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11》台湾再訪の巻


去年の春と夏に、僕は二度に渡って台湾を訪れ、そのうちで春の報告を当紙七号で誌上で発表させていただいたが、そのときはつたない英語で試みた街頭インタヴューを中心にまとめたもので、いささか立体感に欠ける内容になってしまった。そこで今回はあくまで「旅行記」として二度の訪台で触れた人々の生活や街の様子などを徒然なるままに記してみたい。では、まず春の出発から!

とりあえず船に飛び乗る

タイに行く予定だった。往復の格安航空券は三カ月前からおさえてあったし、文献も買い漁った。タイ料理を頻繁に食べて胃を慣らし、タイ語会話の教室へ入ろうとまでしていた。しかし、出発三日前にとある事情でタイ行きは突如として雲散務消してしまった。愕然!―――しかしこのままでは674すぎる。タイに発つ予定の前日だった九七年三月二九日の夜、十時に仕事を終えた僕は飛んで帰って、二〇分で荷造りしてかもめ埠頭に駆けつけ、午前零時十分に出るフェリー「飛龍」に飛び乗った。どこまで行くのか直前まで決めていなかったが、窓口で行き先を台湾の基隆(チーロン)と定める。こうして慌ただしい台湾紀行が始まった。

船はこの時、大阪→那覇→石垣→基隆と進んでいたのだが、おもしろかったのは寄港ごとの乗客のムードのあからさまな違いだった。春休みにあたるこの季節、沖縄本島までのフェリー客の半数は移動費を安くあげたい学生達だ(那覇までの二等客船の乗船運賃はエコノミークラス航空運賃のおよそ半額)。彼等・彼女等はひっきりなしにデッキに出て力メラをフル活用したり慣れない船の揺れとビールに嘔吐したりと、最初は威勢がよいが、船中二日目の午後にはもう飽きて暇を持て余してしまう。必ず二人以上で連れ立って来ていて、カメラ撮影を頼む以外に他人と話すことはない。ただ、リゾート・ビーチでの甘いランデヴーを夢見ているのだろう、前哨戦である船上では男女相互いチェックの目だけ光らせている。たった一人で乗船しているのに、里帰りの沖縄の出身者でもなさそうで、学生でもビジネスマンでもなさそうな僕は、つねに訝しげな視線を受け、肩身がせまい。

那覇を出て石垣に向かう区間になると買い物に出て来たのだろうおばさんたちが乗り合わせる一方、バック・パッカーやライダーの姿が目につく。人々の目がとたんに開放的で、優しく親しげになる。船は地域の生活の足としての匂いを強く感じさせはじめた。正直、ホッとする。僕が知り合った高校生の団体はテニスの試合の帰りだった。穴場であると教えてくれた泡瀬と嘉手納のフリー・マーケットで求めた戦利品をたくさん身につけ、満面の笑みで彼女等は夜どおし、とめどなく語る。学校のことやクラブでのこと、将来の夢や昨日あったこと、家族のことや友達のこと、そして、恋の話。彼女等の健気な日々の暮らしの中に、僕は行きずりの旅人としてほんの少しでもエキストラ出演できただろうか? 眠る前に缶ビールを持って出た夜のデッキには、東シナ海の南国の風がいくぶん強く吹いていた。

石垣を出ると基隆まで向かう乗客はうんと減り、とても静かだ。出国審査室で見送りの人々と泣き別れる台湾の人々がいる。彼等・彼女等は一様にみな無口だ。柔らかい雨がコンテナ置き場を暖かく濡らしつづけていた。待含室でドイツからの旅行者、スザンナと知り合う。翻訳の職を目指す彼女の日本語は流暢で、物腰が知的だ。僕はなぜか彼女のそばにいるときには知らず知らずに緊張していた。それは初対面の入に対する人見知りのせいでも、欧米人の相手を射抜くような真っすぐな視線のせいでもない。のちに気づいたのだが、それは体臭だった。彼女の持つ、明らかに日本のもの・アジアのものではない皮膚の匂いが僕を緊張させた。「嗅ぎ分ける」という動物としての本能が、日本的常識の通用しない海外旅行に出ていることで敏感になっているのだろうか? 旅行客はスザンナと同室キャビンだった山本さんをあわせ、この日は三人だけだったようだ。三日目である四月一日、日本の消費税アップを尻目に基隆に入港する。

