タイヤイ族(シャン族)・少数民族とミャンマー政府


まだ書きかけの状態です

01 はじめに 〜日本人のボーダーレス意識

世界貿易の拡大・航空網の拡充・インターネットの発達など、さまざまな意味あいにおいて、グローバル化の時代であることが叫ばれ、これに比例してボーダーレス社会への期待感が以前より若干リアルな響きで語られるようになってきた。
国家という枠組みを再考することに関して、日本人の多くは世界でも珍しいほど、とりわけフットワークの軽さを持っている部分があると感じる。
ここには戦後教育の徹底した平和主義や単一民族国家であるとの幻想、国民的宗教の存在しないこと、歴史の中で国家が消滅した経験のなさ、経済成長後の生活で現実感が喪失している現象などが大きな影響を与えていると思われるが、相手の立場を思いやって物事を考えてみようとする日本人特有のスタンスが、国境を超えた世界を夢想しようとするという美的な面も存在するのではないかと考える。
だからこそ、ダライ・ラマとチベット問題に対する日本の一般人レヴェルでの応援は、自分も日本人の一人として理解できる。
中国の横暴が国家を圧殺し、民族を解体しようとしている姿には、非常に憤懣やるかたない思いである。
チベット問題については、いつか採り上げたいと思っているが、まだ自分自身があまりに不勉強に過ぎる。

そこで、ここにタイヤイ族(シャン族)の問題を採り上げたい(実はこの面でもまだまだ不勉強なのだが、共に学ぶ姿勢で書き進めたい)。
このページでの話題の多くは、タイヤイ族だけにとどまらず、ビルマ領内に暮らす少数民族とミャンマー政府との関係性となろう。
表記としては「タイヤイ(シャン)」という言葉を用いても、そっくりそのまま他の少数民族の名をあてがうことのできる箇所が多いことを書き添えておきたい。



02 パンロン会議体制の崩壊

タイヤイ族は紀元前1世紀ごろに現在の中国中央部から南下してきており、元はタイ王国のタイ族・ラオスラーオ族・北インドのアホム族などと同じ民族であると考えられている。
タイの古代史に登場する北タイの「ランナー王国」は、先住民であるといわれるモン・クメール系民族やカレン族などを含みながらも、タイ族が多数民族となっている国家であったが、この王国が現在ではタイ北部・ビルマ東部・ラオス西部に国境で分割され、タイヤイ族もそれぞれの国に定住している(とはいえ、イギリスやフランスがインドシナの植民地化を進めるまで、東南アジアの国家は中央集権化された王が国境線までの国土を治める近現代的な国境線を有していたわけではなく、力を持った主要都市を中心とする小国が、より強い力を持った大国に朝貢する形で自治を許される形をとっていた。城郭都市としては、現在タイ領のチェンマイ・チェンラーイ、現在ビルマ領のケントゥン(チャイントーン)、現在中国領のチェンルン[現:景洪]、現在ラオス領のチェントォーン[現:ルアンパバーン]があった)。
この中で、最も人口的に多くのタイヤイ族が居住しているのがビルマ北東部に位置するシャン州である。
シャン州はビルマ連邦の国土の23%を占める同国最大の州であり、また、タイヤイ族はビルマ国内ではビルマ族に次ぐ人口を有している(ビルマ族68%、タイヤイ族9%)。
「連邦」の名のとおり、このビルマは戦後日本軍の撤退に伴って、宗主国であったイギリスから独立を勝ち取るために挙国一致を図り、英国・日本植民時代にそれまで自治を大幅に認められていた藩の首長が、各少数民族をビルマ族と対等の立場に置くアウンサン将軍の召喚により開催された1947年のパンロン会議での取り決めにより、連邦制を敷いての独立となった。
各藩王の受けとめ方はそれぞれであったが、経済・福祉面向上に対する僅かな将来への希望を除けば概ね、藩王が旧宗主国へ働きかけたビルマ中心勢力に対する仲介の失敗と、動かし難い時代の流れ対する消極的な選択であった。
ただ、アウンサン将軍の人間性は信用に足るという藩王が多かったことが、パンロン会議体制発足に不可欠な賛同を集めたという側面も存在した。
ところが、同年にビルマ独立の父と称えられたアウンサン将軍が暗殺され、連邦制は地に足のつかない状態になってしまった。
パンロン会議の有効期限は10年であり、シャン州に対しては10年後に連邦国からの離脱を決定する権利が付与されていたが、1962年にはビルマ国軍のネ・ウィンがクーデターを起こして、この国はそれ以降、軍事政権となったままである(2010年の第2回国内総選挙では明らかに軍事政権出身者が権利を勝ち取れるようになっている不正選挙が行われたが、民選議員扱いとなっている)。
アウンサン将軍の娘であるアウンサンスーチーの民主化運動を自宅軟禁や投獄によって封じ込めてきたことは、一般によく知られていることだと思う。
アウンサンスーチー率いるNLDが、1990年に行われた初の国民選挙で圧勝したにもかかわらず、さらに民主化運動への弾圧を強めた軍事政府のことである(当然のように、パンロン体制は崩壊。
そして、少数民族が独立のために蜂起し、長らく各地で内戦状態が続いている。
日本では故・西川考純氏が義勇兵となって参加していたカレン民族戦線の名が知られていると思うが、カチン独立軍(シャン州の北隣がカチン州である)などとともに、シャン州独立軍やワ州連合軍(ワ族はカンボジアの主要民族であるクメール人と同じモン・クメール系民族)といったシャン州での軍隊も存在し、政府軍と停戦関係にあるものの、いまだに武器を捨ててはおらず、散発的な戦闘が起こっている状態である(2012年現在、ビルマ北部のカチン州では政府軍との戦闘が恒常化している。また、カレン民族同盟とミャンマー政府とは、2012年に初めて停戦に合意)。

ただし、2011年からはテイン・セイン大統領を中心とした政府がアウンサンスーチー氏の軟禁開放や政治犯の釈放、カレン族など少数民族との停戦、開放経済化などを実施して、これまでの強硬路線とは違った様相を見せ始めている。
これまでにないミャンマー政府の動向からは目が離せない。



03 アヘンとの関係

かつてはこの地域の一部に、クンサーという男が君臨していたことがあった。
クンサーは麻薬王として知られる。
中華民国政府であった中国国民党が毛沢東の共産党に敗れ、一部の軍隊が北タイに逃れてきて、ヒン・テックという街を中心にして、アヘンで得た資金を元手に国土奪還を企てることになったが、その中の軍人を父に持ち、タイヤイ族を母とするクンサーは、モン・タイ軍と呼ばれる軍を率いて麻薬ビジネスを伸張させた。
その後、国際手配を受けてからはビルマ領内に移って民族解放を大義名分にしていたが、1997年にビルマ政府軍に投降した(というよりも、以前から連絡を取りあっていた政府と手を結んで、軍を解散する交換条件に政府の庇護を受けて一大財閥を築いた)。
麻薬製造販売が独立軍の収入源となっており、これを元手に武器を購入するという面では、ワ州連合軍もまったく同じ構造となっている。
よく言えば独立や自治を勝ち取るための軍の維持・武器調達の資金を麻薬に求めているということになろうが、クンサーの麻薬事業は、もともと国軍と通じていたこともあり、ビジネスとして扱われていた雰囲気が濃厚である。
そして、この事実が一般のタイヤイ族のイメージを非常に悪くしている。
だが、情報や教育の行き届かないシャン州の庶民はもちろん、我々もクンサーやワ州軍のこうした事実をほとんど知らない。
そのギャップを我々はもう一度見直してみる必要があろう。

