散歩日記


2007〜2010年

知らない街を 歩いてみたい どこか遠くへ 行きたい

日曜の朝に、「遠くへ行きたい」という旅番組が放映されていた。
そのタイトルのわりに、日本各地へのぶらり旅行だっただけに、出演者はあまり遠いところに出かけてはいなかった。
ただ、あれが「番組」でなければ、出演者はそうとう日常からかけ離れた山里にいたりした。

バンコクで仕事を持つ身になって思うのは、思いのほか自分が「タイ」から遠いこと。
職場でも街角でもタイ人とは顔をあわせるけど。
でも、散歩に出た先で出会う風景はまさしく「タイ」で、それは僕のいる日常からはすごく遠くて、僕がこの国に住み始めるまでに恋い焦がれ、好きでやまなかった風景そのものだ。

近くでも遠いところに出かけること、それがいまの僕の散歩。
ちょっと、一緒に出かけてみませんか?




バンコク郊外・北部
クレット島 その2 ヤギの瞳に見えたもの
ドリーム・ワールド 最も遊園地らしい場所
クレット島 車のいない島のデジャヴ
ワット・チェディ・ホイ 牡蠣殻でできた仏塔と野良犬・野良猫たち
バンコク郊外・西部
マハーチャイ〜メー・クローン 移動こそが旅の醍醐味
プッタモントン あまりに広大な仏塔公園
バンコク郊外・南部
スリ・ナコーン・クワンカン公園 渡し船を降りたら自転車で
バンプー・リゾート 夕暮れに舞うかもめ
ムアン・ボラーン タイでテーマ・パーク巡り
プラプラデーン 水先案内をしてくれたPさんの教えてくれたもの
プラプラデーン市場 「あの」タイの風景に包まれて
バンコク郊外・東部
クローン・スアン100年市場〜ワット・ソートーン(チャチューン・サオ) 紋切り型でない市場
スアン・サイアム(/パタヤー〜ジョムティエン/フアマーク・スタジアム) 思いつくままの年末年始
バンコク
バイクに跨って アジア版「部室でいる男どうしの感じ」
ソンクラーン考 歩行者天国シーロム通りに立って思い出した
怪電話 唐突に始まって出し抜けに終わった「友達」譚
バンコクのトランプ詐欺師 絶体絶命の一大ピンチ
ワット・パークナーム 仏教宇宙の美
少し歩いてみるか −スクンヴィット・ソイ22 久しぶりに味わった独身の味
当てもなく近所を歩く 弱さから来る痛みにありのまま向き合う
フリスビーのある風景 タイ人の原型と出逢う
動物議員ポスターを探して なんて自由な国なんだろう
バンコクのソンクラーン やっと感じられたタイ正月
ワット・ラカン〜ワット・アルン〜ワット・ポー 思いもかけない3寺院巡り
スアン・ルアン(ラマ9世公園) 入場料分の清潔
フアマーク・スタジアム(/パタヤー〜ジョムティエン/スアン・サイアム) 思いつくままの年末年始
チュラロンコーン大学〜ラーチャプラソン 蜃気楼のありかに辿り着く
サイアム・パラゴン バンコクらしい散歩は靴修理のついで
ローイ・クラトーン 「静」の祭典の現在
アヌサワリー・チャイ〜ラーチャプラロップ〜プラ・ラーム1 悲劇に垣間見るタイ風生きざま
家探し タイって広い
バーン・バート たった一か所だけ残った鉢の村
セーン・セープ運河 水辺のタイムスリップ
チャルンクルン通り サパーン・タークシン〜ホアランポーン iPodとヴァーチャル散歩
パトラーイ通り〜ヤォワパニット通り〜ソンワット通り〜ター・ディンデーン通り 以前の散歩を歩き継ぎしてみた
スクンヴィット・ソイ16〜ベンチャキティ公園〜アソーク市場 人影の少ない猛暑を歩く
チャトゥチャック市場のJJモール周辺 あの人の思い出を超えてゆく
タノン・トク 袋小路に残された温かみ
チャルン・クルン通りの裏通り チャイナタウンでタイム・スリップ
伊勢丹の福岡ジャパンフードフェア 日本との微妙な距離を感じる「ジャパン・フード・フェスティバル」
タ・プラ〜タラート・プルー〜ウット・タカット通り〜イントラピタック通り 夜闇に浮かぶ、こぶつき熱帯魚
アユタヤー
アユタヤー 国王誕生日に思ったこと
パタヤー
パタヤー〜ジョムティエン(/フアマーク・スタジアム/スアン・サイアム) 思いつくままの年末年始
ジョムティエン・ビーチ タイ人の友達と浜辺を歩く
パタヤー 以前バンコクが持っていた街の熱を感じる
チェンマイ
チェンマイの親戚訪問 初めての長距離ドライヴ
ムアン・ンガイ〜ナイト・バザール〜ドイ・ステープ〜スアン・サット・チェンマイ 「今」と向き合う
チェンマイ〜メー・サーイ〜タキレック〜チェンラーイ 「ひとり」と感受性
チェンラーイ
チェンマイ〜メー・サーイ〜タキレック〜チェンラーイ 「ひとり」と感受性
メー・サーイ
チェンマイ〜メー・サーイ〜タキレック〜チェンラーイ 「ひとり」と感受性
プーケット
プロンテップ岬 バイバイ、プーケット
コ・シレイ(シレイ島) 寺とチャオ・レー村と猿
コ・へー(コーラル島) 透明な海とカラフルな魚たち
ラワイのチャオ・レー集落 海のジプシーに触れる
ラワイ・ビーチのローイ・クラトーン チャオ・レーとの出逢い
プーケット・タウン(ナイ・ムアン・プーケット) オールド・タウンにて
ナイハーン・ビーチ 落ち着きのある夕暮れ
カタ・ビーチ 人間くさいいビーチ
パンワー岬 小さな水族館
ヤヌイ・ビーチ プーケットで初めて泳いだ
カロン・ビーチ 洪水退避はこうして始まった
ラオス
パクセー(南ラオス) 毎日が散歩日和
タキレック
チェンマイ〜メー・サーイ〜タキレック〜チェンラーイ 「ひとり」と感受性
日本
猛暑の大阪歩き 日本の夏が暑いのは
夏祭り 祭り囃は聴くものか飛び込むものか
アイソレーション・タンク 意識の宇宙の片鱗をつかんだ!?
ユニバーサル・スタジオ・ジャパン 欧米人流の楽しみ方
道頓堀 くいだおれ人形 ― 消えゆく昭和の香り
その他
散歩に出ていないのは 「散歩」の何が変わったのか




◆ 2011年からの散歩日記はこちら

チュラロンコーン大学〜ラーチャプラソン 2010年12月19日(日)

このところサイアムづいている。
これからの生活上、どうしても入手したい書籍がいくつかあることが直接の理由だが、今年5月のバンコクでの惨劇以降訪問がぐっと増えたことから、どこか心の中にサイアムやラーチャプラロップ方面に肩入れしている部分もあるのだろう。
前回の日記もそんなサイアムへのちょっとしたお出かけの一端である。

書籍の入手について、小躍りするくらい嬉しい知らせがあった。

これまで、この書籍類に関しては、ソイ・チュラーのブック・センター、パラゴンエンポリアムの紀伊國屋、パラゴンの他の本屋、古本屋関係などを当たってきて、毎度「マイ・ミー・カー(ないです)」と言われながらも、本屋の店員さんに「では、どういうところにありそうですか? ご存知ですか?」と必ず食い下がって尋ねるようにしてきた。
もちろんネットから拾える情報もいろいろと参考にさせていただいた。
だからこそ、ソイ・チュラーのブック・センターにあるはずだと、2度目の訪問では1時間くらい、自分の眼で本当に在庫がないのか店内を徘徊してもみた。
だが、ここバンコクは都会でもあるけれど、やはりタイの首都。
たしかな情報にはなかなか巡り会えないのだ。
一部にとんでもないプロ精神を持ったタイ人たちがいて、彼ら・彼女らには舌を巻くばかりなのだが、その他大勢のタイ人たちは基本的に人生をアマチュアリズムで乗り切っているように見える。
レジの前に立つまで漫画を読んでいた若い女の店員さんに、「この本はどこの本屋にあると思いますか?」と尋ねる僕の希望のともしびは、どう見たって明るくはなさそうだ。

縋る思いで、面識がなく非礼を知りながら、A先生(仮名)にメールをした。
この書籍に関することを検索で調べるとA先生の名がよく登場し、日本に帰ったときにA先生の著作で購入できる書籍はないかと調べていたのだが、ふと「先生に知恵を授けてはもらえないだろうか」と考えてしまった。
それくらい切羽詰まっているのも事実である。
そして。
ご多忙にもかかわらず、A先生からの丁寧なメールの返信が届いたのだった。
先生のご教示くださった書籍情報は、これまでの不安げなともしびに光をくださった福音という表現しかできない。

僕の求めている書籍は、バンコクで手に入る可能性の少ないことが分かったが、チュラロンコーン大学内の書籍部にほしい書籍の一つがあるかもしれないということで、休日に出かける。
これまで僕はソイ・チュラーの「チュラロンコーン・ユニヴァーシティー・ブック・センター」を唯一のチュラロンコーン大の書店だと勘違いしていたが、先生のご指摘では、大学の敷地内にある書籍部なのだということだ。
そういえば、「チュラロンコーン・ユニヴァーシティー・ブック・センター」は大学の敷地がサイアム・スクエアと接している場所にあり、大学内ともその敷地の外側ともいえる位置にある。

日曜の大学構内は、思ってとおりひっそりしていた。
建物の改修をしている一帯に人だかりがあるほかは、ここがバンコクきっての繁華街のど真ん中だとはにわかに信じがたい。
道行く人に尋ねながら辿り着いたのは、「サラー・プラ・キアォ」という建物の下階であった。
不思議なシルエットを持ったこの建物は、なんだかここに求めているものがあるよと、既に知らせてくれているように見えた。
ただ、日曜なので案の定シャッターが下りていた。
建物の名前と、平日の翌日は開店することを訊いて、門の外に出た。

アンリ・デュナン通りと警察病院の通路を通って、バイク・タクシーがラーチャプラソン交差点に出てくれる。
しかし、ラーチャダムリ通りは赤シャツを着た人々で完全に埋め尽くされている。
もちろん、そのすぐ脇には、5月19日の放火があったZENとセントラル・ワールドがあり、ビッグC・ラーチャダムリがある。
彼ら・彼女らはいったいどういう気持ちであの場所を見るのだろう?
改革のための犠牲?
あるいは、政府や軍・警察・PADの仕業だという責任のなすりつけ合い?
外国人である僕には、その思いがはっきりとつかめない。
真っ赤に染まった道路の手前に、警官の列が黒い筋になって見える。
橋脚の見物客に混じってそんな様子を眺めながら、チッド・ロムからBTSに乗りこむ。
BTSはそんな風景の近くを走っている緊張感など微塵も感じさせず、軽快に走りだした。


〜翌日

仕事前にサラー・パキアォまで。
学生のいる風景は、前日の休校日とは雰囲気がずいぶん違う。
とはいえ、人で混みあっているというわけでもなく、季節もいい。
行き交う学生たちの姿もどこか涼しげである。

そして、目的の本は実際に、あった。
A先生が送ってくれた書名を店員さんに見せたら、今までの数々の肩透かしなどまるでどこ吹く風の手際のよさで、秒単位のうちにその本は僕の手に心地よい重みを感じさせてくれているではないか。
しかも、定価よりも値引きされてさえいた。

だが、どうしても購入したい書籍はまだいくつもある。
次は、さあ、北タイへ!









サイアム・パラゴン 2010年12月13日(日

長らく、思うだけで実行しないことの一つに、靴の修繕があった。
日本から持ってきた革靴1足と、スニーカー2足。
革靴の方は底がはがれており、スニーカーは、1足が本体と底の間のショック・アブソーバーのスポンジ部分がボロボロになってしまい、もう1足は底のラバーがずいぶん擦り切れてしまった。
こういうことを任せると、タイ人にはうまい人が多いのは知っているが、信用できる人や店と巡りあうかどうかは五里霧中。
アマチュアリズムで人生を全うする人の多いタイ人だけに、まずい選定をしてしまうと、「だめだったから捨てた」というようなことを言われかねない(実際そう言われたことがある)。
こうなれば自分で修理するのが最も安心な道だ。
しかし、さすがの日本製ボンドも、被害の少ないスニーカー1足を救えただけだった。
このスニーカーも、ボンドが今にもはがれそうな雰囲気である。
素人の浅知恵か。

しばらく靴棚にしまわれていただけだったが、いつまでもこの状態では捨てたも同然。
そんな折、職場の同僚の女性から、サイアム・パラゴンの地下にある修理屋がなかなかだという評判だと聞いた。
女性の広範な情報収集力というのには頭が下がる。
男の場合、どうしても自分の趣味や生活に合わせた守備範囲が限定されてきて、どちらかといえばマニアックになりがちだ。
だから、駐在員やその家族はいざ知らず、わざわざタイくんだりまでやってきて働こうとする現地採用の男性は、日本にいるときよりも一層自分の牙城を作ってそこに安住しようとしがちである。
まあ、よく言えば、タイという国からの影響をたっぷり受けて生活しているとも言い訳できるのだが。
この点、女性は自分をほとんど変えない。
さすが、子を産んで育てる性別なのだと思う。
自分という根幹がぶれて困るのは子どもだ。
母なる存在には確固とした、ちょっとやそっとでは変わらぬ母であってほしい。
タイに移り住んだ程度のことで、自分を明け渡したりはしないのだ。
そして、女性は自分にとっていいつきあいができるかどうか、ちょっとした縁があるかどうかでつきあいを広げ、そのぶんだけいろんな個性と触れ合い、まんべんない物知りになってゆく。
そして男は……おっと、こんなふうに、靴の修理から男女の性差を語るような頭でっかちになりがちなのだ。

さて、そんなわけでサイアム・パラゴンにやってきた。
スニーカーはラバーの張り替えが450バーツ、底部の縫い合わせが280バーツで、革靴の方はボルトを入れるだけだから無料だという!
他の修理で充分元が取れるからなのだろうが、無料という言葉はやっぱり嬉しい。
1時間半でできると言うので、まずは食事に。
先ほど横を通ったときには7〜8人はいた待ち客がいなくなっているので、ココイチに決定。
同じくパラゴンに出店している大戸屋もそうなのだが、日本で庶民の味方になっているチェーン店が、タイでは高級レストランに早変わりする傾向がある。
日本と似た価格の設定をするとこうなるわけだが、バンコク暮らしの身でたまにココイチや大戸屋に行くと素晴らしい味に感じるから、やはりタイではハイソな存在だといっていいのだと思う。

久しぶりの味を堪能して、あと1時間。
上階をうろうろしてみようか。
3階までエレベーターで上がったら、紀伊國屋のスペースに出た。
エンポリアムの支店もそうだが、ここでは日本書籍は扱っていない。
そのかわり、タイではほかになかなか見ることができない広大な売り場面積の中に、洋書・タイ語書籍がずらり取り揃えられている。
タイでは欲しい本について店員に相談しても、ほとんどが空振り。
今回も紹介された2冊の本はいずれもはずれで、この2冊とはまったく違うブースから、自分でも驚くような本が見つかった。
"History of the Shan State : from its origines to 1962"
ビルマのシャン州の歴史を紹介した、655ページに渡るこの本は、非常に貴重な書物だ。
価格は1350バーツ。
少し高いが、ここは奮発するか。
今回見逃してしまったら、次の入荷は見込めない可能性の方が高い。

1時間半はあっという間に過ぎた。
この、大型ショッピング・コンプレックスでぶらぶら、というのはバンコクらしい散歩の一つだ。
一般道の散歩では、歩道に屋台や電信柱・消火栓・広告などがランダムに現れ、バイクも歩道上を走ってくることがある。
車もバイクもぐんぐん突っ込んでくる車道はもちろん危険だ。
暑さのうえ、排気ガスや騒音にも満ちている。
悪臭が鼻を突くことも少なくない。
気を張らずに散歩をするためには、地方へ行くか、公園を歩くか、さもなければショッピング・センターという選択が、バンコクっ子たちの現実だろう。

靴修理店では、2足はきっちり仕上げられていた。
残る1足はソールの縫い合わせではどうにもならなかったので、ショック・アブソーバー部をすべて取り換えるしかないという。
もとどおりの美しさは望めないが、それでもいいかとの正直な応対が信頼感を増す。
そのまま預けて、後日取りに行った。
なかなかうまく仕上げており、靴の安定性も高い。
もちろん、他の靴もすこぶる快調だ。
新しい靴の購入が新たな人との出会いなら、以前履いていた靴の修繕は旧友との再会である。
ともにタイを歩き、または日本を歩いてきた彼ら・彼女らとの再スタートが迎えられたことは、想像以上に気分を弾ませてくれている。









ローイ・クラトーン 2010年11月21日(日

タイの全国的なお祭りといえば、4月のソンクラーンと11月のローイ・クラトーンだろう。
暑季の真っ盛りに派手な水かけでタイ正月を祝うソンクラーンが動の催しなら、日本の灯篭流しとよく似たクラトーンを水辺に流すローイ・クラトーンは、乾季の入り口にあって静のイメージだ。
そう、タイにいて2〜3年の間までは。

このソンクラーンとローイ・クラトーンは、男女にとって非常に意味深い祭りであることは、いろんなタイ人から耳にする。
たとえバンコクであっても街歩きには縁が少なく、自宅周辺を一つの「村」として暮らしているようなところのある多くのタイ人たちにとって、故郷に帰って水かけに興じることで男女の出会いの場が生まれるソンクラーンは、非常に重要な催しなのだという。
特に、タイ人青年の息が荒い。
そして、ソンクラーンで知り合った恋人どうしが愛を確認し、誓い合うのがローイ・クラトーンなのである。
実際、タイ人の彼女がいると、この日の話は必ず出てくる。
たとえ「今年はローイ・クラトーンに行かない」という内容であったとしても、とにかく話だけは出てくるのだ。
そこがタイ人らしい。
仏教的な意味あいがある行事には割にマメだというのもそうだが、女性が男性の浮気をチェックするのにもってこいの行事だというのは、間違いないところだと思う。
ローイ・クラトーンは、お調子者で浮草男の多いタイ社会にあって、どの女性が最も大切なのかを男にきっちりと示させる、女性の味方の催しごとなのだ。

さて、タイ人の彼女がいると、ふだん彼女自身では決して行かないような、人で混みあったローイ・クラトーンのチャオプラヤー河畔に赴くことになったりする。
5年前、ローイ・クラトーンとしては初めて訪れたのは、サパーン・プラ・ラーム8(ラマ8世橋)のたもと。
まず、川べりから少し離れた位置でタクシーを降りても、そこからすでに音楽が鳴り響いているのが分かった。
ライヴ会場が川べりに設置されていて、ステージが終わってもダンス・チューンが流れるようになっているのだ。
赤・青・黄色のライトもせわしなくぐるぐる回っており、もはやクラブ状態である。
もちろん人々の会話もいきおい怒鳴り声に近くなってしまい、しかも混雑は極まっている。
クラトーンを水面に流してくれる人の数が圧倒的に足りないので、整列しないタイ人たちは我先にと詰め寄り、そんな人だかりの中でクラトーンに祈りを捧げることになってしまう。
この日を境に、僕のローイ・クラトーンに対するイメージはがらっと変わってしまった。

今年のローイ・クラトーンは日曜日だった。
けっこうな人の出を予想してはいたが、ここまで凄いとは!
混雑を予想してBTSで出かけたが、駅を降りても人が容易に流れない。
ステージや屋台の会場設営に無理があり過ぎて、人の流れをまったく考えていないからこうなってしまう部分もあるのだが、ちょっとした距離を進むのにも汗びっしょり。
ただ、サパーン・タークシン(タークシン橋)のたもとは、気分にそぐわない音楽など、流れていなかった。
人、人、人をかき分け、ボート乗り場へ。
ようやくたどり着いた乗り場で、興奮ともやけくそともつかないメガホンの呼び声どおり100バーツを払ってボートに乗り込む。
このボートはワット・アルンワット・プラ・ケーォのそばまで進み、持参したクラトーンを船上から流してくれるのだ。
ポンとクラトーンを渡してしまったらそれでおしまいの川べりとは違って、ちゃんと「しかるべき場所」に行くのが、気分を高めてくれる。
それに、船上にはむやみやたらな喧騒はない。
ただ、今年はすぐ隣のブロックに中国人女性ツーリストが陣取り、点滅を繰り返す赤い耳のついたカチューシャをつけて騒いでいたのは、いただけなかった。
どうにも中国人には男女を問わず、声がでかい人が多い。
初めて台湾を訪れて知り合ったョさんが深夜1時ごろ自宅に招いてくれて、こんな時間に突然の外国人客の訪問ではご両親に迷惑ではなかろうかと気を揉んだときのことを思い出す。
ご両親はまだ起きていて、しかも部屋の中で親子三人が大声で何かを話し合っているのを、僕は玄関口で聴いていた。
そりゃそうだよな、非常識にもほどがある……と思っていたのに、怒鳴りあうようなその声に親子の笑い声が混じり、何だか様子がおかしいと思い始めたら、家の中に招かれ、歓待を受けて拍子抜けしたのだった、あのときは。

ボートが出る直前、花火が上がった。
この一帯はバンコク最高級のホテルがチャオプラヤー川に並ぶ地域なので、毎年花火大会がある。
しかし、4年前ここに来たときにはじゃかじゃか上がっていた花火が、今年は申し訳程度にしか上がらない。
思い返せば、今年はUDDデモだとか洪水だとか、大きな不幸が相次いだ。
観光業界も花火に大枚をはたくことはできないのが当然であろう。
特に魔の5月の気分を思えば、自分自身だってこうやってタイで以前と変わらぬ生活を送り、今年もローイ・クラトーンに参加できたこと自体が夢のようではないか。
花火が少ししかなかったおかげで、ボートはすぐに出発することができた(花火は川面に浮いた船から打ち上げられるようで、その間は付近の航行は禁止)。

ワット・プラ・ケーォの近くでボートは停船し、船内にいる係の人がクラトーンを受け取って流してくれる。
一旦川面に降ろされると、もうクラトーンの姿は視界から消えてしまう。
その後、クラトーンが川面を流れてゆく様子を見ることはほとんどできない。
それが、ボートでクラトーンを流すこのコースの一番大きな欠点だ。
だが、先の中国人女性たちははしゃぎ過ぎて、デジカメで記念写真を撮りまくっているうちにクラトーン流しの受け付けが終わっており、自分たちで川にクラトーンを投げ入れ、笑っていた。
他国に暮らす華人と違って、中国本土から来た観光客には場の空気が読めない人が多い。

もと来た川筋を引き返す。
いろんなボートとすれ違う。
豪華船は背丈が高く、例外なく照明が明るいブラウン。
落ち着き醸し出すその色合いはまた、夜のチャオプラヤーの川面をしっかりとは映し出さない同系色でもある。
背丈が高いことも、水面との距離を図っての意味合いがある。
水しぶきを受けることもある位置に座席のあるボートに乗っている僕たちは、できればその跳ね上がった水を浴びたくないと思っているのだから。
豪華船にとって、川は副次的なものであっていい。
大切なのは川の上にいるという事実であり、川そのものに触れあうことではないのだろう。

今年はコム・ローイを多く見かける。
初めてこれを見たのは、やはりたしかチェンマイだったと思う。
空に浮かぶ未確認飛行物体の発見に興味をそそられたが、そのときは正体が解らないまま。
このところバンコクでもコム・ローイの打ち上げがぐんと増えている。
クラトーンが水へのアプローチなら、こちらは空へのアプローチ。
やっぱりローイ・クラトーンはムーディーなお祭りなのである(※)。
船着き場に戻ってタークシン橋や駅に隣接した公園では、コム・ローイを上げる人がたくさんいる。
その中にはファランの姿も多い。
ファランはこうしたアクティヴィティーが大好きだ。
それでいて、彼ら・彼女らはちゃんとワイ(合掌)もするし、コム・ローイを空に放つときにもむやみにはしゃいだりはしない。
TPOの使い分けが実にうまいのだ。
こういうところは見習うべきことが多い。

ふわっと空に昇ってゆくコム・ローイを眺めていると、腹痛が。
最近、汗をかくと知らないうちにお腹が冷えすぎて腹痛になることがよくある。
だが、公園のトイレは混みあい過ぎているし、チャルンクルン通りロビンソンまではまた何人もの人をかき分けて行かなければならない。
クラトーンは水の、コム・ローイは空の向こうにある天国に届く。
そして僕は地上の天国に、さあ、急げ!


