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9》大正区を歩くの巻


例えばシネ・ヌーヴォーをオープンしたり取材拒否のロコミの店があったりする九条周辺と同じく、大正区は決して派手ではないが確かな新しい風を感じさせる地域だ。きっちりした仕事をするため週に四日しか開けない蕎麦屋「凡愚」、手作りの窯出しパンエ房「ロンパル」・のんびりた時間・空間を提供してくれるチャイ屋「チャイエ房雨安居」など、この土地に在る必然性を感じさせてくれる、店の人の顔が見えるところが多い。こうした動きが起こってきた要因には、やはり地価の安さであるとか、もともと地元住まいであるとか、店舗兼住宅の場含住むのにも良いといった理由があるのだろう。けれとも、沖縄の人々の風通しがよく他の者を拒まないのに自分達の生活に根っこを持ちながら懸命に明るく生きる姿勢が、採算ベースではなく自身達の素直なこだわりから発想された店々をこの「大正島」に芽吹かせたのではないだろうか、と僕は信じたい。

大正区には沖縄から移り住んでいる人やその血を引く人が多く暮らしている。「沖縄子ども会」や「がじまるの会」という青年の集い、そして数多くの祭りや行事、親戚や隣近所、知人どうしなど、多くの住民共同体としての接点が彼等・彼女等にはある。地域の世帯どうしで月々出しあって積み立てたお金をいざというときに必要としている入に割り振る「膜合」と呼ばれる制度もあるし、琉球舞踊や三線(沖縄の三味線で、胴に蛇皮が張ってある)など稽吉ごとも老若男女を問わず盛んだ。また、沖縄に数ある民謡酒場の形を取った南恩加島の「ニュー豊年」でオリオンビール片手に沖縄民謡を堪能していたときにも、店にはかなり高齢のオジー、オバー(沖縄ではおじいさん、おばあさんのことをこう呼ぶ)までが出入りし、カチャーシーになると僕等も誘われてみんなでさんざ踊った(沖縄民謡のステージでは最後に必ずテンポのはやくなる曲を用意し、それが合図になって皆が踊り出す。その曲をカチャーシーと呼ぶのだ)

沖縄の人にはまた、人間関係の風通しの良さがある。例えば息子や娘の友達か家に遊びに来ても不必要にかまわないような、娘婿や嫁であってもへんに世話を焼きすぎたり「よそ者が身内になった」からといびりだしたりというような人間関係と無縁なところがあるのだ。そのつかず離れずの度合が心地よい。それもあるいは、多くの共同体に属しながらお互い助けあってやって来たからこそ必要とされた沖縄の人々の暮らしの知恵だったのかもしれない。日本本土によく見られるようなつきあいを沖縄の人たちくらいの濃密な共同体でやってのけると、間違いなく息苦しくてしょうがない。

かつての琉球国の時代、沖縄は中国や台湾、日本から東南アジ了の国々と交易し、物流の中継地として栄えた。古来より武器のない島で、温暖な気候であることもおおらかであたたかく排他性の少ない彼等・彼女等の性質を形成したのだろう。大正区の沖縄県人会の資料には沖縄の守礼の邦として祖先より言い伝えられた「身持ち美しさ(「みむちじゅらさ・自分の行いを正しく美しく)・仕情け深さ(しなさけぶかさ・他人にも情をかける)、言やわらかさ(くとぅやわらかさ・言葉をあらだてない)」という言葉が紹介されていた。その気質はまた、大正区にもある「沖縄」にも通じている。

自分の出自を大切にすることと国際感覚を大切にすることとは、一見矛盾しているようで、その実まったく相通じたことだ、と思う。地域性という自分の根底のひとつを見据えることが他者を理解する判断基準となる。インターナショナルな状態とは、皆がおしなべて均質的で千篇一律な状態を指すのではなく、多種多様な価値観や文化をお互い認めあい、異質ながらも自分も千差万別な人間性の一人としてその中に一石を投じることなのだと思う。大正区に集う店や人々を思い浮かべるとき、同じ地域に暮らす沖縄の入々と同じ風のような肌触りを、僕は感じるのだ。自分があくまで一個人であり、なのにネットワークの広がりの中に存在しているような、リラックスしているのに自分が問われているところがあるような、そんな思いがする。