一方、ミャンマー政府の搾取で農業だけでは生活が成り立たないという理由で、ケシ畑を持つ者もこの地では少なくない。
タイヤイ人たちにも、アヘンが好ましからざることに用いるものであるという意識はある。
実際に快楽を求めて吸引する人もいる。
ただ、女性・子どもを中心に、アヘンは薬であると見ている人々の数の方が多いようである。
この見方は多分に主観的ではあるが、換金作物を自分たちが使用する場合、依存症に陥る危険性のある快楽吸引よりはるかに、西洋医術の薬が高価で手に入りにくいのと引き換えに薬として治癒を目指す使用法の方が現実的によい利用法であること、そして女性と子どもにほとんど快楽吸引の中毒者が見られないことから想像できるものである(隣国タイでは麻薬使用の低年齢化・女性への蔓延が広がり、低所得者に愛好されていることからも、快楽目的の使用である特徴が表れている)。
もちろんだからといって、好ましからざる利用をされると分かっているものを他所に販売してよいわけはない。
しかしながら、これといった産業がない状態であるうえに、政府からの取り立てが厳しいため、税金と関係なく現金収入の確保が見込める方向に流れやすいこと、そして、タイヤイ族自身に薬のイメージのある作物の栽培であること、さらに、アメリカのCIAが対ビルマ政策としてケシ栽培を積極導入したことを考え合わせる必要があると考える。
ミャンマー政府からの取り立てに関しては、一般的な税としてのみならず、横暴な政府軍兵士による多大な横流し要求も含まれており、負担が相当に大きい一方で、ビルマ独立までシャン州は比較的豊饒な土地であったにもかかわらず、その後この地が相当に貧しい地域へと転落させられたというダブル・バインドが存在する。
CIAの件に関しては、ビルマ政府と対立状態にあったアメリカ政府が、ビルマの内部崩壊を狙って地域住民のケシ栽培を密かに促進し、軍の収入減を確保する作戦についてのことである。
クンサーやワ州軍はまさしくこの方法論で成立していた。
そしてこの戦略が失敗と見るや、アメリカはこの地でのケシ栽培を世界最大級であると非難を始めるのである。
この唖然とするような身の翻しには、自らの作戦を隠蔽する目的のほかに、結局ケシ・ビジネスを牛耳ったのはシャン州に接している中国人となり、その収益の源を壊滅させる必要性に駆られたからである。

タイでは以前ケシ栽培で知られた北タイのメー・サロンという村が、タイ政府の指導により茶の栽培に転じ、一定の成功を挙げている。
しかしこれには、この村の住民の多くが中華民国の国軍によって占められていたという背景がある。
以前、メー・サロンがタイ政府の実効支配地域でなかったのもそのためだし、だからこそケシ栽培も盛んになった。
そして、茶の栽培に優れたのも、地理条件のみならず、村民の多数が中国人であったことに大きく関係している。
国内の安定化の必要性から、資金的な部分を含めて転作の後押しをタイ政府が強力に推進したという背景もあろう。
その点、タイ族と源を一にするタイヤイ族には、東南アジアの優等生タイ王国と差別化を図ることのできるような作物がこれといって見当たらない。
また、この茶の成功で理解していただけるとおり、畑の転作を考えた場合、山あいの地域では流通がポイントになってくる。
メー・サロンは大きな街まで距離があり、青果を売り物にするのであれば、チェンラーイにしてもチェンマイにしても、すぐそばの後背地に新鮮さの面でも輸送を含めたコスト面でも負けてしまうだろう。
そういうことでいえば、乾物である茶葉は勝負になりえる。
だが、タイヤイ族がケシ畑を転用したとして、青果は消費者が同じ地域の居住者に限られるため、利益が少ないし、茶葉や煙草などの葉の栽培についてのノウハウが少ない。
それに、これが最も重要なところだが、もし転用で充分商売になる作物が見いだされた場合、ミャンマー国軍や政府がそれを蹂躙する。
上前というにはあまりな額をお目こぼしとして持って行くし、自分たちが同じ商売で利ざやを狙えるとすればもっと大きな資金とネットワークで商売を奪い取ってしまい、それもだめなら放火や盗難、さらには殺人や他所での強制労働など非道な手段に及んできた。
モンスーやモゴックなど、世界的なルビーの産地と言える鉱山は、両方ともにタイヤイ族の居住地にあるが、政府に完全に握られている(モゴックはシャン州から無理やり切り離されて、ミャンマー政府の直轄地である「管区」に入っており、モンスーの鉱山はミャンマー政府とワ族に押さえられている)。
転用よりも何よりも、まずこの時点ですでにタイヤイ族からは可能性の芽が摘み取られているのが現状なのである。



04 少数民族に許されていないこと

一般的なタイヤイ族、そして少数民族はこうした歴史背景から、生まれ育った地域から国内各地への自由な通行も制限を受けていることもあり、収入の見込める職業に就くことが難しくなっている。
かつての日本の関所よろしく、ミャンマー国軍の検問所が国内のあちこちに設けられており、特に未成年の他所への移動は基本的に認められていない。
また、こうした少数民族に国際的な接触の機会を持たせたくない理由から、我々日本人を含む旅行者のシャン州での自由旅行地域はかなり制限されており、ましてやタイヤイ族には国外へ出る公的な方法など、選択できないに等しい状態にある。
出生届もまともに扱われておらず、戸籍がない(あるいはあってもその意識が民族にない)状態だから、パスポートが発行される見込みもない。
生活苦から必要にかられて国外へ出たタイヤイ族に待っているのは、訪問国で難民認定がもらえず、強制送還になったとしても、今度はビルマ政府に追われる立場となってしまうのが現実だ。
現在、タイ政府との間では2年間有効の「テンポラリー・パスポート」をタイ国内で発行することができるようになっているが、安価な労働力を求めてビルマからやってきた人々を住居込みで受け入れている在タイ建築業者・水産加工業者などは、このテンポラリー・パスポートやタイでの就労許可証の取得料金を相当に上積みし、副収入としている。