※ コム・ローイを空に浮かべるのはチェンマイのイーペン祭りが発祥。このイーペン祭りは、今ではローイ・クラトーンの方言のように扱われているが、もともと北タイのランナー王国時代に始まった、陰暦2月に行われる祭りで、ローイ・クラトーンとは別物であったが、いつの間にか同日開催となって同じ祭りの扱いになっている。









クレット島 その2 2010年8月12日(木)

プラプラデーンを訪れると、クレット島に行きたくなる(逆もまたあり)。
共通したバックグラウンドがあるからこそであるが、お互いに少しずつ違う味を醸し出してくれるからでもある。
これまでそれなりの期間をおいての訪問だったので、今回は1週間足らずでクレット島に。
記憶で理解できているその差を体感したい。

連休の初日、今日はタイの「母の日」である。
ここタイでは、父の日・母の日はそれぞれ国王誕生日・王妃誕生日になっている。
しばらくぶりに暑い午後だ。
タクシーを降りて道の向かいにあるロータスへとBTSのエスカレーターを上って入り口に近づいただけで汗が噴き出してきた。
翌週にヤンゴンへと飛び立つエア・アジアのチケットをブースで買い求める。
隣の窓口では、透明プラスチックの仕切りに開けられた狭い窓口に首を突っ込んでファランが実にさまざまに細かいことをリクエストしており、係員は「それはできません」と繰り返すのも疲れた様子。
ファランの聞き分けの悪さに呆れながら、しかし僕ら日本人の聞き分けよすぎることもどうかと考えてみたりする。

用事を済ませると、BTSを一気に始発から終着へ。
これは初めての体験だ。
渋滞知らずの高架鉄道は、この大混雑区間をものの見事に駆け抜ける。
渋滞地獄のバンコクでは、BTSや地下鉄の整備は最重要事項のひとつであろう。
しかし、その整備が行き届いた頃には、バンコクも東京や香港やシンガポール・ソウル・台北・上海などと変わりのない、その味わいよりも利便が優先された都市に成り下がってしまうかもしれない。

モーチットからはタクシーに。
クレット島への船着き場を告げると、多くはチャオプラヤー川越えのプラ・ラーム4橋のたもとにつけようとする。
たしかにここは向かい岸への渡し船も含めた船着き場らしい様相を備えた場所だし、実際、ここから出るボートはクレット島で最も有名な場所である傾いた仏塔「チェディー・カーォ」を水上から望めるし、観光客に人気の買い物スポットのど真ん中にも出られる。
ただ、橋脚の下の道はパーク・クレット交差点から先は常に混雑している。
ボートの料金も別の船着き場の方が安く、それになにより落ち着きがあるから、僕はパーク・クレット交差点を入ってすぐ左に別れるプラウェート通りを終点で降りることにしている。
ここからだと、向かいの店でレンタサイクルを借りて西へ進めば、すぐに人いきれとは無縁の優しい世界に出ることができる。

とはいえ、チェディー・カーォでお参りをしないわけにはいかない。
20バーツで自転車を借りて、雨上がりに蒸せる細道を二人乗りで走る。
ここの自転車は二人乗り用に後部座席のシートがしっかりしていて、足掛けもついている。
だが、サドルの高さ調整ができない。
どんな人にも乗れるように、サドルは思い切り低く固定されているので、少し疲れるし安定が悪い。
そして、改めて感じるのは、かなり蒸し暑いこと。
クレット島の東岸は人と車の行き交うパーク・クレットに向かい合っており、商店と人家が軒を連ねている一帯である。
それゆえ、細道には風が抜けない。
観光客の姿も多いこの付近は、蒸し暑い日に二人乗りの自転車で走るのには向いていない。見通しが悪いので、バイクや自転車と接触する可能性も高い。

チェディー・カーォに着いたころには、汗が目尻に入って痛いくらいになっていた。
お参りして、写真を撮って、もと来た道を引き返す。
このまま島内をぐるっと回る手もあるが、自転車とともにこの先の商店ばかりが居並ぶ人で混みあった道を行くのには、今日は湿気が多すぎる。

もと来た船着き場まで出て、しばらく自転車を西へ走らせ、途中で左に別れる、「ワット・サラクン」の標識の見える道に入る。
思ったよりも大きなお寺だ。
それに、このお寺の前だけは道がけっこう広くなっている。
ここでもお参りして写真を撮るつもりが、また戻り道のときにでよいだろうとスルーした。
しかし、旅行ではよくあることだが、そのときにやろうと思ったことはそのときにしておかないと、のちにはもうできなくなってしまうことが多い。

小さな船着き場まで出ると、ミニ・サッカーをやっている若者たちがいて、逸したボールを蹴り返してやると「コープ・クン・クラップ(ありがとう)」と恥ずかしげに小さな声が返ってくる。
ここには、左に折れる道があった。
そこをしばらく行くと、こんどは池に釣り糸を投げる若者たちがいた。
邪魔をするのが悪い気がして引き返そうとしたが、近くの家のおじさんが「どこへ行くんだい? この先の道を言っても迷子にはならないし、危なくもないよ。分かれ道もあるけど、どの道を行っても元の通りに出るから、心配しなくていい」と笑っている。
他の家から出てきた老人は、顔にタナカー、腰からロンジーという姿で、懐かしいものを見るような不思議な瞳で僕たちを見ている。

おじさんの言葉どおり先に進むと、ヤギを飼っている小屋があった。
餌がもらえると思ったのか、どのヤギも僕らをじっと見ている。
しかし、その目にはまったく欲が感じられない。
ヤギはこの島の人々と似た眼をしている。
船で少し渡ってしまえば、現金を目の前に眺めるようなギラギラした目があふれた世界が圧倒的に広がっているというのに。
細い水路が巡り、あたりはひたすら静かである。

雲行きがおかしくなってきた。
西の空が灰色に淀んでゆく。
これはまずい。
慌てて船着き場へと急ぐ。
僕らよりももっと早く、島の人たちは雨を察知したのだろう。
人が少なくなっている。
おかげで細道を突っ走ることができた。
自転車を返し、渡し船に乗ろうとしたら満員で、僕らを残して見切り発車。
最後に乗ったファランは自転車を抱えたまま舳先に危なげにかろうじて立っている。
だが、僕らのほかにも乗れなかった人がけっこういたので、ボートはすぐに引き返してきた。

ボートが対岸に着くころちょうど、雨が降り始めた。
寺の境内のはずれにある屋根のついた待合所のようなところに駆け込むと、吹き殴りの雨が小屋の中にもいくぶんか入ってくる。
対岸のクレット島もかすむような雨だ。
7月のバンコク近郊にありながら、少し寒い。
明かりもつかないその小屋は、まるで夢の中に出てくる風景そのものである。
人々の表情は青暗くて判別できない。
2匹の子犬がじゃれあうのを、ベンチの下にいる親犬がときどき吠えて叱っている。
それ以外には物音を立てる人もおらず、すべては雨音に包まれ、消し去られている。

2〜30分くらいそこにいたのだろうか、雨脚が少し弱ったところで、通りに出てみた。
車の行き来すら少ないそのあたりでは、この雨にもかかわらずバイク・タクシーが声をかけてくる。
やはりこの一帯に流しの空車タクシーが姿を見せることが少ないのだろう。
だが、僕たちはラッキーだった。
ほどなく、空車がやってきた。
あまり離れたところまでは無理だが、BTSの駅までは行ってくれるとのこと。
しかし、それにしても寒い。濡れた衣服にタクシーのクーラーは寒い。
そのうえ、運転手さんは間違えて、モーチット・バスターミナル前に降ろそうとした。
「すみません」を繰り返し、メーターもその時点で止めて、彼はBTSの駅を探し始めた。
まれにみるくらいいい人だった。
だが、商売のクウォリティーといい人度は反比例の関係。
「この辺りにはあまり来たことがないんです」と、あたりをぐるぐる。
たしかにそうなのだ。モーチット周辺は道が複雑で、在住10年となった今でもこの辺りの地理は僕にもよく分からない。
「大丈夫ですよ、僕らはべつに何とも思っていません。約束の時間があるわけでもないし、気にしないで」
しかし、それにしても寒いのだ。

BTSはさらに寒かった。暑さと寒さがやたらと極端なのが、やはりタイなのであった。









スリ・ナコーン・クアンカン公園 2010年8月1日(日)

クレット島は、初めて訪れて以来、バンコク近郊で僕が最も好きな場所。
では、その次は、となると、これまた同じモン族定住地のプラプラデーン
とにかく着いた瞬間から、空気が違う。
日本からここにいきなりやって来たら、もうこれは半世紀ほどタイム・スリップした感覚なんじゃないだろうか。
高い建物などひとつもなく、道には車もほとんど見かけない(クレット島の場合は、車道としての広さがある道が存在しないので、実質ゼロ)。
草木の合間に人家があり、店がぽつぽつ見られて、風が涼しい。
大きな物音もなく、人々はあくまでのんびりしている。

2年前に訪れて以来、何度ももう一度足を運ぼうと思い続けてきたが、ほんのすぐの場所にあるのになかなかその機会がなかった。
一度は、クロントゥーイの船着き場までやって来たこともあった。
けれども、そのときは天候が思わしくなくて、ボートに乗って対岸にまでは出なかった。
自分の日常生活の舞台があるこちら側から見ると、今にも雨に霞みそうな川の向こう岸は、実際のチャオプラヤー川の川幅よりもずっと遠くに見えた。
その後、スコールに襲われて駆け込んだ寺で、あれこれ考えたことを思い出す。
とりとめもないけれど、日ごろの暮らしを省みるには、寺はいい場所だった。

事情があって思うように外出ができない連れ合いを、久しぶりに買い物以外のどこかへ連れて行って、日ごろの気分転換をさせてあげたい。
けれども、アミューズメント施設に行ける資金的な余裕がない。
さてどうしようかと考えたとき、真っ先に思いついたのがプラプラデーン。
ここなら、彼女も郷里の生活に一時思いを馳せながら、素敵な時間を持つことができるかもしれない。

今回も、クロントゥーイ港の入り口横の細いソイから船着き場に出た。
以前は産業道路環状橋から回ったので、ボートで渡るのはこれが初めて。
切符売り場でふたり分20バーツを払って小舟に乗ったが、どうやら普通の渡し船もあるようだ。
そちらの方が乗りあい式で安い(ひとり5バーツ)。
でも、水しぶきを感じながら水面を滑って行く快感も味わえた。ボートはけっこうなスピードを出し、あっという間に対岸に到着。

船着き場を見回してみると、自転車が数台並んでいるのが見えた。
これはレンタルに違いない。
尋ねてみると、やっぱりそうだった。
1時間で100バーツ、その後は1時間ごとに一定の料金を加算するらしいが、返却のときには2時間以上たっていたのに、追加料金はまったく取られなかった。
借りようとした自転車を取り出そうと、赤ら顔のおじさんが自転車を持ち上げるが、足元がおぼつかない。
「フラフラしてるじゃないか! 飲みすぎだよ!」奥さんのお叱りの言葉も、この長閑な世界の中で耳にすれば、微笑ましくさえ思えてくる。
二人乗りできるようにママチャリを借りて、いざ出発。自転車に乗るのは久しぶりだ。

一本道を走り始めてすぐ、四つ辻に出た。
角にある店でスリ・ナコーンクアンカン公園への行き方を訊けば、そのまままっすぐ行くとすぐの左手にあるとのこと。
僕がタイ語を話せると知ったときのおじさんの優しい笑顔にやられる。
その言葉通り、公園の入り口はすぐそこだった。
以前、Pさんに案内してもらってこの公園を訪ねたときには、先に書いたように産業道路環状橋からプラプラデーン市場に回って、そこからバスに乗って、この公園入り口に続くソイをバイク・タクシーで走ってきた。
そのときの印象からすると、やたらと近い。
地図上での自宅からの近さは知っていたが、実感してなお近いことがよく分かった。
そしてそれがなんとも嬉しい。
しかも、以前はバイク・タクシーに「○時ごろに迎えに来てほしい」と頼むしかなかったが、今回はママチャリがある。時間の使い勝手も僕たち次第。
プラプラデーンにいるときは、腕時計を気にしたりはしたくない。
ここでは、ママチャリの存在が頼もしい。
しかも公園内に自転車を乗り入れすることもできるので、広い園内を駆け巡ることだってできる。

池でカヌーを貸してくれるので、そちらにもチャレンジ。
1時間で30バーツ。
しかし、ふたりともカヌーの腕に関してはまったく。乗り場から橋の下を抜け出て噴水のある場所に出ようとしたが、何度も橋脚にぶつかって、水の都の面影を湛えた村に暮らす人々の目から見れば、お笑い番組のようだったことだろう。
ズボンもびしょ濡れにしてしまい、30分で退散。今度はもう少しカヌーのことを知ってから再チャレンジしよう。

二人乗りで池に架かった長い木の橋を走っていると、数本渡し木が欠けているところが出てきてひやっとするが、そのまま突っ切る。
また、曲がり角にかぎって簡単な木の柵がないのだが、これはおそらく誰かが突っ込んで池に落ちた証ではなかろうか。
だが、日本でも、またバンコク暮らしの前半でも自転車を駆使した僕のこと。
そんなトラップなど、ぬかりなくやり過ごす。
園内はこれまでの想像より広く、奥行きが深い。
しかも、道が細くなっていって、その先どこに続いているのか分からないような、開発中の場所もある。
また、見晴らし台もあって、上ると風が気持ちいい。
ただし、てっぺんまで登っても、周囲の樹木がけっこうな高さになっているので、公園内がどうなっているのかを見渡すことはほとんどできない。
そこにはただ空と緑があるだけである。
ただ一点、北の方向に高層ビルがいくつか見える。
対岸の、バンコクのビルだ。自分がその一角に暮らしていることをしばし忘れ、あたりの景観に不釣り合いなその高層建築を初めて見る物のように眺めた。
そしてまた自転車であたりを駆け巡る。
今日の散歩のイメージは、僕の中ですっかり「明日に向かって撃て!」のサイクリング・シーンになっている。

先ほど「プラプラデーンでは時間を気にしたくない」と書いたが、このあと僕らはクロントゥーイ市場で買い出しをして家に戻り、今度は僕個人で友人を訪ねる約束になっている。
こればかりはしかたない。
少しばかり心残りがあるが、いい夢はほどほどのところにありそうだ。
そうして戻った「こちら側」は果たして、路線バスの車掌のおばさんに「このバスはクロントゥーイ市場を通りますか?」と訊いても背中で返事をされ、市場内は歩行者と車とバイクと台車の乱れたいつもの人いきれで、タクシーはこれまた渋滞を回避したつもりでもっとひどい渋滞のあるソイに入って行く、これまた筋書き通りの蛙鳴蝉噪の場所なのであった。



=後日談=

同じ週の金曜日、8月6日に、僕たちはまた同じ場所を訪ねた。
連れ合いはプラプラデーンをたいそう気に入ってくれたようで嬉しいのだが、もっと大きな理由は、舗装道路などない山あいの村にある彼女の実家ではうまく乗れた試しのない自転車に、プラプラデーンでトライしたいと言っていたからだ。
しかし、舗装道路で初めての自転車練習に向いた自転車はまだ補修中とのことで、いたって普通の自転車のサドルを目いっぱい下げて頑張ることに。
思ったよりすぐに呑み込めたようだが、道中3回転んだ。
その傷の消毒をしようと薬局を探したが、プラプラデーン半島最奥地では思ったとおり見つけることはできなかった。
でも、チェーンの調子のおかしくなった僕の方の自転車(日本から来た「ラクーン」だったが、電源は入らない)を取り替えてもらいに桟橋前の店に戻ると、薬と脱脂綿をくれた。
タイでは、よくこうした人情に助けられている。
感謝!

金曜の昼下がりのスリ・ナコーンクワンカン公園は自転車の練習も含め、サイクリングにはもってこいの場所だった。
人気がほとんどなく、野良犬も優しく、この公園内では初めてミズオオトカゲを見かけもした。
水辺をゆったり泳ぐミズオオトカゲを怪しがって犬が数匹吠えているさまが、何とも長閑である。
そして、魚に餌をあげたときのはしゃぎっぷりも日曜とは別物。
週末の飽食デーを直前にして、そうとう腹をすかせていたらしい。
ただしカヌー・レンタルは開いておらず、カヌーたちは気持ちよさそうに舟底の腹をさらして日光浴していた。

同じく、まだ訪れたことのなかったバーン・ナムフン水上マーケットも、土・日の午前から午後2時までの営業。
そうとは分かっていたが、自転車を1台返却して、二人乗りで覗きに出かけてみた。
以前Pさんとともに夕食をごちそうになったパーク・ソイの売店では、その裏手に新しくちょっとした道ができており、プラプラデーン市場方面から来た車やバイクに分かりやすい標識もできていた。
また、売店の道向かいにも広い土地で何かの工事が始まっており、街の変化をここでも感じさせられた。
バーン・ナムフン水上マーケットへはこのパーク・ソイを右に曲がり、大通りを少し走って、右手に簡単な市場があるところを左に入る。
このソイの前にはバイク・タクシーがそこそこの人数で客を待っているので、気づきやすいだろう。
そのソイをしばらく行くと、左手にナムフン寺の入り口があるので、ここを入るとすぐに"Floating Market"の青い標識が見える。
ナムフン寺の入り口は、タイでよく見かけるように寺院とすぐに分かる造りになっている。

翌日の準備に訪れた人がいるだけで静まり返ったバーン・ナムフン水上マーケットは、なんだか映画のロケ地みたいに見えた。
でも、こうやって下見しておけば、当日に人で混みあっても、どういう造りになっているのかすぐに思い出せて便利だろう。
大汗をかきながら、痛くなり始めた尻をかばいながら、もと来た道を引き返す。
公園から船着き場までの道は今日一日で何度も往復して、道端で仕事をしている人々は不思議なものを見る顔をしている。

金曜最大の欠点は、バンコク暮らしの人ならだれもが知っている渋滞。
クロントゥーイ港の入り口に出てくると、車はほとんど停滞している。
それでも、涼を求めてタクシーに乗り、とにかくBTSの駅へ出てほしいという。
この一言は、乗車拒否の多いタクシーには魔法のように効く。
チョーン・ノンシーまで出ると、そこで雨が降り始めた。
どのみちサイアムで乗り換えがあるので、朝のパンと、昼に公園でマンゴスチンしか食べていなかった僕らは、サイアム・パラゴンで遅すぎる昼食をとった。
CoCo壱番館には待ち客が出ていたので、向かいのMKゴールドへ。
実は、僕はタイに住み始めて2年くらいは、ひとりでMKを食べに行く、日本では間違いなくNGな男であったが、いつの間にかスキーといえばカントンかルアン・ペットを贔屓するようになって、MKゴールドはこれが初めてである。
そして、新しいメニューに驚きながら、久しぶりのMKのつけだれに改めて舌鼓を打った。

本当はプラプラデーンのどこかの食堂で昼食をとってくるつもりだった。
けれど、たまたまそういう成り行きにならなかった。
そして、せっかく食べるなら味の保証ができそうな店に連れて行ってあげたいという思いもあった。
プラプラデーンの外れの食堂とサイアム・パラゴンのMKゴールドでは、あまりにあまりの違いがある。
そして、たまたまこういう運びになったとはいえ、僕らは田舎風情と都市生活のおいしいところ取りをしている。
そこで思うのは、これで子どもがいたら、さらに僕たちは当たり外れのある選択肢を選ばなくなるのだろうな、ということ。
家族生活というのは、細かいところにも保証を優先し、ひとり身のちょっとした冒険から遠いところに人を連れていくものなのかもしれないと、誰にも聞こえないようにひとりごちてみる。









ムアン・ンガイ〜ナイト・バザール〜ドイ・ステープ〜スアン・サット・チェンマイ 2010年6月13(日)〜14(月)

ノストラダムスによれば世界の終焉が訪れるはずの1999年、初めて訪れたチェンマイは、なぜ北タイがフォーリナーに好まれるのかを教えてくれた。
物腰が柔らかく穏やかで、優しい笑顔の人々。
彼ら・彼女らの姿は、いにしえの都が遺した栄華の跡ときれいにマッチしていた。

チェンマイを訪れる機会がすっかり少なくなったことには、自身がタイ生活にすっかり慣れてしまい、どうせ仕事のリフレッシュを図るのなら国外旅行に出たいと考えるようになったからだが、さらにもう一つ、ここがタクシン元首相の出身地だったということも関係している。
いや、政治家である個人への毛嫌いをことさら出身地にまで押しつけているのではない。
田中角栄がかつてそうしたように、タクシンは地元チェンマイへの振興策を展開したので、この街がずいぶん発展して変わったというニュースをよく見る。
その「発展して変わった」がなにを意味するのか、どんな変化をもたらすのか、まさに自身の暮らすバンコクがよいモデル・ケースになるはずだけに、想像がつく。
そんなチェンマイを見たくなかったのだ。

