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みみたぶ通信

§11 ピチカートとフリッパーズ周辺F ‐カラフルに描いてモノトーンな小山田ワールド

 九条にあるカフェ「そらいろ」(1)の店主佐藤さんは「いくらなんでも『パーパッパラー』はないでしょう」と言った。そう。そのとおりなのだ。コーネリアスのファースト・アルバム「ファースト・クェスチョン・アワード」の一曲、「レイズ・ユア・ハンド・トゥゲザー」を指してのことなのだが、(多くの人が知っていることだろうげど)この曲、全くジャミロクワイ(2)なのだ。敬愛するミュージシャンをリスペクトしてとか時代の音を自男流に咀嚼してとか、そんなレヴェルではなく、もうほとんどパクっている。モロなのだ。

 小山田(3)は反省のない男だ。徹底してフザケきり、遊びきり、自己肯定しきっている。AIRの車谷浩二(4)は「ルー・リード(5)みたいに歌いたいのに、この細い僕の声ときたら……」みたいなことを言っていたが、同じようにラウドな曲を取り上げたときであっても、小山田は細い自分の声にコンプレックスを抱いたりすることはない(彼に似合いもしない)(6)。小沢健二が自己表現と演技の狭間で揺れたり、ピチカート・ファイヴの小西康陽が時代の音の封じ込めに腐心している問に、かれはのほほんと(しかし決して奥田民生のように必然的にではなく)マイ・ブームだけで気紛れに音を編集しつづけている。そして、それが一人よがりであろうとなかろうと、道行く「渋谷系」あるいは「宇田川系」(7)と呼ばれた人々の耳に「聞いてみれば?」なんて感じで吹き込んで、悪びれず何気に自己主張してみせる。朝起きぬけのような低血圧気味の億劫な顔色が彼を「傲慢だ」という中傷から救っていると思う。

 ハッキリ言って、僕は小山田圭吾も小沢健二も小西康陽も、大キライだ。(時にウジウジしながら)それらしい虚構をしたり顔でタレ流しやがって! でも、腹が立つから気になる。そして聴く。そしてまたムカつく。で、結局、立腹することで僕は彼等にハメられている。駄々っ子がイタズラをして母の目を引こうとするのにまんまとのせられてしまったのと同じく、コーネリアスがビニール表紙やイヤホン付きのアルバム(8)を発表するたび「またか! しょーもなー」と思い、買うまいと決め、しばらくしてCDショップから初回限定盤が消えると慌てて中古レコード店を探して回る。アホなのは僕だ。そして気がつく。彼等のしたり顔やウジウジは鏡に映った僕であり、自分のイヤな面を見せせつけられるように感じるから、僕は彼らが許せず、だのに気になるのだ。

 彼は前述ファースト・アルバムの冒頭曲「太陽は僕の敵」の歌い出しで「あらかじめ牙かっているさ 意味なんてどこにも無いさ 十一の嘘と本当 見えない振りでもするのだろう 他人の一言葉つなぎ合わせて イメージだけに加速度つけ話すだろう」と断っている。そして図らずも最新アルバムであるサードの「ファンタズマ」の最後のヴォーカル曲"Thank You the Music"では「Bye Bye 僕のくだらない Bye Bye 空想の旅に 君の大切な時間使ってくれてサンキュー」なんて軽く言い放っている。ソロになってからの小山田にとって言葉は単なるイメージであり、音を補完する材料に過ぎない。ファースト・アルバムで期待されたまんまの音を作り、暖昧模糊とした玉虫色の着さを月並みな言葉で並べた彼のCDを聞いたときの第一印象は、「なんて『〜だろう」ばかり使った歌詞なんだろう」だった。全十一曲の中に、「だろう」という単語が実に二十七回も出てくるのだ。いかにも「確実なモノなんて何もない世代」らしい物言いではないか。しかし、小沢健二同様、彼はセカンド・アルバムから丸っきり虚構性で過去にオサラバする。「69/96」はそのアルバム・タイトルからして思いつき一発の意味のなさだが、歌詞に競作者をたてた彼は歌詞の意味性や自己表現の呪縛から逃れ、「五つめの季節はいつでも 涼しくて少し暑くて飛行機ですごしてる時の感じ(中略)五つめの季節でヒットするレコードは どんな曲なのだろう おそらく この曲の感じ」(ブラン・ニュー・シーズン)とかなんとか。音でも、様式美に囚われ半ば化石化していたヘヴィー・メタルを導入し、強引に彼のポップ・ワールドヘ混ぜこんでいた。「ファンタズマ」も名のとおり、アルパムを通して多種多様な音世界をオムニバス形式に被露して見せ、マイク・チェックの声"ah"と"mic check"のほとんど二単語だけでできた曲"Mic Check"や一から六までの数字を数える"Count Five or Six"など、いっそう歌詞に意味はない。もう「〜だろう」は片鱗も見えない。

