に展開している。
ともあれ、僕らはなんとか合流し、閉店間際のセントラル・エアポート店のレストランのほとんどの場所で断られながらも、なんとか8番らーめんで夕食を一緒にすることができたのだった。
ホテルに戻ったのは夜11時。
またもや入浴後にそのままベッドで意識を失うように眠っていた。
チェンマイ2日目。
親戚に会うことを優先すると、必ず自分の予定どおりにはいかなくなることを言い聞かせ、妻が最も行きたがっていたドイ・ステープに行くことにする。
カッド・スァン・ケーォのフード・コートでクゥィッティヤゥをかきこみ、チェンマイ大学前までの混雑を抜けて、長い階段を上り、ようやく到着。
今回は境内で仏塔を3度回るお参りもきちんとしてきた。
高台から見下ろすチェンマイの街は、相変わらず霞んで白い。
煙害の報道が目立つようになったチェンマイだが、排ガスまみれのバンコクからやってきた僕には、いい空気だとしか嗅ぎとれない。
しかし、この白さも年々濃くなっているのだろうか。
以前にも書いたことだが、このドイ・ステープにはかつての同僚、Nさんの遺影がある。
そのときには、Nさんの墓碑銘を掃除しかけたところで急に天候が晴れて驚いた。
そして、今年はその墓碑銘の前に見慣れないトカゲが、ちょうど彼女の写真の方を向いていた。
このトカゲ、僕が近づいても、周囲を水洗いし始めてもまったく動じない。
ただ老人のように、その様子を眺めているように見える。
トカゲがいる場所に花を供える段になって、初めて座を開けた。
そこで僕は自身の結婚の報告をした。
すると、トカゲはどんどん僕らの方に歩み寄ってくる。
まるで食物連鎖のさなかに置かれた小型の爬虫類らしくない落ち着きぶりである。
果たして、トカゲはNさんの墓守なのだろうか。
いつかこの世ではない場所でNさんに再びあいまみえるときがあれば、ぜひとも尋ねてみたい。
さて、再び車に潜り込むと、今度は別の叔母宅への訪問である。
北の叔母宅、南の義弟の住み込み部屋、西のドイ・ステープ、そしてこの東の叔母宅と、チェンマイ市街をこれで東西南北に駆け巡ることになった。
まさしくレンタ・カーさまさまだ。
この叔母の家には以前、僕一人で訪ねたことがある。
妻のタイでの滞在許可をどのように取ればいいのかのヒントをつかむための訪問だったが、今回は晴れて妻を連れてくることができたというわけだ。
ところがというか、やはりというか、この叔母の家にもなかなか辿り着くことができなかった。
以前訪れているとはいえ、そのときは空港タクシーのドライヴァーに任せ、傘の産地であるボー・サーンを通って来たということ以外には、ほとんど記憶がない。
メイン通りから特徴のないソイに入り、曲がりくねった先にある家も、目立った存在ではない。
ここでも何度も電話連絡を取り合いながらも、結局叔母の住む街をずいぶんと通り過ぎ、ずいぶん引き返す羽目になった。
こちらから尋ねてほしいことを妻にリクエストしても、叔母は「ここへのルートは3種類あって…」と、どう考えても覚えきれないことをそれぞれ10分以上かけて説明し続けているという。
村上春樹ではないが、本当に「やれやれ」なのである。
メイン通りまで親戚が出てきてくれていなかったら、僕たちはあと2時間もそこらじゅうをうろうろするだけだっただろう。
この叔母の家では、庭先で伝統工芸品を作っている。
木や竹を使って小物を作成しており、それらはバンコクの百貨店で手に取れば数百バーツするものだが、出荷時に自分たちが受け取るのはせいぜい60バーツが関の山らしい。
その百貨店のショップにしても、直営でなければ家賃に相当な資金がかかり、最終的には金持ちにそのほとんどが回収されていく。
バンコクは貧富の格差を思い知るにはうってつけの街である。
だが、地方都市の郊外でこうした手仕事をする機会に恵まれたこの叔母の生活は、かなり恵まれたものだ。
夫は別に仕事を持ち、一軒家で1年4ヶ月になった娘と暮らしている。
家の中はがらんとしているが、コンクリートむき出しの床で雑魚寝に近い生活をしている他の家とはずいぶん様子が違う。
そのせいか、叔母にせよ旦那にせよ、性格がおっとりと優しいところが前面に出ている。
衣食足りて礼節を知るという言葉は、おそらく今の日本ではあまりリアルではないだろう。
だが、こうして妻の親戚を何軒か訪問すると、やはりごたごたしている家庭ほど、家庭が持つ雰囲気もがさついていることが手に取るように分かるのだ。
娘が叔母の携帯を床に投げつけて壊してしまったんだと笑っているその姿が、他の家庭ではどう映るのか、運命共同体的に生きようとする向きの強いタイ・ヤイの親戚縁者のコミュニティーの中で、タイにやって来るとその縁が薄くなっていくのは、単に地域的に離れた位置に暮らすことになったからというだけではなく、経済格差が話をややこしくするのではないかと思ったりするのである。
以前訪れたときには歩くこともできず、男か女かの判別すらつかなかった娘は、珍客の登場にはしゃぎまわっている。
近くの市場まで車で買い出しに出かけたとき、車のドアを閉めた途端に泣きだしたが、旦那の妹がお金を握らせるとすぐに泣きやんだ。
持参した写真を叔母に見せるのを覗きこむと、自分が写った写真に興奮し、他の家族には見せようとしない。
携帯電話をいじるのが好きでしょうがない。
すでにこの年齢にして、しかもタイ・ヤイ人の両親を持ちながら、その気性はもうすっかりタイ人娘なのである。
旦那の帰りを待って夕刻になり、予定を大幅に繰り下げて出発すると、かなり激しいスコールに見舞われた。
雨脚のあまりの強さにセンターラインを見失って、対向車線から突進してきた車と接触しかけるというハプニングを乗り越え、なんとか再び弟の寝泊まりしているところにやってきた。
1年ほど前、ここには妻の兄がいた。
兄夫婦はビルマ側で暮らしており、結婚して子もいるが、その家のすぐそばにルビーの採掘所があり、ときどき戦闘が発生するという。
あたりの治安が悪くなって仕事がなくなったので、ひとりタイに出稼ぎに来ていたというわけだ。
しかし、頃合いを見計らって引き揚げたばかりで、入れ替わりに、以前からタイで暮らしたかったという独身の弟が家を出てきて、住み込みで働いているという寸法である。
僕としては、タイ暮らしにも若干慣れ、お互い妻帯者で長男であるという共通項から、義兄に会いたい気持ちの方が強かったが、タイにやって来たばかりの義弟の初々しい姿を見ておくのも悪くはない。
しかし、弟は特におどおどした様子もなく、かなり堂々としている。
まだ滞在許可が出ているわけでもないので、日頃は目につかないようにしているそうだが、今日は姉とその夫が後ろ盾になっている安心感があるのだろうか。
ビッグCで生活必要品などを買い与え、ムーカターで食事。
いくら食べても料金は同じであると知ると、弟の食欲は昨晩の4倍くらいに膨れ上がった。
日本のラーメンとタイ式モンゴル鍋料理では、味に対する慣れもまったく違うのだろうけど。
「米を食べずに肉だけで腹いっぱいになったことなんて初めて」と、ほくほくの様子である。
こうして、またもやホテルには11時着。
連日、ホテルはただ寝るだけの場所と化していた。
翌朝、ワット・パパオの裏手にある店の中に、妻と同じ集落の出身の人がやっている店を訪ねた。
この周辺にはタイ・ヤイの店が並び、表は雑貨屋・奥は料理屋になっているところが何軒かあって、チェンマイ訪問者にはちょっとしたお薦めの場所である。
タイ・ヤイ料理では汁ものの麺料理と揚げ豆腐が日本人好みだと思う。
ちなみに、タイ・ヤイ語では「カォ・ソーイ」という言葉が麺もの一切を指す言葉になっており、チェンマイ名物の揚げ麺と生麺の入ったカレー風味である同名の一品とは違うので、ご注意を。
帰りにタイ・ヤイ人必須の品々を買いこむと、縁者のよしみということで、食事代はただになった。
ありがたい心遣いだ。
こうして、チェンマイでの予定は終了し、一路、車はバンコクを目指す。
帰り道ではさすがに妻も疲れたようで、少し眠っていた。
これが日本人の妻であれば、僕も幾分か気を悪くしたかもしれないが、お互いの出自が大きくかけ離れていると、そんな気分も起こらない。
円満な生活のためには、夫婦間に一定の距離感が必要だというのは聴き慣れた話である。
夫婦生活の若輩者である僕は、この距離がのちにただの夫婦の隙間となってしまわないことを願うばかりである。
帰り道は心理的にも楽で、行きのように無理もせず、道に迷くことなく宵闇迫るバンコクに滑り込むことができた。
運転時間は7時間半。
上々の出来である。
スコールの始まったバンコク市街の通行中、突然停電で周囲の明かりが一斉に消えたこともあったりしたが、もう落ち着いたものだ。
車を返却してしまうと、肩の荷がすっかり降り、元気が出てきた。
現金なものである。
ひたすらに蒸し暑いバンコクの自宅で、すぐ手に届くところに自分の欲しいものが配置されていることのありがたみから、ここが我が家なのだと深く気づくことで、安らかな眠りがやがて訪れた。
当てもなく近所を歩く 2011年12月2日(金)
遅すぎる食事を済ませたあと、部屋に戻って家賃を払い、切れていたカメラのバッテリーを取り替え、もう一度表に出る。
「どこへ行く?」と、いちおう妻に訊いてみる。
「プラーォ」という、答えにならない答えが、やっぱり帰ってきた。
この「プラーォ」というのは、タイ語で「何もない」という意味である。
例えば、調子の悪そうな人の姿を見かけて声をかけてみると、「プラーォ」という言葉が返ってきたりする。
「なんでもないよ」ということだ。
この言葉の先には、言った者にも言われた者にも続きがない。
それもそのはずだ。
僕たちは洪水騒動で3週間のプーケット避難から帰ってきた。
戻ってきから2週間過ぎてもいるが、そんなものはあっという間のことだった。
職や生活場所を含め、洪水の状況によっては今後どうなっていくのかそうとう不透明なプーケットでの日々に、当然ながら様々なことを考えざるを得なかった。
その中には、妻のパスポート問題さえクリアできれば、同じような状況になった多くの在タイ日本人同様、タイを撤退して日本へ帰るという選択肢もあった。
幸運なことに、僕の職場はなんとか再開に漕ぎつけることができた。
だが、将来に関して一切合財をリセットして考えた記憶そのものが消去されるわけはない。
そうして戻ってきたバンコクの日常は、僕にとっては色合いが退避前とはずいぶん違ったものであった。
まず、プーケット最終あたりから出てきた不眠がひどくなった。
食欲も落ち、胃腸が荒れて吐き気と下痢が続いた。
間髪いれずインフルエンザに罹ったのも、免疫力がかなり低下していたせいだろう。
そして、熱が収まってから、またすぐに不眠がやってきた。
しかも、僅か15分ほどの睡眠はできるのだが、そのときに思い出しても寒気がするような夢ばかり見て、そのあとはまったく眠れない。
翌日もからだが疲れるだけで、仕事が終わって深夜になっても、まったく眠気を感じることはなかった。
病院で睡眠薬が処方されると、初日こそ意識が夢の中にあるように靄がかかって仕事をしづらかったが、そののちはからだも睡眠薬に慣れ始めた。
誰だって、そんなものに慣れたくはない。
だが、部屋に睡眠薬があって、それさえ服用すれば必ず眠れるという安心感が、今の僕には大きい。
当初、医師の「ストレスが原因でしょう」という言葉に、常套句であるという印象しか持たなかった。
彼は僕のからだの状態を探ることはできても、その状態の源を知ることなど、ほんの簡単な問診で知ることなどできないはずだから。
しかし、知らず知らず、僕はきっと自分を騙し続けてきた。
「ストレス」という言葉を用いるからストレスがたまったように感じてしまう、というのが僕の持論だった。
名をつけることによって存在が確認され、固定される。
そう思ってきた。
実際、このやり方には一定の効果があったと思う。
だから、蓋を開けてみたら、長い年月をかけて自分自身の中に澱のようにたまってきたものの量はかなりのものになっていたようだ。
心から自分を見つめ直す時間を取るようになって、ようやく僕は自分のバランスが相当狂っていることに気がついた。
不安だが気ままなプーケット暮らしと、生きて稼いでいくための場としてのバンコク生活がまったく違うものであるのは、あまりに当たり前のことだ。
そして、プーケットでバイクを駆って出かけた思い出深い様々の場所と比べ、バンコクで近所の散策となると、これまた勝手があまりにも違うことだって、出かける前からはっきりし過ぎていることだ。
でも、一度は出かけずにはいられない。
部屋で一日からだを休めることも、ある意味では大切かもしれない。
だが、先週の休日も、インフルエンザのために一日中ベッドに伏していた。
これ以上、部屋と職場の往復だけで日々を過ごすのは、精神的にも肉体的にもよくないはずだ。
今日を逃すと、次の機会までに3週間「引きこもって」しまうことになる。
自分の内奥に耳を澄ませ、そこから聴こえることを「合理的ではない」とか「意味がない」とかいう理由で地ならししてしまわないようにしよう。
とりあえず、最も歩く機会の少ない道を選んで歩く。
通り抜けができるソイは、車やバイクの往来も激しい。
排ガスの中を黙々と歩く。
車優先社会であるバンコクでは、意識せずとも危険から身を守って歩く必要もある。
いつものバンコク。
大きな通りでは洪水時に引いていた渋滞がひどくなっている。
歩道にもバイク・タクシーが平気で突っ込んでくる。
これまであまりそんなことにことさら関心を持たない程度にバンコク暮らしには慣れてきた。
だが、将来の生活場所を考え直し、プーケットの透明な空気を吸い込んで帰ってきたせいで、こういう現状に対してただ諦めるしかない在タイ外国人という身分を思い知る。
眠っているときにアパートの廊下で大家の息子たちがサッカーを始めて、僕の部屋のドアに思いきりボールをぶつけても、すぐ階下にあるセヴン・イレヴンの前で深夜にタイ人たちが酒を飲んでコンガをたたきながら歌を歌い始めても、僕たちにはそれを常識外れだという権利もない。
いや、そんなことは考えるまい。
僕らはそのぶん、このタイのよいところを様々に享受してきたではないか。
異邦人をナチュラルに受け入れ、寛大な目で許してもらってきたではないか。
大通りを横切り、さらに入る機会の少ないソイを選んで歩き続ける。
写真も撮ってみようとカメラを鞄から取り出すが、1枚だけ撮ったところでバッテリーが切れる。
どうやら予備用バッテリーの充電も怠っていたようだ。
目についた小ぶりのアパートやマンションらしい建物を見つけるたびに、ふと立ち止まって「空き部屋はあるか?」と尋ねている自分がいる。
今僕が住んでいる部屋に住み始めたのは2000年からのことである。
気づけばスーパーや日本食の店が増え、この上なく便利な立地になっているし、職場へも徒歩で行ける。
長く住んでいるおかげで、家賃も新規の入居者に提示される額より少なく、据え置かれている。
けれども、そういったクーポン的便利さの陰で、長く暮らすために必要なものを、僕は見失っていたのかもしれない。
日本でだって、一定年齢以上の人間で、繁華街のど真ん中に住みたいと思うような酔狂な人間は少ないだろう。
僕がバンコクで暮らしている場所は、それに近い。
散歩の途中で空き部屋を尋ねる僕は、都市生活に区切りをつけようとしているようだ。
「この貝、故郷にある貝だ」妻が言う。
市場に売られていたタニシの袋詰めを指差している。
小学生の頃までは、僕も祖母の家で何度か食べたことがある。
塩茹でしただけのタニシは、シンプルなだけに滋味溢れていた。
これまで彼女の「これは故郷にあるものだ」という言葉を、どちらかといえばまだ訪れたことのない旅行先への興味のように聞いていたことに突然気づく。
タニシを目にした彼女は、そこに故郷を映し出している。
そのとき、僕は彼女の気分をありのまま受けとめられた。
異国の、彼女からすればとんでもない都会に投げ出された彼女の立場。
殺伐とした都会の街角に、自分の故郷に通じるものを見つけた彼女の小さな驚きと発見を通じて、僕は彼女の故郷を旅先ではなく、彼女を生み育てた土地として理解することができた。
人は弱い立場に置かれることによって、他人の痛みを知ることができる。
自分がどうしようもなくなったとき、その痛みを知る人からの言葉は、どんな時間や空間やこれまでの関係性で隔てられていたとしても、瞬時に温かい血となって自身の中に広がってゆく。
賢い人、立派な人、理解に優れた人はいっぱいいる。
僕の周囲にすら、数えるときりがないくらいだ。
だが、本当の意味で大きな人とはなかなか巡り逢えない。
大きな人は、自分の痛みの経験を通じて他人の痛みを心から感じることができる。
しかもなおかつ、自分を矮小なものにせず、広く豊かであろうとする。
賢い人は合理的な理論で物事をモデル・ケース化するのが得意なので、その場で人々の舌を巻かせることに長けている。
周囲からの賞賛を勝ち取ることもしばしばであろう。
弱さからくる痛みは、そこでは単に解決されるべき問題で、処理の対象となる厄介ものでしかない。
だがしかし、本当に他人を知り、受け容れ、関係していこうとするときに、痛みや弱さを避けて通ることはできない。
言葉をハウ・トゥー形式のマニュアルでしか用いる気のない人間を、これから僕は信じない。
当てもなく、暮れゆく街を歩いていく。