かの地を訪れることがなくなってからおそらくおよそ7年、連れ合いののっぴきならない事情があって、僕はチェンマイ郊外のムアン・ンガイという小さな街を訪れることになった。
とうとうパンドラの匣を開けるときがやってきたようだ。
できるだけ期待は大きく持たないようにしよう。
そうすればきっと、小さなともしびも明るく見える。

空港でタクシーと交渉し、ムアン・ンガイまで往復2000バーツと決まった。
のちに利用したソン・テウのおじさんによれば、この値段はずいぶんお得だったらしい。
反対に、ソン・テウが高い値段設定になっているということでもあったのだろうけれど。
ともあれ、道中は快適そのもの。
ドライヴァーがとにかくいい人で、クーラーの微調整や適量の会話まで、すべて乗客の様子によって細かく判断してくれる。
途中、タイにしては珍しく高くそびえた名のない山を写真に撮ろうとすると、車を止め、周辺を歩き回って「ここからがいいよ」と教えてくれる。
精錬されたサーヴィス。
それはかつてのチェンマイが持っていた瑞々しい情緒ではない。
でも、振興策がこのような形でも実を結んでいるのなら、それはそれでまったく悪くない。

連れ合いの親戚に迎えられたムアン・ンガイには、長くとどまらなかった。
再び訪れる機会があるかないかもわからない、山あいにできた盆地のその小さな村のおいしい空気を胸いっぱい吸い込んで小径を遊歩し、写真も数葉くらいは撮ってきたかった。
でも、人間という生き物どうしには、いろんな事情が絡まってくる。

僕が訪ねた家はセメント・ブロックを積み上げただけの、簡素な家だった。
家の主の携帯電話は確かにぼろぼろだった。
ここを訪問する以前、バンコクで連れ合いが彼らと連絡を取っているときには、「携帯電話がほしい」「余った衣料がほしい」など、さまざまな要望をもらっていたが、その理由も一目瞭然ではあった。
だがしかし、バンコクで現地採用者として働く僕に、彼ら・彼女らが思い描く「日本人」としての潤沢な財力はない。
今回の訪問だけのために携帯電話や衣料を買い揃えることは、やりくりすればできたことだが、そこで僕が頂戴するであろう「値踏み」が今後もたらすであろうさまざまなリクエストに、こんこんと湧き出る泉のごとく応えのは、どう逆立ちしても無理だ。
タイ人から考えるとそこそこいい給料をもらっている今の僕が、自分の母親にさえなけなしの仕送りしかできないのに、しかしなんとかバンコクで仕事を持ち、田舎暮らしとは桁の違う支出とのにらめっこで生活を成り立たせていることを彼ら・彼女らに十全に理解してほしいと願ったところで、想像力を超えているのは仕方がない。
それに、これまでにも、職の機会を与えるための出資ではなく、ただ安易な同情で垂れ流しに与えられる金銭や物品の数々が、人を無気力でおねだりばかり上手にさせる姿を、自身の親戚関係を含め、僕はこれまでに何度も見せつけられてきた。
親戚縁者の結びつきが強い割には個人主義が根づいた東南アジアでは、いったん都会生活者からの金品の流入が起こると、子沢山の親戚筋が一斉に我も我もと群がり、そのご相伴にあずかろうとする一方で、いつまでも親のすねをかじる放蕩息子を一喝するような父権もない(タイの家族は実質的にかかあ殿下)ので、つまるところその金銭の流れは博打や酒代、あるいはその借金の埋め合わせが終着駅となり、さらに自立を砂上の楼閣にしてしまう例があまりにも多い。
実際、連れ合いの叔母はその無心の渦に呑まれ、ある時期から彼ら・彼女らとの交渉を断ってしまった。
思うような仕事もないその里で、彼ら・彼女らにとって、将来親戚になる可能性の高い僕という異邦人が長くとどまり、あるはずのない期待の香りをまき散らすのは、お互いにとっての不幸を連想させる。
心を鬼にして、「携帯電話は送り届けますから」という言葉を残し、その場を立ち去った。
それでも後日、僕らは携帯電話だけではなく、生活の足しになりそうなものを送った。
だが、見栄えのよいものはすべて彼の放蕩息子に持っていかれてしまったそうだ。
息子がもう少しまともなら、この家も蓄財することができたのだとは、彼の親戚の誰もが繰り返す言葉である。

チェンマイでいつも利用していたホテルや、その周辺の風景は、銀行が新しく次々オープンしていたほかは、以前とさほど変わりがなかった。
ひとまずほっとする。
おそらく変化が大きいのは、旧市街を挟んだ西側の、チェンマイ大学のある地域。
2年ほど前に年ほど前に増改築を行ったセントラル・エアポート店は、カッド・スアン・ケーォを上回る市内最大のショッピング・コンプレックスに変身したりもしていた。
北タイ民芸品コーナーの充実ぶりも素晴らしいし、人出にも圧倒される。
だが、ナイト・バザールの閑散ぶりはどうだ。
オフ・シーズンにあたる日曜の夜とはいえ、フォーリナーとすれ違うことさえほとんどない。
記憶にある人いきれなど、遠くかすんでしまいそうだ(のちにこの閑散ぶりはUDDデモによる影響が強かったためであったと知る)。
しかし、この通り沿いで食べたクリーミーなカォ・ソーイは絶品だった。
それに、北タイのヤム・ヌアははずれに当たったためしがない。
バンコクでは考えられない、風がなくとも涼しい夜に包まれて、一人で旅行を続けていたころの気分が蘇る。
普段は自らすすんでアルコールを手にすることはないのだが、久しぶりに買い求めてホテルに戻った。
自宅にはないバスタブに湯をため、噴き出す汗をクーラーでなだめながら酒をあおり、ベッドに倒れ込む。

翌朝、年ごろ思ひつることを果たすため、ドイ・ステープに向かった。
訪問は2度目のことである。
初めてこの高所の寺院を訪れたときには、その墓碑銘になかった名が刻まれている。
何度かこのHPでご紹介したこともある、かつての同僚で、僕の日本帰国を支えてくれたNさん。
タイをこよなく愛した彼女は、その志の幾許も日の目を見ぬうちに鬼籍に入ってしまった。
彼女の遺骨は、その半分が日本の実家の近くに、そして残る半分はこのドイ・ステープに納められている。
告げることはなかった思いの大きさから、僕は彼女のお別れの儀には出席できなかった。
彼女がもうこの世にはいないという事実を受け止められない、ただの甘えた弱気からだった。
その後、日本のでのご遺影や墓所の前で手を合わせる機会は得た。
このドイ・ステープ訪問は、彼女へのこの世でのお別れの完結となり、また違った形で、異なる世界で存在するお互いの関係に向き合うための新たなスタートとなる。

移ろいやすい山の天気は、寺の石段の麓に着いたときには小雨模様に変わっていた。
チェンマイの街中とは明らかに違う、ひんやりとした空気。
境内から見下ろす街は、たしかに以前よりずっと発展して見える。
たしかに時は流れた。

彼女の遺影は境内のご神樹を囲むような形で組まれた大理石の一角の最下段にあった。
謙虚な彼女らしい配置だ。
地面に接しているだけに、遺影が汚れやすくなっている。
タイでは献花や線香は必ず境内にあるので、何ひとつそれらしい用意をしていなかった僕は、とにかく墓碑銘の埃や蜘蛛の巣を手で拭った。
こんなことくらいしかしてあげられないのかと、胸が詰まった。
その瞬間。
あたりがいっせいに晴れ上がった。
安っぽいドラマにも見られなくなったくらい絶妙のタイミングで、強い光がいっせいに降り注ぐ。
遺影の表情に変化はなかったが、どうしてもそこにNさんがいるとしか思えなかった。
その後、売店の存在を思い出し、水とティッシュを買って遺影を磨き、長い参道の階段を下りた。
待ってもらっていたソン・テウのおじさんに「どうだった?」と尋ねられた。
彼女のお参りであることを、道中話していたからだ。
事の次第を伝えると、彼は「鳥肌が立った?」と訊いた。
そのとおりだった。

この山を下りる途中にスアン・サット・チェンマイ(チェンマイ動物園)がある。
チェンマイで博覧会が開かれたときの名残りで、2004年にタイへ初めてやって来たパンダが話題をさらったり、水族館の規模で知られたりしている。
バンコクでは「タイで仕事をしているんだ」と言っても、タイ人料金への値引きを受けられずに外国人料金を請求されることが多いのだが、ここではそれを説明すると、どこでもタイ人料金を認めてくれた。
「土産代りにあそこの写真をいっぱい撮ってきてくれ」と友人に頼まれていたので、とにかくカメラと向き合い続けた。
月曜の昼どき、園内を巡るトラムにも難なく乗れて、パンダ館でも人垣はない。
ガラス越しに、真正面から最も近い場所でササを貪るパンダを眺めることもできた。
たしかにパンダの姿は愛らしい。
だが、トレードマークであるあの目の周囲の黒い毛の部分がタレ目に見えるからかわいらしいのであって、その部分がつり目に見えるようであれば、たちまちその役どころは違ってきていたはずだ。
ほんの僅かな偶然によって、持て囃され方がまったく変化してしまう。
これはでも、人間どうしでも同じか。
そんなことは、パンダにとってはまったくどっちでもいい話なのだが。

水族館は近いので、トラムを待たず道を歩く。
冷房管理が行き届いていたパンダ館から出てきただけに、汗がどっと噴き出る。
ミネラル・ウォーターを鞄から取り出そうとして、それを入口で預けてきたことに気づいた。
飲食物を預ける棚に保管するようになっていたから、係官のお咎めはなかったけれど、自己申告で置いてきたのだ。
なのに、出口は入口から離れた位置にあり、館内をぐるぐる巡ったあとでは入口の位置もよく分からない。
まあいい、水はあきらめよう。
日常生活では苛立つことが、旅行や散歩ではちょっとした思い出になる。
その気持ちを思い出し、日常生活に還元しよう。

水族館は思ったより大きい。
ひんやりと暗い回廊に、夢か幻のようにいくつもの水槽がネオンに浮かび上がり、魚たちはそこでほとんど物音もない暮らしの片鱗を見せてくれている。
砂地からひょこっと顔を覗かせるひょうきんな奴もいれば、機械じかけのように一定方向への回遊を続ける奴もいる。
近くにやって来るとほかの魚が逃げ出すような巨大魚がいるかと思えば、爪楊枝のように折れそうな細身もいる。
パンダの気持ちも解らない僕には、水中に暮らす生き物たちがなにを考えているのかなど、想像のつきようもない。
ただひたすら、友人の顔を思い浮かべながら、すべての水槽の魚たちの姿を映像記録してゆくほかない。
客の少なさに安堵しているのだろうか、大きな鯰やエイが水中トンネルになったガラスの弧のてっぺんに腹をつけて寝そべっていたりもする。
なんだか、日中腹を地べたにつけて涼をとるタイの犬の姿に似ている。
エイの場合は、シャッターを押すと、ガラスを滑り降りてするんと視界から消えた。
僅かな音で驚かせてしまったのだろうか、それとも滑り台遊びだったのだろうか。
やっぱり解らない。

残された時間が少なくなってきた。
動物園から出て、全面禁煙だった館内から解放され、ゲートを出たところで一服。
ここで、不意に声がかかる。
「5バーツくれないか」
下唇にピアスを通した若いタイ人である。
僕は完全無視を決め込んだ。
彼が本当に困っているのなら助けようとも思うが、外国人を狙って英語で話しかけてくるその慣れっぷりは、これまで彼がいかに何もないところから幾許かの恵みを受け取ったかが聴きとれたからだ
しかし、その感想は彼にとっても似たようなものだったらしい。
突然彼は日本語でまくしたて始めた。
「ケチ! ケチ! ケチ! ニホンジン、セカイデイチバンケチ! ニホンジン、セカイデイチバンサイテー! シネ! シネ!……」
その後、日本語・英語取り混ぜて、とてもここには書けないような、多種多様な罵詈雑言が放送禁止カタログから飛び出した。
関わり合いにならない方がいい。
またか。
また「関わり合いにならない方がいい」のか。
20代なら、こちらも喰ってかかることもあっただろうし、あるいはネタとして話をもっと聴いてみたかもしれない。
だけど、いつの間にか、僕も冒険より安定を自然に求めるようになった。
重要でないことに、真剣に取り合ってくだらない消耗をするなら意味がない。
僕は、まったく彼を無視した。
そして、数分もすればにがい感情もほとんど蘇ってこなくなった。
感情の処理は、若いころに比べて得意になった。
それがいいことだとしても、よくないことだとしても。

チェンマイは空港が市街から近くていい。
この道中で読み終えた村上春樹の「東京奇譚集」を片手に、空港へ向かう。
この1泊2日のチェンマイが、僕にとってのささやかな奇譚になったことを感じながら。









アヌサワリー・チャイ〜ラーチャプラロップ〜プラ・ラーム1 2010年5月22日(土)

2010年5月19日は、この日をバンコクで過ごした人間には忘れがたい一日となった。
長らく続いた政府軍とUDDとの睨み合いが一段落を迎える山場でもあったが、その緊張のピークでもあった。
この前日からの強制排除実施によって多くの死傷者が出たほか、300か所以上の施設が放火の憂き目に遭った。
アセアンの優良児と謳われ、安定を誇ったこのタイが袋小路に入ってしまっていることを浮き彫りにした衝突事件である。

ランナム通りに住む友人は、激しい衝突がラーチャプラロップ通りで起こり始めた夜、ベッドの上で銃声を聞きながら実にさまざまなことを考えさせられたという。
そして翌日、彼はひと抱えの荷だけを手に、スクンヴィット通りへと逃げてきた。
その彼が、ようやく自宅の現状を確かめるチャンスがやってきた。
何度か訪問したことのある彼の部屋がどうなっているのか、僕も様子を窺うことにした。

タクシーをアヌサワリー・チャイ(戦勝記念塔)で降りると、ディンデーン通りはその入口で通行止めになっている。
この角から2軒のショッピング・センターがあったが、どちらも燃えてしまっている。
中でも、人いきれの絶えなかったセンター・ワンの寂しい姿が切ない。
歩行者天国化しているディンデーン通りを進み、サンティパープ公園へ。
「サンティパープ」とはタイ語で「平和」の意味。
構内は確かに平和そのもので、人の数が少ないだけに、いつもより長閑である。
ランナム通りはまだラーチャプラロップ側に通り抜けができない様子で、人も車もほとんど行き来がない。
だが、彼の住むアパートは元の姿のままだった。
周辺にも大きな爪痕を感じさせるものはなかった。

たぶん店を開けて間もないのだろう。
この周囲で見かけた中で唯一開店していたディンデーン通りのセブン・イレブンでは、タイ人客がケース詰めにして買い物をしていた。
おそらく、再び勃発するかもしれない騒動に備え、自宅での篭城を考えているのだろう。
その慌ただしさに、のんびりしたタイ人のいつもの雰囲気は、まったくない。

友人が持ち物を詰め合わせたので、僕たちは昼に差し掛かった街を、セントラル・ワールドに向けて歩き始めた。
この騒動の象徴となった現場を実際の目で見て、何が起きたのかを確かめておくために。

ラーチャプラロップ通りを南下する。
スリ・アユタヤー通りとの交差点にはまだ投石らしきブロックが数々残されており、車は入ることができなくなっている。
そこからすぐ、建設中のエアポート・リンク高架下には軍の検問所があり、パスポートを見せると徒歩で入っていいとの許可が出た。
歩を進めると、異臭が強くなってくる。
ふと、記憶が蘇る。
フィリピンのパヤタス。
そこにはごみを焼却してはならない法律で、マニラ周辺から集まってきたうず高いゴミが山となって集積された場所である。
UDDデモ参加者の人数と時期の長期化に伴って、下水やごみ処理が追いつかなくなっていたことは、メディアを通じて知っていた。
おそらく、これはそうした人糞や腐乱した生ごみの臭いに違いなかろう。
路上に散らばったままのごみの強い自己主張を鼻で聴きながら、歩を進める。

プラトゥーナーム交差点に到着した。
運河を越える橋は黒く汚れきっている。
その上に立つと、ISETANのロゴが見えてきた。
噂には聞いていたが、見覚えのあるそのままの姿が目に入ってきたとき、胸の奥に熱い波が押し寄せてきた。
バンコクではこのすぐ近くの大丸がオープンすると、エスカレーターを備えた初の近代百貨店の登場ということで、「百貨店」という名称そのものが「ダイマル」であった時期を持っている。
その大丸をはじめ、ヤオハン・そごう・そして東急ラチャダー支店など、数々の名うての撤退を余儀なくされている。
そしてほとんど20年近く続いているといってもいい恒久的な平成不況の中、セントラル・ワールドの伊勢丹とマーブンクローンの東急だけは生き抜いてきた。
その伊勢丹の、現在オープンしていてもおかしくないと思える外観に、救われた気持ちになった。

ちょうど伊勢丹の建物に差し掛かるところで軍の検問があり、一般人はここから先へは入れないようになっている。
15分ほど様子を見てみたが、誰も侵入を許可されない。
仕方なく、こちらも罹災したビッグCの裏手に回る。
しばらく歩いていると、そこでバイク・タクシーのおじさんに声をかけられた。
「この炎天下、歩いて廻るのはつらいだろう? 乗って行かないか? いろいろ廻るからさ」
渡りに船、タイ方式にはタイ人である。
ぐるっと巡ってもらうことにした。

バイクは一旦ランスアン通りを南下、BTS高架下を右折してプラ・ラーム1通りに入る。
この辺りは、撤収したデモ参加者が残して行ったものの散乱する、生々しい地域である。
ここいらで軍のストップがかかるのかと思いきや、バイクはどんどん問題のラーチャプラソン交差点へと近づいてゆくではないか。
そして、呆気なく、最も被害の大きかったZENの前に辿り着いた。
しかも、そこには数人の見物客がすでにいるではないか。
では、伊勢丹角の検問は何なのか?
しかもその後、バイク・タクシーにはさらに伊勢丹に近い場所を案内してもらって、建物に残る銃創を紹介された。
もう先ほどの検問の場所から目と鼻の先の位置である。
あたりを眺めると、なぜか周辺にいるバイク・タクシーのジャケットはピンク色ばかりである。
幾許かのコミッションでその権利を得ているのだろうか?

ZEN周辺の様子は何度もテレビやネットで見た。
それでも、実物を見ると、その被害の甚大さがよく判る。
放火から4日たっても煙がやまず、その下でけし粒大にしか見えない人々が作業をしている。
崩落した吹き抜け部分の生々しさは、巨大生物の壊死を思わせる。
南側では、そのほとんどが割れたZENの窓ガラスの内側の虚ろな暗さが、無言のメッセージを放っている。
清掃係りや軍人たちが道に溢れているにもかかわらず、静寂が周囲を包みこんでいる。

ふと、僕の脇を、ヘッドフォンを装着し、コンパクトカメラを片手にした少年がローラーブレードで走り抜けた。
その瞬間、ああ、ここはタイなんだという思いが駆け抜けた。
悲壮の沈黙のど真ん中を、あまりに軽々しく無節操に走り抜けていくその少年は、モラル論議から人間として生きていく力まで、さまざまなことを同時進行で僕に問いかけたのだった。

バイク・タクシーはその後、焼け落ちたサイアム・スクエアの映画館などに案内してくれた。
そう、これはまさしく案内。
名所を巡ってちょっとした解説を加え、客を降ろすと写真を撮っている時間の間、その様子を見守り、気がすんだ客をまた次のところに案内する。
ひと通り案内が終わると、「ここからどうする? ルンピニー公園に行くか? ボンカイはどうだ?」。
離れた場所の案内を買って出ることにも余念がない。
やはり、彼らもあまりにもタイ人なのであった。

タクシーの拾えるところということで降り立ったサートーン通り、午後2時。
陽光は容赦なく照りつけ、人間の所作などどこ吹く風。

数日後、長らく見ない大雨が吹き荒れた。
どうしてこの雨があの火災のときにバンコクを覆い尽くさなかったのか。
悔やまれてならない。
そんなことをさらに後日、タイ人数人に話したら、彼ら・彼女らは一様に、みんな笑っていた。


















家探し 2010年5月

バンコクに職を得た2000年にも、もう一度バンコクに戻ってきた2004年にも、僕は同じアパートを選んで住んでいる。
これで足掛け9年ほどこの部屋で満足しているのには、いくつかの理由がある。
@ 家賃が手ごろ
A 廊下が夜も明るい
B 職場まで非常に近い
C 警察署に近いうえ、夜に人通りが絶えたりしないが、うるさすぎない
D 近くですぐにタクシーやバス、バイク・タクシーなどが拾える
E 階下に24時間ミニ・マートがオープンした
F すぐ近くに大型スーパーがオープンした
G 日本食を含めたレストランが徒歩圏内でもずいぶんたくさんある
H ベランダの懐が深く、雨の日でも洗濯ものを干すときに天候を気にしなくていい
I 32平米ほどのシングル・ルームに、コンセント・プラグが13個も用意されている
J ソイが袋小路になっているので、車の往来が少ない
K 住民が静か
始めからこれらの条件がすべて整っていたわけでもないが、住めば都という以上に、さまざまな状況の好転がこの場所でずっと暮らすことを後押ししてくれたところがあった。
それに、ものを捨てることが極端にできない僕は、引っ越しを思うと腰が引けていたことも確かである。

ただ、生活そのものの変化は生活場所の変化も促す。連れ合いができると、自身の変則的な勤務時間・体系で迷惑をかけたくないこと、実際はこのアパートでは火災予防のため炊事が禁止されていること(こういうアパートがタイには多いです。住民はほとんどお構いなしですが)、ハウス・アレルギーのような鼻水が出るようになったことなど、いくつか見直さなければ、と思うところが出てきた。
さらに、今年になって上階からの下水がたまにトイレに漏れるようになってきたこと、元から水道の水の出が悪かったのに、水道工事をやったあとで洗面所の水がちょろちょろしか出てこなくなったうえ、シャワーの水量も落ちてまったく温水が使えなくなったことなどが問題になっている。
どちらに関しても修理は難しいと大家から言われている(その後、後者は修理ができて改善。前者はなぜかある日を境にぴったり止まって、不思議なまま事なきを得ています)。