基隆の先制パンチ

船の旅で琉球弧のつながりを感じたかった僕は、基隆でまず先制パンチをくらう。軍港も兼ねているのだろうか、灰色をした異様な船が並び、一様に古びた建物の色もくすんでおり、空がとても低い。そして出口を抜けると出迎えるバイクと車の山。たぶん日本を除くアジアの経済国ではまだ少ないほうなのだろうが、マスクをしている人をかなり見かける。空が低いのは排気ガスのせいなのだろう。くもりでもないのに白い空には太陽が見えない。それまで「飛龍」は那覇に半日と石垣島に一時間半停泊していたので、そのたびに下船してそこいらを犬のように歩きまわっていた。照りつける太陽に日焼けして色褪せ、白くなった石壁の家々の間の路地を巡り、暖かく澄んだ波の寄せる海をフェリーで越えて来た僕は、ここが与那国島からたった一二〇qの地だという事実に、ただただ面食らってしまった。さんざん琉球諸島と台湾・フィリピンから東南アジアに至る共通性を文献などから伝え聞いていただけに、ショックは大きい。しかし、「国が違う」のだから、それくらいの差異は思えば当然だろう。僕は確かに、国境線を越えたのだ。

覆水盆にかえらず

色で言えばダーク・グレーだった、煤けてどんよりした台湾のイメージを寺内貫太郎一家のちゃぶ台にも顔負けなくらいひっくりかえしたのは(古い話でスミマセン)、親切で好奇心が強く、礼儀正しいのに物おじしない台湾の人々の姿だった。もちろん耳を貸さない人もいるが、道を尋ねたときの彼等・彼女等の親身さは、キャッチ・セールの横行する殺伐とした都市生活に慣れ切った僕等がとうに失ってしまったものだった。

台北駅前で故宮博物院[クーコン・ポーウーユェン]行きのバスの乗り場を探していた僕に、桃園[タオユェン](台北[タイペイ]から約二五q)から来たという女子高生たちは、自身達がこれから陽明山[ヤンミンシャン]にピクニック行く途中だというのに僕のためにバス乗り場を道ゆく人々に訊いて回り、いくつものそれらしいバス停を駆け巡り、かなり離れたところにあった乗り場まで案内してくれた。ほとんど一時間ちかくになっていたと思う。彼女達は終始笑顔を絶やさず、日本のことなどを人なつこい眼であれこれ尋ねる(彼女達は高校で日本語の授業を取っていたので、ある程度会話することができた)。それが決して作り笑顔や愛想のための会話でないことは、彼女達の純粋で生き生きとした表情からはっきりと分かる。そして僕はといえば、そののち何度も繰り返されることなのだが、表面だけ礼儀正しく慎ましげで当たり障りのない典型的な「日本人[リーペンレン]」だ。暖昧な笑顔と腰の低さで、積極性のない自分をごまかしている。慇懃無礼とはこのことだ。しかし、それが分かっていてもついポロリと出てしまうのがお国柄。バス乗り場まで送ってくれて再び来た道を戻る彼女達は、名残惜しそうに何度も僕を振り返り、手を振ってくれた。そんな彼女達にせめて住所を尋ね、帰国してから絵葉書の一つくらいは送るべきだった。日本語を学ぼうとしている学生なのだから、あれこれナマの情報を知りたくもあっただろう。たった今のぎこちないお互いの会話では訊けなかったこともたくさんあっただろう。そういうことに気がつくのはいつもあとになってからだ。覆水盆にかえらず。

旧正月の祝膳とバスの片隅にあった天国

台北で知り合った頼[ライ]さんと許[シュ]さんはともに大阪の上本町にある日本語学校で一年学んだカップルだ。知り合った翌日から、僕は頼さんの友達の楊[ヤン]さんを交えた三人に、オランダ統治時の面影を残す川べりの町淡水[タンシュイ]を案内してもらったり、あちこちのレストランでさんざん御馳走になったり、台湾一の大バコのディスコに連れて行ってもらったり、本当にお世話になった。台北を離れる四月四日、ちょうど翌日の旧正月を祝う親戚の集まりが頼さんのおばあさんの家で開かれ、僕も同席させてもらった。ちょうどこぞって料理を作っている最中で、とんでもない火力のガス・コンロの上で大きは中華鍋がゆれている。大皿に盛られた数多くの料理は、イカとセロリの炒めものや牛の内蔵の煮込みや牡蠣のスープなど、どれもうまい。火の通し方が絶妙なのだ。素材の良さを損なわない程度に、あくまで味を引き出すために火にかけているのだということがよくわかる。頼さんの酒のみ友達だというおばさんが皆に「来来来[ライ・ライ・ライ]…」と葡萄酒をすすめる。もちろん僕もご多分には漏れない。これが後で試練を招いた。