どこに辿り着き、どこで見切りをつけ、どこから引き返すのか、それはほとんど重要なことではない。
腐乱した運河があり、表情のない人々が行き交い、公害という名そのものである臭いが充満し、経済が発する刺激的なだけが取り柄の行き場のない力が商品として並び、すべてが過密に過ぎるからこそ、人々はお互いが関係しすぎないように注意して間隔を取ろうとしている。
そのありのままを見て、ありのままを書くことが大切なのだと、今は強く思っている。
僕は他にもこれまで、限定された意味でだが、嘘をついてきた。
自分の好き勝手で生活の場と定めたバンコクだからこそ、タイやタイ人にとって悪口になることは控えてきた。
正直に物事を書くことで人を不愉快にさせるかもしれないことがあれば、口を噤んだり、内容を損なわない程度に書き換えたりした。
それだけならいいが、文章にそんな掟を課したのは、他人とのやり取り上のポーズだった。
「誰だって同じことだ。人は妥協を重ね、折り合いを見つけることで社会生活を送っている。お前には我慢が足りなすぎる」
そんな声が聞こえてくる。
そのとおり、間違いはない。
その一方で、簡単にそんなことを言える人ほど、自分の痛みや弱さの経験から他人を慮り、優しく包み込むことができる人間の能力を、まるでPCのソフトを購入するように平気で自己利益に還元させる姿を嫌というほど見てきた。
見て見ぬふりではなく、見ても見なかったと自分に鍵をかけられる人は、他人を見ているように見せかけて、その実大切な部分に関しては何も見ていない。
鈍感であることは、社会を生き抜いていくために大切なことだが、その鈍感さが他人を受け容れる優しさを減じさせるものであることに気づいてほしいと思うし、自身でも忘れないようにしたいと思う。
嘘をつかないこと。
ありのままに表現し、隠さないこと。
それでも独善にならず、わがまま勝手にならず、自分にも他人にもおかしな方向づけを与えたり閉じ込めたりしないこと。
そこにしか、この散歩の出口はない。
それだけははっきりしている。
プロンテップ岬 2011年11月16日(水)
こちら、プーケット南端のプロンテップ岬訪問はこれで5回目になる。
夕陽に包まれ、海風に身を晒して美しいひとときを過ごしてはきたが、まだ一度も水平線に夕日が沈む姿を見届けたことはなかった。
11月10日の散歩日記に書いたように、靄や天候のせいでなかなか水平線のあたりがはっきり見えないことで知られてもいる。
翌夕にバンコクへ戻るフライト・チケットを購入していた僕たちにとって、これがラスト・チャンスである。
岬の先までは、初めて訪れたときにしか下りなかったが、今回はちゃんと歩いていくことにしよう。
一度歩いたので、二度目はそのときより道が短くなだらかな気がする。
余裕があるから、途中でカメラを構えることにも充分に時間を割き、夕陽を堪能する。
タイ人カップルたちは相変わらず、自分たちを撮影することに専心している。
そして僕たちは、岬の先端でとうとうサンセットの一部始終を眺めることができた。
噂どおりの美しさである。
濃いオレンジの海に小さくなった姿を隠してゆく太陽は、命そのもののように見える。
近くを通る船まで、その美しさに息を呑んでいるようだ。
日が沈むと、あたりは急速に紫がかって、海も土地も重さを増してゆく。
日没を見ることができて、本当にプーケットを去る日が近づいているのだなと、初めて実感した。
この土地からの贈り物をもらったような気がしてならない。
ありがとう、プーケット。
ラワイのチャオ・レー集落入口の市場について気づいたことがあった。
浜側に並んだ海産物売り場の向かいには、シーフード・レストランが並んでいた。
ということは、あの市場で買ったものを向かいのレストランに持ち込んで調理してくれるのではないだろうか。
その読みは完全に当たった。
レストランでは、持ち込みの食材に対する調理をすることが、むしろメインになっているではないか。
沖縄の牧志公設市場や韓国の大型市場の2階にある食堂と同じである。
これは楽しい。
市場で売っている物は種類も豊富で、新鮮さについても十分確認でき、値切り交渉にも応じてくれる。
ただ、夜の時間帯にまで魚介類を売っている人は多くないので、ヴァラエティーを楽しむのは明日の昼食にしよう。
ということで、夕食に選んだのはエビとハマグリである。
ハマグリは炒めものにしてもらって、エビは半分を焼き、残る半分は生の状態でクンチェー・ナンプラーに。
いずれも絶品であることに間違いない。
とりわけ、クンチェー・ナンプラーはお造りに目がない僕には、頬の落ちるおいしさだった。
そして、皿に敷いたナンプラーがときどき塩辛すぎると感じていたこの一品が、実はこれくらいの大きさで水気をはじくような新鮮なエビであれば、ちょうどほどよい塩気になることを初めて知り、目から鱗が落ちた。
これはもうバンコクに戻っても、当分の間はクンチェー・ナンプラーに手を出せそうにない。
最終日である明日の昼食も、間違いなくここに決定である。
前夜、僕は失敗をやらかした。
夕食に出た夜のラワイで出店が立っており、カメラを忘れてきた僕は、急いでアパートへとバイクを走らせ、息せききって戻ってきた。
そして、終わりかけていたオカマたちのビューティー・コンテストの様子を撮影しようと、司会者の最後の言葉どおり、ステージの真ん前に躍り出た。
だが、今度はメモリー・カードが差し込まれていなかった。
カードは部屋のPCに取りつけられたままだ。
慌てて携帯電話で撮影しようと取り出したが、撮影機が一眼レフでなくなったとたん、彼女たち(?)は興醒めとなってステージを降り始めた。
周囲は爆笑の渦である。
今夜こそ、そのリベンジ・デーなのだ。
やはり今日も屋台が並んでいる。
ただ、食事を堪能して時間が少し遅くなってしまったことと、途中に雨が降ったせいで、そのときに店じまいしてしまったところがけっこうあるようで、賑わいは前夜より少なめだ。
その雰囲気にも風情はまたあるのだが。
帰り道、また雨が降ってきた。
タイの雨は大粒なので、バイクで走っていて当たると痛い。
近くの屋根に避難してしばらくすると、同じようにお年寄りのファランの夫婦がバイクで雨宿りにやってきた。
二人はお互いにレイン・コートの着せ合いをして、仲睦まじさを見せている。
ファランのこういうムードは一朝一夕には出せない味を持っている。
ところが、ちょうど二人が着衣し終わった頃に雨がやんだ。
バイクに跨って屋根を離れようとする僕たちと目が合い、ご夫婦は「やれやれ」という目で微笑んだ。
コ・シレイ(シレイ島) 2011年11月15日(火)
ラワイのチャオ・レーと出逢ってからすぐ、ウェブ・サイトでコ・シレイの存在を知った。
どうやらそちらの方が大きな集落で、プーケットめぐり観光ツアーにもコ・シレイをコースに加えているものが多そうである。
早速出かけた。
コ・シレイは島なのだが、プーケットと橋で繋がっている。
その橋も長くはなく、下を見るとその隔たりにあるのは川のように見える。
プーケット・タウンから近く、道もほぼ一直線だと言っていい。
そのまま直進すると時計塔ロータリーに出る。
プーケットはやたらにロータリーが好きな土地らしい。
その手前で、右手にぽつりと小山が見え、その頂上に寺がある。
入り口はすぐに見つかり、しかもそこまでバイクで上っていける。
見晴らしがよく、静かな寺である。
テラスには瞑想しているタイ人の姿もあり、それが風景とよく溶け合っていた。
そして、寺の周囲は墓碑が取り巻いている。
ここに収まった人々は幸せ者だろう。
寺を周回できる細道には枯葉が散るにまかされていて、ふと徒然草の「木の葉にうづもるるかけ樋のしづくならでは、つゆおとなふものなし」の一節を思い出す。
島の南端あたりにあるチャオ・レー集落は、村と言える規模である。
ラワイと同じく、こちらにも樹齢を重ねた大木が聳え立ち、人々に木陰の涼を提供している。
そしてこれまた同じく、村を貫く未舗装の道には太い縄がところどころに埋め込まれ、乗り物がスピードを上げないようになっている。
やはりあちこちにサーラーもあり、人々が集っている。
それにしても、やけに懐かしい風景だ。
自身の原体験としての懐かしさではなく、生前の日本もこういう風景だったのだろう、ということを想起させられる、そういうレトロな懐かしさだ。
もちろん、そこには日本には見られない特有の美学もあり、エキゾチシズムと相俟って、夢を見ているような錯覚に捉われる。
まっすぐではない土の道には、乱杭状に建物や木々などが飛び出したり奥まったりしており、秩序に押し込められていない。
木材とトタンを用いた家々はどこもこじんまりとしていて、パステル・カラーや原色に塗られた個性の主張にも愛嬌がある。
浜側の家の多くは低めの高床式になっていて、風通しよく日陰になる階下は憩いの場となっている。
家の高さの半分ほどもある大きな水がめが各棟の横に据えられ、年月を経た古色を身に纏っている。
通りの主役は子どもたちと移動式屋台と野良犬だ。
カメラを手に散歩する僕に、珍しく「撮って!」と子どもたちから声がかかった。
レンズを向けると、近くの子どもが集まってくる。
タナカーをつけた、それまで人一倍恥ずかしがっていた子は満面の笑顔を見せ、声をかけてくれた子はなぜかシャッター前に笑顔を消した。
ここでは、みんな自由だ。
大樹の下で海の向こうを見つめていた老人は、今度は僕のレンズの奥を見つめる。
見つめ続けている。
なにも訴えない、ただ眺めているという以上に意味を汲み取れない表情に、不思議な吸引力を感じる。
まるで大木そのものに見つめられているような思いがする。
木のそばに貝塚がある。
人々が長い年月に食してきた貝殻が積み上げられ、その周辺がとりわけ物静かに感じられる。
そこに、タイ人の移動式屋台がやってくると、賑わいが流れ込んでくるように花を咲かせる。
このときばかりは、大人たちも負けてはいない。
なにしろ、財布の紐を握っているのは彼ら・彼女らだ。
にわか縁日のように、村の片隅に肉やソーセージなどを焼いたり揚げたりする煙がのぼる。
街角で巡りあうと喉や目が痛くなることばかり気になる煙が、ここでは親密な香りと化している。
ここにあるのは「生活」ではなく「暮らし」だ。
辞書で調べれば相互に同じ意味で紹介されているだろうが、字面からすれば、「生活」は生きるだけではなく、「活力」や「活動」といったエネルギーが必要であろう。
都会生活にぴったりの言葉だ。
それに比べ、「暮らし」は「暮れる」からきているはずだ。
日が暮れ、年が暮れ、時間と伴走した人としてのささやかな営み。
そうした謙虚さが「暮らし」という言葉の響きにはある。
大海と大樹のそばに身を置いて、チャオ・レーたちは慎ましく暮らしている。
村の真ん中あたりにシーフード・レストランがあり、その向かいに場違いな豪邸が建っている。
どんな人が住んでいるのか興味深く見守っていると、ベンツが門を入っていった。
運転していたのはそこそこ若いタイ人女性で、駐車したのち、何かの用事ですぐに門の外に出てきた。
色の深いサングラスをかけているが、常に眉根を寄せているのが見て取れる。
そして、眉を寄せた表情がどうやら彼女に似合っていそうであることにも気づく。
チャオ・レー村とどういう関係があるのかは分からないが、村人たちがこの大きな住居に竜宮城を重ねて見ていてもおかしくはないと思う。
けれども、チャオ・レーたちの中に、常に眉を顰めることが板についているような人は一人も見かけない。
日が傾きそうになってきたので、村を出てもと来た道を引き返していると、バイクの後部座席から妻の「猿」という単語が耳に入ってくる。
バイクを止めると、そこは猿を放し飼いにしている名所だった。
汚れた池で隔てられた向こう側にはマングローブ林があり、そこに何十匹もの猿たちがいる。
道を挟んだ向かいにバナナやピーナッツなどを売っている屋台が出ているので、さっそくバナナを買ってみた。
池の上に張り出した展望台に入ると、低い柵の向こうに大柄な猿が一匹、座り込んでいる。
誰かに似ていると思ったら、つい先ほどチャオ・レー村でレンズを覗きこんでいたおじいさんだ。
一切の欲望を削ぎ落として遠くを見る目は、まったく瓜二つ。
バナナを半分ほど剥いて渡すと、少し面倒くさそうに受け取って、3分の2ほど食べたが、そこでバナナを置き去りに歩き始めた。
夕刻なので、もう観光客からうんざりするほど食べ物をもらったのだろう。
だが、ピーナッツならまだ食べられるようだ。
他の観光客から受け取り、丁寧に皮を剥いている。
妻が「肩に傷痕がある」というので見てみると、たしかにまっすぐ、毛が生えていない部分が目立っている。
鋭利な刃物でスパッとやられたのではないかと妻が言う。
大猿の虚空を見つめる両眼が、さらに悲しみを増した色合いに見えてくる。
そうこうしているうちに、灯油缶大のバケツを持ったタイ人のおじさんがやってきて、その中にはピーナッツがわんさと入っていた。
無表情なおじさんはそれを鷲掴みに、次々と猿の群れに向かって投げ入れる。
それを合図のように、白けたタイ人たちが場を離れた。
当初は取り合いで喧嘩するほど興奮していた猿たちも、やがてすぐにおとなしく、自分の周辺に投げ入れられるピーナッツを待つようになった。
なるほど、猿は賢い。
夕陽がさらに傾き、橙が濃くなってきた。
大猿も持ち場を離れ、道に回り込んで池の向こうにご帰宅の様子。
さあ、僕たちも帰ろうか。
コ・へー(コーラル島) 2011年11月14日(月)
職場の再開が決定した。
安堵とともに、プーケット滞在の刻限も迫ってきたことになる。
このタイミングでやりたいことがひとつある。
離島に渡ることだ。
プーケット滞在の早々から離島へ行ってしまうと、その美しさがためにプーケット島のビーチがつまらなく見えるのではないかと思い、また、職場が再開しなかったときの資金繰りのことを思い合わせ、胸に秘めてきたが、とうとう解禁するチャンスが巡ってきたようだ。
アパートの大家さんに相談すると、すぐ近くの港まで来てもらえるように手配するよとのこと。
手数料を取られるのかもしれないが、ちょっとした行き違いが面倒なことになりかねないので、2300バーツを払ってお願いすることにした。
どのみち、二人で2000バーツかかるスピード・ボートを利用すれば、離れたチャローン港まで出向き、融通の利かない乗合ボートでの移動となるのだ。
時間は僕たちにとって問題ではない。
ひさしぶりに波の感覚を心ゆくまで楽しめばいいではないか。
ところが、前日の夜、なぜか20分ほど眠って目を覚ますと、そこからぱったり眠気が引いた。
時間がある程度たてば自然と眠くなるだろうと、暗闇のベッドで3時間。
ワン・ルームの部屋で妻を起こしては悪いと、ベランダの明かりをつけて読書で3時間。
夜が明ける。
どうしたというのだろう。
携帯電話にセットしたアラーム音を聞くまで、まったく眠ることができなかった。
それでも、意識は離島へ足を延ばすことで高揚してきたので、からだは思ったより重くない。
用意を詰め込んで、徒歩1分であるソイの終点の船着き場でボートに乗り込んだ。
パンワー岬との間で内海になっているあたりにいる間は、釣りでも楽しみたいような長閑な船上だった。
ところが、内海を抜けると、波はこわもてに豹変した。
船頭さんはスクリューの位置を操り、何度も押し寄せる波にいい角度を作って凌ぐが、それでもときどきかわしようのない横波がやってきて、僕らのハーン・ヤーォは危険な角度に追い込まれる。
当然、僕らも荷物もびしょびしょだ。
バンコクに出てきた2年半前まで海をテレビでしか見たことのなかった妻は、怯えきって声も出ないようだ。
せめて僕はから笑いを続け、大丈夫なんだとアピールするに尽きる。
そして、彼女は幸いにも恐怖でからだが固まってしまい、僕らの背で必死の形相の船頭さんを見ないで済んでいた。
第一候補だったコ・カイ(カイ島)に行くのでなくてよかった。
コ・カイに行くには、コ・へーからさらにパンワー岬を回って外海をかなり進まなければならない。
なんとかボートがコ・へー(コーラル島)のハット・クルアイ(バナナ・ボート)に到着した。
胸を撫で下ろす僕たちに、船頭さんは「これを持っていくといいよ」と、シュノーケリング・セットを貸してくれる。
この心遣いは大正解だった。
透明度がまるで違うコ・へーの海のこと、水中観察に飽きることがない。
同じく借りているライフ・ジャケットを装着して海面を漂っているだけで、あっという間に時間が過ぎていく。
UVブロックの上から照りつける日差しが、首筋に時間の証拠を残してゆく。
魚の数も多く、種類もさまざま。
そして、イエローやブルーの魚たちが、手に持った食パンの切れ端に群がってくる。
人にすっかり慣れた魚たちは、波打ち際までやってくるから驚きである。
セヴン・イレヴンで食パンを買ってきておいてよかった。
中には指を噛む魚もいて、少し痛い。
白砂のきめ細かさもまた素晴らしい。
足に尖った圧力を感じることがまったくないのだ。
かといって、風が砂を巻き上げるでもない。
デッキに横たわり、もったいないが少し仮眠をとった方がいいと目を閉じる。
しかし、まだ睡眠は訪れそうにない。
こんな夢のような島に来ているのだから、それももっともだろう。
アジア人もファランも、一様に満足そうな表情である。
ただ、必要以上に下品な笑い声を絞り出してあたりに響かせている大学生風の日本人だけが周囲から浮いていた。