バイク・タクシーに乗って、日ごろは足を運ばないようなソイに入っていってもらう。
バイク・タクシーは視界が広く、風を伴って、ほかの乗り物とは違う開放感を与えてくれる。
屋台から出る煙をかいくぐり、垣根から飛び出した枝葉をかわし、バイクは地を蹴る。

一か所に降り立つと、周囲の数件をしらみつぶしに当たってゆく。
同じ家賃だと一般的にはワン・ルームしか借りるのが難しいだろうというのに、ゆったりした部屋が3つも用意されているものの、ドブ臭のする運河のすぐ横だというアパート。
飛びぬけていい条件だが、寺の近くで、毎朝とんでもない音量の鐘の音を聴かねばならないマンション。
新築で人気物件だが、まるで日本のように、狭い区画を強引に2部屋にしたようなコンドミニアム。
どうやって家財道具を運び込めばいいのだろうかと戸惑う、極細の廊下しかないアパート。
いちばん紹介したい部屋の鍵を失くして30分も探している初老の大家。
日中は自分の身が空いていないので、午後11時でもいいから夜に見学に来てくれというインド系らしい大家。
契約数を競っているのだろうか、気の弱そうな若いスタッフを押しのけて部屋を案内してくれる30代女性アドバイザー。
物件の見学なのにパスポートのコピーを取らせる、自信過剰気味の20代男性オーナー。
目がくるめくほどのいろんな部屋、いろんな大家、いろんなスタッフ。

近くにあっても見えないものが視界に入ってくる。
タイという地の広さ。
ここには、日本ではちょっと考えにくいほどの不思議な自由があり、それに合わせた選択肢がある。
引っ越しというより、いつの間にか、僕の興味は散歩に近いものになっている。









ドリーム・ワールド 2009年12月30日(水)

ドリーム・ワールドはおそらくバンコクで最も日本のイメージに近い遊園地だ。
スペース・マウンテンもあるし、ヴァイキングもある。
でも、遊園地となるとやはり、子連れでもないかぎり訪れる機会はめったにない。
今回は連れ合いがいたので、ここで乗り込みをかけることに決定。

ドリーム・ワールドに限らずタイにはタイ人用と外国人用の2重料金があるところが多い。
タイでの労働許可書を持っているとタイ人料金が適用されるようだが、クラブ・タイランドという在タイ日本人用の総合メンバーズ・カード会社の前売り券を利用すれば、会員でなくとも、ほとんどのアトラクションで通用するフリー・パスが安く手に入るということで、さっそくデスクへ。
ここは日本人が電話を取ってくれるので、話が非常にスムーズ。
予約できるのだが、朝には珍しく雨が降り、昼になってから当日分を買ったので、急いでタクシーに飛び乗る。

「早く着きたい。高速に入って!」と注文したが、一方で気になるのが「ようし! ガンガン飛ばすぞ!」とならないかということ。
バンコクのタクシーには、ウインカーも点灯せず割り込みをかけまくって、車の少ない直線道路では車体にかすかな揺れを感じるくらいのスピードに持っていくタイプのドライヴァーが多い。
連れ合いは車酔いをするタイプなので、この手合いには注意したいところだが、右折を待つ車に先を譲ってあげるような人で、まずは一安心。
…だったのだが、高速乗り口まであと少しというところで、混んでもいないのにいきなりUターン。
ラマ9世通りを走れば高速に乗らなくてすむよ」というのだが、この道は、ラマ9世通りが市街部をズドーンと長距離バイパス道路で繋いでいるその入口の数メートル過ぎた箇所で合流するので、バイパスには入れない。
そして、案の定、一般道は年末のとんでもない渋滞の真っ只中。
連れ合いの顔色も良くないし、一日フリーパスを買ったこともあって、気は焦る。
だが、タクシーの運ちゃんにそんなことをぼやいてみても仕方がない。
どっちにしても、タクシーに羽でも生えないことには、この事態を脱出することはできないのだから。

やっとの思いで到着すると、朝の雨が嘘のようにかんかん照り。
これが年末だろうかと、異常気象が心配になってくる。
まあ、それはともかくいざ構内へ!

ムアン・ボラーンもそうであったように、ここも入口から縦に細長い造りで、真中から奥がメイン・ディッシュ。
「ハリウッド・アトラクション」の最終公演時間に近かったので、施設の最奥地へ急ぐ。
ここではアクション映画の撮影シーンを模した催しがある。
施設の造りや殺陣の運びなどでは、そりゃ日本には及ばないが、仕掛けものの迫力が半端じゃない。
給水塔が爆発して水が噴き出すのも大きな見もののひとつだが、火薬の爆発の威力は、なめてかかっていると腰を抜かすこと請け合い。
場外にいたらテロかと勘違いしそうな轟音で火が噴き、煙もすごい。
テクノロジーと投資金額では勝負できても、観客の安全を最優先する日本では味わえないスリルは、子連れの家族が爆音に耐えかねて退出する姿が見受けられたほど折り紙つきだ。

ハリウッド・アクションのすぐ近くには、ドリーム・ワールドで最も有名な「スノー・タウン」がある。
大量の室内冷却装置を詰め込んだ室内で雪を体験させてくれるものである。
もちろんタイ人には大人気。
入口で長靴と防寒コートを貸してくれるのだが、スニーカーなどソールがしっかりした靴を履いてきたなら、長靴に履きかえる必要はない。
長靴はソールも中敷きも薄いので、雪の上ではかえって足裏が冷える。
あくまでサンダル履きが圧倒的なタイ人に向けてのサーヴィスなのだ。
また、コートはかなりオーヴァー・サイズ。
といっても、冬に慣れた日本人には、アトラクションを楽しむくらいの時間ではさほど寒いとは思えないのだが。
それよりも、注意するべきはカメラの扱い。
外は相当な気温+湿度なので、一気に結露で真っ白に。
カメラ内部の状態も気になるから、館内でどうしても写真を撮りたいとき以外には荷物として預けてしまった方がいいかもしれない。

肝心の内部の様子だが、雪は予想どおりシャーベット状に近い。
一部では完全に氷の板状になっているので、滑って転んでいる人も見かける。
ぼた雪が塊になってぼそぼそっと落ちてくる箇所があって、ここはもちろん人気ポイントになっているが、こいつが髪やコートの上ですぐに水になってしまう。
ここを訪れたタイ人たちの雪のイメージが館内での様子に固定されてしまうことを想像すると「ちょっと違うんだよな」と思ってしまうが、細かいことは気にしないのもまたタイ人なので、日本で粉雪が降り積もっているのを見ても「ドリームワールドと同じだねぇ」と発言しそうな気がする。
タイ人に言わせれば「日本人はタイの暑さと日本の夏の暑さをごちゃまぜにしているけど、ぜんぜん質が違う」ということになるのかもしれないが。
ただ、内陸国で暮らしていた人が生まれて初めて海にやってきたのと同じように、初体験の感動があれば、そしてそれがまやかしでなければ、それでいいのだろう。
なにせ、ここはテーマ・パーク。
ファンタジーを垣間見させてもらうための場所なのだから。

時間が迫っていたので、矢継ぎ早に他のアトラクションに。
まずは、スカイ・コースターに。
足がぶらぶらするタイプのコースターで、急降下よりも揺れと回転に見せ場を置いていて、さほど恐くないし、乗車時間も短い。
「乗客が楽しそうに万歳してたから」という理由での連れ合いの選択だったが、「恐すぎる。もう乗らない」。
次はヴァイキング。
乗車前に「たぶんさっきの乗り物よりもずっと恐いよ」と告げるのだが、これを振り切って乗車し、「息がとまった。恐すぎる。もう乗らない」
たぶん田舎の庭先にあるブランコの巨大版を想像していたのだろう。
そして、残り時間が10分となったので、すぐ近くにあったお化け屋敷に。
入口で唐突に、めちゃくちゃ激しい金切り声が。
どうやら、相当な恐がりの女性が中に入るのをためらっているうちに背後から僕らが忍び寄ってしまったようで、絶叫となったようである。
彼女らは僕が先導する後をずっとくっついてきた。
この屋敷で最もびっくりさせられたのが、この女性の叫びだった。

タイム・オーヴァーで乗ることはできなかったが、急流滑りでの水しぶきは有無を言わせぬ圧倒的な水量だったのを確認できたし、グランド・キャニオンというアトラクションも、体験した人はびしょ濡れだった。
でも、誰もが当たり前のようにそれを楽しんでいた。
遊園地での笑顔は万国共通。
でも、その笑顔をもらたすための下地を、多少濡れたって、カメラに霜が降りたって、ものすごい爆発音がしたって、どれも全部楽しんでしまおうと、来客者の心をひろーくさせてしまうドリームワールド、いや、タイという国はなんだかどこかで、仕事はそんなにできないけど憎めない従業員に似ている。
きっとしたたかな部分も持っているんだけど、笑って許せてしまう、そういう存在。
僕はきっと長男的気質が強い、ずいぶん日本的な人間なんだと思う。
だから、ちゃめっけで許される弟にあこがれてしまうんだ。









バーン・バート 2009年12月4日(金)

床で目が覚めてしまい、再び眠れなくなった。
しばらく明かりもつけずに、部屋で自分の体に耳を澄ませてみたが、どうやら目覚めは本気らしい。
普段なら無意識にPCを立ち上げ、このHPの書き足しをしたり、ネットで気になることを調べてみたりしているのだが、何だかそんな気分にならない。
外はもう朝だ。
よし、今日こそもう一度、バーン・バートに行ってみよう。

バーン・バートは、バンコクの旧市街地にある、バイクが行き違うことさえ窮屈な細くて短い、まったく目立たない路地にある。
だが、ここはタイでたった一か所だけになってしまった、かつての国王の勅命によって僧侶の托鉢用の金鉢を手作りしている集落なのだ。
3年前に訪れたのは宵のことで、残念ながら鉢を作っているのは午前中だけだということだった。
そのときの様子はmixiの日記に書き留めておいた(下の枠内にその内容を貼りつけておきました)。
近いうちに朝早起きして再訪しようと思ったのだが、なにせ仕事が午後から深夜にかけてあり、朝になってから眠り昼に床を出る毎日を送っている僕には、これまでなかなかチャンスがなかったのだ。
そもそも、前日の朝にアパートの上の階でトンカチの音が聞こえ始めて起こされ、仕事から戻るとバッタンキューとなり、今朝になると今度は睡眠時間が足りていないはずなのに目が冴えてしまったという成り行きである。
こうなったら、行くしかない。

旧市街の道は激しく渋滞している。
金曜日であるうえに、もともと道幅が狭くて入り組んでいるせいでもあるが、どうやら今日が国王誕生日の前日であることも関係しているらしい。
ほとんど動かない車を尻目に、細い歩道を行く。
朝の空気は適度な涼を含み、歩みを軽くさせてくれる。
このバムルン・ムアン通り西側一帯は仏具店の並ぶ、さすがバーン・バートに近いだけあるなと感じさせてくれる一帯だ。
ある店の前で線香を立てていたので、しゃがんでカメラを構えると、すぐ横の、開けっ放しになった車の窓から、男の白い歯が笑顔の三日月形に顔を覗かせた。
タイでは仏教に対して心を開いた姿を外国人に見つけると、微笑みの国であることを立証してくれることが多い。

ソイ・バーン・バートを入っていくと、バイクの兄ちゃんから声がかかる。
「金鉢を買いに来たの?」
「今日は見に来ただけです」
すると、近くにいた上半身裸のおっちゃんが「こっちに作業しているおばちゃんがいるぞ」と手招きして先を歩きだした。
慌てて後をついてゆく。
おっちゃんの、言ってみれば愛想のなさに、僕は却ってほっとする。
それが観光客ずれしていないことを示す、中・高年男性のバロメーターだからだ。

いくつかの角を曲がり、さらに狭い路地を奥に突き当たると、おばちゃんがラジオを聴いていた。
おっちゃんが早口でまったく聞きとれない癖のあるタイ語を話すと、おばちゃんはやおら鉢を手に取り、金槌で打ち始める。
ここにも観光が臭う部分はある。
だが、おばちゃんもおっちゃんもかなり自然体である。
おばちゃんはコンコン鉢を打ち続け、その音は不思議なことに、柔らかくて耳に優しい。
何枚かの金属を貼り合わせるにも造形するにも、鉢をたたき続ける。
根気のいる作業だろう。

おばちゃんの庭先を出ると、あちこちからトンカンと音が聞こえてくるのがわかった。
別の場所では、気難しそうなおばちゃんが金槌を振るっている。
また別の場所では、鉢に火を入れている。
きっと、バーン・バートは少なくともここ数十年、ずーっとこんな感じだったのだろう。

元の場所に戻ると、おっちゃんが戸棚をごそごそやりだし、金属片を貼り合わせただけの鉢や造形途中の鉢を取り出してくれた。
「正午から模様つけが始まるんだ」と言いながら、おっちゃんは一枚の紙をくれた。
それはコピーを重ねて妙な味の出た、英語のパンフレットだった。
案内のための携帯電話番号も載っており、ほかでもないこのおっちゃんの番号だという。
それを聞いて、また胸を撫で下ろしてる自分がいた。
このおっちゃんが代表者なら、バーン・バートも観光客が押し寄せてすれっからしの衣を身に纏うことはあるまい。
帰りがけ、幾許かのチップを取り出すと、おっちゃんは「いや、そんなものはいらんよ」と手を振る。
「ナーム・チャイ(思いやり)」という言葉があって、それが金銭のやり取りにも大きく絡んでくるこの国では、このおっちゃんの金銭に対しても木訥とした姿を発見する機会は多くない。

パーク・ソイの屋台でクイティアゥを食べて小腹を満たすとさすがに眠くなってきて、帰りはまだ混みあったバムルン・ムアン通りでタクシーをひろう。
見るからに人のいい運転手は、珍しく渋滞に舌打ちしない人だったが、やっぱりホアランポーン駅地下鉄に乗ることを勧めた。
そのとき、彼は僕が初めて聞く言い回しを口にした。
「スー・ウェラー・ディー・クワー」(時間を買った方がいいよ)
唐突に日本の片鱗を見た気がした。

「ロンリー・プラネット」を買ってきた 2006年7月15日

 休日、まだ立ち寄ったことのなかった古本屋でたまたま「ロンリー・プラネット」の日本語版を見つけた。
「ロンリー・プラネット」は海外長期旅行者には知られた、オーストラリア発刊の旅行ガイドブックなのだが、日本で暮らしていた時期、書店でその日本語版がとうとう出版されているのを確認していた。

 バンコクにも、こうした日本書籍を扱う古本屋さんが少し増え、BTS(バンコクの市内高架鉄道)の駅構内にもそういう店が出るまでになったのは驚きだった。
食事がてらこうしたお店に立ち寄るのは、休日らしくて好きだ。
この店は品揃えが僕の好みだったのだが、つけられている値段が他店を大きく引き離していた。
日本で新品が2880円の「ロンリー・プラネット」が、バンコクで500B(約1500円)で出ていたとなればたしかにお買い得なのだが、生活感覚として500Bという金額は書籍にポンと払うのがためらわれた。
でも、せっかくのチャンスだ。

 僧侶が托鉢に使う鉄製の鉢を、ラマ1世(今のタイ国王から数えて9代前、日本では江戸時代だった頃の王様)に命令されて以来いまだに作り続けている集落がこのバンコクに残っていると、「ロンリー・プラネット」で読んだ。
地図で確認すると、僕もタクシーで何度も走ったことのある通りの小道をちょっと入った場所にあるようだ。
ラマ1世時代は3つの村が工房に指定されたが、僧侶の減少とともに需要も減って、現在ではその小道にある6家庭が残っているのみだという。
タイには、こういう「普段は見過ごしているが、失ってはいけない大切な場所」とでもいうべきものが、まだしっかりと生きている気がする。
だからこそ、信じられない速さで進化を遂げるバンコクに、僕はあせってしまうのだけれど。

 「ロンリー・プラネット」には、「地球の歩き方」とはまたちがった安心感がある。
僕は「地球の歩き方」を「けっこうな精度で安定感のある情報を載せてくれている」点で好きなのだが、「ロンリー・プラネット」にはちょっとした気品のようなものを感じる。



バーン・バートに行ってきた 2006年7月19日

前回紹介した「ロンリー・プラネット」での記述があった「バーン・バート(鉢の集落、という意味)」に、がぜん興味が湧いて、この間の日曜に行ってきた。
スコールがやむのを待ったせいで、サオ・チンチャーに降り立ったのはもう夕闇が迫った時刻。
サオ・チンチャーというのは、ワット・サケットという有名なお寺の前にある、大きなブランコのことである。
赤く塗られたブランコの支柱は、お稲荷様の鳥居を思わせるが、このサオ・チンチャーの高さはハンパではない。
かつては仏教行事の一環として、普段は支柱だけのこの大ブランコにひもが結わえられて実際にブランコをこいだのだが、高さのあまり死者が続出したということを、地球の歩き方で読んだ。
ロンリー・プラネットには面白い記述があった。
参加者が十メートルの高さにすえられた金の袋を見事取ることができたら賞金となるということで死者が絶えなかったというのだ。

辺りで道を尋ねながら、バーン・バートに歩を進める。
この一帯には仏像を売っている店が多い。
シャッターの降りた店先の歩道に、ほんのりと街灯に照らされた仏像の姿には、ほかにはない独特の静寂感が漂っている。

ソイ・バーン・バート(「ソイ」は小道という意味)の前に着いたときには、夜が始まっていた。
思ったより細い道だ。
バイクが気軽にすれ違える幅ではない。
タイの多くの下町で見られるように、こうした民家はソイに密接した戸口を開けっ放しにしているので、日が落ちたあとに見知らぬフォーリナーがうろつくのは迷惑かもしれない。
でも、結局は中に入っていった。
ソイの中ほどで酒をあおっているおじさん、おばさんたちがみんな、僕に気がついて熱い視線を送る。
「ここでは托鉢の鉢を作っているんですか?」と尋ねてみた。
「そうだよ!」
僕が片言のタイ語を話すので、みんなの表情がゆるんだ。
日曜でも仕事をするときはあるが、とにかく仕事をしているのは朝のうちだ、ということで、鉢の並んだ陳列棚を覗かせてもらって「今度は朝、来ます」とソイを出た。

道を尋ねたとき、運河の横の家を「あそこでも作っているよ、有名な人だよ!」と教えてもらっていたので、そちらにも訪ねてみると、作成途中の鉢まで見せてもらった。
でき上がった物をみせてもらっていると、財布のひもが思わずゆるんでしまう。
両手にドンと乗るサイズで600B(約1800円)。
銅を混ぜて焼入れした深みのある重厚な色合いが素晴らしい。

さっそく小物入れにしてしまっている僕は、やっぱりばち当たり(鉢、当たり!)だろうか、とつまらないだじゃれで落としまして、おあとがよろしいようで。









バンプー・リゾート 2009年11月22日(日)

タイに戻ってきた翌年、かつてのバンド仲間二人がバンコクに訪問してくれたとき、行き当たりばったりで、初めてパーク・ナームを訪れた。
チャオプラヤー河口を見ようというプランだったが、そのいきさつでバンプー・リゾートに出てきた。
ここが物見遊山の一般人には最もチャオプラヤー河口に近い施設であるようだ。
タイでは地図で見て目をひく岬や島は海軍の管轄地であることが多く、ここも一応は海軍所有地であるらしい。
海に突き出した敷地には海産物を売り物にしたレストランがあり、海を見渡せるテラスが用意されている。
静けさが暑苦しさをいくぶんか和らげてくれる。
まだまだバンコクでは猛暑続きの10月の日中とあって、訪問客はほとんど目につかず、僕たちはタイ人にも認知度の少ない穴場を見つけたような思いでいた。

時は流れて、2008年あたりから急に、日本人媒体の印刷物の中にもこの場所を採り上げたものが幾らか目につき始めた。
しかも、どの紙面もこぞってここにかもめが飛来し、餌をあげる名所扱いである。
以前訪れたときには、鳥どころか人影もほとんどなかったはずだ。
1か月ほど前、友人が「余ったので、もしよければ」とパンを1斤くれたのが冷蔵庫に眠っていて、スペースを圧迫している。
よし、かもめにこれをあげに行こう。
最近自宅で食事を作る味も覚えだして、パーク・ナーム市場での魚介類の買い出しにもそそられる。
乾季になって、出かけるには絶好の日和だ。

バンプー・リゾートに近づいて目をみはったのは、入口にずらりと列を作るマイカーの列だった。
どうやら、記事のとおり、ここはすっかり名所と化しているようだ。
門を抜けると店が賑わっており、以前は見かけなかったガレージがそこそこの敷地面積で確保されている。
構内ではヒット曲が流され、家族連れや若者が集っている。
そして、陸側と展望所を繋ぐ橋は、人と車で埋まっているではないか。
果たして、かもめもこの橋の周辺をお祭り騒ぎのように賑わしていた。
かもめの餌を売る男もいて、多くの人がこの餌かカメラ、あるいはフォト機能のついた携帯電話を手にしている。
いかにもタイらしいこの光景に、口をあんぐりするほかなかった。

それでも、チャオプラヤー河口側である夕陽の美しさは格別だった。
かもめの舞う乾季の夕暮れは、このどんちゃん騒ぎを限りなく甘く染め抜いて、ドラマの一場面に仕立て上げている。

レストランは厨房のキャパシティーをずいぶん超えた客を抱えて大わらわ。
注文をキャンセルして、もうほとんどの店が明かりを消しているパーク・ナーム市場に滑り込む。
ここでは、海のものが実に新鮮で安い。
これはバンコク在住の一つのメリットである。
もしバンコクが海に面した港町なら、新鮮な魚介類を簡単に手に入れることはできるだろうが、値段もそれ相応になるだろう。
その点、渋滞さえなければパークナームはバンコクからものの2〜30分ほどで到着できる程度の距離にあり、しかもまだ高架鉄道はここまで延伸されていない。
それでいて、バスや車で訪れるには渋滞が激しいこともあって、まだ大きな意味でのバンコクに呑み込まれていない。
そこがいいのだ。

帰宅して、さっそく買ってきたコウイカをトムヤム風スープに煮立てる。
思った通りの味だ。
歯ごたえがいいのにもちもちしていて、味にもたつきがない。
主婦気分で買い物を楽しめるようになってからというもの、近頃は出かけたあとまで「1粒で2度おいしい」。
実は、飛ぶように売れていたかもめ専用餌のおかげで、バンプー・リゾートに持っていったパン屑には、かもめのみなさんはまったく見向きもしなかったのだけど、どうやら彼ら・彼女らにとっても、パーク・ナームは味のある街なのだった。










ムアン・ボラーン(アンシエント・サイアム) 2009年10月4日(日)