バス・ターミナルまで送ってもらった僕は、高雄[カオシォン]に向かう。バスはのんびりと発車した―――が、ターミナルでも済ませておいたのに小用が我慢できなくなってくる。あんなに飲んだのだから、まあ当然だ。頼さんに、台中[タイチョン]で途中トイレ休憩があると聞いていた。台中まで我慢するしかない。眠れば尿意もその間感じずにすむ。僕は無理に眠ることにした。しかし、その眠りも衝撃とともに終わる。ハイウェイのど真ん中でバスが接触事故をおこしたのだ。地元の乗客は五分ほどざわめき、様子を見ようと正面にやって来ていたが程なくなんでもないように眠ったり少し喋ったりしている(僕は一番前の座席だったので立たなくても事故の様子が分かった)。隣に座っていた日本入のオッサンだけが日本語で「けしからん」「だから台湾はなっとらん」などとわめきちらしていた。そのくせ運転手や警察がやってくると静かにしているし、事故現場をカメラに収めたりしている「いかにも」な日本のオッサンだ。このあと彼は僕に巻き寿司やどらやきをくれたり少し気を使ってくれたりしたが、僕は終始カタコトの中国語と英語しか話さず、台湾人のふりをしてかかわりにならないよう努めた。

しかし問題はどうしようもない膀胱の肥大である。一度目が覚めるともう眠れなかった。事故後、僕等は警察の到着、現場検証を待ち、ようやく走り出たあとも一旦高速道路を降りて交番まで行かなければならなくなった。もはや限界だ。再び走り始めたバスは何度も旧正月の帰省ラッシュに呑まれ思うように進まない。僕は席を立ってバスを止めてくれと懇願したが、運転手はなぜだと訊く。それ以上の中国語の語彙は僕にはなく、運転手は英語を解さない。僕は気分の悪いジェスチャーを通じない英語と共に繰り返した。まさか小用でバスを止めてくれとも言えなかったのだ。運転手は首を横に振り続けていたが、後ろに行けと指さした。ああ、そこにはトイレの個室があるではないか!「台中でトイレ休憩」という言葉がひっかかって台中までトイレがないと思い込んでいただけだった。僕にとって去年のうちで一番天国に近かった場所は、ガタゴトゆれるハイウェイ・バスのトイレであったことは聞違いない。

日本人旅行者、仲介役に走る

高雄では漢神百貨[ハンシン・パイフォ]の前で行ったインタヴューで街のスポットをあれこれ聞き出し、ライヴのあるパブ「犂舎[リーシェ]」に行く。通りすがりの高校生風に場所を訊くと、「うまく説明できない」「後ろに乗っけて送るよ」とスクーターで店まで送ってくれた(台湾ではヘルメットなし・二入乗りでもOK)。しかしパブのカウンターはあるが、肝心のステージが見当たらない。戸惑って、店に入ろうといていた集団に尋ねると、目当てのライヴ・スペースは二階らしい。「日本人か?」「一入で来たのか?」「誰かと一緒の旅行じゃないのか?」「こっち(台湾)にいる友達を訪ねてきたわけでもないのか?」「じゃ、一緒だ。一緒に飲もう」―――かくして僕は簡単に高雄でも友達ができた。彼等・彼女等は実に顔の広い人達で、店にくる客と次々あいさつしていたが、これは店を離れ街に出た翌日以降でも全く変わらなかった。僕が高雄にいた四日間だけでこうなのだから、いったい彼等・彼女等の友達・顔見知りはどのくらいいるのだろう? 想像もつかない。店で僕等はコロナ・ビールを飲み・様々なことを話し(とはいっても、乏しい僕の英語力では話せることはとても限られていた。漢宇を書いての筆談もさかんにしたが……)、生バンドのロックで踊った。

そのうち、皆は額をあつめて何かを議論し始めた。グループの中で二年間、日本で生活したことのある遙[ヤオ]さんが解説してくれる。僕と最も親しく話してくれていた家惠[チアフェイ]さんの気になる人がどうやら踊りの人波の中に居るらしい。彼は友達どうしで連れ立ってきている様子ではなさそうだったが、自然にできた踊りの輪の中に彼は居て、しかも両横を彼に興味のありそうな女の娘が固めていた。たしかに切り込むには難しい局面だ。そこで、台湾では外国人である僕が彼に近づくこととあいなった。どうしたものかと躊躇したが、思い切って正攻法で話しかける。しかし万事休す、彼に英語が通じなかった。両手で数えられるほどしかない僕の知っている中国語で「對不起[トゥイ・プ・チー](すみません)と言ってほうほうの体で退散するしかなかった、しかし、ラッキーなことに不思議に思った彼は僕についてきて、家惠さんたちが(たぶん家惠さんのネライのあたりはうまくごまかして)事情を説明し、林[リン]さんと名乗る彼は結局その後僕等と行動をともにすることになる。やったね、家惠さん!