今回の特集では、ささやかではあるが、そんな大正区の一部を切り取ってみた。大海の一滴にすぎないとしても、僕は書かずにいられなかった。この文章があなたの日常に少しでも風を運べたらとてもうれしい。そして、その風をぜひ大正区で実感してほしい。

=大正島・琉球諸島=

地図をご覧になれば分かることだが、大正区は島になっている。大阪湾と木津川、尻無川、岩崎運河に四方を囲まれ、その島全体が一つの区を形成する。

この島には、遠く南洋の島からの移住者あるいはその子孫が多く暮らす。沖縄からやって来た人々だ。注意して町を歩くと喜納さん、知念さん、比嘉さん、金城さん―――沖縄に多い姓を家々の表札に発見し、その門扉に沖縄の守り神シーサーが鎮座していたり、夏にはゴーヤー(にがうり)が庭先になっているのを見つけたりする。

当紙四号でお伝えしたように、沖縄には在阪体験者が多く、大阪に沖縄から渡ってきた方々も多い。働き□が多かったことが最大の理由だろうが、福岡でも名古屋でも東京でもなく、なぜ大阪なのかが疑問だった。それには海流と風の大きな影響があるらしい、と大阪で産まれ帰沖し、沖縄芸能の第一人者となられた照屋林助さんにうかがった。琉球諸島を流れる黒潮、あるいは南西から吹きつける季節風に乗れば、舟は自然に大阪湾に運ばれるのだそうだ。また、海流は紀伊沖でそのまま北東に進む流れと太平洋沖をぐるりと回り再び琉球方面に流れ着く海流とに分かれるので、大阪から沖縄に戻るのも容易だ。かくして、沖縄と大阪に流れ吹く海流と風のラインが遠く離れた地を結び、海沿いの大正区に沖縄の人々が多く住むようになった。

残念ながら、沖縄人と大阪人の歴史は好意的なものではないことが多かった。多数民族の少数民族に対する差別。沖縄の人々はその出目によるいわれなき差別を長きにわたって受けてきた。「大阪ウチナーンチュ」(1)という写真集のなかで、現在関西沖縄文庫を営まれている金城さんは「酒を飲んでは暴れていた父親の『ヤマトゥーンチュに負きみい(本土の奴らに負けるもんか)」という口癖が耳に焼きついている」と話されていたことが記されている。そして彼は、そんな父がなぜ酒を飲んで暴れなければならんかったんか、それは差別によくあるパターンで、弱いところへ弱いところへしわよせが行くからなんや、と言う。しかし、彼の言葉に沸々とした恨み節は感じられない。高校生になるまで「親は沖縄やけど、俺は(大阪生まれだから)沖縄と違う」と人に話し、父母は勉強せんかったから沖縄やいうて馬鹿にされたんやと進学校の高校に進み、差別聞題研究会を旗揚げして部落問題に取り組みながらも今までどこかで棚上げしてきた沖縄を巡る間題を在日韓国-朝鮮人の同胞に指摘されてショックを受けた「沖縄人二世」という釈然としない立場が、彼に恨みの目をもつことを許さなかったのかもしれない。しかし、彼は本土復帰後すぐに沖縄に行き、市場のおばさんたちに「俺がウチナーンチュ(沖縄人)に見えるかヤマトゥンチュ(日本本土の人)に見えるか?」と不安になって聞いて回り、突然馬鹿らしくなって、「大阪弁をしゃべるウチナーンチュがいてもええねん」とふっ切れたそうだ。彼のその出自の混血性が、実際に体験した差別を恨み一本槍にとらわれさせずに、冷静な視座からの発言をもたらしているのだろう。そうして気づく。彼は―――というか、沖縄人二世の多くは真の意味で国際人なのだ。