もともと名所巡りが好きなクチではないので、タイにいながら「見落としている」観光地が、僕にはいっぱいある。
ムアン・ボラーンのような観光客向け施設もそういう一つだった。
ここはタイ各地の名所・旧跡のミニチュア版をわんさと揃えた、お手軽タイ周遊旅行のできる場所として有名なのだが、なぜか2冊持っている「地球の歩き方」のうち、新しい版である'03〜'04版では掲載されていない。
たぶん、これからタイ旅行であちこち回ろうという旅行者に、そのレプリカを並べたテーマ・パークを紹介してもあまりぱっとしないと判断したのだろう。
実際、訪れている客にはタイ人が多かった。

タイ滞在が長くなってくると、タイ国内旅行への眼差しも変化してくる。
名所だけを目当てに国内旅行をする気には、なかなかなれなくなってくるのだ。
登呂遺跡を見るためだけに静岡に行くようなことは、考古学や歴史に特別な興味がなければ機会もないと思う。
こうなると、自分の住んでいる地域からそう遠くないところに、全国パノラマ巡りができるテーマ・パークがあるとなると、気になってくるという寸法である。

敷地がかなり広いので、自転車か案内用のトラムに乗って廻るのがよいと紹介されていたが、ゲート横には2人乗りのカートも用意されていた(200バーツ)。
今回は初めての訪問なので、少しでも案内があったり、人気の名所が判った方がいいので、トラムを選択。
これは正解だった。
雨が多くなっているとはいえ、まだ雨季は明けていないので、日差しは相当強い。
トラムに乗っている間は風通しがよく、茹であがったからだをリフレッシュさせることができるのだ。
自転車に乗るなら乾季の午前中が爽快だろう。

痛感したのは、僕はタイの名所なんてほとんど知らなかったということだ。
かろうじて判ったのは、カォ・プラ・ヴィハーン(カンボジアでの名称は「プレア・ヴィヘア」)とパノム・ルンくらい。
どちらもクメール遺跡なので、一目で見てすぐそれとわかる。
タイ人を連れてゆくとご当地の名所で写真大会のハイライトとなるという話をフリー・ペーパーで読んだが、納得。
僕だって、違う県で大阪城や中央公会堂のレプリカを見つけたら、きっと同じことをすると思う。
そう考えると、たとえば日本に住む外国人が大阪城と姫路城と熊本城の違いを見分けられるかどうかは怪しい気がする。
そういうことでなんとか自分に弁解しておく。

まだ朝食も昼食もとっていなかったので、トラムの移動中に見つけたドリンク・スタンドのような小屋の近くで慌てて降りる。
案の定、ここにカップ・ラーメンが置いてあった。
いくらタイ在住歴が長くなってきていても、どうにもこの食事のタイミングと場所の選択はなかなか思ったようには事が運ばない。
出発前には「お出かけするなら、やっぱり食事はご当地じゃなきゃね」、到着すると「せっかくだからまずは見たいところに行こう」、お目当ての場所に到着すると、「あれれ、食事できるようなところはどこにもないなぁ」。
そして気がつくと、もう空腹を感じるポイントをとうに過ぎていて、エネルギー補給気分での食事、と毎回こんな具合なのである。
カップ・ラーメンでもいい。
とにかく胃に何か入れておかなければ、あとで体調に影響が出てしまう。

汗を拭きながら再びトラムに乗ると、次のポイントでは乗客のほとんどが下車した。
水上マーケットのコーナーである。
まさか。
うん、そのとおりなのだ。
ここには水辺に配されたレストランが並んでいた。
まあ、得てしてそういうものである。

それもこれも含めて、またここを訪れる口実になるだろう。
もうすぐ乾季だ。
自転車で園内を廻ることがすがすがしい季節に、今度は2度目の余裕で楽しむことができればいい。
そう、知らないことがまだまだいっぱいあるって、いいことじゃないか。









セーン・セープ運河 2009年8月14日(金)

午後3時30分のエカマイ・ソイ30入口に降り立つ。
黄昏への入り口を僅か感じさせるものの、まだ炎暑が空からいやというほど降り積もってくる。
セブン・イレブンでクラティン・デーンをひと口で飲み干し、クローン・タン運河への側道を歩く。

子どもにとって、ご近所探検は宝探しだ。
地図も持たず、予備知識もほとんどなく、未知の世界を自分の足で踏み分け、自分の眼で確認して巡る。
思えば、僕の初めての大きな冒険は、今はもう埋め立てられてなくなったドブ川の行く先がどこかを突き止める、2時間ばかりの小さな小さな自転車の旅だった。

バンコクに移り住むことを決めてすぐ、僕は自転車を買った。
そして、職を探しながら、あちこちの大通りや路地を駆け回ったものだ。
新しく住み始めた街の地図を自分自身が広くしてゆく喜びは、旅行とはまた違った興奮だった。
時が流れ、やがていつの間にか、当然のように僕は棲家の周辺を廻ることなど忘れてしまっていた。
自宅と職場の往復の日々。
それは、生きてゆくためには大切な日常がしっかりと強固な存在となっていることの証明である。
そしてその一方で、自身の生活を等身大の生活空間に柔らかく限定することでもある。

今日は童心に帰って、近くなのにこの眼では確かめていない風景に触れ、少しばかり版図を広げてみよう。

側道を出ると、橋の上から子どもたちの「バイバーイ!」という高い声がする。
運河をゆくボートの乗客に、彼ら・彼女らの友達が乗っているようだ。
大きなエンジン音に包まれた友達に、みんなの声は届いただろうか。
運河沿いの、ソイとも呼べない細道をゆくと、小さな船着き場があり、その近くに学校があるようだ。
ちょうど下校時にぶつかったのだろう、小学生が次々にソイをやってくる。
「こんなところで外国人が何をしているんだ?」という訝しげな視線のシャワーを浴び、僕は歩を早くする。

運河の南をゆく道が途切れ、水門の上を横切る階段を上って、北側の道に出る。
カメラを構えてボートの写真を撮っていると、僕がこの場所にやってくる前から水門の階段付近にいた男がやおら立ち上がり、やってきた2人の男のTシャツを捲り上げ、壁に手をつかせた。
何事だろうか。
おそらく、男は私服警官なのだろう。
尋ねるのも憚られ、ただ横目でチラチラと見ることしかできない。
2人の男が放免されたあと、男は僕に向かって微笑みながら敬礼した。
外国人の闖入者を驚かせたことへの、せめてもの罪滅ぼしだろうか。
僕も慌てて敬礼し返した。

写真を撮っている様子を見て、3人の子供が「写真を見せて!」とせがむ。
連写した運河ボートの様子を見せると、歓声が上がる。
そして、「僕たち・私たちも撮って!」。
その仕上がりを画面で確認しひとしきり吟味した3人は、嬌声をあげて水門の階段を駆け上がっていった。

その先で、セーン・セープ運河はクローン・タン運河と交わる。
久しぶりにボートに乗ってみることにするか。
運河ボートは飛沫の跳ね上げを避けるため、乗り場を出ると両脇のビニール・カバーを上げ、風景が見えなくなるので、車窓を楽しむことができない。
また、運河には生活排水が流され、ゼロメートル地帯ばかりのバンコクでは水の流れがほとんどないため臭う。
降雨があると増水して舟が揺れたり、舟どうしがすれ違うときに飛沫がひどかったりもする。
これまで、あまり縁がある乗り物とはいえなかった。

以前はこのボートで、まだ国際空港だったドン・ムアン近くまで出たこともあったが、その路線は、今はもうない。
現役の、セーン・セープ運河をゆく路線に乗る。
料金は18バーツ。
これで、乗り換え地点であるアソークまで行ける(乗り換えた先は10バーツ)。
この日は、時間が早かったためか、乗客が少ない。
乗客が少ないということは、運行本数もそれだけ落ち着いたものになっているということで、飛沫が跳ねる機会も減り、船べりはいつもよりシートを高く上げていない。
そのおかげで、外の風景がよく見える。
タイ国鉄の線路脇もそうだが、このセーン・セープ運河沿いからも、バンコク中心部であることを忘れさせてくれる風景が眺められる。
バンコク中心街きっての一大コンプレックスであるセントラル・ワールド・チッドロムのすぐ横を通ると、薮の茂った淀みの横にある木造りの小屋で、上半身裸のおっちゃんが煙草を吸っているのが目に入ったりする。
急速に発展した都会の化粧の隙間に覗く、すっぴんの肌。
ボーベー市場が近づくと、中国の田舎町ともつかない、小さな家屋の続く街並みに、長らく感じることのなかった異国情緒を覚える。
犬がいて、肌着の老人がいて、緩やかな空気が流れている。
ものの本に「かつて東洋のベニスと呼ばれた一端が覗ける」という謳い文句があり、それはこの街に旅行で訪れる期待に胸を膨らませた若者たちに向けられた飾り言葉かと思っていたのだが、まったくそうではなかった。

やがて、ボートは終着のパンファー橋に到着。
ここはマハカーン砦やラマ3世公園のたもとで、ワット・ラチャナダープー・カォ・トーン、ワット・サケットにもほど近い。
また、もう少し行けば民主記念塔(アヌサワリー・プラチャティーパタイ)や、バックパッカーの集まるカオサン通りである。
そして、このパンファー橋は1992年5月のスチンダー首相退陣デモに対して国軍が水平発砲を行った流血事件の舞台ともなった場所である。
旧市街を感じさせるこの界隈は、歩くたびに新しい発見のある場所だ。
わざと小道を選んで通り、夕涼みの男たちから「どこへ行くんだい?」と声をかけられる。
すぐそばでは、子どもたちがシャボン玉を飛ばしている。
「どこへ行くの?」
僕は適当な場所を答えたり、それがうまく見つからなかったときには「散歩しているんです」と答えたりしていた。
でも、本当は、僕はどこに向かっているんだろう?
家の周辺探索と言いながら、僕はけっこう離れた地域までやってきた。
それは、いつの間にか日本を出てタイで暮らしている自身の投影のようにも見える。

やがて辿り着いたプラ・チャーン船着き場から渡し船に乗ってチャオプラヤー川を越え、ワン・ラン船着き場でサパーン・タークシンまでのチャオプラヤー・エクスプレスの切符を買う。
こちらは運河ボートとは比較にならない、大型でしっかりしたフェリーである。
乗客も垢ぬけている。
ただ、待てど暮らせど、なぜかなかなか船がやってこなかったのはご愛敬。
すっかり宵闇の迫ったブルーに染まる仏塔の方から吹いてくる風が涼しく、そこはまるでいつか見たまま忘れてしまっていた夢さながらの景色で、しばしの間、頬をつねっても痛みのないような世界に、僕はたゆといながら帰路に就いた。




















アイソレーション・タンク 2009年4月8日(水)

初めてその存在を知ってから、ずっと気になっていたアイソレーション・タンク。
とうとう体験することができた。

アイソレーション・タンクとは、イルカとのコミュニケーションを研究した脳科学者ジョン・リリー博士が1954年に考案した、人間の意識を実験するタンクで、シングル・ベッドほどの広さの箱の中に飽和(もうこれ以上溶けないという限界まで固体を液体に溶かした状態)食塩水が入ったもの。
箱のふたを閉めると中は真っ暗で、その中に横たわるとからだが浮かぶ。
イスラエルとヨルダンの国境にある死海で、海パンをはいた白人のおじさんが水にぷっかり浮かびながら新聞を読んでいる写真を思い出してもらえれば、ちょうどあれと同じ状態である。
リリー博士によると、人間は重力に逆らうために能力の80%を使用しているらしい。
飽和食塩水に浮かぶと、その力のスイッチをオフにすることができる。
さらに、タンク内はいつまでたっても目が慣れることのない闇。
視覚も遮断される。
しかも、タンク内で仰向けに寝ると耳の穴まで食塩水に浸かるので、聴覚までスイッチ・オフになってしまう。
この状態でいると、脳はその能力をきわめて自由に使うことができるようになるわけだ。

タンクの体験記には「過去のことを驚くほど思い出す」「色彩が見えてぐるぐる回る」「シンクロニシティーがある」などと、摩訶不思議なことがあれこれ出てくる。
初回は多くの場合、ただ慣れるだけで終わってしまうことが多いようなのだが、こうなっては、とにかく一度体験してみたい。
京都でタンクを個人所有しているディヴィヤムさんというフランス人の方に連絡を取ると、「いつがいいですか?」とのっけから体験させてくれそうな答え。
すぐさま予約を入れた。

ディヴィヤムさんの家は真如堂の正門からすぐそこにあり、素晴らしい日本家屋だった。
木戸をくぐりながら、「よく頭を打つんだよ」と彼は笑う。
タンクは台所横の土間にすっぽりはまるように置かれていた。
さっそく、案内されたとおりシャワーを浴び、いざタンクの中へ!
底には食塩の結晶がじゃりじゃりしているが、からだを浮かべるとそんなことは全く問題ない。
人肌と同じ水温になった食塩水に浮かび、からだの力を抜く。
それでもまだどこかに力が入っていることに気づくので、ひとつひとつのスイッチを切ってゆく。

まず、からだがどこまでも上昇して行く感覚が訪れた。
それと同時に、目に写る模様がどんどん下に流れてゆく。
この模様は、夜に消灯して寝る前に目を閉じると瞼の裏に流れるように写っている、あれと同じものだ。
それが宇宙遊泳の映像のように、ずんずん前から流れてきてからだの後ろ側に去ってゆくのである。

しばらくすると、左足の指先がタンクの壁に当たっているような気がし始める。
だが、動かしてみてもどこにも触れない。
また同じような気持ちになって少し指を動かし、また壁に当たっていないことを確認する。
それを繰り返しているうちに、以前やっていたバンドのライヴで舞台から落っこちたことを思い出した。
そのときの後遺症なのだろう。
自分のからだに耳を澄ますとは、こういうことなのだろうか。
タンクの中で確実性を持っているものは、止まることのない自身の鼓動と呼吸だけ。
その二つが、いかにも頼もしくも思えるし、頼りなげにも感じる。
「自分が生きている」というシンプルな事実を、こんなにもリアルに感じられたのはいつ以来のことだろう?

タンクの中でものを考えると、なぜか並列的な思考ができなくなった。
たとえば自分の将来について考えるとすると、「自分が本当にやりたいこととは?」「会社の将来性は?」「人間関係は?」「今の環境のどこがよくてどこが悪いのか?」などと、さまざまな条件を思いつくだけ並べて、それらにひとつひとつ自分なりの解をひも解くようなプロセスを取ることが多いはずだ。
しかし、タンクでは「将来を考えるには自分の過去を知るべきだ」→「では、自分はどんな子どもだったのか」→「小学生のときは赤面症だった」→「ではなぜ恥ずかしいと思うことが人一倍多かったのか?」→「物心ついた頃から親に期待されていたことを裏切るのが恐かったからだ」というように、思考が点と点を繋ぐように直線的になる。
そして、そのひとつひとつの問いと答えはやたらと明確だった。
年齢を経て陥りやすくなってきた「○○ということもあるし××ということもあって、それ以外の理由もあることも含めて考えると一概に断言できない」という、正確かもしれないけど曖昧で、結局何の進展ももたらさない日頃の物の考え方とはずいぶん違うクリアさにはっとする。

そうしているうちに、小学生のときに好きになった同級生の顔が思い浮かんだ。
さすがに彼女たちの顔は、もう何枚かの写真に残っている表情しか覚えていなかったのだが、そんな画像でしかなかった彼女たちが笑いだしたり横顔を見せたり口をとがらせたり、動画になって動き始めたではないか。

ディヴィヤムさんが1時間経過を知らせるベルを鳴らしてくれる15分ほど前からだろうか、やたらと肩が凝り始めた。
日本に戻ってくるだけでなく、神奈川に住んでいる弟夫婦を訪ねるときにも重い鞄を背負い続けていたせいだろうか。
気になり始めると、凝りはすごいスピードで増幅してくる。
だが、ふと気がついた。
これは頭部を水中に沈めまいと、知らず知らず首に力が入っているのだろう。
その失敗談は、バンコクでタンク体験談で数多く読んだ。
えーっと、初心者の人はどうすればいいって書いてあったんだっけ。
思い出して、両手を頭の後ろで組む。
楽になって、しばらくぼーっとしていると、ベルが鳴った。

タンクを出ると、水面から浮いていた顔やお腹に結晶ができている。
シャワーで塩分を落とし、ディヴィヤムさんの座っている丸テーブルに腰を下ろして、彼が勧めてくれたマルボロに火をつけて少し世間話。
気がつけば、タンクに入るまでに身構えていた自分がすっかりほどけている。
ディヴィヤムさんとの英語を用いての会話に感じていた日本人的なコンプレックスが、雨上がりのようにきれいに洗い流されている。
初めて会った人の家にお邪魔しているという緊張がほとんどなくなっている。
「また来ます」と、春爛漫の陽光の下、僕はディヴィヤムさんと握手を交わして別れた。

それから、不思議なことが二つばかり。
真如堂からそこそこ近い哲学の道で満開の桜を写真に撮っていると、賑わう観光客の声の中にタイ語が聞こえた。
せっかくなので、その声の主二人に「タイ人ですか?」と声をかけてみたら、二人ともどこかで見た顔だった。
でも、どこで会った誰なのか、まったく思い出せない。
二人も「以前に会った」とは口にしなかったし、僕もそんなことは訊かずに別れた。
京都からの帰り、京阪特急で居眠りに落ちる少し前に、隣の席に女性が座るのが目に入った。
そのまま僕は眠りに落ち、夢の中ではその女性が長らく会っていない女友達に変わっていた。
次の約束があって、僕は大阪のカフェで友人と会っていたが、話している途中で、夢で見た女友達がそのカフェにやって来た。
こういうのがシンクロニシティーなのだろうか。

衝撃とまではいかないが、たしかにアイソレーション・タンクは興味深いものだった。
ただ、初心者が本当に潜在真理に到達するような体験をするのは4回目以降あたりからが多いらしい。
来年また、あの門をくぐって、自分に会う散歩に出てみたい。


アイソレーション・タンクについてのHP
   http://www.jinsei.net/isolationtank.html#01
ディヴィヤムさんのアイソレーション・タンクに入った人の体験記
   http://yattemiyou.net/archive/isolation.html



※ 残念ですが、2010年現在、ディヴィヤムさん個人所有のアイソレーション・タンクは故障してしまい、修復の見込みはないそうです。









クレット島 2009年3月15日(日)

車がいないことが、こんなにも人間をほっと安堵させることを、生まれて初めて知った。
大人の歩幅にして3歩ほどしかない道が、この島の外周を巡るメイン通り。
風を感じながらぼんやり歩いていても、鮮やかな夕日にカメラを向けても、身の危険を脅かすようなものの訪れる気配がない。
澄んだ空気と、こじんまりとした愛嬌のある建物と、人々の笑顔。
屋台の店先で、仏塔の脇で、寺の境内で、さっき知り合ったばかりの人たちが、旧知の仲のように声をかけてくれる。
心が洗われるとは、こんな感覚を言うのだろうか。
複雑にこんがらがった生活のモヤモヤが泡立ってかすんでゆく。

クレット島はバンコクの北、チャオプラヤー川の巨大な中洲の島である。
島民の多くは、プラプラデーン散歩のときにも紹介したモン族の人々。
ビルマ(ミャンマー)から移り住んだ彼ら・彼女らがいる地域は、政府が積極的に開発に乗り出さなかったことがかえって今日、昔ながらのコミュニティーを温存する結果を生み、ここクレット島はバンコクからのワン・デイ・トリップ客を呼び込む名所となっている。
陶器の里として知られ、あちこちで素焼きが売られているほか、煉瓦造りの窯をちらほらと見かける。
この窯の様子がまた何ともいえずかわいらしい。

先に述べたように、クレット島の道はどこも「路地」と呼ぶのが正しいくらいのものである。
自然とそこを行き交う人たちとの距離が縮まり、息遣いが聞こえるような気がする。
行く先で、彼ら・彼女らの会話の中に「コン・イープン(日本人)」という単語を聞きとる。
「そうです、日本人ですよ」僕は振り向く。
お互いの笑みが漏れる。
「旅行に来たの? それとも仕事?」
「タイにはどれくらい住んでいるの?」
「ここにはひとりで来たの?」
タイに暮らしていると幾度も繰り返されてきた問いが、ここではなぜか夕暮れ時の柑橘色をした温もりをもっている。
おざなりではない体温をその一言一言が持っているのが、彼ら・彼女らの表情からはっきり見て取れるからだ。

横町のような街並みには、僕らのノスタルジーをくすぐる「いつか見た場所」の感覚がある。
そう、既視感、デジャヴ。
街灯がともり、空の青が限りなく黒に近づき、裸電球から漏れる光が細い道に横たわり始めると、その思いはますます色濃いものになる。
こじんまりした愛嬌のある建物たちにも小さな明かりがともり、虫のように、その下に人が集まってくる。
あるいは、僕らはこんな街角を夜な夜な夢に見ているのだが、朝になってきれいさっぱりと忘れ去ってしまっているだけなのかもしれない。

実は、クレット島を訪れるのはこれで2度目になる。
だが、2年前にやってきたときには、タイのあちこちがナーム・トゥアムになっていた。
この「ナーム・トゥアム」というのは洪水のことだが、日本語に直訳してしまうと何だか恐ろしげな響きになってしまう。
たしかに川が増水し、道路や、ときによっては家までが浸水するのだが、タイの川はえてして流れがゆったりしていることと、日本のように高い堤防で隙間なく囲った川が決壊するというわけではないところから、鉄砲水にやられたり建物が流されたりすることは少ない。
川になった道路で、臨時アルバイトのお兄ちゃんたちがゴムボートを出してくれることもあるような、あくまでのんびりした雰囲気なのだ。
2年前のクレット島は、水浸しになっていた。
そこでしかたなく、ボートで島をぐるりと一周してもらって、土産物屋に立ち寄っただけで帰って来たのだった。
ただ、土産物屋の女の子たちが優しかった、そんな印象しか残っていなかった。
※ 2011年に大洪水が起こり、世界第4位となる経済被害をもたらす大惨事となった。その時まで、僕は洪水被害の深刻さがいかなるものなのか把握していなかったことをお詫び申し上げたい。

古銭の露天商のおじさんに説明を受けていると、マッサージ屋のおばちゃんがタイ語を話す日本人の様子を見に来た。
クレット・プット公園(コミュニティー・センター)ではクレット島の集落の伝統と花を紹介していて、管理人らしきおばさんは「ゆっくりして行きなさいよ」とニコニコしていた。
住職さんがなくなったという寺で葬儀の準備をしていたおじさんたちは、9時から始まる儀式を見ていきなよと勧めてくれるが、渡し船の最終便を尋ねると「それも9時だね」と笑った。
仏塔の近くまで来てすっかり夜になったとき、「まだいたの? 渡し船の乗り場はそっちじゃないよ」と声をかけてくれたのは、夕方に乗ったバイク・タクシーのお姉ちゃんだった。