ミャンマー政府の、いわゆる普通のパスポート発行は、タイに暮らす僕の目から見ても難しく映る。
人によっては簡単だというが、それはおそらくケース・バイ・ケースがタイよりも広い範囲になっており、その結果、運よくイージーなケースを経験できた人からの話を聞くことがあったからだろう。
まず、2010年8月時点のヤンゴンでは、外国人である僕が、タイヤイ族である妻(当時は婚約者)のためにパスポート取得の方法を尋ねることすら許されなかった。
足止めを食らった庁舎の前で横柄な護衛兵と口論になり、ほんの一瞬だが銃口を向けられた経験を、僕は一生忘れることはあるまい。
当時軍政であったミャンマー政府は、袖の下を一切受けつけない態度を見せていたが、民間の業者に依頼すると、その裏金のレイズ次第でパスポート発行スピードが著しく違ってくることがのちに判明した。
しかし、適切な場所を訪ね歩くこと自体が、アンオフィシャルだけに難しい。
一般的には、パスポート発行までに最低1ヶ月は必要だということなので、ヤンゴンとある程度往復できる場所に居住しているか、いつ発行されるやもしれぬパスポート発行日をヤンゴンで宿泊して過ごせる金銭的・日程的な自由のある人間でないと、受け取りはかなり厄介である。
ましてや、パスポート取得にはビルマ語での口頭試問もあり、タイヤイ語を母語とするタイヤイ族には著しく不利である。
また、郷里で知らせを待とうにも、受理日を知らせるのに、いったいどのような方法が用意されているのかはまったく不明である。

また、これはビルマ族にも共通しているのだが、自国民と外国人との婚姻については、自国民男性と外国人女性の結婚は認められているが、自国民女性と外国人男性のケースでは認められないようになっている。
これは、以前に起こった人身売買問題対策であると説明されているが、より社会的立場にある男性が外国人である場合に想像できる国際間摩擦を入り口の時点で回避しようとしているようにも見える(アウンサンスーチーの夫もイギリス人である)。

ミャンマー政府は学校の普及に努めているが、ビルマ語以外での学習を認可していない。
同様のケースはアジア諸地域で発生しているが、他所でも触れているようなミャンマー政府の長きにわたる圧政から、少数民族が子の学校への通学意識を持てないのは当然であるといえよう。
結果として、寺子屋での学習が主となるが、こちらは読み書きがそのほとんどであるため、算術や歴史・世界情勢などをほとんど窺い知ることなく、10歳前後の2〜3年ほどで学業を終えるケースが多い。
当然のごとく、他国へ渡った場合には学業的な下積みの少なさと立場の弱さが搾取を生む。
それに、一般的なタイヤイ族は自分たちの暮らしている地域の名称すら、村や町単位でしか知らない。
独立軍が唯一系統だった団体であるにもかかわらず、独立した場合の名称すら持っていない状態になっているわけだが、これも民族固有の社会科的な学問を許されていない状況が生み出しているといえよう。



05 ミャンマー国軍は地方でどういうことをしてきたか

シャン州に限ったことではないが、ミャンマー国軍絡みの誘拐的な強制移住・強姦・暴行・殺人・強盗・放火の報告は後を絶たない。
これらがミャンマー政府の地方への管理力の問題にあるのか、あるいは兵士たちのモラルにあるのかはよく分からない。
いずれにせよ、女性への暴行後殺害率の高さにせよ、村の焼き打ちを行うという方法の卑劣さにせよ、非人道的と言わざるを得ない。
タイヤイ族の間でビルマ人がどういう存在であるのかの印象は、改めて問うてみるまでもなく、こういった事例が示している。
「タイヤイを根絶するか、シャン州から追い払うかを考えているのだろう」というのが大方のタイヤイ族の見解である。
中央政府も軍政なので同一機構上にあるのだし、どのみち政府自体が腐敗しているので、こうした意見にもそのまま肯けるが、一方で、末端の兵士たちの掌握を政府でも軍内でもできていないことも想像できる。
地方における権力掌握のための圧力と、末端兵士の暴虐は似て非なるものであるはずだ。
ミャンマー政府はそこに意識的になる必要がある。

強制移住は誘拐から始まる。
事前の告知も何もなしに捉えられた人々は、どことも知らされず遠く離れた他所に送り込まれていくことがほとんどである。
むろん、家族にも通知など行われようはずもない。
これまで年少の者たちも、数多く強制移住の対象となっている。
虜囚としてさんざん酷使され、生きて故郷に戻る可能性も低い。
脱走して故郷に帰ろうにも、その資金も用意もないうえ、国内には軍による検問所があちこちに配されているので、その実現は容易ではない。

強姦は先にも述べたように、最終的に殺害へと至るケースが多発している。
簡単な話、死人に口なしだからだ。
その割合は調査ケースの25パーセントに及ぶと、チェンマイに本部を置くSHRFとSWANの共同調査である"Lisence to Rape"は報告している。
複数、時によっては多数の兵士による強姦は半数以上であるといわれる。
もちろん生き残ったとしても、まず間違いなく泣き寝入りである。
万一妊娠してしまったら、堕胎する資金を持っている家族も少なく、またその施設もごく限られているので、子を産むことで一生心の傷を背負っていくか、あるいは家族への迷惑も考えて自殺というケースもあると聞く。
家族への迷惑といえば、強姦被害を機に、売春産業に就業するべく主にタイへ出てくるケースも耳にした。

暴行に至っては、さらに日常茶飯事である。
兵士からの暴行がひどすぎたために脳の機能を欠損した人々や、一生癒えることのない肉体的障害を背負うようになってしまった人々が、十数戸程度の小さな村落単位で存在する。
各種嫌がらせは、これを経験したことのない家族はないと言っていいのではなかろうか。
涼を求めるように訪れた兵士が金品を取り上げたり、米などの作物や牛や水牛など家畜を略奪したり、従わない集落を見せしめに焼き打ちにしたり、やりたい放題である。

こうした悪辣な暴挙は、現在も継続しているし、日常化してもいる。
2012年現在、殊にカチン州からは様々な悲報が続いているので、人道的関心をお持ちの方は、ぜひ情報を収集してみてほしい。

シャン州の集落では、こうした事態に備えて集落長が独自の連絡網を用意している。
とはいえ、携帯電話の通信網からは完全に取り残されているビルマ内のことであるから、その連絡は容易ではない。
私はとある集落でどのような方法を用いて連絡を取り合っているのか、たまたま知ることができたが、その方法をここに記すことが万一、少数民族の防衛線を切り崩し安全を脅かすことがあってはならないとの見地から、敢えて具体的には書かないようにする。
事前に軍の不穏な動きを周辺の集落どうしで伝達することができても、せいぜい金品を隠したり、駆り立てられそうな若者を山へ避難させることくらいしかできないことも付け加えておく。



06 テイン・セイン大統領による政府の変化

これまで( )内のいくつかで記したように、2010年選挙を境にしてミャンマー政府はこれまでと違った対内外へのアプローチを見せている。
まずは日付ごとに主だった事実を追いかけてみよう。