深夜のKTVの行方

台北でのときと同じように、家惠さんたちにも本当にお世話になった。レストランや喫茶店や映画館やいろんな店に連れて行ってもらい、帰りの航空券のために旅行会社に勤める知人を紹介してくれ、一緒に騒ぐために友達を何人も集めてくれて、宿まで世話してもらった。

台湾を発つ前日、家惠さんや林さんたちとKTV(カラオケ)に行った。日本のカラオケ・ボックスより格段に部屋が広くゴージャスな内装のKTVの部屋には入れ代わり立ち代わり、彼等・彼女等の仲間がやって来ては飲んで歌って去って行く。そして、台湾式の乾杯が繰り返される。台湾で乾杯[カンペイ]と言えば、コップに入っているアルコールを残らず飲み干す、文字どおり杯を乾かす「乾杯」なのだ。その乾杯の前後に台湾の人々は連れ飲む相手と必ず目をあわせ、「いただきます」という雰囲気でコップに両手を添えて持ち上げる。その仕草が日本人よりずっと大人に見える彼等・彼女等とアンバランスにちょこんとかわいく見え、自分に乾杯が回ってこないときには見ていて楽しい。

彼等・彼女等の歌は、皆、実にうまい。これは踊りにも言えることなのだが、みんな、歌うことも踊ることも、心底好きなのだ。カラオケヘの抵抗感やステップの決まり事が彼等・彼女等からはまず感じられない。体裁を気にしながら「誰かの前で歌う」のが日本人だとすると、台湾人は「自分のために歌う」。歌うことや踊ることがすなわち楽しむことなのだ。

そのうち、仲間の中に彼氏とうまくいかない、彼がひどい、という事で泣き崩れる娘が出た。すでに彼女は泥酔している。僕等は彼女をなだめすかし、怒り甘やかし、KTVを出たあともあちらへこちらへ車を駆り、何度も携帯電話をダイヤルし、なかなか連絡のつかなかった当の彼氏をなんとか呼び出して、やっと事なきを得たのは午前五時のことだった。やれやれ。

翌四月八日、朝七時半に起きた僕は慌てて身支度し、タクシーに飛び乗って高雄空港から飛び立った。こうして台湾渡航ドタバタ劇の第一幕は幕を下ろす。

台湾再訪

夏に再び台湾を訪ねようと思ったのは、家惠さんから電話があり、手紙がきたからだ。それぞれ他の用件があっての通信だったが、そのたびに「今度はいつ台湾に来るの?」と尋ねられた。期間をおかずにもう一度台湾で出会ったみんなに会えば、僕はみんなにとってただの行きずりの旅行者じゃなく、友達だと思ってもらえるのではないか? マダガスカルにもミャンマーにも行きたかったが、僕は再び台湾の地を踏むことにした。たまたまそれまでの仕事場を退職していた、当紙の題字の製作者ゼリー藤ヲ(以下、ゼリ男と省略)に声をかけたところ、お金もないのに来ると言う。どちらの日頃の行いが悪いのか、前日まで五q/hという遅足で近畿圏を暴風域に置き続けた台風にさんざ気を操まされたものの、七月二七日、EG211便は無事関西国際空港を離陸する。

「あ、日本人の社交辞令だ」

二度目の台湾は、もう異国ではなかった。それは今回一人旅ではなかったからかもしれないし、ものの二時間半で着いてしまう移動時間のあまりの短さのせいだったかもしれない。もちろん二度目だという慣れもあるだろう。かつてサラリーマンだったときに出張で訪れたことのある日本のどこかの街であるかのような錯覚があった。以前感じた古びた街の印象はそっくりそのまま郷愁に変わり、反対に、近代化した没個性なビルで埋められて行く日本の街が異様に見え始める。旅行者というより、街にぶらっと遊びに出てきた人、という感じだ。そのためか、よく道を尋ねられた。おかげで「我是日本人。听不憧。(僕は日本人です。おっしゃっていることが分かりません)」が僕等の呪文のようになってしまった。

よく晴れた日、台北から日帰りで九?[チュウフェン]へ向かう。九?は映画のロケなどにもよく使われる、古い町並みを残した山の中腹にある町だ。電車でまず、あの基隆へ出た。台北よりずっと空は青く、空気は爽やかだった。全くもって以前の印象と正反対だ(そして、全くもって人の「印象」というものはアテにならない)