「サワディー・クラップ」「サワディー・クラップ」(「こんにちは」「こんにちは」)。
この島を歩く人たちに言って回りたいような、こんな気持ちになるのは久しぶりだ。
夕暮れ時を狙っての散歩だったので、宵闇が迫って時間切れになったしまったのが残念でならない。
今はただ、とにかく早いうちに、もう一度あの場所にこの足で立ちたい。
そんな気持ちだけが島めぐりのようにぐるぐる回っている。









ワット・チェディ・ホイ 2009年2月8日(日)

発見された貝塚から出土した牡蠣の貝殻を積み上げて仏塔を作った寺が、バンコクから日帰りで行ける位置にあることは知っていた。
地図で調べてみると、パトゥムタニーのはずれの、もう少しでアユタヤーに入るところにあることが分かった。
ネットで少し調べてみると、「仏塔が非常に臭かった」とある。
相当な年月を経たのであろう牡蠣殻がどんな臭いを発しているのか、これまでとはまったく違う種類の興味がわいてきた。
さっそく行ってみることにする。

位置的なことから、アヌサワリーでバスを探したが、まずパトゥムタニーまで至るバスがない。
バスの車掌さんが「ロット・トゥーを探したら?」と教えてくれたのだが、ロット・トゥーの方も「あっちにあるよ」「いや、ここにはない」とたらいまわしにされる。
そのうち、「そこそこ近くまで走るから、そこでタクシーを拾った方がいい。乗り継ぎで行ったら、たぶん3回以上乗り換えが必要なはずだ」と、親切に教えてくれるロット・トゥー運転手さんが現れ、ようやく出発。
助手席と運転席の間に座ることになり、足の置き場に困りながら、手渡しで集まってきた運賃をドライバーのおじさんに渡す。
タマサート大学前で「ここだよ」と降ろしてもらって、そのバス停前に1台だけいたタクシーに乗りかえた。
ロット・トゥーのおじさんが「100バーツちょっとで着くよ」と教えてくれたのだが、実際には200バーツ以上かかる、けっこうな距離。
大通りに寺の案内板を見つけ、運転手のおじさんも僕も「そろそろ到着かな?」と思っていたら、表示板に「あと9q」の表示があって、思わずバックミラーで目があって笑う。
帰りの足が非常に心配なのだが、そこはタクシーのおじさんが待っていてくれると申し出てくれた。
商売だと言われればそれまでなのだが、タイのタクシーは気軽に声をかけてくれるところがあって助かる。

仏塔の貝殻は、固めたりネットをかけられたりせず、そのまま積み上げられていた。
思ったよりも大きな牡蠣殻を、参拝客のタイ人たちは手に取って眺めている。
仏教関係のものだからか、持ち帰るような人がいないみたいで、こういうのを見ると、人の善意を信じることができて嬉しい。
周辺にはやたらと犬・猫がいるが、それだけではない。
この寺では亀や魚・鳥なども飼われており、生き物との触れ合いの場ともなっている。
中でも大きな亀に餌をあげる子どもたちとのやりとりは見ていて飽きない。

傍らにオープン・エアーになったタイ・マッサージの小屋があって興味を惹いたのだが、友人から誘いの電話があったのでバンコクに戻ることにする。
タクシーに戻り、ランシットフューチャー・パークまで送ってもらった。
おじさんは僕を待っていてくれた間、メーターの電源を落としていたので、100バーツ足して渡したが、「いや、こんなにもかかっていないよ」と笑って受け取らなかった。
こういう人が、バンコクを少しでも離れると、たくさんいる。

ところで、ワット・チェディ・ホイの牡蠣殻仏塔は、乾季だったせいなのか、まったく何の臭いもしなかったのだった。









マハーチャイ〜メー・クローン 2009年1月18日(日)

日曜の午前中に出かけるのは久しぶりのことだ。
正月にチャンタブリーを訪ね、シーフードに舌鼓を打ったことが、僕の背中を押してくれた。
おいしい海鮮タイ料理を食べたい。
マハーチャイの渡し船の船着き場には、その名も「ター・ルア・パタカーン(船着き場レストラン、というそのまんまのネーミング)」というレストランがある。
以前、ウォンウィエン・ヤイ駅の近くに住んでいた頃は、10バーツ(約3円)払ってひなびたローカル鉄道に揺られ、オースワン(牡蠣の玉子とじ)をよく食べに行ったものだ。

この路線については、少し説明したい。
バンコクには始発駅が3つあり、ほとんどの列車は「バンコク中央駅」の名でも紹介されるホアランポーン駅から出発するのだが、西行き路線・南行き路線の一部はトンブリー駅(旧バンコク・ノーイ駅)から出る。
そして、このウォンウィエン・ヤイ駅からマハーチャイまでの路線は、ほかのタイ国鉄のどの路線とも繋がっていない。
窓も扉も開きっぱなしのディーゼル各停列車が1時間の路線を往復しているだけである。
このマハーチャイ線は、終点のマハーチャイで降りてター・チン川を渡し船で越えた向こう岸のバーン・レーム駅でメー・クローン線と連絡している。
河口にそこそこ近いところにマハーチャイはあるので、船舶の乗り入れの関係で、そんなに背の高い鉄橋を作ることができなかったのだろう。
メー・クローン線はこののち、やはり1時間ほどでメー・クローンに到着する。
この駅周辺の市場は、列車の線路のぎりぎり脇に商品を並べるため、列車が近づくと慌てて商品を片づけるという風景で、近頃多くの人に知られるようになってきた。
ただ、僕はこれまでメー・クローンに降り立ったことはなかった。
何度も行こう行こうとは思っていたのだが、マハーチャイ線に便数が思ったよりもあるのに対し、メー・クローン線には1日4本の往復しかない。
今回は、そのメー・クローン線に初めて乗ってみようと思っていた。

まず、タクシーでウォンウィエン・ヤイに出る。
雑多な風景の中に突然線路が現れる佇まいは変わらない。
時刻表を見ると、次の12時15分発のマハーチャイ着が13時10分。
そして、バーン・レームを列車が出るのが13時半である。
あまりに連絡がよすぎて、マハーチャイで昼食をとっている時間がない。
それに、次の便までには1時間以上もある。
バスで先にマハーチャイに到着して時間を稼ぐことを考え、インタラピタック通りに出たが、急にトイレに行きたくなって、メリー・キング・デパートまで戻った。
ところが、ここでトイレを借りようと店員さんに場所を尋ねると、なぜか「ロビンソン・デパートまで行ってください」と言われる。
ウォンウィエン・ヤイ・ロータリーをぐるっと回った恰好で歩いたので、けっこう時間がかかってしまった。
こうなれば、タクシーの力を借りよう。

タクシーはクルン・トンブリー通りをひたすら西に走り、終点になるとエカチャイ通りに入った。
会社の車を借りて何度かマハーチャイに向かったときにはいつもプラ・ラーム2通りを使っていたので、車窓がやけに新鮮に見える。
飛行機からバンコクを見降ろしたときには目にするのに、日頃の生活ではまったく見かけることのない、幹線道路に沿って掘割が走る道に旅情がかきたてられる。
メーターを使ってもらって、250バーツ程度でマハーチャイの船着き場前に降ろしてもらった。

レストランで、ホイ・クレーンパォと、最近病みつきになっているホイ・マレーン・プーモー・ディンを頼む。
この味だったら、チャンタブリーにも負けず劣らずだ。
ホイ・マレーン・プー・モー・ディンは特に、絶妙な量の唐辛子と出汁の絡み具合がよく、貝そのものの味もよく出ている。
まだ風が気持ちいい季節で、箸もどんどん進む。

食後、対岸に渡って、急ぎ足にバーン・レーム駅に向かう。
そのとき初めて気づいたのだが、履き慣れたスニーカーの底にひびが入っていて、靴底の口が開きそうになっている。
ショックだが、まずはそれよりも、列車に乗らなければ。
どうにもならなくなってきたら、メー・クローンでサンダルでも買おうと、気を取り直す。
ただ、時間がない。
途中、念のために寺の近くでたむろしている人たちに駅の方角を確かめると、「今日は列車が壊れてしまってて、走らないよ」との答え。
脱力しながら、とにかく駅に行ってみる。
構内に入ると、たしかに線路の先で車両をジャッキ・アップしていた。
駅員さんに尋ねると、夕方4時台の発車には間に合うというが、「向こう岸に戻って、ロット・トゥーに乗った方がいいよ」と場所を教えてくれた。

日差しの強さは最高潮に達している。
乾季とはいえ、今日の気温はけっこう高い。
靴がへたりかけていることを口実に、またもやタクシーに。
これで結局、メー・クローンまでタクシーに乗り継いで辿り着くことになった。
どこまでも軟弱な散歩である。

いつの間にか居眠りしていて、膝をたたかれて起きたらメー・クローンだった。
さっそく線路に商品の居並ぶ市場に突入。
思ったよりもその距離は短いようだが、人いきれが激しく、見たこともない魚が並んでいて目移りするうえ、両側から張り出したテントを支えるパイプが突き出しているのをかわしながら歩くため、線路の上を歩いている間はけっこう長く感じる。
実際に珍しい魚が多いのだろう、タイ人のおばちゃんたちが「これはなんて言う魚?」との言葉があちこちで聞かれる。

そうこうしているうちにメー・クローン駅に出てきた。
改札を覗いてみると、「今日の列車は出ません」との張り紙が。
メー・クローン駅の最終の発車時刻は、バーン・レームよりも早い15時半である。
たしかにこれでは運休になるだろう。
とりあえず、駅を越えてメー・クローン川に出てみた。
対岸への渡し船は、マハーチャイのそれよりも立派だが、どうも川の流れが速いようで納得。
川沿いでは夕涼みの時間からの食事に合わせて、テーブルを並べ始めている。

靴を気にしながら街をぶらぶらと歩いて、日が柔らかくなりかけてきたところでバイク・タクシーのおっちゃんに「写真を撮るのにいいところはない?」と訊いてみると、彼はバンコクへ向かう大通りに出た。
ヘルメットをかぶらないでバイクの後ろに乗っかっていると、また「遠くへ来たなぁ」と感じる(バンコクでは大通りに出る場合、必ずヘルメットを着用しなければならなくなっているのだ)。
着いたところは、海だった。
ドン・ホイ・ロートというこの海岸は干潟になっており、潮干狩りを楽しむ人たちのほか、夕涼みに出てきた若者や家族連れの姿が黄昏ゆく光に眩しい。
写真を撮っていると、若者たちのグループが面白がってポーズをとってくれる。
若い女の子たちも泥を気にせず貝集めにチャレンジしている。
何年も前から変わらないのだろうなという風景が、潮風とともに心地よい。

帰りのロット・トゥーに押し込まれて車窓を見ながら思う。
やっぱり、旅というのは移動に醍醐味がある。
ポイントを回ることではなく、そのポイントを含んだ移動すべてに旅がある。
だから、こんな小さな日帰り旅行にも、しっかり旅の要素がエッセンスが残るのだろう。

到着したバンコクのアヌサワリーは、「僕はこんなところに住んでいたのか?」と訝るほど大都会だった。









チャルンクルン通り サパーン・タークシン〜ホアランポーン 2008年12月21日

散歩にうってつけの乾季。
分かってはいたが、このところ出不精が続き、なかなか散歩に足が向かなかった。
長いつきあいだったタイ人の彼女と別れて以来、タイに特別な感情を見出しにくくなってしまったのだ。
民族間のギャップに疲れていた交際から自由になってみると、日本人どうしの感性のフィットする密なコミュニケイションがとても大切な気がしてくる。
いったんそうなってしまうと、タイにいることへの疑問が毎朝繰り返されることになる。
彼女がいなくなって、こんなにも彼女の存在が僕をタイに繋ぎとめてくれていたのかと、改めてしみじみする。
見える風景の映り方までが、すっかり別のものに変わってしまった。

それでも、なまったからだを動かすことは大切だ。
エクササイズのつもりで出かければいい。
これまで、僕は人や街とのふれあいを最大限に受け入れたくて、散歩のときにはいつでも人としゃべれるようにしていた。
エクササイズなら、ということで、今回僕は、終始耳にイアホンを突っ込んで、ひたすら音楽を聴きながら歩いた。
そんな散歩があってもいい。

チャオプラヤー・エキスプレスに乗ろうかと思ってBTSサパーン・タークシン近くでタクシーを降りた。
年末に近く、ロビンソン周辺は道行く人々でごったがえしている。
いや、この周辺はいつでもこんな調子だった。
噂にはこのロビンソンが営業をやめたと聞いていたが、まだ健在である。
どこかでシーロム通りのロビンソンと聞き間違えたのかもしれない。
なぜか、少しほっとする。

このまま歩き続けたくなり、夕陽の落ちたチャルンクルン通りを進んだ。
ソムチャイ内閣崩壊による選挙ポスターのあふれる道は、2006年のクーデター以来、幾度見かけたことだろう。
並走するチャオプラヤー川に沿って林立する高級ホテル群をはじめとして、この周辺には宿泊施設が多く、シー・プラヤー通りあたりまでは時代を感じさせる二階建て長屋の庶民的な店に混じって、ところどころにモダンなアート・ショップや骨董品を扱う店がある。
その比率と同じくらいに、場違いな雰囲気を醸し出している西洋人の姿があり、不思議な気持ちがする。
かつてのタイ随一の大通りは、モータリゼーション社会になって渋滞の名所の一つになったようだ。
大型バスが強引に走り抜けてゆく。
そして、排ガスの臭い。

シーロム通りを越えると賑わいが次第に減ってゆく。
シー・プラヤー通りを過ぎると、閉まったシャッターが目につくようになる。
中央郵便局の前をやり過ごし、クルン・カセーム運河の橋まで出てきた。
ここから先は僕の進行方向とは逆の南行き一方通行である。
そして、西側は運河となっているので、さらに夜闇が強くなる。
東側にも商店の明かりがほとんど見られなくなった。
ただ、ところどころにベンチが置かれ、夕涼みに出てきたタイ人たちが煙草をふかしたり寝転んだりしていて、和やかな雰囲気だ。
運河の向こうには、木造の家から明かりが漏れ、緩やかな時間が流れているのが見て取れる。
いつしか、排気ガス臭はほとんどなくなり、沈着したドブの臭いがしている。
子どもの頃、団地の裏手にあったドブのことが脳裏をかすめる。
以前は日本にも、この臭いがあった。
やおら、夜風がチャルンクルン通りを吹き抜ける。
そのあたりをさらに突っ切ると、とうとう電飾に浮かび上がるホアランポーン駅が見えてきた。

ひとまず目的地に着いたような気分になるが、足の方はまだどこかへ歩きたがっているようだ。
乾季には暑さや湿気による体力の消耗がないことが、身をもって実感できる。
ホアランポーン駅前のプラ・ラーム4通りからさらに1本手前の橋を渡り、通りへ入ってしばらくゆくと、見覚えのある風景に出くわした。
どうやら、今年の2月に歩いたソンワット通りに入っていたようだ。
今回はソンワット通りをひたすら西に歩いた。
そして、道がT字路で終わっていた。
ラーチャウォン通りに出たようだ。
すぐ南はチャオプラヤー川の船着き場で、北にはヤワラート通りのネオンが見える。

iPodのランダム演奏は、ちょうど30曲目に入っていた。
たっぷり30曲ぶん、BGMの中を歩いた。
ヴァーチャル散歩のような手触りがする。
ただ、好奇心を半開きにしかできない自分の姿であっても、正直に書き残したほうがいいと、僕は思う。
無理をしたよそ行きの嘘は書きたくない。
人間万事塞翁が馬。
きっと、今日の散歩を懐かしく思い出す日もくる。









ジョムティエン・ビーチ 2008年10月22〜24日

改装した中華系タイ料理店のレンキーで昼食をとり、ジョムティエンまでのソン・テウを求めてパタヤー・サーイ3に出たが、この道にはまったくソン・テウが走っていなかった。
サーイ3は海辺から遠く、まだ開発の手の及んでいない道である。
まだ高い日の下、僕はタイ人の友達と、流れるにまかせて汗にまみれていた。
プライドが許さないのだろうか、一度歩くと言い出した友人は、その言葉を撤回する気はないらしい。
僕らは黙って、日陰も少ない道に歩を繰り出しつづけた。

濡れたTシャツで腹が冷えたのだろう。
くだしかけているのがわかり、近くのレストランでトイレを借りると、出てくる僕とすれ違いに、友達がチップを払ってくれている。
こういうメンツを、タイ人は重んじる。

眉にたまった汗が目に入って涙が止まらなくなった頃、ようやくパタヤー・ターイ通りに出た。
ここから海に向かう途中に、ソン・テウ乗り場がある。
現金な僕は、足取りが軽くなる。

ソン・テウに揺られているうちに、車内で大声を出すタイ人のおばちゃんと、それをたしなめる白人のやり取りがエスカレートしてくる。
白人は唇に人差し指をたてて「シーッ!」と繰り返すだけなのだが、そのたびにおばちゃんが声を荒げる姿を、車内のだれもが見て見ぬふりでやり過ごしていたが、やがて白人のおじさんは普通にソン・テウを降りていった。
まったく赤の他人だったのだろうか。
あのおじさんは車内を代表して、公共道徳を破る者に常識を伝えたのだろうか。
傍観者でしかいられない僕たちアジア人には、「どうだったんだろうね?」と耳打ちし合うことしかできない。

日が傾きかけたジョムティエン・ビーチはやさしい柑橘色に彩られていた。
喧噪のパタヤー・ビーチからやってくると、空気が緩むのが分かる。
砂浜の遊歩道を歩き始めると、僕らは誰からともなく、冗談をとばして笑顔をこぼすようになる。
途中のコンビニで水やビールを買い、犬と戯れ、ふざけた看板を写真に撮り、今度こそ心地よい汗を流して、僕らは歩き続けた。
ストレスや不摂生でからだにたまったものが流れ出てゆく。
海はすべてを知り、すべてを包み込むように広がっている。
懐かしい何かを思い出させてくれるような感覚。
その正体を知りたくて、深呼吸してみる。

日が落ちると、僕らはまた無言で帰りのソン・テウに乗り込んだ。
今度は、何も言わなくても同じものが胸に去来していることの確信に満ちた、風のような沈黙が二人だけの車内を満たしていた。









パクセー(南ラオス) 2008年8月10〜18日

パクセーを訪れるのは、これで3回目になる。
この3度目というのは、僕が感じるには、大きなポイントとなるところだ。
1度目は初めての土地だという興奮に包まれ、2度目はその敷衍を楽しめるのだが、3度目にはその場所が現実的に見え始めるからだ。

原油価格高騰のせいで、どこか郊外の名所に出かけるには個人旅行者は不利なので、今回は徹底して街歩きをすることにした。
これまでの2度の訪問ではわからなかったのだが、雨期に晴れ上がったパクセーの街は、目に痛いくらいの光に包まれている。
山にある街ならではの、光と影の鮮明なコントラスト。
日なたに出ると、やはり暑いというより、肌が少し痛い。
そして、なにより街にやさしい空気が充満している。
タイでは「サワディ・クラップ(こんにちは)」という挨拶をあまり聞かないが、ラオスでは見知らぬ異邦人である僕たちの顔に「サバーイ・ディー(こちらはラオ語の『こんにちは』)」と、あちこちから声がかかる。
そんなときのラオス人たちのシャイな笑顔に応え、この挨拶をするたびに、自分がなんだか清められてゆくような気分がする。
朝のバゲット屋で寝ぼけた目をこすりながら、昼下がりのカフェで散歩の汗を拭きながら、夕暮れの食堂でカォ・ニャオタム・マーク・フンを平らげながら、
「サバーイ・ディー!」
ひと筋の涼風が吹きぬける思いがする。

ある午後、レンタ・サイクルでパクセー空港へ向かった。
「自転車で空港に行ってみる」というのが、なんだか素敵なことのように思えたのだ。
案内所いわく「ここから5キロ」なので、ちょうどお手ごろ。
まず、フランスがセードン川に架けた橋を渡るが、狭い歩道側を行くと、反対側からリヤカーがやってきて、行く手がふさがってしまった。
すると、男たちが僕の自転車を持ちあげ、バケツ・リレーのようにリヤカーの上を受け渡してゆくではないか。
「コープ・チャイ(ありがとう)」
男たちの満面の笑顔。
途中立ち寄った市場では、位置に注意しながら何かしら新しいシールをバイクの車体に貼りつけているおじさんがいて、ここでもまたもやサバーイ・ディーと声をかけてみた。
おじさんはどうやら、車検証明シールを貼りつけていたらしい。
それがとてもうれしいことのようで、僕にも、顔見知りの買い物客にも自慢の種になっている。
空港はもう業務を終えていた。
ただひとつ、ラオス・エアの窓口だけに小さな明かりがともっていたが、中はもう真っ暗。
ミニチュアみたいなパクセー空港は、やはり自転車で来るのにもってこいの場所だったと、ひとりおかしな悦に浸る。
帰り道、自転車のチェーンが外れたのだが、のちに日本人旅行者の方から聞けば、多くの人が子のチェーン外れを経験しているそうだ。
日が暮れるまでの間にいい汗が流せたが、サドルのせいでやたらと股や尻が痛い。

ある朝、メコンの川べりを歩く。
日本のODAで架けられた大橋にはやはり日本の設計らしさを感じるのだが、これがラオスの風景とマッチして見える。
海抜ゼロメートルの平野がどこまでも続くバンコクに住んでいて思うのは、山が見える生活は心が落ち着くということ。
平野部がさほど広くはない日本では、日々の生活に山を見かけているはずだ。
山国であるラオスに日本の橋が似合って見えるのは、僕が日本人だからなのだろう。
しばらく行くと、川に水没したように見える小屋が見えてきた。
なんだろうと思って尋ねてみたが、うまく通じない。
そのすぐ横手で、若い女が水槽に網を入れている。
プラー・ニンが入っているらしい。
車を降りてビニール袋に詰めてもらった魚を抱えながら、また車は去ってゆく。
そのすぐ近くに新しいボーリング場が建っていた。
午前中から客などいないだろうと思っていると、ラオス人の4人組がわいわいやっている。
その2階は映画館だ。
このパクセーもぐんぐん変化してきている。
でも、ボーリング場で会った人たちも見せる、この笑顔の質感だけは、まだ変わらない。