夕方がやってくる前に、またハーン・ヤーォに乗り込む。
引き潮になると、浅瀬が続く東海岸の船着き場に戻ることは難しくなるのだ。
今度は波も優しく、風景を堪能できる。
人の気配のない島にも小さなビーチがあり、今度機会があれば、ああいうところにも足を延ばしてみたい。
小一時間の船旅はあっけなく終わり、船着き場から歩いて部屋に戻り、シャワーを浴びる。
そしてようやく、柔らかな眠りのヴェールが降りてきた。
ラワイのチャオ・レー集落 2011年11月11日(金)
前日に初めて気づくことのできたチャオ・レー(海のジプシー)の存在に惹かれ、昼食を兼ねてラワイにやってきた。
土の道である集落への入り口には、主に貝を用いたアクセサリー店や、海産物を並べた市場が浜辺側に並んでいる。
こういう場所に、観光バスではなく個人アクセスでやって来るファランたちの行動力・情報力は素晴らしい。
だが、船着き場としての位置づけで、小さな子どもをたまに見かける以外には遊泳する者など誰もいないラワイ・ビーチの、しかも外れにあるチャオ・レー集落へビキニで赴く淑女がいらっしゃることはどうしても解せない。
しかし、かく言う僕だって、一眼レフを片手に集落の中心へと歩を進めている以上、似たようなものである。
市場裏手にある集落は、コンクリート造りの小さな家が集まっており、入り口にはタイ人経営らしい雑貨屋もある。
有料放送の「トゥルー」用小型アンテナが壁に取り付けられている家もあり、雰囲気はタイのスラムと変わらない。
その奥の、いにしえの姿を保っていると思しき集落はとても小さなもので、テント状の家がほんの数件見られるだけである。
ここには集会場となっているサーラーがそこかしこに見られ、木造船であるハーン・ヤーォを修繕していたり、大きな籠を作ったり、チャオ・レーの生の姿を見ることができる。
昼寝をしている人、酒を飲んでいる人、延々と話しこんでいる人、ひとりでぼんやり遠くを見ている人、誰をとっても現代のタイ人にはまったく見えない。
もっと牧歌的で、もっと古い時代の匂いが漂っている。
大きな木の下には手彫りの仏像が並び、その周りで子どもたちはたわいもないおもちゃを見せる青年に群がっている。
夫婦らしいおじさんとおばさんが、小集落唯一の曲がり角を入っていく。
この先にもまた別の集落があるのかもしれない。
あとをついていくことにする。
その先には、道を挟んできれいに並んだ椰子の木があった。
ひょっとすると、これはチャオ・レーたちから夫婦(めおと)椰子と考えられているのではないだろうか。
そんな気がしてならない。
ご夫婦らしき二人はゆったりした足取りで茂みへと入ってゆく。
あたりに集落はない。
これ以上お伴すると迷惑かもしれないな。
二人が不思議そうな視線を僕に向けたのを合図に、もと来た細道を引き返す。
空はあまりにも高い。
船の修理を見ていると、真昼間から木陰で開催されている酒宴に招かれた。
「タイ語を話せるのか!」
チャオ・レーのおじさんはビールを勧める。
遠慮すると、男のくせに酒も飲めないのか、という表情を誰もが浮かべた。
「俺の姉は日本に嫁いだ。東京に行った」
一気に現実感が押し寄せるが、日本がグローバルな場所となりつつあることを素直に喜ぶことにする。
「こいつ、今日の夕方、結婚式なんだ」
指をさされたおじさんは酔った赤ら顔をさらに紅潮させて、「ちがうんだ」と言いたげに手を左右に振る。
こんなときに使われる言葉は、彼らが日常用いているチャオ・レーの言葉で、タイ語ではない。
だから内容はわからないのだが、そののち「僕も結婚したばかりですよ」と報告したことにほとんどみんな興味を持っていなかったし、この話題で男たちが盛り上がっている横を通りかかった女性の冷ややかな視線からして、どうも本当に結婚ではないようだ。
謎の意味が知りたくて、「夕方にまた来ますよ」と言うと、「5時だよ!」とのこと。
だが、部屋に戻ってすぐに腹痛が始まり、便座で長い時間を過ごすことになってしまった。
残念ながら翌日いっぱいまで食あたりは治ることがなく、約束を果たすことはできなかったのが悔やまれてならない。
ラワイ・ビーチのローイ・クラトーン 2011年11月10日(木)
プロンテップ岬で、またもやうまくサンセットを見ることができなかった。
この岬は夕陽が沈む風景の美しさで知られるが、靄がかかったり天候が日没風景のどこかで崩れていたりで、なかなか思うように水平線に沈み夕陽を眺めることができないことでも知られているらしい。
オレンジに染まった岬から海を眺めるだけで趣深いのだが、妻はサンセットにこだわっているようだ。
アパートに戻ると、大家さんたち家族から「ローイ・クラトーンに行くの?」という一言。
結婚していようがいまいが、カップルたるもの、ローイ・クラトーンの言葉が飛び出して彼女が黙っているわけはない。
岬から引き返す道中、ラワイ・ビーチではコム・ローイが揚げられているのを見たことだし。
食事を済ませて、人が集まるというチャローン港にバイクで乗りつけたが、チャローン・ロータリーから港に続く道に入ると、いきなりの渋滞で面食らう。
このさほど大きくない道は、オープン・バーやレストランなどが並ぶナイト・スポットではあるが、人の行き来はさほどである。
そんなところで車が完全に停滞しているのだ。
祭のために一方通行に規制されており、後戻りすることもできない。
車やバイクや歩行者の間をなんとかすり抜け、ようやく桟橋の近くに出ると、駐車場がステージと化しており、身動きがとれないほどの群衆の姿と大音量のルークトゥン。
とてもではないが、びっしり埋まったバイクの駐車場に猫の額以下のスペースを求めて何十分もうろうろし、人混みをかき分けて汗水流しながらローイ・クラトーンを祝う気分にはなれない。
ラワイ・ビーチに取って返すと、先ほど見かけたのと同じく、ほんのりとした落ち着きムードである。
桟橋の入り口に建っている小さな屋台も数えるほどで、集まった人の数も多くない。
そう、この雰囲気なんだよ、と独りごちる。
それにしても、風変わりな雰囲気の一角がある。
夜をぼんやり灯す明かりの下で、日に焼けた何人もの子どもたちが暗い海に飛び込んでいるのだ。
しかも、幼い子どもたちながら、泳いだり水面に浮かんだりする姿に相当な余裕が感じられる。
いくら海に慣れたプーケットの地元っ子だといっても、タイ人がこんな夜に水遊びしている姿には大いに違和感がある。
不思議な風景だ。
桟橋の一番先でクラトーンを流す。
去年までは無精で、爪や髪の毛をクラトーンの上に添えて流していなかったので、夫婦となった今年は抜かりなく用意してきた。
海に浮かべて流すクラトーンは、チャオプラヤー川や、ましてバンコクのアパート近くのドブ運河に流すのとは風情がまったく違う。
月明かりに照らされ、波に揺らめくクラトーンは、開けた海に漂うことがいかにも愉快であるように見える。
これまでには一度もなかったことだが、僕たち二人のクラトーンは蝋燭の火が途中で消えることもなく、視界の遠くまで流れていった。
それを確かめている頃、またもや驚きが。
ここでも子どもたちが海に飛び込み、今度はタイ人たちの流したクラトーンを我先にと捕まえ始めたではないか。
これにはさすがのタイ人たちも慌てている。
「やめてくれ!」と口々に言うが、その叫びも虚しく、大半は彼ら・彼女らに回収されてしまった。
これはやはり珍妙過ぎる。
そこでようやく思い出した。
この子たちは、海のジプシーとして知られる「チャオ・レー」なのだ。
チャオ・レーはプーケットの先住民族で、いにしえにマレー方面やビルマ方面から流れ着いたという。
おおむねタイ人より色黒で顔の彫りが深く、髪が自然にカールしている人も多い。
以前は一つの場所に定住せず、南洋の海を渡りながら暮らしたそうだ。
そういう記述をずいぶん以前にどこかで読んだことがある。
チャオ・レーたちは長らく独自の文化を守り、浜辺にコミュニティーを作ってタイ人たちとは一線を画してきた。
だが、近年になると子どもたちはタイの学校に通うようになり、タイ人との結婚も増えているらしい。
そういうことを一時に思い出したのだ。
異文化の交差点で、僕はプーケットのまた別の横顔を発見し、表情穏やかに興奮していた。
桟橋の中ほどで売り子のおばさんから100バーツでコム・ローイを購入。
コム・ローイを揚げるのも初めてのことである。
熱気が中にたまるのを静かに待ち、温かな光を眺める。
そして手を離した僕らのコム・ローイは勢いよく星空に舞った。
月の光はどこまでも眩しく透明で、この世のものではないと見まごうばかり。
僕たちはただ黙って、コム・ローイが見えなくなっても空を見上げていた。
その夜、僕が世界で最も好きなバンド、ムーンライダーズの35年目にして無期限活動停止が発表された。
プーケット・タウン(ナイ・ムアン・プーケット) 2011年11月10日(木)
何処かで手に入れた無料の地図の中に、「プーケット・オールドタウン」という名のものがあった。
コロニアル風の建物が並ぶ通りが、プーケット・タウン(ナイ・ムアン・プーケット)にはいくつかある。
そのことは以前プーケットを個人旅行したときに気づいていた。
だが、改めて手地図と写真で紹介されると、今の風景に触れたくなった。
そのときにもガイドブックは持たず、事前の情報を持たないことを大切にした旅をしたことを思い出す。
バス・ターミナルに到着したら、バイク・タクシーに適当な額を提示して安宿を紹介してもらい、まずは食事のために街を歩いた。
あのとき、僕はどこをどう歩いたのかを照合してみるのもいいだろう。
チャローンから北に走ると、新旧2本のチャオ・ファー通りはどちらもプーケット・タウンに出る。
ところが、一方通行が多く、東西南北を無視した道が多い市街地は、バイクを自分で運転するとなると、いつの間にか道を誤ってしまう。
地図で緩やかなカーヴの三差路を左に曲がることをあらかじめ頭に入れておくとすると、その三差路だと思わしき場所が、じつは実際に曲がった交差点の先にもあって、それが地図で確認した三差路だったりする。
空気の澄み渡ったプーケットの日差しは強く、長袖を着てこなければ、バイクの運転だとすぐに日焼けしてしまう。
バイクを路肩に止めて現在地を確認してみるが、近くのランドマークになりそうな建物の名は、フリーの地図には出ていない。
近くにいる人に尋ね、なんとか最初の目的地に辿り着いたが、一方通行が多いので、彼もかなり説明しづらそうだった。
古びた時計塔には、たしかに覚えがある。
1998年に見かけたのとでは、周囲の雰囲気がずいぶん違う。
以前は少し歩くだけで周囲に空き地が目立ち、そこに屋台が出て油煙をあげていた。
チュンポーンやラノーンよりはずっと発展しているが、まだまだ田舎風情の街並みに、少し安堵したものだ。
そんな余裕は、今はもうどこ吹く風である。
時計塔の周辺も由緒を感じさせる建物ではあるが、例えばバンコクのヤワラートやチャルンクルン周辺のように草臥れてすり減った雰囲気はない。
以前にやってきたときにも、その後に訪れたペナン島のジョージ・タウンと似ていると感じたが、都会としての整備がある程度進んだことで、より近いムードを携えたようだ。
ソイ・ロマニーのことは、無料地図で初めて知った。
ここが古き良き時代を偲ぶ散歩の中心地になっているという印象があり、移動してみる。
タラーン通りに入ると、旧市街地の雰囲気に完全に包まれる。
おそらく、街をあげて外観保全に取り組んでいるのだろう。
道幅が拡張されることもなく、その両側にポルトガル様式であるという建物がずらりと並ぶ姿は、夢の中の風景に似ている。
ソイ・ロマニーはこの印象をさらに強めた路地だ。
東南アジア然とした、ゆったりとし過ぎてうっすら気だるくさえ感じられる物腰の人々が暮らす、古い時代の西洋建築。
それでいて、看板は中国語で書かれている。
観光客も多過ぎない。
適当なカフェで喉を潤している間に通りかかったデジカメ人口は5〜6人といったところ。
このソイにいる時間の中では、地元の人しかいない時間の方が長い。
ただし、ソイ・ロマニーにせよタラーン通りにせよ、観光客を当て込んだムード作りを目指している店舗が多いので、テーマ・パーク化しつつある印象なのも事実だ。
それはこの景観を保持していくためにも重要なファクターだから、僕たちも受け容れなければなるまい。
鄙びた良さを払拭しきってしまわないでほしいと、ただ願うばかりだ。
一度一掃されて復興されたシンガポールのチャイナ・タウンは、歴史の影を探すことが困難なほどに、テーマ・パーク度が高い。
あんな姿にはならないでほしい。
先ほどの時計塔とは別の、時計塔ロータリーに出ようとするが、またもや一方通行の嵐で、しかもその道が自然なカーヴを描き、方向感覚を迷走させる。
知らないうちにどこだかわからない道に出ている。
道路の名を標識によって知るが、すでに中心街を離れてしまったのか、無料地図にはその名はない。
こんな調子で、ロータリーに出た頃にはすっかり日はオレンジ色になっていた。
迷いやすい道なので、出がけにはまだベッドで眠っていた妻は連れてこなかったのは、やはり正解だ。
しかし、ひとりの時間を満喫するのもそろそろ限界かもしれない。
帰り道を地図で確認し、スロットルを回す。
そろそろ大通りは渋滞にはまりつつある。
もちろん、バンコクとなど比べ物にはならないが。
車の間をすり抜け、アップダウンとカーヴをやり過ごし、自分たちの部屋だという意識ができた「帰る場所」へとひた走る。
ナイハーン・ビーチ 11月9日(水)
やはり夕刻にビーチへ行こうということになり、今度はナイハーン・ビーチである。
直通でこのビーチにアクセスする公共乗合交通がないせいか、なかなか広いビーチでありながら、人の様子がゆったりしていて好感が持てる。
ビーチのすぐ前にあるホテルとなると、たったの2軒だけである。
あとは、ビーチ用品などを販売している店が少しあるだけで、バイクならかえって道を行き来しやすい。
近くにお寺があり、それがこの周辺の乱開発を防いでいるというような話をどこかのサイトで見たような気がする。
ともあれ、この周辺はまったりできる、散歩にももってこいの場所であることはたしかだ。
ビーチから延びる道をゆくと、内海になった、湖のように静かな水面が広がる場所の脇に出る。
ここには人の出入りのあまり見えない宿泊施設があるだけ。
ジョギングに勤しむ人たちの姿もよく見かける。
その内海に沿って道を右に折れると、いくつかの店や宿泊所が見えるようになる。
このあたりはナイハーン・ビーチ周辺よりはずっと建物が見られるのだが、やはりしめやかな雰囲気に包まれている。
夜にも狂乱のように騒がしいバーは一軒もない。
さて、話をビーチに戻そう。
このビーチの端には海の水が砂浜の上に水たまりのようにできる箇所がある。
幼い子たちもここでは波に呑まれる心配がない。
家族向きの砂浜なのだ。
夕刻には、新婚さんらしき二人がカメラマンに連れられて、波打ち際近くで写真を撮り始めた。
見つめ合ったり、手を繋いだり、タイ人のカメラマンはいろいろ注文をつける。
しかし、被写体の二人はすっかり役者気分になってご満悦の様子。
ナイハーン・ビーチがロケ地なら、誰でもそんな気分になるのかもしれない。
岩場に出てきた人の姿が、夕陽にシルエットとなって浮かぶ。
釣り糸を垂れて微動だにしない彼らはさながら影絵のようだ。
日が暮れると、ホテルの入り口近くにあるシャワーを借りてバイクに跨る。
宵闇の周辺の眺めもまた素晴らしい。
ひんやりとした風が、まだ乾ききっていないからだを吹き抜けていく。
さあ、今夜はどこで夕食を食べようか。
カタ・ビーチ 11月4日(金)
チャローンとカロンを結ぶ道の往復にはすっかり慣れた。
プーケットに到着した夜の個人タクシー車内でも、初めてバイクでここを走ったときにも、山がちな坂道とカーヴが急峻でけっこう恐いなと感じたものだったが。
やがて、位置的にこの道の途中を左折すればカタに出られることも把握した。
それまではカロンを経由して海沿いの道をカタまで出なければならないと思い込んでいたので、カタが急にご近所さんに感じられるようになった。
パンワー岬の水族館からの帰り、夕刻を狙ってカタに繰り出した。
日差しが強い間は他所を巡り、過ごしやすい時間帯の瞬間を突いてビーチで泳いでみようという算段だ。
滞在日数の長さがあってこそなせる方法で、数ヶ月の休暇が得られる欧米人ならともかく、我々日本人にはなかなか許される機会のない贅沢である。
以前、バンコクの某バーのカウンター席でサーファーの男性と仲良くなったときのことだ。
閉店が迫り、客が少なくなってくると、個人客どうしが話の糸口を見いだして額を寄せ合うようになっていた。
そこにいた、初対面であるというサーファーの2人は、こぞってプーケットではカタがいいんだと熱弁していた。
うち一人は、長らくプーケットでサーフ・ショップに勤めていたという。
彼らの話の雰囲気から、サーフィンや何らかのアクティヴィティーのためだけに、とりわけカタが充実しているというわけではなさそうだと感じた。
街の雰囲気から人々の様子まで、きっとカタには特別な良さがあるのだろう。
実際目にしたカタは、パトンよりは落ち着いているけれど、それなりのリゾート地であった。
ビーチには亜洋取り交ぜた遊泳客が多く、街には土産物屋やらコンビニやらホテル、レストラン、バー、屋台が軒を接して並んでいる。