バスに乗り継ぐようなのだが、乗り場がまた分からない。近くにいたカップルに訊くと、分からなかった二人は、すぐうしろにいた別の女性に聞いてくれた(これだけでも日本人にはあまりできないことだ)。彼女は東京で四年間留学していたことがあり、日本語がとても堪能だ。キョロキョロしていた僕等を見て「ひょっとして日本人の旅行者かな、囲っているのかな?」と気にかけてくれていたところだったらしい。バス停まで案内してくれて、どこにも掲示されていなかったバスの時刻を待っている人達に尋ね、到着するまで話に付き合ってくれた。だのに、またしても僕等はお決まりの「当たり障りのなさだけがとりえの」つまらない日本人だった。台北の日本語学校に「恥ずかしながら」勤めているという彼女の日本語を「いや、本当に上手ですよ」と誉めたり、ちょっと日本での生活を訊いてみたりするだけ。「日本に来ることがあったらぜひ連絡してください」とかなんとか言いながら、アドレスを訊くことも渡すこともうっかり忘れていた。彼女は「あ、日本人の社交辞令だ」と思っただろうな。大きな親切を受けたとき、僕等日本人は「身にあまる思い」を表現するために精一杯恐縮する。素直に喜びを表現できないのがあとからいつも悔しい。ああ、なのに、着いたバスに乗ろうとして「運賃はいくらでしたか?」と彼女に訊くと、「○○元(ウォン)ですよ」と言いながら、小銭がなくて慌てている僕等に彼女は、ほら、自身の財布からお金まで取り出そうとしたではないか

檳榔[ビンラン]噛みのタクシー、突っ走る

九?の曲がりくねった町並みに連なる店々を巡り高台からの風景を満喫すると、帰りのバスはもうなくなっていたので、買い物帰り風のおばさんとタクシーに相乗りし、駅のある瑞芳[ルイファン]まで出る。小じんまりとしてしっとり落ち着いた町だ。屋台で買ったピリッと辛い鶏の足をかじりながら列車を待った。やがてホームに入って来た列車は、車内灯がすべて消えている。回送車か? さにあらず。この列車は走り出すと自家発電して蛍光灯をともすのだ(自転車のライトのようなものか)。駅に止まるたびに明かりが消える。車内に明かりがない方が外の夜景はよく見えた。窓を全開にして風を入れたら、夜が本当に夜らしい顔をして僕等のすぐそばに寄り添っているのが分かった。

再び戻った基隆の夜市で夕食。偏食が少なく食い意地の張った僕とゼリ男とは、この街に限らず、呆れるほどあちこちでいろいろ食べたが、魚介類はここが最もおいしく感じた(基隆は大きな港町)。あまりに堪能しすぎて終電を逃す。やむなく呼び込みのタクシーに乗った。台湾ではタクシーはまずボラないし安全だ。しかし、この国には檳榔という興奮剤のような嗜好品があって、これを噛んでいる奴にはちょっと用心が必要だ。タクシー運転手にはこれの常用者が多く、呼び込みで声をかけてくるのはえてしてこのタイプである。彼の車は矢のように台北へ突っ走る。料金表をあらかじめ確認して乗っていたが、降りる段になると「これは一人ずつが払う料金だ」と倍額をゴネられる。夜も更けているので、へんにイザコザに巻き込まれるのも厄介だ。素直に払う。ただし、台湾ではこういうほんの一部の例外を除けば、深夜の一人歩きでもあまり危険を感じたことはなかった。夜であっても流しのタクシーを拾えば安全だ。女性は気をつけるに越したことはないと思うけれど。

一日、買い出しとしよう

台中(タイチョン)には鹿港(ルークァン)という昔ながらの面影を残した時に立ち寄るためだけに宿を取ったのだが、寝坊して鹿港には行けなかった。夏の台湾のことだ、持ち合わせだけではすぐに着るものがなくなるので、一日、衣料の買い出しとしよう。台湾の大きな都市にはどこにも、かなりの規模の服飾小売店を中心としたテナントビルがある。このビルの中にはそれこそ無数の店が譜まっていて、人いきれで沸きかえり、さながら「市場」の雰囲気なのだ。台中には目抜き通りの中正路[チョンチェンルー]にあった(台北では西門町[シーメンディン]の今日百貨[チンリー・パイフォ]の横に、高雄では大同一路[タートン・イールー]にある。参考までに)。このビルに「加藤茶[チァトンチャー]の店」なる名の店を発見した。たぶん当のご本人はこの店の存在をご存じないと思うのだが……。派手なものを好む傾向にある台湾ではシンプルな作りのものは割に安く手にいれることができて重宝する。僕が兼ねてからほしかった二万円ほどするニュー・バランスのスニーカーが二千元(約八干円)で置いてあるのを目ざとく発見した。店員さんが声をかけてくれるが、これからの道中を靴の入った箱とともに行くのはどう考えても面倒だし、郵送料がどのくらいかこのときには知らなかった。涙をのむ。そう言えばニュー・バランスの工場は確か台湾にあったはずだ。