ある夜、バイク・タクシーの兄ちゃんに連れられて、ビールを飲みに出かける。
誰かの誕生日らしく、酔いどれたちの歌が、静かなはずのラオスの夜に響きわたる。
やがて、その歌声に大きな拍手を送るようにスコールが来た。
店は一気に雨の匂いに包まれる。
雨音が少し和らいだのを見計らって、僕らは店を出たが、ほんの10メートルほど進んだところで、雨宿りしなければどうしようもないほど、また勢いがぶり返す。
ちょっと待ってみるが、このままではどうしようもないことは、彼のも僕にも分かっているので、やがて黙ってバイクを出す。
僕らを打つ雨粒は肌に痛いが、そんなことにはもうおかまいなしだ。
坂道は川になっているし、そこを下りきると交差点は水たまりと呼ぶには深すぎるけど、そんなことだって、もう僕たちにはどうだっていい。
耳の穴まで濡れ切った僕らは、ホテルの前でバイクを降りたとき、笑顔だった。
ほろ酔いなどとうの昔に洗い流されていたが、雑巾のようになったジーパンの水を絞りながら、僕は鼻歌を歌っていた。

ある夕暮れ、たまたま知り合った日本人旅行者の二人とセー川に沈む夕陽を見ていた。
この時間を体験することは、仕事を持つ男にとって、なかなかの贅沢だ。
職場に缶詰めになる毎日の生活ではもちろんのこと、たまの休日に、はたして僕はどれだけ「夕陽が落ちていくさまを、ただ見守るだけ」の時を持ちえただろうか?
知り合ったばかりの僕らは、ぽつぽつと言葉を交わしたが、どんな言葉も、その黄褐色の空と大地と川に瞬時に吸い込まれ、ただのBGMにすらならなかった。
僕らは一緒に夕陽が落ちるのを見た、ただそれだけですべての説明がついた。

パクセーは、相変わらずパクセーだった。








パトラーイ通り〜ヤォワパニット通り〜ソンワット通り〜ター・ディンデーン通り 2008年7月27日(日)

ヤワラート通りがソンサワット通りと接している四つ辻――今年2月3日に散歩日記に書いた終着地――でタクシーを降りた。
今日はここから、前回の散歩の「歩き継ぎ」をするつもりなのだ。

カラー・タイルが敷き詰められたパトラーイ通りは、この四つ辻をソンサワット通りに入ったすぐ右手にあり、ヤワラート通りと並走している。
オレンジの街灯の下、上半身裸の老爺たちがお互いに会話に花を咲かせるでもなく食堂やら街路にたむろしており、その喫煙率の高さはちょっとした驚きだ。
古いコロニアル風の二階建てに漢字の看板が並び、ペナンのジョージタウンに迷い込んだような錯覚に襲われる。
中華系の老爺たちはカメラを片手の闖入客にも「我関せず」といった風情で、こちらの手触りもマレーシアと共通している。
広くない道には両脇にびっしりと駐車。
活気があるのに不思議に淀んだこのあたりの雰囲気は独特だ。
わずかな隙間を見つけると、懐中電灯を持った男が誘導する。
彼らはどこかの店の従業員ではない。
駐車案内をして幾許かのチップを受け取ることを生業としている男たちだ。
だから、彼らの誘導どおりに車をとめたところで駐車違反に変わりはないが、その一方で彼らは管轄の警察にお目こぼし料も払っているので、取り締まられることがないという寸法になっている。

ヤワラート通りには出ないように歩を進めてゆくと、急にひっそり閑とし始めた。
それでもまだ、閉店した店の小さな窓からは中国式の茶器が顔をのぞかせ、漢方薬の匂いが道に漂っている。
オレンジ色の街灯が人気のなさに温かみを加えているのが救いだ。
しばらく行くと、大きな通りに出た。
そこはラーチャウォン通り。
左手の、船着き場のランプに手繰り寄せられるように行きついた。
このあたりの雰囲気は、ほかの船着き場ととてもよく似ている。
バスの終着地として、数台のバスが眠ったように停車しているあたりも含めて、たとえばシー・プラヤー通り船着き場あたりとは瓜二つである。

小さな船着き場から渡し船に飛び乗り、ほんのわずか、川風に揺られる。
乗客はだれも無口で、無声映画のフィルムに紛れ込んだような錯覚にとらわれる。
渡し船は観光船らしいネオンで飾られた船をうまくかわし、対岸のター・ディンデーン通りに出た。
こちらもシリラート病院に近いワン・ラン船着き場周辺とそっくりだ。
タイではこうしたデジャヴによく出会う。
こちらは広い通りで、歩道も充分なスペースがあって、歩くのには都合がいいが、ヤワラート周辺からやってくると、あまりに何のとりとめもなくごく普通のタイの下町になっていて、歩いていても印象がない。
人々の僕を見る目に少し好奇心が宿りだす以外には、金太郎飴のような風情である。
こういうとき、道が広いと徒歩の速度が緩慢に感じられて、「自転車があったらなぁ」などと、気分がそれてしまう。
今回の散歩は、歩き継ぎのスタートが独自の雰囲気を誇る中華街であったことで、気持ちをそっちに持っていかれたままのようだ。

今日の散歩はソムデット・チャオプラヤー通り沿いの運河に出たところで終わらせることにしよう。
またいつか、この先を歩く日が来て、その先に巡り合える何かに胸を弾ませることもあるだろう。









プッタモントン 2008年7月13日(日)

以前から気になっている場所があった。
タリンチャンからナコーン・パトム方面にさらに行くと、正方形のかなり大きな施設が目につく。
仏像の絵と寺の名前が書かれているので、そこが宗教的な場所であることはわかるが、それ以外のことはすべて固有名詞でしか紹介されていない。
スワンナプーム空港が使用され始めてからは見かけなくなったように感じているが、以前国際便の離発着がドンムアン空港だったとき、飛行機の窓から素晴らしく大きな公園のようなものを何度か見かけた記憶があった。
地図を見た瞬間、それがここではなかったかと、気になり始めた。

僕の住んでいるスクンヴィット・エリアからのアクセスだと市街地を越えて郊外へと続くコースになるので、タクシーで乗りつけることに。
乗ったタクシーのお兄ちゃんは、できるだけ無料の高架道路を選んで走ってくれて、道をよく知っているドライヴァーだったが、スピードにおいてはサーヴィス過剰だった。
タイではこうしたスピードの出しすぎには慣れているが、今日のお兄ちゃんは130キロを超えるメーターを記録し、さすがにちょっと腰が引ける。
漫画で見るような、強引に車線を次々入れ替えての、カー・チェイスのような走りっぷりで、ついにはパトカーまで後ろから煽りつつ、ごぼう抜きにしてしまった。
タイの警察は管轄外の仕事には手を出さないので、こうしたことがごく普通に行われる。

高架から見る風景がずいぶん郊外のそれになっても、タクシーはひたすら西へ進んで、ようやくプッタモントンにたどり着いた。
途中、お兄ちゃんのあまりの疾走を緩和する意味もあっていろいろとプッタモントンについての情報を訊いてみたところ、この地のことを知らないタイ人はいないという。
それほどまでに有名な場所なのだが、ガイドブックでは見かけたことがない。
プッタモントンは巨大な公園で、大きな仏像がランドマークとなっている。
公園内に車で乗り入れることができるのだが、それは頷けた。
あまりに広大すぎるのだ。
これでは血迷って暑季の昼などにここを訪れたりした場合、そうとうまずいことになりそうだ。

仏像は確かに大きいが、圧巻というようなレヴェルの大きさには達していない。
しかし、タイではあまり見かけない日本風の穏やかさが漂う表情に、何だか郷愁を感じる。
周囲では来たるべきカォ・パンサーに備えて特設ステージの設置や礼拝所のペンキ塗り直しなどがあちこちで行われていて、夕刻に礼拝に来た人やおいしい空気を求めてきた人々の姿で賑わっている。
すれ違う子供たちが「日本人がいるよ。何をしに来たんだろう?」と母親に話しかけているのが聞こえる。
ここにいると、10年前も今も、タイには変わりがないように感じられてくる。

歩き回っていると、喉が渇いた。
気がつくと、目につく売店が園内に見当たらない。
蒸し暑い日で、さっきから噴き出しつづけている汗がTシャツにまだら模様を作り始めている。
とにかく、公園の外を目指そう。
だが、道行くおじさんに尋ねた出口は、なかなか見えてこない。
そのうち、ようやく薄暗がりの中に売店を見つけ、豆乳ひとパックを、ものの10秒ほどで空にする。
椅子に座っていると、汗が冷えて生気を取り戻し、その場所からはそう遠くないところでゴールが見えた。

おかしなことに、こうして散歩のようにゆったり構えた気持ちで出かけた先で予想していなかったハプニングにあくせくすると「やっぱり僕は異国の地にいたんだ」と確認できる。
帰りのタクシーで、心地よい疲れを抱えて、ドライヴァーのおじさんに膝をたたかれるまで、僕は心地よいまどろみの中にいた。









プラプラデーン 2008年6月16日(日)

今日の散歩には素敵な案内人がいた。
プラプラデーンに暮らしているPさんがその人だ。
この拙いHPをたまたま訪問してくださったのがきっかけで、「会いませんか」というメールをいただいたのだ。
お互いの都合がつかずにしばらくいたが、Pさんの日本帰国が近づいたころになって、ようやく実現にこぎつけた。

プラプラデーンは行政指導で「開発の手を入れないように」とのお達しがあったせいで、バンコク市街地から至近距離であるにもかかわらず、今でも背の高いビルがほとんどない、古き良き時代の面影をたっぷり含んだ地域となっている、とPさん、のっけから興味深いお話。
なるほど、前回の散歩日記のときに古き良き時代を思わせるなぁと感じていたのは、そういう理由だったのか。
中学の時に習った兼好法師の「少しのことにも、先達はあらまほしけれ」とは、当意即妙。

「どういうところを案内しましょうか?」とPさん。
これはこのまま、Pさんお薦めの場所にぶらり散歩を決め込む方が、ずいぶん楽しそうだ。
彼が推奨してくれた中には小さな水上マーケットがあって、ほとんどの客がタイ人らしいのだが、今回は僕の都合で落ち合う時間を午後にしてもらったので、それはまた次回のお楽しみとしよう。

市場から少し歩くと、ピカピカの産業道路環状線橋のプラプラデーン下り口が分岐しているその下にあるビルマ様式を思わせる建物に出てきた。
橋からも見えるので気になっていたのだが、この建物の半分はモン族資料館になっているとPさんは言う(残る半分は産業道路環状線橋資料館になっている)。
橋脚が下りているこの一帯は公園として整備されているが、もともとはモン族の多い地域だったところを、立ち退きがあったために建設されたらしい。
モン族といえばクレット島が知られているが、このあたりのモン族もずいぶん以前にノンタブリーから移ってきたそうだ。
こちらも開館日ではなかったため、後日回しに。

その場所から何か河口堰のようなものが目に入ったので歩いてゆく。
こちらも真新しいのだが、それもそのはず、産業道路環状線橋と同じ頃に完成したのだそうだ。
この水門はバンコクの洪水対策として王室プロジェクトが手がけたもので、海抜ゼロメートル地帯であるバンコクの水はけを何とか改善するために拡張された運河を堰き止めているのだった。
地図で確認した地形が面白かったので興味がわいたことから始まったプラプラデーン訪問だったが、チャオプラヤー川の大きな蛇行で半島の形になっているこの土地は、かなり短いながらもかろうじてプラプラデーン市場のある地域とつながっているから島にはなっていない。
それくらいに短い距離だから、降水が多いときには水門を開いて、流れを迂回させずにこの運河に引き込むことで素早く海に運ぶというわけだ。
実際、こういったプロジェクトのおかげで、近頃バンコクでは道路が川に近い状態になっているのを見かけることがめっきりなくなった。
プーミポン国王がここを視察に来るというので大騒ぎになった日があったらしいのだが、こちらは空振りに終わった。
警察も出てきていたのに、当日になっても「予定は未定」なのがやはりここはタイ。

バスに乗り、プラプラデーン半島?の先にある公園に向かうと、「開発の手が入っていない」というその土地本来の姿は、先に進めば進むほど色濃くなっていった。
このスリ・ナコーン・クアンカン公園はほとんど地元の人しかこない憩いの場となっている。
たまに有名人のロケハンがあったりするそうなのだが、ほんのたまにしか外国人の姿も見ない。
王妃がここを訪れることが決定すると、公園の補修がなされたそうだ。
その一環であろう、あちこちに苗木が植林されている。
ただ、木々にはどうにも充分な間隔が設けられていない気がする。
このままでは、成長した後には間引きしなければならなくなると、素人目には映るのだが、これは僕がタイ人を無計画な人たちだとあまりに決めつけている偏見から来るのだろうか?
この公園に足を運ばれる方がいらっしゃったら、ぜひご意見を聴かせていただきたい。
しかしそれにつけ、空気が柔らかく、しっとりと落ち着いていて、それがすっかり心を和ませてくれる。
体内でせわしなく秒針を刻むカチカチした音が消え、空の大きさに吸い込まれてゆく。
橋を渡ると、犬が池で行水しているのが見えた。
魚たちにあげる餌のパンを目当てにあとをついてくる犬の姿は珍しい。
そして、タイの公園内の池のご多分にもれず、ここでもひとかけらのパンに数十の口を開ける魚たちの水しぶきが撥ねる姿を見ることができる。
その近くの芝生に座って、僕たちはいろんなことを話した。
タイという土地に大切なものを気づかせてもらったり、励まされたり、慰められたり、腹を立てたり、吹き出したり、涙したり、理解に苦しんだり、呆れかえったり、そしてだからこそこの土地が好きになったりした僕たちには、そのわずかな時間の中では話しきれないことがいっぱいあった。

帰りがけ、公園への道の途中で、Pさんの知り合いのおばあちゃんから「寄って行きなさいよ」と席を勧められ、夕食や果実をふるまってもらい、緩やかな時間が流れてゆく。
店先の残光が消え、宵闇が一帯を包む。
おばあさんは「あの子たち、奥の部屋でゲームしてるんだよ。夜遅くまでやってて、学校ではどうしているものか」とこぼす。
日本人家庭と変わらないその嘆きに親近感を覚えるが、その子供たちがやがてこの国の一成人となる頃、彼はこの安穏とした空気感を慈しみ、愛でて、守ろうとしてくれるだろうか。

8時半ごろ、最終だというバスに乗って市場に戻る。
名残惜しく、そこで立ち話になるが、汲めど尽きないPさんとの歓談。
どうしてもっと早く彼と知り合うことができなかったのかと悔やみながら、小一時間ほどのちにタクシーに乗った僕の手には、Pさんがくれた「一期一会」と書かれたキーホルダーが握られていた。









ユニバーサル・スタジオ・ジャパン 2008年4月14日(月)

僕はまだ…年齢が年齢なので、「まだ」という表現はおかしいかもしれないが、東京ディズニーランドに行ったことがない。
大阪から遠いのも理由の一つだが、O-157が蔓延した年に起きた「事件」をいまだに根に持っているからだ。
その時、東京ディズニーランドに「堺市民専用駐車場」がお目見えした。
要するに、隔離だ。
日参する膨大な数の来園者への伝染を防ぐことは言うまでもなく重要なことだ。
しかし、疑わしきは囲い込むという、このファンタジー・ワールドのやり口に、僕はどうしても煮え切らない気持ちを収めることができないでいる。

大阪北港は、以前、夜のドライブに何度か出かけたことのある場所だった。
ドライブとはいっても、彼女を誘うでもなく、ひとりで車を走らせ、人気のない港や工場地帯をぶらぶらするだけの、ともすれば相当怪しい徘徊ではあったが。
大阪の港では、南港・大阪港・北港と北に行くほど寂しさの募る雰囲気があった。
そんな北港にユニバーサル・スタジオ・ジャパンが登場して、日本中のみならず、世界からの人々でにぎわっていることが、何ともしっくりこない。
会場では英語をはじめとするラテン語系の言葉・中国語・韓国語などが聞こえてくる。
ジュラシック・パーク・ライドの降り口では、タイ人とも知り合った。

入場料が高いなとは思ったが、館内では乗り物にも上映の入場にも追加料金はいらないので、かえって安上がりですらある。
それに、時期的に修学旅行生らしい学生服の一行をあちこちで見かけたことも追い風となり、園内には「ハレの日」の祝祭的な雰囲気があふれていた。
こんな表情でいる大勢の日本人を見かけることだけでも、入場料のもとはとれているだろう。

掲載した写真は、演者には失礼だが、園内では比較的地味な、ビートルズ・ナンバーをブラック・テイストに聞かせるステージ。
ヴォーカリストに促されて手拍子を送る人々の姿も温かいが、遠慮気味に空いたステージ前のスペースにいち早く躍り出て腰を揺らすのは、やはり西洋人。
祝祭とくれば、我々日本人には到底太刀打ちできないノリを見せる。
そのことがうらやましくもあるが、白人に関しては、フレンドリーで社交的でノリがよく愛嬌があってパーティー慣れしていて前向きで行動的で…しかしその反面、「親友」と呼べるつきあいができるまでに10年はかかるのが常識だといわれている。
遠慮というさじ加減を活かして、それを超えたところに心の交流に感応できる日本人がいいのか、それともステージの前ではしゃげる西洋人の屈託のなさがいいのか、日本でも西洋でもない場所に暮らしている僕には、そんなことが気になってならない。








道頓堀 2008年4月10日(木)

春には毎年、日本に帰省する。
この時期にだけ、ソンクラーンがらみの大型連休が存在するからだ。

タイに移ってきてしばらくの間は、日本でつきあいのあった友達と会う機会が多かったが、いつの間にか家族・親族のつきあいが増えるとともに、そちらのほうが自分にとっても大切で親密感のあるものとなっていた。
こうして異国に暮らす僕にとって、「日本」とは、家族にほかならなくなっている。
その点、上京したり他所で暮らす人が郷里を思う気持ちとさほど変わりはないだろう。

気候がいいうえに桜を愛でられるこの季節のこと、僕の日本帰省は来る年も来る年も、何かにつけあちこちを歩き回ることになる。
すぐ面倒になってバイクタクシーにまたがったり、涼をとろうとか雨を凌ごうなどと理由をつけてタクシーの扉を開けるバンコク生活とは大違いだ。
今年の帰省時、新聞に紹介されていて目を引いたのは、「くいだおれ」の閉店。
この店は大阪きっての食堂街、道頓堀の歴史を60年にわたって支えた老舗である。
ただし、大阪で暮らす僕たちには、どこか縁遠い存在でもあった。
誰でも名前や場所は知っているが、総合料理店ということで、これはという目玉料理がなかったことや、古参のイメージが邪魔をしたのだろう。
僕自身、同窓会の会場として赴いた以外の記憶がない。
その時のうどんすきは、懐かしい顔ぶれがいいスパイスになって、とてもおいしかったのだが。

有名な「くいだおれ人形」の前には、いつでも携帯電話で写真を撮っている人の姿が見られたが、今年はその数が甚だ多かった。
そして、人形の横には「閉店」の吹き出しが。
ある時はたいして意識もせず、なくなるとなればさびしい思いがする。
僕らは何度、こういう思いを繰り返しながらも、無意識にできた愛着に別れを告げてきたことだろう。
街が変わってゆくことが、自分たちの世代の後押しをしてくれていると錯覚して意気揚々と闊歩していた、あの若かった頃の自分を思い返し、くいだおれ人形につぶやいてみる。
「新しいものを喜ぶことも大事やけど、なんにせよお別れっていうのは、やっぱりさみしいもんやなぁ」
人形が奏でるチンドンの音は、もうかすんで見えなくなりそうな昭和の匂いを醸し出していた。








スクンヴィット・ソイ16〜ベンチャキティ公園〜アソーク市場 2008年3月22日(土)

涼風の感じられる季節から、一気にむせかえるような暑い季節が、毎年のごとく訪れた。
寝ている間はエアコンを消すのが僕の流儀だが、あまり急に熱帯夜になっているため、今年は暑さで目覚める毎夜である。
しかし、この時期の半月ほど、僕の生活はちゃんと朝起きて、日にちが変わるころには眠る、いわゆる普通の生活リズムに戻るので、からだはいたって健康だ。
昼時にはきちんと腹も減る。
今日は久しぶりにスクンヴィット16で昼食を。

店を出るとき、扉を開けてくれた店員さんが「暑いねー」と目を細める。
乾季にはめったに見ることのない、日本人からすると強すぎる光の中を、少し歩いてみることにした。
スクンヴィット・ソイ16はかわったソイで、実際にはスクンヴィットに面していない。
アソーク通りを少し南に入ってすぐに、斜めに入っていくソイとなっているのだ(一般に、ソイは出入り口のある大通りにその名前をとる)。
昼時のソイ16は屋台で賑わっていた。
そして、おしゃれなカフェやレストランが落ち着いたたたずまいで点在している。
この周辺は、相当な再開発の波に飲み込まれているようだ。
だが、その周辺に、昼食を採りに屋台へと出てきたタイ人たちの笑顔が散らばっている。
そのギャップを平気に生きているところが、いかにもアジア人らしい。

アソークを向こう側へ渡ると、最近整備されてできたベンチャキティ公園に入ってみた。
外から眺めたことはあったが、中に入るのはこれが初めてのことだ。
これまで、ここはただの池とその奥に見えるタバコ公社のあるだけの、一般市民とはほとんど何のかかわりもない場所だったが、公園の南隣りにあたるクイーン・シリキット・コンベンション・センターの開設などとあわせて周辺が整備され、王妃72歳の記念として2004年12月にオープンした。
タバコ公社はチェンラーイに移転するようで、そうなると、さらに公園西側地区も再開発されることになるだろう。
できれば、この公園がさらに広いものになってくれればいいのだが。
池の周りには周遊路が巡っており、ジョギングにはもってこい。
ただ、暑季の真昼間の散策には直射日光が強すぎるようだ。
ほとんど人の姿もなく、僕の姿をいぶかる野良犬に吠えたてられてしまった。

公園を出てアソーク駅のほうに向かう。
いつの間にか、あまりの汗にいつの間にかお腹が冷えてしまっていたようで、非常にピンチ状態である。
こんなときに困るのが、BTSの駅にトイレがないことである。
しかし、タイではたいていの場合、「トイレを貸してください」と言うと、「どうぞどうぞ」と快い返事をもらえるので助かるのだ。

アソーク十字路に出た角に、アソーク市場がまだ残っている。
大通りの歩道から見ると小さな商店がほんの数軒並んでいるだけなのだが、奥に入ると、ちゃんとした市場がある。
それでも、地下鉄施設の建設のため、この市場も敷地を削られたのだろう。
やがて姿を消してしまうかもしれない。
新しいものと古いもの、そのせめぎあいを、バンコク散歩ではいつも感じさせられる。