一目見ただけではどこにでもある海辺のリゾートだ。
けれど、まず、この街の道はどこも細くて入り組んでいる。
すぐそばのカロンが整然とした雰囲気を持っているだけに、対照的な雰囲気は際立っている。
だからこそ、カタには雑然とした熱のようなものがある。
古ぼけた骨董品店から掘り出し物が見つかりそうな予感と似たものある。
夕暮れのカタ・ビーチで波に洗われる。
オレンジの海は刻々と佇まいを変え、陽気なだけの存在から、思慮深げな面持ちになってゆく。
気温が徐々に涼しくなり、心持ち波が荒くなってゆく。
なんだか人間くさいビーチだ。
うん、それがカタの吸引力なのだろう。
最後の陽光が消えかける頃、僕はひとりで納得していた。
パンワー岬 11月4日(金)
内海を挟んで、僕らがアパートを借りたチャローンの対岸にあるパンワー岬に出た。
このあたりに来るのは、これで3度目になる。
初回は涼しさを求め過ぎ、夜になってからの散策だったので、人気のしない場所まで出るとガソリンの残りが気になって、途中で引き返した。
帰り道で瓶詰めにしたガソリンを買った小さな商店でタイ語を使うと、「日本人かと思ったよ」と言われた。
この店ではガソリン料金を表示していないので、売り手の言い値になってしまう。
こういう場合、タイ人だということで通しておいた方がよさそうだ。
案の定、一瓶当たりの値段が30バーツになった。
二度目は、寄り道で妻が貝殻収集にたっぷり時間をかけた。
そこは少し不思議な場所だった。
砂浜の向かい側に、島のように見える半島があり、そちらは石のごろごろした浜になっている。
その間を、階段のあるコンクリート製の小さな橋が繋いでいる。
完全な内海になっているので、水はまったく波をたてない。
それなのに、内海から先の沖には、少し大きなボートがいくつも浮かんで揺れている。
半島の先には若いタイ人の男女が午後の余暇を楽しんでいる。
こういう姿をプーケットの他の場所ではではあまり見かけなかった。
砂浜側にはシャワー・ルームもあるレストランがあったが、数日後からしか営業しないという。
新しい建物ではないので、これからオープンというわけではなさそうだ。
たしかにプーケットの旅行シーズンは11月からなのだが、それにしても砂浜のビーチには人ひとりいない。
照りつける日差しと静けさに包まれ、足元の大きな赤蟻だけが歩みを止めることなく黙々と行進している。
そこからパンワー岬まではすぐに着いたものの、目当ての水族館の閉館時間が近づいていた。
それにしても、夕方4時半の閉館は少し早過ぎはしないか。
そして、本日のことである。
今回は水族館に入る余裕もある。
プーケット水族館は小さいが、くねくね泳ぐウツボや愛嬌のあるカニ、大きな姿のクエやエイは人気があるだろうし、ほんの十数歩分しかないが水槽の海底トンネルもある。
海の近くで休日を送る中で見る魚たちの姿は、普段と違った親しさで僕らに迫ってきた。
そう、今の僕たちは君たちの住む世界の近くにいるんだ。
語りかけても、魚たちはそれぞれの思いに耽っている。
館内にはタイ人の姿が目立つ。
ここでも彼ら・彼女らのフォト・タイムの中心はあくまで魚たちでも施設でもなく、恋人や家族の姿である。
背景となった水槽は、水族館という本来の姿を見せている。
パンワー岬には水族館以外に見どころとなるものを発見できなかった。
水族館の前にもハーン・ヤーォが数隻浮かんでいるが、こういう風景はプーケットの至る所にある。
岬の周辺だけが少しだけリゾート開発されており、しかも人通りはかなり少ない。
ただ、落ち着きたいのなら、次回はこの周辺に安めの宿を探すのもいいかもしれない。
大通りを突っきればプーケット・タウンまですぐに出られるし、渋滞などないだろう。
小さな道を選べば、港の周辺に市が立っているから、海産物も手に入れることができるだろう。
周囲の環境が激変してしまう前に訪れたい場所ではある。
ちなみに、岬のすぐ近くにはヴュー・ポイントがあるはずなのだが、今回はそこを訪れることはできなかった。
楽しみは次回に、ということにしておこう。
ヤヌイ・ビーチ 10月30日(日)
そのビーチの名を知ったのは、プーケットに借りた部屋でwifiに接続できたのちの事だった。
カロンのホテルで宿泊していたときに、1ヶ月単位で借りられるアパートを探してこのビーチに出てきた。
空はスコーンと晴れ渡り、透明な風が吹いてくる。
ビーチの右手には綺麗な形をした小さな山があり、左手には優しい顔をした岩場がある。
小さな美しいビーチだ。
人も少ないうえ、長期滞在らしきファランが多く、はしゃいで羽目を外している客は一人もいない。
アパートを見つけたのちに、このビーチに泳ぎにやってきた。
プーケットで泳ぐのは、これが初めてである。
砂浜はすぐに深くなり、海底は岩場が多くなる。
だがそのぶんだけ水はなかなか透明度があり、ビーチでは100バーツでシュノーケリングのレンタルもしている。
岩場に上ってみたり、ビーチ・デッキでゆっくりしたりしている間、時間はゆっくりと過ぎてゆく。
何度か大きな雲がやって来るが、雨はとうとう一度も降らなかった。
雨がシャワー代わりになってくれればいいのにとも思ったが、近くにトイレがあり、その洗面所で塩水を流せることも分かった。
それだけ、といえばそれだけのこと。
でも、ヤヌイ・ビーチを知ることができただけで嬉しい。
プーケットでは、それだけのことで一日が非常に贅沢な充実に包まれる。
カロン・ビーチ 2011年10月26日(水)〜28日(金)
たとえば、「どうしてバンコクに住むようになったんですか?」という問いには、本当の答えがない。
「気に入ったから」とか「日本との生活ギャップに悩まない程度の都市だったから」とか「職があったから」とか、そのどれもが一部では正しいのだけれど、それでは「象とはどんな生き物ですか」との質問に「鼻が長いです」とか「背中に人を乗せることもできます」と答えるようなものだ。
なぜそうなったのかという思いに、自分自身はっきり説明できない。
だが、プーケットにやって来たことには、はっきりとした説明がつく。
2011年10月24日、バンコクを襲いつつあった洪水のため、とりあえずは期限の定まらない職場の業務停止が決定された。
翌日から僕と妻はバンコク退避を考え始めたが、タイでの限定された滞在許可しか持っていないタイヤイ族の妻を伴った行き先となると、国外は不可能。
また、警察の検問などで難癖をつけられる可能性を考えれば、陸路移動もできれば避けたい。
幸いにして、スワンナプーム空港で尋ねてみると、妻の許可書で空路での国内移動は可能だとの返事があり、その日、家の主だったものをなるだけ鞄に詰め込んできた僕たちは、妻の親戚がいるチェンマイへのフライトの空席待ちを望みにしていたが、順番は残念ながら回ってこなかった。
前日に停電で退避準備もろくにできない嫌な時間を過ごした僕たちには、その足で自宅に引き返す気持ちはなかった。
それに、もう空港であまりに長時間、ほとんど食事も口にせず駆けずり回り過ぎていた。
残された手は、チケット・カウンターでの待ち時間がほとんどないバンコク・エアウェイズで空席の出ているプーケットかサムイ島へ飛ぶことだった。
サムイには何度か行ったことがある。
あの大きさの観光島の中で融通の利くリーズナブルなアパートを探すのは、なかなか難しいことだろう。
プーケットはそれに比べればかなり広いし、プーケット・タウンのように市民生活の場がある。
その気になればスラー・ターニー、ナコーン・シータマラート、ラノーン、チュンポーンといった地方の街に出ることもできる。
特に、ラノーンでは妻が待ちぼうけを食らわされているテンポラリー・パスポートの申請に望みを託すこともできそうだ。
こうして、もうタクシーもほとんどいない夜遅く、僕たちはプーケット空港に降り立った。
空港のカウンターで紹介された文句は「ビーチ沿いの静かなホテル」。
到着してみると、オープン・バー街のソイのど真ん中にあり、深夜になってもドンチャン騒ぎが窓から否応なしに入ってくる。
しかも、「この部屋に間違いない」と念押しされたにもかかわらず、部屋の内装はまったくパンフレットと違うではないか。
こうなると当然だろうが、ホテルは海沿いではなかった。
有名な観光地では、どのデスクに相談するべきなのかという余裕くらいはなければならない。
でも、そんなことはあとでいくらでも考えられることだが、僕たちはその以前からとっくにくたびれ果てていた。
カロン・ビーチはプーケットで3番目の人気ビーチである。
しかし、なぜか日本人の姿をとんと見かけない。
どうやら遠浅の正反対で、すぐに海が深くなるのだそうだ。
代わりに、ロシア語らしき言葉が多くのファランから聞こえてきた。
僕たちが泊まったホテルのオーナーも、どうやらロシア人女性である。
街の旅行代理店ではロシア語のパンフレットも用意されている。
プーケットの主だったビーチは、すべて西向きに海がある。
だから、よく晴れた日の夕刻の浜はいずれも輝きに満ちている。
カロンでは、夜の海辺の散歩で、「鳴き砂」の音を聴くこともできた。
それは夜でないとなかなか聴きとることのできない、慎ましい音だった。
パトンの様子は知らないが、カロンはカタ周辺に比べていくらか落ち着きのある、上品な雰囲気だ。
高級ホテルが目立つし、道も広く、行き交う人々の姿も穏やかに見える。
遠くへ来たのだな、と思う。
これからいつまで続くのか分からない洪水からの退避生活に備えて、僕らは手ごろなアパートを探し、身を落ち着ける必要がある。
カロンはそれまでの腰かけ場所だ。
さあ、バイクに乗って、どこまで足を伸ばそうか。
その日、プロンテップ岬からプーケット・タウンまで走り回った半袖の僕は、「退避している身」だと言うのが憚られるくらいに、しっかりこんがり日焼けしていたのだった。
夏祭り 2011年8月14日(日)
神社まで続く道は提灯の薄い光に照らされ、そろそろ祭囃が聴こえてきた。
その音色は、春の桜よりずっとずっと、ここが日本であることを教えてくれているようだった。
日本の夏は実に12年ぶりのことだ。
これまで日本への帰省ということになると、毎年ソンクラーンの大型休暇がある4月を恒例としてきた。
ところがここ数年、日本では花粉症ぎみになるし、タイに戻ると1年での最高気温についていけず(タイで最も暑いのは4月)、体調が思わしくないことが多くなった。
そこで、今年は次に長い休みの取れるようになった夏に帰省することにしてみた。
この季節によく耳にするのが、「バンコクは今の日本より涼しい」という言葉。
どのみち多少の差はあれ、バンコクと大阪では気温差が少なく、却って過ごしやすいのではなかろうかと考えたわけだ。
この読みは大正解だった。
上海乗り継ぎの中国東方航空が、計4本のうち3本までディレイして、発着が深夜のはずのところがもう早朝に達しているという最低な状況だったにもかかわらず、今年は日本・タイともども、すこぶるからだが動いた。
それに、春はもちろん、秋・冬の日本はそれぞれ2003年の日本での帰国生活再スタートを目指した時期に経験している。
学生時代は大好きだった夏休み。
日本の夏がどんな風景だったのか、それを確かめるのにちょうどいい12年という節目である。
今回の帰省のほとんど唯一の命題は、実家の僕の部屋にある荷物の整理であった。
母が2年後あたりを目途に、一人暮らしには十分な程度の公団住宅への引っ越しを考えているからだ。
僕はモノを捨てることが実に苦手な、「取っておきたがり屋」である。
そのため、よく言えば70年大学生風、はっきり言えば物が所狭しと積み上がった部屋になってしまう。
部屋の片づけを始めても、なんだかんだで1割程度しか処分品は出ない。
しかし、今回ばかりはそんな悠長な話ですまない。
今年と来年の帰省の限られた時間の中で、趣味趣味人生を送ってきた若い時期のコレクションを片づけてしまわなくてはならない。
日本に住んでいるならヤフー・オークションにでも出してカタをつけて、せめてそれらのものを「ほしい」と思ってくださる方に使ってもらうに越したことはないのだが、歳を重ねた母親をそんなことに捲きこむのは忍びない。
今年の帰省は友人にもほとんど会うことなく、黙々と作業を続け額に汗することに専念した。
そうしているうちに、2003年の冬の思い出が蘇ってくる。
当時、日本で就職口を探しながらアルバイトをしていた僕は、年末年始を学生に混じって郵便配達に過ごした。
日給がどうだというより、たまに配達先で誰かに挨拶することはあっても、ほとんど無言でひたすら誰かが誰かに宛てた紙媒体のメッセージを運び続けることに意味があるような気がしていた。
それは、時代に遅れてやってきた、信頼できるシンガー・ソングライターの一人であるロン・セクスミスの以前の職業でもある。
正月も、小雨が降ろうとも、黙々と郵便を運び続けることは、日本に素晴らしく似合っていることのように思えた。
日本人は「睡眠も食事も休みもろくにとらないで」「自分のやれる限りの責任を果たして」働くということに美点を感じる人々だ。
たとえそれがバイトであろうとも、元旦の朝から働いていることは、タイ帰りの中途半端な男が日本という高級ホテルのような場所に身を置くのにふさわしいTPOのように感じられたものだ。
ちなみに断っておきたいが、僕は決して皮肉な意味を込めて日本の印象を語ったり、自分をいじいじと矮小化したりしているのではない。
日本円にして6万円程度の給与を受け取りながら、労働基準法のレッド・ゾーンに振り切ったタイ生活を経た僕は、その一方でプライヴェートにおいてはタイののんべんだらりとした、明日の予定もどちらに動かしてもよいようなお気楽生活を送ってもいた。
日本で暮らすことに資格が必要だと強く意識した背景にはこういう経緯がある。
海外生活を経た人にはその長さの分だけ、日本だけで生活した人にとってはおそらく理解しがたい独自の価値観が存在する。
そうでなければ、その人にとって海外生活は何の重みも持たなかったことになるだろう。
だが、日本人は自身ではそれと知れず強烈に日本人であることにぶれがないから、多くの人はそんな価値観に大した興味を抱かない。
それよりも、携帯電話にリアルタイムで流れてくるメッセージのように、日常を形作る「周囲」への対応に追われているうちに、おそらくその他のものに気づく余裕を失っている。
そして、僕はいささか神経過敏になりつつ、彼ら・彼女らの無言のメッセージを聴きとった。
「少し休んである程度落ち着いたら、はやく『こっち』の世界に慣れなさいよ」
こうして、日本への軟着陸を目指しながらも、僕は寡黙な道を選んだ。
部屋の整理には、そういう「日本人としてのエントリー資格」の匂いが立ち込め始めた。
蝉の鳴き声を耳に、顎まで滴る汗を拭おうともせず作業を続ける僕は、ヨドバシカメラで電化製品を物色するのが楽しみな「日本への旅行者」ではなく、自分は紛れもない日本人なのだと自覚を強くした。
古い手紙や、繰り返し読んだ書籍や、背の色褪せたLPレコードや、使い古した筆記用具は、そういう日本人意識に直接訴えかけてきた。
そこにはめくるめく思いやメッセージや記憶が結びついている。
しかし、僕はそれらのほとんどを捨てないわけにはいかない。
実際の問題としてだけではなく、僕の足はもう完全にタイに着地していて、就職した男女がいつまでも学生時代の甘い回顧に浸るだけの毎日ではいられないように、今後の暮らしのためにはそれなりの訣別も必要となろう。
芭蕉は「日々旅にして、旅をすみかとす」ために「住める方は人に譲」ったのだ。
8月14日の夜、息抜きも兼ねて、母と近所の神社での祭を見に出かけた。
この地域の祭は、さらに南にある岸和田のだんじり祭りとは対照的に、規模が小さい。
だが、そのぶんだけこじんまりと居心地がよく穏やかである。
行き交う人々もどこか懐かしいものを眺めているような風情が感じられる。
太鼓の音にしても、まろやかで優しい。
ギラギラした商売欲より、この祭の一部であろうとする屋台にも好感が持てる。
櫓に近づき、輪になって踊る人々を眺めているうちに、威勢よりも情緒を漂わせるこの祭が、心にじんわりと沁み込んできた。
神社には、昔何度か顔を覗かせたときのように、いかにも日頃やんちゃぶりを発揮していそうな若い男女が集まっていた。
以前はそういう顔ぶれが多少目障りで、祭にはあまり良い印象がなかった時期もあった。
しかし、今年見た彼ら・彼女らは、伝統行事を自分たちの手で実現し、継承しようとする前向きな若者たちであった。
もちろん、僕が海外生活を送っているため、こうした若者たちと日ごろまったく接点がないのは、身勝手なフォーリナー的意見でしかないことを裏づけているだろう。
その意味では、僕が彼ら・彼女らからは完全に蚊帳の外の年齢に達したことも関係している。
ただ、僕のような祭からほど遠いところに自分を置いてきた身の人間が、伝統を受け継ぐ人間となり得なかったことは確かだ。
祭を見物客としてしか眺めてこなかった小市民よりは、そこに積極的に関わろうとしてきた人間がこの伝統を支えてゆくのだろう。
次第に「資格」のことがまた脳裏を支配しているだけのことなのだろうか?
そう、繰り返し同じ場所を掘り返せば、僕はやはり間違いなく旅行客のような目でこの祭を見ている。
日本に暮らしているだけでは、こんな思いでこの祭を眺める機会すらなかっただろう。
僕はもう日本人ではないのだろうか?