2010年
4月29日 テイン・セイン首相が軍籍を離脱し、連邦団結発展党(USDP)を設立。
6月4日 中国との原油・天然ガスのパイプライン着工。中国は海路によらないエネルギー確保に目星をつけた。
10月21日 国旗を変更。
11月7日 第2回国内総選挙。外国選挙監視団やジャーナリスト締め出し、NLD不参加(自らボイコット)など、不正と公正が疑われている。
11月13日 アウンサンスーチーが解放される。
2011年  
2月4日 正大統領にテイン・セイン(連邦団結発展党:USDP代表)、副大統領にサイ・マォ・カム(日本の新聞などでは「サイ・マゥ・カン」と表記。USDP所属。タイヤイ族[シャン族])とティン・アウン・ミン・ウー(国家平和発展評議会:SPDC所属)が選出される。
3月30日 テイン・セインが軍事政権後初の大統領ポストに就く。国家平和開発評議会(SPDC)は新政府に政権を移譲。
6月10日 娯楽・スポーツ・児童文学・情報科学・健康に関する週刊誌・月刊誌の事前検閲制度を廃止。
8月12日 10日に情報相に就任したチョーサン氏が首都ネピドーで初の記者会見開催。政府広報チームに11人配置。
8月18日 テイン・セインが少数民族武装勢力と和平交渉を進めることを発表。
8月19日 アウンサンスーチーとテイン・セインが初会談。
8月26日 元国軍将校ネーミョージン氏が電子通信法違反の罪で禁固10年の実刑判決を受ける。
9月 順次インターネットのアクセス制限を解禁開始。
9月7日 ヤンゴンで発行されている週刊誌「メッセンジャー」「モニター」2誌に対し、アウンサンスーチーの写真を表紙に使用することを許可。
9月26日 2007年の民主化デモ犠牲者追悼集会をミャンマー警察が容認。メディアにも取材の自由が与えられる。
9月30日 中国が開発予定をしていたビルマのミッソン・ダム建設を中止。これまでの中緬関係に比べて若干距離感が出た。
10月1日 政府公認の外貨両替所がヤンゴン市内に開設され、実勢レートに近い両替を開始。
10月8日 情報省のティン・スウェ出版検閲・登録課長が、アメリカの報道番組で検閲を近い将来廃止するべきだと発言。
10月26日 政府公認の外貨両替カウンターがヤンゴン国際空港内にもオープン。
11月17日 2014年にASEAN議長国就任予定が決定される。
12月2日 南部シャン州軍(SSA-S)が政府と停戦合意。
12月10日 戦闘の続いているカチン独立軍(KIA)に対する政府軍攻撃の停止を命じる。しかし、その後も銃火は止んでいない。
2012年
1月4日 刑務所での受刑者に対し恩赦を実施。政治囚は40人釈放。 
1月5日 NLDの政党申請がミャンマー政府に受理される。
1月12日 これまで64年間に和平決議が一度もなされたことのなかったカレン民族同盟(KNU)と停戦合意。
1月13日 かつて軟化・開放路線を採ったキン・ニュン元首相が軟禁から解放、1988年の民主化運動の学生リーダーであるミン・コー・ナインらが釈放される。
オバマ大統領がミャンマーに大使を派遣し、ミャンマー大使の米国内受け入れると発表。大使の復帰は20年ぶり。
1月14日 651人の政治犯釈放開始。
1月26日 ビルマ国内の6少数民族武装勢力と和平に関する原則合意に達したと政府発表。具体的な交渉団体名は挙がらず。南部シャン州軍(SSA-S)やカレン民族同盟(KNU)、少数民族武装勢力では最大規模のワ州連合軍(UWSA)もこの中に含まれている。
1月29日 NLDの選挙に向けた地方演説開始。他所からの妨害はなし。
2月10日 新聞検閲制度を廃止。民間に日刊紙の発行を許可(これまで国営紙のみ日刊を許可してきた)。
4月1日 国会補欠選挙実施。立候補者にはNLD党員も含まれる。
4月2日 アウンサンスーチーが連邦議会補欠選挙に当選。45議席中43名がNLDより選出される。

こうしてついに、アウンサンスーチーがミャンマー政府で初めて議員として登壇する日が現実のものとなった。
この2年間でのミャンマー政府の変貌ぶりは、歴史に残るに違いない。

その主導役となったのは、テイン・セイン大統領である。
2010年の、国軍系政党の勝利が確約されているようなやらせ選挙から選ばれたこの大統領は、軍の出身者であり、かつ、独裁で悪名高い前国家元首のタン・シュエの右腕とされた人物である。
もちろん国際社会はこれまでのタン・シュエ路線を忠実に継承するだろうと踏んでいた。
しかし、6月の週刊誌・月刊誌の検閲制度廃止以降、テイン・セインはこれまでのミャンマー政府を基準にすれば信じられないような政策を次々とってきた。
2012年にはとうとう外資のミャンマー進出も本格化し始め、ビルマは開かれた国に脱皮しつつあるように見える。
しかし、これはどうした風の吹きまわしなのか?
テイン・セインは幕末の維新の士なのか?

政治には高潔さは存在しても、思惑のない正義はあり得ない。
注目すべきは蜜月だった中国との距離をおいたことである。
敵の敵は味方の法則により、資本主義国家から見たならず者どうしが手を組むのは、北朝鮮やシリアの例を持ち出すまでもない。
ミャンマー政府は明らかに、インド洋方面への影響力伸張を狙う中国に頼ることで、独裁政権の延命を図ってきた。
しかしミャンマー政府は2011年9月30日、中国が主導するミッソン・ダムの建設中止を発表し、両国に隙間風を吹かせるようなことをした。
この前後、情報の自由化に関する規定変更が相次ぎ、2誌の週刊誌でアウンサンスーチーのグラビアを表紙に用いることを認可、そして同年11月7日、ミャンマーのASEAN議長国就任予定が正式発表されている。

ここから見えてくるのは、ビルマの経済的な行き詰まりである。
新しい独立国の東ティモールや、山国でもとからこれといった産業のなかったラオスなど、僅かの国を除いて、東南アジア諸国は活気づいている。
シンガポールの躍進を皮切りに、マレーシア、タイはすでに相当な発展を遂げた。
そしてヴェトナムやインドネシアが脚光を浴びるようにもなった。
そんな活況の中、鎖国状態であるビルマには、電気もままならず、ヤンゴンですら自動車も日本の相当な年代物の中古車しかほとんど見かけないような状態になっている。
テイン・セイン大統領が打ち出したのは、この状況の打破であることに間違いはないだろう。
中国と取り引きをしても、国が思ったような発展を見せることはない一方、周囲の諸国はぐんぐん経済力を増してゆく。
西側諸国への「開国」以外に打つ手が見つからないという焦りがあったとすると、これまでの疑問が腑に落ちる。
ASEAN議長国就任はその最たる狙いだったのではなかろうか。