後に彼は「がじまるの会」を結成されたメンバーの一人で、沖縄の伝統祭であるエイサーを大正区の地で実現する。第四回のエイサーのときに、見に来ていたおじいさんが「ワシらが若いときにもっと沖縄のことやっとくべきやった。ワシらがちゃんとやってたら今の若い人らもこんなに苦労することはなかったろうに」と涙を流していたことがあったそうだ。彼の言葉に「おじいさんの若いころいうたら、戦前の差別もきつくて大変なときやのに、そういうてくれる」と金城さんも涙したそうだ。

去年、木魚のライターとともに僕もこのエイサーを体験した。ネククイをしめたサラリーマンも、若い女の娘も、近所の子供達も、みんなに笑顔が絶えなかった。そしてたぶん、僕等のような沖縄出身ではない人々も数多くいて、最後はみんな思い思いに踊っていた。エイサーが終わったあと、金城さんや「がじまるの会」について知らなかった僕等は関西沖縄文庫に立ち寄ったのだが、そのあとぞくそくとエイサーから引き上げてきた人々が集まってきて、明らかにヤマトゥーンチュである僕等にもにこやかに挨拶してくれた。ここ、関西沖縄文庫は金城さんの集めた沖縄関係の本が壁の棚いっぱいに揃えられているばかりでなく、琉球舞踊や沖縄民謡などのステージであったり、三線教室であったり、エイサーなどの催しの準備や当日の宿泊所になったりする。そう、ここは金城さんの個人所有する場でありながら、地域の集会所のような役割を果しているのだ。僕等が何度かおじゃましたときも、誰かがへんに気を使うわけでもなく、みんな横で寝転んでいたり獅子の面の手入れをしていたりで僕等をべつだん気にする者もない。その風通しの良さは沖縄本島でもさんざん感じたものとまったく同じ手触りだった。

時が移り、沖縄に対する人々のイメージも変わってきたのだと思う。おそらく僕等の世代くらいには沖縄の人々が差別されていた意識がない。そして、がめついもので、自身の基盤となるルーツの意識がない僕等には、しっかりと自分達の風土に根差した伝統や発想を根っこに持つ沖縄の人々がまぶしい。同じ「大阪ウチナーンチュ」で同じく「がじまるの会」を旗揚げされた一人、垣花さんは「大正区の街にいると、どんなに仕事で嫌なことがあっても気が落ち着く。沖縄の踊りがある、泡盛がある、そして仲間がいる。これだけあれば、人間、絶対くじけないよ」「黒人は長い間差別されてきたけど、その音楽は今、世界中の人々を励ますものになってるでしょ。沖縄の音楽も、たとえマイナーであっても同じようになってほしい」とおっしゃっていた。沖縄へ向かう若い旅行者の間にもリゾートではなく、彼の地の人々の暮らしや文化の片鱗に触れようとする動きが目立つようになってきた。

しかし、沖縄の差別間題はなくなったわけではない。経済的に豊かになったので、忘れられ、とりあえずいったんおいておかれているだけである側面は強いのだ。今なお沖縄出身者の就いている仕事には肉体労働が多い。それに、沖縄の米軍基地移転間題の日本政府からの冷酷で愚鈍な回答はまだ耳に新しいではないか。また、垣花さんは沖縄人どうしの間にも沖縄本島人の宮古・八重山地域などへの差別があることにも言及されている。問題は数や力で上回る者が少数で力の弱いものを劣等視し牛耳ろうとする、人のこころに普遍的に存在する差別意識にあるのだ。自身が権力を振りかざしていることに無自覚であらしめたり、無条件で認めさせてしまうおかしな社会風潮とそれへの迎合にあるのだ。

大正区という島。おそらく、彼等がその地を選んだ、というよりは僕等ヤマトゥーンチュがその地を選ばせたのだろう。しかしだからこそそこには文化が根づき、共同体が育まれた。諸問題も今は安定してきたから、目くじら立ててああだこうだと言うなよ、と見る向きもあろう。確かにそうなのだが、その言葉の「安定」とは沖縄が日本的に均質化されつつあることを指しているのではないだろうか。差別や沖縄を語り、価値観や文化背景の違いを知り、お互いを異質なものとして受け入れること、自分を知り他人を知ろうとすることが対人関係の第一歩なはずだ。