チャトゥチャック市場のJJモール周辺 2008年2月24日(日)

前日まで引いていた風邪がけっこう落ち着いてきたので、日本帰省の時の叔父へのお土産を買いに、チャトゥチャック市場へやってきた。
ここへ来るのは、おそらくかれこれ7年ぶりのことになる。
JJモールなど、周辺施設がオープンするまでは、とにかく暑いうえに人いきれの激しいこの場所に足を運ぶのが億劫になっていたのが大きな原因だった。
だが、もう一つ理由がある。

7年前、僕はこの場所に「デート」でやってきた。
いや、正確にいえば同期入社の女性に「テーブルを買いたいのだけど、どうしても荷台のある車が必要なので、申しわけないけど一緒に行ってもらえないだろうか」という、まあ、云わば「アッシー」になってほしいという要請に応えた形だったのだが、タイ好きが高じてバンコクに住むようになった彼女も僕も、同じようにタイ熱に浮かされて市場を終日さまよったあの時間を、僕は今でも「デート」だったのだと信じている。
彼女はその後、志半ばにも達しないまま、その年の年末に病に倒れ、3年後に息を引き取った。
正直なことを言えば、僕はチャトゥチャックを「あの時のまま」にしておきたかったのだ。
このHPの随所で述べているとおり、アジアの都市の変貌ぶりはあまりに急速で、僕にはそれがもの悲しく寂しいものに映っていることは読み取っていただけるだろう。
それが先進国出身者の余裕から出るわがままな感情であると言われてもいたしかたないことは、僕にだってわかる。
だからこそ、このバンコクの変遷を見届けることも大切なのだとは感じている。
だが、個人的に大切な思い出を塗り込めてしまうようなことはどうしても避けたかった。
思い出のままになっているほうがよいことって、きっとある。

そんな僕がチャトゥチャックに足を向けたのは、単純な理由である。
叔父がほしがっていると母から聞いたのは壁掛け用のタペストリーなのだが、こういうものを求めようと百貨店に行くと、たいてい「日本で買い求めたほうがいいのではないか?」と思うような値段が付けられている。
ではもう少し安いものを、ということになると、なかなかこれといった場所がない。
それというのも、タイは思ったほどにヴァラエティーあふれる品ぞろえを誇るような国ではないからだ(というよりも、日本があまりにも百花繚乱でありすぎるのだろうが)。
こうなると、旅行客も多く、それなりの品揃えのある場所はどこかということになり、友人に相談するとやはりこの場所の名が挙がってきた。
こうして、僕は友人に肩を押されるような恰好でチャトゥチャックにやってきた。
ただし、今回はJJモールに絞って歩いてみることにした。

JJモールは4階建てになっている、クーラーの効いた快適なショッピング・センターだった。
それにやはりさまざまな品が並び、目移りも激しい。
叔父へのお土産も、ぷらぷら歩き流していると、3分もすれば見つかった。
値段の面でも、さすがはチャトゥチャック、店員のおばあちゃんが最初に口にする値段も落ち着いていれば、値引き交渉もいたってスムーズ。
なんだかいきなり未来のチャトゥチャックに迷い込んだような気分である。
いやはや、そう、あのまま時間が止まっていた僕にしてみれば、まごうことなきタイムスリップではあったのだが。
でも、メインの市場は、今回中に足を踏み入れることはなかったものの、以前の雑多なままの姿だったことだし、これでいいのだ。

家に戻った僕は、風邪がぶり返してベッドに倒れた。
できれば夢の中ででも、新しいチャトゥチャックの姿を彼女に伝えたかったが、寝汗をかきながら、僕は泥のように深く眠っていた。








パタヤー 2008年2月17日(日)

ファランの町」「バンコク近郊リゾート」「不夜城」などと、パタヤーについては様々な形容が施されており、それらはすべて事実なのだが、今のパタヤーの雰囲気は、僕がタイに足を踏み入れた1998年ごろのバンコクに似ているという一点で、僕はパタヤーが好きだ。
地下鉄ができてからあたりのバンコクは、たぶん東南アジア以東のどの都市もが経るであろう近代化の変遷をまっしぐらに進んでいる。
それは発展・成熟とともに均質化され、街が熱を持たなくなってくるということでもある。
パタヤーには、その熱さが残っている。
未整理で混沌として猥雑であるがゆえの、祭りのような熱。
もともと僕は、それに惹かれてアジアの旅を繰り返してきた。

近頃では、汚れてしまった海や、商売用のビーチ・パラソルとデッキ・チェアーの並んだ浜辺より、ぶらり散歩が楽しい。
人いきれが絶えないビーチ・ロードウォーキング・ストリートで店をひやかすのもいいが、北のナクルア通り周辺や南のジョムティエン・ビーチ周辺は落ち着きがあってしっとりしており、散歩していても毎回なにがしかの発見がある。
そして、夜風に吹かれながら歩いていると、ここがタイの別の土地ではありえない空気を醸し出していることに気づくだろう。
タイの地方都市は、どこか紋切り型な印象を持つ場合が多いが、パタヤーという特殊な環境(小さな漁港だったパタヤーが発展したのは、アメリカ海軍がこの街に押し寄せたことがきっかけとなっている)が、かつてのバンコクのような、それでいて瀟洒でもあり泥臭くもある一種独特の味わいを感じさせてくれる。
この街にカジノを建設するというプランが出されたり消えたりを繰り返しているが、たしかにパタヤーほどカジノが似合う街もない。
ただ、バックパッカー御用達だったバンコクのカオサン通りが2002年頃から一気に垢抜けて、宿の値段も跳ね上がり、便利で健全なナイト・スポットに生まれ変わった記憶が僕にはまだ新しい。
タイの中でも一風変わった、コスモポリティックでいていなたいこの街が、少しでも長く街の発酵熱を感じさせる場所であってほしいと、わがままな在タイ者として思う。









タノン・トク 2008年2月10日(日)

タイ初の近代的街道と言われるチャルン・クルン通りには、かつて路面電車が走っていたという。
その終着駅の名が「タノン・トク」。
「道が落ちるところ」とでもいうような意味だ。
チャオプラヤー川がここでチャルン・クルン通り側に蛇行するため、道はここで袋小路となって切れている。
かつてはここから舟も出ていたようだが、今では、ここがバンコクであることをつかの間忘れさせてくれる空気が流れるひなびた一角だ。
バスが折り返すポイントでもあるため、通りでは強引な運転を見せる車両も、すっかり落ち着いて路肩に並んで居座っている。
カメラを片手に迷い込んだ僕に、人々は不思議そうな目を向けるので、「ここに昔、路面電車が走っていたんですか?」と尋ねてみる。
たった一言のタイ語が、長椅子でビールを傾けている人々の口元をほころばせた。

帰り道、すれ違った少女が、やはりいぶかしげな視線を投げかけるので、「こんにちは」と言ってみた。
すると彼女は「写真を撮って!」とポーズをつける。
バンコクでは近頃、めっきり聞くことのない台詞だ。
こんがり日に灼けている肌から、幼少時にここいらを駆け回って遊んでいた様子が目に浮かぶ。

そんな一角にも、川べりの高級レストランが建ち、川向こうには高層マンションが見えて、経済の嵐は少しずつその爪を見せ始めている。
路面電車のレールが取り払われて静けさを取り戻したこの場所に、再び人々は何かを求めようとしている。








チャルン・クルン通りの裏通り   2008年2月3日(日)

今年に入って2日目の雨が降った。
まだ乾期が続いているので、雨上がりには気温が下がり、散歩にはうってつけだ。
日が落ちると風が出て、いっそう爽やかになった。

僕が初めてタイにやってきたのは1998年。
ちょうど10年前になる。
まだ日本でこれからの旅行を思い描いて胸をはずませていたとき、「地球の歩き方」が紹介していたリヴァー・サイドのゲスト・ハウスに宿泊するつもりでいた。
安いながらもチャオプラヤー河畔に泊まれることが魅力だったのは間違いないが、周辺の様子が庶民的で、街が迷路のようになっているというエピソードにひかれた部分もあった。
けっきょく、ドンムアン空港には深夜についたので、タクシーで簡単に連れて行ってもらえるスリウォン通りに宿をとり、そのままそこに居ついてしまったのだが、その時の記憶は10年たっても残っており、その時の自分を確認するような気持ちで、まずはリヴァー・シティーに降り立った。

リヴァー・シティーはロイヤル・オーキッド・シェラトン・ホテルのすぐ隣にある、土産物を中心とした品揃えのショッピング・モールで、対岸への船着き場にもなっている。
しかし、ここへ入ってくる道は細く、人の姿も多くはない。
古びた街に忽然とモダン空間が現出するような感覚だ。
リヴァー・シティー側から街を眺めると、どうしてこんなところにトゥクトゥクがたむろしているのかがよくわからなくなるような路地の中である。
ここから河口まではまだ遠いが、ほんのり海の匂いがする。

チャルン・クルン通りまで出ると、道は少し広くなる。
この通りは英語で「ニュー・ロード」と呼ばれているようだが、それはかつての王様が「馬車の通れる広い道を作る」という鳴り物入りでこの道を開いたからだ。
しかし、今ではどちらかというと「オールド・ロード」の趣である。
ちょうど、大阪でいうと「新世界」がその感覚に当てはまるかもしれない。
車線もマハー・プルタラーム通りと別れてから北は片道2車線となり、車の通行もぐっと少なくなる。
この周辺でファランの姿をちらちら見かけると、バンコクの国際都市ぶりに感心させられること請け合い。

そのままチャルン・クルン通りを北に歩き続けるとチャイナタウンの牌樓が左手に見える地点に出るようだったことを、今、家で地図を見て確認したが、今日は地図をあてにしないぶらぶら歩きだったので、四つ辻で「ソンワット通り」を紹介する観光用の看板を見つけ、そちらに曲がってみることにした。
このあたりの屋台では、時間が止まったような雰囲気が濃密だ。
すすけた街並みをオレンジ色の街灯が照らし、タイム・スリップしたような感覚に陥る。

また適当な道へと曲がってみる。
今度は「ソンサワット通り」に入ったようだ。
途中のお寺、ワット・サンペーン・ワンの境内はすっかり明かりが消えているのに、僕が歩いている横から車が1台やってきたと思ったらまた1台、門をくぐって中に入っていった。
あたりが静かなだけに、余計に狐にばかされたような気分になる。
通りには祭壇が出ていて、なにやら精巧な猫の置物が…と、それは本物の猫だった。
目を合わせても身じろぎひとつしなかったのに、カメラを向けると恥ずかしがって背を向ける。
たしかに、誰だってあの大きな機械の目で見つめられると、身の置き場がないような気分がするものだ。
信号が見え、その手前から急に中国旅社の看板が現われたと思ったら、そこはもうチャイナタウンのメイン・ストリートであるヤワラート通りだった。
漢字で書かれた大きなネオンが光り、これまで通ってきた道から見上げると、それらはあまりに眩しい。
年中縁日のようなその雰囲気に、しばらく煙草をふかしながら立ち止っていたが、やがて僕は気づく。
雰囲気は違うが、僕が住んでいるスクンヴィット通り周辺はさらに熱に浮かされた地域であり、僕のすみかも職場もそんな喧騒の真っただ中にあって、日ごろ僕はそこをただ往復しているだけの日々を過ごしているのだ。

エアコンの効いたタクシーに乗ると、家が近づくにつれて現実感が押し寄せる。
町並みはどんどん瀟洒になってゆく。
家に帰るのはやめて、足つぼマッサージ屋に入ることにした。
担当してくれるお兄ちゃんが「タイ人かと思ったよ」、と僕のタイ語をほめてくれる。
それに微笑して、やっと救われた気持ちになる。
どんな街に住んでいても、タイ人はやっぱりタイ人であることで。










アユタヤー   2007年12月5日〜6日(水〜木)

バンコクからアユタヤーまではけっこう近い。
距離的に近いだけではなく、道の整備が進んでることもあって、ロンリー・プラネットによればアユタヤーまでは86km、パタヤーが147km。
まだ道路の整備が行き届いているとは言えないパタヤーまでの渋滞も含めると、半分もかからない気持ちで着いてしまう。
そういう意味で、ここは散歩感覚でぷらりと行くのにぴったりだ。

アユタヤーは古都なので、遺跡は絶好の散歩ランドマークにもなる。
旅行はその多くが「見るべきものを見る」ことがまず大前提になっているが、僕にはあまりその「見るべきもの」と思えるものが多くない。
行ったことはないが、たとえばナイアガラやエアーズ・ロックやピラミッドのような、その存在だけで人々を圧倒するものは、万人が見るべきものだと称賛するだろうし、僕もそう思う。
アユタヤーに遺されているほとんどは、そういった壮大な迫力をもつ遺跡ではなく、かつての栄華を偲びながら歴史の流れを体感し、人の営みについて思いを馳せることである。
歴史には興味を持っているが、遺跡に時の流れを感じてしみじみとする能力が、どうやら僕には欠けている。
散歩していて急に道のわきにかつての仏塔の遺構がひょっこり現れるときにこそ、「夏草や兵どもが夢のあと」を感じることができるのだが、あらかじめ定めた目的地にその思いを抱くことが、なかなかできないたちなのだ。

バンコクはスモッグで包まれているせいなのだろう、この大都市を離れると、直射日光のきつさに舌を巻く。
今回もぶらり散歩をしようと思って、とにかく宿に荷を解いて適当な方向へ歩き出したが、同じ方角に向ってずっと歩いていると、肌が片方だけ照らされ続け、やがてほんのりと熱を持ち始める。
これはまずいと思い、とにかくバイク・タクシーに乗ってチェディ・プー・カォ・トーンへと向かった。
堀を越え市街地に出てきたなと思ったとたん、あっと目を奪われる。
傾いた夕陽を大きな池の水面が映し、その向こうに立つ仏塔がはっきりと見える。
このチェディ・プー・カォ・トーンはかなり大きな仏塔だった。
大きな建物などなかったかつてのアユタヤーでは、この仏塔の大きさがいろんな場所から確認できたことだろう。
バイクの後ろで、その気持ちが確認できたことに感謝した。

タイでは12月5日はプーミポン・アデヤート国王の誕生日のために祝日となる。
初めてアユタヤーを訪れた日もこの国王誕生日だったのだが、今回もやはり、日が沈むとメイン・ストリートに出店が並び、多くの人でにぎわう。
それにしても、ここ数年で顕著になったのが、黄色い服を着るタイ人が圧倒的に増えたこと。
国王の誕生週である月曜日は、タイでは黄色だとされており、そのために月曜になると黄色いポロシャツを着ている人が街中にあふれている。
このポロシャツは制服代わりにもなるとされているのでなおさらだ。
5日は水曜日だったが、敬愛する国王のシンボル・カラーを身にまとおうとする人々の姿は、見ていてすがすがしい。
タイに住み始めて2〜3年は、この国民の国王に対する気持ちがうまくつかめなかった。
だが、ここ数年、この国になくてはならない存在として、また、これまでのプーミポン国王のエピソードを通じて、僕は「国」という概念を教わった。
これまで僕は世界中の国王という存在をカリスマという名のもとに眺めてきたが、プーミポン国王のあり方は少し違っている。
クーデターと聞けばふつう、だれもが危険な香りを読み取る。
だが、この国では政治に腐敗が起こればクーデターで蹴散らすという方法論がとられてきた。
これには、政治的混乱の収拾が、軍の最高統帥権をもつ国王の力によって解決されてきたということでもある。
その国王誕生日を古都アユタヤーで迎えるのはなかなか趣がある。

その後、エビのおいしい店に顔をのぞかせていたら、祝賀花火がオープンテラスからよく見えた。








伊勢丹の福岡ジャパンフードフェア   2007年11月18日(日)

5万人の日本人が滞在するとされているバンコクは、世界で最も日本人が居住する都市であるらしい。
それでは欧米や中国はどうなのかというと、国土・地域に中に大都市がいくつかあって分散されているため、一都市単位ではバンコクを超えることがないという。
それだけに、バンコクには日本料理屋が多く、ここ数年来のバンコクっ子たちの日本食ブームも後押しして、その数は増加の一途をたどっている。
また、こうした日本料理店のグレードも年々上がってきている。
関東では手頃な定食屋として知られる大戸屋が、海外進出の足掛かりとして2005年にトンローのJアヴェニューに1号店を構えてから、裕福なタイ人客層にも人気を博し、あっという間に数店舗を増やしたことは、こうした流れの象徴的なできごとだった。
タイでは少し値が張るが、たしかに開店早々食べに行って、僕自身うなったからだ。

それでも、僕らはやはり根っから日本人だ。
1年に一度の日本帰省で食を堪能してバンコクに舞い戻ったときに僕が気をつけているのは、行きつけの日本料理店に行かないこと。
日本での食事三昧に舌を肥やした状態では、「いつも食べているもの」のレヴェルを知ることになってしまい、愕然としてしまうのだ。
当たり前のことだが、気候も風土も違うタイで作られる日本食が、日本で作られるものを追求しつつ及ばないのはしかたがない。

これまで僕は、百貨店やスーパーが催す「日本フェスティヴァル」のようなたぐいに興味を持ったことはなかった。
いや、興味はあったがなかなか手が出なかった。
この「福岡ジャパンフードフェア」のこともフリー・ペーパーの広告で知っていたが、職場でのお客さんがそこで買ってきてくれたという餅を一ついただいて、甘すぎない餡と適度な張りをもった餅のすばらしさに、足を運んでみることにしたのだった。

日本の催事会場と大きく異なるのは、誰もが試食に熱心であることだ。
たとえば、梨。
僕は果物の中で梨が最も好物なのだが、広告では新興梨が1個540バーツで販売、となっている。
540バーツといえば、今日のレートで換算すると、1898円である。
フェアの2日目だというのに、この梨はさっそく半額の270バーツになっていたが、それでも日本円にして約900円。
だから、試食用の梨は5ミリ角もないくらいの大きさにカットされている。
実のところはどれくらいの水気があったかさえ判断がつきにくいくらいだが、ひさしぶりの梨の芳香に郷愁を覚えた。
珍味として販売されている明太子帆立や海藻サラダなど、どれも日本直送の味がする。
日本にいた頃には、百貨店の地下食料品売り場で試食をするような場合、よほど興味が惹かれる場合に限られていた。
そんな気分が、贅沢に思える。

食事や味覚に関することが、僕に最も「お前は日本人なんだ」と教えてくれる。
買ってきた「日田の天然水」のあまりののどごしのよさに、日本人が世界一多いのにやはり異国の都であるバンコクとの微妙な距離感を感じる一日だった。








プラプラデーン市場   2007年10月28日(日)


バンコクはいわゆるゼロメートル地帯が多いので、チャオプラヤー川もバンコク市内でくねくねと蛇行しているが、こうなると、川の上流と下流が蛇行のせいでくっつきそうなほど近い場所も出てくる。
以前「チャトゥチャック3」と名づけられていたバンコク・スクエアという場所の横から、こうした蛇行を上流と下流の2か所を一気に越える橋が半年ほど前に完成していた。
こうなると、バンコク側の喧騒が向こう岸に伝わっていく可能性がぐっと高くなってしまう。
今のうちに失われゆく情緒を感じたい、というのが、新しいバンコク市の地図を手に入れてまず思ったことだった。

新しい橋はプラ・ラーム3通りという、最近開発が著しく、将来の副都心と言われる地域の南端から延びている。
チャオプラヤー川には貨物船の往来が多いため、かなり橋脚が高い。
橋の姿をひとつとっても、バンコクが新しい時代に入っていることを思い知らされる。
バンコクの隠れた名物である、枠組みだけ作られたまま放棄された廃墟ビルの横から、タクシーはぐんぐん坂を登ってゆく。
それをまっすぐ進むと、対岸のプラプラデーンを越えて、バンコクの隣の県であるサムット・プラカーン。

今回はプラプラデーンに出てみた。
タクシーで走ってもらっている道中から、僕はもう「あの」タイの風景に鼻息を荒くしていた。
見たことのない風景のはずなのに、むせかえるような郷愁。
行き交う人々の姿も、僕が訪れる前のバンコクにタイム・スリップしたようだ。
川べりの遊歩道では散歩に出てきた老若男女が風に吹かれている。
プラプラデーン市場付近は人ごみにごった返し、ソイにはサムローが現役で走っている。
木造りの家が並ぶ区画に、オールド・スクーターを模したヴィーノが止まっていたりするのがさまになっている。
運河沿いの水上家屋にはゆったりとした時間が流れ、屋台のおばさんがほほ笑みかけてくれる。

僕はいつごろからか、都市訪問旅行に疲れ始めている。
世界中にある都市、特にアジアの都市の脈動を聴きたいと思って旅に出た。
その終点はバンコクだったようだ。
繰り返し書いてきたように、僕は今、圧倒的な速さで「進化」という名の変貌を遂げているバンコクに、せめてその歩みを少しでも緩めてほしいと思っている。
自分が生まれ育った日本という国が辿ってきた経過が、自分にとってあまりにも殺伐としたものだったから、同じ轍を踏んでほしくないと心から願っている。
バンコクは今おそらく、日本でいう70年代を抜け、80年代に入ろうとしているあたりに位置していると思う。
そこからたぶん日本は本当の意味で「進化」を遂げた。
タイと日本との差は、この「進化」がバンコクとチェンマイ以外ではほとんど見られないことだ。
国をあげて変化が押し寄せているのではない。
そこに僕は可能性を見ている。
そしてだからこそ、川をはさんだだけのプラプラデーンのたたずまいを見て安堵する。
まだ大丈夫。








タ・プラ〜タラート・プルー〜ウット・タカット通り〜イントラピタック通り   2007年7月22日(日) : BBS「四方山噺帳」より

僕がはじめてバンコクで借りた部屋が、そのあたりにほど近いタークシン通りにあったので、懐かしく感じられるのかと思いきや、タイの空気が濃厚な街並みに驚きましたね。
つまり、それだけ僕の日ごろ触れているタイというのが、あのころに比べて知らないうちにずいぶん違うものになっていたんだということに、あらためて気づかされました。

日も沈んでから歩き出して気づくのは、闇の深さ。
そして、暗くなったお寺の持つ不思議な迫力と、夜の運河のものさびしさ、静けさ。
客もいない熱帯魚の店の水槽には、額に大きなこぶのある美しい魚が体をゆったりくねらせて音もなく泳いでいる。
すれ違う人々の視線は、僕が異邦人であることに戸惑っているようなものが多い。

今度は市場が開いているような時間に来てみたい。

HPに散歩日記、つけるのもいいかもしれませんね。

〜そういうことで、この散歩日記ページができました〜













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