だとすれば、本稿の目的である、少数民族との関係はどうなっていくのであろうか。
その推測は以降に任じよう。



07 アウンサンスーチー

アウンサンスーチーは1990年5月27日、ビルマ国民総選挙に大勝したのち、断続的な軟禁状態を強いられながらも、とうとう非暴力・不服従の姿勢を貫き通し、2010年5月2日に政府議員となった。
ビルマで伝説化されている建国の父アウンサン将軍(ボーヂョー・アウンサン)は誠実な人柄で知られたものの、策謀によって自国独立の日を目前に凶刃に倒れている悲運の絶対英雄である。
その娘だというバックボーンももちろん絶大ではあるが、彼女はそれ以上にもう生ける伝説といえるだろう。
ただ、日本のマスコミが諸手を挙げてアウンサンスーチーの偉業を称えるばかりである一方、イギリス人の彼女の夫(故人)が国家の諜報セクションであるMI6の幹部クラスであったという情報も出回っており、彼女は欧米の利益導入の先鋒としてビルマに送り込まれているのだという主張も見かけるようになっている。
ここでその真偽や、どちらの立場・視点を採るのかという議論をするのは、当ページの趣旨とは異なるので特筆しないが、できるかぎり彼女を賛美しすぎない客観的な目で記述を進めていきたい。

では、アウンサンスーチーがこれまでどのようにビルマ国内の少数民族と関わってきたのか。
そこにスポットを当てて考察してみたい。
たとえばここに、2010年4月8日、同年1月に政府と停戦条約を交わしたカレン民族同盟(KNU)幹部と会談の際の発言がある。
「同じ考えや意見を持っていることが分かり勇気づけられた」というものだが、そこから、これまで彼女にはカレン族とは意思の疎通がさほどなかったということを誰もが見て取れるだろう。
自身の補選出馬を、住民のほとんどがカレン族で占められているコームー郡ワティンカ村から行ったにもかかわらず、である。
もちろん、通信にことさら不便な国で軟禁状態の長かったアウンサンスーチーには、少数民族との面会の機会がこれまでにほとんどなかったことは間違いないので、これは彼女の非ではない。
ただ、彼女にとっても国会議員となった現在、少数民族との信頼の架け橋を作る現実的な作業は実にこれからなのであることが分かる。
この事実は当然といえばあまりに当然なことなのだが、イギリスによる植民支配時代、意図的に少数民族に銃器を支給して地域での一定の自治を認められ、国家としては分裂傾向を用意されて以来、ビルマの挙国一致は相当に難題であることを確認しておきたいのだ。

一方、NLDの党首であるアウンサンスーチーにとって、シャン民族民主連盟(SNLD)やモン民族民主戦線(MNDF)といった少数民族政党は同じ野党という立場である。
同じ野党として連合を組むことができる可能性を探るのは確かに重要なことだ。
与党に対する力を結集するという政治的活動が、ビルマを一つの国家としてまとめあげていく機会にもなり得る。
民主主義の確立という彼女の悲願において、素晴らしい舞台であることだろう。
また、もし今後、ミャンマー国会が先進国同様の民主政治を用意し、公正な普通選挙を実施することができれば、NLDは与党となる可能性が高い。
2015年予定の次期選挙でNLDが勝利した場合、大統領にアウンサンスーチーを迎えることも可能であると、テイン・セイン大統領は明言している。
そうなった際にも、アウンサンスーチーは国内の分裂を避けるため、少数民族の声に耳を傾けることになると考えられる。
ただし、2008年制定の現行憲法では「自身、両親の一方、配偶者、又は嫡出子の1人若しくはその配偶者のいずれも、外国勢力に対して忠誠を誓う義務を負う者、又は外国勢力の支配下の者、又はする者であってはならない」という条項があり、イギリス人の夫を持っていた彼女は実質上、大統領就任できないようになっている。

ただし、与党が突き上げを食らうのは民主主義世界の必定だから、ここで少数民族政党や地域代表との意見が割れ、彼女の神話的な権威に綻びが出ることも充分に予測できる。
同時に多少懸念されるのは、アウンサンスーチーがポリシーを現実路線にシフトしていることだ。
2010年の議員就任は「現憲法に従う」という条項への反対意志のためにいったん拒否されたが、他国からの強い要請もあって承諾に踏み切っているほか、民主化闘争が始まって以来、軍政の資金源になるため、他国のミャンマーへの禁輸を呼び掛けて来たことも180度路線を転換し、ヨーロッパやアメリカへの外遊時に禁輸解除への呼びかけを行ってもいる。
もちろん、そのときどきの現状に柔軟に対応した方向転換であるとはいえる。
議員就任を拒否しておれば、彼女の影響力はやはり従来どおり、外野からのノイズとして処理され、諸外国の非難を含めて政府が無視するだけという結果に終わったと考えるべきである。
そうすれば、せっかくのテイン・セイン大統領の柔軟改革路線も旧主・強硬派の台頭を許して頓挫となる率が跳ね上がる。
一方、禁輸解除が他国との外交を促し、ミャンマーを再び鎖国状態に追い込まないようにするべく楔を打つ契機となるであろうことも理解されるところだ。
アウンサンスーチーの路線転換は評価されてしかるべきものである。
だが、日本でもマニフェストが現実には覆されることがよく見られるように、議員就任までの彼女の言説をそのまま彼女の既定路線とは読めなくなってきていることは事実だ。
少数民族問題への柔軟な対応が分裂化を呼び起こす危険性が高まれば、その平定への強硬論跋扈のために軍が再び力を持つことになる以上、NLDが与党となった場合の舵取りは厳しいものとなろう。
国家統一と和平のシンボルである彼女が生身の人間として政治に着手することには、こうした危険性が伴っている。

改めて言うまでもないことだが、アウンサンスーチーは「建国の父」の遺志を受け継いで、ビルマを一国として連帯を作ろうとしている。
アウンサン将軍は少数民族のビルマ族との立場を平等に保障し、連邦制国家の建設を調印しあったパンロン会議の主催者である。
ビルマの多くの少数民族にとって、パンロン会議体制の復活こそが歴史のリセットであると捉えられている以上、アウンサンスーチーもまた、少数民族の立場の保障を掲げていると考えた方がよいだろう。
それが一貫して彼女の主張している民主主義と人権に直接関わることだからである(この主張を覆すことは、自身の存在基盤を根底から無にするので、あり得ない選択であるはずだ)。
多くの少数民族地域にとっても、それがもし安定した形で実現するなら、小さな独立国家となるより現実的なプランとも言えそうだ。
ただし、アウンサン将軍の時代、ビルマは独立国家ではなくイギリスの植民地だったから、ビルマ族だけが立ち上がるのではなく、数多の少数民族とともに団結を図って領土を保全しなければならないという明確な目的と意志があった。
だからこそ、アウンサン将軍は連邦制としての国家樹立を掲げた。
それに対して、現在のミャンマー政府内で少数民族の分裂を避けるのは、すでに手中にある領土や主権をみすみす放棄することになるという、まさにその点にあるだろう。
もし沖縄独立が懸案事項になった場合、日本国民である本土の人間が認めたくない気持ちとまったく同じだ。
国家の枠組みを維持することを中心に考える以上、彼女はやはり「ビルマ側」の人間であることを確認しておく必要があろう。
少数民族に独立論や連邦承認とその権利に対する議論が沸いてきたときこそが、アウンサンスーチーの試されるときなのである。