橋を越えたり渡し舟に乗って大正区の地を踏むとき、そこに沖縄の人々が暮らしていることをあなたにも忘れないでいてほしい。

(1)「大阪ウチナーンチュ」太田順一著・撮影ブレーンセンター発行

同じく大阪で差別を受けた在日朝鮮・韓国人の多く住む生野区のフォトードキュメンタリー「女たちの堵飼野」を上梓。連作のような形で本作を発表する。


=チャイ工房 雨安居=

チャイ工房とチャイの共同幻想

一戸建ての家並みの中にチャイエ房「雨安居」はある。懐かしい造りの建物はむつみ荘というアパートを改造して、元の建物のよさを最大限に使っている。

入りロの鐘を鳴らして靴を脱げば、ゴザ敷きの床にいくつかの長テーブル、そして座布団。窓には簾が、壁にはマーブリングの絵がかかり、暖色の明かりが灯っている。そしてこのたび、キッチンが見えるようになり、お茶を淹れている様子を眺められるようになった。―――ここには「チャイ」という幻想を多く含んだ飲み物の呼び起こすイメージのひとつの帰着点があるように見える。手作りの感覚が強く、個性的で、リラックスしていながらうっすらとした覚醒感をもたらし、既視感があるのに考えてみれば非現実的で、落ち着いてやさしく、人とのつながりを感じさせるチャイエ房。そのたたずまいはインドに端を発する牛乳の炊き出し紅茶、チャイの在り方ととても似ている。

山田泥庵さんと奥さんのるみさんが三年ほど前にそば切り「凡愚」の隣に出した屋台がチャイエ房の始まりだ。泥庵さんはチャイを関西に紹介した草分けのような方で、無知な学生だった僕でさえ、彼が開いた「谷町の床に土を敷きつめた店」の噂くらいは知っていた(その店・伽奈泥庵は今でも営業している)。泥庵さんは一昨年、その奔放な生涯を閉じられたのだが、チャイエ房は今もその扉を開けている。

何度目だったろうか、冬に火鉢で暖をとりながらお茶をいただいていた日、テーブルになにげなく置いてあった石にたくさんの細かな結晶ができていたので見とれていると、「南紀のとある海岸でたくさん転がっているんですよ」と、いつのまにかそばにいた女性に教わったことがあった。気さくな店員さんだなと思っていたら、この度の取材ではじめて彼女がるみさんその人であることを知った。

チェーン・ダンスと働く子供、あるいは葦簾

彼女は学生の頃、フォークダンス・クラブに入って特にルーマニアやブルガリアのチェーン・ダンス(輪になって踊る)に興味をもったそうだ。ヨーロッパとアジアの魅力が混在した変拍子の曲で、葦をつないで作ったパンパイプという笛が楽しくたおやかながら物悲しい旋律を奏でる。隣の人のベルトを握りあったり手をつないだりして足を小刻みに動かす踊りは「形を見せる」のではなくて、まず自分が楽しく、そして誰かが隣に踊っていることで言葉にならないつながりを感じるもので、カセットをかけてくれた彼女は「踊りたくなってしまってうまくお茶が淹れられませんね」と笑った。