もちろん僕はタイ人にはなり得ない。
日本で暮らしているときにはよく、「僕たちは他の誰でもない、僕たちというそれぞれの個人なんだ」と話しあい、頷きあっていた。
けれども、それは頷きあっている時点で日本という同じ土俵を前提にした島国ならではの感想だった。
そのことが、今、僕にははっきりわかる。
共有しあうことが大好きな日本人のくせに、僕にはそんな共有を気軽にしあえる相手は僅かしかいない。
過去から卒業するというのに、すべて捨てきってしまうことができない。
寡黙の道を選んだのに、相変わらず僕はこのHPなどで、日本に対する何処か期待の多すぎる文章を書き散らしてきた。
盆踊りの輪は、そんな思いの渦と折り重なるように、派手すぎない明るさで照らし出されていた。
母は、ほんの少しだけそんな踊りの輪の中に入っていった。
母の歴史の中にも祭がある。
終戦後の田舎町に輝いていたハレの日の思い出がある。
だからこそ、自分たちが日本人であるということの誇りがある。
その息子は、輪の中でもなく、かといって表舞台から外れた暗闇でもなく、祭の様子を見渡すのにいいくらいの距離のところでぽつんと立って、ときどき写真を撮っている。
いつものごとく、帰省はあっという間に終わった。
部屋の片づけはまずまずの成果を上げた。
捨てる物は思い切って捨て、タイに送る荷物は段ボール2箱にとどめた。
音楽雑誌は中古レコード屋に持ち込んだり、引き取り手のありそうな書籍は来年出張買い取りで来てもらえそうな業者に目星をつけて分けておいたりと、それらを喜んでもらえる人の手に渡るような努力はしたつもりだ。
おそらくは来年廃棄処分になる大型ステレオの使用法を母に伝えて、せめてこの1年は最後に音を響かせることができるようにもした。
機器類は、長年放置するとどんどん動かなくなってゆくが、愛を持って少し手をかけると、どんどん調子を取り戻してゆくものだ。
このステレオはずいぶん愛用したから、LPやカセット・テープから音源を取り込むのに動かしてみると、最初はまったくどうにもならなかったものの、ずいぶんいいところまで動くようになってくれた。
いずれももう20年選手以上である。
引き継ぐべきものを詰め込んだ鞄やベース・ギターのケース抱えて、僕は実家を後にした。
そして、JRの駅へ向かうバスを乗り間違えた。
そんなへまを、住人がするわけがない。
でも、そのバスが目的の駅のすぐ近くを通ることは知っていて、慌てて「ここで降ろしてください」と頼むくらいの知識は持ちあわせている。
停留所でもないところで、日本の都市バスの運転手さんが降ろしてくれることはなかなかないことだが、背と腹と小脇に抱えた大荷物を見て、業務規則よりも人としての情が先立ったようだ。
関西空港のチェックイン・カウンターでいくつかのことを尋ねた。
彼女は実にてきぱきと明確に質問に答え、分からないことは真剣に調べてくれた。
業務における日本の信頼感は圧倒的ですらある。
飛び立とうとする飛行機の機内に、僕の耳にだけはあの祭り囃が聞こえてくる。
「よいとよいやまっか、どっこいさのせ」
そして、到着したスワンナプーム空港では、パスポート・コントロールで待つ人の列に、係官の少なさがために1時間並ばされた。
預けた荷物がバゲッジ・クレームで見当たらなかったので、尋ねてみると別の場所で保管されているという。
そんなことを尋ね、落ち着いて宛てどころに辿り着くぐらいの自分ではいられるようになった。
もう早朝を迎えそうになっていたバンコクなのに、祭り囃の遠い音色は終わることのないこの街の喧騒にかき消されていた。
フリスビーのある風景 2011年6月24日(金)
友人が部屋に置いていったフリスビーは、おそらくもうかれこれ6年ほど、包装を開けられることもなく、クローゼットの奥にぐっすり眠っていた。
日本にいた頃、実家から歩いてすぐのところに大きな緑地公園があり、何かといえば友人や家族で出かけ、そうなると決まってフリスビーの投げ合いになったものだ。
風の強い日には角度をつけ、向かい風に力のかぎり投げて、ブーメランのように戻って来るフリスビーをキャッチし損ね、額を青じませたこともあった。
タイにやってきて「海辺でやってみようか」という言葉を覚えていてくれた友人が、日本帰省のときに買ってきてくれたが、良く言えば南国での過ごし方を、ストレートに言えば物臭さをタイという国から教わって急ピッチで身につけた僕たちは、そのフリスビーに活躍の場を与えてやることができなかった。
さて、同じようにタイに惹かれてやって来る日本人と十把一絡げに言っても、いろんなタイプの人がいる。
そんな中、男性と女性ではそれぞれちょっとした傾向の違いのようなものがある気がしてならない。
男性は先に記したとおり、タイという国のどこかに同調し、その間口を一気に広げて自分がそこに同化してしまうところがある人が、僕の周りには圧倒的に多い。
だが、女性は自分というものをしっかり保つ傾向が高いように感じる。
例えば、バンドにのめり込んでいて、カフェ好きだった僕は、この国でそのどちらもほとんど趣味とは言えなくなってしまった。
かろうじて、フリー・ペーパーを発行していたことがこのHPに反映・継承されているというくらいかもしれない。
それに対して、日本でアート鑑賞が好きな女性は、やっぱりタイでもギャラリーに出かけていくことが多いように見える。
ただ、三つ子の魂百までとはよく言ったもので、そんな流されやすい男性でも、やがて時がたてば同じところに戻ってきたりする。
このバンコクでドラム・スティックを握りしめ、フリスビーを片手にする自分の姿に、人というものはそう簡単には変わらないのだということを全身鏡に映されている気分がする。
そういうわけで、フリスビーなのだ。
今回は連れ合いのスポーツ・ウェアを揃えるため、ラームカムヘーンのFBTスポーツ・ショップ・ビルに立ち寄る。
ちょうど、彼女の愛用の靴底がはがれ(バンコクではこれがよく起こる)、スポーツ・シューズを買ういいきっかけにもなった。
店内に入ると、販売スタッフたちの視線がなぜか僕に集まる。
気にすることはないさと、セール品から物色を始めたら、そのわけはすぐそこの棚の上にあった。
半年前、僕はここで特売品になっていた上下のスポーツ・ウェアを買った。
その品が、まだ棚の上に格安の値段で両方とも置かれていたのだった。
買い物を済ませ、フアマーク・インドア・スタジアムの側に出る。
外はもう日が陰り、フリスビーにはうってつけの頃合いになっている。
フリスビーは公園でもできるのだが、スアン・ルアン(ラマ9世公園)は遠いうえにできるところが限られているし、ベンチャシリ公園は狭い。
ルンピニー公園はいい場所なのだが、金曜日の渋滞を考えるとタクシーは避けたいので、BTSの駅まで出て乗車し、そこから地下鉄に乗り換えることになる。
それなら、運河ボートで一気に着ける場所の方がいい。
それに、この周辺はバスケやタックロー、サッカー、バトミントンなどを目的に出てきた人が多いので、迷惑をかけていないかどうかと気をもむ必要が少ない。
フアマーク・インドア・スタジアムは、改修工事なのか、周辺の土が掘り返されている。
そのすぐ横でしばらくフリスビーを投げていると、小学生低学年くらいの子どもが「僕にもやらせて!」とやって来た。
物怖じしないその子に愛らしさを感じたのも束の間、彼は「僕が5回投げたら、そのあと、おじさんは2回投げて僕に交替、それで充分だよね」。
天使のような笑顔を浮かべているだけに、形容しようのない不思議な感情が湧いてくる。
憎めない微笑みを携えたタイ人の原形を見るような気がしてくる。
しばらくつきあっている間に、彼はズボンをぬかるみで汚して、「もういい、帰る」とあっさり引き揚げた。
彼の乗った自転車が薄暗がりに消えていくのを見送ると、ざわっと強い風が吹いてきた。
「風の又三郎」
彼はそんな存在だったのかもしれない。
動物議員ポスターを探して 2011年6月12日(日)
タイでは来月、2011年7月3日(日)に国会議員の選挙がある。
日本でも近年、国会は大揺れだろうが、そこには国民の日本らしい諦念があるように感じる。
それに比して、タイでは国民の政界に対するアクションはけっこう熱い。
バンコク都民は都会人らしくクールな反応の人が多いようだが、2006年の軍部クーデター以来、この国ではPAD(民主市民連合:黄シャツ派)とUDD(反独裁民主戦線:赤シャツ派)を中心とする対立が続き、それぞれの支援者のこれまでのデモ行動は、これまでにもタイ国外においても注目を集めてきた。
タクシン派政権の2008年には、PADによる国会封鎖やスワンナプーム国際空港(バンコクのメイン空港)占拠があった。
民主党政権の2009年には、UDDによるASEANと東アジアサミットへのデモ隊突入、去年はルンピニー公園などの封鎖、セントラル・ワールドなどへの放火が大きな騒ぎとなった。
急激な経済発展に対して政治のあり方があまりに不安定な点でタイは日本とは大きく違うが、鎌倉時代から無常観をキー・ワードに「形あるものはいつか崩れる」と、滅びと再生のサイクルを宗教理念として捉え、国民的宗教を失った今も一種の真理として心の眼に保ち続けている日本人の僕からすれば、タイ人たちが眩しく映る瞬間もある。
さて、選挙に話を戻そう。
タイ初の単独政権を実現したタクシン元首相がクーデターによって失脚したのち、PADやUDDのどちらに近い政権であっても、元の連立方式を選択せざるを得ない状況にあって、今回も各政党の獲得票以外に、どことどこが連立を組むかが大きなポイントになってくるだろう。
今のところ、現職のアピシット首相(民主党)にしても、タクシン元首相の実妹である対抗馬のインラック女史(タイ貢献党)にしても、単独で過半数を押さえることができそうにないという世論調査が多い。
アピシット首相側は政権についたときの後ろ盾となったPADから突き上げを食らって、今では敵対勢力に近い位置にある。
また、首相としての手腕についても、取り立てて好評な業績を上げられたわけではない(連立政権であるかぎり、首相の発動できる力は弱い)。
インラック氏の方は自身に政治経験がない。
そして、去年のUDDデモ時の非常事態に対する負のイメージを背負っており、実際、民主党側はそのときのことを思い出させるようなネガティヴ・キャンペーンも張っている。
動物議員ポスターを初めて街角で見かけたときのインパクトはすごかった。
ここから先に記すことはのちに分かったことであるが、自身の政党である新政治党に得票の望みが薄いPADは、選挙に際して無効投票を呼び掛ける戦略を採っている。
元来反タクシン団体として出発しているPADの政敵は明らかにタイ貢献党であるし、民主党とも袂を分かった今、多数決の原理では勝利を勝ち取ることはできそうにないということで、投票による二大政党対決にノーを突きつけるという方法を採択しているわけだ。
実際に現アピシット政権に落ち着くまでは、やり直し選挙が行われてもいる。
タクシン元首相の登場直前までは「半分の民主政治」といった、タイ独自の政治のあり方を模索する動きが強かったこともある。
こうして犬・猿・水牛・虎・オオトカゲ・ワニなどがスーツを着て選挙に立候補している宣伝ポスターが登場した。
「動物を議会で放し飼いにするな」というメッセージが掲げられ、そこにはかつてカォ・ディン(ドゥシット動物園)の建設地をめぐっての議論の際、「意味なく吠えたてたり、いぎたなく餌を奪い合おうとするものどうしは隣合わせにした方がよい」という旨の意見に、国王が即座に応じ、アナンタ・サマコム(旧国会議事堂)の隣接地に決定されたという逸話を現代に持ち越した感覚がある。
さすがに選挙管理委員会はこの動物議員ポスターに撤去命令を出したそうだが、決定後2週間近くたった今も、大通りに不思議な異彩を放ち続けている。
それどころか、今度は見る間に、立候補者でもなさそうな人物写真の、顔の部分だけが丸く切り取られた立て看板が登場してきた(他の政党のものであるようだ)。
まさに百花繚乱の選挙ポスター状況である。
動物議員のポスター写真を残そうと動き始めたが、車で見かけるといくつもの種類が確認できるものの、いざ撮影となると、歩道を歩いて車道向きになっている看板をひとつひとつ確認しても、すべての種類が揃いにくい。
そこで、知人に「見かけたら教えてほしい」と声を掛けまくり、最も有力な情報として出てきたのが、首相府の近くに本拠地らしきものがあるということ。
早速、出かけてみた。
アンポーン公園付近からラーチャダムヌン・ノーク通りを歩くと、大型の看板が見えてきた。
しかも、通りは途中で封鎖されている。
ここ、ドゥシットはバンコクの政治の中枢である。
しかも、封鎖状態は首相府周辺にまで及んでいるではないか。
これまでにもPADによる首相府占拠が長引いたり、UDDによるセントラル・ワールド前というバンコクきっての繁華街の道路封鎖が行われたりという状況は知っている。
しかし、選挙のたびにこのような事態が発生し、それが認められているということに、改めて驚きを禁じ得ない。
中に入ってみると、まず立て看板がうず高く積まれているのが目に入った。
トラックの荷台に乗せ、これから各地に搬送されるのだろう。
さすがにそこにはもう動物議員のものはなかったが、今度はアピシット首相とタクシン元首相の頭が瘤だらけになって泣いている図案である。
ひたすら挑戦的……。
奥に入って行くと、けっこうな数のテントと屋台が並んでいる。
おそらく地方からの人々がここで活動を手伝っているのだろう。
それにしても相当な規模である。
会場内には穏やかな空気が流れている。
カメラを手にした異邦人の僕を訝る視線はない。
さらに行くと、コンサートが開かれている。
観客が拳を振り上げ、旗を振りまわしている。
汗の滴る気温の下で、人々の熱気も負けてはいない。
カメラを構えると、観客がポーズをとってはしゃいでいる。
会場のそばでは、まだ動物議員のステッカーの販売があった。
ステッカーには、ドラえもんやハロー・キティのあしらわれたものもある。
もちろん、ステッカー以外にもTシャツや鞄など、グッズがこれでもかと並べられている。
帽子にメッセージを縫い付けたお爺さんに声をかけると立ち上がってくれるし、動物議員そっくりの犬のお面を見つけると、「これをつけて踊ってもらおう」とバイク・タクシーのおじさんが呼ばれ、いやいやだった彼も面をつけると本気になって道路に手をつき、踊りを披露してくれた。
おじさんを呼んでくれたおばさんは踊りに合わせ、20バーツ札をひらひらさせて、お金にすり寄る動物議員の姿をさらに滑稽なものにする。
「タイの微笑み」がこの瞬間、ぎょっとするようなメッセージに替わったことに気づき、周囲の人々を眺めると、やはり祭りに集まった人々のような和やかな笑顔が囲んでいた。
なんて自由な国なんだろう。
その自由に問題がないわけではないことは、タイ人が最もよく知っていると思う。
だが、深刻づらが本当に自分たちを幸せに導いてくれるのだろうか。
タイの人々は、祭り囃に沸く会場から、そんなことを呟いている気がする。
バンコクのソンクラーン 2011年4月15日(金)
タイ正月であるソンクラーンは、毎年4月13日から15日の3日間になり、水かけ祭りとして有名である。
いにしえの頃には仏像や年長者に少量の水をかけ、けがれを落として清める行事であったそうだが、そんな史実はどこ吹く風、現在ではほとんど若者たちの派手な水遊びの独壇場となっている。
高圧水鉄砲やホース・バケツを用いたり、氷水を使ったり、白いパウダーを塗りつけたり、その方法もどんどん激化。
例えばこの時期、タイの地方都市にいたとしよう。
僕が泊まるのは、本来はデイリー・ユースではないアパートだったり、レストランのないホテルだったりする。
食事を摂ろうと外に出るが、正月休みでほとんどどこも扉を閉ざしたまま。
旅行者の身でこの日も営業している食事処を手軽に探そうとすれば街の中心部に行くか、大型デパートを選択する。
しかし、地方のほとんどではタクシーのように密閉された乗り物がほとんどなくて、一般的にはトゥクトゥクやサムロー、バイク・タクシーを利用するか徒歩で探すことになろう。
このようなオープン・エアー状態での移動が、ソンクラーン時の地方都市でどのような結果をもたらすのか、一度でも体験した人なら忘れられないだろう。
さて、途中で水かけに出会ったのがたった一度だけだったとしても、バケツ丸ごと1杯分の水は、すでに下着まで濡らしている。
この状況で、空調が効き過ぎていることをサーヴィスにしているタイの複合ショッピング・モールの中にあるレストランでの食事はかなり辛いものがある。
オーダーの段階ですでに鳥肌である。
だから、注文はテイク・アウトにするが、こちらもアパートやホテルの部屋まで持ち帰るよりも、外出したままどこか別の場所に行ってみたい。
こうして僕は、完全に外界からシールドされたタイ人たちの自家用車の出入りを横目で見ながら、その大型デパートの片隅のベンチで、濡れた服を少しだけ乾かす気分でもぐもぐやっている、というわけだ。
微笑みの国タイで、この時期にはたしかに水かけによってさらに笑顔が増える。
日頃よそ行き顔の人々にだって、水かけをきっかけに親しくなれることを、タイ人の若者たちはうまく利用している。
僕だって、タイに住み始めて1〜2年はこの行事を通じてたくさんの笑顔に触れることが楽しくてたまらなかったし、自身も多くの笑顔をみんなに振り撒くことができたと思う。
だが、歳を追うごとに「タイ」の新鮮味が薄れ、体力不足や体調不良が気になるようになると、水かけによる面倒な事態を避けたいと思うようになってきた。
実際、タイ人であっても、いい歳をした男性が水かけに講じている姿もほとんど見かけない。
こうして、僕はソンクラーンをもっぱらタイではない地域への旅行に充て続けてきた。
今年、僕は恒例となっていた日本帰省を含め、4月の大型休暇のほとんどをバンコクで過ごした。
そして、何年ぶりになるのか思い出せないくらい久しぶりに、水かけに自ら参加した。
水かけの様子を写真に撮ろうと、散歩気分で通りに出ると、さっそくとある日本料理店の前で、店員さんたちから水をかけられ、10秒もたたないうちに全身びしょ濡れとなった。
バンコクの水かけのいいところは、配慮があることだ。
地方ではカメラを持っていようと、「ちょっと待ってくれ」と懇願しようと、まったく容赦はない。
だが、外国人天国のバンコクでは、これまでの経緯に学ぶところがあったのだろうか、それとも地方のようにはち切れんばかりの勢いがないせいだろうか、歩行者に対してはちゃんとカメラを安全な状態にしてから水をかけてくれるし、タイミングも図ってくれる。
そして、写真を撮っている間はターゲットから外してくれる。
もちろん、ひとしきり大量の水をかぶったあとに、だが。
面白いのは、ひと通り写真を撮影した後に、バケツを手渡されることである。
カメラは店内に保管してくれるという。
大きな氷の板が運ばれ、これまた大型のクーラー・ボックスに入れられ、やって来る歩行者やバイク、バスなどに水をかけまくる。
特に騒ぎが大きくなるのは、ピック・アップ・トラックの荷台に乗って移動してくる水かけ部隊だ。
相手も水遊びを目的に来るのだから、攻防戦には火花ならぬ水しぶきが飛び散る。
また、小型バスも狙い目である。
大型のバスは窓・扉ともに完全にシールドされているので、乗用車同様、興が乗らないかぎり無視だが、小型のものは扉も窓も閉まらないものが多いので、仲間どうしで「バスが来た!」と声を掛け合ったりもしている。
僕もバスに向けて水をまき散らしたが、別の機会で、バスの最後部座席という絶好の位置に座っていたときには、僕もやられた。
ソンクラーンの始まった日、連れ合いは自宅にある小さなペンダント用サイズの仏像を集め、濡れてもいいように皿の上に置いて水をかけ始めた。