08 タイヤイ族・少数民族とミャンマー政府の今後を考える

状況変化の著しいアウンサンスーチーとテイン・セイン大統領の双方からそれぞれに検証してきたことを、少数民族との関係性に的を絞ってここに発展させ、独立論と連邦制を中心に考えてみることにしてみよう。

まず、少数民族の独立論についてである。
テイン・セインの狙いは国の経済力向上にあるだろうが、国際競争力を喉から手が出るほど欲しがっているミャンマー政府が、国土の分割を容認する理由はどこにもない。
世界的ルビー鉱山があり、これまで唯一親密な関係を築いてきた中国と接しているシャン州に対しては、言わずもがなである。
もし仮にテイン・セインが少数民族の自立性を支援する考えを持ったとしても、強硬派路線である旧主派がこれを容認するわけはなく、慎重に開放路線を採ってきた彼の立場が非常に危うくなるため、まずは国際問題を優先し、禁輸解除や外資導入によって国が潤うという一定の成果を見せることに専念すると見られる。
いずれにせよテイン・セインの改革路線は、ASEAN議長国就任を含め、国際的な地位向上や国内票田獲得のためではなく、中国以外の国に門戸を開いて立ち遅れに遅れている経済の立て直しを図ることを第一としており、独立容認はその足を引っ張るものでしかない以上、まったく埒外の選択である。

また、アウンサンスーチーは先述のように、少数民族と共闘路線を採るだろうが、分裂はなんとしても避けるだろう。
さらに細かく見れば、父アウンサンの悲願である統一国家の維持という理由もあるが、そのほかにも次のような点も考慮に入れた方がよいだろう。
まず、彼女は非暴力不服従運動の実践者であり、彼女が15歳になった1960年から数年間、インドで就学していることから、ガンディーの最も苦心したヒンドゥー教徒とイスラム教徒との融和する国家樹立への意志を汲み取っていると見ることができること。
そして、1964年からはオックスフォード大学に学んでおり、イギリス人の夫を持つことからも分かるとおり、旧宗主国であるイギリスが彼女に与えた影響というものも視野に入れると、英国統治時代のビルマは穏やかな連邦制に近い形態を持っている中で秩序がある程度保たれていたという事実がある。
このモデルケースが彼女のバックボーンに存在すると考えられる。

さて、それでは次に、シャン族の立場を、先のイギリス植民地からの解放以降から見てみよう。
そもそもビルマ国軍が政治に乗り出すきっかけとなったのは、当時の首相ウー・ヌが一時期職を放擲して、のちの国軍系独裁者となるネ・ウィンに一時座を渡したことにもあるが、決定打となったのは、少数民族勢力を食い止めることができず、中央ビルマしか実効支配できていない状況に「ラングーン政府」と揶揄された当時のビルマ政府の弱体ぶりに対して、国軍が諸地域の平定に当たったからである。

政治的交渉カードも持ち合わせず、確たる軍事力もない少数民族にとって、独立はほとんどあり得ない選択である。
英国統治時代まではチャオ・パーと呼ばれる、地域ごとの藩王が治世を敷いており、王族の婚姻関係を含めて、地域同士の交流も盛んだった。
しかし、ミャンマー国軍の圧政状態から、他のほとんどの部族や州同様、タイヤイ族やシャン州には現在、その部族や州をまとめあげるだけの指導者が存在しない。
高名な僧侶はいるが、そのほとんどはタイに逃れ、そちらを基盤として活動している。
出版や放送に関しても規制が激しかったことや、経済的な理由から、啓蒙活動はほとんど仏教に関するものに限られてきた。
故に、独立に関する現実的な展望を打ちたてることができる素地が極めて少ない。

武装面において、シャン州には主に、タイヤイ族による北部シャン州軍(Shan State Army [North])・南部シャン州軍(the Shan State Army [South])・シャン州諸民族人民解放機構(Shan State Nationalities People’s Liberation Organisation)・シャン州民族軍(Shan State Army)のほか、タイヤイ族とアカ族合同の民族民主連合軍(シャン人とアカ人の武装組織)(National Democratic Alliance Army)、そして、カチン族のカチン防衛軍(Kachin Defence Army)・ワ族のワ州連合軍(United Wa State Army)・パオ族のパオ民族機構(Pa-O National Organization)・パウラン州解放軍(Palaung State Liberation Army)・コーカン人のミャンマー民族民主連合軍(The Myanmar National Democracy Alliance Army)が存在する。
だが、この分裂状態が示すとおり、いずれも確たる武力とはいえず、協力体制もないので、もし独立がちらついた場合には権力奪取のための混乱が予想され、一気に民衆の支持を失うという見方が正しいように思う。
そうすれば、庶民から徴兵してきた武力組織は実質崩壊するのではないかと考えられる。

経済面では、少数民族がある程度豊かな暮らしができるようになるためには、国軍との関係が必須となる。
賄賂の見返りとして保護を受けることなしに、まとまった金銭のあてを探せる見込みはほぼない。
そのため、ビルマの少数民族にあっては、経済を核とした民族どうしの結びつきは薄く、こちらもコミュニティーの形成には縁がない。

一般的に、民衆の中に大きな社会集団が形成されるためには、宗教・軍・経済が考えられるが、上記のような現状ではこれを基盤として考えることが実質上できない。
また、青年層の学生運動のような動きも、少数民族の進学先は読み書きを教える地域の寺か、ビルマ語で授業が行われる学校しか存在せず、また、大学に至っては少数民族の生活地域には存在しないので、起こりうるわけがない。

タイヤイ族が暮らすシャン州は、ビルマの他地域と中国・北タイを結ぶ場所にあり、国家での地域的に重要な場所であるが、シャン州が万一独立したとしても、これといったリーダーを欠いた国家建設は非常に危険で、しかも中国と接している以上、その圧力を受け止めるだけの力を生み出すことは不可能に近い。
やはり、タイヤイ族が生き残っていくためには、ビルマに属した形を採るのが現実的なのだ。

次に、連邦制の実質的な実現についてである。
パンロン会議はまさしくこの点をいくつかの少数民族(タイヤイ族を含む)に確約したのであるが、こちらも今となっては様々な障害が予想されると言わざるを得ない。

テイン・セインの経済成長政策は、先述と同じく、連邦制にすることで力が弱まる恐れがあることと、ミャンマー政府軍の権威失墜につながれば自身の足場の喪失にもなるという面から認められないはずである。
軍政はこれまで少数民族勢力を抑えるという役割に、統一国家維持という存在意義を見出しているのだから、その根底を揺るがす行動を選択することはできない。
また、諸外国の企業にしても連邦制での大幅な自治権が存在する国家への進出は二重の面倒となるので、投資を見合わせる可能性が高まり、ミャンマー政府がこれを理由に挙げるだろうことは容易に想像がつく。
妥協点としては、経済面と立法・司法面を政府ががっちりと握り、地方行政をある程度地域に任せるという方向になるのではないだろうか。