 詞作の呪縛から解放された小山田はまた、曲やアルバムのクオリティ指向からも逸脱できた。
曲の一つずつの粒を揃え丁寧にラッピングするのではなく、いろんなものをごちゃっと一緒に放りこむことで福袋のような賑々しさを醸し出し、尚且つそれを緩やかなベクトル上にさりげなく配置することで個性や統一感も打ち出している。さしずめ、散らかってはいるが趣味の良いツレの部屋、とでもいったところか。ここでは、散らかし切っているわけではないところがミソだ。
うまくはきこんで味を出したジーンズとただ使い古してボロくなったジーンズとが違うように、彼は計算してくずしている。また、くずしている過程でたまたま見つけたおもしろい取り合わせを偶然の産物として曲に取り込むしたたかさも忘れてはいない。

 流行のことをいつの頃からか「時代の気分」なんて言うようになった。少なくともたぶん「お富さん」(9)一曲で家が建ってしまった時代には流行は「気分」ではなかったはずだ。また、「気分」は「雰囲気」でもない。その時々に不特定多数から沸き上がってくる緩慢なものではなく、瞬間に次々変化してもよい、よりパーソナルな気紛れだ。良くも悪くも、コーネリアスを聴くということは、彼の気分に付き合うことだ。いくら彼に自男との共通項を見いだして共感しても、彼の先見の明や細部にこだわる職人技やヒラメキの鋭さに唸っても、彼は底にできるだけなんにも置かないようにしているから、自分も手慰みとして聴かなければ肩透かしを食らってしまう。そう、彼の主張はただ一つ。「なんにもないから、遊んでみようか」

 小沢健二に比べて、彼はなんてカッコいいんだろう(オザケン・ファンの方々、失礼)。飄々
と自身の気紛れを音像化し、時代とバランスよく拮抗し、不満も漏らさず優等生にもヤンチャにもなる。僕もささやかながら彼を支持する。ただヤバいのは、彼の圧倒的な自已肯定を鵜呑みにして、不確かなものの多いこの世の中ですがる柱の一つにしようとするファンの姿だ。オザケンのファンが彼の弱さを支えようとし、小山田のファンは彼の強さにすがる。その崇拝が行き過ぎたら、もう新興宗教だ。物事はナナメ読みするのが正しいと言っているのは、ほら、彼等じゃないか。



1 当紙第九号参照。
2 ステイーヴイー・ワンダーそっくりのヴォーカルを聞かせるジェイ・ケイのソロ・プロジェ
クト。サンプリング感覚で様々な元ネタをそっくりいただく姿勢もコーネリアスと全く同じ。
その彼を小山田は更にいただいているわけだ。当紙第五号参照。
3 コーネリアスは小山田圭吾のソロ・プロジェクト。
4 元スパイラル・ライフ。いいかげんなCDショップの売り文句だが、一時期ポスト・フリッ
パーズなんて言われたりもした。
5 ヴェルヴエット・アンダーグラウンドを経てソロを発表し、一貫してニュー・ヨークのモノトーンなアンダーグラウンド・シーンを体現してきたミュージシャン。
6 アルバム「69/96」で彼はラウドな音で浮かないように自身のヴォーカルにエフェクタ
ー(音を変質させる装置)をかけまくっているが、それは音質を整えるため施しただけのプ
ロデュース作業。
7 代官山辺りでウロウロしている若い人々。それだけ。
8 前者がアルバム「69/96」で、後者が「ファンタズマ」。どっちも特殊仕様の初回盤は
作りが特殊すぎて赤字。
9 春日八郎の代表曲。


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