僕にもかけるようにと言う。
「こうやって、郷里では何度も何度も水をかけるの」と、彼女は言う。
その姿を見ていると、何かしら温かいものが胸を浸した。
コンサートなどで誰かに熱狂する人々の姿に対して私たちは冷めた気持ち、いや、どちらかというと否定的な気持ちに動きがちだが、信仰心に対しては心を動かされることが多い。
翌日、僕らは近くのお寺で仏像に水かけをした。
そして、日本の水かけ地蔵のことを思い出していた。
このお寺では、ボランティアのタイ人がお参りの仕方を丁寧に案内してくれるので、気分もさらに高まる。
本来のソンクラーンとは、こうしたものだったのだろう。
タイに暮らし始めて12年、ようやく僕は初めて「タイ正月」を実感することができたのだった。
チェンマイ 〜 メー・サーイ 〜 タキレック 〜 チェンラーイ 2011年4月6日(水)〜8日(土)
感受性とひとり旅とは切っても切れない関係にある。
旅先にひとりでいると、たびたび尋ねられるのは「どうして彼女や友達と一緒に来なかったんだ?」という一言。
僕はいつも「何人かで旅行すると、現地の人と知り合う機会が少なくなるから」と答えることにしている。
複数で出かける旅行は、そのほとんどが楽しい。
だが、「その人(たち)と旅行した」ということがメインであって、旅先はほぼ舞台装置でしかない、と常々感じる。
ひとり旅が好きな人やバック・パッカーの経験がある人には理解者が多いと思うが、僕は旅をイメージするとき、その場所に何を感じ、何を見いだし、どういう触発を受けるかにすべてのポイントがある。
その気分を具体的に伝え、相手に理解してもらいやすいのが先に挙げた「現地の人と知り合う機会」という口上なのだ。
僕の旅の成否は人との出会いに最も印象が深い。
二人以上の、同じ民族の出身者がともに行動すると、もちろん彼ら・彼女らの間にはお互いの母語(あるいは方言)が話されているわけで、こうなると現地の人たちは言語的に遮断されている感覚でその人たちを発見することとなる。
そこに割って入ってこようとする人は、商売としての係わりを持とうとする類の人が圧倒的に多くなる。
そこにはもちろん深い出会いの可能性もあるが、残念ながら、商売人と自分との間には金銭というボーダー・ラインが、まずは横たえられている。
たとえば同じ日本人どうしでも、飛行機で同席した相手がカップルや団体であったら、いくらフライト時間が長くて退屈でも、何がしかの機会がなければ話しかけようとはしない。
ひとりというのは、完全なニュートラル状態なのだ。
そして、ニュートラルでしか見えないものは実に多い。
と、大上段に構えたような導入をしたわりには、今回の僕の北タイ・東ビルマ(ミャンマー)巡りは、婚約者に関する用事があってのもので、まったくもって純粋な旅ではない。
ただ、基本的には1999年9月からほとんど生活の拠点をバンコクに置いてきた僕にとって、東南アジア地域の旅行は、なかなか大きな刺激になることがなくなっていたのが、やはり慣れから来る感受性の鈍りが原因だっただろうことを考えると、今回の行程で、僕は久しぶりに旅の感受性の縮こまっていた口を大きく開けることができたことは確かだ。
興奮はまず、ワット・パパオでやってきた。
僕の婚約者はタイ族ではなく、タイ・ヤイ(シャン)と呼ばれる少数民族である。
そのタイ・ヤイ族の寺であるワット・パパオではちょうど、少年たちの出家を祝うポイ・サンロン祭りに出くわした。
ここに辿り着くまでには、それなりの経緯がある。
まず、タイ周辺では大切な情報を得ることが日本でのように速やかには済まない。
文献ひとつをとっても、その書店にストックがある書籍でさえ軽々と「知らない」と言われてしまう。
昨年12月19日の日記にも書いたように、足で稼ぐバンコクでの調査ではお手上げになりかけた頃、ウェブで知ったA先生(仮名)に縋って書籍とその入手についてのご指南を頂戴した。
そのご返答の中に、求めているタイ・ヤイ族の書籍については北タイがメインであること、ワット・パパオの住職が書籍の一つを編纂しており、この寺と周辺地域がそのコミュニティーとなっていることなどが記されていた。
考えてみれば、これまで当たってきたバンコクやヤンゴンにタイ・ヤイの関連書籍に売れ行きを見込めるわけがない。
また、ビルマ内での書籍出版はあっても、その供給や質は一定ではないはずだ。
自分がいかに暗愚であったか、僕は思い知ったのだった。
ワット・パパオはここ半年近くの間、僕たちの中では一つのキー・ワードのようになってきた。
その場所に自分が現実に立つことができるようになったとき、写真や動画でしか見たことのない衣装を着た人々が音楽を奏で、乱舞する姿に感動を禁じえなかった。
バンコクでの生活に結局この2年、何の保証も得られないまま日陰者のように暮らしてきた彼女の苦しみをつぶさに見てきた僕は、ある程度知っていたことだとはいえ、同じ民族の人々が実際に集い、笑顔を見せ、見事な民族意識の結集を振りまきあっている姿には、タイという国の多様性を容認し、共生を考えようとする素晴らしい発想の持続を再確認できた。
彼女と同じ民族の人々は、その多くがタイに住みたいと願っている。
ビルマ側では民族そのものを否定しようというジェノサイドが起こっているからだ。
その重苦しい現実は、彼女のバンコク生活の重圧とも重なって見えた。
それゆえ、この日のワット・パパオの境内は竜宮城にしか見えなかったのだ。
夢中になって写真を撮り、めったに使わないハンディカムを回し、彼女に電話で現地の声を届けた。
彼女の喜びと、その場に自分が参加できない悔しさが手に取るようにわかる。
チェンマイ空港から郊外にある彼女の親戚宅を直接訪ねて、市内へ戻ったばかりで、まだ大きなザックを抱えたまま、僕はさほど大きくはない境内や、その周辺の集落を歩き続けた。
ワット・パパオの門前は何度も通りかかったことのある場所だったが、その奥に入り込んだことはなかった。
僕のまったく知らないタイが、チェンマイが、コミュニティーがここにある。
何も知らないことで表面から感じられる街や国の熱に浮かされるのが旅の青年期ならば、自身が係わった事情に広く深く入り込もうとする今、僕はようやく旅の壮年期に入ったと、ようやく自覚ができるようになった。
ワット・パパオのすぐ近くに宿をとった僕は、興奮にハンディカムを足の甲に落っことし、機械を壊さなかった幸運に安堵しながら、痛めた足をものともせず、また寺に舞い戻り、他所で書籍を求めたり食事をとったりしながら、そしてまた寺に戻っていた。
寺では何度か雨に襲われながらも、舞台でコピー・バンドが演奏を始めた。
タイ・ヤイのバード(トンチャイ・メーキンタイ)とでも言うべき民族的大スター、サーイマォの「メー・ハーン・ヌム・サーム・ピー」が始まると、会場は一斉に沸いた。
熱気に満ち満ちた境内には、100人とも200人ともつかない人々が惜しみない拍手を送っている。
その夜、僕はほんのすぐそばでまだ繰り広げられているステージを肌に感じ、久しぶりに興奮でなかなか眠りにつけなかった。
翌朝すぐ、またワット・パパオでポイ・サンロンを見た僕は、その後スリウォン・ブックセンターで他の書籍を求め、その足ですぐにチェンマイ・アーケードに出たが、そこで見たのはバス・チケット窓口の前にできた長蛇の列だった。
以前は、バスでメー・サーイに出るには、まずいくつかある会社の大型バスでチェンラーイに出て、そこからメー・サーイ行きの小型バスに乗り換えた。
しかし、いつしかメー・サーイまでは直通バスが通っており、しかも、チェンラーイ行きを含めても、チェンマイ・アーケードからはその会社(グリーン・バス)しか運行していないと言われた。
時の流れ・経済の流れを感じる。
だが、そんな悠長なことは言っていられない。
今日中にビルマに入国しなければ、明日タキレックで一気に様々なことをこなしたうえで、チェンラーイまで戻ってバンコクに発たなければならない。
一向に進まない列に並びながら、迷いに迷って、タクシーに相談することにした。
値段がなんとか2600バーツに落ち着いたところで、思い切ることにする。
お金で時間を買うことが必要なこともある。
それはいつしか、バンコクのタクシーの運転手に、地下鉄を使った方がいいと薦められたときに提案された言葉だ。
ドライヴァーは実に穏やかで気遣いの適度な、一言一言に落ち着きと優しさのあるいい人だった。
こういうことが、北タイでは実に多い。
北タイが旅行者に人気の理由の一つは、こういうところにもあるはずだ。
車内では会話も弾み、北タイ人の意識をうかがい知ることもできたし、北タイでのタイ人と少数民族との意識も教えてもらえた。
彼自身、父方の祖父母がタイ・ヤイ族であったという。
しかし、祖父母は彼に物心がつく前に亡くなっており、少しだけタイ・ヤイ語を話すことができた母親も3歳のときに物故されたとのことで、彼自身はまったくタイ・ヤイ語を理解しないし、日頃は自身をタイ人だとしか認識していない。
やはり、タイ政府の同化政策は確実に的を射ているのだ。
こうしてタクシーは3時間半で、実に快適にメー・サーイの国境門の前に滑り込んだ。
メー・サーイは以前とはずいぶん雰囲気が変わっていた。
垢抜けない田舎町で、人の行き来もさほど多くはなかったこの国境に町には今、驚くほどの人々が詰めかけている。
先のドライヴァーの青年も、奥さんのショッピングでよく来ると言っていたほどだ。
中国人の姿もよく目につく。
タイも中国も、飛ぶ鳥を落とす勢いで経済発展を続けている。
いくつかの主な商店の並ぶソイにはアーケードが取りつけられ、さながら日本の商店街のようである。
しかし、土産物売りは鈴なりでも、なぜか食事処がすぐ目に入ってこない。
おそらく多くの旅行者が目にしたことのあるだろう国境橋の下にあるレストランは以前と同じようにあったが、今日はここには人が多すぎる。
急いでなんとか他所で食事を済ませ、ここでも彼女の里での友人に会って、用事を済ませた。
彼女の旦那さんが僕を再び国境門前に送り届けてくれた。
せめてガソリン代でもと手渡そうとしたお金を、彼は決して受け取ろうとはしない。
見送った小太りの彼の後ろ姿は、どこまでもスマートだった。
タキレックに入るとすぐ、物売りやバイク・タクシー、物乞いの子どもたちが声をかけてきた。
特にしつこいのは、市場をうろつく煙草売りである。
そうだった、そういえば11年前も。
買わなければどんどん値段を下げ、それがだめならエロDVDやバイアグラを押しつけてくる。
ここは生活用品市場ではなく、いいように言ってみれば、大きなデューティー・フリー・ショップの集合体で、タイ人を含めた外国人旅行者用の土産物市場なのだ。
だから、この周辺には貿易のある国境ならではのギラギラした雰囲気が色濃い。
市場外れのホテルに宿を取ろうと部屋を見せてもらっていると、いかにも日本人らしい英語が聞こえてきた。
スタッフと値段交渉している言葉の端々に「うーん」とか「そうかー」といった日本語が挟まる。
やはり日本人だった。
「もしこのクラスの部屋なのにディスカウントできなければ、私は今日中にメー・サーイへ戻るしかない」というのが彼の落とし文句だった。
「いや、タイはタイ、ビルマはビルマだから…」というのがスタッフの言い分である。
そのとおりだ。
去年ヤンゴンのホテルを経験した僕には、このホテルの値段がさほど無茶だとは思えない。
そこを敢えて、彼にも助け船を出すような気持ちで「僕も泊まるから、二人分で100バーツずつまけてくれないか」とタイ語で交渉してみたが、「警察に必ず外国人一人当たり200バーツの賄賂を要求されるんですよ……」とスタッフは肩を落とした。
なるほど。
スタッフたちの言うことをそのまま真に受けるかどうかは、ネット上で偏執的なほどに喧々諤々があるのかもしれない。
「その弱腰が外国人料金を吊りあげる原因だ」とか、「日本人はなめられている」とかなんとか。
しかし、僕はいちいち彼らスタッフの言うことが真っ当に感じられた。
この日本人旅行客さんには悪いが、タキレックに宿泊することで現地体験を考えるのではなく、ホテルのコスト・パフォーマンスを第一とするなら、タイに戻るに越したことはない。
ゲスト・ハウスに泊まって10円でも5円でも安く上げ、旅行をできるだけ長く、できるだけ遠くまで歩を進めようとするバック・パッカーの言い分なら判るが、ここは中級だとはいえホテルなのだ。
そして、英語しか話さない彼と、なんとかタイ語までは話せる僕とでは、知ることができる情報量が違うことに気づけた。
他のホテルをあたって納得できなければ、彼は「ビルマはガードが堅い」と感じたかもしれない。
ただ、ビルマは近年になってようやく観光客にもある程度安定した旅行が提供できるようになったばかりの、限りなく軍事国家に近い国なのだ。
僕たちはこの国を旅行するとき、北朝鮮を旅すればどういう展開を考えなければならないのかを少しばかり意識しなくてはならない。
ちなみにここは、部屋はよくなかったが、スタッフの対応は爽やかなホテルだった。
一旦宿を取ってしまい、背中のザックが小さなものになると、物売りたちもしつこさが半減する。
ここでもタイ・ヤイ語の書籍を探し回り、瞬く間に日が暮れた。
タキレックの夜は早い。
市場が店を閉め始めると、夜の帳は一気に小さな町に降り、人通りはまばらになる。
そして、ようやくタキレックは生活の匂いがする、等身大の姿に戻る。
以前訪れたことのある、国境橋正面の丘に登ってみた。
見晴らしがよく、ビルマ側とタイ側が一度に見渡せる。
ホテルと書いてあるが、価格比較のためにいちおう値段を訊いてみようとしたが、ガード・マンが「ここはホテルではない」と言う。
いや、ガード・マンが座っているすぐその上の屋根にも「ホテル」と看板が出ているのだが…。
ふと、思い出して尋ねてみた。
「ここはカジノですか?」
「そうです」
ようやく判った。
こんなに立派な施設が長らく営業している以上、政府の公認、あるいは黙認があるのだろうが、正々堂々と「カジノ」とは書けないのだろう。
タイと国境を接している4国のうち、カンボジア・ラオス・ビルマにそれぞれカジノがあるというのは、どこかで読んだことがある。
実際、これまで訪ねたカンボジア国境には、どこにでも立派なカジノがあったし、僕もほんの少しトライしてみたことがある。
国境を越え、カジノ・エリアも越えた向こうにあるカンボジアの村からすれば、目映いばかりのカジノ御殿。
このタキレックのカジノはそこまで大きくはないが、生活の場とはやはりほど遠い雰囲気を醸し出しているのだった。
気がつけば、場内にいた。
婚約者と知り合ってからは、生活を安定させることに躍起になって、まったくカジノのことなど意識の中になかったのに。
そう、僕はHPのブック・レヴューを書くために、沢木耕太郎の「深夜特急」をバンコクで読み直したところだったのだ。
「深夜特急」で最も著者が心を揺すぶられ、読者にもおそらくかなり支持の高い箇所は、一つは香港で街の熱気に充てられたようになる部分と、あと一つは気紛れに出かけたマカオで図らずもカジノにはまってゆく挿話だろう。
僕も彼と同じように、始めはただ見ていた。
だが、いつしか1000バーツ分のチップを握りしめた手に汗をかいていた。
「賭け事に最も勝利する方法は、賭けないことだ」と父が言っていた。
間違いなくそのとおりだろう。
そうでなければ、どうやって賭け事が商売として成り立つのか。
客が落としてゆく額が半端なものではないからこそ、危険なビジネスであってもカジノを経営する者がいて、「御殿」ができあがる。
そんなことは判り過ぎるくらいに判っている。
それでも僕が卓に座ったのは、以前もそうだったが、やはり、沢木氏と同じ旅行者の身だったからだろう。
非日常でなければ、100バーツのチップをみすみす餌食になる可能性の高い場所に持ち込んだりはしない。
バカラのカードはちゃんと混ぜられ、シャッフルされていることは、そのための専用の場所があって判るのだが、客が一喜一憂している姿を見ていると、結果に一定の傾向があることに気づくだろう。
まず、このゲームは基本的に黄色の「バンカー」と赤色の「プレイヤー」のどちらが9に近い数を出すかに賭けるのだが、両者が同じ数字になると引き分けになる。
そして、その引き分けに賭けることもできる。
また、両者の途中経過によってだが、自分が書けるのと反対の側の勝利に対して保険のようなものを賭けることもできる。
同じ側が勝ち続けると、「今度もこっちだ」「次も…」となり、卓が沸く。
冷やかし客も矢継ぎ早に「その次」を夢見て賭ける。
確かに次回も同じ側が勝った。
よし、僕も意を決してみよう。
しかし、100バーツはあっさり消えた。
その100バーツを取り返すために、200バーツをはたき、それもまた…。
こうして賭け金が吊り上がったところで、ディーラーがごっそり持っていくのが彼らの手口なのだ。
また、ヒート・アップが続いたあとで引き分け、ということも少なからずあった。
引き分けに賭けた人が喜ぶので、卓にはまだ求心力が保持される。
こうして、カジノはじわじわと儲けを増やしていく。
「では、カジノ側が何を考えて次の勝負を作るのか」、その一点に集中して考える。
そして気がついたのは、バンカー側に勝機があることだ。
このカジノでは、親であるバンカー側に賭けると、どんなケースで勝負に勝っても100バーツあたり5バーツの料金を支払わなくてはならない。
卓についている人々の動かしている額を見れば、そこでの料金も試合を繰り返せば決して小さくはない。
賭けずに場を見るだけにして「次にはこちらに来るはずだ」という予想を組み立ててみると、正解するケースは圧倒的にバンカー側に多い。
ただ、「今回は絶対に勝てる」ということが判る勝負は、1セットの中にせいぜい10回ほどしかない。
そのときだけ賭けていると、見る間に400バーツの勝ち越しができた。
つまり、ちゃんと毎回勝負をするカジノ側にとっての本当の客が消化試合を続けてくれることで、おそらくこの商売は成り立っているのだろう。
それ以上はもう踏み込まないことにした。
ホテル代のディスカウントを考えれば、ありえないほどの値引き額ではないか。
夢を夢のままにしておく方がいいこともある。
この旅は、現実を現実として歩く旅であるはずだ。
僕の帰りを待っている彼女の姿が何度も何度も目に浮かぶ。
人気のない夜道を歩くと、恐いくらいにもう町はほとんど寝静まっていた。
ホテルの部屋に戻り、明かりをすべて消すが、枕の近くにあるライトだけ、ほのかに点滅を繰り返している。
これが東南アジアの中級ホテルだ。
チェンマイのワット・パパオそばのホテルも、シャワー使用後に水滴が落ち続けていたし、部屋の窓はすべて中庭のある廊下側にしか向いていなかったので、カーテンを開けると宿泊客から丸見えになるのだった。
いやしかし、だからこそ高級ホテルとは違った意味で思い出深い。
使い勝手において、身を横たえ雨風を凌げることでよしとするのがドミトリーや格安ホテル、日常生活以上のファンタジーを求めるのが高級ホテルであり、その中間にある東南アジアの中級ホテルはいわゆるビジネス・ホテルではなく、多少の不便があっても自分をその状況に合わせるの存在なのだ。
翌朝、また書籍を探す。
昨日と同じ店では1冊分をおまけしてもらった。
タイ・ヤイ族の本拠地だけに、このシャン州には書籍が多く、しかもチェンマイより安い。
しかし、まったく整理が行き届いていないので、ほとんどがほこりをかぶっており、売られているものてんでばらばらで、買い求める側にすれば一つ一つを店員さんに確認してもらう必要がある。
そしてそこにこそ、またコミュニケイションが生まれる。
都会では、整理と合理化の名のもとに触れあいの可能性が消えてゆく。
それは抗いようのない経済発展の帰結だ。