アウンサンスーチーの場合、父アウンサン将軍が連邦制をパンロン会議で約束したという十字架を背負っている。
偶像化されたアウンサンスーチーというイコンを崩さず民族融和を少数民族に対して現実的に示すためには、この連邦制の確かな形での実現が形として見栄えもいい。
ただ、2008年に制定された現在の憲法では、国軍が国家の指導的役割を果たす、議員の4分の1が国軍最高司令官から任命された軍人からの選出でなければならない、大統領には軍事見識もなくてはならない、憲法改正には議員の75パーセントの支持が必要(実質的に軍籍議員の支持がなければ憲法改正が不可能)などといった、国軍の地位を保証する条文が数々含まれており、議員としての活動を続けていくためには軍の意向とのバランスを取らざるを得ないだろう。
その一方でアウンサンスーチーの父親であるアウンサン将軍が国軍の創設者であり最高司令官であったことも、ある意味で足枷だといえるかもしれない。
本来的な意味での連邦制が独立運動を招く温床となると捉えられれば、その承認は難しくなるだろう。

また、彼女が唱える民主主義のスタートは、民衆の投票が反映される選挙にある。
換言すれば、票を勝ち取って選出された議員による議会の成立の実現という多数決の原理に基づいており、マイノリティーへの配慮というより、少数民族も含めた国民の投票の自由と権利に主眼があるということだ。
当然ビルマではビルマ族が多数民族(全国民の68パーセント)なので、多数決では有利な立場となる。
もちろん民族意識よりも個々の意識に訴え、少数民族であろうとビルマ族の政党の政策に賛成して票を投じる自由は絶対に保障されるべきだが、少数民族とビルマ族との軋轢は残念ながらそんなに根の浅いものではない。
できれば民族融和をあくまで民主的な変貌を遂げたビルマ中央集権に収める地点に軟着陸したいと考えるのが自然なのである。

シャン州が大幅な自治を得た場合、そのバックに中国が居座ることはほとんど自明の理である。
現在にして、すでに中国はこの地域に経済的な根をどっかり降ろしている。
もともと鎖国状態だったビルマが唯一国交を持った中国だが、これまで見てきたとおりミャンマー政府は開放路線を目指し、従来の親中国路線を排した経済開放の真っ最中であるが、ミャンマー政府はこれで中国一国だけの影響下から脱することになる。
これによって、中国の衛星国家に陥る危険性を、大国のパワー・バランスによって回避することができるようになる。
この路線を採った以上、シャン州が中国の力を背景に綱渡り外交を展開することは、何としても避けねばなるまい。
中国の影響が大きくなりすぎた場合には、その駆逐の名目で軍が増兵し、またもや権力拡大からクーデターを起こさないとも限らないからだ。
また、この構図はおそらくシャン州の少数民族にとっても不幸を招きやすい。
クンサーやワ州軍の例から分かるように、ミャンマー国軍はすでにこうした反政府勢力の資金源と癒着しているのだから、その裏経済を取り仕切っている中国とのパイプがすでに存在している。
シャン州が自治州としての形を整える前に、ミャンマー政府と中国は様々な工作を行い、実質的に州政治を形だけのものにして「中国の衛星州」に成り下がってしまうと考えるのが自然な流れである。

少数民族の州が独自の文化を守り、安定した生活を得るためには、次のような方策が現実的なところであろう。
1.少数民族の伝統の尊重とその保持の優先
2.少数民族のビルマ族と同等の人権保障
3.少数民族の言語を用いた教育機関の認可・普及
4.少数民族の信仰の自由とその活動の保障
5.少数民族地域の地場振興策の共同協議
6.ミャンマー国軍の末端までの管理と不正の厳罰化
7.少数民族地域でのミャンマー政府の既得権の還元的な再配分
8.これまでの被害に対する補償

この中で、1の伝統に関しては、今後観光面での収入減となるだろうから、保障される可能性が高いだろう。
インフラ整備で諸国を呼び込むにも、格好の材料である。

2の人権保障はパンロン会議で保障されているものだが、段階的な対応が取られるのではないだろうか。
そもそも人権については、多くのビルマ族も多くを認められてきたわけではないので、国全体の紛糾を招く火種と化してしまいがちだ。
ビルマ族に対する人権認可の向上に伴って、少数民族の人権も変動していくと見た方がよいと考えられる。

3の教育機関に関しては、ビルマ族のための学校にも軍政の弊害が大きいため、後回しになる公算が高いうえ、言語に関しては国内統一の見地からビルマ語に統一するというタイと同等の方式が採用されるのではないかとみられる。
ただし、地方勤務を厭うビルマ人が少なからず存在するだろうから、教師不足によってビルマ学校に少数民族出身者の教師が増え、なし崩し的に少数民族言語での授業が発生してくる可能性もある。
これまで寺院が教育機関を兼ねてきたので、仏教界から何らかの動きが見られる可能性もありそうだ。

4の信仰に関しては、社会主義路線も捨て、国軍が僧侶の殺戮にまで及んだ2007年の反政府デモに対するビルマ族の視点も冷ややかであるため、これを阻むことはないのではないだろうか。
ただし、ミャンマー政府から国籍を剥奪され、バングラデシュでは難民となっているイスラム教徒のロヒンギャ族の問題が注目される。
これまでもロヒンギャは、ビルマ政府からの激しい弾圧や虐待を受け、バングラデシュでは不法移民とされ、タイやインドネシアでも難民認定を受けられないといった事例など、数々の辛酸をなめてきた。
そして、2012年に仏教徒との間の衝突が激化して300人以上が死亡し、国際的なニュースとなる一方、アウンサンスーチーは同年11月3日のインタヴューでロヒンギャに対する支持をしないと明言した。
これは、1988年の民主化闘争時にアウンサンスーチーを支持したために、財産の差し押さえや強制労働に取り立てられたロヒンギャにとって、非常に過酷な事態となっている。
カチン族やアカ族・カレン族など、キリスト教民族に、このロヒンギャ問題がどう影響してくるのか、まだ予測がつかない。

5の地場振興は、経済振興こそ開放路線転換への理由であるだけに、力を入れることは間違いない。
また、ミャンマー政府がまっとうに少数民族の信用を勝ち取りたいとすれば、この方面が最も賛同を得やすい。
国民の流失を防ぐためにも、収入の確保は最優先で行われるだろう。
だが、7の既得権の再配分を巡って火花が散らされることは必定であろうから、楽観視はできない。