その後、彼女は「学間ではなく生活を教える幼稚園」今村学園高槻幼稚園の門をくぐる。長倉洋海さんのアマゾンの暮らしを撮った写真展、廃油を使った固形石鹸づくり、前島クリーンセンター見学、リサイクル・マーケット、宮城の郷土料理うーめんのくるみだれやインド料理の実習、アウシュヴイッツで迫害を受けた子供たちの絵の鑑賞会、暮らしの絵日記つけなど、感受性が柔らかくモノを考える礎を創る時期ならずとも心惹かれる活動が目白押しだ。ユニセフから借りた「私達を忘れないで」というビデオ鑑賞の逸話では、「第三世界」と言われていた土地の、三時間かけて川に水汲みに行く子やゴミを集めて売る子、燃料にする牛フンを拾う子、一日中ボートを引っぱる子たちの姿を見て、園児たちは「かわいそうに」ではなく「水汲みしてみたい」「機織りしてみたい」と口々に言ったそうだ。彼等・彼女等の思いがけない言葉に、るみさんはご自身のインドの旅で数々目の当りにした、彼の地で日がな働く子供たちの生き生きと輝いていた瞳を思い出したそうだ。そして、働き手として必要とされず、働く喜びも苦しみも経験できない日本の子供たちの貧しさを感じたという。

やがて泥庵さんと出逢ったるみさんは・自宅で紅茶を出す店を始めたり、葦簾を使って何かを創るという運動にかかわったりしだした。葦簾の運動は琵琶湖の葦保全と絡めて手漉き和紙風の紙やアクセサリー、パイプからベンチつきバス停やシステム家具まで、葦を素材に様々なモノが作られていた。また、当時泥庵さんは環境間題をテーマに講演したり、マーブリングの絵を描いたり、占い師をしたりという日々だったという。あるお寺の和尚さんに足心道(楽健法)という按摩を習った話が僕には興味深かった。この方法によると足の裏や臀部を足で踏むのだが、体重をかけて凝りを圧し潰すのではなく、お互いの相乗体温でシコリを溶かすイメージで押して凝りをほぐしてゆく。ネパールのチベット村へ和尚さんとともに赴き、足心道を直接現地で学んだりしたこともあったそうだ。そうこうしているうちにチャイエ房の屋台はオープンした。

唐突な夕立ち

久しぶりに再会した泥庵さんの大昔の友達がそば切り「凡愚」の方で、そのよしみがチャイエ房のスタートになった。また、チャイエ房のパンは窯出しパンエ房「ロンパル」で作られた天然酵母を使ったパンだ。これらの店は共通のパンフレット「大正浪漫」を作って近くの市場などとともに中に載っていた。そのロンパルでは「沖縄の風」という集まりが催した沖縄・読谷村のやちむん(焼き物)の里の大嶺さのという方の焼き物展を開いており、その会報はもちろん関西沖縄文庫を始め前述各店にも置かれている。のちに紹介するお茶のお店「そらいろ」はチャイエ房なしにはありえなかった店だし、僕の取材中だった八月十六日からは香川尚子さんの絵がチャイエ房店内のあちこちに展示され、彼女の脳から涌き出てきたイメージを自動筆記したような、いたずら描きのように生き生きした絵がお客さんの目を楽しませていた。また、初日には展示のために友達がたくさん集まり、その中には「そらいろ」の佐藤さんやお店の常連さんとおぼしき方々もいた。

この取材で、僕は様々な方に出会い、そのみんなによくしてもらった。誰もが前向きで、建設的だった。「前向きで建設的」―――たしかに陳腐な言い回しかもしれない。だが、この取材をひと区切りつけた僕の手の内にはもって回った手の込んだ語彙はもうほとんどなかった。取材という強烈に「外部」な僕のスタンスを彼等・彼女等は「同じ人間なんだから」と「内部」に迎え入れて……いや、外部も内部もないただの一人の人間として軽く吹き飛ばしてくれた。限りなく外に開かれたネットワーク。チャイエ房の店の造りを見るとそれは分かる。どんな絵が掛かっても、どんなお客さんが来ても、どんな音楽が流れても、それはチャイエ房のイメージを全く裏切らない。

突然の夕立ちに、お店に駆け込んできた主婦らしい三人連れの女性を見かけたことがある。雨宿りにお茶なんて、チャイエ房にとてもお似合いな気がする。そのあと店を出ると、外の道にはアスファルトを通してさえ雨上がりの夏の匂いが立ち込めていた