アカ族の出身であるバイク・タクシーのお兄ちゃんが、これまたいい人である。
こういう人と巡り会ったら、とことん仕事を頼みたくなる。
ヤンゴンの支部のようなものであるというシュエダゴン・パゴダ訪問のあと、タイ・ヤイ族の寺院を巡ることにした。
一つ目は、市街地の中にあるワット・マカオカム。
新しいのに木彫りの模様が美しく古風な香りの高い寺院だ。
四角を基調とした造りはビルマ様式と共通しているが、全体的な雰囲気は中国寺院と似ている。
そして、色合いは日本人にも親しみ持てる深みのあるものとなっている。
ドライヴァーは「僕のことは気にしないで、好きなだけここにいてくれればいいよ」と声をかけてくれる。
もう一つは、タイ・ヤイからは何と呼ばれているのかは判らなかったが、"Morenyin"という名の寺院で、町の北東、タキレック空港に近い場所にあった。
ここは丘の上に建てられた大きなお寺で、色彩的にはタイの金色・中国の赤色が目立つ。
お兄ちゃんの言うところでは、タキレックにあるタイ・ヤイ寺院の中では最大のものだということだ。
その規模に見合って、本尊の仏像にもどっしりとした貫録がある。
また、入口からまず目に入ってくる白い4階建ての塔状の建物には、ビルマ・タイ・中国のほか、インドや西洋からの影響も感じられる。
この寺院では、3月24日の地震による被害があちこちで見受けられた。
あちこちで壁や柱が割れ、仏塔の先は折れて地面に転がっている。
新しい寺院で仏塔も多く、建物も美しいだけに、その有様は地震の規模をより鮮明に思い知らせてくれた。
この先に、地震で多くの家が倒壊した集落、タリー(ターレー)があるという。
すでに日焼けした肌が赤くなっているが、日本ではほとんど映像紹介のないこの地の被害をしっかり見ておきたい。
気の早いソンクラーンを祝う水を浴びてずぶ濡れになりながら先を急いだが、途中のポイントで許可書なしにこれ以上進めない旨を知らされ、やむなく引き返す。
「国境で許可書が取れていれば問題なかったんですが、写真を撮られるのを政府は嫌ってますからね。結局、お金を払えば何とかなったりするかもしれないんだけど」
バイク・タクシーのお兄ちゃんの一見屈託のない笑顔には、この国に暮らす少数民族の本音が透けて見えた。
ミャンマー軍政は去年の外国人記者をシャット・アウトした疑惑の多い選挙による国会開設で22年半ぶりにいちおう終わりを告げ、前元首のタン・シュエの路線を継承するテイン・セインが大統領となったばかりだ。
ただし、第2副大統領には(おそらく政治的な配慮から)軍部出身者ではなく民間からタイ・ヤイ族のサイ・マォ・カム(多くの日本の記表記では「サイマウカン」と記されている)が選出されている。
バイク・タクシーのお兄ちゃんも応援しているアウンサンスーチー率いるNLDなき選挙を決して評価はできないし、結局は軍政の色が強い路線であるが、今後この国が民主的な国家になってゆく足掛かりになってほしい。
心からそう願う。
国境橋をメー・サーイに戻り、毎度のことながらタイの快適さが身に沁みつつ、今度こそローカル・バスでチェンラーイまで引き返す。
バンコクではクーラー漬けだったからだが、バスの窓からの風を涼しいと感じるように変わっている自分に気づく。
もう少し旅を続けたい。
だが、帰る家があり、それを楽しみにしている人がいるというのは、何物にも代えることのできない宝だ。
日に焼けた肌からじんわり染み出してくる熱と、なかなか乾かない服やズボンのしおれが、興奮状態にありながらも疲れている自分を証明してもいる。
チェンラーイのバス・ターミナルに降り立ち、トゥクトゥクのおじさんと相談して、ワット・サンパコと空港に回ってもらうことにする。
ワット・サンパコの名はチェンマイのワット・パパオの住職さんにあらかじめ聞き出していた。
寺とかかわりの深い民族だけに、寺院をコミュニティーの一つの中心点と考えるのはあながち見当違いではないように思い、「チェンラーイにタイ・ヤイのお寺はありませんか?」と尋ねておいたのだ。
時刻はもう午後6時を回っていたので、お堂は閉まっていたが、建物は見事にタイ・ヤイ様式だし、お坊さんに尋ねると、やはりそうだとの答え。
そして、やはりこの周辺もきっとタイ・ヤイ族の多い集落になっているのではないだろうか。
というのも、住所を知るために何気に撮ったソイを示す看板には、「ソイ・タイ・ヤイ」と書かれていたからだ。
何度胸を高まらせればいいのだろう。
この3日間だけの一巡りの間に、僕は何度、意味もなくそこにいる人々と抱擁したくなったろう。
「タイで一番好きな町は、このチェンラーイです」
このHPにも書いた、本当の気持ちをそのままトゥクトゥクのおじさんに話した。
おじさんは「ありがとうね」と顔を綻ばせた。
実は、こういう地域に関する話で「ありがとう」という言葉を聞いたのは、これが初めてのことだ。
彼も優しく温かないい人である。
北タイ訛りのある彼のタイ語と、藁に火を灯したような頼りない僕のタイ語では、話せることはほんの僅かなはずだ。
けれども、僕たちは旧知の間であるかのように、チェンラーイやバンコクでの生活、北タイと日本での地震、夫婦生活、民族同士のやり取り、実にいろんなことを話した。
薄暗くなってゆく空に旅の終わりを感じると、またもや「もう少しこのまま旅に身を晒したいなあ」、「いや、帰るべきところへ帰ろう」と、心中そのことばかりがくるくる回り続けている。
チェンラーイ空港発の最終便でバンコクのスワンナプーム空港に降り立った僕は、蒸し暑い屋外の喫煙所で「ホテルを探してますか?」とタイ人のホテル・マンに英語で声を掛けられ、タイ語で「いや、僕には家があります」と答えると、「あ、すみません。韓国人旅行客だと思ってました」と言われた。
そう、僕はこの街に婚約者と暮らしている。
こうして今僕は、彼女に写真やビデオを見せ、買ってきた書籍でタイ・ヤイ族の知識を得たりタイ語の勉強をしてもらい、その横顔を眺めながらやはりこの旅はお互いのために重要なものだったんだなと反芻している。
壮年期の旅は、青年期の「自分探しの旅」のような大上段に構えた旅ではない。
自分のためだけではなく、これまで時間をともにした人を断ち切った中にあるのではなく、むしろ共生の中に喜びを見いだすための旅なのではないかと、おぼろげながら感じる。
ともに生きるために、その大切さを知るために、人はどこかでひとりでいる自分を胸の内に抱えなければならない。
そして、だからこそ、せっかくこの拙文を読んでくれた人たちに、少しでいいから知ってほしい。
こうして旅の内容と心の内をHPに書きつけ、それを不特定多数の日本人及び日本語を読める人たちに発信できる自由と権利を、僕たちは持っている。
その一方、表紙が色褪せ、擦れた筋がいくつもついたざら紙印刷の書籍を自分で手に入れることさえままならず、ともすればそれが中央政府に対する反逆だとさえ捉えられかねない立場の人間もいるのだということを。
彼ら・彼女らの「ひとり」や「感受性」は、僕たちには計り知れないくらい敏感に切実に深く重いのだということを。
「日本国」と銘打たれた、ほとんどの国家の門戸を開かせるパスポートを持ち歩き、タイ語の学習テキストをごく普通に入手し、PCや携帯電話で当たり前のように日本語フォントを使用し、カジノ御殿に堂々と入場することさえできる僕にも、その立場が単純にたまたま先進国に生まれたということだけで保証されたということをもっと痛切に受けとめる必要がある。
クローン・スアン100年市場 〜 ワット・ソートーン(チャチューン・サオ) 2011年3月20日(日)
バンコクでは、タイ人も生活に余裕が出てきたなぁと感じることが多くなった。
タクシー・ドライヴァーやトゥクトゥク運転手はもっとガツガツしていたし、高級店がテナントとなっているショッピング・センターはがらんとしていた。
BTS開通当初は運賃の高さから利用客が少なかったし、ソイの中では使い古したパジャマ姿の女性もまだまだ日常的に見かけた。
バンコクではどんどん物価が上昇中で、庶民の足であるバス運賃など、原油価格高騰時には2倍に膨れ上がった。
それなのに、そのことではデモも暴動も起こらず、そしてそのときの値上げから、ほんの雀の涙だけ下がった物価を認めて、現在を生きている。
そういうバンコク人たちの姿の中で、ひときわ変化を感じられる分野の一つにレジャー観がある。
以前、バンコク人たちのデートといえば映画+ショッピング+食事と相場が決まっていた。
どうせ出かけるなら涼しいところへ、疲れるようなことは極力避けて、気負わずやりたいという構図がはっきり見えていた。
屋外のどこか、ということになると、リゾート地以外にでは、遊園地がいいところだっただろう。
ところがどうだ。
近頃ではクレット島がデート・スポットとして定番人気になっている。
以前からそういう捉えられ方はされていたが、何が以前と違うかというと、とにかく写真を撮っているタイ人の姿がやたらと目につくのだ。
携帯電話にカメラ機能が付帯したことで、猫も杓子も写真を撮っているのは日本も同じ。
だが、最新型のニコンの一眼に望遠レンズを取りつけたタイ人のアマチュア・カメラマンの姿はここ数年で急速に増えた。
眼鏡・カメラ・スニーカーといえば、日本人の定番だとされてきたが、ことカメラに関しては、アジア人に共通のアイテムとなりつつあるようだ。
彼女らしき女性はここぞとばかり、男性にあっちだこっちだとポートレイトの催促にうるさく、これでもかというほどの可愛い子ぶりポーズでフレームに収まっていく。
100年市場の人気は、ここ数年で驚くほどの高まりを見せている。
火付け役はスパンブリーのサーム・チュック市場だったということだが、バンコク近郊ではチャチューン・サオ県のクローン・スアン市場も有名になっている。
エカマイからロット・トゥーに乗って、日曜にもかかわらず渋滞のオンヌットを抜けて1時間半弱。
先週は3月のバンコクとはにわかに信じられない寒波で、同時期に起こった東日本の大震災の涙がここバンコクにまで届いたのかと思うような気温だったが、夢から覚めたかのごとく、すっかり元通りになっている。
市場の入り口に出る僅かの距離を歩いただけで、もう汗が滲み出した。
市場には雨や直射日光を避けるように、トタン屋根のアーケードが取り付けられている。
嬉しいことではあるが、風が抜けず、人いきれもあって相当蒸し暑い。
そして、100年市場の名を証明するような店舗の木造部分が暗くて目立たない(古くからの市場だが、実際には100年の歴史はないと言われる)。
それが非常に残念だ。
市場では、生鮮食品はほとんど見かけない。
荒物屋や道具屋はあるが、多くの商店は観光客目当ての土産物売りか食事処である。
ただし、ステロタイプの販売物が多いタイにあって、商品はそれぞれに個性があり、見ていて飽きない。
市場の終点に出ていた洋楽CD売りは、CCRやイーグルスなどを流しており、こちらもオールディーズ・バット・グッディーズであることに感心する。
驚いたのは、ふらりと入った橋のたもとのクウィティアウ屋さん。
まだ空腹は感じていなかったが、いざ箸をつけてみると、そのもちもちした麺の口当たりといい、コシの強さといい、一級品である。
これまで、こんなにおいしいクウィティアウは食べた記憶がない。
小エビが浮かんだ出汁も、一風変わった工夫のおいしさである。
川向かいの寺を一周して市場を出、ロット・トゥーかタクシーがやって来るのを待つ。
ここはバンコクから約40q。
分かっていることだったが、なかなかその姿を見掛けない。
20分ほどで、ようやくタクシーを1台捕まえることができた。
このおじさんは、なかなか英語が達者な人だった。
普段は英語で話しかけられても、それでは会話の限界がすぐにやってくるので、僕の側ではタイ語しか使わないようにしているのだが、彼の場合は淀みなく、聴きとりやすい英語を話してくれたおかげで、話に花が咲く。
あっという間に、ワット・ソートーンに出た。
このワット・ソートーンは、僕がこれまで見たタイの寺院の中で、最も美しくてはっとしたものである。
何の情報もなく、ただ興味本位でチャチューン・サオまで1泊2日の旅をした2007年、トゥクトゥクに連れて行ってもらった。
その時の印象が深くて、いつかもう一度行きたいと思っていた。
今回の訪問では、参拝客が前回より圧倒的に多かった。
ここの傍らには願い事をして神仏に踊りを捧げてくれる女の子たちがいるのだが、その勧誘の女性が少し強引である。
また、その向かいの市場では、物売りたちがあちこちでしきりと試食を勧め、食べてしまうとやはり、買わなければやり過ごしにくい。
また、連れ合いは市場をうろつく子どもから500バーツ(約1500円)をせびられた。
100バーツ以内ならまだしも、500バーツとは大きく出たものだ。
以前感じた落ち着きが、今回はすっかりかき消されているように感じる。
ただ、ソンテウで一緒に乗り合わせ、チャチューン・サオ駅が近いことを教えてくれた女の子や、バス・ターミナルでチケットのロット・トゥーがどれなのかを確認してくれたおばさんには、バンコクにはない親切がこの街に生きていることを教えられた。
そして、どこへへ行っても僕が日本人だというと、先週からの地震・津波・原発事故への温かい言葉をもらった。
夕方4時半の列車は目の前で出ていってしまったし、バンコクに戻るロット・トゥーは揺れるというより飛び上がるといった方がいいくらいだったが、それでも僕は心地のよいまどろみに誘われた。
道中、スワンナプーム空港の近くにバス・ターミナルがあることも、今回初めて知った。
まだ知らないバンコクがある。
まだ知らないタイはもっともっといっぱいある。
そう、タイ人たちでさえディスカヴァー・タイに湧いているのだから。
ワット・ラカン〜ワット・アルン〜ワット・ポー 2011年3月6日(日)
遅がけに出発するからには、場所を一つに絞った方がよいと思い、ワット・アルンを目指した。
2台目で乗車許可が出たタクシーで、川向かいのター・チャーン船着き場に向かう。
しかし、乗った渡し船は真向かいのワット・ラカン行きだった。
ワット・ラカンは名前こそ知っていたが、所在地さえ知らないお寺だった。
完全にノー・マーク状態で、いきなり驚かされたのは、船着き場を降りたら魚と鳥が、磁気に吸い寄せられるように集っていたこと。
餌を売る屋台が並んでおり、それを目当てに集まってきたのだろうが、それにしても、他所では見かけないほどの数である。
タム・ブン用の魚や亀などを並べている屋台も、絶好の立地条件だけに多く、もしかすると、こういうことも川魚や鳩たちに関係があるのかもしれない。
次回はそのあたりを鳥や魚・亀たちに尋ねてみたい。
「写真を撮ってもらえませんか」
タイ人カップルからケータイを渡される。
ワット・ラカンには、この立地にありながら、外国人の姿が少ない。
目立った建造物が少ないせいだろうが、違った方向から言えば、この寺院の建物はどれもタイの一般的な建物の雰囲気が非常に色濃い。
「ラカン(鐘)」という名が示しているとおり、境内には鐘が多い。
白いプラーン(仏塔の一種)は、近づいてみるとけっこうな高さである。
お堂の中では仏教壁画が、いにしえから伝わってきたことを、沈着した顔料の色彩が教えてくれる。
午後4時20分。
これなら、ワット・アルンに駆け込むこともなんとかできそうだ。
アルン・アマリン通りに出て、30バーツ即決でトゥクトゥクに走ってもらう。
ワット・アルンの雰囲気の変化には目を見張る。
このお寺に来たのは、初タイの1998年以来、実に13年ぶりのこととなる。
遺跡や自然・レジャーではなく、街を眺め、ぶらぶらと歩くことが、その頃の僕の旅行目的だった。
マレーシア〜シンガポールまで周遊して1ヶ月半の滞在を終え、明日飛び立とうというバンコクでの最終日に、なぜかふと思い立ったように、お寺巡りをしてみたくなった。
ワット・プラ・ケーォ、ワット・ポー、ワット・アルンと、バンコク観光の王道寺院を廻ったが、ワット・アルンは最も印象が薄く、しまりのないイメージが残っていた。
大蛇を首に巻き、記念写真を撮らせて金を要求する者など、不愉快な連中が多いことはガイド・ブックで知っていたことだし、実際彼らを見かけても係わりあいにはならなかったが、この寺院全体に、あまり長居したくないただれたような雰囲気があった。
しかし、ここ数年のバンコクの発展ぶりが、考えてみれば当然のことだが、有名寺院にも如実に現れていた。
落ち着いたレンガ色のタイルが敷き詰められた境内。
整備された爽やかな樹木。
そして、もちろん、この寺院の目玉であるプラーン。
細密でありながら巨大なこの仏塔の美しさと圧倒感は、比類なきものである。
タイの仏塔は、緩やかな錐型のチェディーと、より塔のように全体が空に突き上がったプラーンに大別される。
チェディーはタイで最も一般的な仏塔で、あちこちの寺院で見かけるが、プラーンはバラモン教・ヒンドゥー教の神を祀るものだという性格上、王室寺院に多い。
そんなプラーンの中でも、ワット・アルンのそれは断然格別なのである。
個々の彫刻やデザインは細やかで、厳かでありながらもポップだし、その一つ一つが一体となったプラーンがこれまたでかい。
旅行者がここに足を運ぼうとするのがよく解る。
気がつけば、僕は夢中になってシャッターを切り続けていた。
塔に上ると、風が涼しい。
帰るつもりで対岸に出たが、改修中だったワット・ポーのクローズが午後9時であることを知り、入場。
大寝釈迦像は相変わらずの迫力で、摩訶不思議な眼差しが印象深い。
去年の夏にはヤンゴンのチャウッタジー・パゴダで優しい顔の巨大寝釈迦を見てきたが、ワット・ポーの寝釈迦は、聖なるものというにはあまりに俗世間の多種多様な思いを孕み過ぎている。
それが、いかにもタイらしい。
やがて夕闇が迫り、どうしてこの寺院の閉門が遅いのかが解った。
チェディーが美しくライト・アップされるのだ。
改修を済ませた美しい、モザイク画のようなチェディーがオレンジの光に映え、幻想的な色合いに染まってゆく。
刻々と空の色が変容し、宵闇が街を包み始める。
それにつれて褐色の光は存在感を増し、頼もしくチェディーを照らし上げてゆく。
ワット・ポーのチェディーは女性的な、お洒落で美しい仏塔である。
装飾も愛らしく、センスが高い。
そんなチェディーが、夜には化粧を変える。
期待していたワット・ポー・マッサージは閉まっていたが、それを超えて余りある発見だった。
帰りに、パフラット市場に少しだけ立ち寄る。
もう、インディアン・エンポリアムの閉店が迫っており、大慌てで買い物を済ませる。
思わぬ神仏のお導きに預かった今日を祝い、求めたばかりのインドのお香を部屋で焚いてみた。
思えばタイと縁のできるようになる以前、日本の部屋でも、一時期インセンスにはまっていたことがあった。
文献や写真・メディアでしか知りえない、見果てぬインドへの夢が、非日常的な匂いとなって、いつもとは違う「今日」を演出してくれていたものだ。
そしてあれから幾年も流れ、お香は「次にお参りに行くときには、これを持っていこうか? その方がいい匂いで喜ばれるんじゃない?」「今度里帰りすることがあったら、両親へのお土産の一つに、こういうお香を持って帰りたい。きっと喜ばれると思う」と、連れ合いと話すような位置にやってきた。
日本からは遠くインドから近いこのタイという国の地理に、バンコクからズーム・アウトした僕は、世界地図でも眺めるような俯瞰的な目になっていた。
スアン・ルアン(ラマ9世公園) 2011年1月30日(日)
スアン・ルアンには5年前に来たことがある。
当時つきあっていたタイ人の彼女が写真を撮りたいというので、彼女のセレクトで訪れた公園だった。
今にして思えば、食事やお互いの部屋を訪れる以外には、彼女と遊びに出かけた思い出のある唯一の場所だった。
悪いことをしたと思う。