6の国軍管理・7の既得権再配分・8の過去の清算は最難関である。
首都ネピドーでの現在の議会も、テイン・セイン大統領の開放路線賛同者と旧来の強硬路線派とに分裂していると伝えられているうえ、そもそも民主化路線というのは分裂化を促す制度である。
実際の戦闘に対して厭戦気分が広がりでもしないかぎり、銃を持った組織がこれまでの既得権を簡単に放棄すると考えるのは夢のまた夢であろう。
中進国に位置するタイでは、現在でも軍が政治に一定の少なからぬ権利を保持しているし、賄賂絡みの不正も後を絶たない。
しかし、文民政治に入ると政治家が身内で利権を漁るようになるのが厄介なところで、タイでは必ずしも軍政=悪政、民主政治=健全な政治といえず、同様のことが近い将来ビルマに起こらないとも限らない。
現に、ビルマの近隣諸国であるラオス・ヴェトナム・カンボジアに中国まで加えても、いずれもほとんど独裁政治状態であるし、民族の万華鏡の様相を呈しているインドは政局が常にまとまらない。
既成権益の再配分は後進国・中進国につきものの問題で、そうとう長く尾を引くことが予想される。
そして、これまでの清算的補償は、これを行えば公的に非道な諸問題を追認することとなるばかりか、今後のリーダーシップに膨大なデメリットを背負いことになる以上、地域振興プランなどの形での還元を合言葉に帳消しとなりそうだ。

実際にはこの9つのうえに、一定の警察権や、州内での事件に対する司法権の所持が備われば素晴らしいだろうが、そこはミャンマー政府にとって手放せない権利だということになろう。
そして今後、この二つの面において各州が中央集権に対して紛糾の火種となることが想像される。
いずれにせよ、少数民族の側はこの各種権利の調整期に集団としての基盤を固め、適切なリーダーを選出して協同体制を確立する必要があるだろう。
ただ、リーダーとなるだけの器を持つ人間が、教養や交渉力などに長けたものとなるならば、そういう人材はタイや中国など経済的に進んだ「外地」から現れる可能性も高く、そうなると「一旦土地を捨てた人間」がリーダーとなることに対する思いがくすぶることにもなりかねない。
中長期的に見れば、こうした結束力やリーダー選出のための準備として、教育の整備が相当に重要課題となってくるはずである。



09 日本人はいま

最後に採り上げたいのは、我々日本人が少数民族の問題に対する感覚が鈍い傾向にあることだ。
たとえば国内問題としてもっともっとクローズ・アップされていいはずの沖縄問題やアイヌ問題が、今もってあまり重要な関心を払われずにいる現状は、どうしたことだろう。
もちろんアメリカとの戦争で混濁したイラク問題や、近隣国として緊張感の募る北朝鮮問題が取り沙汰されるのは、ドラスティックなニュースを多分に含んでいることで理解できる。
しかし、ここにもまた日本人の単一国家民族幻想が存在することもまた確かなのではないか。
日本が誇りにしている「歴史ある国家」という意識は、戦後のアメリカGHQ支配に甘んじた時期を除けば史実上、他民族による支配を受けたことがないという事実に裏打ちされるものである。
圧倒的な軍事暴力が平和を引き裂くことは、いかなることがあっても許されない。
だが、中国政府がチベットを民族同化推進によって封じ込めようとしているのと同じように、やり方の差こそあれ、日本は沖縄やアイヌを同化しようとしてきたのである。
我々は民族が固有の文化を守り、育む権利に対して無自覚過ぎはしないか。
タイヤイ族だけでなく、国家を失ったチベット族、トルコやイランに分割されたクルド族、内蒙古でのモンゴル族、コンゴのフツ族とツチ族、インドネシアでの民族独立運動など少数民族をめぐる問題に対してニュース発信があまりに少ないのは、こうした背景があるように感じる。
そして、結局我々は一般的な意識のレヴェルにおいてはまったくボーダーレスなどではなく、国家という枠が蹂躙されることに比較的鈍感な民族なのではないか。

しかし、対外政策ではおおむね腰が重く保守的な日本が、2010年、難民政策に関して大きな一歩を踏み出した。
日本は初めて、係官を派遣して難民が逃れた第3国での現地調査のうえで年間30人程度の、ビルマからの難民を受け入れることを決定した。
この決定には大きな意義がある。

ヴェトナムからのボート・ピープルを本国送還にしてきた日本の難民対策は、非人道的だと言われてもしかたのない、島国根性に過ぎる部分があった。
また、日本とビルマ政府との関係は、日本がネ・ウィンの親日を装った外交政策によって踊らされてきた側面もあった。
ソ連にも中国にもくみせず、独自の社会主義を企てて失敗していたビルマ政府にとって、日本は対外援助として1973年から1988年の間に18.7憶ドルを充てている。
これは当時のビルマが受け取る2国間援助総額のじつに80%であり、資金を運んで来てくれるコウノトリだった。
当時の日本はまさに飛ぶ鳥を落とす勢いで、怒涛の経済成長から、国際協定に加わらずアパルトヘイトの残っていた南アフリカ共和国からダイヤモンドを率先して買い受けるような荒業も行っていた。
国際的孤立状態のビルマにも、日本は様々な野心を持っていたのに違いない。
しかし、ネ・ウィン体制も過去のものとなった現在では、ビルマは中国との強固なパイプを持つようになった。
インド洋方面に影響力を持ち、ルートを開拓したい中国と、外資の誘致やインフラ整備を喉から手が出るほど欲しているビルマのお互いの利害が一致したような形となっており、どちらも一党独裁体制を強固な軍事力で固めている点においても一致しているために、お互いの関係性に「人道的配慮」の条件をつけなくていいという利点を有している。
ビルマ国民感情は今でも親日的ではあるが、政府レヴェルでは日本はもはや過去の恩人でしかない。
だが、今度はビルマ難民に手を差し伸べるという、これまでの独善的な方法論とは違ったアプローチを見せ始めたことは、今後の日本の国際貢献において祈念的な分水嶺になるはずだ。




=当ページでは=

※ 「タイヤイ」という呼称はタイ人から、「シャン」という呼び名はビルマ人からのものである。できればその民族自身が用いている民族名称を使いたかったが、彼ら・彼女らの自らの民族に対する呼称はカタカナで書くと「タイ」となり、タイ王国のことと同じに見えてしまう(英語表記に当てはめると、タイヤイ(シャン)は"Tai"、タイ王国のことは"Thai"となり、無気音と有気音の違い、そして声調の違いがある)。ここでは混同を避けるため、敢えて「タイヤイ(シャン)」と記すことにする。

※ タイヤイ(シャン)族はビルマ北東部に最も多く分布しているうえ、英語圏では「シャン」の名で定着しているので、本来表記順列は「シャン(タイヤイ)」とすべきであるが、タイヤイ(シャン)族はパンロン会議での約束を履行されず、第二次世界大戦後の連邦制による自治権を巡ってミャンマー政府と対立しているので、もともと同一民族であったタイ王国での呼称を先に持ってくることにした。

※ 当HPの他のページでも同様の措置を取っているが、筆者は軍事政権や圧政による政権を認めない立場から、現在日本で標準化している「ミャンマー」という軍事政権の与えた呼び方を認めず、あくまで以前の「ビルマ」、あるいは理解を得やすくするために「ビルマ(ミャンマー)」という表記を採用している。また、現政府の名称に関しては自らの名称であるため、基本的に「ミャンマー政府」と記す。


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