=そらいろ=

“Live Peace in Toronto 1969” (plastic Ono Band)のアルバム・ジャケットをご存じでない方は、ぜひLPで手にとって見ていただきたい。三〇p強の大きな正方形の厚紙いっぱいに定着した青空と左下方に小じんまりと浮いた雲。おそらく一九六九年のアメリカのどこかで撮影され、日も暮れず雲も流れないまま青くだまって四半世紀以上スチールした青空のジャケットは七〇年を目前にした時代の空気とともに、ある確かな単純な事実―――古今東西を問わず、誰もが等しく高くて広大な空の下で生きて来たのだという、古びることのない事実を思い起こさせる。

高架を走る、車窓の景色が見える地下鉄の電車道をちょっと入ったところにある、時をへて味を出しているビルの入り口に「そらいろ」はこの七月末からオープンした。文字どおりそらいろの扉を開けると生成りのあたたかい白に塗られた、間接照明の明るい空間が待っている。お店をひとりで切り盛りしている佐藤さんが友達とともにペンキを塗り、調度品を揃え、小物を飾りつけて完成した小さな店だ。

佐藤さんはもともと、チャイエ房に二年間勤められていた。ひょんなことから自分のお店を持つことになったのだが、「そらいろ」はチャイエ房とは外観の印象が大きく違う。木のベンチや白い布のかかったソファが置かれ、白く塗られたピロー・ブロックに渡された一枚板がテーブルになり、アンディ・ウォーホルの描いたヴェルヴェット・アンダーグラウンドのジャケットに使われたバナナのポスターが張られ、棚には趣味のいいマガジンが並べられている。佐藤さんはこのお店を、ぼんやりとサロン的でカジュアルなものにしたいと思った、と話す。それは各テーブルの客どうし背を向けあわないように配置された椅子の向きでよく分かる。そして、チャイエ房のように靴を脱ぎあぐらをかくスタイルではないリラックスが―――例えばスタスタと入ってきてお茶を片手に気軽に新聞を読むようなカジュアルさがあってもいいのではないかと思ったそうだ。

お店の白い壁にぽつんと飾られた鍋敷きは、ふらりと店に顔をのぞかせて以来よく差し入れを持って来てくれたりお茶を飲みに来たりする、八三歳の楠さんがプレゼントしたものだ、楠さんはちぎり絵に水泳にお茶に服飾に絵画に、なにかと多趣味でハイカラな方だ。先だってもロシア映画を見に行かれたらしい。佐藤さんの分身でもある「そらいろ」を、楠さんもいたくお気にいりのようだ。その客層の入り口の広さを、佐藤さんはチャイエ房から学んだ、あとは自分次第、と決意を新たにする。

「そらいろ」という店の名前には、先に挙げたアルバムのジャケットが頭にあったそうだが、写真が好きで、空の写真をたくさん取っていたという背景もあったようだ。マックかウインドウズのプリンタから出したのであろう、モノクロになにかの加減で微妙に色がついたように見える空の写真がいくつか並んだプリントを見せてもらった。それは僕にとっては、とても女性的な写真に見えた。写真集のページを繰り終えたあとにその人の指さすものや形にならない思いが横たわる男性と違い、女性の写真は被写体=そのモノ自体と直接向き含っている感覚が僕にはある。佐藤さんの写真には男の、(時にうざったい)自己表現としての視線ではなく、空を見る自分、空と目身との決して埋まることのない距離を感じ、そこからシャッターを切る彼女と空のドライだが風通しのよい関係が垣間見られた。彼女がカメラを手に写真を撮り始めた当初、それは鬱な時期、自分が嫌いな時期だったという。自分の存在感を誰かに見てもらいたかった、という。あるいはたぶん、その時期だったからこそ佐藤さんはカメラというはっきりと視覚的で現実的なもの、不確実な一瞬の瞬間を切り取り記録するものを選んだのではないだろうか。そして、カメラはシャッターー・ボタンを押しさえすれば映像を写せる、撮影者としての自分が薄い存在であってもよい媒体でもある。しかし、撮るものや構図を選ぶのは自身だ。ファインダーを覗き、シャッター・チャンスを待ち、実際にシャッターを切るのは自分だ。それはまた、自身の店を開くことと重なってくる。一緒に店作りを手伝った友達に佐藤さんは叱られたらしい。開店準備にさしかかっても、突然のことだったので店のイメージを決めかねていた彼女は「あなたが自分の世界を作って、イメージを持って私達を動かさないとどうにもならない」と諭された。店という空間、ハコには様々な選択がある。インテリアやBGMのチョイス、店員の気構えや動きなど大まかな部分のみならず、ひとつひとつの小物の材質や色調、シルエットにまで空間を演出する力がある。たとえばどんな音楽をかけるのかということだけではなく、音楽をかけないということも意識的な店の選択になってゆく。