いくらお出かけを渋り、家でゆっくりすることを好むタイ人だとはいえ、4年の関係の中で、それだけしか一緒にどこかを巡った思い出がないなんて。
ただ、それが彼女との限界だったのかもしれないとも思う。
男性の収入が圧倒的に高いケースでもないかぎり、タイでの男女関係は完全に女性上位である。
自身の仕事前後の送り迎えなどもちろんのこと、デート先のことにしたってちょっとした電話にしたって、ミスはすべて男のせいになり、男はあくまで彼女の機嫌をとり続け、始めから終わりまで甘い時間を提供しなければならない。
僕はそういう役にふさわしい人間ではない。
しかも、そのとき僕と彼女は公園で喧嘩になり、帰るまでには何とか仲直りできたが、くそ暑い公園内をさんざん歩き回ったあとの雰囲気の悪さに肩を落としたのだった。
その後、スアン・ルアンという名前にいいイメージを持つことができないでいた。
スアン・ルアンに入ってゆくスリ・ナカリン(シーナカリン)・ソイ55のパーク・ソイには、以前大丸が進出していた大型ショッピング・コンプレックスのセーリー・センターがあった。
高級志向の大丸は、近くにあるさらに大きな商業施設のシーコン・スクエアに客を奪われ、大丸撤退からのセーリー・センターは完全に衰退の一途であった。
近頃のバンコクでは、がらがらのブースにかろうじてIT関係のテナントが入っているのが凋落のしるしで、ここもそんな場所の一つであった。
しかし、ここを流通系のサイアム・ピアット社と不動産系のMBK社が買収して、フル・モデル・チェンジのうえ「パラダイス・パーク」と名を変えて再出発したのが2010年8月24日。
スアン・ルアンの帰りにここに立ち寄ろう。
どうやら、そろそろ僕自身も過去の清算をする時がやってきたようだ。
タクシーでスリ・ナカリン通りを走ると、日曜にもかかわらず、しばらく走ってぴたりと止まってしまった。
中央分離帯では何やら工事の地ならしが始まっており、高速道路かバイパス路を作ろうとしているように見える。
ただ、工事車両が行き交っているわけでもなく、工事用に取られている場所は中央分離帯の幅から大きくはみ出してはいない。
だから、地ならしが見られなくなるオンヌットとの交差点を過ぎても、渋滞はシーコン・スクエアを越えても続き、結局、セーリー・センターまで続いていた。
近頃開発が著しいという噂のスリ・ナカリン通りだけのことはある。
スワンナプーム国際空港にも近いこの地域は、今後さらに発展することに間違いはないだろう。
入場口で10バーツを払う(外国人料金は、いちおう40バーツらしい)。
名所・旧跡などが特別にあるわけではない公園で入場料金を払うのは、タイでは珍しいことだ。
ただ、そのおかげか、それとも単に1987年にオープンしたという新しさのせいか、園内は非常に美しい。
トイレひとつをとっても、床や便器が清潔に保たれている。
入口からすぐのところに、木の植え込みで作られた迷路があり、若者や子どもたちがこっちでもない、ここでもない、とはしゃいでいる。
そこを抜けると、児童公園の前に出てきた。
小屋があったり、ブランコがあったり、けっこう充実している。
日本には空き地にできたような小さな公園にも、滑り台やシーソーなどが設置されているが、タイにはこうした公共の遊具が少ない。
そういう施設は、大型のコンドミニアムなどの場合、敷地内にある。
もちろん、居住者かその関係者でないと使用することはできない。
おそらく、公共施設にするには、遊具の保全をカヴァーすることができないからなのだと思うが、お金を握っている者だけが権利を有し、囲い込みをするタイの姿こそ、資本主義らしい姿なのだろう。
日本はこうしたいくつかの点で、社会主義的な国である。
周辺の池には、珍しくハスが浮かんでおり、花をつけている。
仏教的にも重要視されるはずのこの植物はしかし、バンコクで暮らしているかぎりはそうそう目にするものではない。
そうしたあちこちに、小ぶりの太鼓橋のような形をした橋が架かっている。
かつての水の都でありながら、ゼロメートル地帯でもあるバンコクでは、実際にこういう形の橋が多い。
ぴょこっと上に飛び出したような形がかわいらしい。
ただ、公園ではなく市街地にあるものは、そこを通るたびに急激なアップ・ダウンを味わったりする羽目になるのだが。
ここにもボートがある。
30分で40バーツ。
けっこうな値段だ。
今日は日差しも強くないから、屋根のない手漕ぎボートに乗ってみよう。
ここのボートは、2つのオールがあるタイプのものだ。
というのは、タイでは運河や川を移動するための自家用ボートを所有している家庭もあるのだが、この場合には1本のオールの両方に水かきがついている形のもので、2010年8月1日の日記に、その初めてのトライぶりを少しだけ書いたが、一度だけですぐに要領を呑み込めなかった。
だが、日本にもよくある2本オールのものなら、決して上手ではないが、琵琶湖で強風にあおられ、同じ日にどこかの大学のボート部が遭難した状況の中、無事に釣り船を漕いで戻ってきた経験もある。
漕ぎ始めると、勘も戻ってきた。
タイ人の若者たちが、池の上でお互いのボートを紐で連結して、大声ではしゃいでいる。
また、水上に張り出した建物の下に入っていくボートもある。
こうしたことにすぐホイッスルを吹いたり、注意のアナウンスを流したりしないのが、タイのいいところである。
危険から人を囲い込み、事故に対する責任を行政や管理団体に迫り、子どもに何が危険なのかを実感できないようになっているどこかの国とはずいぶん違う。
ボートから降りて近くでバドミントンをやっていると、自転車で見回りをやっているおじさんに「ここではだめだ」と言われた。
球技が許されているのは、園内にあるサナーム・ラートという広場だけだという。
そちらのほうに歩いて行くと、たしかに大きな広場が現れた。
そして、やはりサッカーやバドミントンなどに興じている人たちがいた。
ここでも驚いたのは、そばに公用蛇口があったこと。
バンコクでは有料トイレに入るか、ミネラル・ウォーターを買う以外には、清潔な水を手にすることはほとんどできない。
これも、入場料のおかげであろう。
閉園が近くなり、ゲートを出てソンテウに乗ってパーク・ソイに出る。
パラダイス・パークのあるこの交差点は、この時間もやはり混雑しているので、少し手前で降りて歩く。
パラダイス・パークはたしかに最新型のショッピング・コンプレックスになっていた。
まず、ここのヴィラ・マーケットは規模が大きく、取り扱っている商品が圧倒的に多い。
野菜コーナーには農家からの直送野菜コーナーらしき場所があり、これまでどのスーパーでも置いていないと言われたパック・プラン(ツルムラサキ)を、「いつもは置いているんだけど、今日は品切れ」と言われた。
マグロの切り身がケースに陳列され、ブロックの大きさごとに値がつけられているのも、初めて見た。
ダイソーのような値段均一コーナーもあるかと思えば、小さいながら、輸入物らしき化粧品や子ども用品などの専門ブースもある。
大きな敷地の反対側にあるセーリー・マーケットは市場っぽい雰囲気を残した専門店街。
お茶の販売店などもあり、広い趣味に応えてくれる。
また、4階の飲食店街には、CoCo壱番館や大戸屋など、今をときめく日本からの進出レストランも入店。
さっそく順番待ち状態になっている。
そんな中で、僕らが食事をしたのが"ZuRuZuRu"という店。
なんと、ここはインスタント・ラーメンを食べさせる店なのである。
日本・韓国・インドネシアなどのインスタント・ラーメンを選び、それを単体で買って帰ることもできるし、そのまま茹でてもらうこともできるが、トッピングを乗せて調理してもらうこともできるというシステムになっている。
さすが、屋台でもインスタント・ラーメンがメニューにあったりする国である。
お値段は150バーツくらいしたので、お薦めすることはできないが。
中ほどの階の様子を見歩く時間はなかったが、新鮮なショッピング体験ができた。
やたらと紋切り型の目につくタイで、他にはないということを味わえた、貴重な一日だった。
パタヤー〜ジョムティエン/フアマーク・スタジアム/スアン・サイアム 2010年大晦日(金)〜2011年1月3日(月)
毎年、正月休暇は4日間。
今年も、ほとんど何も予定を考えないまま休暇を迎えた。
日本で暮らしていると「次の連休をどう使おうか」とあれこれ思いを巡らすのも楽しいし、そうしたプレ旅行や、写真整理などのアフター旅行を旅行そのものに加えてしゃぶりつくそうとしていたものだが、バンコクにいるとその感覚が消える。
タイ化しているともいえるが、日本のように旅先への手配をしっかり済ませ、家族や友人にもどこへ行くのか伝えておかなければ始まらない環境ではないというのが大きいのだと思う。
また、この延長線上で、仕事のある間は日々の暮らしのことだけしか頭にない状況にあるともいえる。
さて、連休の使い道である。
先日の書籍入手にこの4日間を充てることは、もちろん考えていた。
しかし、僕のほしい書籍を手に入れるには、チェンマイにある大学を訪問しなければならない。
また、そのほかにもせっかく北タイに足を延ばすなら、他地域で手に入れたい書籍が幾つもある。
書籍を手に入れられる可能性を考えれば、正月前後は現実的な時期ではない。
この計画は後回しにしよう。
大晦日の朝、レンタ・カーの店に足を運んでみて、空車だったカムリを借りた。
ただの思いつきである。
もうかれこれ6年以上車の運転から遠ざかっている。
タイでの運転は8年のご無沙汰。
そろそろ一度くらい運転しておかないと、ペーパー・ドライヴァーとはいわないまでも、恐くなりそうだ。
ガソリンはほとんど入っていない状態なので、ガソリン・スタンドで1000バーツ分給油してもらう。
…と思っていたら、請求額は2460バーツ。
満タンになっているではないか。
カムリのレンタル料金が24時間で2000バーツ。
それより高くつくとは…。
がらすきのモーターウェイを飛ばして快調にパタヤーに入るが、市内は大混雑。
ニュー・イヤーのイヴェント目白押しのパタヤーだから仕方がないが、駐車場にも困り、ようやく昼食にありついたのは午後3時半。
中華料理店レン・キーではこれまでに外れがないが、ここのトム・ヤム・ナム・サイ(澄まし汁のトム・ヤム)は、押しの強すぎない酸味と香りの高さが絶品。
空きっ腹の渋滞での疲れがみるみる取れていく。
夕刻になってしまったが、駐車ができる浜辺ということで、ジョムティエンへ。
今回は自分の運転なので、以前ソンテウで移動したときの数少ない記憶を頼りに進むと、初めて見る場所に出た。
どうやら、ジョムティエンの北の小さなビーチに出たようだ。
シー・ヴューのホテルと高層コンドミニアムがあるほかは非常に落ち着いた場所で、時間のせいもあろうが、人も多くない。
悪くないビーチだ。
泳ぎはせず、砂浜に腰を下ろし、胸いっぱい潮風を吸い込む。
だが、日本とは違って、タイの浜では磯臭さがかなり薄い。
いつも感じることだ。
こんなところにも、ファランの姿がちらほら見える。
彼らのアクティヴな姿には感心する。
宵闇が迫り始めて、車でバンコクに引き返す。
車のレンタルは24時間。
ジョムティエンで宿泊しても、翌日朝の混雑状況がはっきりしないのは不安だ。
今日バンコクに戻るなら、混雑はまったく考える必要がないはずである。
帰りがけに、モーターウェイの土産屋で海鮮物の干物でも買って帰ろう。
元日はつい夜が遅くなったせいで、休養。
2日(日)、連れ合いとスアン・サイアム(サイアム・パーク)で泳ごうということになり、ラームカムヘーンのビッグCに行くが、目当ての水着は売っていなかった。
店員に訊くと、フアマーク・スタジアムの向かいに売っている店があるという。
歩いて行くと遠いということでバスに乗ると、田舎出の連れ合いはステップのところで早くも閉まるドアに挟まれてしまい、ふて腐れてしまった。
しかも、降りるところを間違えて歩く羽目になり、ますます雰囲気は悪くなる。
小心者のくせに機嫌を取らない僕だが、このあと買い物が始まればムードが一変することを知っている。
目的地に近づいて初めて気づいた。
ラームカムヘーン・ソイ65にはスポーツ・ショップFBTの、背の高いビルが建っているのだ。
そうか、ここのことだったのか。
案の定、連れ合いはショッピングに夢中になって、試着の際には僕もいろんなサイズを探して試着室とを往復するくらいのサーヴィスは試みる。
収穫は薄手の長袖ランニング・シャツと、それに合わせたランニング・パンツ。
実際にランニングをするのかどうかはこの際別にしていただいて、吸汗性・通気性に優れた薄手の長袖というのは、このタイでは使い勝手のよいアイテムである。
日差しを防いでくれる長袖は、赤道に近い地域にも必要なものである。
しかし、なぜかこれまでタイでは日頃の買い物の中でこういったアイテムに巡り逢えなかった。
薄手の長袖というと、ひたすらYシャツ。
なぜかタイは商品に関してひたすら金太郎飴なのである。
第3次産業人口がこんなにも多いのに、そこでの売り物と来ると、やたらにどこでも手に入るものばかり。
これはたぶん、買い手の方でも珍しいアイテムなど大して目が向かないということなのだろう。
以前の日本でいう舶来物の感覚で、欧米や日本・韓国などからのインポートとなるとブランドの箔がついて、目新しいものにも振り向いてもらえるようだが、ドメスティックとなると、安定商品ばかりになるようだ。
さて、せっかくフアマーク・スタジアム近くに来たので、ちょっとぶらぶらしてみることに。
どのみち、遅くなった時間からスアン・サイアムに入場してももったいない。
日陰で涼んでいるうちに、どこかのカップルがバドミントンを始めたので、僕たちもFBTに引き返して、安いセットを買ってきた。
始めるまではからだがだるかったのだが、汗をかき始めると、どんどん軽くなってきた。
日頃の不摂生が発汗とともに体内から押し出されているのが感じられる。
日が傾き始めると、人出も多くなってきた。
サッカーにバスケット・ボールにバドミントン。
からだを動かしている人々はみんな、ご満悦の表情に見える。
昼下がりからテントの用意が始まっていた一角でも、屋台が開いていたので、いくつか買って帰る。
翌朝は早くから用意して、オー・ボン・パンで朝食を済ませてタクシーに乗る。
スアン・サイアムまでは信じられないくらいに車も少なく、あっという間に到着。
入場は300バーツ。
この料金は、遊園地自体はあまり宣伝したくなさそうな雰囲気なのだが、サイアム・ファンタジー・パスという名前で、外国人でも普通に購入できる。
ただ、何も指定せずに「大人1人!」とやると、600バーツのサイアム・デイ・パスを買うことになるようだ。
違いは、いくつかの人気絶叫マシーンのフリー・パスがついているかどうか。
足がぶらぶら状態のインバーテッド・コースターは乗車料に300バーツかかるので、これに一度でも乗る人は元が取れるわけだが、僕らはドリーム・ワールドで乗ったバイキング(振り子状に揺れる船型の乗り物)でさえ恐いくらいなので、絶叫系は見ているだけですべてパス。
だから、これでいいのだ。
しかし、タイ人客は一度乗ったコースターの下車後、すぐに乗車口に走る人が多い。
他にもかなり恐そうな落下型コースターやフリー・フォール、バイキング、急流滑りなどもあり、日本人の感覚からいうと、ほかも廻ってみて「面白かったからもう一度」となりそうなものを、タイ人の場合、「面白いものは即、何度も」となる。
ここにはくっきりと国民性が出ているようでおもしろい。
一点に集中せず、まずはおしなべて全体を知らないことには時間の合理的な使い方ができないと考えるのが日本人。
面白いと思ったものには何ものも省みずむしゃぶりつき、気のすむまで楽しみつくそうとするのがタイ人。
やはり、タイの方が日本よりずっと個人主義に関しては先進国なのだ。
僕らはまず日本人らしく、園内全体を眺められる浮上式観覧タワーに。
乗り物の中はクーラーが効いていて涼しい。
入場時にもらうマップでもだいたいの様子はわかるが、やはり実物の肉眼に越したことはない。
乗り物もそこそこに、この遊園地ならではのウォーター・パークに。
ここにはウォーター・スライダーのほか、リヴァー・プールや波の打つプール、滝のあるプールなどがある。
敷地面積も広く、ちょっとしたヴァカンス気分。
園内には、ファランはもちろんのこと、意外にイスラムのヴェールをかぶった女性の姿が多い。
これは昨日のファマーク・スタジアム周辺でも感じたことだ。
ファランは滝でロック・クライミングを試みて、監視員に注意を受けている。
それがまた、40代あたりの男性だ。
あくまでどこでもアクティヴなファランなのであった。
以前ここに来たのは、ほとんど10年前。
そのときには監視員はただいるだけで、ホイッスルを鳴らしたりすることはなかった。
ちなみに、そのときにはまだほとんど絶叫マシーンはなくて、それなのに外国人の入場料金は500バーツ。
ただし、僕がタイ語を話せることで、「実は年間パスの480バーツの方が安いんだよ」と教えてもらった。
年内にもう一度訪問することはなかったけれど。
そのとき、水辺を歩くのにサンダルが必要だということは分かっていたはずなのに、すっかり忘れてしまっていた。
とにかく地面を歩くと足の裏が痛い。
しかも、水辺近くまで土足が許されているので、小さな傷ができて雑菌が入るのも恐い。
だが、連れ合いもタイ人たちも裸足でまったく平気である。
足の裏が鍛えられているということでも、日本人は完敗。
ここのチューブ式ウォーター・スライダーはお客が落下して死者を出したが、見事に再開していた。
ただし、4本あるチューブのうち、落下したと思わしき1本を使用禁止にしているだけのことだった。
さすが、タイ。
しかも、継ぎ目の調子が悪く、肘を強くすりむいたのも前回と同じ。
また、いつか事故になるのではないかと思われる、高所からの滑り台にも何ら改良が加えられていない。
ここは、ビルの7階くらいだと思われる高さから水の流れに乗って滑り台を降下するものだが、途中、2度水平になる箇所では、どちらも尻が完全に宙に浮くという代物である。
しかも、滑り降りた着水後のプールがやたらと小さい。
事実、プールの水面を水きり状態で跳ね飛び、プール・サイドですっくと立ち上がる技を披露する青年に喝采が挙がっている。
前回、尻を強打して打ち身になったので、ここもパス。
それにしても、この年末年始はほとんど涼しくならなかった。
肌寒く感じた日は、すべて合計しても2週間ほど。
こうして年始に泳げることも楽しいが、暑季・雨季を通して暑さにやられっぱなしの日々が続くと、やっぱり涼しさが恋しい。
季節感の多彩な日本で生まれ育った僕には、変化が乏しく感じられるのも少しさびしい。
プールからあがると、からだがぼんやり熱い。
その感覚に、子どもの頃を思い出しながら、クウィティアウをすする。
売り子の態度は悪いし、クーポン券は払い戻し不可。
左うちわの園内商売がそうさせるのだろうか。
こういったところに垣間見られる雰囲気では、ドリーム・ワールドの方がずっといい。
帰りのタクシーは、来るときに通ったエカマイ=ラーム・イントラ通りではなく、バン・カピからラームカムヘーンを抜けるコースで、平日には信じられないくらいに空いているので、距離が近いこのコースだと瞬く間に自宅に到着。
同じく、瞬く間に過ぎ去った連休の分だけ、洗濯ものがうず高く積もっている。
連休=旅の形でほぼ例外なく過ごしてきた僕のバンコク・ライフも、連れ合いができたことで大きく変化した。
大切な人が近くにいると、住めば都のことわざも光り輝いて見える。
ディスカヴァリー・バンコクも悪くない。
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