中華路[チョンホア・ルー]にある夜市は想像以上に大きく感じる。それはたぶん、ほかの都市に比べて夜が静かなせいだろう。台湾の入々は南国の町の多くがそうであるように、宵っ張りが多い。昼が暑すぎるせいだ。けれども台中の夜は早かった。それだけに中華路の賑わいが際立って見えたのだろうか。道端に居並ぶ店々の椅子に腰をおろしていると、すぐ後ろを車が次々と掠めて行く。排気ガスいっぱいの中での食事にももう慣れてしまい、僕等は店を七軒もハシゴしてしまった。

台南[タイナン]で考えたこと

台南は古都である。台中が郊外に開けゆくニュー・タウンである印象が強いのに比べ、台南は旧跡や寺院も多く、街並みも比較的背が低く落ち着いている。また、台南は食の都でもある。他の都市でも「台南〜」と名のついた看根をよく見かけたくらいだ。まあ「博多ラーメン」みたいなものだ。小北夜市[シャオペイ・イェスー]は、台南各地に散らばっていた屋台をここに集めたというだけあって、実に圧倒的。例によって魚介類の皿をつついていると、若い女性が店にサッと入ってきて僕等に話しかける。僕等がいつもの呪文を繰り返そうとすると、奥から店のおかみさんの声。たぶん「日本人だから……」といなそうとしてくれたのだろう。が、彼女は「英語はできまずか?」とネバる。話を聞けば、彼女は恵まれない子供達のために募金を集めるボランティア学生だったのだが、僕にはいつもの悪いクセがはたらく。ここでハイハイとお金を出したらとても面倒なことに巻き込まれるかもしれない、あるいはキャッチ・セールスかもしれない、とつい勘ぐる悲しい思考回路ができあがってしまっている僕は「今、所持金はほとんどないから……」とウソをついてしまう。しかし彼女は「いいんです。お金があるときに子供達を思って少しだけ分けてくれればいいんです」と笑った。確かに台湾には募金を呼びかける人が街に多い。彼等・彼女等にいつも頷いてお金を出すのはどうかと思う。それは南アジアや東南アジアなどを旅するともっと切実に感じられる疑問だろう。ただ、空いた料理の皿とともに残された彼女の屈託のない笑顔と言葉を「どこにでもあることさ」とあっさり流してしまうことが僕等にはうまくできなかった。失礼ながら、僕は人の顔をよく忘れるほうなのだけれども、彼女の笑顔は今も思い出すことができる。

台南から高雄へは近いので、少しでも安い普通電車を使う。電車に乗るとき、喋っているゼリ男と僕の声を聴いてハッとした表情をこちらに向けた若い女の娘がいた。日本人旅行者なのだろうか? しかし、ちょっとした雰囲気が違う。荷物も少ない。電車のシートに座っていても、彼女は僕のすぐ横に立っている。しばらくすると彼女は手帳を取り出して何かをそこに書きつけだした。とある小さな駅で降りようとした彼女は、その一ぺージを破り取り、笑って会釈しながら僕に手渡した。呆気にとられた僕等は慌てて折り畳まれた紙を開く。「願?們在台灣玩的很快樂 祝福?們[ユァン・ニーメン・ツァイ・タイワン・ワン・タ・ヘン・クワイルー チューフー・ニーメン](あなたがたが台湾で楽しく過ごせることを願っています。あなたがたを祝福します)」とそこにはしたためられている。動き出した電車の窓をふりかえり、僕が手を振ると、彼女はずっとこちらを見ていて、同じように手を振ってくれた。陽が落ちて宵闇が迫った濃いブルーの駅から伸びる一本道で、白っぽい服を着ていた彼女がうっすらと浮かび上がった風景は、今でも僕を初恋のような甘酸っぱいやる瀬なさへと連れ戻す。そうして、今より若い頃に僕等が置き忘れたまんまの何かがたくさんあることを思い出す。

そして高雄はやっぱり―疾風怒涛

高雄に着いて、それまで旅行者然としていた僕等の日々は一変する。夜に有名な六合夜市[リゥホー・イェスー]にでかけたあと、家恵さんに連絡するもつながらず、友達の遙さんのところに電話してみた。そして、その夜から食事にディスコにライヴ・ハウスに喫茶にと、もうめくるめく大歓迎のオン・パレード。彼女の仕事のオフはすべて僕等に費やされたと言っていい。彼女の経営するブランド服のセレクト・ショップに勤める玉仙[ユイシェン]さんと、友達の阿MAY[アメイ](彼女の通称)さんを含むすさまじい四日間の始まりだった。