チャイエ房で働いたことによって軽くなった、と彼女は述懐する。「普通でいいのだ」と思えるようになったそうだ。オリヴァー・ストーンの撮ったドアーズの映画を見て、彼女は「みんな傷つきながら生きている」と感じた。他者と同じ地平に立つこと、それがコミュニケイションの第一歩であり、ひいてはお茶を滝れることではないだろうか。彼女が自分の店を持つことが決まったとき、店でチャイを出すことにはこだわりがあった。面識のない客どうしが語らえるサロンを思い描く彼女は、チャイという飲み物こそ人と人とが話をするときに手にとるのにふさわしいお茶ではないかと語る。インドや東洋、あるいはそこで実際に飲まれているチャイについての興味は人並み程度だが、「人が居るところにチャイがある」ことが自分にとっては大切なんだと彼女は言葉を探しながら話してくれた。言い方を変えて、友達を安らがせるお茶が滝れたいと彼女が言うとき、その「友達」に僕も含まれて居ることに気がつく。そして心中にあたたかいものが広がる。詳しく言えば、そのうれしさは「僕」という個人が佐藤さんに迎え入れられ認められたプライヴェートな喜びではなく、チャイというプリズムをとおしてすでに知り合った人、これから知り合う人みんなを「僕等」と言って良いのだというコミュニケイションの可能性だ。

「そらいろ」は夕方五時から深夜一時まで店を開けているが、アルコールは置いていない。そして店内は落ち着いて明るい。アルコールのもたらす高揚感やアルコールを出す店の開放感、ライト・ダウンした店の落ち着きや顔のささない融通の良さ、暗いところで瞳孔の開いた人の瞳の魅力など、「夜の店」の利点はたくさんある。だが、表情の分かるところで、ごく普通の素面の状態で人が知りあい語らいあえるのは、またそれとは違った大きな魅力だろう。アフター・ファイヴであっても、自分が自分でいることを「そらいろ」は教えてくれる。そのとき好きになれる自分だったらいいな、と僕は思う。

店のノートに誰かが「このお店の飾りつけは見事なほどどんどん変わっている」と書いていた。お話をうかがっているときに佐藤さんが「なんとか駆け込みでオープンすることができた」と話されたので、「では今の内装に、自分では何点くらいあげられますか?」という愚問を発したことがあった。彼女は、「生き物に点数はつけられないです」と笑って答えた。たぶん彼女は自分がその日その日の服を選ぶように「そらいろ」の服を選んでいるのだろう。

三か月限定喫茶として「そらいろ」は始まったが、今のところクローズはまずありえないだろう。「楽しくてしかたがない」と彼女は何度もうなずく。その気持ちが彼女から、店に集まる人々にまで行き渡っている。何から何までひとりでたいへんな佐藤さんだが、ていねいに淹れてくれたチャイを大きな器でいただく。音を聞きながら店を見回す。見知らぬ顔が出入りし、話が始まる。時間が嘘のように過ぎてゆく。店を出るといつも、その日に誰かが話したいくつかの言葉が手の中に残っている。駅へ歩く道中すれちがう人達に僕は少しやさしくなっているだろうか?

そうして、街は人によって変わってゆくのだろう。










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