遙さん・玉仙さん・阿MAYさんと行った漢神百貨の二十二階にあるRock22は生バンドやヴォーカリストを要する一大ディスコ。どうやら「まず踊りに」というのがタイワニーズの遊びの第一歩であるようだ。頼さんのときも家恵さんのときもそうだった。これは「まず音ありき」で踊りに向かってゆくクラブ主導の今の日本にはあまり感じられない風潮だ。自分が聞いていて気持ちの良い音で踊りたいと思うのは自然発生的な願望ではあるが、クラブでは音の種類が入を分類してしまっていることも確かだ。相変わらず島国根性的に自閉した、オタク化をたどる今の日本の様子がまたひとつ浮き彫りになったように感じる。僕は踊りがヘタで恥ずかしいが、みんなはおかまいなしのようだ。

テーブルで隣席になった曉h[シャオチー]さんとよく話した。彼女は好奇心の強そうなくりくりとした眼で僕に様々な質間を投げかける。高校生の彼女は現在英語とフランス語を学んでいて、のちには日本語も学習したいと言う。それは彼女が熱心に外国語を通じて会話しようとする懸命さでよく分かる。しかし、遥さん達はそんなムードにちょっと冷め気味。もちろん自分達のグループと違うところで話が盛り上がるのは心外だろうが、こうしたことは台湾ではよく見られることで、そうでなければ前回の林さんのような事態はあり得ない。

この間題は非常に微妙なことなので安直な私的意見を述べるのは慎んだほうがよいのかもしれないが、「臭いものにフタをする」のはまがりなりにも新聞を名乗る紙面としてあるまじきことだと思うので、続けよう。これと似たことがのちにもあった。懐かしの犂舎で踊っていたときのこと。すぐ隣で激しく踊り狂っていた、東南アジア出身とおぼしき浅黒い肌の二人の男の子に、ゼリ男が踊りを仕掛けられたことがあった。輪を作ろうという誘いなのだろう。それを家惠さんは制した。―――曉瑛さんも同じ肌の色をした女の娘だ。

台湾はNIES諸国として韓国や香港とともに目覚ましい発展を遂げ、裕福な家庭ではメイドさんをおいているところが少なくない。彼女等の多くは陽気で気立てがよく、安い賃金で働くフィリピン出身者だと聞く。頼さんの家でも肌の色の濃いメイドさんが二人いた。彼女等は当然と言えば当然だが、徹底して使用人の扱いしか受けない。そうしないことには家庭の秩序が崩れてしまうのだ。かつての強制奴隷ではなく、彼女等は請われてこの職につき、プロフェッショナルに仕事をこなすことで賃金を得ているのだから、このシステム自体はおかしいわけではない。けれども、それが家庭の秩序を飛び出し、ある種の人種的偏見として世にまかり通っているのではないかという疑念が僕にはある。事実、この国で黒人の遅しい腕にキャーキャー群がる日本女性のことを「理解不可能だ」と首を振るタイワニーズは多い。

犂舎にいた男の子達は確かに目がイッていた。ラリっていた可能性も大きい。危険な匂いはプンプンしていたから、家惠さんの制止はもっともだと患う。ただ、彼等をその境遇に引き寄せた社会的な力があるのだとすれば、いったい本当に危険な刃を抜いているのは誰なのだ、という重い疑問に突き当たる。そう思うとき、曉hさんの健気な好奇心いっぱいの瞳にはなんと救いがあることか。そして、僕等のグループにまじって最後までいた曉hさんにタクシーを呼んで(たぶんお金まで払った)無事に帰るのを見守った遙さん達の折り目正しいマナーにも、大いに救われたことを特筆したい。

日中礼儀合戦

そう、実に遙さん達はすばらしい感覚の押し引きで僕等を歓待してくれた。これには本当に舌を巻く。日本人も礼儀正しいもてなしには定評があるが、彼女等は慎ましく「引き」の一手で礼節を尽くすのではなく、実にさりげなく、ときには華やかに、ときには堅実に「押し」て接しもする。客人の懐に迷惑なほど深入りせず、かといって他人行儀にはならない。この絶妙のサジ加減に触れて、僕ははじめて「本当のマナー」と言うもののはしっこをつかめたように思う。

二日目の夜、一流ホテルの中信大飯店[チョンシン・ターファンティエン]の飲茶[ヤムチャ]に誘われたときや最終日の明け方に遊びのシメとして午前三時からオープンする不思議な丼屋さんに案内してもらったときは、出てきた料理の皿の多さにひっくりかえった一幕もあった。これはおそら<中国人風の歓迎の意味を表すのだろうことを帰国後に気づいた。出されたものを残さず食べることが日本的礼儀なら、食べ切れないくらいの料理をふるまって盛大な歓迎を演出することが中国人的礼儀なのだ。確かに日本人は他の諸国の人々に比べて小食ではあるかもしれないが、この食い意地の張った我々をしてギヴ・アップせしめたただならぬ皿の数は、やはり一般的な食事の量ではないだろう。そうすると、あの食卓は日中礼儀合戦だったのだろうか? それにしても、それが有名ホテルの海老蒸し餃子であろうと、屋台風の店の肉そぼろ丼であろうと、なんでもうまいのはどうしたことだ―――どこへ何を食べに行くかで軽く一時間は論議してしまうという頼さんの言葉を思い出す。

のちに家惠さんが、遙さん達と合流することもあったが、どうも様子がおかしい。台湾最終の夜にも皆で集まることになったのだが、僕等には二人の間に何かがあったのではなかろうかという懸念があった。まさにちょうどそのとき、遙さんは春に僕が訪れてから家惠さんとの間に起こったいくつかのできごとと心境を話してくれた。そして、それがあまりに絶妙なタイミングだったことに驚き、その対人的なバランス感覚に打たれた。シャイな反面うちわノリの好きな日本人はこういったとき、つい「気にさせると悪いから」と薄々気づいているだろうと先かっていても気まずいことは隠したり、「あなたを信用しているから」「あなたなら分かってくれるだろうから」と何もかも明け透けにしゃっべてしまったりする。それがどちらも悪いわけではないにせよ、両極端なことは確かだ。遙さんの行動はタイミングにしろ言葉の選び方にしろ気遣いにしろ、行き過ぎず引き過ぎず、安定していて一つ一つに説得力がある。人づきあいには誰もが美しいと感じる黄金率が端からあって、それを見せられているような気になってくる。これは彼女の天分なのだろうか、それとも後天的な努力の賜物なのだろうか? ともあれ、ここでも僕等は「無害なだけの日本人」の思いを強くした。

高雄から近い旗津[チーチン]の海は、折からの台風で荒れていた。台南に近い鯤魚身[クンシェン]の海岸では入気もなく手入れされないままの雑草があちこちに顔を出し、風で薙ぎ倒されたのかどこかから流れ着いたのか、大きく長い竹の柵が無造作に打ち捨てられていた。台湾らしくグレーな空と白っぽい海は旗津にしろ鯤魚身にしろ、すっかりショー・アップされドラマの舞台装置になった日本の砂浜とは違う、きめの粗いロマンチシズムに溢れていた。外洋である南シナ海の波は高くうねり、容赦ない。この浜を吹く風は琉球を抜け、やがて遠く大阪の地を通るのだろうか? 港町として発展した高雄の街は、旗津半島までの渡し舟から見ると海に浮かんでいるようだ。唇気楼のようにも見える。

大阪の空は青かった

翌朝乗り遅れそうになりながら高雄空港でEG二三六便に駆け込んだ。道中に出会ったいろんな人の顔が次から次へと浮かぶ。しかし台湾→日本の空の旅は感傷に耽るには少し短い(沖縄からの所要時間とたいしてかわらない)

平均的国民像として、日本に友好的な国はたぶんまれだ。東アジア諸国には戦争の遺恨が残っているし、東南アジア諸国には売春ツアー、環境破壊のゴルフざんまいのイメージが強い。欧米ではエコノミック・アニマルであるとともに黄色人種である差別意識もまだ残されていると耳にする。そして、これは同じ国の人間であるから際立って見えるのかもしれないが、日本人旅行者の多くは自分達だけで群れ、現地の人々と積極的にかかわろうとしない。また「旅の恥はかき捨て」だろうか、へんに気が大きくなるお調子者の側面も強く感じる。要するに、ほんとうに島国の成り金民族に見えてしかたない。日本人といえばひょろっとして眼鏡をかけてカメラをぶら下げて、的イメージもこの範疇にある。

そんな国際的イメージの中、隣国台湾は日本人に対して非常に好意的だ。かつて日清戦争時から五〇年もの支配を受け、ごく最近まで売春ツアーの標的にされ、貿易も日本側に一方的に拒否され、李登輝[リ・トンフィ]首相の日本入国すら自由でないにもかかわらず。―――戦後の蒋介石[チァ・チェンシー]が展開した戒厳令を含む独裁政治や、中華人民共和国との関係が深いという以上に、今ここではその理由を掘り下げるスペースはない。ただ、歴史の奔流の末に訪れたこの偶然を素直に喜びたい。が、また同時に、台湾など近隣諸国の事情にあまりにも疎い、自身を含む日本人の身内意識―――島国根性が恥ずかしい。そして、結局、国際感覚というのは自分感覚なのだ。あやふやな価値基準しか持ち含わせず、自分の中に物のスケールを測るモノサシがない者には他入を決して見つけることはできない。自身を固定したひとつの視点に定めないと、相手を捉え理解することは不可能なのだ。そこから初めてコミュニケイションが始まる。

慌ただしかった旅は終わったが、その後の僕の日常は、この旅に出る必前と少したたずまいを変えた。思い出ではない。今も台湾紀行は僕の毎日の中で続いている。

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